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吉本隆明『共同幻想論』をめぐって(3) [われらの時代]

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[7月28日、船橋三番瀬海浜公園にて]
「憑人(ひょうじん、つきひと)論」を読んでみる。
 この章では、共同幻想とのからみで、「憑人」、すなわち何かにとりつかれて精神に異常をきたした人の話が紹介されている。
 人は何かにとりつかれることがある。それはけっして異常なことではなく、ごくふつうの経験で、柳田国男もそうした気質の強い人だった。
 何かにとりつかれるというのは、あくまでも比喩である。現在の脳生理学では、とうぜん何らかの科学的解釈がなされているだろう。
 しかし、かつて村里では、ふつうとは異なる人の行動や言辞は、何かにとりつかれたのが原因だと考えられていた。
 通常の人が幻聴や幻覚に襲われることもある。
『遠野物語』には、そんな話がいくつも収録されている。
 たとえば、奥山の小屋で眠っていたら、深夜に女の叫び声を聞いたような気がして、里に戻ってみたら、自分の妹がその息子に殺されていたとか。道で大病で寝込んでいるはずの老人と出会って、へんだなと思ったら、老人は寺の和尚のところにも行って世間話をしてきたという。すると、ふっと姿が見えなくなった。じつは、その日になくなっていたとか。
 こうした幻聴や幻覚は、一種の超感覚だが、以前から何かの予兆を感じていたことが、こうした超感覚を引き起こしたものと思われる。
 こんな話もある。
 吉本の要約によって引用してみよう(差別用語には目をつぶってください)。

〈遠野の町に芳公馬鹿という白痴がいた。此男は往来をあるきながら急に立ち留まり、石などを拾ってあたりの人家に投げつけて火事だと叫ぶことがあった。こうすると其晩か次の日に物を投げつけられた家は必ず火事になった。〉
〈柏崎の孫太郎という男は以前発狂して喪心状態になった男だが、或る日山に入って山神から術を得た後は、人の心中を読むようになった。その占い法は頼みにくる人と世間話をしているうちに、その人の顔をみずに心に浮んだことを云うのだが、当らずということはなかった。〉

 吉本によると、フロイトは遠感能力者とは、「いわば自己の心的な喪失を代償に、ほんのささいな対象の情感や動作を感じとって対象への移入を完全に行いうる能力」をもつ人のことだと考えていたという。
 芳公や孫太郎は、まさにそういう人物にあたる。かれらはふつうの村人が感じない死やわざわいの予兆を感じとっていた。
 前回述べたように、共同幻想が共同体全体を包む恐怖感に根ざしているとするなら、共同幻想は、共同体にこれから起こりうることへの予兆をもうひとつの柱にしているということができる。
 未来を知るのは神々だけである。しかし、神々はみずから語ることはない。予兆を示すとすれば、人に憑いて語るのである。
『遠野物語』には、狐に化かされる話が頻出する。だが、「物語」では、狐はすでに神の使いではなく、人に憑こうとして失敗する存在としてえがかれている。
 吉本はこう書いている。

〈……狐は人を《化かす》が、けっして人に《憑か》ない。《化かす》という概念は民俗譚のはんいにあるが、《憑く》という概念は不分明とはいえ個体と幻想性の分離の意識をふくむものである。そこでは巫覡[ふげき、かんなぎ]的な人物が分離して個体と共同体の幻想を媒介する専門的な憑人[ひょうじん、つきひと]となる。憑人は自身が精神病理学上の《異常》な個体であるとともに、自己の《異常》を自己統御することによって共同体の幻想へ架橋する。〉

『遠野物語』の世界では、狐はすでに神々の世界から追放され、悪さをする霊的な動物とみられるようになっている。というのも、すでに自己の「異常」をみずから統御できる巫覡が、神々のことばを伝える専門的存在として村里に君臨するようになったからである。
 かつて豊穣の予兆をもたらした狐にかかわる者は、いまや狐憑きの家と陰口をたたかれ、村から擯斥(ひんせき)される存在になってしまった。
 それでも、狐の威力は残っていた。とつぜん、ごくふつうの貧しい主婦にとりついて、人格を一変させ、みずから古来ゆかしき狐と称して、周囲を混乱にまきこむことがあった。
 狐は豊穣をもたらす先触れ、吉凶を占う存在だった。だが、いつしかそのような共同幻想は失われ、巫覡(ふげき、かんなぎ)と称すべき存在が共同体の未来を占う位置につこうとしていたのである。

