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渡邊一民『武田泰淳と竹内好』を読む(1) [われらの時代]

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 サブタイトルに「近代日本にとっての中国」とある。
 だとすれば、これは昔の話かというと、そうでもあるし、そうでもない。
 武田泰淳も竹内好も過去の人である。学生時代、ぼくなども生かじりながら、ふたりの本をよく読んだものだ。竹内と武田は中国への入口であり、ふたりの著作を通じて、ぼくらは日本は中国と二度と戦争をしてはならないと思っていた。
 最近の日本は、まるで準戦時体制下にあるかのように息苦しい。アメリカと同盟を結ぶ日本にとって、強大化し帝国化する中国を仮想敵国とし、かといって日本と中国の経済関係は切っても切れぬ関係にある。この微妙な関係のなかで、何につけ、中国との緊張は高まる。日本自身も中国と同様、いわば「中国化」しつつあり、国内では治安体制が強化され、監視と排除の仕掛けが網の目のように広がっている。
 ぼくの気分は悲しさ半分、あきらめ半分といったところ。しかし、どこか熾火のように反抗心が残っていて、日々のニュースや解説者のコメントに文句をつける癖は抜けない。
 この年になると、世間がどう変わろうと、自分は自分であって、いまさら変えようがない。世間からみると、そんな困った自分はいつつくられたのだろう。ふり返ってみると、それは親のすねをかじって長く過ごした大学生時代だったと思わないわけにはいかない。そして、あのころ、大学闘争が終わりを迎えたころ、わからないなりによく読んでいたのが、竹内好と武田泰淳だった。
 戦後の冷戦体制のもと、日本と中国はいわば切断されていた。そんなとき、日本と中国の国交回復を訴えつづけていたのが竹内好だった。時代錯誤ともみえる大きな文明ビジョンのもと、竹内は両国のねじれた関係をただそうと努力をつづけていた。
 竹内は武田と同様、文革に失望し、一時は国交回復も諦めていた。だが、アメリカが新外交戦略をとったため、突然、日中回復が実現する運びとなった。それでも、竹内は日本と中国がほんとうに理解しあう関係になるのかを疑っていた。変わらなかったのは、中国を内在的に理解しようという竹内の姿勢である。
 本書の著者、渡邊一民(1932〜2013)はフランス文学者で、立教大学教授。ミシェル・フーコーの『言葉と物』の翻訳者として知られていた。さまざまな翻訳のほか、多くの評論を残したが、近代日本の精神史3部作として書かれたのが、『フランスの誘惑』と『〈他者〉としての朝鮮』、そして本書『武田泰淳と竹内好』である。
 前置きが長くなったが、のんびりと、あまり深刻がらず、むしろ昔を懐かしむような気分で読んでみることにしたい。

