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全国統一への道──網野善彦『日本社会の歴史』を読む(11) [歴史]

 16世紀後半、関東では北条氏が北上をこころみ、越後から南下する上杉謙信と激しく競り合っていた。信濃を手にいれた武田信玄は四方に進出する構えをみせ、上杉謙信と川中島で戦いをくり返していた。駿河の今川義元は京をめざして西進を開始した。尾張統一をなしとげた織田信長は1560年に、西進する今川義元を桶狭間で討ち取る。今川家が衰えたあと、徳川家康は三河で自立し、信長と同盟関係を結んだ。
 京都では1565年に細川家の家臣三好義継と、三好家の家臣松永久秀が将軍義輝を殺害した。1567年、信長は美濃の斎藤龍興を滅ぼし、本拠地を岐阜に移し、日本統一に向けて野心を燃やした。
 信長は将軍として義輝の弟、義昭を擁立し、正親町(おおぎまち)天皇の綸旨を得て上洛する。その途中、近江の六角氏を破り、入京すると摂津、河内を押さえ、さらに北伊勢をも支配した。信長は関所を撤廃し、堺、草津、大津を直轄地とし、本願寺の寺内町にたいしても賦課を求めた。
 石山本願寺と一向宗門徒はこうした信長の急速な勢力拡大に懸念をいだいた。越前の朝倉氏、北近江の浅井氏も同じだった。
 そのころ、中国地方では、石見銀山を押さえた毛利氏が備中、伯耆まで領土を拡大していた。四国では長宗我部氏が他を圧するようになっていた。
 九州には、大村純忠、有馬晴信、大友宗麟のキリシタン大名が生まれていた。イエズス会は、かれらから長崎と茂木を寄進され、畿内にも進出していた。1569年にルイス・フロイスは信長と会い、布教を認められている。
 京都では信長と将軍義昭の関係が次第に険悪になる。周囲の勢力に取り囲まれた信長は、1570年にいったん岐阜に戻った。だが、翌年、反撃に転じ、朝倉・浅井と手を組んだ比叡山を焼き討ちした。
 そのころ、武田信玄は義昭の要請を受けて、上京しようとしていた。ところが、三方原で徳川家康を打ち破ったあと、1573年に陣中で病没した。信長は義昭を京都から追放、室町幕府は滅んだ。さらに信長は北上して、浅井・朝倉を滅ぼし、北陸を制覇した。
 危機感を抱いた本願寺は、信長に抵抗する。これにたいし、信長は1574年に伊勢の長島、翌年は越前で、大虐殺をおこなって一向一揆勢を鎮圧した。そのあと、武田勝頼の軍を長篠で撃破している。
 1576年からは石山本願寺への攻撃をはじめた。しかし、信長軍は本願寺に味方した毛利の村上水軍に敗北、いったん和睦が結ばれた。
 この年、上杉謙信が急死する。東と北の脅威から逃れた信長は、羽柴秀吉に毛利攻めを命じた。
 1580年、信長は石山本願寺を包囲、顕如、教如は本願寺から退去し、本願寺は陥落した。同じころ、柴田勝家が加賀の一向一揆を鎮圧した。そのころ、琵琶湖畔の安土に、信長のつくった大天守閣が姿をあらわした。
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[織田信長。ウィキペディアより]
 その後、信長は畿内の支配を固め、みずから天下の支配者であることを表明した。1582年には甲斐の武田氏を滅ぼしている。だが、信長は引きつづき、毛利との戦いに出陣しようとしたところ、京都の本能寺で明智光秀に討たれた。それを聞いた秀吉は、急遽軍勢を引き揚げ、山崎で光秀の軍を撃破した。
 この戦勝で有利な立場を得た秀吉は、1583年にライバルの柴田勝家を越前北荘で滅ぼし、信長の子、信孝も自殺に追いこみ、日本の支配者となる道を突き進んだ。
 秀吉は石山本願寺跡に大坂城を築いた。小牧・長久手で家康と戦うが決着がつかず、和睦を結び、1585年には西国征服に力を注いだ。まず根来・雑賀の一揆を撃破し、高野山を攻め、刀狩令を出して、百姓の武装を禁じた。紀州を征服したあとは、弟秀長に四国を攻めさせ、長宗我部氏を降伏させた。そして、みずからは越中まで進軍し、北陸を手に入れた。
 秀吉は関白に就任し、天皇から豊臣の姓を与えられる。「天皇の権威の下に日本国の統治権を掌握する姿勢」が濃厚だった、と網野はいう。
 1587年には天皇の名のもとに関東・奥州惣無事令(平和令)を発し、東国統治の姿勢を表明した。そのころから西国諸国にたいする検地がはじまっている。秀吉は流通・貿易を管理し、金銀をみずからのもとに集めていた。
 秀吉はみずからの影響力の大きさを見せつけて、家康を帰服させたうえで、家康に惣無事令の実施をまかせた。家康の強さはわかっているので、敵対することはない。そのうえで、秀吉は毛利を丸め込んで、毛利勢とともに九州に攻め入り、抵抗する島津氏を降伏に追いこんだ。こうして、九州を含む西国が支配下にはいる。
