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宮崎市定『中国史』を読む(1) [歴史]

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 いまは岩波文庫にはいっているが、ぼくがもっているのは、出版されたばかりのオリジナル本である。1977〜78年に岩波全書として刊行されたときに買ったのだが、ときどきパラパラめくったものの、以来、ほとんど本棚に眠っていた。これを読まずに死ぬのは惜しい。
 閑人の特権で、ゆっくり読むことにしたい。これとは別に陳舜臣の『中国の歴史』(平凡社版)ももっているから、このさい、あわせ読みして、長年の本棚のほこりを払うとしますか。そう意気込んではみるが、最近は本を読みはじめると、たちまちコックリさんになってしまうのは困ったものである。
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 各篇は「総論」「古代史」「中世史」「近世史」「最近世史」からなる。本書は中国の全体像に挑んだ宮崎史学のダイジェストでもあり、総集編でもあるといえるだろう。
 まず「総論」を読もう。いうまでもなく中国の歴史は長い。その長い歴史を鷲づかみにする方法を最初に示しておかなければ、深い森のなかで、たちまち迷ってしまうことを宮崎も承知している。
 歴史のとらえ方は人さまざまで、事実は変わらないにしても、だれが書いても同じになるわけではない。それでも重要なのは事実である。
 ひとつの事件にも無数の原因があり、事件がおこるまでの長い時間がある。それを見きわめることが、歴史家に課された仕事といえる。
「人類の最古の文明は西アジアのシリア周辺に発生し、それが西に伝わってヨーロッパの文明となり、東に向ってインド、中国の文明になった」と、宮崎史学は出だしからスケールが大きい。その距離を超えるには、めっぽう長い時間を要した。「歴史学とは時に関する研究だと言うことができる」。
 宮崎が強調するのは、歴史学はどこまでも「事実の論理の学問」だということである。抽象語が独り歩きする危険性に注意しなくてはならない。事実と事実をつなげて網の目をつくっていくことこそが歴史学の課題だという宮崎の信念は揺らがなかった。
 専門バカになってはいけない。歴史家は少なくとも、自分が歴史の座標のどのあたりを研究しているかを自覚しておかなくてはならない。そのためには歴史の座標全体を思いえがく必要があると宮崎は考えていた。
 宮崎は歴史のチャートをつくる。空間的には東洋、西アジア、ヨーロッパ、時間的には古代、中世、近世、最近世(現代)のチャートである。地域によって、中世、近世、最近世などのはじまる年代がことなるとするのが、この歴史チャートのユニークなところである。
 詳しくは説明しないが、そのチャートをみれば、たとえばヨーロッパでは産業革命によって最近世が早くはじまったのにたいし、東洋の最近世はヨーロッパより、かなり遅れたことが理解できる。
 日本と中国とでは、時代区分に大きなずれがある。中国が隋唐の中世を迎えていたころ、日本はまだ古代を経験していた。最近世のはじまりは、日本のほうが中国より早い。
 人類のたどったすべての歴史をたどるのは不可能である。世界史に関連すると思われるテーマをみずからが選ぶほかあるまい、と宮崎は書いている。
 めまぐるしく現代世界が動くなかで、古い過去の歴史を整理することに何の意味があるのかという問いにたいしては、「過去を整理しておかなければ、明日の生活に支障を来すことになる」と答えている。
 人生の選択はむずかしいものだが、歴史学でもそれは同じだ。「あまり多くの記憶が頭の中を占領していると思考力が衰える」という考え方がじつにおもしろい。最近、なにごとにつけ名前がでてこないぼくにとっても、はげみになる。
 学問をするにあたっては、あまり流行を追わず、「細く長く続き得る勉強の方法を選ぶがよい」というのは、貴重なアドバイスだと思える。
 歴史学を学ぶうえでは、派閥的なグループに属さず、精神の自由を保ちながら、できるだけ中立を保つほうがいい。歴史家は筆を曲げてはならぬという最小限の覚悟をもつべきだという意見も納得できる。

 さて、いよいよ本体である。
 宮崎はほぼ内藤湖南の学説にしたがって、中国の歴史を古代、中世、近世、最近世の4つに区分している。

(1)古代=上古から後漢末まで
(2)中世=三国時代から五代末まで
(3)近世=北宋から清末まで
(4)最近世=中華民国以後

 まず時代区分ごとの概説。最初は古代だ。
(1)古代
 太古の人類は群れを成して生活していた。それが進化すると家族のような小さな単位が生じ、家族が集合した氏族や部族が発生する。この部族が都市国家を形成するようになる。
 古代の都市国家は農民の集まった城郭都市であり、周囲に城郭をめぐらして、人びとはそのなかに住み、農民は毎日、城郭外の耕地で働き、夕暮れには城郭内の家に戻っていた。
 都市国家はいくつもあり、それぞれが独立していた。やがて武力衝突が発生すると、勝者と敗者が生じ、支配被支配関係が生まれる。それにより敗者は勝者に吸収されて、大きな都市国家が生まれる。あるいは存続を認められた敗者が小さな都市国家を維持したまま、勝者に隷属することもある。
 時代が下ると、覇者どうしによる覇権争いがはじまる。中国では春秋時代(紀元前8世紀〜前5世紀)がそれにあたる。
 強大な都市国家はやがて領土国家へと成長する。全領土を支配する国王が登場し、都がつくられる。戦国時代(前5世紀〜前221)がはじまり、七雄が覇権を争う。
 秦の始皇帝が他の6国を併合し、古代帝国が生まれる。秦(前221〜206)につづき、漢(前206〜紀元8、25〜220)が帝国を継承する。
 帝国の出現によって、広大な国土人民のうえにはじめて平和がもたらされた。だが、その平和は「専制君主が掌握する軍事力という、極めて野蛮な実力の行使によって達成されたもの」だった。
 宮崎は帝国の出現をもたらしたのは、経済の発展だという。

〈古代の中国において、一方には着実な技術の進歩があり、他方には資源の開発、商業の拡大が行われた。地下の銅鉱が探索されて、銅銭が鋳造され、その存在高は徐々に増加して行く。これと同時に商人は黄金を求めて、周囲の異民族の間に進出して中国製品、絹や工芸品を売り広める。造れば造るそばから売れるという、好ましい経済状況が現われてきた。これがさらに技術の進歩、資源の開発を促すことになるのである。〉

 戦争は時に経済の発達を妨害し、時にそれを促進した。戦国時代の終わりに、秦が楚を滅ぼしたとき、秦は60万の兵力を動かしたという。それが可能になるためには、よほどの経済力がなくてはならなかった。
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[秦時代の銅鈁(どうほう)。酒を入れる生活用品。陳舜臣『中国の歴史』の写真から]

 春秋戦国時代を通じて、大きな都市には「市」という商業区域が設けられ、商品の取引がおこなわれていた。
 銅山を経営し、奴隷を集めて銅の精練鋳造にあたる商人もあらわれた。「他人の不幸に乗じて私利を計る、いわゆる死の商人も古代から存在していた」
 経済力を利用して、政界に進出する者もでてくる。その一人、呂不韋(りょふい)は、秦の丞相となり国政を左右した。
「古代の頂点を形成する秦漢帝国は、繁栄した経済を地盤として、富強を誇った」と、宮崎は評している。
 まだ概説がはじまったばかりだ。つづいて中世以下の概説がある。ひまだから、のんびり読みましょう。

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