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古代史(1)──宮崎市定『中国史』を読む(3) [歴史]

 古代史でむずかしいのは、史実を確定することだ、と宮崎は書いている。伝説はあるが、それを史実とするわけにはいかない。
 最初の王朝とされる夏王朝が実在したかどうかもわからない。その都は、現在の山西省西南端、安邑にあったとされる。ここには塩池があり、塩がつくられていたから、繁栄する都市国家があったとしてもおかしくないのだが、と論じるにとどめている。
 殷からは実在の王朝だ。その都、商邑は現在の安陽市[河南省北部]付近にあった。
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[殷墟。陳舜臣『中国の歴史』から]
 この時代の資料として甲骨文字がある。だが、はたしてどこまで歴史資料として扱えるかは疑わしい。殷代には青銅器の武器や容器もつくられていた。その源は西アジアにある、と宮崎はいう。
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[甲骨文字。同]
 殷周革命があったのは、おそらく事実である。
 殷の28代目、紂(ちゅう)王は、妲己(だっき)を寵愛するあまりに、国がみだれたとされる。そのため、周の武王は商邑を落とし、紂を殺した。それ以降、周の時代がはじまった。
 紂の説話はあとからつくられた物語だ、と宮崎はみる。おそらく事実は、西方におこった周が、異民族の圧迫を受けて、東の平野に押し出され、先進国の殷を滅ぼしたのだ。宮崎によれば、それは紀元前770年ごろのことである。
 武王は殷を滅ぼしたあと、弟の周公を魯に、召公を燕に封じて、東と北の国境を守らせ、さらに弟の康叔を衛に、子の成王の弟、唐叔を唐に封じたとされる。封建のはじまりである。
 しかし、宮崎はこの系図を疑う。当時の同盟関係を親戚関係としてあらわしたものではないかという。
 春秋時代以前のことは、はっきりとはわからない。史実が描かれるのは、魯の隠公の元年(前722)以降だという。
 このころ都市国家は王のもと、軍と宰相を有し、官僚を整え、庶民、奴隷(戦争捕虜)を従えていた。
 国家の人材の教育にあたったのが孔子である。孔子がもっとも重視したのが礼にほかならない。礼とは、元来神を祭る儀式を意味した。それが、次第に交際上の作法や有職故実の実践学にまで拡張されていく。
 孔子は詩と書も重視した。さらに実用の学に加えて、人生の理想を説いた。
 宮崎は、孔子がもっとも力説したのは忠よりも、むしろ信だと論じる。 だが、孔子は後世、権力者たちによって都合よく解釈され、利用されてきたのだという。
「いわゆる春秋時代の初めには、河南省を中心とした黄河の平野一帯、いわゆる中原の地に、数十の有力な都市国家が並立していた」と、宮崎は記している。
 このころ洛邑の周はすでに力を失っていた。魯は一時、強大だったが、次第に力を失い、それに代わって、北方の斉が桓公の時代に勢いを増した。ついで、晋の文公、楚の荘王、呉の夫差、越の勾践が覇を唱えた。これを春秋五覇という。
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[春秋時代の地図。「世界の歴史まっぷ」から]
 春秋の五覇は、いずれも周とは民族を異にしていた、と宮崎は書いている。新興国の斉は塩の製造によって強大となった。晋は北方の遊牧民族から家畜を移入し、それを転売することで富を築いた。楚はインドシナのモン族の系統、呉と越はともに海洋民族だったという。
 春秋時代においては、かつて中原に存在した都市国家文化が、異民族の五覇によって領土国家へとのみこまれていった、と宮崎は論じる。

 戦国時代のはじまりは、当時の強国、晋が韓・魏・趙に分裂した前403年とされる。孔子による『春秋』の年代記は前481年に終わるから、そのかん、記録に空白がある。いずれにせよ、戦国時代は秦の始皇帝が中国を統一する前221年までつづいた。
 晋が強国だったのは、塩池をもち、北方に牧畜に適する原野を控え、南方に武器製造所をもっていたからである。その常備軍は次第に王室のもとを離れ、世襲の将軍のもとに帰するようになり、そこから、晋はそれぞれの将軍の名をもつ韓・魏・趙の3つに分裂した。
 斉は大臣が権力を奪い、軍事国家に変身した。南方では楚が呉越の2国を併合した。そこに西方の秦が登場する(現在の陝西省)。さらに、北方の燕が勢力を強めた。
これが戦国七雄である。
 どの国の王も専制君主であり、常備軍を擁していた。戦国時代、かつての都市国家は独立性を失い、領土国家に包摂された。そこに国境という観念が生じ、境界線に長城が築かれることになる。
 領土内では、さまざまな分化が生じる。都と市が区別される。都は軍隊と官僚をかかえ、農民も住んでいる。農民は郊外の畑で生鮮食料をつくる仕事をし、穀物は領土内の各地から運ばれていた。必要な物資を集めて売る商人もいた。
 商人がいたのは都だけではない。大きな都市には交易のための商業区域があり、政府から許可を得た商人が売買に従事していた。商人は賤業とみなされた。だが、その背後には大資本家がいて、大きな富を築いていた。
 宮崎によれば、春秋時代はまだ自然経済の状態で、穀物や絹帛(けんぱく)[絹の布]が貨幣代わりに用いられていたという。