 九州で秀吉は日本は神国だと宣言し、キリスト教宣教師の追放を命じた。教会領を否定し、ポルトガル人が日本人を奴隷にすることを禁じた。ポルトガルとの貿易自体は禁じていない。1588年には海賊停止(ちょうじ)令を発している。こうした措置は、宗教勢力による騒擾を防ぐとともに、貿易を国の管理下におくことが目的だった、と網野はいう。再度の刀狩令も秀吉の治安意識の強さを物語っている。
 1588年、秀吉はみずからの邸宅、聚楽第(じゅらくだい)に後陽成天皇を迎え、天皇の権威を利用して、西国大名たちからあらためて臣従の誓詞をとった。西国の支配を完成させた秀吉は、翌年、家康にゆだねていた東国の平定に乗りだす。
 まず、奥羽で戦争をおこした伊達政宗を惣無事令違反だとして追及し、これを服属させた。1590年には、秀吉、家康に対抗していた北条氏を討つため、大軍を率いて関東にはいり、これを滅ぼし、関東に家康を移封した。そのあと、秀吉は陸奥にはいり、東北の大名を服属させ、1591年から東国の検地を強行した。こうして、秀吉は全国を統一する。本能寺で信長が死んでからわずか9年である。その勢いはだれにも止められなかった。
 検地はあらためて全国でおこなわれ、これにより石高制にもとづく軍役体制が確立した。
 さらに、秀吉は人掃令(ひとばらいれい)を発令する。これにより、武士と町人、百姓の身分がはっきりとわけられた。百姓は自由な移動や商工業への従事を禁じられた(だが、それはあくまでもタテマエだった、と網野はいう)。とはいえ、この身分法令によって、「国民」が把捉されると同時に、身分によって区分けされたことはまちがいない。
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[豊臣秀吉。ウィキペディアより]
 1591年に秀吉は太閤となり、統治権を甥の秀次に譲った。子の鶴松が死んだために、豊臣家の継承を考慮せざるを得なかった。だが、秀吉は落ちこむことなく、むしろさらなる野望に駆られる。中国征服計画が渦巻き、朝鮮出兵を決意するのだ。
 1592年、文禄の役(壬辰の倭乱)がはじまる。日本軍は漢城(ソウル)を占拠し、さらに北部まで侵攻した。だが、やがて李舜臣らの水軍によって後方を攪乱されるようになり、さらに明の救援軍も南下して、戦線は膠着状態となった。明との講和が模索されるようになった。
 1593年、秀吉にあらたな子、秀頼が生まれる。秀頼が育つのをみて、1595年に秀次は自殺に追いこまれた。秀吉は伏見城を建設し、秀頼を中心とした次代の体制を構想しはじめる。
 明との和平交渉は進展しない。1596年に明の使者が来日するが、その国書をみた秀吉は激怒し、ふたたび朝鮮出兵を命じた。こうして慶長の役(丁酉の倭乱)がはじまる。しかし、今回も日本軍は決定的な勝利を得られない。残虐な行為ばかりが際立つ戦争になった。そのさいちゅうの1598年、秀吉は醍醐寺で花見を開いたあと病気になって、8月に死ぬ。朝鮮に派遣された軍は撤退した。
 秀吉は家康を筆頭とする五大老と石田三成などの五奉行に、子の秀頼に臣従するよう遺言を残していた。しかし、1599年には早くも家康と三成のあいだの対立が表面化し、両者は1600年に関ヶ原で激突した。戦いは東軍の家康方の勝利に終わり、天下は東国の王者、家康のものとなった。
 秀頼はなお大坂城にあり、東西の対立はつづいていた。1603年に家康は征夷大将軍となり、新たな幕府となった江戸の普請を諸大名に課した。
 1605年に家康は将軍職を子の秀忠に譲り、みずからは駿府に移って、大御所となった。秀忠には東国大名を統轄させ、みずからは西国大名を監督した。そして、家康は新たに西国の検地をおこない、家数人別帳をつくらせた。
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[徳川家康。ウィキペディアより]
 将軍職は譲ったものの、家康のもとには金地院崇伝、天海、林羅山、茶屋四郎次郎、ウィリアム・アダムズ、ヤン・ヨーステンなどが政治顧問として集結し、大きな政治方針の決定に参与していた。
 1609年に家康は松前氏による蝦夷支配を認め、島津氏の琉球出兵を承認している。また対馬の宗氏を通じて朝鮮との国交を回復している。ポルトガル、イスパニア、オランダ、イギリスとの貿易も認めていた。
 1611年には後陽成が退位し、後水尾が即位した。それを機に家康は上京し、秀頼とも面会した。そのいっぽうで西国大名に徳川家への臣従を誓わせ、豊臣家を孤立に追いこむことも忘れなかった。
 1613年、キリスト教勢力が豊臣家と結びつくことを警戒した家康はバテレン追放令を出し、宣教師たちを長崎からマニラに送り返した。そのうえで、方広寺の鐘の銘文に言いがかりをつけ、1614年に豊臣の大坂城を攻めた(大坂冬の陣)。翌1615年の大坂夏の陣により、豊臣氏は滅亡する。
