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網野善彦『日本社会の歴史』を読む(6) [歴史]

 ここから中巻にはいる。
 891年に関白藤原基経が死ぬと、宇多天皇はいわば秘書役ともいえる蔵人頭(くろうどのとう)に菅原道真を登用した。寛平(かんぴょう)の改革がはじまる。中央の綱紀をただすとともに、とどこおりがちな調・庸・官物の貢進を国司にしっかりと請け負わせる体制が固められた。京の治安維持にあたる検非違使庁(けびいしちょう)の強化もはかられた。
 897年、宇多は13歳の醍醐に譲位した。2年後、藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣に昇進した。藤原家が常に天皇家外戚の地位を保ち、中央政府の実権を握るという仕組みは変わらない。異例なのは、文人である道真が右大臣にまで昇進したことだった。藤原氏はこれを妬み、あらぬうわさをでっちあげて、道真を排除し、901年に太宰府に左遷した。
 翌年、時平は広範な改革に乗りだした。数十年中止されていた班田を12年に1度の割で実施するとし、調・庸の品質向上を命じ、院宮や王臣による荘園の拡大禁止や停止を求めた(最初の荘園整理令)。延喜式の編纂を開始し、907年に延喜通宝を鋳造したのも時平の仕事である。
 905年、醍醐天皇は紀貫之らに『古今和歌集』の編纂を命じた。このころ『竹取物語』、『伊勢物語』が生まれている。
 907年に時平が若くした死んだときには、菅原道真の怨霊だという話がまことらしく伝えられる。時平の死によって、律令制への復帰がなくなったことは確かだった。これ以降、経済面でも軍事面でも、諸国の国司に責任を請け負わせる体制が進んでいく。
 政府は班田の実施をあきらめ、国衙(こくが、地方政庁)のつくった土地台帳をもとに、国司に徴税を請け負わせるようになった。政府への官物納入は安定するようになった。
 実際には、国司は地元の有力者を官人として採用し、かれらに徴税をまかせていた。税物の運搬も、梶取(かんどり)や綱丁(ごうちょう)などと称される運送業者にゆだねていた。こうして、任命されても赴任しない国司が増えてくる。
 醍醐天皇は政治に危機感をもっていた。廷臣や国司に政治上の問題について意見書を述べさせたり、蔵人所を通じて政治の実情を把握しようとしたりしている。しかし、その関心は畿内に集中しがちだった。
 中国では907年に唐が滅亡し、五代の騒乱時代がはじまっていた。中国の北方では渤海が滅び、契丹人が遼を建国していた。朝鮮では新羅が統制力を失おうとしていた。
 930年、醍醐は8歳の朱雀に位を譲って死ぬ。時平の弟、藤原忠平(ただひら)が摂政についた。そのころ、京都は不安につつまれていた。清涼殿に雷がおち、それも道真のたたりとうわさされた。醍醐につづいて、上皇の宇多が死ぬ。疫病が流行し、群盗が横行し、瀬戸内海では海賊の活動が盛んになっていた。
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[菅原道真。ウィキペディアより]
 東国では平将門が939年に常陸の国府を焼いて、国司を捕虜にした。その勢いで、将門は下野、上野の国府を襲い、関東一円をほぼ制圧、みずから新皇と称した。同じ年、伊予の藤原純友も備前や播磨の国司を捕虜にし、瀬戸内海を手中にした。東西の叛乱により、朝廷はこれまでにない危機におちいった。
 まもなく将門は平貞盛と藤原秀郷によって討たれ、純友の乱も小野好古、源経基によって鎮定される。しかし、この乱を経て、東国は王朝から離れて自立する傾向を強め、西日本でも海上交通を担う豪族や商人が力をつけていく。
 京の町には「市の聖(ひじり)」と呼ばれる空也があらわれる。道真の怨霊を鎮める北野神社が建てられた。天皇が賀茂神社に行幸するのが恒例となり、祇園会が夏の行事となった。
 946年、朱雀が退位し、村上が皇位についた。949年に関白忠平が死ぬと、村上は天皇親裁をこころみた。958年には乾元(けんげん)大宝が鋳造される。これ以降、江戸時代まで政府による銅銭鋳造はない。