〈黄金及び青銅貨が盛んに用いられるようになるのは戦国時代であり、燕・魏の地方では刀とよばれる小刀形の青銅貨が、趙・魏の地方では布とよばれる鍬先形の青銅貨が鋳造使用された。これらは少額の取引に用いられるもので、巨額の決済には黄金が用いられた。〉

 商人は黄金を求めて、隊商をつくり、未開民族のあいだに進入していった。豊富な黄金は中国に好景気をもたらした。
 大都会の市でおこなわれていたのは、単なる売買だけではない。ここでは酒や食物も売られ、交際・娯楽の場としてもにぎわっていた。
 宮崎にいわせれば、中国古代の市はさながら古代ギリシアのアゴラ、ローマのフォルムに比すべきものだった。ただ、政治的談論の場でなかった点が異なっていた。
 戦国時代は政治の裏づけとなる理論が求められるようになり、諸子百家と呼ばれる学者たちが登場した時代でもある。
 墨子は夏の禹王を理想の聖人とあがめ、自他を区別せぬ兼愛を説いた。戦争は防戦の場合にのみ認められるべきであり、すべての人民が平和に生存することを鬼神[祖先と天地の霊]も願っていると論じた。
 儒家の孟子は墨子に反撃し、儒教こそ徳を重んじる堯舜の道だと論じた。兼愛は親に孝を尽くす自然の愛情にそむくものだとも批判した。
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[孟子。ウィキペディアより]
 老子は若い孔子に教えを垂れたとされるが、宮崎は老子は孟子よりもあとの思想だと判断する。その思想は個人主義だが、楊朱のような快楽主義ではなく、快楽を超越すべきことを説く。儒教のいう礼節を超越して、精神の自由を獲得することを理想とした。
 兵家としては、孫子、呉子が登場した。
 荀子は同じ儒家でも孟子の性善説にたいし性悪説を唱えた。悪行におちいりやすい人間が誤りない道を歩むには、礼制を学ぶほかないというわけである。その学説をまとめたのが『礼記』であり、そのうちの一篇が『中庸』だった。
 礼は強制力をもたない。それなら礼に背いた者を罰したほうが有効だという考えが生まれた。それを唱えたのが、李斯や韓非子のような法家である。

「太古に万国あったと称せられる独立の邑が、春秋時代に入って数十の都市国家の並立となり、それが戦国に入るといわゆる七雄に整理されてしまったが、これは戦争による弱肉強食の結果、強者が勝ち残った結果に外ならない」と、宮崎は書いている。
 最後に一国が勝利し、天下が統一されるまで進むのが、事の成り行きだった。
 戦国のはじめ、もっとも富強を誇っていたのは魏である。しかし、魏は周囲を敵国に囲まれており、周辺諸国と戦ううちに、勢力を弱めていった。
 その隙をぬって台頭した秦が魏の塩池を狙っていた。それを防ぐために他の6国は合従(がっしょう)した。いっぽう、この同盟を分断するために、秦は連衡(れんこう)策をとった。合従連衡の外交的駆け引きがくり広げられた。
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[戦国時代の地図。「世界の歴史まっぷ」から]
 戦国の状況を一変させたのは、鉄器と騎馬だ、と宮崎が書いている。鋭い兵器と機動力が敵に殲滅的な打撃を与えたのである。
 騎馬戦術が東アジアの遊牧民族のあいだに流行するようになったのは、旧来の騎馬戦術に磨きをかけたアレクサンドロス大王による東征の影響が大きいという宮崎説は、なかなかユニークである。
 戦国時代の終わり、秦は趙から騎馬戦術を盗み取り、それを最大限に活用した。前286年に魏から旧都安邑と塩池を奪い取ると、秦の国力はますます強大になっていった。
 秦の昭襄王は前251年に亡くなり、孝文王、荘襄王についで、前246年に秦政が即位する。政は在位37年のうちに6国を滅ぼして、前221年に中国を統一、みずから始皇帝と名乗ることになる。
 こうして、皇帝政治がはじまる。

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