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資本主義以前の産業──ウェーバー『一般社会経済史要論』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 農業中心の社会でも農業以外に産業がなかったわけではない。ここでは、そうした産業(主に鉱工業)が資本主義時代以前にどのように発達してきたかを、ウェーバーは論じようとしている。
 工業とは原材料を加工して有益な財をつくる作業をいう。その作業によってつくられたものが工業製品である。
 原材料の加工という点では、工業は家族の自己需要を満たすための労働からはじまった。だが、それが他人の家計のためにおこなわれることがある。
 たとえば農奴が荘園領主のためにはたらいたり、インドの農民が村のためにはたらいたりする場合、かれらは領主や村落から実物ないし貨幣での給付を受ける。これがさらに発展していくと、みずからの営利のために手仕事がおこなわれることになる。
 女性はもともと耕作奴婢だった、とウェーバーはいう。料理や機織りも女性の仕事だった。これにたいし、戦争や狩猟、家畜の飼育に従事する男たちは、金属品や革なめし、肉の調理を担当していた。家の普請や舟の建造なども、村じゅうの男たちの仕事だった。
 ウェーバーによると、最古の職業は呪医だった。鍛冶屋もまた呪術のようにみられていた。
 熟練の手仕事は首長や荘園領主の家計のもとでおこなわれる。最終的にそれは市場をめざすようになるとしても、その中間段階として他人の注文に応じて仕事をする手工業者が生まれる。手工業者はみずから原料と労働手段を持っている場合もあるし、原料と労働手段のどちらか、とりわけ原料を注文者から支給される場合もある。注文者は消費者である場合も、商人的企業家である場合も考えられる。
 労働場所は自分の家であることも、家の外であること(たとえば仕事場や工場など)もある。労働手段は道具から設備まで、さまざまだ。設備を所有するのは村であったり、修道院であったり、企業家であったりする。企業家は固定資本として設備を工場に配している。
 産業の発展をふり返っておこう。
 まず家族産業から部族産業へという道筋が想定できる。この場合は部族が特定の原料、あるいは技能を独占している。ここからは何らかの商品が生まれ、部族外にも売られるだろう。
 インドではカーストにもとづいて、人びとが伝統で定められた職業につき、生産・サービス活動に従事していた。
 市場のための専業化は職業分化を生じさせる。村落または領主が他部族出身の手工業者を呼び入れて働かせるときには、その生活の面倒を村落や領主がみなければならない。ウェーバーはこれをデミウルギーと呼んでいるが、この場合は自己需要のための生産がおこなわれるにすぎない。
 これがさらに進むと、市場のための生産がおこなわれるようになる。それを担うのは村落工業やフローンホーフ(荘園)工業である。もともと村落や領主の需要をまかなうための生産が、次第に市場に向けられるようになるわけだ。
 古代においては、貴族は大所有地で働く奴隷のなかに手工業者をかかえていた。かれらは鍛冶や製鉄、建築、車両整備、衣服づくり、製粉、パン焼き、料理のために働き、都市でも主人に仕えていた。エジプトやメソポタミアでは、王に隷属し、みごとな芸術品をつくる労働者もいた。
 こうした状態から、顧客生産や市場生産に移るためには、何よりも交換経済がある程度発達し、一定の顧客が存在しなければならない、とウェーバーは論じる。
 最初におきた現象は、貴族(領主)の奴隷がつくった織物や陶磁器が市場に流出したケースである。
 次に、領主や大地主が積極的に企業経営に乗り出す場合がある。古代ローマ時代のある大地主は、副業として、製瓦業や砂石採掘業を営んでいた。奴隷女を仕事場に集めて、紡績の仕事をさせていた者もいる。中世の修道院は醸造所や晒布場、蒸留所などを営んでいた。
 いっぽう都市では、商人が出資して企業をつくり、不自由労働者を集め、仕事をさせるようになった。古代ローマでは、貴族がエルガステリオン(作業所)に奴隷を集め、武器や高級品を製造させていたケースもある。奴隷を確保するのは難事であり、奴隷による大規模経営はめずらしい例外だった。しかし、育成した奴隷に経営をまかせ、領主がレント(収益)を徴収するケースがあったことも、ウェーバーは指摘している。

 奴隷制にもとづく古代企業は、不特定な市場ではなく、かぎられた狭い市場を対象としていた。
 古代ギリシア人は美術品を除き、ごくささやかなものしか所有していない。古代ローマでもベッドは贅沢品で、人びとはマントにくるまって地べたで寝ていた。これにたいし、中世の都市貴族は多くの実用的な家具をもつようになっていた。
 10世紀から12世紀にかけ、北ヨーロッパでは、古代の帝国にくらべ、はるかに広範囲な購買力あるいは買い手が存在した、とウェーバーはいう。
 市場が拡大したのは中世の10世紀ごろからで、農民の購買力が増えたのが大きな要因だった。農民の隷属関係は次第に厳しさを減じており、いっぽう農業の集約度は進歩していた。こうした背景のもとで、手工業が興隆してくる。
 12世紀、13世紀になると、王侯によって多くの都市がつくられ、都市の時代がはじまる。ヨーロッパでは、奴隷制度はすでに引き合わなくなっていた。
 皇帝が都市に特権を与えたため、貴族や商人、隷農、熟練手工業者などが都市に集まってきた。その後、帝国の力が衰えるとともに、都市の独立傾向、自治的傾向が強まっていく。
 都市に定住した手工業者は、土地を所有した完全市民ではなく、都市の内外に住んでいる領主や後見人(ムントマン)に賃租を支払わなくてはならなかった。また、都市のなかには、独特の手工業者秩序をもつフローンホーフ(荘園)も存在した。
 自由手工業者は道具はもっているが、固定資本(設備)はもっていない。一般に顧客の注文に応じてはたらく生産者だった。かれらが賃仕事にとどまるか、つくった製品を売って生活する仕事人になるかどうかは、市場の状況によってことなっていた。
 賃仕事は富裕な階級のために働くところに成立する。これにたいし、つくった製品を売る仕事(価格仕事)が成立するのは、多くの民衆を相手とする場合だった。
 多数の民衆の購買力は、価格仕事が成立する前提であり、これがのちに資本主義成立の前提となっていく。しかし、だいたいにおいて古代でも中世でも、手工業者は賃仕事が多かった、とウェーバーは述べている。

 手工業者が職業別に結合するとツンフト(職人ギルド)が結成される。ツンフトは内部には労働の規制、外部には独占化を求めた。
 ツンフトが本格的に誕生するのは、ヨーロッパ中世においてである。競争が激化するなか、仲間の生業を維持することを目的に結成されたとみてよい。
 ツンフトは仲間の経済機会を均等にするよう努めた。そのためにさまざまな規制が設けられた。一人の親方が突出した資本をもつことは禁止され、労働も伝統に沿っておこなわれねばならず、労働者(徒弟)の数も統制された。商品の品質は監査され、原料は共同購入されることもあった。
 ツンフトは製品ごとにこまかく設けられ、ひとつのツンフトが別のツンフトの領分を侵すことは禁止されていた。価格は公定され、ツンフトが商人のために働くことも禁止されるなど、ツンフトにはさまざまな規制が設けられていた。
 ツンフトは対外的には純粋な独占政策を発揮した。仲間どうしの違反には厳しく目を光らせ、ツンフトが絶対的権力を有する地域内においては、ほかの手工業を認めなかった。価格は公定されていた。ツンフトにおいては、同一労働者がはじめからおわりまで完成品を生産することになっており、それによってツンフト内部で大経営が発生しないよう配慮されていた。
 だが、ツンフトは次第に壁にぶつかるようになる。新たな営利の機会が減ってきたこともそのひとつだ。修行期間や無報酬期間が長くなり、親方にはなかなか昇進できなくなっていた。親方の数は相変わらず制限されている。親方の地位が世襲されることも多くなった。そこで、ツンフトから離れる平職人も増えてくる。

 ツンフトについて、ウェーバーはいくつかの点を追加して述べている。
 ひとつはツンフトが都市という地盤のうえにはじめて姿を現したことである。中世都市の住民は、さまざまな身分をもつ人の寄せ集めで、その大多数は自由な経歴をもっていなかった。手工業者のうちで市民と認められている人はごくわずかだった。
 都市領主はツンフトの代表を任命し、ツンフトの経営にまで干渉しようとした。しかし、かれらはそうした都市領主と闘い、みずからツンフトの代表者を選ぶとともに、都市領主の干渉をはねのけた。不当な賦役や租税、賃借料とも闘った。都市貴族と政治上平等な地位を得るために闘った、とウェーバーは述べている。
 ツンフトはこうした闘いに勝利を収めた。だが、その結果、多くの敵をもつことになった。
 ツンフトの反対者は、まず消費者だった。ツンフトの市場独占と独占価格に対抗するため、都市当局は自由親方を任命したり、市営の肉の販売所やパン焼き窯を設置したりして、ツンフトに対抗した。
 ツンフトには別の競争者がいなかったわけではない。それが荘園や修道院の手工業者である。とりわけ「修道院はツンフトに対して手ごわい競争をいどむこととなり、したがってツンフトは激烈にこれと闘争した」とウェーバーは述べている。そして、商人と結びついた田舎の手工業者の存在も無視できなくなってくる。
 ツンフトと労働者との関係もあやしくなってきた。ツンフトが職人の数を制限したり、なかなか親方になれないのに平職人にたいする親方の規制が厳しくなるいっぽうだったりしたからである。
 ツンフトは小売商人とも対立した。小売商人にとっては、公定価格を崩さないツンフトは商売の妨げにほかならなかった。
 ツンフトどうしの闘いもあった。たとえば毛織物工業ではその生産工程が横断的に分割されており、最終的な毛織物ができるまで、選毛・洗毛から染毛、仕立てにいたるまで、その工程ごとにツンフトが分かれていた。その全工程をどのツンフトが制するかで、争いが絶えなかったのだ。とはいえ「生産過程中のもっとも多く資本力を有する段階が勝利者となる」ことが多かった、とウェーバーは指摘する(毛織物の場合は、選毛・洗毛のツンフト)。

 ツンフトはなぜ崩壊するにいたるのか、ウェーバーが次に論じるのはこのテーマである。
 ツンフトの親方が商人または問屋となって、原料を買い入れ、これを他のツンフトに配分し、全生産過程を統合して製品を売るようになることはじゅうぶんに考えられる。この場合、ツンフトはカンパニーに転化し、いわば商人ツンフトが生まれたことになる。
 原料が高価で、その輸入に巨額の資本を必要とする場合、ツンフトは輸入業者(たとえばフッガー家)に依存しないわけにはいかなかった。そうした高級原料には琥珀(こはく)や絹などがあり、初期の木綿もそのひとつだった。輸入原料だけではない。ツンフトは国外に製品を売る場合は輸出業者に頼らざるをえなかった。
 問屋制度を促したのは繊維工業だ、とウェーバーは話している。ヨーロッパでは11世紀以来、羊毛と麻の戦いがあり、17、18世紀には羊毛と木綿の戦いがあって、けっきょく木綿が勝利を収めた。
 中世都市の繁栄を支えたのは羊毛産業だった。フィレンツェでは羊毛職人のツンフトが大きな政治勢力となっており、その背後にはすでに問屋の存在がみられた。パリの羊毛問屋はシャンパーニュの大市のための仕事をしていた。フランドルでもイギリスでも問屋制度が発達した。
 イギリスはもともと粗製の羊毛を輸出していたが、13、14世紀には未染色の半製品、そしてついに完成品の輸出をおこなうようになった。それが可能になったのは、都会の問屋と田舎の職工が結合することによってである。
 両者の争いがなかったわけではないが、問屋制度の発達によって、ツンフトは次第に影響力を失っていく。職人は問屋のために直接労働する家内工業的小親方に転じていった。
 問屋制度は次のような段階をへて発展していった、とウェーバーはいう。すなわち(1)手工業者からの買い入れ独占、(2)原料の配給、(3)生産過程の管理、(4)道具の配給、(5)生産過程の結合、である。
 問屋制度が長く持続した理由を、ウェーバーは産業革命以前の時代は、固定資本の割合が少なかったことに求めている。このことは、問屋制度が広範な家内工業に依存していたことを意味している。
だが、まもなく工場が生まれようとしていた。