 そのころ右京、すなわち京の西半分は荒れ果て、雑人(ぞうにん)たちが出入りする場所になっていた。朝廷が直接支配するのは、畿内と近江、丹波にかぎられていた。左右の大臣をはじめ、公卿のほとんどは藤原氏と源氏が占めている。貴族の役割は、宮中の年中行事をつつがなくおこなうことだった。
 村上が967年に死ぬと、冷泉が天皇になる。冷泉には精神障害があったため、関白の藤原実頼(さねより)が政治を担った。
 冷泉の後継をだれにするかは当初から課題になっていた。このあたり天皇家の血統は脈々と受け継がれたというより、何が何でも受け継がされてきたという感じである。けっきょく冷泉の弟が11歳で円融天皇となり(969年)、実頼が摂政についた。
 実頼の死後は、甥の伊尹(これまさ)が摂政を継ぎ、自分の外孫にあたる冷泉の子、師貞を皇太子とした。これが花山(かざん)天皇で、984年に即位することになる。
 伊尹の死後は、弟の兼通が円融天皇の関白を務めた。だが、兼通が死ぬと、一時は退けられていたその弟の兼家が断然有利な立場に立った。その娘が円融天皇の男子を産んでいたためである。
 そのため兼家は縁の薄い花山天皇を、即位後2年で早々と引退させ、その外孫を986年に一条天皇として即位させた。このあたり、藤原家の都合で、皇位が動いている。
 兼家は一条天皇の摂政となった。このころから藤原家は摂関家と呼ばれるようになった。外戚として天皇家にとりついたのである。
 兼家の息子が藤原道長である。兄の道隆、道兼が疫病で亡くなったあと、道長は姉で一条天皇の母、詮子(あきこ)の斡旋により事実上の関白となった。
 道長は娘の彰子を(すでに皇后がいたにもかかわらず)強引に一条天皇の中宮とし、一条死去後、折り合いの悪かった三条天皇を退位させ、一条と彰子のあいだに生まれた外孫を後一条天皇とし、娘の威子(たけこ)を後一条の中宮とした。
 書いていて気が遠くなりそうである。「自らの娘に天皇の男子が生まれるか否かが高位の貴族の一族全体の運命を左右していた」と網野は記している。
 このころ政治の世界は儀式化し、安定していたともいえる。天皇家があり、摂関家があり、公卿の家があり、下級貴族の家があった。国政は儀式、年中行事で満たされ、貴族たちは家格と役割に応じて、行事を分担した。しかし、やがて、地方に根拠を置いて、武を家業とする者もでてくる。
 国司(受領、国守)は任国で大きな権限をもっていた。徴税権、租税免除権、裁判権、軍事権、などである。かれらは都と任国を行き来しながら、行政権を発揮して、徴税請負のネットワークを築き、財を蓄積していくことになる。
 この時代にはもともと官司に組みこまれていた人びとが職能民として自立する動きもでてくる。徴税人の下級官人のなかには、貢納物を運用して富を得る者もいた。手工業者、運送業者、山民、海民も自立しはじめる。宮廷を離れ、歌姫や遊女として生きる者もいた。宮廷の双六打(すごろくうち)も博党として活動しはじめる。悲田院に収用されていた孤児や病者は、穢れの浄めを職能とするようになった。さまざまな芸と職が生まれたと網野はいう。もちろん、武芸もそのひとつだった。
 天皇家は勅旨田や御厨(みくりや)、御牧(みまき)などの直領をもっていた。それは摂関家も同じで、大貴族の荘園は、やがて全国の要衝に広がっていく。畿内の大寺社も諸国に多くの免田や御厨をもつようになった。
 藤原道長、頼通親子の時代、都には諸国から多様な物産が集まり、華やかな文化が花開いた。朝廷自体は対外関係に消極的だったが、宋や高麗の商船は年々来航するようになった。そのいっぽう、都の周辺では、群盗が横行し、疫病や天災があふれていた。各地の紛争もしばしば生じている。
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[藤原道長。ウィキペディアより]
