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渡邊一民『武田泰淳と竹内好』を読む(4) [われらの時代]

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 1959年11月、筑摩書房の『近代思想史講座』第7巻に、竹内は「近代の超克」と題する論考を寄せた。
 もともと「近代の超克」は、太平洋戦争開戦翌年の『文学界』1942年9月号、10月号に掲載された特集のタイトルで、そこには西洋近代主義を克服するための視座を示す論文と、論文にもとづくシンポジウムの記録が掲載されていた。特集に参加したのは、西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊池正士、下村寅太郎、義満義彦、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫、河上徹太郎の13人。「近代の超克」という標語は、「大東亜戦争」推進のイデオロギー的役割を果たしたとされる。
『近代思想史講座』の論考で、竹内はこの特集「近代の超克」が、『文学界』グループと日本浪漫派、京都学派の三派によって論じられていることを明らかにし、喧伝されているのに反し、それが「戦争とファシズムのイデオロギイにすらなりえなかった」ほど無内容であること、それゆえ勝手な読みをゆるされ、ムードとして拡散したにすぎないと評する。
 竹内はいう。「満洲事変」、「支那事変」以来、日本が中国を侵略しているとみる人は、けっして少なくはなかった。だが、そのころ反戦運動や反ファシズム闘争が組まれることはなかった。中国との戦争には日本民族の「優越意識」がしみついていた。そして、太平洋戦争(「大東亜戦争」)の火蓋が切られると、多くの人びとが欧米との開戦に礼賛の意を示した。
「大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもあった」と竹内はいう。すなわち、大東亜戦争二重構造論。植民地解放闘争ではなく、植民地侵略戦争というところに、竹内らしい誠実さがあるとみてよいだろう。
 この二重構造は補完関係と相互矛盾の関係にあったとされる。なぜなら先進国が後進国を指導するというのは西洋的な原理だが、植民地解放運動は日本帝国主義だけを特殊扱いにしないからだ、と竹内はいう。
「アジアの盟主」という主張に、連帯の基礎はなかった。そのため、戦争は解決されることなく無限に拡大し、太平洋戦争は「永久戦争」になるほかなかった。
「わたしは、徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考えを抱いていた」と竹内は告白する。これは吉本隆明と同じ考え方である。大東亜戦争は理念としては永久戦争、総力戦であって、抵抗という思想にはいたらなかったと認めている。
 京都学派は戦争とファシズムの理論をつくりだしたのではなく、政府の公式見解を擁護しただけだ、と竹内はいう。
 いっぽう、かつて交友関係のあった保田与重郎に代表される日本浪漫派の考え方は、京都学派とはことなる。保田は近代日本のすべてを否定し、絶対攘夷を唱え、それによって自己をゼロに引き下げ、思想なるものの武装解除を成し遂げようとしたのだ。
 そのため、「近代の超克」は、永久戦争の理念に屈服する思想破壊におわり、強い思想体系を生みだせなかったのだ、と竹内は評する。そして、敗戦ののちは、「近代の超克」はあっさりと見捨てられ、思想的には虚脱と従属化が導かれることになった。
 思想に創造性を回復するためには「近代の超克」をアポリアとして、もう一度見据えなければならない、と竹内は論じた。このことは、竹内にとって、アジアを舞台とした「近代の超克」が、戦後においても、ひとつの課題でありつづけたことを意味している。
 竹内の「近代の超克」論は、荒正人のような左派の評論家から激しい反発を招いた。荒は自分は当時、少数派だったかもしれないが、日中戦争はもちろん太平洋戦争の開戦には否定的だったとしたうえで、ファシズムへの抵抗こそが、今日につながる普遍的課題だと論じた。したがって、「近代の超克」などというファシズムを支える論議は、たちどころに葬り去らねばならない。
 荒の批判は、きわめてまっとうなものだったかもしれない。しかし、竹内はあくまでも当時の雑誌に発表され、評判を呼んだ言説にこだわった。「近代の超克」が、「大東亜戦争」の二重構造を指し示し、西洋近代主義とは異なる理路を提示しようとしていた点は、けっしてないがしろにできないと論じたのである。

 その竹内は60年安保闘争に積極的にかかわった。「安保批判の会」に参加し、代表のひとりとして藤山愛一郎外相や岸信介首相とも面会したり、井の頭野外音楽堂で、丸山眞男を講師にかつぎだして、市民集会を開いたりもしている。
 竹内が新安保条約に反対したのは、それがソ連だけではなく中国を仮想敵国とする軍事同盟であること、さらに条約の締結によって、いまだ戦争状態のおわっていない中国との国交回復が不可能になることを恐れたためである。
 だが、5月19日、自民党は国民の納得が得られないまま、単独採決で衆議院の会期延長を決め、そのまま本会議で新条約の承認可決へとなだれこんだ。その後、参議院で条約が自然承認されるまでの30日間、政府の暴挙に抗議する反対デモが国会を取り巻いた。
 5月21日、竹内好は政府に抗議して、勤務する都立大学に辞表を提出した。そして、6月2日には文京公会堂の「民主主義をまもる国民の集い」で講演し、その2日後『図書新聞』に、有名な「民主か独裁か──当面の状況判断」の一文を発表する。

