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網野善彦『日本社会の歴史』を読む(3) [歴史]

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 5世紀末から6世紀にかけて、朝鮮半島が揺れ動く。高句麗が南下し、百済は都を南に移した。倭と密接な任那(加羅)は新羅から圧迫を受けていた。こうした状況のなか、倭の大王ワカタケル(雄略)は、中国南朝の宋に上奏文を送り、親交を求めた。
 朝鮮半島が激動するなか、吉備の首長連合は近畿の大王に反逆し、これにつづき、播磨、伊勢、出雲、武蔵も反抗の姿勢を示した。
 朝鮮半島の動きがなぜ倭国に振動をもたらすのか。問題は任那の存在にある。ぼくなどは、任那とヤマトはむしろノルマンディーとイングランドの関係にあると考えてしまいがちなのだが、むろん何の証拠があるわけでもない。吉備の動きも、よくわからない。新羅との関係があったのだろうか。
 それはともかく、ヤマトの大王周辺では、軍事力をもつ大伴氏や物部氏が力をもつようになる。ワカタケルはその軍事力を結集して、各地の叛乱を抑えこみ、その周辺に直轄地(屯倉)を置いて、監視と統制を強めた。
 しかし、大王の地位は不安定だった。かならずしも血統で選ばれていたのではないかもしれない。6世紀初頭、越の国からオホドという大王があらわれる。のちに継体と呼ばれる人物である。これに筑紫の大首長、磐井が反対して立ち上がり、大きな戦争がはじまった。
継体が百済と密接な関係をもっていたのにたいし、磐井は新羅と独自の外交ルートをもっていた。オホドは物部氏を中心とする軍勢を北九州に派遣し、1年半の戦いの末、528年に磐井を下した。
 朝鮮半島では任那(加羅)が新羅、百済の支配下にはいる。大王の周辺では、大伴氏が没落し、朝鮮の移住民とかかわりの深い蘇我氏が台頭してくる。
 当時のヤマト政権について、網野は「大王に率いられた近畿の首長連合」が列島各地の首長集団を支配していたものと理解している。
 大王と首長集団のあいだにはミツギ(貢納)を介してのゆるやかな服属関係が保たれていた。大王に服属する首長集団はトモと呼ばれていた。
 首長集団は大規模に水田を開発するとともに、狩猟場を大王にささげ、大王の直轄地、すなわち屯倉(みやけ)とした。海民や山民を含む住民は大王に奉仕する者として、大王に贄(にえ)をささげ、時に直属の軍事を担った。
 陶作(すえつくり)、錦織(にしごり)、鍛冶などを担う朝鮮半島からの移住民も首長に統轄され、政権に奉仕していた。
 血縁集団は氏(うじ)と呼ばれ、大王から姓(かばね)を与えられていた。氏は地名(葛城、平群、蘇我など)や職掌(大伴、物部、中臣など)にもとづいてつけられていた。地名の名をもつ氏には臣(おみ)、職掌の名をもつ氏には連(むらじ)、また各地の首長には君(きみ)、直(あたい)などの姓が授けられた。
 ヤマト政権の支配が列島に広がっていくと、大王は交通の要衝や征服地に直轄の屯倉を設けた。また大王や有力氏族は、それぞれの支配地の民を部民とした。これにより、大伴部や蘇我部などができあがる。その民は物資や労働、軍事力を提供するものとされた。そして、地方の屯倉や部民を管理する者として国造(くにのみやつこ)が任命される。国造は各地の有力首長だった。
 6世紀が進むと、大王を長とする政府の体制が整えられていく。有力な氏族が大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)として政府を支える。そして、さまざまな職掌や職能をゆだねられた氏族が伴造(とものみやつこ)として、政府に仕えることになる。そのポストは次第に世襲されるものとなっていく。
それは大王という地位も同じだった。血統が優先された。何よりも政治の安定が求められたのである。
 巨大古墳はあまりつくられなくなった。関東ではまだ大規模な前方後円墳がつくられていたが、列島の西部では、横穴式石室をもつ古墳が多くなり、これが次第に全国に広がっていく。
 古墳は支配者の権威を示すものから、死者を弔うものへと変わっていった。横穴式石室では、羨道を伝って玄室にはいることができ、その玄室には武具や馬具、装身具、土器に盛られた飲食物が備えられていた。