 家庭から分離された仕事場生産は昔から存在した。荘園や組合が仕事場をつくることもあった。それが大規模な仕事場になることもあった。マニュファクチュアは多くの労働者を一カ所に集めて、規律をもって労働させる制度である。工場では、企業家が固定資本(設備)と労働力を投入し、異質結合的に協働がおこなわれる。
 工場成立の前提条件は、大量かつ継続的な販路が存在することで、そのためには市場の安定と貨幣の購買力が求められる。工場は家内工業や問屋制度でつくられるものよりも、より安価に商品を供給しなければならない。
 工場での生産には豊富な原料と固定資本(設備)、それに多くの自由な労働力が欠かせなかった。イギリスで自由な労働力が得られたのは、農民からの土地収奪がなされ、農村人口がプロレタリア化したためだ、とウェーバーは述べている。
 ツンフト的な手工業は固定資本なき経営であり、大きな設備を必要としなかった。しかし、近代以前においても、設備を必要とする仕事場があった。たとえば製粉所や製材所、搾油所、晒布所、パン焼竈、醸造所、鋳造所、鍛鉄場などで、これらは王侯、荘園領主、都市貴族、あるいは市民によって営まれていた。
 16世紀のイギリスのある繊維工場は工場の走りだが、ウェーバーによると、そこには200の織機が据え付けられていて、職工たちは賃金をもらうために機械の前で働いていた。少年が補助的に働く姿もみられた。だが、手工業者の訴えにより、1555年に国王はこの工場を禁止している。当時はまだ問屋制手工業者の影響が強かったのだ。
 工場に新しい進展がみられるようになるのは、17、18世紀になってからである。近代的分業と同時に、人間以外の動力源が用いられるようになった。最初は馬力起重機、ついで水や風が利用された。風を利用した代表はオランダの風車で、水は採鉱業でも欠かせなかった。
 工場の先駆者は中世の王侯の貨幣鋳造所だった、とウェーバーはいう。武器、さらに軍隊の被服や火薬を製造するためにも秘密を保持する工場が必要とされた。
 需要という点で確実なものとしては奢侈的需要があった。ゴブラン織や敷物、金の器や陶器、窓硝子、ビロード、絹、石鹸、砂糖など、上層階級のための需要を満たすための工場がつくられた。こうしたものをつくるには特別の設備が必要だった。
 美術品にカネをだすことのできない庶民は紙でつくった壁紙を求めたというのはおもしろい。「民衆は、模造品で、上層階級の行うような奢侈的消費の代用物をえていた」とウェーバーはいう。それでも市場はほぼ貴族階級にかぎられていた。
 フランスではフランソワ1世(在位1515〜47)が武器や壁紙などの王立工場をつくっていた。イギリスではツンフトが都市を制していたため、工場は地方に建設する以外になかった。
 ドイツで最初に工場がつくられたのは16世紀のチューリヒ(現スイス)で、ユグノーの亡命者が絹と緞子(どんす)を製造し、それがたちまちドイツの諸都市に普及した。16世紀から17世紀にかけ、アウグスブルクでは砂糖や緞子、ニュルンベルクでは石鹸、アンナベルクでは染色、ザクセンでは織物、ハレとマクデブルクでは針金の工場がつくられ、そして18世紀には王侯直営の陶器工場がつくられている。
 ウェーバーは工場は手工業から発生したわけではないという。工場でつくられたのは、木綿、陶器、緞子など、新しい生産方式を必要とする新しい生産物だった。
 同様に工場は問屋制度から生まれたものでもなかった。工場において重要なのは固定資本という要素だった。その意味では、工場はむしろ荘園領主の設備を継承したものといえる。機械は工場に先行したわけではなく、工場が蒸気と機械の発展を促したという見方をウェーバーはとっている。
 近代的工場の成立は企業家と労働者に重大な影響をもたらした。企業家はいまや市場のための生産に責任を負うことになった。労働者もまた自由な労働者として、企業と労働契約を結んで、仕事をすることになった。
 だが、こうした工場制度が成立したのは、ヨーロッパの一部に限られていた。インドではカースト制度、中国では村落的氏族関係が大経営の成立をさまたげた。大経営は古代の奴隷制、中世の不自由労働からも生まれるはずがなかった。ツンフトによる拘束も工場の発展を阻害した。にもかかわらず、工場が誕生することができたのは、機械化という刺激があったからだ、とウェーバーはいう。そして、その機械化の推進力となったのは、鉱山業の発展にほかならなかった。
 すなわち、石炭と鉄の時代がはじまるのである。

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領主経済の発生と崩壊──ウェーバー『一般社会経済史要論』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 空間や時間を飛び越えて、歴史を型(パターン)によってとらえていくのが、ウェーバー独特の方法だった。それは全世界を把握せずにはおかぬという、すさまじい知の火花だったともいえるが、そのめくるめく展開に時についていけぬ思いをいだくのは、ぼくだけではないだろう。
 今回の講義で、ウェーバーは、共同体のなかから、どのようにして領主の権力と財産が生じるのかを論じはじめている。
 最初に首長の権威があった。首長は仲間に土地を分配する権限をもっていた。ここから権威の世襲化が発生し、それが権力となっていったことが考えられる。首長による給付にたいしては、貢納義務(労役や軍務を含む)が生じた。
 首長はまた軍事指導者でもあった。戦いによって得られた土地は家臣に分配された。武装の強化と軍事技術の進歩が職業的戦士身分をつくりだした。かれらは首長の命にしたがって、敵を征服し、隷属させ、その支配下にあった農民を隷農とした。
 中間の非戦闘民がひとりの領主をパトロンとし、かれに仕えることで、土地の経営をゆだねられることもある。
 首長が領主として定住し、人や牛馬を多数所有して、大規模な開墾にあたるケースも生じた。開拓された土地はたいてい貸与され、それを貸与された者は貢納と奉仕の義務を負うことになった。貨幣や穀物が貸与されることもある。古代ローマには多くの債務奴隷がいた。
 しかし、首長の前身は軍事指導者ではなく、むしろ雨乞い祈禱者のような呪術的カリスマであることが少なくなかった、とウェーバーはいう。かれらはタブーをつくることもでき、それによって共同体を支配した。
 もうひとつ、首長の力を大きくした要因が対外交易の掌握である。首長は交易を管理し、商人を保護し、市場特権を与える代わりに関税を要求した。王が交易を独占する場合はエジプトのファラオのような権力が成立し、多くの貴族が商人に金融をおこなう場合は中世のヴェネツィアやジェノヴァのような貴族による都市支配が生じた。
 領主経済はふたつの方向に発展する。ひとつは王侯が官僚機構をもち、経済を中央に集中する方式である。もうひとつは王侯が従臣や官吏に身分を与え、かれらに土地の管理をゆだねるやりかたである。

 東洋と西洋では、治水耕作か森林耕作かで、王侯の役割が大きく異なっていた。
 灌漑治水には官僚機構と組織的計画経済が必要だった。世界でもっとも早く官僚制を築いたのはエジプトとメソポタミアであり、ここでは官僚は王に隷属していた。プトレマイオス朝では、官僚だけではなく、兵士も農民も、国の人口すべてが王に直属すると考えられていた。農民は国から与えられた田畑に縛りつけられ、貢納の義務をはたさない場合は、いかなる保護も受けられなかった。
 貨幣経済は王の家政(オイコス経済)から発達する、とウェーバーはみている。貨幣は王の家政に欠かせなかった。貨幣は対外交易にも必要だった。何かを生産するために労働力を動員せねばならなくなったときにも貨幣が必要となった。
 オイコス経済は枝を広げていく。エジプトのファラオは全国に穀倉をもち、そこをいわば穀物振替銀行とし、小切手を振り出していた。オイコス経済が定着すると、租税もまた貨幣でなされるようになる。対外市場だけではなく、国内市場も生まれた。

 いつの時代も困難なのは、安定した租税を確保することである。権力者は租税を徴収するためのさまざまな方策を考えだした。
 たとえばインドでは、ジャギルダールと呼ばれる業者(地主)が徴税や新兵補充を請け負っていた。中国のように官吏が租税徴収権を専有する場合(もちろんその一部は官吏の収入になった)もあった。トルコのように租税の徴収を軍に委譲するのは、王が兵に給料を支払えない場合だった。こうしたやり方はアジア特有の方式だった、とウェーバーはいう。
 これにたいしローマ帝国では、首長または荘園領主に徴税を請け負わせる方式がとられた。支配者はそれによって徴税のための行政機関つくる煩雑さを省くことができた。
 植民地の場合は特殊である。経済面でいえば、植民地を築くのは、征服者が租税と産物を原住民に課するためだったといってよい。そうした収奪は、たとえばオランダやイギリスの東インド会社などを通じておこなわれた。
 現地の首長は徴税に連帯責任を負い、荘園領主として、農民を隷属させることになった。スペイン領南アメリカでは、地域のインディオに貢納と賦役を課するエンコミエンダの権利がスペイン人入植者に与えられていた。

 アジアでは財政面においても国家による専制がおこなわれていたが、ヨーロッパでは封土(レーエン)にもとづく封建制が成立した。封土を与えられた領主は契約にもとづいて君主に仕え、貢納と軍役の義務を負った。
 一般に領主の封土は世襲された。
 同じ封建制でも、トルコの場合、与えられる封土は、軍功にともなう授封(フリュンデ)にとどまり、一代限りだった。日本の制度は、当初トルコの制度に近いものだったが、次第にヨーロッパに近いものとなった、とウェーバーは述べている。
 もっとも純粋に封建制度を発達させたのは中世ヨーロッパである。その素地は、ローマ帝国末期の荘園制度にあった。荘園は開墾によっても征服によっても発展した。そこに田畑を失った農民が、経済的強者の庇護を求めてなだれこんだ結果、荘園はさらに拡大することになった。
 教会にたいしても、さかんに土地の寄進がおこなわれた。こうした荘園をベースにして、ヨーロッパでは封建制が成立していく。
荘園領主は国家権力から相対的に独立して、荘園の土地、人民、裁判権を保有することに努めた、とウェーバーは述べている。
 13世紀になると、荘園領主と荘民との関係を定めた荘園法が広く適用されるようになった。領主と荘民の義務と権利が定めた荘園法によって、領主と荘民の融和が進むようになった。農民への需要が増えたため、かつての不自由民は次第に有利な条件を得るようになり、それにより農奴の観念は薄れていったという。
 領主は次第に農民を労働力ではなく貢納者とみなすようになった。貢納の内訳は、作物の貢納や土地の変更にたいする手数料、相続のさいの税、結婚許可料、森林や牧地の使用料などである。ただし、農民には運送賦役や道路橋梁の建設作業なども課せられていた。
 領主は全土に散在する所有地をもっていた。そうした領地には荘司が派遣され、荘園の管理がおこなわれていた。
 そのいっぽう、中世においても自由農民の土地がなかったわけではない、とウェーバーはいう。もちろん、こうした自由農民も領主にたいする貢納義務を負っていた。

 貨幣経済が発展すると、荘園制度にも資本主義的要素がはいりこんでくる。それはふたつの形態をとってあらわれた。ひとつはプランテーション(プランターゲ)、もうひとつは大規模農地経営(グーツヴィルトシャフト)だ、とウェーバーは述べている。
 プランテーションは強制労働にもとづき農産物を販売することを目的とする経営だ。古代においてはプランテーションでワインやオリーブオイルがつくられ、近世ではサトウキビ、タバコ、コーヒー、綿花などがつくられていた。
 古代のプランテーションはカルタゴが発祥で、いつでも市場で奴隷が買えることがプランテーションの前提になっていた。プランテーションはローマにももちこまれ、所領の農園では零細小作人(コローネ)と奴隷(セルヴィー)が、厳格な軍隊的規律のもとではたらかされていた。だが、奴隷市場の縮小とともに、この方式は徐々に無理がでてくる。
 合衆国南部のプランテーションは、綿花産業の大発明により綿花の需要が急増したことからはじまった。アフリカ大陸から大勢の黒人奴隷がつれてこられた。しかし、19世紀にはいり奴隷の輸入が禁止され、利用可能な土地が欠乏してくると、南部では奴隷を養成する方策がとられるようになった。
 南北戦争の結果、奴隷は解放された。だが、その後に採用されたのは、奴隷経済を新たな搾取体制である分益小作制に組み替えていくことにほかならなかった。黒人には投票権が与えられず、カースト的差別のもとに置かれたままで、移動の自由さえままならなかった。
 貨幣経済の進展にともなう荘園のもうひとつの方向は、荘園を商品販売に適合する資本主義的大経営に改編することだった、とウェーバーはいう。それがグーツヴィルトシャフトと呼ばれる大規模農地経営にほかならない。大規模経営には、牧畜と農耕、さらには両者混合のパターンがみられた。
 まず牧畜についていうと、南アメリカのパンパスでは、小規模資本による大規模牧畜がはじまった。
 スコットランドでは1746年のカロデンの戦い以降、スコットランドの独立が失われてから、新たな動きが生じた。領主たちは氏族の小作人たちを追いだし、その土地を牧羊地に変えていったのだ。背景には14世紀以来のイングランド羊毛工業の発達がある。イングランドでは早くから農民を土地から追いだす囲い込み運動がはじまっていた。
 囲い込み運動の目的は大規模な牧地経営により羊毛を確保することだったが、穀物を大量生産することにも重点が置かれていたといってよいだろう。1846年の穀物関税撤廃にいたるまでの150年間、イギリスでは穀物にたいする保護関税のもと、小農民が土地を奪われ、大規模農業化が進展していたのだ。
 ロシアでは農民は土地に縛りつけられ、租税簿に登録されていた。領主は農民(農奴といってよい)にたいし無制限な権力を振るっていた。領主は不従順な農民をシベリアに追放する権利をもち、いつでも農民の財産を没収することができた。農民は年貢源として、あるいは労働力として領主から利用され、この状態は19世紀半ばまでつづいた。
 ドイツの西部・南部と東部では、荘園の形態がずいぶんちがう。西部・南部では荘園は分散し、農民は年貢を取り立てられるだけなのに、東部のフロンホーフ(荘園)では貴族の大領地が存在していた。大領地農場経営が進展したのは東部においてである。ここでは領地に付属する世襲的な農業労働者(インストマン)が農場を支えていた。

