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17世紀後半以降──網野善彦『日本社会の歴史』を読む(12) [歴史]

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 17世紀で本書の記述は終わっている。したがって、以下は、17世紀後半から現代までの歴史をどうみるかについて、網野が一筆書きで視点を示したおまけといってよいだろう。
 1662年、中国では明が滅び、清が成立した。1669年、北方ではシャクシャインに率いられたアイヌが蜂起するが、松前氏によって鎮圧された。そのころ日本は蝦夷地、琉球国までを領域とみなすようになっていた。
 17世紀後半の将軍家綱から綱吉の時代にかけては、将軍の権威のもとで、平和が保たれていた。幕府と朝廷との関係は協調のうちに推移し、それは18世紀の家宣、家継の時代にかけても引き継がれた。
 平和な時代にあって、経済は発展した。綿作や菜種・煙草の栽培も盛んになった。村では農民だけでなく、さまざまな職能をもつ人びとが活動している。それに町人や宗教者の活発な動きが重なって、社会は活気を呈していた。
 大坂の堂島では、米市場が生まれ、米切手が流通していた。消費需要の拡大にともない、大量の米が各地に輸送されていた。商人たちは新田開発に投資し、大河川の下流域では大規模な水田が開かれた。
 イワシは干鰯と呼ばれる肥料となり、近畿の綿作や菜種作に欠かせなかった。そのイワシを求めて、紀伊半島の漁師たちは、遠くまで漁にでかけていた。
 近江や能登の商人たちは、松前領の商場(あきないば)を請け負っていた。そこで、昆布やいりこなどの特産物を手に入れただけでなく、近隣の漁民やアイヌを雇ってニシン漁をおこなっていた。
 さまざまな商品が日本じゅうを行き交うようになる。こうした大量の物資の流通を支えていたのが、西廻り、東廻りの廻船だった。
 都市の発展は大きな木材需要を生んだ。衣料生産もまた目覚ましい発展を遂げた。江戸と大坂のあいだでは物資の流れが活発で、それにともなって、大坂の両替屋や大名貸が巨大な富を蓄積するようになった。
 日本では17世紀まで大量の金や銀が海外に輸出されていた。しかし、貨幣経済が発達し、金や銀が不足してくると、輸出品は銅や俵物(干しアワビ、フカヒレ、ナマコ)などに変更されていった。
 18世紀にはいると商人が富を蓄えるいっぽう、幕府や藩の財政は次第に苦しくなってくる。将軍吉宗は武家の権威を再確立するため、全国の戸口・土地の調査をおこない、新田開発を促しつつ財政再建をはかった。そのころ、各地では尾張の絹織産業、佐賀の陶磁器のような特産品も生まれつつあった。
 18世紀後半には、田沼意次が重商主義的な政策を採用する。しかし、1783年に浅間山が大噴火し、それが天明の大飢饉につながると、物価が騰貴し、いたるところで打ちこわしがおこった。それにより田沼は失脚し、松平定信による寛政の改革がはじまる。その改革は農本主義を全面に打ち出したものだった。
 19世紀にはいると、ロシアのラックスマンやレザノフが来航し、日本との通交を求めた。だが、幕府はあくまでも「鎖国」の祖法にこだわった。幕府の硬直した姿勢のもと、社会では閉塞感が広がり、各地で一揆や打ちこわしが発生するようになった。
 1833年には天保の飢饉が発生する。1837年には陽明学者の大塩平八郎が幕府に抗議して、大坂で蜂起した。
 1840年にはアヘン戦争がおこり、東アジア世界は激動の時代にはいった。
 1841年に大御所の家斉が死ぬと、幕府は老中水野忠邦による思い切った体制立て直しをはかった。だが、それは強い反発にあい、幕府はそれ以降、政治の主導権を失っていく。
 弱体化する幕府にたいし、力をつけてきたのが薩摩や長州、肥前、土佐などの諸藩である。宇和島、福井、水戸などの諸藩も台頭し、政局の指導権は雄藩に移りつつあった。
 1853年にはペリーが来航、日本に「開国」を迫った。激動の時代がはじまる。1867年に幕府は崩壊、天皇を中心とする新政府が誕生する。元号は明治と変わり、江戸は東京とあらためられ、首都となった。
 1872年、琉球王国は日本に組み入れられ、1879年に沖縄県となった。1875年にはロシアとのあいだで樺太・千島交換条約が結ばれ、千島が日本の領土となった。そのころ、北海道ではアイヌの生活が破壊されていた。
 日本は文明開化への道を突き進んだ。1889年には大日本帝国憲法が発布され、日本は欧米型の近代的立憲国家となった。
 しかし、それまでに蓄積された遺産があったからこそ、日本の近代は可能になったのだ、と網野は注意をうながしている。生産技術にしても商慣習にしても、そのほとんどは江戸時代までに確立されていた。
 にもかかわらず、明治政府は江戸時代を全面的に否定し、誤りに満ちた日本国・日本人の像を国民の意識のなかに刷りこんでいった、と網野は指摘する。
 記紀の神話があたかも事実であるかのように扱われ、日本人は万世一系の天皇をいただく大和民族だという意識が植えつけられ、中国人や朝鮮人にたいする蔑視が広がっていった。
 日本をつねに外敵から狙われる「孤立した島国」とみる見方は、明治国家のつくりだした虚像だ、と網野は断言する。
 日本を「瑞穂の国」ととらえ、「富国強兵」をめざす考え方が登場する。島国の狭い農地で、大きな人口を支えるのは無理だというイメージをあおることで、大日本帝国は、日清、日露、第一次世界大戦を戦い、台湾や南樺太、朝鮮を植民地化し、満洲にまで支配を伸ばしていった。
 植民地では日本化が推し進められ、それが「はかり知れない苦痛をアジアの多くの人びとに与えた事実を、われわれははっきりと認識しておく必要がある」と、網野はいう。
 昭和にはいると、日本政府は「国体」を批判する者に激しい思想弾圧を加え、「満洲事変」をへて「大東亜戦争」へと突っ走っていった。
 戦争での敗北により、思想の自由がよみがえった。しかし、いまだに「日本」の呪縛は大きい、と網野はいう。日本を相対化してとらえる視点はまだ確立されていない。
 現代は「文明史的・民族史的転換」の時期にあたる。自然と人間社会の関係に根底的な転換が迫られている、と網野はみる。
 歴史の見方も変わりつつある。社会史、生活史の領域にも研究がおよぶようになった。民俗学や地理学、美術、建築、文学などの隣接分野と協力することで、歴史学も複雑なテーマを扱えるようになった。
「国家」「国民」の枠を越え、アジアのなかの日本、さらには人類社会のなかの日本を位置づけなおす作業も進められなくてはならない。
 網野は人類社会が「自然と賢明につき合いつつ平和と自由と、貧困の解決をめざして進む」べきだと述べ、日本人もそのなかでみずからの役割を果たさねばならないと論じて、本書を終えている。
 本書では、近世から近代にいたる歴史はほとんど扱われていない。そのため本書が「羊頭狗肉」に終わったことを、網野自身も認めている。
「日本社会の歴史」と称しながら、その叙述が政治史に片寄りすぎていることも問題かもしれない。
しかし、一人で日本の歴史をえがくというのは、気の遠くなるような作業である。本書からは多くのことを学べるだろう。だいじなのは、何度でも歴史をふり返ってみることなのである。

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