 1912年の清朝滅亡後も、日本は中国での権益を求めて、中国に進出しつづけていた。だが、現代中国についての日本人の知識はきわめて乏しく、むしろ偏見に満ちていた、と渡邊は指摘している。
 1920年代になって、佐藤春夫や谷崎潤一郎、芥川龍之介なども中国を訪れているが、その中国観は旅行の印象記にとどまっていた。それを一変させたのは1932年に刊行された横光利一の『上海』だったという。
 横光は日本人の経営する上海の綿紡績会社、内外綿で発生した1925年2月の中国人労働者によるストライキと、それが巻き起こした抗議活動をこの小説にえがいた。この事件により、上海はほぼ3カ月にわたって麻痺状態となり、イギリス人の指揮する警官隊の一斉射撃により、多数の死傷者がでた。いわゆる5・30事件である。これ以降、上海は革命の舞台へと変じていく。
 1935年前後は、日本にとって知の地殻変動がおこった時期だ、と渡邊は書いている。美濃部達吉の天皇機関説が糾弾され、日本は神国であるという国体明徴運動がはじまり、治安維持法によって検挙された小林多喜二が拷問死させられ、獄中の共産党員が相次いで転向している。それは狂瀾の時代だった。
 そんな時代に竹内好や武田泰淳らは『中国文学月報』を発刊する。1935年3月のことである。
 渡邊によれば、当初「月報」の誌面をにぎわせたのは「漢学論争」だったという。
 江戸時代に完成をみた「漢学」に、「月報」はどう向き合うべきかと、ある同人が問いかけたのにたいし、竹内はこう答えている。
 いまや漢学は社会の進化の外に置き去りにされ、硬化しているが、もし「溌剌たる外気の流入」がなされれば、硬化を免れる可能性はある。しかし、旧来のような文献考証学的な態度に終始するならば、漢学を昔のように復興するのは無理だし、そもそも無駄だと思う。それよりも自分たちの血をたぎらせるような中国文学を見いだすことこそが、「月報」の課題ではないか。
 そのため「月報」は、魯迅、林語堂、周作人、老舎、郁達夫など、現代作家の翻訳に多くのページを割くことになる。
「月報」が軌道に乗りはじめたころ、1936年10月19日に魯迅が上海で亡くなる。翌月の第20号「魯迅特輯」は、たまたま魯迅の訃報と重なった。そこで竹内は急遽、追悼の意味を込めて、魯迅の「死」というエッセイを翻訳した。魯迅はこのエッセイを9月に発表したばかりだった。
 渡邊がこのエッセイにふれているわけではない、ここでは、竹内好と魯迅とのかかわりを知るために、雰囲気だけでも紹介しておこう。
 エッセイのはじめに、魯迅はケーテ・コルウィッツの版画集を印行することになり、アグネス・スメドレーに序文を頼み、それを茅盾に訳してもらい、読んでみたと書いている。その序文でスメドレーは、コルウィッツの最近の画材には死を主題にしたものが多いと指摘していた。そこで、魯迅も中国人にとって死とは何かを考えてみたという。
 魯迅の文章はユーモラスで、たっぷり皮肉がこもっていて味わい深い。金持ちは金持ちなりに、おだやかな成仏を願い、貧乏人は早くこの世とおさらばして、りっぱに生まれ変わることを願う。死にも階級差がある。しかし、多くの人はふだんあまり死のことを考えず、自分も多くの人と同様、これまで成り行きまかせで、臨終の際のことなど深く考えてこなかったという。
 ところが、ことし大病を患って、ようやく死というものの予感が湧いた。アメリカ人の医師にみてもらうと、余命いくばくもないとのこと。その宣告は少しも気にならなかったが、物思いにふけるうちに、死について考えるようになった。ただ、思うのは、死ぬとどうなるかというような哲学ではなく、むしろこまごまとしたことばかり。そこで、遺言めいたものを考えてみた、と魯迅はいう。
 その遺言めいたものは、1936年の竹内の訳ではこうなっている。

一、葬儀に当り、何びとより、一銭たりとも香奠(こうでん)を受くるを許さず──但、老朋友はこの限りにあらず。
二、速かに棺に納め、葬ればよし。
三、紀念に関する何事もなすべからず。
四、我を憶わず、己の生活に力(つと)めよ──然らざるはたわけ者なり。
五、吾子長じて、才能なくんば、つつましき生業(なりわい)を求めて身を立つべし。ゆめ空頭の文学家、美術家となる勿(なか)れ。
六、他人の汝に許し与えんとするものを真(まこと)とするなかれ。
七、他人の牙と眼とを傷け、却(かえ)って報復に反対し、寛容を主張する者、かれが如きに近づくべからず。

 後年、竹内はこの部分を次のように訳しなおしている。

一、葬式のために、誰からも、一文でも受け取ってはならぬ──ただし、親友だけはこの限りにあらず。
二、さっさと棺にいれ、埋め、片づけてしまうこと。
三、何なりと記念めいたことをしてはならぬ。
四、私のことを忘れて、自分の生活にかまってくれ──でないと、それこそ阿呆だ。
五、子どもが成長して、もし才能がなければ、つつましい仕事を求めて世すぎせよ。絶対に空疎な文学者や美術家になるな。
六、他人が与えると約束したものを、当てにしてはならぬ。
七、他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、そういう人間には絶対に近づくな。

 この箇条書きのあとが、さらに痛烈である・
 竹内の1936年訳で示しておく。

〈まだあったが、今は忘れた。覚えていることは、熱のあるとき、こんなことを思い出した。よく欧洲人は臨終の席で儀式を行い、他人の赦(ゆる)しを求め、自らも他人を赦すという。私は怨敵が多いといえよう。もしも新しがりの男が来て、自分に問うた場合、私は何と答えたものであろうか。考えてみた。そして決めたのは、彼等をして恨ましめよ、吾また一人も恕(ゆる)すまじ、ということであった。〉

 魯迅を通じて、竹内ははじめて中国に触れたのである。

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