 次の大きなテーマは、こうした荘園制度がなぜ崩壊するにいたったかである。荘園の崩壊は、農民や農業労働者の人格的解放と移動の自由、荘園の土地の解放をもたらした。それだけではない。荘園制の崩壊は、領主の特権や封建的束縛を奪うことになった。
 荘園制度崩壊のかたちは一様ではない、とウェーバーはいう。
 イギリスのように農民から土地が収奪された場合、農民は自由になったが、土地を失った。フランスのように荘園領主から土地が収奪された場合は、領主が土地を失ったのにたいし、農民は自由と土地を得た。領主と農民の妥協により、農民が土地の一部を得た場合もあった。
 荘園制の崩壊をもたらした内的な要因は、貨幣経済の進展により農産物市場が拡大し、領主も農民もその生産物を売る機会に敏感になったことである。だが、それだけならば、むしろ領主による農民収奪と大規模経営を強めただけで終わったかもしれない。
 重要なのは、むしろ外的な要因だった、とウェーバーはいう。
 都市のブルジョワ層が、荘園制度を市場の障害とみるようになったのだ。農民が荘園に縛りつけられているかぎり、労働力の供給はおぼつかないし、また商品の購買力もかぎられてしまう。こうして、都市のブルジョワ階級は農場領主の支配に敵対するようになった、とウェーバーは論じる。
 初期の資本主義産業は、ツンフト(職人ギルド)の支配を避けて、直接地方の労働力を利用したいと考えていた。自由な労働力を確保するためには荘園の存在が大きな障害となった。
 土地自体にたいする営利的関心も、封建的束縛から土地を解放することを求めていた。さらに国家自体も、荘園の崩壊によって、かえって農村の租税収入が増えると期待するようになった。
 ウェーバーは荘園崩壊をもたらしたさまざまな要因を挙げている。しかし、その崩壊のかたちは多岐にわたるとして、各国の状況をこと細かに分析することを怠らなかった。そのいくつかをごく簡単に紹介しておこう。
 イギリスでは法律による農民解放はおこなわれなかった。荘園を崩壊させたのは、まさに市場の力だった。
 ウェーバーはいう。

〈イギリスでは、市場の存在という事実が、それだけで、しかも何らかの力が外部から加わることなく、まったく内部から荘園制度を崩壊せしめたのである。これに応じて、領主に有利なように、農民からの土地収奪がおこなわれた。農民は自由をえたが、しかし土地を失った。〉

 これにたいし、フランスの場合は、1789年の革命が一挙に荘園制度を崩壊させた。国家は亡命者と教会の土地を没取して、市民と農民に売り払った。それにより、フランスはイギリスとちがって、中小農民の国になってしまった、とウェーバーはいう。
 南ドイツでは進歩的なカール・フリードリヒ辺境伯が1783年に農民解放を実施していた。バイエルンでも1808年に農民の隷属的支配が禁止され、貨幣による貢納が行き渡るようになった。
 プロイセンでは王領と私領で農民にたいする扱いがいちじるしく異なっていた。フリードリヒ大王の時代から王領では農民にたいする手厚い保護がほどこされ、近代的な労働制度が準備され、農民による土地の購入も認められていた。
 いっぽう、私領では伝統的な貴族と領地付属農の関係が持続していた。こうした状況を打ち破ったのはナポレオンの侵攻であり、これにより農民は解放された。しかし、その後、プロイセンではユンカー(土地貴族)によるゲーツヘル(直営農地)の拡大が生じ、農業労働力のプロレタリア化が進んでいくことになる。
 ロシアでは、クリミア戦争(1854〜56)の敗北後、アレクサンドル2世のもとで農民が解放された。しかし、その解放は一面的で、農民は村落の連帯責任から解放されたわけではなく、移動の自由をもたなかった。ミールによる縛りつけは、都市に出た農民にもおよんだ。
 いずれにせよ、各国それぞれの事情をともないつつ、荘園は解体され、今日の農業制度がつくられていったのである。
 農村社会においては、大地主は貴族だった。しかし、貴族層が残ったのはヨーロッパではイギリスだけだ、とウェーバーはいう。フランスでは農村から貴族が排除され、都会の金権層だけが残った。
 ドイツでも政治的な地主の力はそがれたが、東部では大規模地主のユンカーがイギリスと同様の貴族的社会層を形成していた。だが、それは「その過去の歴史に由来する封建的特徴を帯び、農業企業者として、市場利益獲得闘争場裡の経済的日常闘争のうちに巻きこまれてしまっている人々から構成された市民的農村中産階級なのである」と、ウェーバーは注記することを忘れていない。
 今回の講義を終えるにあたって、ウェーバーはこうまとめている。
 貨幣経済の進展とともに、囲い込みや分割、再編によって荘園制は崩壊し、共有地の遺物も消し去られて、土地の個人的私有制が実現した。
 家族共同体はひじょうに小さくなり、いまや妻子を有する家長が個人的私有財産の担い手となるにいたった。家族の機能は消費に局限されるようになり、家族は共産制から遠く離れて、所有財産の相続ばかりに配慮する存在となった。そうした家族の変形が、資本主義の発展と密接にかかわっていることはいうまでもない、とウェーバーは話している。
 こうして、講義のテーマは、資本主義が発展する経緯へと移っていく。
 興味があれば、またお読みください。

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マックス・ウェーバー『一般社会経済史要論』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 人類は農業を基本として、経済社会を築いてきた。
 ウェーバーは遠く時代をさかのぼり、農業制度を論述することから講義をはじめている。講義録の性格上、それはあまり厳格な分析ではなく、話題があちこち飛ぶようにみえるのは、やむをえないのかもしれない。
 最初にウェーバーはいう。
 古代ゲルマン人は村落を形成して暮らしていた。その村がどんなものかというと、何層もの円をイメージしてみればよい。円の中心には数々の屋敷が存在する。円の二層目は垣をめぐらせた庭だ。そして三層目が農耕地。四層目が牧地で、最後の五層目に森林が広がっている。土地は共有されているわけではなく、居住者にそれぞれ一定の持ち分が与えられていた。
 耕地は三圃式によって営まれている。第一区画には冬穀物、第二区画には夏穀物がつくられており、第三区画は休閑地だ。その区画は年ごとに入れ替わって輪作される。
村長は村の収穫を管理し、村の秩序を維持する役割を果たしていた。家屋や土地は村人の持ち分として専有され、相続された。
 村々は集まってマルク共同体を形成した。この共同体は森林や荒蕪地を共同マルクとして所有していた。そうした森林や荒蕪地は個々の村落共同体には帰属せず、あくまでもマルク共同体に属した。
 8世紀末のカロリング朝以前に、こうしたマルク共同体はすでに誕生していた。マルクの長は世襲され、国王や領主によって任命されるのが通例だった。
 共同体の構成員は原則的には平等である。しかし、家族が増減したりすると、耕地の所有に差が出てくる。手工業者など新たな労働力の到来も耕地の所有に影響を与えた。さらに国王や諸侯、領主などによる開墾もあって、マルク共同体のかたちは次第に崩れていく。
 ゲルマン的な共同体は、エルベ川とウェーザー川のあいだだけではなく、南ドイツ、スカンディナビア、ベルギー、北フランス、エルベ川の東方、イギリスの一部にまで広がっていた。
 ドイツの南東部にはスラブ的な家族共同体がはいりこみ、それがバルカン半島へと広がっていた。そして、南西部にはローマ的な大土地所有形態が残存している。
 ウェーバーによれば、ゲルマン的な農業制度が崩壊するのは、上からの干渉、すなわち政治的領主や荘園的領主の力によってである。南ドイツでは荘園領主が耕地の整理に着手し、北ドイツでは、プロイセンが旧来の耕地分配法を廃止し、共有地を分割するとともに、農民による耕地の個人経営を推し進めた。
 ウェーバーはゲルマン以外の土地制度にも言及している。
 スコットランドやアイルランドにはケルトの共同体が存在した。その最古のかたちは家畜経済である。
 ロシアにはミールと呼ばれる農村共同体が存在した。村落は街路に沿って形成され、屋敷の背後に庭と耕地が広がっていた。耕地の専有は一時的なもので、村落共同体によって、何年かごとに見直され、再分配された。村民は土地にたいする請求権をもっていたものの、かならずしも平等ではなく、実際にはクラークと呼ばれる土豪が村を仕切っていた。
 ミールは古代から存在したわけではなく、租税制度と農奴制の産物だったとウェーバーはいう。ロシアの租税と農奴は、あまりにも苛酷な制度だった。
 20世紀にはいり、ロシアではストルイピンの農業改革により、ミールは衰退し、富裕な大農階級と、ごくわずかの土地しかもたない農民の群れが生まれた。ミールから切り離された農民が、おそらくロシア革命のひとつの原動力になっていったのだろう。
 オランダ東インド会社は、デサと呼ばれるジャワの村落団体に米と煙草の貢納を課していた。19世紀になると、この連帯責任制は崩壊し、新たな耕作制度が生まれた。農民は国(オランダ)のために土地の5分の1に決められた作物をつくらなくてはならなくなった。
 中国では古代、井田法が実施されていた。耕地は9つの方形に分割され、その中央部分の収穫が皇帝に属するものとされた。だが、この制度が存続したのは一時で、中国の経済制度は基本的に氏族経済だった、とウェーバーはいう。氏族は支配する土地に、祖先の霊廟と学校を建て、共同の耕作と経済を営んでいた。
 インドでは2種類の農業制度があった。村が共有地をもつことは共通している。また村の所有する園地には、手工業者や僧侶、理髪師、洗濯屋、職人などが定住していた。ひとつの形態の村では、個人の土地所有と貢納義務が原則となっており、村長が村を支配している。もうひとつの形態では、村長はおらず、多くの旦那衆が村を支配している。領主に支払う租税は村長や旦那衆によって請け負われ、それがさらに下請けされるという仕組みになっていた。
 ウェーバーによれば、農業共産制が存在したかは、はっきりとはわからない。もっとも原始的な制度では犂や畜牛はなく、男子が耕地に棒で穴をあけ、女子がそのなかに種や苗を入れるという方式がとられていた。北米のイロコイ族は巨大な長屋に住み、男子は戦士または狩人となり、さらには開墾などの重労働に任じ、女子は畠仕事をおこなっていた。

