SSブログ

古代ギリシアの経済──ポランニー『人間の経済』を読む(6) [商品世界論ノート]

img20210527_10581690.jpg
 アッティカ(アテナイ、すなわち古代アテネとその周辺地域)の土壌はオリーブ油とワインをつくるのに適していた。だが、農耕地が決定的に不足していたため、アテナイ人は穀物の確保に最大限の努力を払わなければならなかった。
 紀元前5世紀から4世紀にかけてのアッティカの人口は20万から30万人ほどである。疫病がはやるたびにその人口は増えたり減ったりした。全人口のうち、市民の割合は半分たらず。奴隷が4割ほどで、残りは居留外国人だった。
 奴隷と居留外国人が地元産の大麦を食べていたのにたいし、市民は小麦を食糧としていた。その小麦はほとんどすべてを輸入に頼っていた。もっとも魚はよくとれたはずである。
 穀物供給への関心がアテナイの対外政策を支配した、とポランニーは書いている。アテナイはどういうやり方で穀物を確保したのだろうか。
 ソロン(前639〜559)は穀物の輸出を禁止した。アテナイの住民はアテナイ以外のどこにも穀物を輸送することを認められず、違反した場合には厳しい罰が科せられた。
 そのころ、アテナイが穀倉としていたのは、トラキア(ヨーロッパ寄りの黒海入り口)と黒海沿岸だった。
 ペイシストラトスはこの地域の穀物を確保するために軍を送った。黒海の周辺地域がアテナイの統制下にはいるのは紀元前5世紀になってからである。そのころまで、岬の沖や海峡は航行に危険があるため、穀物輸送には陸路で交易港にでるルートが使われていた。
 そんなとき重要性を増してきたのが、紀元前7世紀に建設されたビュザンティオン(現イスタンブール)だった。前512年、ペルシア戦争でビュザンティオンはペルシア軍によって焼かれたが、前479年に奪還され、復活を遂げる。
 前478年、ペルシア帝国に対抗するため、アテナイを盟主とし260の都市国家がデロス同盟を結成した。そのころ、トラキアでは、オドリューサイ族が帝国を築き、アテナイのトラキアへの伸張をはばんでいた。
 オドリューサイ帝国はプロポンティス(マルマラ海)に向かって勢力を広げ、やがてビュザンティオンを征服する勢いとなった。ペリクレスはギリシア人を保護し、交易路を確保するため、軍を率いてプロポンティスに向かった。
 前447年、アテナイはエウボイア(ギリシア北西部)の反乱を鎮圧した。その港が黒海方面から穀物の届く拠点になっていたためである。
 そのころ、アテナイはヘレスポントス(ダーダネルス海峡)からエーゲ海をへてギリシアにいたる航路を保全するため、途中の島々に移住市民団を送りこんでいる。
 ペリクレスは黒海地域のギリシア都市をアテナイの支配下に置き、前437年から436年にかけ、大艦隊を率いて黒海に乗り入れた。
 すべてはアテナイの穀物を確保するための軍事的制圧だった。ビュザンティオンはその結節点となった。
 穀物は黒海のアテナイ植民地で集められ、ビザンティウムを経て、海軍力に守られ、特定の交易路に沿って、ギリシアに運ばれていた。
 ペロポネソス戦争(前431〜404)でスパルタに敗れたあと、一時、アテナイは穀物貿易の支配権を失う。それはまもなく回復される。だが、黒海は、いまや強大な勢力となったボスポロス帝国によって掌握されていた。
 紀元前4世紀には、アテナイはボスポロス帝国から最恵国の待遇を得て、黒海の港から穀物を積み出すようになった。前世紀にもっていた独占をもはや享受できなくなったのだ。
 このころの交易は都市国家による管理交易だったといえる。穀物の供給は条約を通じて確保された。アテナイは黒海の西側半分の統制権を確保しようとするが、それは成功しない。
 まもなくマケドニアが勃興し、エーゲ海帝国の建設に乗り出す。アレクサンドロスの父、ピリッポスはアテナイの穀物補給ルートを締めつけるため、トラキアに進攻するとともに、ビュザンティオンを自己の陣営に引きこんだ。
 紀元前336年にアレクサンドロスが王位につくと、黒海からアテナイへの穀物ルートは完全に断ちきられ、アッティカは最悪の飢饉に見舞われた。ペリクレスの政治的天稟によって築かれたアテナイの交易は、事実上、終わりを告げた。
 ペリクレスが黒海方面に穀物供給ルートを切り開かざるをえなかったのは、ペルシアとシラクサの勢力が、穀物の豊富なエジプトとシチリアをそれぞれ押さえているためだった。アテナイによるエジプトとシチリアの攻略は成功を収めなかった。

 アテナイでは、穀物交易は管理されていたが、管理されていたのは穀物交易だけではない。交易全般が管理されていたのだ、とポランニーはいう。
 アテナイが管理交易をおこなっていたのは、木材、鉄、青銅、麻、蝋なども同じだった。これらの品物は、船の材料となった。
 アッティカの森林はすでに伐採しつくされていたから、木材は海外から輸入しなければならなかったのだ。マケドニアとトラキア、小アジア北部が木材その他の主な供給地だった。こうした商品を手に入れるには、供給先と条約を締結しなければならなかった。
 もうひとつ重要な貿易品が戦争捕虜だった。奴隷の売買は次第に従軍商人にゆだねられるようになる。
 アテナイでは、武器や毛織物、食料品、ワイン、椅子や寝台、絨毯や香料など、多くの奢侈品や工芸品を手に入れることができた。アテナイにこうした品物が流れこんだのは、海の支配のたまものだった、とポランニーは書いている。
 アテナイ人は対外交易の場であるエンポリウムと、地域市場とをはっきり区別していた。アテナイのエンポリウムはピレウスにあり、地域市場はアゴラにあった。そして、アテナイの政府はそのふたつをしっかりと統制していたのだ。
 アテナイのエンポリウムの最大目的は、安い穀物を確保することである。それは必要不可欠でもあった。
 帝国が没落すると、アテナイは海上路の軍事的支配を失い、外交と穀物販売者の意向に頼らざるを得なくなった。アテナイは黒海の君主国からようやく同意を勝ちとる。だが、かつてのような穀物にたいする独占権はもはや存在しなかった。そのことが、いわば市場を生むことになる、とポランニーはとらえているように思える。
 穀物の価格が高くなるのを防がねばならなかった。アテナイは、アゴラでの価格を外部の変動から分離するという方法をとった。ピレウスのエンポリウムに着いた穀物は3分の2が市によって管理され、仲買人による買い占めは禁じられた。市当局は、それによって、できるだけ価格変動を押さえようとしたのである。
 エンポリウムでの価格は上昇しがちだった。しかし、市当局は商人の公徳心に訴え、決められた「公正価格」で売るよう奨励し、それに応じた商人を顕彰した。商人の利が多くなりすぎるときには、献金が課されることもあった。
 前4世紀にマケドニアが台頭すると、伝統的な交易路は断ち切られ、アテナイは前330年から326年にかけ飢饉におちいった。アレクサンドロスの進攻により、黒海からの供給は激減した。
 その後、東地中海の穀物市場を組織したのは、プトレマイオス朝のエジプトだった。
 プトレマイオス朝は、アレクサンドロス大王の死後、ギリシア系のグレコ・マケドニア人がつくった王朝だった。このとき、新たにつくられた町、アレクサンドリアは、東地中海最高のエンポリウム、すなわち穀物取引の中心地となるよう設計されていた。
 アレクサンドリアを建設し、穀物市場を組織したのは、ナウクラティス(ナイル川デルタのギリシア植民都市)のクレオメネスだという。アレクサンドロスの信頼の厚かったクレオメネスは、プトレマイオス王朝の創始者、プトレマイオス・ソテルによって暗殺された。
 ポランニーによれば、クレオメネスこそが東地中海の世界穀物市場を創設した人物だった。その時期はギリシア世界が飢饉におちいっていた前330年前後である。
 アレクサンドリアの市場では、ギリシア、シリア、フェニキアの商人たちが活躍した。輸出される穀物はほとんど国家統制のもとに置かれており、仲買商人などは排除されていた。飢饉の時期、その固定価格は異例の高さに設定されていた。
 アテナイはこの措置に反発し、クレオメネスをあしざまにののしった。だが、この非難は額面どおり受けとるわけにはいかない、とポランニーはいう。アテナイで価格が上昇したのは、黒海方面からの供給が失われたためだった。アレクサンドリアの市場はそれを補ったのである。
 アテナイが反発した理由は、むしろアテナイではなくアレクサンドリアが、穀物市場の主導権を握ったからだろう。その後、アテナイは穀物を求めて西方に目を転じた。だが、この抵抗は失敗する運命にある。
 ポランニーはこう書いている。

〈独立と支配にたいするアテネの甘い見通しのことごとくに最終的な審判を下すことになる力は、アテネがいまや目を向けはじめた西方から出現した。ローマが胎動を開始したのである。それは、数世紀のうちに、新しい市場組織も、ギリシアの管理された交易の試みも、両方とも潰してしまった。ローマはすべての供給源──シシリー、リビア、エジプト、クリミア、小アジア──をその軍事的・政治的支配下に置くことによって、食糧供給を確保した。アテネ人の夢は、ギリシア文明を、ずっと矮小化した形でではあるが、近代に伝えることになるこの勢力のなかに実現されたのである。〉

