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蒙古襲来と鎌倉幕府の崩壊──網野善彦『日本社会の歴史』を読む(8) [歴史]

 このころの社会について、網野はおよそ次のようにまとめている。
 13世紀後半には文字が普及し、多くの人が文字を読み書きできるようになった。中国大陸から流入した銭貨が広く流通し、貨幣世界が浸透していた。氏族ではなく、イエを中心とする考え方が一般化しつつある。
 荘園・公領の支配者は、それを広く一円領として支配するとともに、紛争の起こらぬよう下地を分割し、借上(金融業者)や商人を代官として、年貢や公事の徴集をゆだねていた。
 京都、鎌倉、博多をはじめ、各地の津や泊、宿には土倉が立ち並び、多くの商工民が集まり、町が形成されていた。金融業者や商人のあいだでは為替や手形が流通するようになる。代官たちは徴集した多様な物品を市庭で売り、その現銭を手形に変えて、京都や鎌倉に送るようになった。
 金融ネットワークの広がりを支えていたのは、廻船、馬借、車借などによる海陸交通の発展である。熊野神人や伊勢神人などと呼ばれる人びとが、紀伊半島を拠点に、房総半島から南九州にいたるまでの太平洋沿岸にわたり、海上交通を担っていた。日本海から琵琶湖にかけても、日吉神人、賀茂社供祭人、石清水八幡宮神人のような神人が活躍していた。
律禅僧は寺社や橋、港湾などをつくるため、勧進によって金を集めた。関所を設け、神物や仏物の名目で関料や関銭を集めることも認められていた。勧進上人が唐船をつくり、船に砂金や水銀、刀剣、織物などを積み込んで、海を渡り、貿易をおこなうこともあった。
「律僧、禅僧などの勧進上人は、一面では冒険的な貿易大商人という性格をもっていた」と網野はいう。宋や元からは膨大な青白磁や銭だけでなく、さまざまな工芸品や実用品、書籍などがもたらされた。
 この時代、商業や金融の部門では女性が数多く活躍していた。なかには神人と認められた者もいる。家主や名主に名を連ねる女性も多かった。しかし、14世紀になると、女性の社会的地位は次第に低下していく。
 それは、穢れを処理する人びとも同じだった。かれらはもともと神人や寄人の呼称をもち、天皇や神仏に結びついて浄めに携わっていた。しかし、穢れにかかわる職能民を賤視する空気が次第に強くなってくる。
 時代とともに欲望や穢れ、罪を悪として排除する姿勢が顕著になっていく(それはおそらく市場経済が朝廷や寺社の枠組みから分離されていく過程と関係している)。市場経済が次第に広がり、救済を求める人びとが増えていくなかで、親鸞や一遍、日蓮は「悪」と呼ばれる人びとの側に身を置いて、仏の教えを広めていったのだ、と網野は記している。
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[一遍聖絵。ウィキペディアより]
 ここで、少し時代をふり返ってみよう。
 1242年はひとつの転換点だった。四条天皇が死去し、後嵯峨天皇が即位する。鎌倉では北条泰時が世を去り、孫の経時が執権となった。成長した将軍頼経が力をもちはじめている。
 1244年、朝廷では西園寺公経(きんつね)が死に、頼経の父でもある関白九条道家が専権をふるうようになった。頼経と道家の結託を恐れた北条経時は、将軍職を頼経の6歳の子、頼嗣(よりつぐ)に譲らせた。
 1246年に病弱な経時が死ぬと、弟の時頼が執権となり、前将軍の頼経を京都に送還した。その年、後嵯峨は退位して上皇となり、4歳の後深草が即位した。
 執権となった北条時頼は、敵対する三浦氏と千葉氏を討滅した。1252年、九条道家が幕府への謀反に関与したとして、時頼は将軍頼嗣を廃して京都に送還した。その後、道家は急死した(毒殺ともいわれる)。こうして、朝廷にも幕府にも大きな力を及ぼしていた九条家が没落する。
 時頼は後嵯峨に申請して、その子、宗尊(むねたか)親王を東国の将軍に迎えることで、北条氏一門の立場を強固なものとした。いっぽう、後嵯峨も西園寺家を関東申次にしながら、「治天の君」として朝廷を掌握した。
 鎌倉は繁栄し、多くの唐船が入津するようになった。1252年には宋の禅僧、蘭渓道隆を迎えて、建長寺が建立されている。鎌倉新大仏の鋳造もはじまった。
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[建長寺。ウィキペディア]
 しかし、大陸からみれば、何といっても日本の窓口は博多だった。博多にはいった大量の文物と銭貨は、瀬戸内海を経て畿内にもたらされた。西園寺家は北条氏一門、金沢氏の協力を得て、瀬戸内の交通網を統制し、みずからも中国との貿易をおこなった。
