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鄭周永『この地に生まれて』(金容権訳)を読む(3) [本]

 いかにも鄭周永らしいのは、オイルショックの危機を突破するには中東に進出するしかないと考えたことである。
 鄭周永は社内の反対を押しきって、1975年を中東進出元年と定め、まずバーレーンに造船所を建設、サウジアラビアの海軍基地の工事も引き受け、翌年、サウジアラビアのジュバイル産業港工事に着手した。
 ジュバイルの落札にはかずかずのドラマがある。3年がかりのその工事も苦難の連続だった。だが、ジュバイルの機材を製造する蔚山(ウルサン)の現代造船所はにわかに活気づいた。
 こうした海外での建設経験をへて、現代造船所は「現代重工業」へと発展していく。重工業の背後には「現代建設」とのつながりがあった。
「重工業と建設の、この特異な有機的関係によって、私たちの海外建設の外貨獲得率は他の建設企業のほとんど二倍に達した」と書いている。
 田中角栄はコンピュータ付きブルドーザーと呼ばれたが、鄭周永も同じようなことを言っている。

〈私は、私の「ブルドーザー」で計算して予測する。それはいわば口と手足を持ったコンピュータだ。性能がそれほど悪くない頭をつけて、他人よりも真剣に考え抜いて研究し、努力しながら押し続けてきた。それが仕事人としての私だ。〉

 障害は突破して克服するものだ。固定観念の枠に閉じこめられていてはいけない。人間には無限の潜在能力とアイデアがある。鄭周永はそう信じつづけた。
 その後も現代グループは成長しつづけ、多くの会社や財団をつくりつづけた。1977年には「峨山(アサン)社会福祉財団」をつくり、医療脆弱地域にいくつも病院を建て、研究開発支援や奨学金事業にも乗り出している。
 鄭周永は1977年に全経連(全国経済人連合会)の会長に就任、その会長を10年間引き受けた。そのかん、財界の自律性と独立性を守るため、政府の不当な要求や干渉とも戦った。全斗煥大統領は鄭周永を会長ポストからはずそうとしたが、それに屈しなかった。
 1979年10月には、朴正熙大統領が金載圭中央情報部長に暗殺される事件がおきていた。時あたかもイラン革命が発生し、「現代」もイランから撤退せざるを得なかった。
 全斗煥の軍政のもとで、経済も強制的に改編されていく。政府の命令によって、さまざまな企業が無理やりに統合されていった。経済論理が通じない暗黒時代がはじまった。「現代」も発電設備の製造ができなくなり、企業活動に大きな支障がでたという。
 鄭周永はソウルでの1988年オリンピック開催に向けて、81年に推進委員長を引き受けている。その誘致のために、全力を尽くした。名古屋の勝利が決定的だと思われていた。だが、IOCの委員に猛烈なアピールをくり広げて、ついにソウル開催を勝ちとったのだ。
 1982年から84年までは大韓体育会長の会長も引き受け、そのかんにも「現代電子」という新会社を設立している。
 ここでも試行錯誤と試練は避けられなかった。半導体やエレクトロス部門で成果を挙げるのに5年の歳月を要している。
 ほかにも現代グループは干拓事業をおこなうなど、その手がけた事業は数限りない。しかし、着目すべきは金剛山観光だろう。
 ソウル・オリンピックの終わった翌年の1989年1月に、鄭周永は北朝鮮を訪れ、朝鮮労働党の外交委員長と面談し、金剛山の共同開発について話しあっている。鄭周永にとって、金剛山はふるさとの山である。子供のころや青年時代に何度も登ったことがある。
 その金剛山を観光地として南北で共同開発することは、ふたたび民族がひとつになるための第一歩になると思われた。だが、その期待も、政治の荒波にもまれて、しぼんでしまうことになる。
 1992年に、鄭周永はついに政界に乗り出す。政治がまちがっていると、経済がよくなることはありえないと思っていた。そこで統一国民党を結成し、3月の総選挙で31議席を得た。その5月には、大統領選挙に立候補する。だが、選ばれたのは金泳三だった。
 2001年に鄭周永は亡くなる。その後、現代グループでは争いがあり、不幸も重なって、グループはバラバラになってしまい、かつての結束は失われた。
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[1998年、牛500頭をつれ、板門店を通過し、公式に北朝鮮に向かう]
 それでも鄭周永が韓国経済のチャンピオンだったという記憶は、これからも残っていくだろう。

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