 なかなか、みごとなまとめである。

 だいじなことを書き忘れている。それは古代の貨幣についてである。
 ヘロドトスは、アナトリアのリュディア人がはじめて金貨や銀貨をつくったのは、豊富な金銀に遊びの精神が結びついたからだと考えていた。もちろん、このときヘロドトスのなかで、金貨や銀貨は市場システムと結びついてはいなかった、とポランニーは書いている。
 アリストテレスも国家運営については論じるものの、市場システムにはふれない。交換とからんで、貨幣を論じるものの、利潤の発生は想定されていない。鋳貨が必要だとされているが、あくまでも交換のさいに計算を容易にする手段としてである。
 ギリシアでは地域の貨幣と対外貨幣がはっきりと区別されていた。「小額の銀貨、そしてとくに紀元前4世紀以降は、青銅貨が地域の交易またはアゴラに利用され、スタテル貨のような大きい額面の銀貨は対外交易に利用された」とポランニーは書いている。
 これはとうぜんのことかもしれない。だいじなのは大きい額面の貨幣が地金の価値で流通したのにたいし、地域の貨幣が都市の権威によって、価値を裏づけられていたことである。地域の貨幣は地金の価値をもたず、刻印で示された計量単位(ドラクマ)をもつ代用貨幣だった。
 古い鋳貨は時折回収され、新しい鋳貨に置きかえられていた。銅貨が出されたのは、銀貨が欠乏したためである。改鋳のさいには、貨幣単位の変更もこころみられたようだ。
 地域の鋳貨と対外鋳貨は制度的には分離されていた。にもかかわらずギリシアでは、それらは相互に交換可能だった、とポランニーはいう。
 それを可能にしたのが銀行家の存在である。こうした銀行家が現れるのは紀元前400年ころからで、まずアテナイに出現し、またたくまにギリシア世界全体に広がった。かれらの役割は、大きな額面の鋳貨を小さな額面の鋳貨に、あるいは外国貨幣をアテナイ貨幣に(その逆も)取り替えることだった。
 銀行家の役割は次第に大きくなっていった。貨幣や宝石を保管するようにもなった。利子が支払われたわけではない。預け入れにさいしては、むしろ、保管料を払わねばならなかった。銀行家が預金者の代理人として、貸し付けをおこなう場合もあったという。
 銀行家が奴隷か解放奴隷、あるいは外国人だったというのは、当時の銀行家の地位の低さを物語っている。
 しかし、銀行家はやがてなくてはならないものになっていく。貸し付けもおこなっているし、質屋のような仕事もしている。預金と支払い業務もはたすようになった。だが、それはごく初歩的なものである。当時は、銀行に基礎を置くいかなる信用機構も存在しなかった。
 ここで、国家と市場の関係という話がでてくる。財政基盤を強化したり、緊急事態に対処したり、臨時の出費に対応したりするために、国家は市場を利用するようになった。これがはじまったのは紀元前5世紀ごろからだという。
 たとえば、ある都市はペロポネソス戦争の費用を捻出するために、市民に不要な奴隷の供出を命じ、集めた奴隷を売却している。
 ビュザンテイオン(コンスタンティノープル)は、食糧の供給が途絶えたとき、黒海の穀物船を拿捕し、穀物を市民に売却したうえで、その売り上げの一部を商人に賠償金として支払っている。そうした話は枚挙にいとまがない。
 ポランニーによれば、笑い話のようなものもある。
 エーゲ海中部にあるナクソス島の僭主リュグダミスは、追放した一味の没収財産が安い値でしか売れないことがわかると、その財産を亡命者自身に売りつけたという。
 ディオニュシオスはみずからの支配するシュラクサイ(シラクサ)で、だれからも貸し付けを受けられず、自分の宮殿の家具を売却し、そのあとこれを購入者から没収するという策にでた。
 いずれも国家が市場を利用するようになったことを示すエピソードだったといえるだろう。

 だが、古代ギリシア時代に生まれた、都市国家と一体の市場は長続きしなかった。
 アレクサンドロスが活躍した紀元前4世紀後半のヘレニズム期から、ローマ帝国全盛期の紀元2世紀までが古代「資本主義」の全盛期だった、とポランニーはいう。
 ギリシアのアッティカ地方は次第に交易中心地から離れ、東地中海ではアレクサンドリア、アンティオキア(シリア)などが勃興し、ロードス島やデロス島が海上交易の大集積地となった。このころプトレマイオス朝のエジプトは、信じがたいほどの富を誇っていた。
 ポランニーによれば、古代史家のロストフツェフは、古代資本主義はローマ帝国の衰退とともに衰弱したとみる。これにたいし、マックス・ウェーバーの見解は正反対で、むしろローマ帝国の勃興こそが、古代資本主義の没落を招いたととらえているらしい。
 ウェーバーは古代資本主義が近代の資本主義とはまったく異なるものだとみていた。それは都市国家を抜きにしてはありえない制度だった。基本的に再分配、実物経済のうえに成り立っていたローマ帝国では、むしろギリシア型の古代資本主義は排除されたという。ポランニーもまたこの見解に同意しているようにみえる。
 ローマの経済は、土地と人間の征服、略奪、分捕りのうえに成り立っていた。支配地域の拡大とともに奴隷や隷農が生みだされ、そこから得られた財や財宝はローマ市民のあいだに分配された。私的な事業は禁止され、公共事業と公共サービスが繁栄のあかしとなっていた。
 ここには市場的方法がはいりこむ余地はなかった。古代ローマ世界においては、交易や貨幣の使用はみられたにせよ、ギリシア時代のように市場が組織化されることはなかったというのが、ポランニーの結論のようである。
 ギリシアの衰退とともに、古代資本主義もついえた。それでもギリシアが民主主義と市場制度を後世に伝えたことは、大きな意義をもっている。

nice!(10)  コメント(0) 

古代ギリシアの経済──ポランニー『人間の経済』を読む(5) [商品世界論ノート]

img20210527_10581690.jpg
 第3部「古代ギリシアにおける交易・市場・貨幣」から。
 最初にポランニーが、古代ギリシアの経済には、市場体制と計画化体制のせめぎあいがあると書いているのがおもしろい。
 ギリシアで市場体制が発展するようになるのは紀元前7世紀初頭になってからである。植民地のイオニア(小アジアの地域)がはじまりだった。紀元前5世紀に3度くり広げられたペルシア戦争の直後から、アテナイ(古代アテネ)のアゴラでは、食料その他日常品を鋳貨で買う光景がみられるようになった。東地中海の穀物取引も通貨でおこなわれはじめた。
 いっぽう、エジプトは、ギリシア人の指導下で、古代から受け継いだ経済計画体制を洗練させていた。

 ポランニーは紀元前7世紀のヘシオドスが書いた作品『仕事と日々』を読み解くことから古代ギリシア経済の様相を再現しようとしている。
『仕事と日々』が描くのは、不安と不平に満ちた自立小農民の世界である。このころ、かつてホメロスが称えた伝統的な部族社会は衰微しつつあった。
 ヘシオドスはいう。神の怒りによって、人はひとりぼっちとなり、心配がつきぬようになった。生命のパンをいかに得るか、どう餓えを防ぐかをみずから考えねばならなくなったのだ、と。
 部族社会を破壊したのは、紀元前1100年ごろのドーリア人の侵入と鉄の伝来だった。ドーリア人は中部ギリシアを瓦礫の山と化した。暗黒の時代がつづき、その後にもたらされた鉄が人びとの生活を変えていく。鉄製の用具と道具は、戦争と農業に革命的な変化をもたらした。
 鉄の道具は農民のくらしを楽にはしなかった。むしろ、人は鉄の召使いとなって、土地にへばりついて、たえず汗水を流さなければならなくなった、とヘシオドスは書いている。
「ヘシオドスがわれわれに伝えるのは、ギリシア的生活の挽歌なのである」と、ポランニーはいう。クラン(氏族)の紐帯は失われた。個人主義と競争がはじまり、階層が分化して、混乱が生じていた。頼りになるのは、もはや親族ではなく、よき隣人だった。血の紐帯が優勢なのは貴族のあいだだけである。ヘシオドスが描くのは、そんな世界だ。
 ヘシオドスは王侯や貴族の強欲と残忍さ、富者の貪婪(どんらん)と情け容赦のなさを、かずかずのエピソードによって暴きだす。賄賂が横行し、正義はゆがめられていた。政治はいまや富める者のためとなった。
 いっぽう、農民は休みなく懸命にはたらかねば、借金や餓えを避けられない。ヘシオドスが「仕事はけっして恥ではない、無為こそ恥である」と言わざるをえないのは、さもなければ、独立した生活が保てないからだ。
 経済の単位は家政である。よき家政を築くには、よき妻を選び、子どもはせいぜいふたりにすることだ、とヘシオドスはいう。労働と節約こそが家政を保つ秘訣である。さらに、すぐれた腕前をもつよう努力することが求められていた。