 宋から流入した膨大な銅銭は、日本全体に大きな影響をもたらした。「十三世紀も後半に入ると、銭そのものを神仏と扱うほどに、社会は銭貨に対する欲望、富の欲求にかき立てられるようになり、それが一方で、商人や借上、博打、それらと結びついた悪党・海賊の動きを活発化させた」と、網野は記している。
 1258年から翌年にかけ、各地で疫病と飢饉が蔓延した。百姓たちが逃散し、年貢・公事がとどこおった。そのころ日蓮は『立正安国論』を書き、幕府に提出した。しかし、幕府はその主張に不穏なものを感じ、日蓮を伊豆に流した。
 1261年から63年にかけ、幕府と朝廷は相次いで新政策を発表した(弘長の新制)。神仏の尊重、訴訟の公正迅速な解決、撫民が強調されるいっぽう、商人、金融業者、「道々の細工」、博打、派手な衣装などに規制がかけられた。
「これは、農本主義の立場に立ち、さまざまの面で『未開』の世界にも通じる得体の知れない力に動かされた度の外れた行動を『悪』とし、それを事とする集団を『悪党』としてきびしく禁圧する姿勢を明確にした法令」だったと、網野はいかにも網野らしい筆致で記している。
 東国政権は京都の朝廷と協調する姿勢を示した。いや、それ以上に朝廷と幕府は固く結びついているかのように思わせていた。実際、このころ上皇と将軍は親子関係にある。
 1263年、北条時頼が死ぬ。時頼は評定衆を中心とした執権政治を推し進め、北条一門の寄合を基盤に得宗(北条本家)専制体制を築いた。
 このころ朝廷では後嵯峨上皇が実権を掌握していたが、後嵯峨は1259年に後深草に代えて、その弟、亀山を即位させた。
 大陸では広大なモンゴル帝国が形成されつつある。チンギスハンの息子、フビライハンは南宋に圧力を加えながら高麗を支配下に置き、高麗を通じて1268年に日本にモンゴルへの服属を求める使者を送った。
 そのとき、幕府の得宗はまだ18歳の北条時宗で、宿老の北条政村が執権として、これを補佐していた。1266年には将軍宗尊親王が廃されて京都に送還され、3歳の惟康(これやす)王が新将軍に迎えられた。北条家が力を保つためには、将軍が力をもってはならないのだった。
 1268年にモンゴルの国書を受けとった幕府は、朝廷にもこれを送ったが、朝廷は幕府の意向に沿って、これを無視することにした。山陽、山陰、西海、南海各道の警備が固められた。若き時宗は執権になった。
 国書を黙殺されたフビライは翌年も、2度にわたって使者を送った。しかし、幕府は通交拒絶の姿勢を貫いた。
 1271年にはモンゴルの使者が100人ほどの人数を連れて、北九州の今津にやってくる。幕府は国書の受け取りを拒否し、あらためて黙殺の態度を示した。蒙古襲来は必至となった。幕府は九州の防備を固め、国内の治安を強化した。それにより、日蓮はあやうく竜口(たつのくち)で処刑されそうになったが、けっきょく佐渡に流されている。
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[日蓮。同]
 幕府は1272年、諸国に大田文(おおたぶみ)の作成を命じ、田地の実情と動員しうる兵力を調査した。意外にも数多くの御家人が所領を失っていることを知った幕府は、徳政令を出し、所領を回復させ、それによって兵力の確保をはかった。
 前年には「治天の君」として君臨していた後嵯峨上皇が亡くなり、亀山天皇が実権を握った。亀山も関東に呼応して、全国に軍事体制をとるよう呼びかけた。
 1274年、フビライは日本侵攻を開始する(文永の役)。多くの高麗兵を含む蒙古軍は、まず対馬と壱岐を落とし、10月20日に北九州の海岸に上陸、待ち構えていた九州の武士たちと激戦を交えた。見知らぬ戦法に武士たちは翻弄され、いったん太宰府までしりぞいた。だが、蒙古軍はそれ以上進まず、にわかに全軍を引き揚げて、高麗に帰った。
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[蒙古襲来絵詞。ウィキペディア]
 蒙古襲来は朝廷にも幕府にも大きな衝撃を与えた。再度の襲来が予想された。朝廷から軍事指揮権を与えられた幕府は、西国の警備をいっそう強化した。国内の寺社には異国降伏の祈禱をおこなわせ、御家人たちには北九州から長門にかけての沿岸に防塁を築かせた。
 1279年、モンゴルは南宋を滅ぼし、中国に元を建国する。日本侵攻をあきらめないフビライは高麗に遠征のための造船を命じ、最後の使者を日本に派遣した。幕府はこの使者を博多で処刑し、戦争体制を固めた。
