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ポランニー『人間の経済』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 第2部「市場経済の3要素──交易・貨幣・市場」を読む。
 ここでは、交易、貨幣、市場の起源が論じられる。この3つは同時に発生したと思われている。だが、そうではない、それらは、いずれも別個に発生したのだとポランニーはいう。
 対外交易が対内交易に先行したこと、交換手段としての貨幣が用いられたのは対外交易においてであったこと、組織化された市場が発展したのは最初に対外交易においてであったことをあきらかにしたのは、マックス・ウェーバーの業績だった。
 市場が存在しないのに、交易や貨幣が存在したと聞くと驚くかもしれないが、これはまぎれもない歴史的事実なのだ、とポランニーは論じる。

 まず交易の起源をたどってみよう。
 交易とは「その場では入手できない財を獲得する方法」である。日常生活からかけ離れたこうした活動では、「遠くから財を獲得、運搬することが重要」になってくる。「交易は狩猟や遠征、侵略などの組織的な集団活動に似ている」とポランニーはいう。
 共同体と共同体が出会うところで、財の交換がなされれば、それは交易となる。もちろん、当初から利潤などは考えられていない。交易にあたっては、何らかの儀礼が交わされねばならなかった。
 財はその場では得られないがゆえに、遠隔地からの財の獲得が重要になった。モンゴル人やアラビア人の場合は、侵略と交易が重なっている。ギリシア人やフェニキア人も、けっして平和的な交易ひと筋だったわけではない。
 大帝国は軍事力を背景に遠隔地交易を推進していた。織物や日用品などは近隣から取り入れていたが、金や奴隷、宝石、絹、毛皮、化粧品、装身具などの奢侈品は遠方からしか手に入らなかった。
 チンギスハンによる遊牧民の大帝国は、長大な交易ルートをつくりあげ、組織的な交易をおこなっていた。交易を補助し、隊商路の治安を守り、販路を確保するためには、軍事力が必要だった。駅逓制度がつくられ、輸入品量が拡大され、領域内の富が拡大された。あらゆる国籍の商人が交易路を行き来した。
 モンゴル人自身は積極的に交易に参加しなかった。中国で元が滅びると、草原に汗国が残され、徐々に衰退していく。そのあとをついだアラブ人の帝国では、さらに積極的な交易がおこなわれ、広範な商業構造がつくられていった。
 交易は古来、共同体の拡張や充足と結びついていたといえるだろう。

 交易活動で問われるのは、だれが何をどのように、両方向に運ぶかである。
 まず人の面でいうと、交易者には二種類ある。身分動機にもとづくのが仲買人であり、利潤動機にもとづくのが商人だ、とポランニーはいう。
 古代においては、主人や君主の命で交易をおこなう仲買人が主流だった。だが、ふたつの区分はしばしばあいまいになる。
 命じられた義務を果たしたあと、身分の低い仲買人が多少の余録を得たとしても、それは黙認されていた。
 交易者の地位は、場所や時代に応じて異なる。古代のメソポタミアやエジプトにおいては、首長や王、その属臣だけが交易の権利をもっていた。だが、とうぜん、そこからは多くの代理人が生まれてくる。
 紀元前7世紀以降の古代ギリシアになると、王や貴族の交易は姿を消す。古代アテネの政治家ソロンは商人と呼ばれ、大規模な対外交易事業にあたっていた。だが、それは例外である。アテネには、食料を小売りする商人と、船で交易する居留外国人がいたが、ともに下層階級だった。
 西洋で市民と呼ばれる商業的中間階級が生まれたのは、近世になってからである。古代には、こうした中間階級はいない。交易者は王や政府に結びついたごく少数の大商人を除いて、ほとんどが下層の仕事をしていた。
 古代メソポタミアにはタムカルムと呼ばれる下層の交易者がいた。かれらは王や寺院の任命によって仲買人となった。隊商を組み、情報を収集し、売買交渉や遠隔地交易をおこなうのが仕事である。その身分は保証され、宮廷や寺院から収入が与えられた。東洋とアフリカの大文明で、商業生活をリードしていたのは、こうしたタムカルムだった、とポランニーはいう。
 アテネで交易をおこなっていたのは居留外国人であり、その身分は低かった。こうした居留外国人は、海外の共同体から離れざるを得なかった人びとで、商売をしてくらしていた。そのなかには小さな船をもったり、小さな食料店を開いたり、両替や金貸しをしている者もいた。だが、当局による規制は厳しかった。
 ポランニーはこう書いている。