 1027年、藤原道長は念仏を唱えながら世を去る。その翌年、東国の平忠常が乱を起こし、房総半島一帯を支配下におく。その支配は3年に及んだ。この乱は、国司(受領)の支配が豪族の力を無視しえなくなったことを意味している、と網野はいう。東国や西日本では、徴税を請け負いながら、地方に根を張る「弓馬の道」にたけた豪族が力を増していた。このころから国守(国司)と豪族の争い、豪族どうしの争いが増えてくる。
 1045年、関白藤原頼通のもと、後朱雀に代わり後冷泉が即位する。朝廷は荘園整理令を発した。荘園の整理はごく限られていた。それは、むしろ豪族や有力者の田畠支配を実質上認めるものだった。
 1051年、安倍頼時と貞任(さだとう)の父子が、国守の軍勢を撃破して、陸奥国を手中にした。これも地方での豪族台頭のあらわれだった。源頼義が陸奥守として着任すると、いったん事態は収拾したものの、1056年に両者は激突、安倍頼時は戦死したものの、息子の貞任は屈服せず、戦争は長期にわたった。
 この叛乱(前九年の役)が収まるのは、政府側がもうひとりの豪族、清原武則を引き入れ、ようやく貞任を討ちとったときである(1062年)。だが、それによって東北一帯での清原氏の力が強くなった。
 1068年には後冷泉が死に、壮年の後三条が天皇に即位した。後三条の母は藤原氏の出身ではなかった。後三条は摂関家との緊張関係のなかで、天皇家の権威再確立と経済的基盤強化をはかった。大胆な荘園整理と荘園の実態把握に努め、国守(受領)の権限を制約しようとしている。寺社と天皇家との関係強化もはかられた。
「後三条の新政を契機にして、朝廷の主導権は天皇家に移り、摂関家の発言権は低下する」と、網野は記している。後三条の即位は、摂関政治からの離脱を促す転換点となった。
 1072年、後三条は上皇となり、白河が即位する。だが、翌年、後三条は世を去り、藤原頼通も死ぬ。白河は関白藤原師実(もろざね)と后の父源顕房に支えられながら、後三条の新政を継承していった。
 白河は行幸を実施したり、殿上で歌合を催したりして、儀式・行事の主催者としての天皇の立場を鮮明にしていった。荘園の増加を抑えるための荘園整理令を発するのは、もはや恒例となっていた。そのころ、宋や高麗との交流も活発になる。洛北白河には法勝寺が建てられた。御所の警備は源義家、義綱兄弟にゆだねられるようになった。
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[白河天皇。ウィキペディアより]
 1083年、義家は陸奥守として東北に下った。義家は清原氏の内紛に介入、藤原清衡(きよひら)を助けて、清原家衡を討った。後三年の役と呼ばれる戦いである。
 これにより奥羽は奥州藤原氏の支配下にはいる。いっぽう義家とともに戦った弟の義光は関東に根をおろし、東国に源氏の勢力を築いていく。
 1086年、白河は子(堀河)に位を譲り、上皇として朝政の実権を握った。院政のはじまりである。院のまわりには有力貴族や武人が集められた。二重権力が生まれようとしている。
 そのころ社会は流動化していた。商工民や職能民の動きが活発になり、東国では絹・布、西国では米を物品貨幣とする流通が盛んになり、借上(かしあげ)と呼ばれる金融業者も登場する。摂関家などの貴族、大寺社も多くの荘園をもつようになり、そうした荘園からは米だけでなく、絹や布、鉄、塩、紙などが納められていた。名のある武将にも、多くの田畠が寄進されるようになった。
 諸国の国衙(地方政庁)も役所としての機能を整えていた。上級貴族はみずからの子弟を国守に推挙し、その知行による利益を確保した。国守が任地におもむくことは少なくなり、目代(もくだい)を送って、現地の役所での徴税をおこなうのが一般的になった。
 大寺社の活発な動きが、朝廷や国衙を揺るがすことが多くなる。「悪僧」と呼ばれた僧兵たちは、しばしば強訴をくり返していた。
 牛飼童(うしかいわらわ)、博打、京童などの運送業者、非人は、祇園会や賀茂祭などで、しばしば乱闘をおこした。熊野や吉野、高野山、岩清水などへの参拝が盛んになっている。江口や神崎などの津や泊には、遊女たちが集まっていた。田楽がはやり、白河上皇も新たに建てた鳥羽殿などで、田楽を催している。