 その後、家康は一国一城令を発し、武家諸法度を定め、禁中並公家諸法度を発し、幕府を中心とする国制を強化した。
 1616年に家康が死ぬと、秀忠が一元的に統治権を握った。秀忠はキリスト教を禁圧する姿勢を強め、1622年に55人のキリスト教徒を処刑した。
 1623年、秀忠は家光に将軍職を譲り、みずからも大御所となった。紫衣事件では後水尾天皇を激怒させている。後水尾は抗議の意志を示すため、娘の明正に位を譲った。
 秀忠はキリスト教弾圧はさらに激しいものとなった。イギリス平戸商館の閉鎖につづき、イスパニアとの通商を拒絶し、1628年にはポルトガル・オランダとの貿易も一時途絶している。海外では朱印船が拿捕される事件も多く発生した。ポルトガル、オランダとの貿易はまもなく再開されたが、幕府は次第にポルトガル船を排除するようになる。朱印船も制限されるようになった。
 1632年、秀忠が死に、家光が全権を掌握した。家光は代替わりを機に、多くの大名を改易・転封し、大名への統制強化をはかった。老中や年寄、町奉行などの職務を充実させ、軍役令を定め、新たな武家諸法度で大名や旗本の身分を定め、参勤交代を制度化したのも家光の時代である。
 こうして、「幕府、諸大名が一体となった公儀として、町人、百姓を支配する武家統一国家がここに確立した」と網野はいう。
 1633年から35年にかけ、日本人の海外渡航禁止、外国船貿易の統制、キリスト教の禁止、その他を定めた禁制が出された。1936年にはポルトガル人が長崎の出島に閉じこめられた。
 1637年、島原や天草のキリスト教徒が叛乱をおこした。島原の乱である。乱は簡単には平定されない。翌年になって、幕府はオランダ軍艦の砲撃を借りて、12万の軍勢でようやく乱を鎮圧する。これを機にキリスト教徒への弾圧はさらに強まり、1639年にはポルトガル人が追放され、41年には平戸のオランダ商館が長崎の出島に移された。これにより、日本はいわゆる鎖国体制にはいった。
 しかし、日本は海外にたいする窓口を完全に閉じたわけではなかった。北方ではアイヌが山丹交易に携わっていたし、琉球は中国大陸との貿易を確保していた。そして、アイヌは松前氏と、琉球は島津氏とつながりをもっていた。対馬もまた朝鮮半島の窓口になっていた。さらに長崎はオランダを通じて欧米とつながっていただけではなく、中国大陸との通商窓口でもあった。
 江戸幕府の特徴は東国的色彩が強かったことだ、と網野は書いている。日光の東照宮が徳川の権威の象徴として位置づけられるようになった。
 1636年、幕府は宋銭、明銭、その他模造銭の流通を禁止し、独自の通貨、寛永通宝を発行するようになった。貨幣については、まだ東国の金、西国の銀という地域差が残っていたものの、それでも幕府は通貨の統一に努めた。この時代、鉱山からの採掘はきわめて活発だった。
 海禁によって、列島外の地域との交流は大きな制約を受けた。それでも列島内では商業はにぎわい、物資の輸送や労働力の移動も活発だった。平和の到来にともない、信用経済も安定度を増した。いっぽう仏教勢力の退潮とともに世俗化が進み、商工業や都市は大きく発展した。
 とはいえ、江戸時代の主流は農本主義にちがいなかった。江戸時代の村の数は6万3000ほどだった。三都と呼ばれる江戸、大坂、京都は特別として、各藩には城下町や門前町、港町などがあったが、行政的には町の数は限られ、圧倒的に村が多い。
しかし、村では農業だけがおこなわれていたわけではない。「海村では漁撈・製塩や廻船、山村では木材・木器・薪・炭の生産、平地村でも女性の携わった桑による養蚕や、木綿・菜種の栽培、絹・綿織物の生産が広く行われて」いた、と網野は記している。商人や職人、廻船人、芸能民もいた。
 村では庄屋や名主、肝煎などと呼ばれる有力百姓が年貢を請け負っていた。百姓の識字率は高く、少なくとも3割か4割はあったと考えられている。
 都市では大衆的な文化が花開いた。とはいえ、武士による締めつけも無視できない。遊女たちや被差別民は一定の場所に集住させられ、差別されるようになった。時代が進むと、若衆狂いや博打、かぶき者などもあらわれる。
 17世紀前半には大規模な治水や水田開発がおこなわれた。綿作や菜種栽培、養蚕も盛んになってくる。こうして経済は資本主義に向かって新しい段階にはいっていった、と網野は論じている。
 縄文時代から17世紀までを扱う本書『日本社会の歴史』は、これでいちおう幕を閉じる。しかし、さすがに中途半端と感じたのだろうか、最後に網野は17世紀後半から20世紀後半までの歴史を展望する章を設けている。今回はそれも紹介するつもりでいたが、くたびれてしまった。次回をもって最終回とする。

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