 ギリシアの歴史家ヘロドトスは、ペルシアの大王キュロスが、紀元前546年に占領したリュディア(小アジア西部)で、ギリシアの市場をせせら笑う場面を描いている。そこでは、人が集まってきて、だましあい、何やら取引しているというわけだ。
 だが、キュロスがいうような市場は、ギリシア全体に広がっていたわけではなかった。アゴラに市場があったのはアテナイだけである。もちろん、それは人がだましあう場所ではなかった。
 専制主義のペルシアが民主主義のアテネを攻撃する時が迫っていた。だが、その攻略はけっきょくのところ失敗する。
「この制御しにくいアンビヴァレントな制度を操るギリシア人の能力を不当にしか評価しなかったため、ペルシア人たちはギリシア人のポリスのもつ市民的規律、安定的力を見抜けず、破滅の道を歩むことになった」とポランニーは評している。
 古典期のアテネでは、実践的民主主義と市場とが奇妙に結びついていた。ペルシア戦争後、アテネの政治指導者となったペリクレス(前495?〜429)は「自由で文化的な共同体」という理念をたたえた。
 ペリクレスは市場を支持していた。ポランニーによると、当時アテナイのポリス経済は、領地型の再分配、国家レベルの再分配、そして市場要素の三つからなりたっていたという。
 ペリクレスの政敵で貴族のキモンは、とうぜんながら大領地の経営に依拠した家政を支持した。これにたいし、ペリクレスは、みずからつくったものを市場で売り、必要なものを市場で買うことによって、市民がみずからを管理する小規模民主制を支持した。
 ギリシア人は文明を可能にするのはポリスであり、ポリスにかかわることが政治だと考えていた。ただし、ポリスの政治に参加できるのは市民(男子)だけで、外国人には市民権が与えられなかった。
 ポリスでは市民は平等であり、法による支配を受けた。ポリスを離れた個人は考えられなかった。自由とは、政治に参加することを意味していた。
 こうしたポリスにおいて、市場は食料調達の工夫にほかならなかった。しかも、市場は再分配の機能も担っていた。それを可能にしたのは鋳貨である。
 アリストテレス(前384〜322)にいわせれば、寡頭制とは富者の支配であり、民主制とは貧者による支配にほかならない。このことばからもわかるように、師のプラトン同様、アリストテレスも民主制をこころよく思っていなかった。
 民主制を維持するためには、富裕者による公的機関の支配を排除しなければならなかった。それだけではない。アテナイでは、官僚制が徹底して否定されていた。政府(評議会)の役職は、くじによって市民が交替で担っていたのだ。政府を支える民会も、すべての市民が参加できるようになっていた。
 こうした体制を可能にするためには、国家が政治にかかわる民衆に貨幣で支払いをおこない、それによって民衆が食料などの必需品を買えるようにしなければならなかった。
 この仕組みをつくりだしたのは、紀元前510年ごろに活躍したクレイステネスだという。だが、その後、貴族による巻き返しがなかったわけではない。
 実際には、アテネの民主主義は、強大な海軍帝国と配下の同盟国のうえに成り立っていた。この帝国を維持するには、軍事力と同時に穀物供給を確保することが重要だった。
 アテナイでは「公共奉仕に専念することを余儀なくされている多数の人口のために生計の糧を保証し、同時にまた海外から入る食糧を確保するということが、防衛のうえから必要だった」とポランニーは書いている。
 ペルシア戦争で、サラミスの海戦がくり広げられ、ギリシア連合軍が勝利したのは、紀元前480年のことである(マラトンの戦いは前490年)。このとき、アテナイでは半数にのぼる2万人以上の市民が軍に加わった。
 戦争と民主主義の結びつきは否定できない。貧者は国家から食料を与えられていた。そして、自発的に公共奉仕の義務をはたしたのである。
 3度のペルシア戦争(前492〜前449)後は、寡頭制の反動がつづいたが、前462年には民主派のペリクレスがアテナイの実権を握った。
 ペリクレスは長期的な公共事業をおこし、パルテノン(神殿)やプロピュレイオン(楼門)を建設した。多くの人が農村から都市に移住してきた。貧民や老人への援助もなされた。こうした資金は同盟国や属国の貢納や税によってまかなわれた。
 古代アテネのアゴラでは、調理した食品の小売市場が開かれていた。そこで商売を担っていたのが、カペーロスと呼ばれる人びとだった。
 アテナイのアゴラは、市場システム揺籃の地ではない、とポランニーは強調する。まだ、この時代に近代の市場システムは生まれていない。地域市場と海外交易はまったく別物として扱われていた。
 市場と交易はそのまま結びつかない。市場は集会の開かれるアゴラにあり、市場ではさまざまな食べものが売られていた。アゴラで市場が開かれるようになったのは、紀元前6世紀ごろになってからだ。これにたいし、交易は市場よりも古く、金属や軍事資材、貴重品、それに不足気味の食料を得るには遠隔交易に頼る以外になかった。
 市場に従事するのがカペーロスだとすれば、交易に従事する人びとはエンポロスと呼ばれていた。カペーロスは女性が多かったのにたいし、エンポロスはまちがいなく男性だった。市民は市場や交易の仕事に従事しない。この仕事をになったのは居留外国人と外国人である(もっとも外国人といっても、都市国家アテナイに帰属しない人びとという意味で、実際にはさまざまな事情で故郷に戻れないギリシア人が多かったと思われる)。
 アテナイでは居留外国人はピレウスに住み、エンポロスとして、主に穀物輸入にあたっていた。海上交易の規模はちいさく、多くが貸し付けに頼っていた。居留外国人のなかにも、貸し付けをおこなう大商人がいたわけである。
 アテナイの富は、強力な海軍力のもと、海外の同盟国や従属国、植民地によって支えられていた。
「海外交易は一部は管理交易、一部は贈与交易であり、ときたま現れる市場的要素は相対的に重要でなかった」とポランニーは書いている。
 アテナイには租税や貢納のかたちで、物資が流入していたとみてよい。エンポロスと呼ばれる居留外国人は、政府に命じられて、その任務にあたっていたと考えられる。かれらの地位は低く、市民権を与えられなかった。それは市場で、小額貨幣を受けとり、食料の配分にあたるカペーロスと呼ばれる人びとも同様である。
 アテナイを下支えしていたのは、こうした居留外国人や奴隷だった。居留外国人や奴隷がいなければ、アテナイの繁栄も安定もなかっただろう。古代帝国においては、商業活動や労働はいやしいもので、民主主義をになう市民の仕事ではないと考えられていたことに留意すべきだろう。
 話はもう1回つづく。

nice!(15)  コメント(0) 

ポランニー『人間の経済』を読む(4) [商品世界論ノート]

Unknown.jpeg
 第2部「市場経済の3要素──交易・貨幣・市場」を読む。
 ここでは、交易、貨幣、市場の起源が論じられる。この3つは同時に発生したと思われている。だが、そうではない、それらは、いずれも別個に発生したのだとポランニーはいう。
 対外交易が対内交易に先行したこと、交換手段としての貨幣が用いられたのは対外交易においてであったこと、組織化された市場が発展したのは最初に対外交易においてであったことをあきらかにしたのは、マックス・ウェーバーの業績だった。
 市場が存在しないのに、交易や貨幣が存在したと聞くと驚くかもしれないが、これはまぎれもない歴史的事実なのだ、とポランニーは論じる。

 まず交易の起源をたどってみよう。
 交易とは「その場では入手できない財を獲得する方法」である。日常生活からかけ離れたこうした活動では、「遠くから財を獲得、運搬することが重要」になってくる。「交易は狩猟や遠征、侵略などの組織的な集団活動に似ている」とポランニーはいう。
 共同体と共同体が出会うところで、財の交換がなされれば、それは交易となる。もちろん、当初から利潤などは考えられていない。交易にあたっては、何らかの儀礼が交わされねばならなかった。
 財はその場では得られないがゆえに、遠隔地からの財の獲得が重要になった。モンゴル人やアラビア人の場合は、侵略と交易が重なっている。ギリシア人やフェニキア人も、けっして平和的な交易ひと筋だったわけではない。
 大帝国は軍事力を背景に遠隔地交易を推進していた。織物や日用品などは近隣から取り入れていたが、金や奴隷、宝石、絹、毛皮、化粧品、装身具などの奢侈品は遠方からしか手に入らなかった。
 チンギスハンによる遊牧民の大帝国は、長大な交易ルートをつくりあげ、組織的な交易をおこなっていた。交易を補助し、隊商路の治安を守り、販路を確保するためには、軍事力が必要だった。駅逓制度がつくられ、輸入品量が拡大され、領域内の富が拡大された。あらゆる国籍の商人が交易路を行き来した。
 モンゴル人自身は積極的に交易に参加しなかった。中国で元が滅びると、草原に汗国が残され、徐々に衰退していく。そのあとをついだアラブ人の帝国では、さらに積極的な交易がおこなわれ、広範な商業構造がつくられていった。
 交易は古来、共同体の拡張や充足と結びついていたといえるだろう。

 交易活動で問われるのは、だれが何をどのように、両方向に運ぶかである。
 まず人の面でいうと、交易者には二種類ある。身分動機にもとづくのが仲買人であり、利潤動機にもとづくのが商人だ、とポランニーはいう。
 古代においては、主人や君主の命で交易をおこなう仲買人が主流だった。だが、ふたつの区分はしばしばあいまいになる。
 命じられた義務を果たしたあと、身分の低い仲買人が多少の余録を得たとしても、それは黙認されていた。
 交易者の地位は、場所や時代に応じて異なる。古代のメソポタミアやエジプトにおいては、首長や王、その属臣だけが交易の権利をもっていた。だが、とうぜん、そこからは多くの代理人が生まれてくる。
 紀元前7世紀以降の古代ギリシアになると、王や貴族の交易は姿を消す。古代アテネの政治家ソロンは商人と呼ばれ、大規模な対外交易事業にあたっていた。だが、それは例外である。アテネには、食料を小売りする商人と、船で交易する居留外国人がいたが、ともに下層階級だった。
 西洋で市民と呼ばれる商業的中間階級が生まれたのは、近世になってからである。古代には、こうした中間階級はいない。交易者は王や政府に結びついたごく少数の大商人を除いて、ほとんどが下層の仕事をしていた。
 古代メソポタミアにはタムカルムと呼ばれる下層の交易者がいた。かれらは王や寺院の任命によって仲買人となった。隊商を組み、情報を収集し、売買交渉や遠隔地交易をおこなうのが仕事である。その身分は保証され、宮廷や寺院から収入が与えられた。東洋とアフリカの大文明で、商業生活をリードしていたのは、こうしたタムカルムだった、とポランニーはいう。
 アテネで交易をおこなっていたのは居留外国人であり、その身分は低かった。こうした居留外国人は、海外の共同体から離れざるを得なかった人びとで、商売をしてくらしていた。そのなかには小さな船をもったり、小さな食料店を開いたり、両替や金貸しをしている者もいた。だが、当局による規制は厳しかった。
 ポランニーはこう書いている。

〈その生活はまったく単調な骨折り仕事の連続であった。いまわしいほど苦しい海の生活にさらされる激しい肉体労働の日々であった。しかも、その報酬に富を得ることも期待できなかった。土地や家を持つことは禁じられていたし、抵当権も持てなかった。その結果として、財産たるべきものは何も持てなかったのである。〉

 さらに、インダス川流域からジブラルタル海峡にいたるまで、受動的交易を担う外国人の群れが存在した。かれらはストレンジャーであって、けっして当該共同体に所属せず、外国人居住者という中間的な身分にも甘んじなかった。「完全に疎遠な別個の共同体の成員」だった。
 専門的な交易者が現れるのは、古代になってからである。交易によって生活を立てる種族もでてくる。これをポランニーは「大衆的交易者」と呼んでいる。その例と挙げられているのが、海ではフェニキア人、ロードス人、西ヴァイキング、砂漠ではベドウィン族、トゥアレグ族、川では東ヴァイキング、ケデ族(ニジェール川)などである。
 アフリカにも定期的に交易をおこなうさまざまな種族がいた。すでにアルメニア人やユダヤ人も歴史に登場している。

