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近世史(4)明──宮崎市定『中国史』を読む(10) [歴史]

 宮崎によれば、明(1368〜1644)の歴史は宋(960〜1279)の歴史のくり返しのように思えて、一見おもしろみに欠けるが、それなりに味わいがあるという。
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[15世紀の地図。「世界の歴史まっぷ」から]
 明は植民地をもたない民族国家であることをめざし、対外的には鎖国主義と朝貢貿易制度を基本としていた。
 明の太祖(朱元璋)は顧問として儒臣を用いたものの、儒臣よりは事務官、事務官よりも武官を重視した。宋とのちがいは、天子が簡単に大臣を殺す恐怖政治が敷かれたことである。あまりにも残酷な皇帝独裁主義がきわだっている。
 太祖(洪武帝)は独裁を確立するにあたって、これまで行動を共にしてきた開国の功臣たちを次々粛清した。天子暗殺の疑いをかけられて殺された者の数はかぎりない。「言わば中国のスターリンであった」と宮崎はいう。
 なお、明からは一世一代となるので、皇帝はしばしば年号によっても呼ばれることを追記しておこう。日本が一世一代制を制定したのは、明治にはいってからである。
 太祖は在位31年、皇太孫の将来を案じながら、孤独のうちに病死した(1398年)。跡を継いだ建文帝はいかにも弱体だったが、みずからの権威を示すために、諸藩のとりつぶしに着手した。こうした藩には、太祖の25人の息子が封じられていた。
 藩王のなかで、もっとも抜きん出ていたのが、北平(北京)の燕王、朱棣(しゅてい)である。建文帝が次々と藩王をとらえ、庶民に降格するのを見て、燕王は公然と反政府行動をおこした。燕王が一気に南下して、南京を攻略すると、建文帝はみずから宮殿に火を放って死んだ(1402年)。
 燕王は南京にはいって即位し、永楽帝(成祖)となった。永楽帝は永楽の年号とは裏腹に、父に劣らぬ大量殺戮を断行し、建文帝の側近や武将たちを、その一族を含め皆殺しにした。
 永楽帝は南京を都にしたが、しばしば北方の国境を襲うモンゴル民族と戦わないわけにはいかなかった。そのため、自然に南京を去って、北平に駐留することが多くなった。そこで北平を北京とあらため、やがてここを首都とし、南京を別都とすることにした(1421年)。
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[永楽帝。ウィキペディアより]
 モンゴルでは、はじめ元の後嗣をいただく北元の勢力が強かった。しかし、永楽帝のころ北元は衰え、東モンゴルの勢力が強くなっていた。明ではこれを韃靼(だったん、すなわちタタール)と呼んだ。永楽帝は遠征して韃靼を討ち、さらに西モンゴルのオイラートと戦うが、最後の遠征から帰る途中、65歳で病を得て死んだ(1424年)。
 永楽帝は南方に向かっても国是と異なる積極政策を取っていた。まずはベトナム(越南)の併合である。もうひとつは鄭和に命じておこなわせた前後7回にわたる大航海である。永楽帝はこれによって、南海諸国からの朝貢を求めたのだ。だが、永楽帝が亡くなると、こうした積極策は影をひそめ、ベトナムは独立をはたし、大航海も中止となる。
 明は鎖国主義に戻り、次第に停滞していく。
 永楽帝を継いだ子の仁宗(洪熙帝)は1年で病死し、孫の宣徳帝が即位した。在位10年にして帝位は曾孫の英宗(正統帝)に引き継がれる。
 明朝では天子専制が原則なのに、こんなありさまでは専制政治など思いもよらない。
 太祖の命令ですでに丞相は廃止されていた。そこで、天子の私設秘書というかたちで設けられていた内閣が大きな役割をはたすようになる。内閣の由来が天子の私設諮問機関だったというのは興味深い。
 内閣のもっとも重要な職務は上奏を下見し、天子が下すべき旨について案を立てることだった。天子はそれを見て、印をつけるだけで、その印をみて、近くに控える宦官が文書として書き写した。
 天子独裁がかたちだけのものになると、宦官が台頭するのは目にみえている。
「天子の政務の最も重要な、天子の政務決済の際に立会う機会を与えられたことが、やがて宦官が天子に代って実権を掌握する第一歩となったのであり、やがて無限の災禍を全人民の上に及ぼす結果を招いた」と、宮崎は書いている。