 1281年、ふたたびモンゴル軍が来襲した(弘安の役)。モンゴル・高麗人の東路軍4万につづき、旧南宋の江南軍10万がやってくる。ふたつの軍が合わさって、これから全面的な攻撃がはじまろうとしていた。しかし、そのとき蒙古軍は九州を襲った台風によって壊滅的な打撃をこうむり、高麗に引き揚げた。
 フビライはなおも日本攻略をあきらめなかった。だが、1284年に広東・福建で叛乱が発生したため、ついに日本への遠征は中止になった。その年、時宗は(数え)34歳の若さで急死している。
 時宗の舅、安達泰盛は、時宗の子で14歳の貞時を執権に据えた。泰盛は経済改革を実施するとともに、御家人の地位を保証するさまざまな処置をとった。
 しかし、泰盛は敵対する得宗御内人(北条本家の執事)平頼綱によって誅殺されてしまう。これにより、鎌倉ではさらに得宗家の専制体制が強まっていくことになる。
 安達泰盛が殺害されたあと、東国では内管領の平頼綱が得宗御内人として、北条貞時を支える体制が生まれた。実質上の権力を握った頼綱の姿勢は、どちらかといえば、重商主義的だった、と網野はいう。商業を重視し、諸国の津や泊を管理し、禅僧や律僧を援助して、中国との貿易を推進していたからである。
 1286年、頼綱は九州の御家人たちの訴訟を処理するための鎮西談義所を設け、九州の支配を強化した。頼綱は弘安の役に貢献した武士たちに恩賞地を与え、泰盛についた者を排除し、みずからの権力基盤を固めた。海上交通の要衝には、多くの御家人が配置され、予想されるモンゴル軍の侵攻に備えた。
 このころ京都では亀山上皇が「治天の君」として院政をおこなっていた。1287年、幕府は突如、亀山上皇に異心があるとして、上皇と天皇(後宇多)の交代を求めた。こうして亀山に代わって後深草が「治天の君」となり、その子、伏見が即位し、皇太子にも伏見の子が立った。
 これにより、朝廷では持明院統(後深草系)による支配が確立し、これに反発する大覚寺統(後宇多系)が生まれて、天皇家は分裂した。
 1292年、元の世祖(フビライ)がまたも使者を送ってきた。危機を感じた幕府は、北条氏一門の北条兼時らを九州に派遣し、のちの鎮西探題の基礎を築いた。だが、その同じ年、23歳になった得宗貞時の命により、独裁的権力をほしいままにしていた平頼綱とその一族が誅殺される。
 これにより、北条貞時が幕府を完全に掌握した。貞時は滞っていた訴訟を解決するため、執奏を通じて、みずからが訴訟を即決する体制をとった。この方式が受け入れられたのは、ほんの一時だった。やがて、御家人のあいだから、貞時の独裁にたいする不満が巻き起こってくる。
 1297年、貞時は永仁の徳政令を発した。御家人は売却され所領を無償で取り戻せるとし、債権取り立ての訴訟は取り上げないという内容だった。重商主義を否定し、農本主義を志向する政策だった、と網野は評している。このことは、こうした徳政令を出さねばならぬほど、貨幣経済が社会に浸透し、破産した地頭・御家人の所領がいかに多く売却されていたかを示している。
 元の世祖は1294年に死亡していたが、貞時は元にたいする警戒をおこたらず、九州にあらたに北条氏一門の金沢実政(さねまさ)を派遣して、鎮西探題の権限を強化した。金沢氏は肥前、豊前、大隅の守護になるとともに、関東から九州におよぶ海上交通路を支配した。
 いっぽうで、北条氏一門は唐船を中国に派遣し、多種多様な唐物や銅銭を手に入れていた。そのころ北条氏一門は、全国の半分以上にわたって守護職をつとめ、さらに地頭や領家として、それぞれの国の荘園・公領の半分近くを治めていたという。
 北条氏一門の専制支配に強い反発が巻き起こるのはとうぜんだった。そのころ京都では伏見天皇が京極為兼(ためかね)に支えられながら、王朝の改革を推し進めていた。1298年、幕府はこの為兼を捕らえ、佐渡に流した。伏見が落胆すると、ここぞとばかりに大覚寺統が力を盛り返し、関東に働きかけ、1301年に大覚寺統の後二条天皇が誕生する。
 その後、持明院統、大覚寺統のはげしいはたらきかけに困惑した幕府は、両統迭立(てつりつ)の方針を立て、両統を交互に天皇の位につけることにした。それにより、後二条のあとは、持明院統の花園が天皇になることが決まった。だが、これにより、かえって天皇家は決定的に分裂する。
 関東の北条氏一門でも、暗闘が渦巻いていたことに変わりはなかった。暗殺に継ぐ暗殺が発生する。いやけのさした貞時は1301年に出家し、いわば外から政治をみるようになる。北条氏一門の専制に暗雲がただよいはじめていた。