 次に交易の財をみておこう。
 遠方から財を獲得し運搬するには、その緊急性や運搬の難易度も考慮されなければならない。こうした交易は非継続的な事業になることが多く、ローマでもその都度、協同事業組織がつくられていた。
 それぞれの交易がそれぞれの苦難をともなった。奴隷や家畜の輸送、石や木材の輸送にしても、その都度、運搬手段と人手の調達を必要とした。
 輸入があれば、とうぜん輸出も必要となる。それでなければ交易は成り立たない。
ロシアのキエフ公国は、国内から毛皮や亜麻、蜂蜜を集めて輸出し、ビザンティンの高価な絹やラシャ、宝石などを輸入していた。いっぽうローマでは、属州から食料品や必需品が集められ、これにたいし代価は支払われなかった。
 輸送がどのようにおこなわれるかも大問題だった。
 現在の市場社会では、輸送は単なるコストとみなされる。しかし、歴史を知るためには、かつての運搬経路や運搬手段、運搬態様、交易組織などがどうであったかをしっかり把握せねばならない、とポランニーはいう。
 陸路でも海路でも、盗賊や海賊の危険性があった。そのため古代帝国では通商路の保全が、国家の大きな課題となった。エジプトでも中国でも、輸送路は河川を中心に組み立てられていた。いっぽう、モンゴルやアラブなどの遊牧民は、大陸間の隊商路に沿って帝国を拡大した。
 隊商は帝国以前から存在した。それは公的権力によって編成され、武装されていた。しかし、のちの時代になると、独立した隊商があちこちを交易して歩くようになる。アフリカでは奴隷輸送カヌーが河川を漕ぎ回った。
 隊商は軍隊でもあった。インドのムガール帝国では、デリーのバザールの商人たちが、毎年、軍隊とともに夏季の大遠征をおこなっていた。
 共同体は、その場所で入手できない品物を獲得するために、狩猟や遠征、侵略をおこなった。そこでは財の移動は一方向だった。これにたいし、交易は平和的な二方向の活動となる。
 そのひとつの例が、クラ交易にみられるような贈与交易である。次に登場するのが管理交易である。そこでは政治的に承認された組織どうしの交易がおこなわれる。こうした組織は、輸入財を分配するとともに、輸出財を徴集しなければならない。そのためには、保管や管理も必要になった。あらかじめ等価物を規定することも求められた。交易場所も定められるようになる。
 市場交易が登場するのは、比較的近代になってからである。交易の当事者は交換そのものによって結びつき、交換可能な財はそれこそ無限に広がる。経済史においては、いついかにして対外的な交易が市場に結びつくようになったかを解明することが最大の問題だ、とポランニーは述べている。

 つづいて、貨幣の問題をみていくことにしょう。
 貨幣の機能として挙げられるのは、支払手段、計算手段(価値尺度)、富の蓄積手段、交換手段などである。しかし、貨幣のこうした機能が全面的に登場するのは、近代にいたってからで、初期的な社会では全目的の貨幣はない、とポランニーは断言する。貨幣は特定目的にしか用いられていなかったのだ。
 条件が適合すれば、どのような物も貨幣として用いることができた。貝殻や羽毛、羊、大麦なども、貨幣の役割を果たしていた。無文字社会でも、計算の工夫は求められていたから、計算しやすいものが貨幣に選ばれた。
 たとえば、ある地域では、大きな富をはかる価値尺度には奴隷が、ちいさなものをはかる価値尺度には子安貝が用いられた。外国との交易には貴金属が使われた。奴隷や子安貝や貴金属は、貨幣代替物だったといえるだろう。だが、こうした貨幣代替物は、現在の貨幣のような全目的性をもっていなかった。
 市場のない初期社会では、基本的に売買関係がないので、現在、貨幣のもっとも重要な機能とされる交換手段として貨幣が用いられることはなかった、とポランニーはいう。
 しかし、支払手段としての貨幣は存在した。支払いとは、一般に責務(あるいは債務)を返済することをいう。初期社会では、神や支配者による保護にたいし支払いがなされねばならなかった。共同体の掟に背いた場合も、支払いが課せられた。それは死を含む刑罰や償いのかたちをとることもあったが、状況に応じて、貨幣で支払われることもあった。その貨幣は、犠牲の動物や奴隷、貝、食糧などのかたちをとった。
 蓄蔵手段としての貨幣も、もともとは支払いに備えることが目的だった。その支払いというのも経済的な支払いというより、むしろ宗教的・政治的理由によるものだった。貯えられた食糧や家畜、財宝は貨幣として機能した。
 しかし、交換されるにせよ、貯蔵されるにせよ、それを効率的におこなうには計量や尺度が必要になってくる。古代バビロニアではそのための銀貨シェクルがつくられ、たとえば戦車は100シェクル、雄牛は30シェクルなどで取引された。しかし、戦車や雄牛は市場に出された商品ではなく、銀貨が支払われたのは、あくまでも代償としてだった。
 ポランニーはこう書いている。

〈原始社会およびアルカイックな社会のデータが明らかにすることは、貨幣の交換手段としての用法が、他の貨幣用法を生じたとは言い切れないということである。逆に、支払、蓄蔵、計算手段としての用法は、それぞれ独自の起源をもち、相互に独立して制度化されたのであった。〉

 部族社会や古代国家においては、貨幣は商品の交換手段として利用されたわけではないという指摘は重要である。
 古代ギリシアでは紀元前5、6世紀に貨幣鋳造が開始されるが、市場が発展するのはだいぶたってからで、古代国家の経済はあくまでも再分配を基本としていた
 ポランニーはさらに次のように要約している。

〈交換は、原則として、組織化された交易や市場の枠内で発達するものである。その枠外では、間接的交換〔言い換えれば貨幣を媒介とした交換〕はほんのたまにしか起きない。だから、貨幣の交換手段としての用法は、完全に原始的な状態のなかではほとんど何の重要性ももたない。シュメールやバビロニア、アッシリア、ヒッタイト、あるいはエジプトのような、高度に組み立てられたアルカイックな社会でさえも、貯蔵が経済的に普遍的だった。価値尺度としての貨幣の使用は大規模に見られたにもかかわらず、間接的交換に貨幣が用いられることはほとんどなかった。ギリシア世界がまだ貧しくなかば野蛮だったくせに、たくさんの美しい鋳貨をつくっていたその時期に、バビロニアやエジプトの大文明には鋳貨がまったくなかったということは、このことから説明されるだろう。〉

 ここから言えることは何か。
 交換手段として広く貨幣が用いられるのは、ずっとあとに市場が発展してからだということである。にもかかわらず、金属のかたちをとるにせよ、大麦や貝殻、羽毛などの代替貨幣のかたちをとるにせよ、部族社会の段階から人類は貨幣を必要としていた。これは商品から貨幣が生まれたという経済学の通説とは異なる。商品がなくとも、いやむしろ商品に先行して、貨幣が存在したことを意味している。
 言い換えれば、貨幣とは将来の生存を担保しうる用具にほかならなかった。商品世界が日常化するのは19世紀にはいってからである。しかし、貨幣代替物を含む貨幣の発明こそが、人類社会を永続化させる工夫につながっていたといえる。
 ポランニーがいいたかったのは、そんなことではないか。

 最後にポランニーは、市場の起源にふれている。
 初期の社会でも交易や貨幣は存在した。市場が誕生するのは、もっとあとの時代である。とはいえ、市場の起源をたどるのはむずかしい、とポランニーは書いている。それは現れたり消えたりするからである。
 まず市場を場所としてとらえるか、それともメカニズムとしてとらえるかの問題がある。場所としての市場が誕生するのは、需要・供給メカニズムとしての市場よりも、ずっと前である。社会全体をおおう市場経済システムが生まれるのは19世紀になってからだといってよい。
 市場が三千年にわたって次第に発達を遂げてきたとみるのはまちがいだ、とポランニーはいう。初期社会の市場は、現在の経済メカニズムとしての市場とは、まったく似ても似つかぬものだ。
 市場は、財の集まる場所、財を供給する人、財を求める人、慣習や法、取引があって、はじめて成立する。
 市場には多様な起源があるが、大きくわければ外的な起源と内的な起源にわかれる、とポランニーは考えている。
 外的な起源は共同体の外部からの財の獲得に関係する。内的な起源は内部での食糧の分配に関係する。
 対外交易は市場に先行していた。メソポタミアではタムカルムという身分があり、かれらは仲買人や代理人、管財人、旅商人、銀行家、奴隷取扱官、徴税吏、王室の財政執事などとして、国家のもとで働いていた。メソポタミアに市場がなかったことを理解すれば、かれらを民間の商人と理解するのはまちがいだ、とポランニーはいう。それでも、かれらは外部世界との交易にあたっていたのだ。
 タムカルムは独自の身分を与えられ、公的権威に命じられて行動している。メソポタミアにかぎらず、古代社会では、こうした人びとが古代社会では数多くみられたのだ。こうした対外交易が内部化して、市場交易となるには長い時間を要した。それを促したのは、土地と労働の商品化だ、とポランニーはいう。
 しかし、共同体内部に内的な市場がなかったわけではない。
 有名なのは古代ギリシアやローマのアゴラ型地域市場である。アテネのアゴラは、民衆に食物を供給する場所であり、ここでは牛乳や卵、野菜、魚、肉が売られていた。だいたいが調理済みだったという。
こうした品物は近隣から運ばれ、貧しい労働者や旅行者がそれを求めた。富裕な住民がこうした地域市場に来ることはなかった。
 ギリシアの植民地、小アジアなどで、市場の形成を推進したのは、スパルタ人やアテネ人に率いられていたギリシアの傭兵だった。
 軍隊と市場は密接に結びついている、とポランニーはいう。ひとつは戦利品(財宝、家畜、奴隷)の処分、もうひとつは軍隊への補給が、貨幣と市場の必要性を促した。
 スパルタ人は、獲得した奴隷をすぐに近隣のエンポリウム(交易地)に送り、売却するのが通例だった。アテネ人は遠征にあたって、食糧を地域住民ないし従軍商人から買い入れていた。
 軍の移動にあたっては、兵站が大きな問題となったことはいうまでもない。
 ポランニーはこう書いている。