 ウェーバーはこうしてさまざまな農業制度を説明しながら、ここから共同体を支える家族について、考察を進めていくことになる。
 いまでもそうだが、個人は何らかの集団に帰属しなければ生きていくことはできない。それは家族であったり、氏族であったり、さらには呪術的集団、村落共同体、政治的団体、荘園領主などであったりした。
 現在でも生活の基本単位となるのは、両親とその子供からなる小家族だが、古代においては小家族を内包する氏族が経済を維持していた、とウェーバーはいう。
 氏族は伝来の土地を専有している。だが、戦争によって新たな土地を得る(あるいは逆も)こともあった。
 ここでウェーバーはマルクス主義の家族発展論を紹介している。それによると、原始共産制時代は乱婚であり、つづいて特定の氏族が他の氏族と自由な結婚カルテルを結ぶ団婚が生じた。その後、過渡的な段階として母権制が生じ、それが父権制、さらには一夫一婦制に推移していくというのがその見方だった。
一夫一婦制は私有財産の相続に関係している。だが、それとともに売淫という形態も発生したという。
 売淫の歴史は古くにさかのぼる。祭祀や豊年祈願の宗教上の行為は別として、それはたいてい賎民の営利行為だった、とウェーバーはいう。売淫は公認されていたが、それを批判する宗教指導者がいなかったわけではない。厳格なイスラムや禁欲を謳うカルヴィニズムは売淫に正面から反対した。これは実際には穏和な態度を保持していたカトリックとは対称的である。
 ウェーバーはマルクス主義による家族形態の発展図式にやや批判的な態度をとっている。乱婚は偶発的にしか生じない。母権制は一般にひろくおこなわれていたわけではなく、特定の条件のもとでしかあらわれない。
 家族の族内婚は、エジプトのプトレマイオス王朝でおこなわれた貴族制度であり、血統を純粋に保つことが目的だった。氏族の族内婚も身分や財産の保全に結びついていた。略奪婚は不法であり、復讐の対象でもあったが、同時に騎士的な行為として認められていた、云々。
 父権にもとづく合法的婚姻では、父と正式の妻とのあいだに生まれた子供だけが、財産や身分、祭祀などの相続権をもつとされていた。しかし、純粋な母子集団、純粋な父子集団、あるいは母権制においては、相続の形態は父権制とはことなる。
 次にウェーバーは家族が発展する流れを論じる。
狩猟、牧畜、農耕という段階的図式は意味がない、とかれはいう。それらは同時並行的でもあるからだ。
もっとも原始的な農耕は家畜なき農耕だ。それは狩猟とも並行していた。家畜を飼い馴らすには長い時間を要した。家畜は乳をとるため、あるいは食肉のために飼われた。馬が飼育されたのは軍事目的のためである。
 人力だけの農耕は、土地面積に応じ、小家族によって、あるいは数百人の人びとによっておこなわれた。
 ほんらい、農耕と収穫は主に女の仕事で、犂が使われるようになって、男が関与するようになった。一般的にいうと、家内労働と耕作は女の仕事で、狩猟と戦争は男の仕事だった。
 戦争を指導するのは首長の役割だった。若い男たちは訓練のために家を離れ、一定期間、メンナーハウスと呼ばれる若衆宿のようなところで暮らした。トーテミズムの起源も、こうしたメンナーハウスのうちに求められるのではないか、とウェーバーはいう。
 土地が女の働き場所であったかぎりにおいて、土地は母権制によって相続された。ただし、それを後見したのは母方の兄弟だった。いっぽう、戦いによって得られた土地は軍事集団が所有し、女は土地の権利から排除された。
 そして、これまでの土地も、犂の登場とともに、男の働く場所となっていくにつれて、母権制の基礎が崩れていく。
 ほかにも男子の家長権が拡大する要因はあった。たとえば、家族間でそれぞれの家の兄弟がたがいの姉妹を交換する婚姻方式、あるいはトーテム相互の団婚といった方式が、母権制を弱めていったことはまちがいない、とウェーバーはいう。
 氏族についても述べておく必要がある。
 氏族は血縁関係をもつ家族の集合である。呪術的なトーテムの氏族、軍事的氏族、大きな地位と力をもつ男子氏族なども氏族に含まれる。
 氏族には長老がおり、氏族内のもめごとを仲裁する役割を担っていた。とはいえ長老が絶対的な権力を有しているわけではなかった。
 古代都市には多くの氏族が集まっており、個人はそれぞれの氏族の一員として軍事的、政治的な役割をはたした。
 だが氏族は次第に弱体化していく。氏族に代わって、宗教や国家が個人を包摂することが多くなった。
最初に官僚制が発達したのはエジプトの新王国で、国家の権力が氏族の力を解体した。これとは対称的に、中国では氏族の力が長く残った、とウェーバーは話している。

 原始的な家族共同体はかならずしも共産主義的ではなかった、とウェーバーはいう。原始的な共同体でも、財の専有や相続があり、父の絶対的家長権も存在していた。それが共産主義的であるのは消費面にかぎられる。
 家族共同体は次第に大規模な家族共同体に発展していく。それは自然に発展する場合もあるし、政治的に拡大される場合もある。
 スラブでは家族共同体からツァドルーガ(村落共同体)が発生し、アルペン地方では独自の地方共同体が生まれた。
 家族共同体の発展が家長制を生んだというのがウェーバーの見方だ。家長は家政にたいする専有権をもち、その権限は妻子、奴隷、家畜、労働用具にまで及んだ。
 だが、家長制は永続せず、やがて弱体化していく。家長制に代わって一夫一婦制が生じる。それが生じたのはローマにおいてであり、キリスト教がさらに一夫一婦制を促進することになった、とウェーバーは論じている。
 ウェーバーが何を言いたいのか、正直なところよくわからない。もう少し読み進めないと、その真意はつかめないのかもしれない。

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マックス・ウェーバー『一般社会経済史要論』 を読む(1) [商品世界論ノート]

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 マックス・ウェーバーは当時スペイン風邪と呼ばれたインフルエンザのため、1920年6月に56歳で亡くなった。3年前の1917年にはロシア革命が発生している。ヒトラーがミュンヘン一揆をおこすのは、ウェーバーの死から3年後の1923年である。
 本書は1919年から20年にかけての冬学期にミュンヘン大学でおこなったウェーバーの講義を、本人のメモや聴講した学生の筆記にもとづいて再現したかれの最後の講義録である。
 ドイツで原著が発行されたのが1924年、日本では1927年に黒正巌(こくしょう・いわお)の訳で岩波書店から刊行された。それを敗戦後に青山秀夫が改訳して、1954年に岩波書店から再刊されたのが本書となった。1946年夏に最初の訳稿をザラ紙の原稿用紙に浄書したのが、学生の森嶋通夫らだったというあたりが、ちょっと感動を誘う。
 ぼくが持っているのは1977年発行の第20刷で、どうやら会社にはいって営業の仕事をしているころに、小遣いで買ったものとみえる。しかし、買っただけで満足した気分になり、その後、今日までうん十年間、目を通さないまま過ごしてきた。
 このままツンドク本で終わらせるのは惜しい。ウェーバー最後の講義録がいったいどういうものだったのか、ちょっと知りたくなった。ちょっと、というのがミソで、要するに、わかるところだけを飛ばし読みしてみようと思った次第である。根気がどこまでつづくかわからない。

 日本語版で上下巻からなる本書は緒論と4章で構成されている。

 緒 論 概念上の予備的注意
 第1章 家計、氏族、村落および荘園──農業制度
 第2章 資本主義的発展の開始にいたるまでの工業および鉱業
 第3章 前資本主義時代における財貨および貨幣の流通
 第4章 近代資本主義の成立

 訳者の青山秀夫は読者に第4章から読むことを勧めている。肝心なことはここに述べられており、あとは学問的、あるいは煩雑な議論が多いと判断したためだろう。
 それはそのとおりかもしれないのだが、幸い、当方はひまである。ひまにまかせて、頭から順に読んでみることにする。ただし、一知半解の斜め読みにはちがいない。
 本書がウェーバーの全業績のうち、どの程度の内容をもつかは、専門家ではないぼくにはわからない。また経済史学からどう評価されているかも知らない。以下は、あくまでも素人じいさんの勝手な読書メモであることをおことわりしておく。

 まず緒論から。ウェーバーの言い方は厳密さにこだわる分、むずかしいのだが、ここではできるだけ簡単に言い換えてみよう。
 経済とは効用に関連する事象である。そのため、経済において物財が問われるとしても、それは物財が効用にかかわるかぎりにおいてであるというような言い方をウェーバーはしている。物財そのものは講義の対象としないというわけだ。
 人間の行動は、経済にかかわるときに経済行為となる。したがって、芸術家も軍人も経済にかかわる計算をしているときには、経済行為をしていることになる。逆にここでは、経済の範囲が広げられている。
 経済行為には処分すること(売ること)が含まれる。労働者は自分で自分の労働力を処分する(売る)。しかし、工場のなかでは、労働者はもはや単なる技術的労働手段と化してしまう。講義では労働者の問題も扱われることが示唆されている。
 経済には暴力や強制がつきものである。だが、それを経済行為とは呼ばない。経済行為とは、あくまでも平和的手段でもってする獲得(あるいは処分)の努力を指す、とウェーバーはいう。
 ウェーバーは講義で扱う経済の範囲をさらに規定していく。
 経済行為はまた、かぎられた手段で種々の主要目的を比較し、合理的な選択をおこなう行動を意味する。
 経済の主体は個とはかぎらない。持続的に経済的目的を追求する団体もある(たとえば企業)。この団体が閉鎖的であるのは、その指導者が団体自身によって決められるからである。
 これにたいし、外部から経済集団に干渉し、それを規制する秩序維持団体も存在する(たとえば国家や自治体)。
 経済行為の目的は、獲得した効用を適切に配分することである。効用はただちに消費されるとはかぎらない。効用を有する中間財を運送し、生産に回すこともある。そうした判断をおこなうのは、個人だけではない。団体の場合もある。
 交換だけが経済行為ではない。経済統制を目的とする場合は、たとえば戦時経済組織のような管理的性格をもつ団体、あるいは漁業組合や森林組合のような調整的性格をもつ団体がつくられる。
 交換は偶発的交換と市場交換に分類される。偶発的交換は最古の形態で、たまたま余剰ができた場合などに発生する。市場交換は市場での交換そのものが目的である。経済全体を通じて市場交換が支配的になった場合に流通経済が生まれる。市場交換は価格闘争という平和闘争を経て、たがいの妥協に達しようとするものだといえる。
 市場は形式的に統制される(価格が自由な競争にゆだねられる)こともあるし、実質的に統制される(たとえば高価格あるいは低価格が維持される)こともある。
 交換は実物交換と貨幣交換にわかれる。貨幣交換が成立することで、流通経済ははじめて正常に機能するようになる。
 現在では貨幣は交換手段であると同時に支払手段でもある。しかし、かつては交換手段と支払手段が分離されていたこともある。たとえばアフリカでは牛が支払手段として用いられていたが、それは交換手段ではなかった。モンゴルでは紙幣が交換手段として用いられたが、税の支払いに紙幣を使うことはできなかった。
 貨幣が使用されない経済を実物経済、貨幣の使用をともなう経済を貨幣経済と呼ぶ。営利経済にとっても家計にとっても貨幣経済の意義は大きい。
 家計(家政)と営利経済は一切の経済のふたつの根本類型である、とウェーバーは強調する。家計が需要の充足をめざすのにたいし、営利経済(企業活動)は市場における利潤獲得をめざす。
 家計は財産と所得から成り立っており、それらは貨幣によって評価される。いっぽう企業がめざすのは収益性であり、期首の資本計算と期末の資本計算を対照して、利潤もしくは損失を確定する。
 いまでは家計と企業は分離され、別々の継続的行為となっている。しかし、15世紀くらいまでは、たとえばメディチ家にみられるように、家計と営利経済は分離されていなかった。だが、現在では分離が原則である。家計が限界効用を目的とするのにたいし、営利経済はあくまでも収益性を目的とする。
 しかし、家計であれ営利経済であれ、その根本が貨幣経済におかれていることはいうまでもない。貨幣経済の形式的合理性は否定しがたい。社会主義は普遍的統計による実物計算を提案しているが、それが貨幣計算の形式的合理性に代わりうるとは思えない、とウェーバーは断言している。

 今日の経済生活においては、人は職業(仕事)ごとに分化され、編制(統合)されている、とウェーバーはいう。
 経済的にみると、その仕事の内容は、労働を指導することと労働を行うことに分かれる。
 労働給付(労働力)はどのように振り分けられ、結合されるのか。労働力のかたちは、いくつか分類が可能だ、とウェーバーはいう。

(1)兼業と専業
(2)単純協働と複雑協働=たとえば多くの人が一緒になって大きな荷物を担うのは単純協働で、オーケストラによる演奏は複雑協働だ
(3)労働手段(設備)を利用する労働と、労働手段=道具、装置、機械をつくる労働

 次に、社会経済的観点からみて、労働給付(労働力)がいかに編制されるかという問題がある。

(1)ひとつの経済単位内でも、たとえば大家族共同体の場合と工場やトラストの場合とでは労働力の編制が異なる。
(2)自律的な流通経済をもつ経済社会の場合と、支配服従関係にある共同体(たとえばインドの村落や中世の荘園、カルテルなど)の場合でも、労働力の編制が異なる。

 次に経済における専有(権利としての所有)が検討される。そうした専有には、3つのものが考えられる、とウェーバーはいう。

(1)労働地位の専有
(2)物的獲得手段の専有
(3)指導的地位の専有

 まず(1)の労働地位についていうと、自由労働と不自由労働という対極が想定される。個々の労働者が自由に労働力を売ることが出来るときには、自由な労働市場が成立している。これにたいし、不自由労働とは、労働者自体がその所有者によって専有されているときの労働を指している。またカースト制のインドなどでは、世襲によって仕事が定められている。
 次に(2)の物的獲得手段についていうと、労働者が専有する場合と労働者以外の所有者が専有する場合とが考えられる。労働者が専有する場合も、個人が専有する場合と、たとえばミールのような共同体が専有する場合がある。いっぽう、労働者以外の所有者が物的獲得手段を専有するときには、労働者はそれから分離されている。近代の資本主義企業がこの例であることはいうまでもないが、エジプト新王国のファラオの大経済や古代・中世の荘園の場合もこれにあたるといえるだろう。
 さらに(3)の指導的地位についていうと、指導的地位が生じるのは、物的獲得手段から労働者が分離されたときである。物的獲得手段の所有は企業者機能を創出する。所有と指導が分離すると、資本と経営が分離され、金利生活者と経営者が生まれる。家計と営利経済は分離されるが、資本が非合理的に経営に介入する余地は残る。
 ウェーバーは緒論の最後に経済史の課題について、こう述べる。
 ある時代において、経済的資源(資本、労働)はいかに配分され、いかに専業化され、いかに結合されているか。技術の水準はどうか。所有関係(階級の問題)はどうか。
 経済的資源は家計(家産)的に利用されているか、それとも営利的に利用されているか。
 経済生活はいかにして非合理性から合理性への道を歩んだのか。
 これらを探究するのが、経済史の課題である。
 歴史は旧来の慣行を踏襲するから、歴史には呪術的・宗教的要素や政治的要素、身分的要素などが常にはいりこむものだ。これにたいし、現代の純粋な経済生活は、ただ経済的観点から態度を決定し、高度の経済的合理性を有するものであるはずだ。
 だが、この形式的合理性のなかに、過去から引き継いだ非合理性(財産や投機への関心などもそうだが)がはいりこんでいることは否定しがたい。社会主義者が非難するのは、そうした非合理的要素だ、とウェーバーはいう。
 緒論を締めくくるに当たって、ウェーバーは経済史は文化全体の歴史ではないことを強調している。文化全体の歴史は経済史からの流出物でもその函数でもない。ただ、いかなる文化の重要な領域を対象とするさいにも、経済史という下部構造の知識を無視して、有効な研究はなしえないだろう、と述べている。
 こうして、いよいよウェーバーの社会経済史講義がはじまる。