〈民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。民主でないものは独裁であり、独裁でないものは民主である。中間はありえない。この唯一の争点に向っての態度決定が必要である。〉

 竹内は国民運動による民主主義の再建を求めた。
 6月4日には、総評・中立労組460万人、学生・民主団体・中小企業者100万人、計560万人の参加する6・4闘争がくり広げられた。竹内はこのときの闘争に「下からの民主主義」の息吹を感じた。だが、それはあまりに楽天的すぎたのである。
 6月10日には、来日したアイゼンハワーの報道官(新聞秘書)ジェームズ・ハガティ(ハガチー)の乗った車をデモ隊が取り囲む事件が発生、6月15日には、全学連主流派が国会に突入し、22歳の樺美智子が死亡する事件が起きた。そして6月19日、参議院での審議がおこなわれないまま、新安保条約が自然成立した。
 1961年7月、竹内好は、安保に関する評論や講演記録を集めた『不服従の遺産』を出版する。
 1960年9月13日、名古屋公会堂ではこう話していた。

〈戦後の新しい憲法は残念ながら我々が自分の力で勝ちとったものではない。これは歴史の事実でありますけれども、この憲法を蹂躙する勢力があった時に、その蹂躙する勢力が憲法を捨てた時に、つまり相手が憲法は最早要らない、自分には邪魔だというので捨てた場合に、これを我々が拾えば、これは我々のものになるのです。憲法というものは人民が自分で作るべきものです。また、我々はそれを戦後当然すべきであったが、残念ながら歴史の事実としてはできなかった。けれども、今我々が自分の憲法を作る時期です。〉

 60年安保をへて、竹内は明治以来の日本とアジアのかかわりを跡づける仕事に着手する。近代主義者やマルクス主義者は、おうおうにしてアジアへの視点を欠落させていたのだ。
 1961年に竹内は「日本とアジア」という論考を発表する。
 明治以降、日本のエリートは歴史は未開から文明に進むという「文明一元観」にもとづいて日本の近代化を推し進めてきた、と竹内はいう。その最大のイデオローグが「偉大なる啓蒙家」、福沢諭吉だった。
 竹内によれば、福沢の「脱亜論」は誤解されている。福沢は「日本がアジアでないと考えたのでもなく、日本がアジアから脱却できると考えたのでもない。むしろ脱却できぬからこそ、文明の基礎である人民の自覚をはげますために、あえて脱亜の目標をかかげたのだともいえる」。
 福沢には国家と人民の独立をめざす「緊迫した危機感と、同時に冷静な認識」があった。福沢は「ヨーロッパの眼で世界を眺めたのではなかった。彼のアジア観は、アジアとは非ヨーロッパである、あるいはアジアとはヨーロッパによって蚕食される地である、と考えたことである」と、竹内はいう。
 したがって、福沢の「脱亜論」は単純なアジア否定論でも、日本によるアジア支配肯定論でもない。福沢自身、アジアの独立を望んでいた。アジアの原理が「文明の否定を通しての文明の再建」であることを直感していた節もある。だが、「脱亜論」のあと、福沢はそれを理論化することなく、「かえって力による文明の強制を是認する方向に後退していった」と竹内はみる。
 さらに竹内は1963年8月に「日本のアジア主義」と題する論考を発表した。
 アジア主義は公認の思想ではなく、いわば心的なムードである。竹内の壮大で複雑な論考は、宮崎滔天からはじまって、玄洋社、樽井藤吉、内田良平、福沢諭吉、中江兆民、岡倉天心、北一輝、大川周明、石原莞爾などの考察にいたる。いまや忘れられかけている茫洋とした思想的な流れをつかむことが目標だった。
 竹内によれば、アジア主義はもともと右翼の独占物ではなかった。
「アジア主義が右翼に独占されるようになるキッカケは、右翼と左翼が分離する時期に求めるべきだろう。その時期はたぶん明治末期であり、北一輝が平民社と黒龍会の間で動揺していた時期である」
中江兆民と頭山満は生涯親しかった。しかし、その弟子にあたる幸徳秋水と内田良平にいたって、思想は左右にわかれたという。
 竹内は日本のアジア主義の大もとには、西郷隆盛の存在があったのではないか、というところまで、想像の翼を広げている。
 渡邊一民は、竹内の「日本のアジア主義」をこう評している。

〈「日本のアジア主義」が、ほとんど断定されることのない仮説的な議論から成りたっていることは、あらためて言うまでもあるまい。そもそもこの前人未踏の領野を踏みわけて筋道を立てていこうとする以上、それもまたやむをえなかったことにちがいない。とはいえこの「日本のアジア主義」によって、アジアにかかわる近代日本の精神史が、これまでほとんどかえりみられることのなかった右翼の側に大きく視野を拡げ、じつにさまざまな新しい問題を提起したことは、だれしも認めざるをえまい。〉

 50年ほど前のあのころ、ぼくは下宿にこもって、大学の授業にも出ず、わからぬなりにマルクスの『資本論』を読んでいた。
 しかし、中国やアジアについて、もっと知りたいと思うようになるのは、やはりあのころ竹内好の著書に遭遇したからだろう。

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