 1096年、白河は出家して法皇となった。1107年に堀河が死ぬと、白河はわずか5歳の子を立て、鳥羽天皇とした。藤原忠実(ただざね)が鳥羽の摂政となるが、摂関家にはもはやかつての力はなく、実質上、白河の専制がつづいていた。
 1099年に白河は荘園を新たに立てることを禁止した。1111年には荘園の記録所を設置した。荘園と公領の区分を明確にすることが目的だった。国司と荘園所有者との紛争を調停する姿勢も示している。あくまでも荘園の増加を抑えるという原則は変えなかったといえる。
 このころ、鴨川はしばしば氾濫している。それをとめる手だてはなかった。しかし、さすがに僧侶の勝手な振る舞いは取り締まるようになった。検非違使(けびいし)には、源平の武者が採用された。そのころ伊勢平氏は白河に接近し、瀬戸内海に勢力を伸ばしている。
 1123年、白河は鳥羽を退位させ、その子を崇徳天皇とした。だが、白河が1129年に77歳で死ぬと、今度は鳥羽が上皇として、徹底した院政をおこなうこととなる。鳥羽は崇徳が自分の子ではなく、白河の子だと思っていた。
 鳥羽は白河以上に人事権をもち、白河時代の近臣を退け、関白の座を追われた藤原忠実を朝廷に復帰させた。とはいえ、このころの官位はほとんど世襲化しつつある。鳥羽はそれを承認することによって、官人をみずからの意志にしたがわせた。
 鳥羽は白河とはことなり、荘園の拡大を容認した。そのため、天皇家はじめ、摂関家、寺社、国守自身も積極的に荘園を拡大した。そのいっぽう、国衙は公領の確保につとめたため、国衙と荘園所有者のあいだで、よく紛争が巻き起こった。
 ここに「荘園公領制」という土地制度が形成される。各地の有力者や豪族、武将などは公領、あるいは荘園の管理をゆだねられながら、みずからの実力をたくわえていった。
 網野が金融のはじまりを寺社にみているところがおもしろい。たとえば、延暦寺の山僧は、荘園の仏物を資本として、これを貸し付け、利を得ていた。日吉社の大津神人や熊野社の神人は、神物である初穂を融通し、借上を業として富を積んだ。
 山僧や神人のなかには、手工業や水上交通に従事する者もいた。要するに、寺社は市場経済のひとつの淵源だったのである。
 供御人(くごにん)などの職能民も朝廷や国衙に奉仕しつつ、課役や税を免除され、次第にその活動領域を広げていた。
 鳥羽上皇に積極的に接近したのが伊勢平氏である。平正盛の子、忠盛は鳥羽上皇のために三十三間堂の造営を請け負い、1132年にこれを完成させている。1135年には、瀬戸内海の海賊を追討し、備前守となって、瀬戸内海沿岸の勢力を固めた。平氏の築いた海の道からは、宋の文物が数多くもたらされた。
 いっぽう、後三年の役のあと奥羽の覇者となった奥州藤原氏は平泉に拠点を築き、1126年に清衡(きよひら)が中尊寺を完成させ、つづいて基衡が毛越寺(もおつじ)を建立した。奥州藤原氏は摂関家との結びつきを深め、摂関家に金や馬、北方の産物などを貢納していた。
 このころ東国の河内源氏は、源義家の死後、一族の内紛によって京では平氏に押され気味だった。それでも摂関家との結びつきを忘れることはなかった。源為義の子義朝は、東国の豪族などと主従の関係を結びながら、下総、武蔵、相模に拠点を築いていた。
 京では寺社の神人や悪僧たちが、何かと武力に訴え、朝廷に波紋を投げかけていた。
 1141年、鳥羽上皇は険悪な関係となっていた崇徳天皇に譲位を迫り、みずからの3歳の男子を即位させ、近衛天皇とした。摂関家は跡目相続でもめ、力を失っている。
 1155年、近衛天皇が17歳で死ぬと、鳥羽はみずからの第4子を後白河天皇とし、後白河の子を皇太子とした。摂関家の藤原頼長は元天皇の崇徳と結びつき、朝廷は一触即発の事態となった。
 1156年7月、鳥羽上皇は死去し、その専制政治は終わりを告げた。しかし、事態はそこから動いていくのだ。

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