〈その生活はまったく単調な骨折り仕事の連続であった。いまわしいほど苦しい海の生活にさらされる激しい肉体労働の日々であった。しかも、その報酬に富を得ることも期待できなかった。土地や家を持つことは禁じられていたし、抵当権も持てなかった。その結果として、財産たるべきものは何も持てなかったのである。〉

 さらに、インダス川流域からジブラルタル海峡にいたるまで、受動的交易を担う外国人の群れが存在した。かれらはストレンジャーであって、けっして当該共同体に所属せず、外国人居住者という中間的な身分にも甘んじなかった。「完全に疎遠な別個の共同体の成員」だった。
 専門的な交易者が現れるのは、古代になってからである。交易によって生活を立てる種族もでてくる。これをポランニーは「大衆的交易者」と呼んでいる。その例と挙げられているのが、海ではフェニキア人、ロードス人、西ヴァイキング、砂漠ではベドウィン族、トゥアレグ族、川では東ヴァイキング、ケデ族(ニジェール川)などである。
 アフリカにも定期的に交易をおこなうさまざまな種族がいた。すでにアルメニア人やユダヤ人も歴史に登場している。

 次に交易の財をみておこう。
 遠方から財を獲得し運搬するには、その緊急性や運搬の難易度も考慮されなければならない。こうした交易は非継続的な事業になることが多く、ローマでもその都度、協同事業組織がつくられていた。
 それぞれの交易がそれぞれの苦難をともなった。奴隷や家畜の輸送、石や木材の輸送にしても、その都度、運搬手段と人手の調達を必要とした。
 輸入があれば、とうぜん輸出も必要となる。それでなければ交易は成り立たない。
ロシアのキエフ公国は、国内から毛皮や亜麻、蜂蜜を集めて輸出し、ビザンティンの高価な絹やラシャ、宝石などを輸入していた。いっぽうローマでは、属州から食料品や必需品が集められ、これにたいし代価は支払われなかった。
 輸送がどのようにおこなわれるかも大問題だった。
 現在の市場社会では、輸送は単なるコストとみなされる。しかし、歴史を知るためには、かつての運搬経路や運搬手段、運搬態様、交易組織などがどうであったかをしっかり把握せねばならない、とポランニーはいう。
 陸路でも海路でも、盗賊や海賊の危険性があった。そのため古代帝国では通商路の保全が、国家の大きな課題となった。エジプトでも中国でも、輸送路は河川を中心に組み立てられていた。いっぽう、モンゴルやアラブなどの遊牧民は、大陸間の隊商路に沿って帝国を拡大した。
 隊商は帝国以前から存在した。それは公的権力によって編成され、武装されていた。しかし、のちの時代になると、独立した隊商があちこちを交易して歩くようになる。アフリカでは奴隷輸送カヌーが河川を漕ぎ回った。
 隊商は軍隊でもあった。インドのムガール帝国では、デリーのバザールの商人たちが、毎年、軍隊とともに夏季の大遠征をおこなっていた。
 共同体は、その場所で入手できない品物を獲得するために、狩猟や遠征、侵略をおこなった。そこでは財の移動は一方向だった。これにたいし、交易は平和的な二方向の活動となる。
 そのひとつの例が、クラ交易にみられるような贈与交易である。次に登場するのが管理交易である。そこでは政治的に承認された組織どうしの交易がおこなわれる。こうした組織は、輸入財を分配するとともに、輸出財を徴集しなければならない。そのためには、保管や管理も必要になった。あらかじめ等価物を規定することも求められた。交易場所も定められるようになる。
 市場交易が登場するのは、比較的近代になってからである。交易の当事者は交換そのものによって結びつき、交換可能な財はそれこそ無限に広がる。経済史においては、いついかにして対外的な交易が市場に結びつくようになったかを解明することが最大の問題だ、とポランニーは述べている。