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グローバル資本主義のゆくえ──ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 人を喜ばせること、相手に親切にすること、他者のニーズを知ること、身分で人を差別しないこと、お金がトラブルを解決してくれることなど、資本主義には明るい面がいくつもあると著者はいう。
 また資本家が労働者にきちんと賃金を払い、余剰所得の大半を投資にまわすかぎり、資本家の禁欲精神はむしろ社会的に評価されていたという。
 ところが、現在のグローバル資本主義のもとでは、宗教的ともいえるこうした資本家の禁欲ぶりはまるでみられなくなった、と著者はいう。
 いまでは貪欲さこそが美徳と称えられるほどだ。抑制という内部メカニズムははたらかない。そのため法律や規則だけが強化され、その抜け道を探す行為が横行することになる。カネが支配するこの社会で生き残るためには、どんな汚い手を使ってもいいという風潮が蔓延する。
 それはどこかまちがっている。いまのビジネスがすべてという社会に代わる別のシステムを模索すべきではないかという意見がでてくるのはとうぜんだ。しかし、著者は資本主義の代わりになるものはないと断言する。
 だれもがいっさい働くのをやめて、余暇を楽しむ道を選択できるわけではない。所得はずっと減るけれども、週の労働時間を一律15時間にするという提案に、生活の不安を覚えない人はいないだろう。
 けっきょく資本主義社会が嫌なら、人里離れたコミュニティに隠遁するか、貧しい自給自足経済体制をつくるほかない。現代人ははたしてそれに耐えられるだろうか、と著者は問う。

 現代の資本主義には、原子化と商品化という、メダルの裏表のような性格がまとわりついている、と著者はいう。
 原子化とは、人間が個々ばらばらになることだといってもよい。大家族が分解するだけでなく、家庭すら必要ではなくなるかもしれない。

〈デイストピア的な結論に従えば、この世界は一人で暮らし、たいてい一人で仕事をする個人(子育て中の期間を除けば)で構成され、彼らは他者とどんな長続きする関係も持たないし、必要なものはすべて市場から手に入る。……自分たちで皿を洗い、食事の支度をせねばならない理由もとくにない。〉

 原子化は極限まで行けば、家庭に終焉をもたらす。いままでは外の世界から家族を守るのが家庭の役割だった。ところが、どんなサービスでもお金で買えるようになる豊かな社会では、家族の利点がどんどん失われていく。
 資本主義の時代になると、家庭生活と賃金労働とが完全に分離された。しかし、超資本主義の時代になると、新たなモノやサービスが、次々と新たな領域にはいりこみ、最後の砦ともいうべき家庭までをも資本主義的生産様式に取りこんでいくのだ、と著者はいう。
 そして、原子化というコインの裏側には商品化がある。

〈原子化では、市場で他者から買ったもので自分のニーズをすべて満たすことができるので、人は一人になっていく。かたや完全に商品化された状況では、私たちがその他者になる。私たちは自分の持てるもの[能力]を最大限に商品化することで人びとのニーズを満たすのだが、そこには自分の自由な時間も含まれる[自分の多くの時間が商品化労働のために費やされる]。〉

 原子化と商品化はセットになっている。
 家庭では掃除や料理、庭仕事、子育て、学習もアウトソーシングできるようになった。しかし、それはいっぽうで、アウトソーシングを担うサービスの仕事が増えていることを意味している。資本主義が日常化しているといってもよい。
 ギグエコノミーという言い方があるらしい。インターネットで注文を受け、単発で仕事をしてカネを稼ぐやり方だ。最近はやりのウーバーイーツ、自宅やガレージを空いているときに人に貸す商売などもそのひとつだろう。
 商品化は農業からはじまり、産業をへて、ついにサービスや時間にまで到達した。「以前は商品でなかったものが商品化されたことで、誰もが多くの仕事に就くことが増えたし、自宅の部屋を貸すなどして彼らを日常的な資本家に変えることも増えてきた」
 自由に好きなように働けるという点では、労働市場がフレクシブルになったという言い方もできる。だが、そこに問題がないわけではない。
 人間関係はすべて金銭で割り切られ、家庭は空洞化するだろう。道徳観念などというものはなくなってしまう。
 資本主義の究極の成功は、自分自身が企業になること、損得の計算機になることだ、と著者はいう。「私的領域の商品化とは、超商業化資本主義の最高点である」
 だが、その行きつく先は、「富のユートピアと同時に対人関係のディストピアとなるだろう」。
 資本主義は経済的成功を収めた。これに代わるものは見えていない。喧伝されるのは、資本主義のもたらす豊かさである。しかし、その反面の害毒はひそかに溜まって、個を通じて暴発するようになるのだ。

 機械が導入されてから、この200年のあいだ、人類は技術進歩にたいする不安をいだきつづけてきた。だが、それはたいてい杞憂に終わってきた、と著者はいう。
 現在はAIやロボット工学が進展している。このままオートメーション化が進めば、労働者が失業し、生産が過剰になり、地球の資源をくいつぶすのではないかという見方がある。しかし、それはいずれも誤りだ、と著者はいう。
 まず、失業についていうと、たしかに短期的には雇用が減るかもしれないが、「新たな技術は結局のところ新たな仕事を存分に生み、それどころが失った仕事よりも良い仕事をもっと多く生みだ」すはずだ。
 生産過剰の心配もない。人間のニーズは限られていると思われがちだが、そうではない。「私たちのニーズは無限であり、また技術の正確な動向を予想できないことから、新たなニーズがどんなかたちをとるかも私たちには予想がつかないのだ」
 地球の限界についても、著者はまったく楽観的な見方を示している。「技術が向上すれば、発見するありとあらゆるものの貯蔵量が増え、それをもっと効率的に利用できるようになる」というのだ。
 技術進歩を止めることはできない。新たな技術導入によって、仕事がなくなることはない。それは新たな生産システム、新たなニーズ、新たな資源、新たな雇用、新たな生活スタイルを生みだすという見方をとっている。

 ベーシックインカムについては、著者は慎重な態度をとっている。
 ベーシックインカムは、市民一人ひとりに無条件に継続して基礎的な所得を与えるというものだ。これが実施されれば、富裕層にそれなりに税金が課せられ、所得の不平等や貧困問題が多少なりとも改善されると期待されている。
 だが、著者は懐疑的だ。ひとつは、それがほとんどためされていないこと、もうひとつは、そのコストがはっきり見通せないこと、さらに、だれにでも与えられるベーシックインカムが社会保障の理念をすっかり変えてしまうこと、またベーシックインカムが導入されることによって社会がどう変わるか予想がつかないことである。そのため、著者はベーシックインカムに性急に移行するのは危険だという考え方を示している。

 これから世界はどうなっていくのだろう。
 万一、グローバル核戦争が起こるとすれば、その原因がグローバル資本主義にあるのはまちがいない、と著者はいう。資本主義は平和が基本だといわれようと、資本主義が戦争に強いつながりがあることは、20世紀のふたつの世界大戦をみても明らかだ。
 21世紀にひとたび戦争がおこれば、その犠牲者は膨大な数にのぼるだろう。資本主義の内なるメカニズムがこうした衝突を招く可能性を無視するわけにはいかない、と著者はいう。それでも、核戦争によって人類が半減したとしても、技術的な知識が地上から消え去ることはないだろうとも述べている。
 そして、この先数十年、もしグローバルな戦争が起きなかったとしたら、グローバル資本主義はどういう方向をたどるかを、著者は予想する。
 リベラル資本主義と政治的資本主義を比べてみよう。リベラル民主主義の利点は何といっても民主主義である。これにたいし政治的資本主義は経済の管理と高度成長を約束する。だが、政治的資本主義はリベラル資本主義にくらべ悪政や腐敗を生みやすい。
 はたして、これからの世界は新自由主義の方向と権威主義の方向とどちらを選ぶのだろうか。あるいはまったく別のタイプの資本主義(新たな社会主義)が生まれるのだろうか。
 これとは別に、現在、見過ごすことができないのがアジアの再興である。
 これからもアジアの経済発展がつづくなら、中国につづいてタイやインドネシア、ベトナム、インドなどの所得水準が上昇し、欧米諸国の水準に近づくことが予想される。それは世界に画期的な変化をもたらすはずだ、と、著者はいう。
 予測できないのが、アフリカがどうなるかだ。とりわけ世界人口の14%を占める(2040年には20%になると予想される)サハラ以南のアフリカのゆくえがわからない。だからこそ、アフリカの経済発展に果たす中国の役割に注目しなければならない、と著者はいう。
 そうした中国の動きがはたして世界の不平等を緩和し、破滅的な世界戦争のリスクを減らすことにつながっていくか。注目すべきはその点だ。

 資本主義のありうべき方向として、著者は民衆資本主義、さらには平等主義的資本主義というふたつのモデルを示している。
 民衆資本主義においては、だれもがほぼ等しい割合で資本所得と労働所得を得る。それでも所得には差があるが、不平等の増加は抑えられる。医療と教育は無償で提供される。
 いっぽう平等主義的資本主義においては、誰もがほぼ同じ量の資本所得と労働所得を得る。個人間の不平等は少ない。機会の均等が保障され、国は再分配によって社会保障を実現する。
 長期的にみれば、そうした目標に移行するのは、わりあい簡単だと著者は断言する。
 富裕層への富の集中を減らすこと(中間層に税制優遇措置をもうけ、富裕層に累進課税や高い相続税を課すこと)、公教育の予算を増やし、教育の質を改善すること、「軽い市民権」を導入し、移民を認めること、政治活動への資金提供を厳しく制限すること、などである。
 だが、逆に現在の新自由主義的な資本主義が、金権政治、さらには政治的資本主義に向かう可能性がないわけではない、と著者はいう。
 エリート層がますます政治的領域を支配し、富と権力を結びつけていくことも、じゅうぶんに考えられる。
 人びとが民主主義的プロセスに希望を失い、政治的無関心が広がってくなら、有能な官僚が国を能率的にコントロールするなかで、腐敗とごまかし、不平等がはびこる社会がますます広がっていくだろう、と著者はみている。
 大いに論議されるべき本である。