 1308年から翌年にかけ、西国では北条氏への反発から海賊による暴動がおこった。それが鎮圧されたあとも、西国各地では不穏な状態がつづいた。
 関東の将軍はひんぴんと交代していた。将軍が成長すると、幼児に交代させるというやり方は変わらなかった。北条氏は政権発足のいきさつから、みずから将軍にはなれない。それでも得宗(北条本家)が実権を握りつづけるというほの暗い政治をつづけるには、成長した将軍をつくってはならなかった。京都に強力な天皇が生まれないようにすることとあわせて、それは幕府政治存続の鉄則だったといってよい。
 1308年には、後二条が死に、持明院統の花園が天皇になり、大覚寺統の尊治(たかはる)が皇太子となった。この二人は伏見、後宇多の嫡流ではなく、最初から中継ぎであることを予定されていた。
 1311年には、得宗貞時が死に、わずか9歳の高時が得宗の地位を継いだ。宿敵どうしの平、安達両家の子孫(長崎円喜[高綱]と安達時顕)が得宗を補佐することになった。鎌倉幕府は強権的な態度で、全国に臨んだ。
 1315年には伏見上皇の側近、京極為兼がまたも逮捕され、前回の佐渡につづき、今回は土佐に流された。二度の配流はめずらしい。
 1316年、14歳になった北条高時が執権に就任する。1317年、伏見が死ぬと、大覚寺統の後宇多の申し入れにより、関東は花園を退位させ、後宇多の息子、尊治を即位させ、後醍醐天皇とした。このあたり、めまぐるしい政治のシーソーゲームがくり広げられている。
 1320年にはアイヌが蜂起し、22年にはその叛乱が本州の出羽にまで広がった。同じころ、西国でも海賊と悪党による叛乱が発生する。九州では鎮西探題の金沢氏が独自の動きをみせていた。鎌倉幕府はこうした動きを強権で抑えつけようとするが、次第に行きづまってきた。
 1324年、関東は寺社・貴族の一円支配下にある所領に強い干渉を加えた。守護が領内に立ち入り、没収した所領に地頭を置く権利を認めさせたのである。王権を否定するこうした関東の動きに、後醍醐天皇はもはや我慢がならなくなった。朝廷の実権を握った後醍醐は、京都を天皇の直轄地とし、商工業者や金融業者などの神人を天皇直属民とした。独自の徳政令なども発して、活発な政策を展開するようになった。
 1324年にはいると、後醍醐は日野資朝(すけとも)、千種忠顕(ちくさただあき)、僧の文観などを集め、関東打倒の計画を練りはじめた。六波羅はこれを察知し、乱に加担しようとした土岐氏を討ち、日野資朝を処罰した。これにより叛乱計画は頓挫したかにみえた。
 1326年、北条高時は病を得て出家するが、その後も得宗として幕政を監督していた。だが、そのころ高時は田楽と闘犬に明け暮れているありさまだった。
 それを聞いた後醍醐は、ふたたび関東打倒の意欲を燃やした。準備は着々と進められた。側近の北畠親房、吉田定房、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)は、これを止めようとしたが、後醍醐は耳を貸さず、文観を通じて楠木正成などの武将を自己の陣営に引き入れた。
 1331年、吉田定房の密告により、計画が発覚すると、後醍醐は京都を出て、笠置山に籠もった。その子、護良(もりよし)も楠木正成も挙兵するが、いずれも六波羅の軍勢に敗れた。山中で捕らえられた後醍醐は隠岐に流された。
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[後醍醐天皇。ウィキペディア]
 これにより、光厳が天皇となり、後醍醐の行動を非難していた花園が院政をとることになった。
後醍醐が隠岐に流されたあとも、吉野にはいった護良は全国に挙兵を呼びかけていた。潜行していた楠木正成がふたたび姿をみせ、1333年にはいると播磨の赤松円心、伊予の河野氏、忽那(くつな)氏が蜂起し、諸国は騒然となった。
 叛乱の鎮圧に六波羅は手を焼いた。後醍醐は隠岐から脱出し、伯耆の船上山にこもった。西日本は完全に内乱状態となり、九州にも叛乱が広がった。関東は大軍を編成して西に向かわせたが、その大将のひとり、足利尊氏が反旗をひるがえし、後醍醐の側に寝返って、京都の六波羅を攻めた。六波羅の部隊は崩壊し、尊氏は京都を占拠した。
 いっぽう、東国では護良の令旨に応じて、上野(こうずけ)の新田義貞の大軍が鎌倉を攻め、防衛する北条氏一門を破って、北条高時らを自殺に追いこんだ。これにより鎌倉幕府は滅んだ。

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