 つづいて、貨幣の問題をみていくことにしょう。
 貨幣の機能として挙げられるのは、支払手段、計算手段(価値尺度)、富の蓄積手段、交換手段などである。しかし、貨幣のこうした機能が全面的に登場するのは、近代にいたってからで、初期的な社会では全目的の貨幣はない、とポランニーは断言する。貨幣は特定目的にしか用いられていなかったのだ。
 条件が適合すれば、どのような物も貨幣として用いることができた。貝殻や羽毛、羊、大麦なども、貨幣の役割を果たしていた。無文字社会でも、計算の工夫は求められていたから、計算しやすいものが貨幣に選ばれた。
 たとえば、ある地域では、大きな富をはかる価値尺度には奴隷が、ちいさなものをはかる価値尺度には子安貝が用いられた。外国との交易には貴金属が使われた。奴隷や子安貝や貴金属は、貨幣代替物だったといえるだろう。だが、こうした貨幣代替物は、現在の貨幣のような全目的性をもっていなかった。
 市場のない初期社会では、基本的に売買関係がないので、現在、貨幣のもっとも重要な機能とされる交換手段として貨幣が用いられることはなかった、とポランニーはいう。
 しかし、支払手段としての貨幣は存在した。支払いとは、一般に責務(あるいは債務)を返済することをいう。初期社会では、神や支配者による保護にたいし支払いがなされねばならなかった。共同体の掟に背いた場合も、支払いが課せられた。それは死を含む刑罰や償いのかたちをとることもあったが、状況に応じて、貨幣で支払われることもあった。その貨幣は、犠牲の動物や奴隷、貝、食糧などのかたちをとった。
 蓄蔵手段としての貨幣も、もともとは支払いに備えることが目的だった。その支払いというのも経済的な支払いというより、むしろ宗教的・政治的理由によるものだった。貯えられた食糧や家畜、財宝は貨幣として機能した。
 しかし、交換されるにせよ、貯蔵されるにせよ、それを効率的におこなうには計量や尺度が必要になってくる。古代バビロニアではそのための銀貨シェクルがつくられ、たとえば戦車は100シェクル、雄牛は30シェクルなどで取引された。しかし、戦車や雄牛は市場に出された商品ではなく、銀貨が支払われたのは、あくまでも代償としてだった。
 ポランニーはこう書いている。

〈原始社会およびアルカイックな社会のデータが明らかにすることは、貨幣の交換手段としての用法が、他の貨幣用法を生じたとは言い切れないということである。逆に、支払、蓄蔵、計算手段としての用法は、それぞれ独自の起源をもち、相互に独立して制度化されたのであった。〉

 部族社会や古代国家においては、貨幣は商品の交換手段として利用されたわけではないという指摘は重要である。
 古代ギリシアでは紀元前5、6世紀に貨幣鋳造が開始されるが、市場が発展するのはだいぶたってからで、古代国家の経済はあくまでも再分配を基本としていた
 ポランニーはさらに次のように要約している。

〈交換は、原則として、組織化された交易や市場の枠内で発達するものである。その枠外では、間接的交換〔言い換えれば貨幣を媒介とした交換〕はほんのたまにしか起きない。だから、貨幣の交換手段としての用法は、完全に原始的な状態のなかではほとんど何の重要性ももたない。シュメールやバビロニア、アッシリア、ヒッタイト、あるいはエジプトのような、高度に組み立てられたアルカイックな社会でさえも、貯蔵が経済的に普遍的だった。価値尺度としての貨幣の使用は大規模に見られたにもかかわらず、間接的交換に貨幣が用いられることはほとんどなかった。ギリシア世界がまだ貧しくなかば野蛮だったくせに、たくさんの美しい鋳貨をつくっていたその時期に、バビロニアやエジプトの大文明には鋳貨がまったくなかったということは、このことから説明されるだろう。〉

 ここから言えることは何か。
 交換手段として広く貨幣が用いられるのは、ずっとあとに市場が発展してからだということである。にもかかわらず、金属のかたちをとるにせよ、大麦や貝殻、羽毛などの代替貨幣のかたちをとるにせよ、部族社会の段階から人類は貨幣を必要としていた。これは商品から貨幣が生まれたという経済学の通説とは異なる。商品がなくとも、いやむしろ商品に先行して、貨幣が存在したことを意味している。
 言い換えれば、貨幣とは将来の生存を担保しうる用具にほかならなかった。商品世界が日常化するのは19世紀にはいってからである。しかし、貨幣代替物を含む貨幣の発明こそが、人類社会を永続化させる工夫につながっていたといえる。
 ポランニーがいいたかったのは、そんなことではないか。

