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ポランニー『人間の経済』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 原題は The Livelihood of Man である。カール・ポランニー(1886〜1964)の遺稿をハリー・ピアソンがまとめたもので、1977年に出版された。日本では1980年に玉野井芳郎、栗本慎一郎、中野忠の訳で岩波現代選書の2巻本として出版されている。タイトルは「人間の経済」というより「人の暮らし」といったほうが原題の語感に近い。
 閑人による本棚の整理だ。半分くらい読んだかもしれないが、その後、ずっと積んだまま眠っていた。本の内容ははっきり言ってむずかしい。わかるところだけ、つまみ食いしてみる。例によって、途中で、わけがわからなくなって投げ出す公算大だから、期待は禁物である。
 暇にまかせて、ぼちぼち読んでみるというところか。

 人間の社会をさかのぼって、経済の発生をとらえなおしてみるというのが本書のメインテーマだといってよい。だが、考えてみれば社会といい、経済といっても、それはともに近代の産物なのだから、この言い方自体が矛盾をはらんでいるといえなくもない。それでも近代の経済を知るためには、その始原にさかのぼってみなくてはならないと考えたところに、この本のユニークさがある。
 全体は3部に分かれている。第1部が「社会における経済の位置」、第2部が「市場経済の三要素」、第3部が「古代ギリシアにおける交易・市場・貨幣」となっている。
 本文にはいる前に、「はしがき」と「序文」を読むことにしよう。
「はしがき」で、ポランニーは、一般経済史を念頭において、「あらゆる類型の諸社会に適用できる交易、貨幣、市場制度の概念」を展開してみたいと書いている。つまり、どの歴史社会にも、それぞれ異なった交易や貨幣、市場といった制度があるのだが、それを頭に置きながら、まず始原をたどることによって、現代経済学の理解とは異なる根本的な経済概念に到達してみたいというのである。
 古代にさかのぼるにつれて、現代経済学の需要、供給、価格といった理論の枠組みは役に立たなくなる、とポランニーは述べている。交易や貨幣は古代から存在するが、価格形成市場は近代にいたって発明された制度にすぎない。
 バビロニアには豊かな商業文明が発達していた。エジプトやアッシリア、アテネもそうである。紀元前、カッパドキアには、多くの交易植民都市が発展していた。だが、その商業文明は現代とは大きく異なっていた。

 交易、貨幣、市場といった制度の始原をさぐることをポランニーはめざしていた。とはいえ、その学問的研究は、現代の危機とも無縁ではないと書いている。
 ポランニーはふたつの世界大戦を経験している。恐慌があり戦争があり、国際秩序がつくりなおされた。いまは経済以上に、自由と平和をいかに維持するかが大きな課題となっている。そのなかで、一見疎遠な問題を扱う経済史家がはたしてどのような役割をはたせるのか、とポランニーは自問している。
人が生活する以上、どの社会にも経済的な部分が存在する。政治や宗教、文化が大きく変わると、経済も大きな影響を受ける。だが、たとえそうだとしても、経済そのものがなくなることはありえない。
 いま西欧文明では、市場社会があたりまえになっている。人間の日常活動は利得動機と競争的態度によって形づくられ、功利主義的な価値尺度によって評価される。それこそが「経済」だと思われている。だが、「本質的なものとみえているのは、人間経済全体の不変的で永続的な姿ではなく、一時的で偶然的な姿にすぎない」とポランニーはいう。現在の市場システムは19世紀になってからつくられた制度にすぎないのだ。
 気をつけなくてはならないのは、スローガン化された歴史の解釈におちいらないことだ。経済史を偏重しないこと、貨幣信仰に陥らないこと、技術的進歩を絶対視しないことがだいじだ。そのいっぽうで機械文明を否定するあまりに原始主義に逆戻りしないこと、進歩の不可逆的性格に目をつむらないことも忘れてはならない、とポランニーはいう。
 19世紀は機械の時代と市場システムをもたらした。それ以前は狩猟採集社会と農耕社会があるのみである。機械文明はこれから長くつづくと予想される。人類がこれからも生きていくとするならば、われわれは機械とともに生きていくことを学ばなければならない、とポランニーはいう。
機械は新しい文明をつくりだした。それによって、人間にはこれまでにない「物理的、精神的な力」が与えられ、交通の範囲も拡大して、新たな人間相互の関係が生まれた。
 18世紀末に、機械文明の始まりを予想していた人はほとんどいなかった。だが、「頑固な現実主義者よりも天真爛漫な予言者のほうがより真実に近いところにいた」のだ、とポランニーはいう。
 新しい世界が旧世界をのみこもうとしているのを最初に見てとった人物として、ポランニーはロバート・オーウェンやフーリエ、サンシモンらの名前を挙げている。新たな経済生活、異性間の関係、娯楽や服装、信仰が生まれようとしていた。
 19世紀はじめの数十年において、機械文明は自己調整的市場システムを生みだした。それは、すべての世代に悲痛な苦しみをもたらした。だが、それは同時にすさまじい成功をもたらした。
 無制御な市場の力が、多くの人びとに失業や将来への不安を味わわせたのはたしかである。そのため機械文明による経済発展のめざましい恩恵を受けながらも、社会は自己防衛に立ち上がらないわけにはいかなかった。
 機械文明のつくりだした市場社会が、人のくらしを変え、さまざまな恩恵をもたらしたのは事実である。しかし、いまも、機械文明──その典型が核兵器だが──が「あらゆる者の自由と生存」をおびやかす力をもっていることを忘れてはならない、とポランニーは警告する。
 ここで、ポランニーはふたたび古代の交易、貨幣、市場に立ち戻る。
 現在では市場が需要と供給を自己調整し、それに貨幣や交易が手段としてかかわるという図式がえがかれるが、古代にはそうした市場社会は成立していない。
 たとえば、価格は慣習ないし権威によって、あらかじめ設定され、それが変更されるときには、ふたたび制度によって行われる。
さらに、

〈対外交易はたいてい国内交易に先行し、交換手段としての貨幣は対外交易の領域に始まるものであった。そして組織化された市場は最初に対外交易において発展させられたものであった。〉

 交易、貨幣、市場はそれぞれ別個に発生していた。しかも、先行したのは対外交易だった。ポランニーはいう。「最も遠距離の交易は一般により短距離のものに先行したのであって、それはちょうど最も遠方の植民地が最初につくられたのと同じである」
 われわれはまた、経済は自然経済、貨幣経済、信用経済の順に進化すると思っているが、それもまたまちがいだとポランニーはいう。貨幣や信用は市場よりも先に発生したにもかかわらず、なぜか市場が生まれてから貨幣や信用が誕生したと信じられている。そこには「以前には結合していなかった諸要素からの非連続的な発展がある」のだ。
 そのことは本文で詳しく論じられることになるだろう。
「序文」の最後に、ポランニーはなかなかややこしいことを書いている。

〈それゆえ、理論的課題は、人間の暮らしを研究する学問を広大な制度論的かた歴史学的基礎の上に確立することである。用いられるべき方法は、思考と経験の相互依存によって与えられる。データによらないで構築された用語や定義は空虚である。他方、われわれのパースペクティヴによって再調整を受けていない事実の単なる寄せ集めは不毛である。この悪循環を断ち切るには、概念的探究と経験的探究とがあい携えておし進められなくてはならない。〉

 たしかに一定の方法のもとで、人間の暮らしの成り立ちがどのように移り変わっていったのかを歴史的かつ理論的にあきらかにすることは、容易な作業とは思えない。しかし、ポランニーはともかくも経済社会の発端に錨をおろそうとしたのである。

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