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ソ連の崩壊──ホブズボーム『20世紀の歴史』をかじってみる(9) [われらの時代]

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 1991年のソ連崩壊は20世紀後半を語るうえで欠かせない大事件だが、それを論じる前にホブズボームは中国の毛沢東時代の悲劇を論じている。
 中国は三千年の歴史をもつ国であり、中国人は中国を世界の文明の中心と考えていた。そのため中国の共産主義は、社会的であると同時に、きわめて民族的なものとなったという。
 中国は19世紀半ば以降、外国からの侵略を受けており、弱体化した政府のもとで、農民は貧困に苦しんでいた。だが、1930年代半ば以降の日本の侵略は、民族の解放と再生を呼びかける中国共産党の主張に正統性をもたらすことになる。
 日本の敗退後、共産党は国民党を破って、中国本土を掌握する。「これは何よりも復活を意味する革命であった」とホブズボームはいう。1949年からの農地改革は、数年のうちに穀物の生産を70%増大させた。1950年からの朝鮮戦争に中国軍は参戦し、その力を見せつけた。
 だが、1950年代はじめからはじまった毛沢東の妄想めいた計画が、中国に災厄をもたらすことになる。1956年にはソ連との関係が悪化し、60年代からは中ソ対立がはじまった。
 農業集団化のあとにはじまった1958年の大躍進政策は翌年から61年にかけて大飢饉をもたらした。そして、毛沢東が復権を果たすために画策した1966年からの文化大革命は中国全体を混乱におとしいれていく。
 とはいえ、皇帝型権力の現実離れした政策のもとでも、中国の平均寿命は1945年の35歳から82年の68歳まで上がったし、人口も1945年の5億4000万人から76年の9億5000万人増加している。就学率もほぼ100%になったことは評価すべきだ、とホブズボームはいう。
 文化大革命によって中国は荒廃し、事実上の軍事国家になってしまう。そして、1976年に毛沢東の死によって文化大革命が終息し、その直後に四人組が逮捕されたことにより、中国はプラグマティストの鄧小平のもと、新たな路線が引かれることになる。
 これにたいし、ソ連はどうだったろう。1970年代から80年代にはいるにつれ、ソ連経済の成長テンポは目に見えて遅くなっていった。貿易の内容も途上国型に退行していた。1960年には主要輸出品が機械、設備、輸送手段、金属や金属部品だったのに、85年には輸出の60%近くがエネルギー(石油とガス)、輸入の60%近くが機械や金属になっていた。平均寿命も1970年以降ほとんど伸びず、むしろ減少気味になっていた。
 さらにこのころ、ソ連ではノーメンクラトゥーラと呼ばれる官僚層が増大し、無能と腐敗ぶりが目につくようになった。東欧圏では1968年以後、社会主義経済を改革しようという熱意も消えてしまう。ブレジネフ時代は「停滞の時代」と呼ばれるが、それは凋落する経済を変革する意欲が失われた時代だった、とホブズボームは評している。
 1973年以降の2度の石油危機は、石油生産国であるソ連に思ってもいない幸福な結果をもたらした。石油価格の高騰により、何の努力もしないのに何百万ドルもの外貨が転がりこんだのである。それにより、経済改革は後回しにされ、急速に西ヨーロッパからはいってくる輸入品の代金を、エネルギー輸出で支払うという構造ができあがる。その巨額の大当たりによって、ソ連はアメリカと対抗して、積極的な軍拡競争を展開することになる。だが、このかん省エネは進まず、経済改革は立ち遅れていた。
 ソ連圏のアキレス腱は東欧だった。東欧諸国の政権は、ソ連の介入の脅威という強制力によって、かろうじて維持されていた。
 だが、ポーランドでは抵抗運動がつづいていた。それを支えていたのは、カトリック教会と労働組合、反対派知識人の集団である。1981年、ポーランドに戒厳令がしかれ、ヤルゼルスキが軍事政権を樹立する。とはいえ、反対派の力を完全に封じることはできなかった。
 1985年、ゴルバチョフがソ連共産党書記長の座についた。そのとき、ソ連は「停滞の時代」にあったかもしれないが、けっして政治的、社会的に不安定だったわけではなかった。ソ連体制はつましくはあったが、人びとに生活と包括的な社会保障を提供していた。変革の動きは草の根からではなく、むしろ頂点から生じたのだ、とホブズボームはいう。
 根本的な改革をおこなわなければソ連経済は遅かれ早かれ崩れてしまうという危機感をいだいていたのは、共産党の上層部だった。1979年以降のアフガニスタン侵攻や、アメリカとの冷戦が、ソ連経済に大きな負担となっていた。
 ゴルバチョフはそうした事態を解決しようとした。経済面では、かれは計画的な指令経済に市場価格や各企業の損益計算を導入して、経済体制をもっと合理的で柔軟なものに変えようとしていた。
 ゴルバチョフはペレストロイカ([政治・経済体制の]再構築)とグラスノスチ(情報公開)というふたつのスローガンを掲げ、ソ連社会主義変革の戦いを開始した。
 だが、硬直した党と国家の改革は、それ自体が難題だった。改革は体制の再構築どころか崩壊を招きかねなかった。
 ゴルバチョフは、法の支配と市民的自由にもとづいた立憲主義的で民主的な国家をめざしていた。そこで問われたのは党と国家の分離であり、実効的な統治権を党から国家に移すことだった。最高ソヴィエトを主権を有する立法議会として確立することも求められていた。
 いっぽう、経済面ではいわゆる第二市場、つまり闇市場を認め、国営企業の合理化をはかる方向性が打ちだされた。だが、経済改革のかけ声とは裏腹に、経済状況はますます悪化していった。自律的で活力のある企業や共同組合はそう簡単には生まれなかったのだ。
 ホブズボームはこう書いている。