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グローバリゼーションのもたらすもの──ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 グローバリゼーションの特徴は移動性にある、と著者のミラノヴィッチは書いている。もちろん商品は移動する。だが、それは古代からの現象だ。近年の特徴は、商品だけではなく、資本と労働が国境を越えて移動することだ。
 最初に取り上げられるのが労働の移動、すなわち移民の問題である。
 市民権(国籍)は国から与えられる一種の資産だ。大量の資本と先進技術、すぐれた制度をもつ国において、それにアクセスする権利が市民権をもつ者にかぎられるとすれば、またその人がそれによって高いフローの生涯所得を得ることができるとすれば、その市民権は一種のプレミアムをもつ、と著者はいう。逆に貧しい国の市民権はペナルティとして意識されるだろう。
 市民権は国の領土内に限定されるわけではない。グローバル時代においては、たとえ自国から切り離されたときでも市民権は存続する。国外旅行者を考えればよい。イタリアに住むアメリカ人はアメリカの市民権をもっているし、日本で働くフィリピン人はフィリピンの市民権をもっている。そして、一定の条件が揃えば、市民権の変更も可能になる。
 市民権は一種の経済資産だ、と著者はいう。A国の市民権がB国の市民権より毎年多くの所得をもたらすなら、生涯所得からみて、A国の市民権のほうがB国の市民権より価値が高いということになる。その意味で、資産としての市民権は、高齢者より若者にとって価値が高いともいえる。
 カナダやイギリス、ギリシアでは、市民権を購入することができる。その金額はかなり高く、実際にこれを買うのは金持ちにかぎられる。富裕者の3分の1、すなわち世界全体で約1000万の人が二重市民権をもっているというのは驚きである。
 サブ市民権というものもある。アメリカなら永住ビザ(グリーンカード)があり、ヨーロッパや日本にも同じようなものがある。サブ市民権をもつ者は、市民権の多様な権利や恩恵にあずかれない(たとえば投票権はなく、公務員になれないなど)が、それでも他国に住む権利を認められている。
 現在は移民の流れが変わりつつある。富裕国が移民の増加を警戒するようになり、逆に貧困国のなかに移民を呼び込もうとしている国もある。経済的にみれば、国家間の労働の移動を阻止するのは不合理でもあるし、非効率でもある。にもかかわらず、多くの国が移民の増加を抑えようとするのは、移民がさまざまな社会的摩擦を生むからだ、と著者はいう。
 著者は移民を「国家間の平均所得が不均衡な状況でグローバリゼーションが起きる場合の、一生産要素(労働力)の移動」と定義している。経済面で国際的な不均衡が存在する場合には、移民が発生する可能性は常にある。
 グローバリゼーションが避けられないとすれば、人間の自由な移動も避けられない。それでも、実際に移民が増えてくると、社会的に大きな問題が生じるのはなぜか。
 移民が規範や文化、言語、行動など、これまでの社会のあり方に大きな混乱を巻き起こすことを人びとが懸念するのは無理もない。移民が大きな経済的影響をもたらすのも事実だろう。
 ここで、著者は一見奇妙なテーゼを持ちだす。それは「移民が永久にその国にとどまり、市民権のあらゆる恩恵を受ける可能性が低ければ低いほど、自国民が移民を受け入れる可能性が高くなる」というものだ。
 このテーゼは、その国に到着次第、移民に完全な市民権が与えられるなら、自国民はそうした移民を受け入れないということを想定している。逆に、移民に多くの権利が与えられない場合──たとえば教育や社会保障、家族呼び寄せの権利が与えられず、長く滞在できず、高い税金をとられるといったような場合──にかぎって、自国民はそうした移民をより多く受け入れると仮定されている。
 この皮肉なテーゼは、いわば極論のうえに成り立っているのだが、それは最善の移民政策を探るためのアプローチだ、と著者はいう。移民には国際的にも国内的にも、さまざまなメリットがある。しかし、現実的な解決策は必要だし、「制限のあるなかで実現できそうな解決策を探すほかないのだ」。
 アメリカには不法移民も含め、さまざまな移民がいて、市民と非市民の厳格な境界はもはや維持しがたくなっている、と著者はいう。移民の非合法なルートは閉鎖しなければならないが、合法的なルートは開放しておかなければならない。
 移民の受け入れが必要なことを著者も認めている。だが、移民によって底辺層(アンダークラス)が生まれ、地域的なゲットーができ、犯罪率が高まり、かれらのあいだに疎外感が広がっていくという問題にどう対処していけばよいのか。そうした課題は残されたままだ。

 次に論じられるのは資本の移動についてである。モノや人に加えて、資本が国境を越えて移動するのがグローバリゼーション時代の特徴だといえる。
 グローバリゼーション時代の組織的イノベーションは、グローバル・バリューチェーンが確立されたことだといわれる。こうしたイノベーションによって、企業は何千キロも離れた遠隔地の生産・流通ラインを管理できるようになった。その前提として、資本が移動がしやすくなったのは、所有権のグローバルな保護が進展したためだということも認識しておくべきだろう。
 かつては、開発途上国は先進国によって搾取されつづけるという考え方が強かった。しかし、グローバル・バリューチェーンが不可欠になったことにより、こうした考え方は減りつつある、と著者はいう。「今日、ある国が発展するには、富裕国との関係を断ち切る努力をするよりも、西側のサプライチェーンに入れてもらうことが必要だ」
 現実に、中国、韓国、インド、インドネシア、タイ、ポーランドなど、グローバル・バリューチェーンにはいることのできた国だけが、経済発展を遂げることができている。さらにこのリストには、今後、バングラデシュ、エチオピア、ミャンマー、ベトナム、ルーマニアなどが加わってきそうだ。
 現在のグローバリゼーションのもとでおきているのは、経済のアンバンドリング(切り離し)現象だ、と著者はいう。
 企業は「こちら」(国内)で管理と調整をおこない、「あちら」(海外)で実際のモノを生産する。企業は中心から工程を設計・管理し、世界中に散らばる下請業者に生産を分散し、時に製品を組み立てることができるようになった。
 これが可能になったのは、IT革命により、情報伝達コストが空間的にも時間的にも削減されたためである。さらに、いまでは技術の所有者ができるかぎり多くの技術をオフショア(海外)拠点に移そうとする傾向さえでてきている(それがいっぽうでは中心の空洞化を引き起こすのだが)。
 1990年代以降のグローバル化によって、これまでの経済発展の図式は大きく変化した、と著者はいう。
「開発途上国が成功するのに不可欠なのは、もはや自国の経済政策を用いて、事前に決められたさまざまな段階を経て発展していくことではなく、中心(グローバル・ノース)が組織するグローバル・サプライチェーンの一翼を担うことだ」
 さらに、著者はいう。

〈その反対に、[北への従属から離脱するのではなく、むしろ北と]つながることでアジアは絶対的貧困から中所得の状態へと驚くべき短期間で移行できたのだ。この技術的・制度的つながりが起点となって、資本主義が世界に広がり、今日の世界をあまねく支配することにつながった。〉

 世界が平準化していくならば、貧困国の住民が移民に駆り立てられることもなくなっていくだろう。だが、はたしてそんな時代がやってくるのだろうか。今の段階では、著者もそれは夢物語だと考えているようにみえる。

 グローバリゼーションは、福祉国家のあり方に大きな問題を投げかける。
市民権が一種の資産と見られるとすれば、「長い目で見れば福祉国家の存在は、労働の自由な移動を含む完全なグローバリゼーションとは相容れない」と著者はいう。
 ヨーロッパでは一部の左派政党が、資本の流出にも移民にも反対しているが、それはかれらの支持基盤となっている労働者が、資本と労働双方のさらなる自由な移動によって、その仕事を脅かされているからだ。その点、左派の主張はますます右派政党と似かよったものになりつつある、と著者は指摘する。
 国内の不平等とちがって、国際的な不平等は往々にして見逃されがちだ。「グローバルな機会の不平等は、たいていは万人の問題として検討されないし、まして解決の必要な問題として検討されることはもっと少ない」。過去の時代ならともかく、今日では、グローバルな機会の不平等についても、検討がなされるべきだ、と著者は書く。福祉国家を維持するために、移民を禁止せよという発想はとっていない。

 グローバリゼーションが腐敗を拡大することも触れている。
 30年前にくらべ、大半の国では腐敗が進んだ、と著者はいう。それを実際の数値で表すのはむずかしいけれど、タックスヘイブンに保管されている額や、政界とのつながりで獲得されたと推定される額、その他不正な操作によって得られた額は明らかに増えているという。
 人が金儲けをするのはとうぜんとみなされ、経済的成功があらゆる目的に優先される社会では、道徳観念が薄れ、どんな方法で金を手に入れても、それは腐敗とみなされなくなっている。
 たとえば、毛沢東時代の中国は国際資本主義経済から隔絶していたために、役人がたとえ現金を手に入れても、それを海外に移す手立てさえなかった。だが、いまでは不正に稼いだ金を簡単に海外に移すことができるようになった。中国人だけではない。ロシア人もインド人も、あたりまえのように不正な資金を海外に移転している。
 移転先はタックスヘイブンだけではない。ロンドンやニューヨーク、シンガポールの巨大金融センターも、グローバルな規模の腐敗を助けている。腐敗した金が政治資金や海外のシンクタンク、大学や美術館に流れていることもたしかだ。「法の支配が十分にある地域が、世界じゅうの腐敗を可能にする最大の立役者になっているのは皮肉なことだ」と著者はいう。
 グローバリゼーションにより、人びとは遠く離れた場所での暮らしぶりを以前より知るようになった。とりわけ外国との接触が多い貧困国の政府関係者が、外国人とのちがいを知って、不条理な思いをいだき、賄賂をとるのをやましいと思わなくなる心理はわからないわけではない。
 このとき市民権は一種のペナルティとしてはたらいているのであって、そのペナルティをプレミアムに変えようとして、腐敗行為が発生するのだ、と著者はいう。
 グローバル資本主義がすすむなかで、腐敗がなくなることはない、と著者は考えているようだ。「富裕国の多くの人間が腐敗の恩恵に浴しているし、今日私たちが経験するグローバリゼーションが、それを不可避のものとしているのだから」
 こうしたさまざまな現象を生みだすグローバル資本主義が、これからどうなっていくのだろうというのが最後の課題である。

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中国型資本主義──ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』を読む(3) [商品世界論ノート]

 著者のミラノヴィッチは中国型資本主義のことを政治的資本主義、あるいは権威主義的資本主義と名づけている。
 はじめに現在の中国は資本主義社会かという問題がある。著者はそのとおりだという。著者によれば(1)生産の大半が民間所有の生産手段によっておこなわれていること、(2)労働者の大半が賃金労働者であること、(3)生産や価格の決定が(中央の決定によってではなく)分散されたかたちでおこなわれていることが資本主義の条件とするなら、中国はこの3つの条件を満たしてから、明らかに資本主義社会だということになる。
 ただし、中国の特異性は、社会主義革命を経たのちに、資本主義に達したことにある。つまり、社会主義を経ることによって、共産党一党独裁のもとで資本主義が誕生した。これが著者のいう政治的資本主義である。政治的とは共産党主導であることを意味する。
 このあたり、ことばに振り回されそうだ。国家資本主義といわないのは、中国ではあくまでも党が国家を指導するかたちをとっているからである。
 中国が社会主義を脱するのは、1970年代後半である。
 1978年以前、中国の工業生産は、ほぼ100%国営企業が担っていた。しかし、1998年にその割合は50%に減り、2015年段階では20%程度になっている。以前は都市部の労働者の80%が国営企業に雇用されていた。2015年時点でその割合は16%を下回っているという。
 農業については、さらに明白で、改革以前は人民公社が生産の主体だった。1978年以降は人民公社がなくなり、すべての生産が民間によっておこなわれている。ただし、郷や村の共同事業もある。
 以前は国が農産物の93%、工業製品の100%、小売商品の97%の価格を決めていた。だが、1990年代半ばになると、小売商品の93%、農産物の79%、生産財の81%の価格は市場で決定されるようになり、現在はほぼすべての価格が市場で決定されている、と著者はいう。
 こうした実態をみると、中国は共産党が支配しているにもかかわらず、明らかに資本主義体制下にある。
 中国型の政治的資本主義の特徴はどこにあるのだろうか。
 著者によれば、それは国家の事業を企業が請け負うところにある。経済の目標を立てるのは官僚のテクノクラートであり、共産党の指示が絶対的に優先される。こうした「民間部門の活力と官僚による能率的支配と一党政治体制を結びつけた取り組み」をはじめたのが鄧小平だった。
 資本家が政治的な力をもつことは認められない。著者はジョヴァンニ・アリギの『北京のアダム・スミス』を紹介しながら、政治的資本主義のもうひとつの特徴を次のようにとらえる。それは、党は国益を促進するために民間部門の活動を積極的に認め、必要とあらば民間を抑制できるというものだ。
国家の上に立つ党は、いわば超法規的な存在だといってよい。
 そこから、政治的資本主義にはふたつの矛盾が生じてくる、と著者はいう。
 ひとつは政治的資本主義の運営にはテクノクラートのエリートが必要になるが、法のルールにしたがわなければならないはずのエリートがしばしば法を恣意的に運用することだ。
 もうひとつは汚職と腐敗である。官僚に与えられた自由裁量権が、みずからの経済的利益確保に利用される。その規模は地位が高ければ高いほど大きくなる。
 腐敗が手に負えなくなると、不平等が拡大し、システム全体が崩壊する可能性がある。習近平が常に腐敗と戦う姿勢を打ちだすのは、そのためだ。だからといって、それによって官僚の自由裁量権がなくなるわけではない。政治的資本主義において、腐敗の問題は根深い、と著者は指摘する。
 中国の富と所得に関する統計は限られており、しかも信頼性に欠けるきらいがある。
 しかし、その不十分な統計からも、1980年代以降、中国では農村部でも都市部でも不平等が拡大し、また都市部と農村部の所得格差が広がっていることがわかるという。
 著者はいう。

〈中国の不平等はおおむね「構造的」でもある。都市部は農村部よりも急速に発展し、同様に、成功をおさめている沿岸部の省は西部の省を追い越している。……中国の爆発的な成長もまた、不平等の爆発的な拡大の主たる原因になった。したがってパイをいかに切り分けようと、つまり地域間、都市部と農村部、都市労働者と農村労働者、民間と国営部門、高スキル労働者と低スキル労働者、あるいは男女に分けて観察したところで、どの区分においても不平等は拡大した。〉