 宦官は太監と呼ばれるようになった。軍の目付や朝廷内の密偵のような仕事もまかせられ、政治を動かす影の存在へと変わっていく。
 明では天子独裁の原則が保たれていたので、宦官が天子の地位をおびやかすまでにはいたらなかった。天子があってこその宦官なのである。だが影の力は大きく、英宗の時代には、宦官の王振が政治に容喙して権力をふるった。
 当時、モンゴルの砂漠では東方の韃靼に代わって西方のオイラートが勢力を強め、しばしば国境を侵すようになっていた。
 1449年、英宗は王振の勧告により親征をおこなった。だが、戦況の悪いのを見て、戦闘を中止し、引き揚げる途中、北京の北100キロにある土木堡(どぼくほ)で敵軍の捕虜となり、砂漠に連行された。明の皇帝としては、あまりにもみっともない敗北だった。このとき王振は近衛の将校により撲殺されている。
 北京の朝廷は愕然となり、母太后は急ぎ英宗の弟、景帝を位につけ、于謙(うけん)を兵部尚書として防衛にあたらせた。
 英宗の時代には、もうひとつ王朝末期を思わせる現象が生じていた。江西で農民の鄧茂七(とうもしち)が叛乱をおこしていたのだ。中国では秘密結社による叛乱が多いなか、これは正真正銘の農民叛乱だった、と宮崎はいう。
 だが、明王朝はすぐには滅びなかった。まだ王朝としての力が残っていたのだ。英宗を捕虜にしたオイラートのエセンは、北京に攻め込んだが、防衛陣を突破できず、北に引き揚げた。そして、まもなく明と和議が結ばれ、英宗が幽囚から戻ってくる。
 英宗の帰還はやっかいな問題を引き起こした。すでに景帝が即位し、英宗は上皇の扱いになっていたからである。景帝が8年目に病死すると、上皇の英宗が復辟し、ふたたび皇帝となった。
 英宗は復辟すると、于謙をはじめ景帝の側近や官僚を殺害した。「明代ほど官僚が多く殺された時代は外にない」と宮崎はいう。しかし、その後の政治はともかくも安定した。
 次代、憲宗の23年は宦官の横暴や皇妃の専恣があったものの、大事にはいたらなかった。そのあとの孝宗(在位1488〜1505)は名君とされ、明はもっとも繁栄した時代を迎えた。だが、名君はつづかない。次の武宗は暗愚に近かった。それでも明が栄えていたのは、経済が好調だったからだ、と宮崎はいう。
 明代において、政治の中心が北京であるのにたいし、経済、文化の中心は江南の蘇州だった。度重なる政治的弾圧にもかかわらず、蘇州は立ち直り、全国最大の経済都市となった。
 穀物と絹織物が、江南デルタに位置する蘇州の繁栄を支え、そこに政治にかかわらない市隠の文人たちが暮らしている。そうした文人のひとりが祝允明(しゅくいんめい)だった。
 知行合一の学説を説く王陽明も登場する。「朱子学は禅でいえば、積重ねの修行によって悟りを開く曹洞の漸悟に似るが、陽明はむしろ精神の集注によって忽然と悟りを開く臨済の頓悟に通ずるものがある」と宮崎はいう。陽明学は江南一帯に広がった。
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[蘇州。ウィキペディアから]
 世宗の嘉靖年間(1522〜66)にはいると、世上がざわつき、経済にもかげりがみえてきた。
 世宗は武宗の子ではなく、孝宗の弟の子だった。武宗に嫡子がなかったため、傍系から皇帝に選ばれたが、即位直後から自身の父の呼び方をめぐって、朝廷では大論争が巻き起こった。はたから見れば、どうでもよいことなのだが、世宗が大臣や官僚の意見をしりぞけ、みずからの考えを貫いたところから、朝廷はぎくしゃくしはじめた。
 嘉靖年間は南倭北虜に苦しんだ時代といわれる。すなわち南の倭寇、北のモンゴル人である。
 鎖国政策のもと朝貢貿易しか認められないところに、密貿易が発達するのは自然の成り行きだった。浙江の寧波(ニンポー)に近い島には密貿易の拠点があった。中央政府はついにその弾圧に乗り出した。それに反抗し、暴動をおこしたのが倭寇だとされる。実際は、叛乱の主体は中国人で、日本人はそれに加勢したにすぎない、と宮崎はいう。
 騒ぎはなかなか収まらない。寧波の拠点が脅かされると、貿易業者は福建の厦門(アモイ)の沖に拠点を移した。明政府はこれを見つけ攻撃する。すると、密貿易者が反撃して、福建の沿岸一帯に倭寇の騒動が広がった。