〈市場は時に応じて、城門の内へも外へも移動する。また海岸に沿って移動することもある。市場には特定の軍隊が入ることを許可されたり、拒否されたりする。また市場は一定の期間開かれる。とくに興味あることは、交易が始められる前には必ず外交交渉が行なわれることである。〉

 市場は常設されているわけでも、場所が決まっているわけでもなかった。それは移動するものだった。
 さらに軍とは別に、ポランニーはシュメールやメソポタミアなどの古代灌漑帝国に見られた城門に注目している。税と支払いは、こうした門でおこなわれ、労働者や兵士への配給もここでおこなわれた。しかし、その広場では、アテネのアゴラのような食糧市場はつくられなかった。
 バザールはもともと食糧市場ではなく、職人のつくった製造品を扱う市場として発達し、城壁で取り囲まれた町の裏道に置かれていた。品物に値段はつけられていなかった。そして、このバザールはのちにイスラム商人の影響を受けて、食糧市場ともなり、外国商品の販売もおこなうようになる。
 ここで、ポランニーがあきらかにしようとしたのは、歴史的にみれば、市場よりも貨幣が先行したこと、貨幣は商品以前に存在したことである。
 その発見は経済学の認識にも大きな衝撃を与えた。

nice!(13)  コメント(0) 

ポランニー『人間の経済』を読む(3) [商品世界論ノート]

Unknown.jpeg
 第1部「社会における経済の位置」のB「制度」から。経済制度をめぐる論考が4本集められている。断片もある。
 市場システムが確立されるのは19世紀になってからである。それは「餓えの恐怖と利得の希望」を誘因とするシステムだった。これまでとちがい、政治や宗教、親族組織などからいちおう切り離されているところに、市場システムの独自性があった。
 しかし、経済を人の暮らしという大きな意味でとらえるなら、市場システムだけが経済ではないことがわかる。市場システム以前には、経済は、いわば「社会に埋め込まれていた」のだ、とポランニーはいう。
 近代社会は契約のうえに築かれている。これにたいし、近代以前の社会は身分を基礎としていた。身分は、家柄や家族内の地位で決められ、人は身分に応じて、それなりの権利と義務を有する。
 近代が契約社会なのにたいし、古代から封建制にいたる社会は身分社会だったということができる。テンニースは契約社会をゲゼルシャフト、身分社会をゲマインシャフトと呼んだ。
 マリノフスキは経済人類学の確立に寄与したが、とりわけ、かれの提示した互酬の概念は画期的な意義をもっている。
 現在、パプアニューギニアに属するトロブリアンド諸島では、互酬的な贈与システムが生みだされていた。
 諸島の住民間でおこなわれていたクラ交易は、いわば国際的な互酬システムだった。クラ交易は「対抗や争いを最小化し、贈物の接受の喜びを最大化するように作用した」。この気前のよい交易は、一種のポトラッチ(富の贈与)だったと理解することもできる。
 野に生きる人びとは個人主義的でも共産主義的でもなかった。ただ、市場システムとは異なる制度をもっていたのだ、とポランニーはいう。
 ここでは「物的財の生産と分配は非経済的種類の社会関係のなかに埋め込まれている」。そこには経済システムも経済的動機も存在しなかった。存在するのは社会組織であって、経済はあくまでも、そのなかに組みこまれているのだった。
 社会組織は複雑な親族関係と婚姻関係から成り立っており、そこに互酬関係が発生していた。そこでは計量的な経済関係は存在しない。
 マリノフスキは、経済的な接受関係を「純粋贈与」から商業的交易まで分類したが、彼自身も純粋贈与は特別で異例なものとみなしていた。
 贈り物には、返礼が想定されている。だが、それは交易とはほど遠い。
 村どうしでは、魚とヤムイモの儀礼的交換がなされる。その大きな目的は、互いの友好関係を確かめることだ。
 親族間の互酬は、もちろん経済的な取引ではありえない。財の生産と分配は、労働の組織化と同様、親族によって制度化されている。採集のための土地や牧草地、耕作地は親族によって管理されている。基本物資の貯蔵は、親族の協同的活動の一部である。
 そこには経済的な観念が存在しない、とポランニーは述べている。
 ポランニーは互酬を単なる原始社会の風習とはとらえていない。未来の経済を開くカギとも考えているのだ。
 経済的取引が発生するのは、アルカイックな段階、すなわち古代王国や古代帝国が登場してからである。
 アルカイックな社会と部族社会の大きなちがいは何だろう。
 ポランニーは「経済的なもの」が次第に出現するところに、そのちがいをとらえているようにみえる。すなわち、生活の一般的過程から経済活動が分離しはじめるのだ。経済的取引そのものが出現する。
 アルカイックな社会の中心には国家がある。そして、国家を中心とする再分配経済がおこなわれていた。
 シュメールの都市国家もエジプトのファラオの帝国も、みごとに再分配経済を運営していた。しかし、メソポタミアでは、基本は再分配経済でありながら、すでに経済取引が導入されていたことにポランニーは注目している。
 互酬は部族内の敵対と争いを避け、部族の連帯を助けるための統合手段だった。これにたいし、再分配は国家内部の共同体的絆を強化し、中央権力への積極的従属を促進することを目的とする。
 部族社会にしても、アルカイックな社会にしても、念頭に置かなければならないのは、こうした共同体が儀式や魔術、タブー、宗教的規範、身分などによって縛られていたことである。
 そこになぜ、経済的取引が出現するのか。
 非合理な束縛から逃れた個人が利得的なバーターに乗り出したというのは、19世紀の経済合理主義による解釈にすぎない、とポランニーはいう。
 実際には、メソポタミアでは、経済的取引は、国家の承認のもと神の代理人の名によってなされたのだ。アテネのアゴラでの取引についても、「アテネのアゴラは現代の意味での市場の自由を知っていなかった」と、ポランニーは記している。
 互酬の場合は、贈り物にたいする返礼は慣習によって定められている。再分配の場合は、税ないし義務のかたちで、財はいったん中央に集められ、そののち中央からある種の配給がなされる。
 メソポタミアでは、こうした再分配と別に、銀や小麦、油、ぶどう酒、煉瓦、銅、鉛などが取引されていた。だが、それはあくまでも緊急時を乗り切るための措置だった。
 アリストテレスによれば、「野蛮人たち」のあいだで、こうした取引がなされるのは、あくまでも自給性を回復するためだったという。それは利得ぬきの交易だった。世帯主は必需品を、最低限度を超えない範囲で隣人に頼ることを認められていた。信用貸は排除され、交換される等価物がない場合、その負債は徐々に返済されることになっていた。
 ここでは市場は存在しない。等価物は、一定量の貝が豚と交換されるというように、慣習や伝統によって定められていた。
 原始社会では食料の取引はタブーとみなされていた。禁止が解けはじめるのは、古代国家が登場してからだ、とポランニーはいう。
 バビロニアなどの灌漑帝国においては利得抜きの公正価格が定められ、それによって、労働の治水事業への動員が可能になった。それは法の定めによる取引であり、あくまでも市場への発展は回避された。交易に関しても同様である。
 これらは再分配経済のもとでの措置にほかならないが、そのことが個人の自主性を大きくしたことはまちがいない、とポランニーは論じている。なにやら、社会主義的市場経済の原型をみるようである。

nice!(14)  コメント(0) 

ポランニー『人間の経済』を読む(2) [商品世界論ノート]

img20210515_16411527.jpg
 第1部「社会における経済の位置」を読んでみる。
 まずは「A 概念および理念」から。
 第1章の「経済主義の誤謬」で、ポランニーは市場社会は比較的近代の産物であって、それを人類の歴史全体に拡張することはできないと述べている。
 経済(エコノミー)という概念は、フランスの重農学派とともに登場するが、それは市場システムの登場と軌を一にしていた。それまで外部的だった交易が日常生活に浸透し、価格市場が生まれ、労働と土地にも価格がつけられ、賃金や地代が発生するなかで、「経済」が発見されたのである。
 アダム・スミスは経済を市場システムととらえ、すべての経済現象を市場現象として理解しようとした。そこから経済法則という概念が生まれる。労働と土地も商品というフィクションに組みこまれた。こうして市場経済は市場社会へと発展する。市場社会においては、道徳や普段のふるまいなどからなる日常生活の行動そのものが、いわば市場経済化されるといってもよいだろう。
 経済主義への転換をもたらした契機は何か。
 ポランニーはこう書いている。

〈決定的段階は、労働と土地とが商品化されたことであった。すなわち、それらはあたかも販売のために生産されたものであるかのように扱われたのである。もちろん、それらは実際には商品ではなかった。なぜなら、それらはけっして生産されたものでもなければ(土地のように)、またもしそうであっても、販売のために生産されたものでもないからである(労働のように)。〉

 労働と土地が自由に売買され、賃金と地代という市場価格をもつのは、あくまでも商品のフィクションによる。なぜなら労働の実体は人間であり、土地の実体は自然だから、とポランニーはいう。
 いまではだれもが市場経済があたりまえのものだと思うようになった。というのも「労働者の飢えの恐怖と雇用者の利潤への魅力が、巨大なメカニズムを運動させ続け」ているからだ。
 だが、歴史をふり返ってみれば、人間はけっして経済的な動機のみにもとづいて行動してきたわけではないことがわかる。宗教的・美的動機や、慣習、名誉、あるいは征服欲といったものが人びとを駆り立ててきた。もちろん社会も、けっして市場メカニズムだけで成り立ってきたわけではない。
 経済主義は合理主義とアトミズムという対をなす仮説のうえに成り立っている。そこに功利主義的な価値尺度が加わる。
 ポランニーはいう。

〈そのような基盤の上に立つ社会哲学は、空想的でもあれば急進的でもあった。社会を原子化し、すべての個々の原子を経済合理主義の世界の原理にしたがって行動させるようにすることは、ある意味で、人間存在の全体をその深さと豊かさとともに、市場のフレーム・オブ・レファレンスのなかに位置づけようとするものであった。〉

 こうした考え方は経済唯一主義と名づけることができる。それは歴史のあらゆる面に拡張され、歴史解釈に持ちこまれた。だが、はたしてそれは正しいのか、とポランニーは問うている。
たとえば部族社会においては、「連帯は慣習と伝統によって」保たれており、「経済生活は社会における社会的・政治的組織のなかに埋め込まれている」のだ。それは中世社会においても同じだった。経済主義的思考様式をいったん取り外してみる必要があるのではないかというのが、ポランニーの考え方だ。