 最後にポランニーは、市場の起源にふれている。
 初期の社会でも交易や貨幣は存在した。市場が誕生するのは、もっとあとの時代である。とはいえ、市場の起源をたどるのはむずかしい、とポランニーは書いている。それは現れたり消えたりするからである。
 まず市場を場所としてとらえるか、それともメカニズムとしてとらえるかの問題がある。場所としての市場が誕生するのは、需要・供給メカニズムとしての市場よりも、ずっと前である。社会全体をおおう市場経済システムが生まれるのは19世紀になってからだといってよい。
 市場が三千年にわたって次第に発達を遂げてきたとみるのはまちがいだ、とポランニーはいう。初期社会の市場は、現在の経済メカニズムとしての市場とは、まったく似ても似つかぬものだ。
 市場は、財の集まる場所、財を供給する人、財を求める人、慣習や法、取引があって、はじめて成立する。
 市場には多様な起源があるが、大きくわければ外的な起源と内的な起源にわかれる、とポランニーは考えている。
 外的な起源は共同体の外部からの財の獲得に関係する。内的な起源は内部での食糧の分配に関係する。
 対外交易は市場に先行していた。メソポタミアではタムカルムという身分があり、かれらは仲買人や代理人、管財人、旅商人、銀行家、奴隷取扱官、徴税吏、王室の財政執事などとして、国家のもとで働いていた。メソポタミアに市場がなかったことを理解すれば、かれらを民間の商人と理解するのはまちがいだ、とポランニーはいう。それでも、かれらは外部世界との交易にあたっていたのだ。
 タムカルムは独自の身分を与えられ、公的権威に命じられて行動している。メソポタミアにかぎらず、古代社会では、こうした人びとが古代社会では数多くみられたのだ。こうした対外交易が内部化して、市場交易となるには長い時間を要した。それを促したのは、土地と労働の商品化だ、とポランニーはいう。
 しかし、共同体内部に内的な市場がなかったわけではない。
 有名なのは古代ギリシアやローマのアゴラ型地域市場である。アテネのアゴラは、民衆に食物を供給する場所であり、ここでは牛乳や卵、野菜、魚、肉が売られていた。だいたいが調理済みだったという。
こうした品物は近隣から運ばれ、貧しい労働者や旅行者がそれを求めた。富裕な住民がこうした地域市場に来ることはなかった。
 ギリシアの植民地、小アジアなどで、市場の形成を推進したのは、スパルタ人やアテネ人に率いられていたギリシアの傭兵だった。
 軍隊と市場は密接に結びついている、とポランニーはいう。ひとつは戦利品(財宝、家畜、奴隷)の処分、もうひとつは軍隊への補給が、貨幣と市場の必要性を促した。
 スパルタ人は、獲得した奴隷をすぐに近隣のエンポリウム(交易地)に送り、売却するのが通例だった。アテネ人は遠征にあたって、食糧を地域住民ないし従軍商人から買い入れていた。
 軍の移動にあたっては、兵站が大きな問題となったことはいうまでもない。
 ポランニーはこう書いている。

〈市場は時に応じて、城門の内へも外へも移動する。また海岸に沿って移動することもある。市場には特定の軍隊が入ることを許可されたり、拒否されたりする。また市場は一定の期間開かれる。とくに興味あることは、交易が始められる前には必ず外交交渉が行なわれることである。〉

 市場は常設されているわけでも、場所が決まっているわけでもなかった。それは移動するものだった。
 さらに軍とは別に、ポランニーはシュメールやメソポタミアなどの古代灌漑帝国に見られた城門に注目している。税と支払いは、こうした門でおこなわれ、労働者や兵士への配給もここでおこなわれた。しかし、その広場では、アテネのアゴラのような食糧市場はつくられなかった。
 バザールはもともと食糧市場ではなく、職人のつくった製造品を扱う市場として発達し、城壁で取り囲まれた町の裏道に置かれていた。品物に値段はつけられていなかった。そして、このバザールはのちにイスラム商人の影響を受けて、食糧市場ともなり、外国商品の販売もおこなうようになる。
 ここで、ポランニーがあきらかにしようとしたのは、歴史的にみれば、市場よりも貨幣が先行したこと、貨幣は商品以前に存在したことである。
 その発見は経済学の認識にも大きな衝撃を与えた。

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