 著者は中国でも資本所得の割合が伸び、資本所得が金持ちに集中していると指摘する。ある調査によると、中国の都市部では2005年に資本家(企業家)が都市人口の1.5%を占めるようになった。同時に公共・民間部門の専門職、小規模事業主などの新旧中間層も10%に増えた。
 中国では、新たな資本家のエリート層が台頭しつつある、と著者はいう。かれらはいわばたたき上げで、その父親は農民か肉体労働者だった。
 だが、中国の資本家は政治的な力をもたない。あくまでも党や国家の官僚に従属する存在だ。
 問題は腐敗である。政治的資本主義においては、地位を利用して利益を得る行動が後を絶たない。腐敗撲滅運動がスタートしてから100万人以上の共産党員(総党員数の1%弱)が処罰された。だが、それは氷山の一角にすぎない。撲滅運動は定例の引き締めにすぎず、腐敗は政治的資本主義につきものだ、と著者はいう。
 省、県、地区での地位が上がれば上がるほど、汚職の規模は大きくなる。とりわけ共産党員であれば、その影響力は大きい。「党職員自体の給料はたいして高くないが、影響力ある立場に就くことができ、その立場を利用して所得を補おうと汚職に手を染めることもありうる」という。
 こんな政治的資本主義がはたして生き残ることができるのか。
 ここで著者は、ジョヴァンニ・アリギの論議を持ちだす。
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 アリギは中国こそアダム・スミス流の正統な経済発展の路線を歩んでいると論じる。正統な経済発展のもとでは、経済が農業から工業へと自生的に発展し、資本家は一定の社会的役割を果たすにしても、けっして横暴に振る舞うことがない。
 中国の資本家は中国共産党の路線に合致するかぎりにおいて、その存続を認められている。その意味ではマルクス的ではなく、スミス的な存在なのだという。
 さらにいうと、中国では国有か私有かの所有権はあいまいで、民間企業のなかに共産党の組織が存在したりする。郷や村の企業のなかには、その所有権があいまいなまま、めざましい業績を挙げているものもある。
 著者は、この所有権のあいまいさこそが、政治的資本主義の特徴なのだと述べている。
 そして、中国の資本家階級が代議制民主主義によって、この国を支配するようになるのが民主主義だと理解するなら、著者は中国ではそのような民主化はありえないだろうという。長い歴史的伝統からすれば、中国で認められるのは、あくまでも政治によって統制される資本主義なのだ。
 政治的資本主義のメリットは、政府が有能で、腐敗もまずまず我慢できる程度であれば、民主主義の体制よりも、ずっと効率的かつ迅速に事業を実行できることだ、と著者はいう。国の指導者を選ぶさいにも、長々と面倒な選挙をおこなう必要もない。指導者が有能でありさえすれば、市民はわざわざ政治にかかわる必要もないのだ。
 政治的資本主義に腐敗がつきものなのはまちがいない。だが、中国では賄賂や縁故が経済をスムーズに動かしている面もある、と著者はいう。
 さらに、こんなふうにも書いている。

〈政治的資本主義に内在する利点には、支配者が自由裁量権を持つこと、お役所仕事を省き迅速な経済成長を可能にすること、そして一部ひょっとしたら多くの人間の選好に見合ったそこそこの腐敗が広まっていることがあげられる。だが政治的資本主義の魅力を左右する最も重要な点は、その経済的成功にある。〉

 中国は自国中心主義なので、他国には関心がない。中国の政治的資本主義が成功したのは「政治的な一党独裁の中央集権化と、地方の経済政策についての相当な自由裁量が奇しくも組み合わさった」ためだ。そうしたモデルを他国で実行するのはむずかしいし、中国はそれを海外の国に移植しようとも思っていない、と著者はいう。
 現在、中国が世界経済に組みこまれているのは事実である。そのため、中国は世界にたいし無関心な態度を装うことができなくなっており、それなりの積極的な役割を果たすようになっている。
 そのひとつがアフリカ開発戦略とのかかわりであり、中国は現在アフリカとの経済的絆を強めている。さらに野心的なのは「一帯一路構想」で、ヨーロッパとイギリスに向けて、中国の商品を大規模輸送する計画がすでにはじまっている。さらにはアジアインフラ投資銀行の設立によって、中国の経済力をアジアの近隣諸国に波及させようとしている。
 中国が国外にたいして、こうした積極策をとるのは「国内での政治的な生き残りをかけた問題であり、国内に潜在する弱みから生じたものである」ことを著者も認めている。それでも、中国のグローバル大国化は、これまでの西洋中心の国際秩序のあり方を変えていく可能性をもっている、と著者は論じている。
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アセモグルとロビンソンは『国家はなぜ衰退するか』のなかで、非民主主義的な制度のもとでは、経済が持続的に成長するのは不可能だと論じ、中国がいずれ壁にぶつかると指摘した。本書のミラノヴィッチはこれとは反対に中国の政治的資本主義がまだ拡大する可能性を示しているといえよう。
 そのどちらが正しいかを決定するには時の流れを待つほかないだろう。安直に答えは出せない。だが、少なくとも、中国の経済発展を可能にした条件をさらに探ってみる必要がある。

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永続する富裕層──ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 著者のミラノヴィッチは資本主義を次のように定義する。
「資本主義とは、生産の大半が民間の生産手段によって行われ、資本が法的に自由な労働[力]を雇用し、[経済の]調整が分散化されたシステムのことだ」
 資本主義の原動力が投資にあり、その投資をおこなうのが、企業ないし個人企業家であることも追記されている。
 現在は、この資本主義にアメリカ型と中国型があるという。
 今回、論じられるのはアメリカ型資本主義(「リベラルな能力資本主義」)についてである。新自由主義的資本主義と解釈してもよいだろう。
 21世紀の新自由主義資本主義は、19世紀の古典的資本主義とも20世紀の社会民主主義的(ケインズ主義的)資本主義とも異なる。
 現在の特徴は、総所得に占める資本シェアが高くなったこと(逆にいえば労働シェアが低くなったこと)である。
 このことは資本から高い割合で所得を得る人が裕福になっていることを示している。しかも、資本所得が比較的少数の人間に集中しているならば、個人間の不平等は拡大する、と著者はいう。
そこで、資本主義においては、資本を多くもつ人間が金持ちになるというあたりまえの原則が導かれる。
 ここでいう資本とは「資産」と理解したほうが、わかりやすい。
 古典的資本主義においては、資本家と労働者ははっきりと分かれていた。しかし、現在の資本主義においてはそうではない。つまり、資本と経営が分離されたのだ。
 今日、金持ち階級のトップにいる人びとは働いていないわけではない。高給取りの経営者や企業幹部、投資銀行家、そのほか専門職のエリートとして勤勉に働いている。その意味で、かれらは賃金労働者だが、同時に大きな金融資産をもっている。
 総所得に占める資本シェアの割合が高まる(賃金シェアが低くなる)時代において、高い労働所得を得る個人が同時に高い資本所得を得る場合には、とうぜん不平等が拡大していく。
 しかも、この所得差は世代間に継承されやすい。すなわち金持ちの子は金持ちであり、貧乏人の子は貧乏になりやすい。さらに新自由主義時代の税制と教育制度が、この固定化を強化している。
 現在、不平等が拡大した要因には、たとえば高いスキルに支払われる賃金が上昇したこと、労働組合の交渉力が弱まったこと、同じ階層どうしの結婚が増えたこと、なども挙げられる。
 しかし、不平等の拡大は、むしろアメリカ型資本主義の構造的要因が大きい、と著者は考えている。
 ひとつは国民所得に占める資本所得の割合が増大していることだ。そのことが個人間の所得の不平等に直接影響を与えていることはまちがいない(つまり、より多く資産をもつ人がより多く収入を得るようになった)。
 もうひとつは資本(資産)所有の集中である。現在アメリカでは、もっとも裕福な10%があらゆる金融資産の90%以上を保有しているとされる。
この資本所有の集中と、資本所得の伸びが組みあわさると、不平等が拡大することはいうまでもない。
 加えて、金持ちの資産の収益率が高いことが挙げられる。
 アメリカの世帯の20%は資産がゼロかマイナス、中間層の60%は資産の3分の2が住居で、それ以外は主に年金に注ぎこまれている(しかも住宅資産の8割はローンだ)。
 だが、上位20%の層は、株式と金融商品が最大の資産で、住宅資産の割合は少ない。住宅バブルとその後の大不況(リーマンショック)はあったものの、この30年間、金持ち層は確実に所有資産からより高い収益を得てきた。
 さらに所得の上位10%、とりわけ上位1%は、高額の労働所得を受けとっていることが多く、これに資本所得が加わると、さらに大金持ちになる。かれらは同じ金持ちどうしで結婚する傾向が強いから、その財産はさらに増え、その子どもたちには多額の教育投資がなされ、世代間に所得と富が継承されていく。
 アメリカン・ドリームはあやしくなっている、と著者はいう。

〈彼ら[金持ちの子ども]はより大きな相続財産をあてにできるだけでなく、より高い教育、両親を介して得られるより高い社会資本、そのほかたくさんの無形の富の恩恵に浴するだろう。そのどれひとつとして貧困層の子どもは享受できない。〉

 アメリカでは1980年代以降、所得の不平等が拡大し、世代間移動性が低下している、と著者は指摘する。このことは、アメリカが新たな階級社会になったことを意味しているといってよいだろう。
 それでは、こうした大不平等を修正する社会政策は考えられないのだろうか。
 戦後から1980年ごろまでにかけ、富裕国では富の不平等が縮小する時期があった。それは強い労働組合、大衆教育、高い税金、政府による大幅な所得移転に支えられていた。
 だが、いまそれを再現するのはまず無理だ、と著者はいう。産業が製造業からサービス業に移行したため、労働者の組織化はむずかしくなった。大衆教育をこれ以上拡充するにも限界がある。税金をさらに引き上げるのは政治的にむずかしい。所得の再分配も限界がある。戦後の社会民主主義政策(ケインズ政策)はもはや行きづまってしまった。
 それでも、新しい目標を設定すべきである。
 著者はいう。
「資本とスキルの両方を国民全員にほぼ平等に授ける平等主義的な資本主義を私たちは目標とすべきである」
 はたして、そんなことが可能なのだろうか。
 根本は、資本と労働の恩恵をまったく平等に分配することである。それを達成するには資本の所有権を分散すること、労働のスキルにたいする報酬を平等化することが必要になってくる。
 資本の所有権を分散するには、中間層がもっと株や債権をもつようにすること(政府の税制優遇措置も必要だ)、さらには従業員持ち株制度によって労働者の資本保有を増やすこと、あるいは相続税への課税を強化することなどが考えられる。理屈としてはそうだが、こうした方策にはもちろん異論もあるだろう。
 著者は公立学校の質を改善することで、労働力の質を上昇させ、それによって賃金の不平等をなくすことも提案している。
 社会に年少者や病人、けが人、育児期間、失業者、高齢者が存在するかぎり、福祉はなくてはならないものだ。福祉システムが存続するには国民の参加が必要であり、全国民が社会保険を支払わねばならない。
 きわめて不平等で二極化した社会では、広範な福祉国家を維持するのはただでさえ容易ではない。さらに、グローバリゼーションと移民が福祉国家の存続をあやうくしている、と著者はいう。

〈かくて福祉大国は二種類の逆選択にさらされ、それはたがいを強化し合っている。国内では、貧乏人と金持ちの二極化が民間による社会サービスの提供を促し、政府の提供するサービスからの金持ちの撤退を招いている。そうなると、保険料が手の届かないほど高くなりかねない人だけがこのシステムに残り、彼らの多くもこのシステムから揃って抜け出しかねない。また国際的には、スキルの低い移民を呼び込むことで逆選択が働き、それが自国民の離脱を招いている。〉

 いずれにしても厳しい。福祉政策が困難に見舞われ、中間層の多くが没落し、不平等が拡大するなかで、富裕層だけが栄えるという構図が生まれつつある。
 驚くべきことに、富裕層は大きな政治的影響力をもっている、と著者はいう。その理由は、かれらが政党や選挙活動に多額の資金を提供しているからだ。金持ちが自分たちの出した金に見返りを期待するのは、あたりまえで、政治家も何らかのかたちでそれに報いている、と著者はいう。
 金持ちが政治献金をおこなうのは、それによって高額所得税率の引き下げや、企業減税、規制緩和など、かれらにとって有利な経済政策を得るためだ。それが実現されれば、富裕層はいつまでもその地位を保つことができる。
 アメリカの富裕層は子どもの教育にすこぶる熱心で、私立の高等教育を受けるために多額の教育費をそそぎこむ。入学するだけでも莫大な費用がかさむことが、かえって金持ちに有利な条件をもたらしている。
「[富裕層の]子どもは親が生きているうちに金を受けとり、資産を相続し、親の社会的資本からの恩恵にあずかるばかりか、幼稚園前の私立教育から始まって修士号や博士号にいたる優れた教育という桁外れの優位をスタート時から享受する」
 著者はピケティの調査に従って、フランスでは人口の12%から15%が、平均した労働者の生涯賃金より多くの相続資産を受けとっていることを明らかにしている。おそらく、アメリカではその割合はもっと高くなっている。
 一生働かなくても暮らすことができるほどの相続財産を受けとるこうした人びとが、「何も、またはほんのわずかしか相続しない人びとと比べて桁違いの優位を享受する」ことは、まちがいない、と著者はいう。
 とはいえ、上位層はかならずしも固定されているわけではない。それは補充され更新されているといってよい。
 いつの世でも、技術の進歩をうまく利用して、新たなビジネスモデルを創出し、新参者の扉を開いて、莫大な富を築く者がでてくるのだ。こうした新たな億万長者は、裕福な家の出が多いとはいえ、上位1%の出身者ではない。
 このことは、世代間に高い移動性があることを示すようにみえるかもしれない。だが、そうではないと著者はいう。
技術進歩がいったん減速し、新たな富を生むのが次第に困難になっていくと、上位層の永続性が強化され、上位層が固定され、不平等が拡大し、社会的移動性が低下するのだ、という。
 こうしてアメリカ型資本主義においては、経済的支配層が社会的トレンドに応じて、少しずつ更新されながらも、永続的にその地位を保っていく。
 著者は、こうした資本主義のあり方がいいとは、けっして思っていない。