 本書は寄せ集めの遺稿集という感があって、かならずしも体系的ではないのだが、少なくともポランニーの目指していたことは伝わってくる。
 たとえば、「経済」という言い方には、ふたつの意味が含まれているという考察をみてみよう。
「経済」には、節約とか効率といった「稀少性」にかかわる目的─手段的な意味がある。これとは別に、「経済」には、人が暮らしを営むという実体=実在的な意味もあり、たいていは、このふたつの意味が複合している。
 ポランニーのいう「経済」は、後者の人の暮らしを指している。だが、それは単なる物質的基盤をいうわけではない。そこには自然や仲間との関係も含まれている。
 しかし、現代においては、経済はほとんど市場をめぐる活動と同一視されている。「経済的人間」という言い方にしても、それは動物としての人間と最大化原則とを神秘的に複合した教説にほかならず、そこでは「経済」のふたつの意味の混同がみられる。
 そうした偏向を取り除くためには、経済をより本源的な「人間の暮らし」として理解することがだいじになってくる、とポランニーはいう。しかし、経済の実体はおうおうにして忘れられがちだ。
 いまでは、経済は選択だということがしばしば主張される。手段は限られている。そのなかで、最大の満足を得るために、どのように合理的に活動するのがよいかが問われる。
 人間がひとたび「市場のなかの個人」となると、「人間の欲求と必要に関しては、ただ貨幣が市場に提供されたものの購買をとおして満足をもたらしうるということのみが関心事」となってしまう。そこでは市場における「孤立した個人の功利主義的な価値の尺度」のみが問われることになる。
 これと対照的なのは、アリストテレスの考察だ、とポランニーはいう。アリストテレスは人間の欲求と必要は無限ではないから、人間の暮らしが稀少性の問題を引き起こすことはないと考えた。人間はそれぞれの環境のなかで、生存に必要なものを見出しているからだ。
 アリストテレスにとって、よき生活とは、市民がポリスの仕事に献身するための余暇をもつことだった。アリストテレスは無制限の金儲け活動と、物的な快楽を功利的に蓄積する考え方を軽蔑した。
 人間の暮らしという実体=実在的な意味での「経済」が重要であることはいうまでもない。
 ポランニーはこう書いている。

〈経済は、物的な欲求を満たそうとする相互作用の制度的過程として、あらゆる人間的共同体におけるきわめて重要な部分を形成している。この意味における経済なしには、いかなる社会であれ、瞬時たりとも存続することはできない。〉

 相互作用とは、場所の移動と占有(持ち手)の移動である。つまり、物が生産され、輸送されること、そして取引され、処分されること。これによって、生産は段取りよく消費に差し向けられる。もちろん、相互作用には人間と自然の相互作用も含まれている。
 こうした経済の構造と機能は、さまざまな制度によって形づくられてきた。市場システムはそのひとつにすぎない。

 ポランニーは、人間の経済の主要な統合形態を(1)互酬、(2)再分配、(3)交換に分類する。3つのカテゴリーの統合形態は、制度上の構造を類型的に区分けしたものである。
 互酬は対称的に配置された集団のあいだで生じる。再分配は中央の確立なくしては発生しない。交換は市場システムの存在を前提している。
 互酬においては集団Aは集団B、さらに3つあるいは4つ、もっと多くの集団が対称的で、相互依存の関係にある。これは部族社会にみられる相互扶助システムだといってよい。等価交換は求められていない。
 ポランニーはマリノフスキの研究にしたがって、トロブリアンド諸島の例を挙げる。

〈トロブリアンドでは男の責務は彼の姉妹の家族に向けられるが、彼自身はそのために姉妹の夫に援助をあおぐことはない。むしろ彼が既婚ならば、援助は彼自身の妻の兄弟からくる。すなわち、類似的に配置された第三の家族の成員からである。トロブリアンド諸島では、生活上の農業物資の生産が互酬的関係を基礎とするばかりでなく、海岸の村と内陸の村の間に設けられた「魚とヤムイモ」もまた、互酬的基礎によって行われる。魚はある時期にあらわれヤムイモは別の時期にあらわれる。そして、この場合、交換の仲間たちは親類集団ではなく村人全体である。〉

 さらには有名なクラ交易もあるが、これについてはまたあらためて詳しく述べることにしよう。
 いずれにせよ、互酬制が市場システムと根本的に異なる経済活動であることを頭にいれておこう。
 再分配は初期国家などでよくみられるシステムである。財は集団内でいったん中央に集められたうえで、慣習や法、あるいは臨機応変の措置によって分配される。このやり方は狩猟民や古代エジプト、シュメール、バビロン、ペルーなどでもみられた。財の集め方は徴収から税、貯蔵まで多岐にわたる。集められた財や食料は、祭典や儀礼、宗教儀式、埋葬の饗宴、その他の祝い事など、数多くの機会に分配されることになる。
 ここで、ポランニーはギリシア語のオイコノミア(家政)がエコノミーの起源であるとしながらも、経済が家族を維持するところからはじまったという考え方はあやまりだと述べている。

〈家政は経済的生活の初期形態ではけっしてない。人間は彼自身と彼の家族の世話をすることから始まった、という見解は誤りとして捨てられなければならない。人間社会の歴史をより遠くさかのぼるほど、われわれは経済的事柄において自己の個人的便益のために活動する人間、そして自身の個人的利益を気にする人間を見つけることがまれになる。〉

 交換が登場するのは、最後の段階である。交換とは市場メカニズムのもとで「各自に生じる利得を目ざして行なわれる、人びとのあいだでの財の相互移動」である。
 以上はほんの概略にすぎない。注意しなければならないのは、互酬、再分配、交換が発展段階を示すものではないということである。ポランニーによれば、「いくつかの副次的な形態が支配的な形態と並存しうるし、後者は一時的に消滅したのちにふたたび現れるかもしれない」。
 たとえば、部族社会は互酬と再分配をおこなっており、古代帝国は再分配を中心としながらも、交換もおこなわれている。近代の工業社会は交換を中心としながらも、いまでは再分配が重要性を増しつつある。
 ポランニーは、アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的からなる発展的唯物史観とは異なる経済の類型を提示した。それは、社会主義の必然性といった信仰をなし崩しにする視座でもあった。
 社会主義は中央指導部を絶対とする再分配システムへと転化する可能性が強い。いっぽう市場システムを絶対とする資本主義は、けっして盤石ではなく、互酬、ないし再分配を中心とするシステムに移行する可能性もある。
 ポランニーは経済史の実証研究から、資本主義対社会主義という硬直した冷戦思考を脱却する論理を構築しようとしていたということもできるかもしれない。
 しかし、予断は禁物である。先はまだ長い。

nice!(12)  コメント(0) 

ポランニー『人間の経済』を読む(1) [商品世界論ノート]

img20210515_16411527.jpg
 原題は The Livelihood of Man である。カール・ポランニー(1886〜1964)の遺稿をハリー・ピアソンがまとめたもので、1977年に出版された。日本では1980年に玉野井芳郎、栗本慎一郎、中野忠の訳で岩波現代選書の2巻本として出版されている。タイトルは「人間の経済」というより「人の暮らし」といったほうが原題の語感に近い。
 閑人による本棚の整理だ。半分くらい読んだかもしれないが、その後、ずっと積んだまま眠っていた。本の内容ははっきり言ってむずかしい。わかるところだけ、つまみ食いしてみる。例によって、途中で、わけがわからなくなって投げ出す公算大だから、期待は禁物である。
 暇にまかせて、ぼちぼち読んでみるというところか。

 人間の社会をさかのぼって、経済の発生をとらえなおしてみるというのが本書のメインテーマだといってよい。だが、考えてみれば社会といい、経済といっても、それはともに近代の産物なのだから、この言い方自体が矛盾をはらんでいるといえなくもない。それでも近代の経済を知るためには、その始原にさかのぼってみなくてはならないと考えたところに、この本のユニークさがある。
 全体は3部に分かれている。第1部が「社会における経済の位置」、第2部が「市場経済の三要素」、第3部が「古代ギリシアにおける交易・市場・貨幣」となっている。
 本文にはいる前に、「はしがき」と「序文」を読むことにしよう。
「はしがき」で、ポランニーは、一般経済史を念頭において、「あらゆる類型の諸社会に適用できる交易、貨幣、市場制度の概念」を展開してみたいと書いている。つまり、どの歴史社会にも、それぞれ異なった交易や貨幣、市場といった制度があるのだが、それを頭に置きながら、まず始原をたどることによって、現代経済学の理解とは異なる根本的な経済概念に到達してみたいというのである。
 古代にさかのぼるにつれて、現代経済学の需要、供給、価格といった理論の枠組みは役に立たなくなる、とポランニーは述べている。交易や貨幣は古代から存在するが、価格形成市場は近代にいたって発明された制度にすぎない。
 バビロニアには豊かな商業文明が発達していた。エジプトやアッシリア、アテネもそうである。紀元前、カッパドキアには、多くの交易植民都市が発展していた。だが、その商業文明は現代とは大きく異なっていた。