 次の章「巫覡論」では、「いずな使い」などとして登場する、そんな巫覡の姿がえがかれている。
 最初に『遠野物語(拾遺)』から、こんな話が紹介されている。それは、兵営にいたとき、頭をぶつけて気を失った拍子に魂が離脱する経験をした青年の話だ。そのとき、青年は空を飛んで遠野に帰り、母や妻がくつろいでいる様子をみた。しかし、何か落ち着かない感じがして兵営に戻ったところで目が醒めた。青年は、後で家から、いきなり白服の若者がやってきて、炉のそばに座ったかと思うと消えてしまったという手紙を受け取る。
 ほかにも似た話が紹介されているが、吉本によれば、気を失った若者や病人が、「自己幻覚のなかで実在の自己を離れて遊行する」なかで、離脱した魂が向かうのは「村落共同体の共同幻想」そのものだ。
人が死の危機に直面したとき、魂が共同幻想に向かうのは、自己幻想が共同幻想と接続していることを意味している。
 こうしてみると、共同幻想が自己幻想に逆立するという吉本テーゼは、常に成立するとはかならずしもいえない。それは、国家が常におのれと対立するとはいえないのと同じことだ。
 共同幻想は自己幻想を包みこむと同時に、自己幻想によってはね返される二重性にさらされているとみるのが、より正確なとらえ方なのかもしれない。
 しかし、いまはややこしい論争をする場合ではないだろう。日常性のなかで、日常性から分離され、共同幻想の象徴に向かって遊行する存在が登場するのである。そうした存在が『遠野物語』や『拾遺』では「いずな使い」の話として紹介されている。
「いずな使い」とは何か。それは狐の象徴を操って人にさまざまな予言をする行者を指している。将来がどうなるかは、誰しも知りたいところ。人はできれば豊穣や大漁が実現することを願うだろう。そんな期待に応える予言者が「いずな使い」なのだ。
 だが、『遠野物語』に登場する「いずな使い」の話は、たいてい笑い話のうちに幕を閉じる。
 よくあたる行者から白い狐を買い取った村人が、最初は大金持ちになったが、すぐもとの貧乏に戻ってしまったとか、大漁の祈禱を頼まれた行者が、祈禱したものの魚はいっこうにとれず、漁師に海に放りこまれた。嫌気がさして川にはいったら、笠といっしょに狐が流れていって、いずなが解けたとか、そんな話である。
 とはいえ、ここでは自己幻覚にはいる媒体が、はっきり狐とされているところが、単なる離魂譚より高度な話になっている、と吉本はいう。ここでの狐は、やはり村の未来を教える共同幻想の象徴なのだ。
 そして、「はっきりと自己幻覚を獲取し、これを共同幻想に集中同化させる能力が、職業として分化し、したがって村落の地上的利害の問題と密着してあらわれていること」に、吉本は「いずな使い」の新しさをみている。
 いずな使いが能力を発揮するには、狐が霊力のある動物だという伝承が行き渡っていること、そして人の生死や収穫が自分たちの意志や努力ではいかんともしがたいものであると信じられていることが必要である。
 いずな使いは、こうした村落の共同幻想にみずからを同調させることで、共同体の未来を予言し、村民につけこむ。だが、その能力に限界があることはいうまでもない。かくて狐の零落がはじまる。
 狐はただの狐だと見破られたときに、共同幻想から追放される。そうした経緯は、女に化けていた狐が正体を見破られて斬り殺されるといった話にも転化していく。
 しかし、いずな使いが霊力を失ったあと、共同体ははたして予言者なくして存続しうるのか。それはありえない、と吉本は考えている。そして、いずな使いに代わって、新たな予言者として登場するのが「巫女」なのだととらえている。
 一寸先は闇といったのは、だれだったか。ともかく、どの人も先のことは見えないのだ。先に何が起こるかわからないまま、慣性にしたがって生きている。しかし、人が純粋な個人としては生きられず、家族や共同体とともに生きているのだとすれば、その家族や共同体の運命も、常に将来への不安にさらされているとみてよいだろう。
 外部空間への不安が共同幻想を生むのだとすれば、将来時間への不安もまた共同幻想を生む。古代の時間の闇に潜入してみれば、そうした不安のなかに登場してくるのが、巫女という存在なのだ。
「巫女」とはいったいいかなる存在なのか。それが次の課題になってくる。

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