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ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』(西川美樹訳) を読む(1) [商品世界論ノート]

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 著者のブランコ・ミラノヴィッチは旧ユーゴスラヴィア出身の経済学者で、世界銀行の主任エコノミストを20年務め、『大不平等』などの著書で知られている)(現在はニューヨーク市立大学大学院客員教授など)。
 とくに『大不平等』で彼の示したエレファントカーブは、冷戦終結後、中間層がいかに没落し、いっぽう富裕層がいかに所得を伸ばしたかをグラフで実証したものとして注目を浴びた。
 2019年に刊行された本書『資本主義だけ残った』(原題 Capitalism, Alone)はいかにも挑発的なタイトルだが、別に資本主義の勝利を高らかに謳った本ではない。解説者の梶谷懐によると、「むしろ、高度にグローバル化した資本主義が、人々のモラルを欠いた『強欲』によって駆動され、際限なく格差を拡大させるメカニズムであることを正確に指摘し、そこからの軌道修正を読者に迫る」書物だという。
 それですべては言い尽くされたようなものだが、暇人のぼくとしては、大上段にかぶらずに、もう少しのんびりと内容に触れてみたい。例によって正確とは言い難い自分勝手なまとめなので、中身については保証しない。
 まずは最初の「冷戦後の世界のかたち」を読んでみよう。
 冷戦後の変化の本質について、著者はこう述べている。

〈そのひとつは、資本主義が支配的であるどころか、この世界で唯一の社会経済的システムになったということ。もうひとつは、アジアが台頭してきたことにより、欧米とアジアのあいだで経済的な力が再び均衡をとり戻しつつあることだ。〉

 つづめていえば、「資本主義の単独支配とアジアの経済的復興」が、冷戦後の世界の特徴だということになる。そして、この二つはどうやら連動している。
 ロシア革命のあと、資本主義は共産主義と共存していたが、グローバルな勝利を収めたのは資本主義のほうだった。いまでは人が生きていくうえでは金儲けこそが最優先の目的、インセンティブだという考え方があたりまえとさえ思われている。それを誘導しているのが貨幣のルールだ、と著者はいう。
 資本主義は人間の本性に合致しているという人も少なくない。しかし、著者はあくまでも、人びとの抱く欲望の多くは「現在唯一存在する資本主義社会における、いわば社会化の産物なのだ」という考え方をとっている。
 資本主義が成功を収め、人びとに広く受け入れられていることは間違いない。とはいえ、現在の資本主義には二つの異なるタイプがある、と著者は指摘する。
 ひとつはこの200年にわたり欧米で発達してきた「リベラルな能力主義的資本主義」、もうひとつはいまの中国に代表される、国家が主導する「政治的資本主義ないし権威主義的資本主義」だ。
 著者は簡略化して、前者をリベラル資本主義、後者を政治的資本主義と呼んでいるが、もちろん欧米型資本主義、中国型資本主義と名づけてもよいだろう。
 本書はいわば欧米型資本主義と中国型資本主義の比較制度論である。しかも、その競争において「どちらかのシステムが世界全体を支配することはまずなさそうだ」という見通しの上に、著者は両者の比較制度分析をこころみている。
 それにしても著しいのはアジア、とりわけ中国の台頭である。正確にいえば、それは台頭というより、西洋とアジアの関係を産業革命以前の状態に引き戻すものである。それを著者は「世界の再均衡化」と名づけている。
 19世紀はじめの産業革命以降、世界の所得の不平等は拡大するいっぽうだった。とりわけ、第二次世界大戦以降、先進国と低開発国の所得格差は大きく広がった。1940年代から80年代にかけ、インドも中国も、1人あたりGDPは欧米の10分の1程度にすぎなかった。
 状況が変わりはじめるのは1980年代に入ってからである。さまざまな経済改革により、中国はその後40年で、毎年1人あたりGDPの8%上昇を達成する。その結果、現在、中国の1人あたりGDPは欧米の30〜35%に達した。
 中国に続いて、インド、ベトナム、タイ、インドネシアが成長をはじめた。それによって欧米とアジアの所得格差は急速に縮まった。それに輪をかけたのがIT革命だった、と著者はいう。
 いまや(2018年段階で)、世界の生産高は、欧米が37%なのにアジアは43%に達している。
 1970年代においては、グローバルな経済システムに組み込まれた先進諸国と、おいてけぼりをくった後発地域との二重構造が顕著だった。ところが、現在欧米では、多くの人がグローバリゼーションにかえって不快感を覚えている。
 それは「きわめて成功をおさめているエリート層」と「グローバルな貿易と移民を自分たちの不幸の元凶とみなす大勢の人びと」とのあいだに大きな格差が生じているからだ、と著者はいう。
 こうした現象がなぜ生じたかを探るためには、欧米型資本主義と中国型資本主義を、制度的に比較検討してみる必要がある、と著者は考えている。
 以下、のんびりと、その論考を追ってみることにする。

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17世紀後半以降──網野善彦『日本社会の歴史』を読む(12) [歴史]

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 17世紀で本書の記述は終わっている。したがって、以下は、17世紀後半から現代までの歴史をどうみるかについて、網野が一筆書きで視点を示したおまけといってよいだろう。
 1662年、中国では明が滅び、清が成立した。1669年、北方ではシャクシャインに率いられたアイヌが蜂起するが、松前氏によって鎮圧された。そのころ日本は蝦夷地、琉球国までを領域とみなすようになっていた。
 17世紀後半の将軍家綱から綱吉の時代にかけては、将軍の権威のもとで、平和が保たれていた。幕府と朝廷との関係は協調のうちに推移し、それは18世紀の家宣、家継の時代にかけても引き継がれた。
 平和な時代にあって、経済は発展した。綿作や菜種・煙草の栽培も盛んになった。村では農民だけでなく、さまざまな職能をもつ人びとが活動している。それに町人や宗教者の活発な動きが重なって、社会は活気を呈していた。
 大坂の堂島では、米市場が生まれ、米切手が流通していた。消費需要の拡大にともない、大量の米が各地に輸送されていた。商人たちは新田開発に投資し、大河川の下流域では大規模な水田が開かれた。
 イワシは干鰯と呼ばれる肥料となり、近畿の綿作や菜種作に欠かせなかった。そのイワシを求めて、紀伊半島の漁師たちは、遠くまで漁にでかけていた。
 近江や能登の商人たちは、松前領の商場(あきないば)を請け負っていた。そこで、昆布やいりこなどの特産物を手に入れただけでなく、近隣の漁民やアイヌを雇ってニシン漁をおこなっていた。
 さまざまな商品が日本じゅうを行き交うようになる。こうした大量の物資の流通を支えていたのが、西廻り、東廻りの廻船だった。
 都市の発展は大きな木材需要を生んだ。衣料生産もまた目覚ましい発展を遂げた。江戸と大坂のあいだでは物資の流れが活発で、それにともなって、大坂の両替屋や大名貸が巨大な富を蓄積するようになった。
 日本では17世紀まで大量の金や銀が海外に輸出されていた。しかし、貨幣経済が発達し、金や銀が不足してくると、輸出品は銅や俵物(干しアワビ、フカヒレ、ナマコ)などに変更されていった。
 18世紀にはいると商人が富を蓄えるいっぽう、幕府や藩の財政は次第に苦しくなってくる。将軍吉宗は武家の権威を再確立するため、全国の戸口・土地の調査をおこない、新田開発を促しつつ財政再建をはかった。そのころ、各地では尾張の絹織産業、佐賀の陶磁器のような特産品も生まれつつあった。
 18世紀後半には、田沼意次が重商主義的な政策を採用する。しかし、1783年に浅間山が大噴火し、それが天明の大飢饉につながると、物価が騰貴し、いたるところで打ちこわしがおこった。それにより田沼は失脚し、松平定信による寛政の改革がはじまる。その改革は農本主義を全面に打ち出したものだった。
 19世紀にはいると、ロシアのラックスマンやレザノフが来航し、日本との通交を求めた。だが、幕府はあくまでも「鎖国」の祖法にこだわった。幕府の硬直した姿勢のもと、社会では閉塞感が広がり、各地で一揆や打ちこわしが発生するようになった。
 1833年には天保の飢饉が発生する。1837年には陽明学者の大塩平八郎が幕府に抗議して、大坂で蜂起した。
 1840年にはアヘン戦争がおこり、東アジア世界は激動の時代にはいった。
 1841年に大御所の家斉が死ぬと、幕府は老中水野忠邦による思い切った体制立て直しをはかった。だが、それは強い反発にあい、幕府はそれ以降、政治の主導権を失っていく。
 弱体化する幕府にたいし、力をつけてきたのが薩摩や長州、肥前、土佐などの諸藩である。宇和島、福井、水戸などの諸藩も台頭し、政局の指導権は雄藩に移りつつあった。
 1853年にはペリーが来航、日本に「開国」を迫った。激動の時代がはじまる。1867年に幕府は崩壊、天皇を中心とする新政府が誕生する。元号は明治と変わり、江戸は東京とあらためられ、首都となった。
 1872年、琉球王国は日本に組み入れられ、1879年に沖縄県となった。1875年にはロシアとのあいだで樺太・千島交換条約が結ばれ、千島が日本の領土となった。そのころ、北海道ではアイヌの生活が破壊されていた。
 日本は文明開化への道を突き進んだ。1889年には大日本帝国憲法が発布され、日本は欧米型の近代的立憲国家となった。
 しかし、それまでに蓄積された遺産があったからこそ、日本の近代は可能になったのだ、と網野は注意をうながしている。生産技術にしても商慣習にしても、そのほとんどは江戸時代までに確立されていた。
 にもかかわらず、明治政府は江戸時代を全面的に否定し、誤りに満ちた日本国・日本人の像を国民の意識のなかに刷りこんでいった、と網野は指摘する。
 記紀の神話があたかも事実であるかのように扱われ、日本人は万世一系の天皇をいただく大和民族だという意識が植えつけられ、中国人や朝鮮人にたいする蔑視が広がっていった。
 日本をつねに外敵から狙われる「孤立した島国」とみる見方は、明治国家のつくりだした虚像だ、と網野は断言する。
 日本を「瑞穂の国」ととらえ、「富国強兵」をめざす考え方が登場する。島国の狭い農地で、大きな人口を支えるのは無理だというイメージをあおることで、大日本帝国は、日清、日露、第一次世界大戦を戦い、台湾や南樺太、朝鮮を植民地化し、満洲にまで支配を伸ばしていった。
 植民地では日本化が推し進められ、それが「はかり知れない苦痛をアジアの多くの人びとに与えた事実を、われわれははっきりと認識しておく必要がある」と、網野はいう。
 昭和にはいると、日本政府は「国体」を批判する者に激しい思想弾圧を加え、「満洲事変」をへて「大東亜戦争」へと突っ走っていった。
 戦争での敗北により、思想の自由がよみがえった。しかし、いまだに「日本」の呪縛は大きい、と網野はいう。日本を相対化してとらえる視点はまだ確立されていない。
 現代は「文明史的・民族史的転換」の時期にあたる。自然と人間社会の関係に根底的な転換が迫られている、と網野はみる。
 歴史の見方も変わりつつある。社会史、生活史の領域にも研究がおよぶようになった。民俗学や地理学、美術、建築、文学などの隣接分野と協力することで、歴史学も複雑なテーマを扱えるようになった。
「国家」「国民」の枠を越え、アジアのなかの日本、さらには人類社会のなかの日本を位置づけなおす作業も進められなくてはならない。
 網野は人類社会が「自然と賢明につき合いつつ平和と自由と、貧困の解決をめざして進む」べきだと述べ、日本人もそのなかでみずからの役割を果たさねばならないと論じて、本書を終えている。
 本書では、近世から近代にいたる歴史はほとんど扱われていない。そのため本書が「羊頭狗肉」に終わったことを、網野自身も認めている。
「日本社会の歴史」と称しながら、その叙述が政治史に片寄りすぎていることも問題かもしれない。
しかし、一人で日本の歴史をえがくというのは、気の遠くなるような作業である。本書からは多くのことを学べるだろう。だいじなのは、何度でも歴史をふり返ってみることなのである。

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