 交易、貨幣、市場といった制度の始原をさぐることをポランニーはめざしていた。とはいえ、その学問的研究は、現代の危機とも無縁ではないと書いている。
 ポランニーはふたつの世界大戦を経験している。恐慌があり戦争があり、国際秩序がつくりなおされた。いまは経済以上に、自由と平和をいかに維持するかが大きな課題となっている。そのなかで、一見疎遠な問題を扱う経済史家がはたしてどのような役割をはたせるのか、とポランニーは自問している。
人が生活する以上、どの社会にも経済的な部分が存在する。政治や宗教、文化が大きく変わると、経済も大きな影響を受ける。だが、たとえそうだとしても、経済そのものがなくなることはありえない。
 いま西欧文明では、市場社会があたりまえになっている。人間の日常活動は利得動機と競争的態度によって形づくられ、功利主義的な価値尺度によって評価される。それこそが「経済」だと思われている。だが、「本質的なものとみえているのは、人間経済全体の不変的で永続的な姿ではなく、一時的で偶然的な姿にすぎない」とポランニーはいう。現在の市場システムは19世紀になってからつくられた制度にすぎないのだ。
 気をつけなくてはならないのは、スローガン化された歴史の解釈におちいらないことだ。経済史を偏重しないこと、貨幣信仰に陥らないこと、技術的進歩を絶対視しないことがだいじだ。そのいっぽうで機械文明を否定するあまりに原始主義に逆戻りしないこと、進歩の不可逆的性格に目をつむらないことも忘れてはならない、とポランニーはいう。
 19世紀は機械の時代と市場システムをもたらした。それ以前は狩猟採集社会と農耕社会があるのみである。機械文明はこれから長くつづくと予想される。人類がこれからも生きていくとするならば、われわれは機械とともに生きていくことを学ばなければならない、とポランニーはいう。
機械は新しい文明をつくりだした。それによって、人間にはこれまでにない「物理的、精神的な力」が与えられ、交通の範囲も拡大して、新たな人間相互の関係が生まれた。
 18世紀末に、機械文明の始まりを予想していた人はほとんどいなかった。だが、「頑固な現実主義者よりも天真爛漫な予言者のほうがより真実に近いところにいた」のだ、とポランニーはいう。
 新しい世界が旧世界をのみこもうとしているのを最初に見てとった人物として、ポランニーはロバート・オーウェンやフーリエ、サンシモンらの名前を挙げている。新たな経済生活、異性間の関係、娯楽や服装、信仰が生まれようとしていた。
 19世紀はじめの数十年において、機械文明は自己調整的市場システムを生みだした。それは、すべての世代に悲痛な苦しみをもたらした。だが、それは同時にすさまじい成功をもたらした。
 無制御な市場の力が、多くの人びとに失業や将来への不安を味わわせたのはたしかである。そのため機械文明による経済発展のめざましい恩恵を受けながらも、社会は自己防衛に立ち上がらないわけにはいかなかった。
 機械文明のつくりだした市場社会が、人のくらしを変え、さまざまな恩恵をもたらしたのは事実である。しかし、いまも、機械文明──その典型が核兵器だが──が「あらゆる者の自由と生存」をおびやかす力をもっていることを忘れてはならない、とポランニーは警告する。
 ここで、ポランニーはふたたび古代の交易、貨幣、市場に立ち戻る。
 現在では市場が需要と供給を自己調整し、それに貨幣や交易が手段としてかかわるという図式がえがかれるが、古代にはそうした市場社会は成立していない。
 たとえば、価格は慣習ないし権威によって、あらかじめ設定され、それが変更されるときには、ふたたび制度によって行われる。
さらに、

〈対外交易はたいてい国内交易に先行し、交換手段としての貨幣は対外交易の領域に始まるものであった。そして組織化された市場は最初に対外交易において発展させられたものであった。〉

 交易、貨幣、市場はそれぞれ別個に発生していた。しかも、先行したのは対外交易だった。ポランニーはいう。「最も遠距離の交易は一般により短距離のものに先行したのであって、それはちょうど最も遠方の植民地が最初につくられたのと同じである」
 われわれはまた、経済は自然経済、貨幣経済、信用経済の順に進化すると思っているが、それもまたまちがいだとポランニーはいう。貨幣や信用は市場よりも先に発生したにもかかわらず、なぜか市場が生まれてから貨幣や信用が誕生したと信じられている。そこには「以前には結合していなかった諸要素からの非連続的な発展がある」のだ。
 そのことは本文で詳しく論じられることになるだろう。
「序文」の最後に、ポランニーはなかなかややこしいことを書いている。

〈それゆえ、理論的課題は、人間の暮らしを研究する学問を広大な制度論的かた歴史学的基礎の上に確立することである。用いられるべき方法は、思考と経験の相互依存によって与えられる。データによらないで構築された用語や定義は空虚である。他方、われわれのパースペクティヴによって再調整を受けていない事実の単なる寄せ集めは不毛である。この悪循環を断ち切るには、概念的探究と経験的探究とがあい携えておし進められなくてはならない。〉

 たしかに一定の方法のもとで、人間の暮らしの成り立ちがどのように移り変わっていったのかを歴史的かつ理論的にあきらかにすることは、容易な作業とは思えない。しかし、ポランニーはともかくも経済社会の発端に錨をおろそうとしたのである。

nice!(13)  コメント(0) 

アン・アプルボーム『権威主義の誘惑』(三浦元博訳)を読む(2) [本]

img20210509_16270399.jpg
 政治の変容は、経済的苦境とか不平等の増大によって理由づけられることが多い。しかし、著者によれば、いま人びとが権威主義的な考え方に引きつけられるのは、複雑さがいやになるからだという。人びとは意見の多様性に反発し、単純思考による解決を求めがちになっている。
 たとえば外国人アレルギーをあおる反移民の言説もそのひとつだ。不平等や賃金低下への怒りをあおるスローガンも政治の波を引き起こすだろう。
 それだけではない。いまではネットが、自分に都合のよい世界理解を促してくれる。「怒りが一つの習慣になる。不和が日常になる」。分極化が進んでいく。そこでは多様性や寛容より、単純さや結束、調和、均質性が求められるのだ。
 ネット情報が広がる世界では、民主政治のルールにもとづいてコンセンサスをつくることよりも、「他者を強制的に沈黙させようとする欲求」のほうが強くなる。そうした傾向が権威主義を生むひとつの土壌になっていると著者はみている。

 スペインではウェブサイトに人をひきつける映像を流すことで、極右のVoxという政党が躍進を遂げた。そこでは「スペインをふたたび偉大に」というフレーズがくり返されていた。
 フランコ独裁政権が終わったあと、スペインではコンセンサスにもとづく民主政治が定着したかに思えた。だが、2009年の経済危機以降、スペインの政治は揺らぎはじめる。カタルーニャでは分離独立運動とその後の大混乱があった。そのあとYouTubeやツイッターなどを駆使して、「国民統合救済の愛国運動」を唱えるVoxが登場したのだ。
 ヨーロッパの政治的な動きで、現在、注目すべきことは各国のナショナリスト政党が連携しはじめたことだ、と著者は指摘する。イスラム系住民への反発や、保守的で宗教的な世界観の推進、EUへの反対といった課題が、かれらを引き寄せている。
 ここでもネットの果たしている役割が大きくなっている。数々の陰謀論やつくり話がユーザーを引きつけ、移民問題や汚職、イスラム教徒のうわさ、フェミニズム批判も大きな話題となる。
 かれらが吹きこむのは愛国心であり、リベラル派を排除することである。

 アメリカ建国の祖たちは、民主政治が専制政治に退行するのを防ぐには特別の措置が必要だと考えていた。自由民主主義が永遠に保証されていると思っていたわけではなかった。すべての人が生まれながらにして平等ではないこともわかっていたが、そうなるような体制をつくるよう努めていたのだ、と著者はいう。
 いっぽう、左派は当初からアメリカ文明にたいして絶望的な見方を示し、この体制は芯まで腐っていると考えていた。反対にキリスト教右派は現代アメリカの世俗主義に失望し、社会はさらに悪くなるだろうと悲観していた。そうした雰囲気が強まると、極左と極右があらわれ、そのなかから過激な行動に走る者もでてくる。
 著者によれば、ドナルド・トランプの出現は、思想的にはマルクス主義左派とキリスト教右派の結合によってしか説明できないという。それを代表する人物がトランプの政治顧問となったスティーヴン・バノンだ。バノンは公然とみずからをレーニン主義者と称していた。
 トランプはビジネスの世界で生きてきた経営者だった。しかも、そのビジネスも必ずしも芳しいものではなかった。
 著者に言わせれば、トランプは「アメリカの民主主義がすばらしいと思っていないため、諸国間の模範になろうと切望するようなアメリカには、まるで関心がないのだ」。
 そこで、アメリカ・ファーストが唱えられる。さらに、トランプはアメリカの理想はまやかしだ、アメリカの政府機関は詐欺的だ、海外でのアメリカの行動は悪質だ、などと平気でいう。それが庶民に受けて、燎原の火をあおった。
 トランプのアメリカには「民主政治と独裁政治の間になんら重要な違いを見ないアメリカがある」と著者はいう。トランプがあらわすのは、アメリカの文化的絶望感だ。
 トランプはノスタルジーをかきたて、国民の一体性を求める。「このアメリカの一体性は、白い肌と一定のキリスト教理念、それに壁で囲まれ、守られる国土への愛着によって生まれるのだ」
 冷戦終結後、ソ連が崩壊したあと、アメリカには一種の楽観主義がただよっていた。しかし、共通の敵がなくなると、反共主義者を結びつけていたきずなも崩壊してしまった。
 保守グループは分裂した。そして、その一部がトランプ絶対支持に走ったのだ。かれらは終末論的悲観主義におちいっていた。ほんとうのアメリカ、真のアメリカが消滅しつつあるなら、それを救うために非常手段が必要になるかもしれないとまで考えるようになっていた。

 著者はいまの時代が歴史的転換期だと感じている。そのため人びとは分断されている。
なぜいまふたたび愛国主義と権威主義が、理性的思考と法の支配を押しのけて、世界各地に広がっているのか。きわめて危険な状態だと言わねばならない。
 パンデミックは何をもたらしたのか。国家権力が強化されたことはたしかだ。国境が閉じられるなか、理性的な論争は封印されがちだ。
 著者はいう。

〈わたしたちはすでに民主政治の黄昏を生きている可能性がある。古代の哲学者やアメリカの建国の祖たちが恐れたように、わたしたちの文明はすでに無秩序と専制政治に向かっている可能性がある。反自由主義的・権威主義的理念の擁護者たちが権力を握る可能性がある。〉

 そのいっぽうで、著者は「コロナウイルスが新しい世界的な連帯感を生むかもしれない」とも述べている。「全世界がロックダウン、隔離、感染の恐怖、死の恐怖という同じ経験をしたあとで、国際協力が拡大するかもしれない」
 両方の未来がありうる。腹立たしいことに、それは確定していない、と著者はいう。先行きはむしろ暗いかもしれない。だが、機能不全におちいりがちな自由民主体制を維持するには、闇のなかを力を合わせながら慎重に進んでいくほかないというのが、著者の重い結論になっている。

nice!(12)  コメント(0) 