〈ソ連を断崖へ向かってますます急速度で駆り立てていったのはグラスノスチとペレストロイカの結合であった。グラスノスチは権威の解体となり、ペレストロイカは経済を動かしていた古い機構を破壊し、代わりの機構を打ち出さず、その結果、市民の生活水準をいよいよ劇的に崩壊させた。〉

 ソ連は分解しはじめる。それまでも実質上、ソ連は「自立した封建諸侯の体制」だった、とホブズボームは評している。地方の首長、連邦共和国の党書記、配下の地域軍司令官、経済を動かす大小の生産単位のボスがいて、それを中央の党が束ね、任命したり異動させたりして、体制を保っていたのだ。その党の命令体制がなくなると、誰も支配する者がいなくなり、服従する者もいなくなった。
 本来ならば、党に代わって国家がその役割を果たさなければならない。だが党が国家から切り離されたとき、そこには一種の空白が生まれていた。「暗礁に向かって進んでいく故障した巨大タンカーのように、舵のないソ連はこうして解体をめざして漂流していく」
 こんなふうにホブズボームはソ連崩壊の過程をえがいている。もちろん、このあたりは文学的な表現ではすまない。もっと具体的な分析が必要なところである。
 ゴルバチョフの改革はソ連を構成している15の連邦共和国の民族主義をも刺激した。連邦共和国を統合しているソ連と各連邦共和国との齟齬が生まれる。そんなときに登場するのがエリツィンである。エリツィンにとって、最高権力への道はロシア連邦を占拠することだった。
 それまでソヴィエト連邦とロシア連邦は明確に分離されていなかった。エリツィンはロシアを他の共和国と同じひとつの共和国に変えることによって、事実上ソ連邦の解体を促し、ロシアをソ連にとって代わる国家へとすり替えていくことになる。
 中央と党からの命令がなくなると、実効的な国民経済がなくなってしまい、地域や単位がそれぞれ勝手なバーター取引をはじめていた。こうして経済的解体が政治的解体につながり、政治的解体がさらなる経済的解体を呼びさました、とホブズボームは記している。
 1989年8月から年末にかけ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ドイツ民主共和国で共産党政権が崩壊する。ユーゴスラビアとアルバニアも同じである。モスクワはすでに不介入を宣言していた。ルーマニアを除いて、一発も弾丸は発射されなかった。
 いっぽう、中国はゴルバチョフ流の改革に懐疑的で、逆に共産党の権威を強化する方向に舵を切った。こうして悲劇の天安門事件が発生する。
 東欧諸国では共産党に代わって、反対意見を代表していた人びとが政権の座につく。チェコスロバキアでは、劇作家のハヴェルが大統領になる。ポーランドでもまもなく自主管理労組「連帯」を率いたワレサが大統領となるだろう。だが、ロマンの時代はそう長くはつづかない。
 ソ連でも1991年8月にかけて、党と国家の解体が徐々に進んだ。ペレストロイカが失敗し、市民はゴルバチョフを見限ろうとしていた。リトアニアは1990年3月に全面独立の宣言を発表する。バルト三国の再独立も近い。
 ゴルバチョフの人気が落ちるにつれ、エリツィンの人気が上昇していた。いまや連邦は影のような存在となり、共和国だけが実体だった。
 1991年8月、保守派によるクーデターが発生する。ゴルバチョフはクリミア半島の別荘に軟禁された。
 だが、この中途半端なクーデターは、ロシア共和国大統領に選出されたばかりのエリツィンによって鎮圧され、その結果、共産党は解散を命じられる。ソ連の資産はロシア共和国に継承された。こうして、1991年12月、ソ連邦は消滅するのである。
 ホブズボームはソ連という実験が失敗した原因を、根本的には、ロシア革命がけっきょくのところ「無慈悲で野蛮な命令社会主義しか生み出せなかった」こと、さらには、「ソヴィエト型の中央命令−計画の行き詰り」を「市場社会主義」に改革できなかったことに求めている。
 しかし、社会主義は永遠に葬り去られたわけではない、それは姿を変えて、新しい出番を待っている──ホブズボーム自身はそう考えているように思える。

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