 倭寇の乱により、けっきょく明は鎖国主義の緩和をはかり、世宗の子、穆宗(ぼくそう)のときに、厦門など漳州(しょうしゅう)の港を開き、中国人の海外渡航を許すとともに、外国人による自由な交易を認めることになった。これと前後して、ポルトガル人の澳門(マカオ)租借も認めている(1557年)。
 こうして倭寇の問題は解決された。解決できなかったのは北方民族との関係である。
モンゴルでは、西方のオイラートに代わり、ふたたび東方の韃靼(タタール)の勢いが強くなっていた。嘉靖年間にはチンギスハンの血統をひくアルタンハンが北方を脅かした。アルタンハンは青海を制し、チベットのダライ・ラマと組んで、ラマ教で国論を統一した。だが、それは結果的にはモンゴル民族の活力を消耗させ、東隣の満洲族の勃興を許すことになった、と宮崎はいう。
 穆宗(隆慶帝)の時代は6年と短く、そのあと47年にわたり、神宗(万暦帝)が中国を支配した。
 北ではアルタンハンが降り、南では倭寇がやみ、国は安泰したようにみえた。だが「実はそれは外観だけで、中心は何時しか病毒に蝕まれて空洞になりつつあった」と宮崎はいう。
 神宗の初期は、宰相の張居正が政治を引き締めていたからまだよかった。しかし、張居正が死ぬと、宦官が力を増し、後宮の費用がかさんでくる。神宗は増税をはかるため、宦官を各地に派遣したが、それが各地の反発を生んだ。深刻な不景気のなか、貧富の格差が広がっていた。
 万暦11年(1583年)、満洲奥地では女真族の族長ヌルハチが対立する敵を下して、勢力を伸ばしつつあった。
 いっぽう日本を統一した豊臣秀吉は1592年に突如、朝鮮に侵入した。以降7年にわたって、日本は朝鮮で救援に駆けつけた明軍とも戦うことになる。
 そのかん、ヌルハチは満洲の地で、着々と勢力を伸ばした。1616年、ヌルハチは興京(現撫順市)で帝位につき、国号を金(後金)とした。これを討伐しようとした明の遠征軍はサルホ山の戦いで全滅する。
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[後金(清)の太祖ヌルハチ。ウィキペディアより]
 神宗は晩年、ほとんど朝廷に出ることなく、宮中で宦官と政務を決済するのを常としたという。1620年に神宗が亡くなると、皇太子の光宗が即位する。だが、在位一月で急死し、その子、喜宗(正しくは喜にレンガ、天啓帝)の時代がはじまる。
 朝廷では大混乱がつづいていた。喜宗が7年で死ぬと、こんどはその弟の荘烈帝(崇禎帝とも)が即位し、朝廷の混乱をようやく収拾した(1627年)。
 そのかんに北方では形勢が切迫してくる。
 後金の太祖ヌルハチは渤海湾の海岸に沿って南下し、山海関の前進基地、寧遠城を攻めていた。そのさい砲丸にあたって負傷し、その傷がもとで死んだ(1626年)。ホンタイジ(太宗)が後を継いだ。
 ホンタイジは即位10年後に国号を清とあらため、朝鮮に侵攻し、朝鮮を属国とした。遅れた武器しかもっていなかった清は、その少し前に明の洋式大砲である紅衣砲を手に入れ、その鋳造に成功している。
 清と明は長城をはさんで対峙した。ところが、その正面の前線ではなく、長城の西端にあたる陝西の内部から叛乱が発生するのである。
 陝西には明の辺鎮が置かれていた。はじめ延安で帳献忠が立ち上がった。ついで李自成がこれに合流し、ふたつの勢力が流賊となって四川、河南、山西、安徽を荒らし回った。明政府はこれにたいしてなすすべがなかった。
 1644年、叛乱をおこしてから15年目、李自成は陝西に帰って、国号を大順とし、年号を永昌と改元した。そして、その勢いで、軍を率いて山西を横断し、政府軍の隙をついて北京に攻め込んだ。北京の形ばかりの守備隊は武器を捨てて逃げ去り、宦官の曹化淳が城門を開いて敵に降参した。荘烈帝は皇城内の景山の頂に上り自殺した。
 こうして明は滅亡する。
「明の滅亡は、あらゆる点から見て政治が腐敗堕落の極にあった為で、王朝の耐用年数が過ぎてしまっていたのだ」と、宮崎は記している。
 明の300年が宋の300年をくり返したことがわかる。

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