アン・アプルボーム『権威主義の誘惑』(三浦元博訳)を読む(1) [本]

img20210509_16270399.jpg
 本書の内容はオビの紹介文に集約されている。

〈欧米各国の現場で、民主政治の衰退と権威主義の台頭を観察し、分析した思索的エッセイ。〈ピュリツァー賞〉受賞の歴史家・ジャーナリストが、「民主政治の危機の根源」を考察する、警鐘の書。〉

 いま欧米各国で民主政治の危機が深まっていることが、このオビから伝わってくる。もちろん、それは日本も同じである。
 アン・アプルボームはアメリカ生まれの女性ジャーナリストで歴史家。これまで日本で訳された歴史書としては、『グラーグ』と『鉄のカーテン』(山崎博康訳)が知られている。
 みずからの政治的立場を中道右派だと公言する彼女の生活拠点は、半分ポーランドにある。夫のラデック・シコルスキは、一時ポーランドの中道右派政権で外相を務めていた。

 ここで政治的スペクトルを頭にえがいてみよう。
 分布図を考えてみる。両端には左右の全体主義、そして中道はそれにはさまれるかたちで、真ん中に位置する。
 その中道は左派と右派にわかれる。中道左派がいわば社会民主主義の立場だとすれば、中道右派は自由民主主義を唱える。中道派の政治は、対話と説得を原則としており、自由で公平な選挙がその政治的正統性を保証する。中道左派と中道右派のあいだでは、少なくとも討議が成り立つだろう。
 これにたいし、全体主義は一党独裁を原則とする。左の全体主義はインターナショナリズムの共産主義、右の全体主義はウルトラナショナリズのファシズムといってよいだろう。どちらも国内的には、イデオロギーを押しつけ、言論の自由を抑圧し、反対派を監視する体制をとる。そして、対外的には、他国にたいし攻撃的、拡張主義的な姿勢をつらぬく。ともに問答無用の強権体制だといってよい。
 権威主義は中道主義から全体主義に向かう中間に位置すると考えられる。権威主義は、権力政治、統制政治を目指している。権威主義のもとでも反対党の存在はいちおう認められているが、その存在感はできるかぎり弱められている。政府は露骨な人事干渉をおこなって、政府機関だけではなく、テレビ局や新聞社、学術団体などを意のままに動かそうとする。
 もちろん、こうした図式はあくまでもイメージである。現実の政治は図式どおりにはいかない。
 とはいえ、あきらかにいまの政治は、いい方向に進んでいない。1989年に冷戦が終わり、世界じゅうが自由と民主主義を謳歌する時代がはじまると思われていたのもつかのま、21世紀にはいると世界の政治は権威主義と統制主義、管理主義の傾向を強めている。
 いったい、なぜそんなことになったのか。

 本書の第1章は、1999年の大晦日にポーランドの著者の家で開かれたささやかなパーティの場面からはじまる。
 パーティにはロンドンやモスクワのジャーナリスト、ワルシャワ駐在の外交官、ニューヨークの友人など、それに夫の友人たちが集まった。多くがポーランド人で、大多数は自由主義者だったという。そのときは、だれもが民主主義と繁栄の将来が約束されていると思っていた。
 それから20年、著者によれば、多くの友人たちが考え方を変え、ポーランドの極右政党「法と正義」を支持するようになっている。「法と正義」は2015年の選挙で、僅差ながら単独過半数をとると、その本質をあらわにした。
 自分たちに批判的なジャーナリストや公務員、裁判官、軍人などを解雇し、反ユダヤ主義をむきだしにし、LGBTを攻撃し、さまざまな陰謀論を流して人びとをまどわすようになったという。
こうした傾向はポーランドにかぎらない。
 なぜいま政治の世界で民主主義が凋落し、デマゴーグに満ちた権威主義が大手をふるうようになったのか。新右派の台頭が意味するものは何か。それを探るために、著者はヨーロッパやイギリス、そしてアメリカの新世代の知識人と会って、話を聞くことにした。

 民主政治では、民主的な競争によって選ばれた人に国の統治をゆだねるのが通常のスタイルである。しかし、一党独裁国家においては、党に忠実な者が統治を担うことになる。
 民主政治のもとでは、知識人は自由に自分の意見を述べることができる。これにたいし、独裁政治下での知識人の役割は指導者を擁護することだ。それによって、かれは褒賞と昇進を期待することができる。
 いまポーランドでは「法と正義」、ハンガリーではオルバーンの率いるフィデスという反自由主義政党が、党員に利得をばらまく利権政治をくり広げている。ポーランドやハンガリーだけではない。旧共産主義諸国では、いまや愛国主義に裏づけられた一党独裁政治への誘惑が強まっている、と著者は懸念する。
「法と正義」は2001年にレフ・カチンスキによって設立され、現在は双子の兄のヤロスワフ・カチンスキ(2006〜07、首相)が党首を務める。レフ・カチンスキは大統領時代、カティンの森事件追悼記念式典に出席するため、ロシアに向かう途中の飛行機事故で2010年に死亡した。
 著者によれば、カチンスキ兄弟は「陰謀家、策士、共謀の考案者」だという。
 2015年、ヤロスワフ・カチンスキはポーランド国営テレビの社長にヤツェク・クルスキを据えた。そのあと著名なジャーナリストは解雇され、ニュース報道は歪められた。中立性の装いはかなぐり捨てられ、党の意に沿わない人びとへの攻撃がはじまった。
 共産主義とファシズムの時代の「大デマ宣伝」とちがって、現代のプロパガンダは、マーケティング技術やソーシャルメディアも活用した「Mサイズのデマ」を通じて、丹念に練りあげられている、と著者はいう。それをフルに活用したのがドナルド・トランプだが、こうしたプロパガンダはポーランドやハンガリーでもしきりにくり広げられているらしい。
 たとえば、ハンガリーでは、ハンガリー系のユダヤ人億万長者のジョージ・ソロスが国を破壊しようとしているといううわさが流されていた。ポーランドでは、ロシアでの追悼イベントに向かう大統領の飛行機が墜落したのは、何らかの陰謀のせいだという情報がまことしやかに流布された。
 こうした陰謀論は、愛国心を刺激し、権力への支持を強化する方向に練りあげられていた。複雑な現象をごまかしで説明し、その単純さによって人びとの情緒に訴える力をもっていた。
 ハンガリーのオルバーン政権は、科学アカデミーを政府の管理下に置くとともに、テレビ局や雑誌社を支配し、狭量なナショナリズムをあおっている、と著者はいう。
 ヨーロッパの民主政治の危機は、旧共産主義国に特有な「東」の問題ではない。「その波はごく最近、この十年にわき上がってきたのだ」。なぜ、こうした現象が生じてきたのだろうか。
 ギリシャのある政治学者は、著者にリベラルな民主政治こそがむしろ例外で、権威主義的な寡頭政治こそが一般的傾向だと話した。だが、歴史は循環するものだと構えているだけではすまないのではないか。
 民主主義や能力主義、経済的な競争こそがもっとも公平な選択肢だという考え方にたいして、権威主義は国家や集団への帰属、結束と調和を強調する。そして、時にそうしたプロパガンダは人びとの感情を刺激し、客観的な理性を凌駕してしまう。

 ここで、ボリス・ジョンソンの話がでてくる。
 ブリュッセルで著者と会ったころ、ジョンソンは『デイリー・テレグラフ』の記者で、EUをからかったり攻撃したりする記事をさかんに流していた。でっちあげも平気だったという。
 そのころ、イギリスでは、かつての栄光へのノスタルジーが広がろうとしていた。マーガレット・サッチャーが支持された背景には、そんな国民感情もあったのではないか、と著者はいう。
 イギリスは特別で優位に立っているという感情。それがEUの単一市場への懐疑を生んでいた。EUはイギリスにルールを押しつけているわけではなかった。むしろ、それがイギリスに有利な条件も多かった。にもかかわらず、イギリスはEUに何かおもしろくないものを感じていたのだ。
 そんななか、ジョンソンは政界に乗り出し、ロンドン市長となり、ついに首相の座を勝ちとることになる。
 ロンドン市長のころは「EU離脱なんてだれも真剣に望んでいないよ」と話していたのに、国民投票キャンペーンではブレグジットを選んだ。ほんきでそうなるとは思っていなかった。もし、事態が正常に推移し、ブレグジットが選ばれなければ、おどけ者のボリス・ジョンソンが首相になることは、けっしてなかっただろう、と著者はいう。
 著者によれば、ノスタルジアには二種類ある。ひとつは内省的ノスタルジアで、過去を懐かしむタイプ。もうひとつは復古的ノスタルジアで、過去の栄光を取り戻したいと願うタイプ。やっかいなのは復古的ノスタルジアのほうで、これを信奉するやからは、平気で陰謀論やうそをばらまき、進歩派を攻撃しつづける。12年間、ブレアの労働党政権がつづくなか、イギリスでは復古的ノスタルジアのマグマがたまっていた、と著者はいう。
 そして、こうした復古的ノスタルジアの攻撃ターゲットになったのがEUだった。ヨーロッパとの戦いは、イングランド・ナショナリズムを呼びさました。
 EUを離脱すればさまざまなメリットが得られる、EUにとどまればトルコ人を受けいれなければならなくなる、EUを離脱すればイギリスは立て直せる、イギリスは民主政治を守るためにEUを離脱しなければならない。キャンペーン中は、そんなうそやでたらめが平気で流されていた。
 だが、実際にブレグジットが決まったあとは混乱がおとずれた。離脱キャンペーンの主張はことごとくまちがっており、離脱のプロセスは容易ではなく、離脱のコストは当初の予想よりはるかに大きかった。
 ボリス・ジョンソンは首相の座につくと、議会を停会にしたり、リベラル派保守党員を追放したりして、強引にブレグジットを推し進めた。そして、いまやイギリスの民主政治を踏みにじるような権威主義的な改革に乗り出そうとしている、と著者はいう。
 危険な権威主義の流れはますます広がっている。
 もう少し、読み進めてみよう。

nice!(13)  コメント(0)