 ただし、古墳はあくまでも支配者のものである。一般の平民が共同墓地に埋葬されていたことはいうまでもない。
 大王を中心に祭祀や儀礼が整えられていった。農耕儀礼のなかでは、春の種下ろしの祭りと、秋の収穫の祭りがもっとも重要な行事だった。各地の首長が初穂を大王に貢納し、大王が種籾を首長に与える儀礼もおこなわれるようになった。網野はこれを新嘗祭の原型とみている。
 水田を破壊したり略奪したりする行為は最大の罪とされた。祭りをけがしたり、人を殺傷したり、母子相姦したりすることも大きな罪だった。罪には相応の処罰がともなう。特異なのは、刑罰とともに、罪による穢れを祓い清めによって除く儀式がおこなわれていたことである。
 ここで網野が強調するのが、稲作中心史観からの脱却である。当時も稲作だけが生活の中心だったわけではない。畠地では麦や豆、桑などがつくられ、栗や柿の栽培もおこなわれていた。山の幸、海の幸も採集されていたし、海でも漁がおこなわれていた。
 朝鮮半島からは、多くの職能集団が移住していた。玉造をしたのもかれらである。製塩や製鉄、漆器、木器などをつくる専業集団などもあった。そうした点をみると、この時代は分業が盛んになり、流通が活発になり、市庭での交易も広くおこなわれていたことがわかる。
 朝鮮半島を経由して、儒教、仏教、道教もはいってきた。医術、暦、易なども伝えられ、本格的な国家形成がはじまっていた。しかし、北海道や東北北部、南九州は、まだヤマト政権の圏外にあった。
 ヤマトの政治は朝鮮半島の動きと無関係ではなかった。532年に任那(加羅)は新羅によって併合された。その後、新羅と百済のあいだで、激しい戦闘がくり広げられた。
 そのころヤマトでは、対外的危機感にあおられれて、大王の地位の強化と世襲化がはかられていた。
 だが、有力首長どうしの争いはやむことなく、とくに蘇我氏と物部氏の対立が激しくなった。敏達のあと大王についた用明が587年に病気で死ぬと、次期大王をめぐって、物部、蘇我が激突し、蘇我が勝利して、崇峻を大王とし、蘇我馬子がみずから大臣の地位についた。
 崇峻は任那の再建をはかり新羅に出兵しようとした。馬子はこれに反対し、592年に崇峻を暗殺した。崇峻に替わって大王に立てられたのが、さきの敏達の大后、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)、すなわち女王、推古である。
 推古自身は政治にかかわらなかった。大臣馬子と協力しながら、政治を実際に動かしたのが、用明大王の子、厩戸(うまやど)である。
 そのころ、中国では隋が全国を統一した。598年、隋は大軍を動かして高句麗を討った。これに呼応して、ヤマトも任那回復をめざして600年に新羅に出兵した。しかし、失敗に終わる。
 その同じ年、倭王は100年ぶりに中国に使節を送り、隋に朝貢した。
 このころ、ヤマトでは飛鳥寺が完成し、難波にも四天王寺が建立されようとしていた。
 王子厩戸は仏教を積極的に受け入れ、603年には十二階の冠位を定め、604年にいわゆる「憲法十七条」をつくって、王権の強化に努めた。
 607年、厩戸は小野妹子を使いとし、隋に入貢した。そのときの国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」と記されていた。
 611年から614年にかけ、隋の煬帝はまたも高句麗を攻めたが、失敗し、それ以降、隋は衰えていく。618年に隋は滅び、唐王朝がはじまった。
 622年以降、ヤマトは新羅と対立し、政権内に動揺が生じはじめる。理想の政治がほど遠いことを感じながら、この年、厩戸王子は死ぬ。法隆寺金堂の釈迦三尊像は、王子の死後、鞍作鳥(くらつくりのとり)によって完成された。
「厩戸は、多くの伝説とともに人びとの敬仰を集め、のちに『聖徳太子』と呼ばれるようになった」。そう網野は記している。
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[法隆寺。ウィキペディアより。]

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