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マックス・ウェーバー『一般社会経済史要論』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 人類は農業を基本として、経済社会を築いてきた。
 ウェーバーは遠く時代をさかのぼり、農業制度を論述することから講義をはじめている。講義録の性格上、それはあまり厳格な分析ではなく、話題があちこち飛ぶようにみえるのは、やむをえないのかもしれない。
 最初にウェーバーはいう。
 古代ゲルマン人は村落を形成して暮らしていた。その村がどんなものかというと、何層もの円をイメージしてみればよい。円の中心には数々の屋敷が存在する。円の二層目は垣をめぐらせた庭だ。そして三層目が農耕地。四層目が牧地で、最後の五層目に森林が広がっている。土地は共有されているわけではなく、居住者にそれぞれ一定の持ち分が与えられていた。
 耕地は三圃式によって営まれている。第一区画には冬穀物、第二区画には夏穀物がつくられており、第三区画は休閑地だ。その区画は年ごとに入れ替わって輪作される。
村長は村の収穫を管理し、村の秩序を維持する役割を果たしていた。家屋や土地は村人の持ち分として専有され、相続された。
 村々は集まってマルク共同体を形成した。この共同体は森林や荒蕪地を共同マルクとして所有していた。そうした森林や荒蕪地は個々の村落共同体には帰属せず、あくまでもマルク共同体に属した。
 8世紀末のカロリング朝以前に、こうしたマルク共同体はすでに誕生していた。マルクの長は世襲され、国王や領主によって任命されるのが通例だった。
 共同体の構成員は原則的には平等である。しかし、家族が増減したりすると、耕地の所有に差が出てくる。手工業者など新たな労働力の到来も耕地の所有に影響を与えた。さらに国王や諸侯、領主などによる開墾もあって、マルク共同体のかたちは次第に崩れていく。
 ゲルマン的な共同体は、エルベ川とウェーザー川のあいだだけではなく、南ドイツ、スカンディナビア、ベルギー、北フランス、エルベ川の東方、イギリスの一部にまで広がっていた。
 ドイツの南東部にはスラブ的な家族共同体がはいりこみ、それがバルカン半島へと広がっていた。そして、南西部にはローマ的な大土地所有形態が残存している。
 ウェーバーによれば、ゲルマン的な農業制度が崩壊するのは、上からの干渉、すなわち政治的領主や荘園的領主の力によってである。南ドイツでは荘園領主が耕地の整理に着手し、北ドイツでは、プロイセンが旧来の耕地分配法を廃止し、共有地を分割するとともに、農民による耕地の個人経営を推し進めた。
 ウェーバーはゲルマン以外の土地制度にも言及している。
 スコットランドやアイルランドにはケルトの共同体が存在した。その最古のかたちは家畜経済である。
 ロシアにはミールと呼ばれる農村共同体が存在した。村落は街路に沿って形成され、屋敷の背後に庭と耕地が広がっていた。耕地の専有は一時的なもので、村落共同体によって、何年かごとに見直され、再分配された。村民は土地にたいする請求権をもっていたものの、かならずしも平等ではなく、実際にはクラークと呼ばれる土豪が村を仕切っていた。
 ミールは古代から存在したわけではなく、租税制度と農奴制の産物だったとウェーバーはいう。ロシアの租税と農奴は、あまりにも苛酷な制度だった。
 20世紀にはいり、ロシアではストルイピンの農業改革により、ミールは衰退し、富裕な大農階級と、ごくわずかの土地しかもたない農民の群れが生まれた。ミールから切り離された農民が、おそらくロシア革命のひとつの原動力になっていったのだろう。
 オランダ東インド会社は、デサと呼ばれるジャワの村落団体に米と煙草の貢納を課していた。19世紀になると、この連帯責任制は崩壊し、新たな耕作制度が生まれた。農民は国(オランダ)のために土地の5分の1に決められた作物をつくらなくてはならなくなった。
 中国では古代、井田法が実施されていた。耕地は9つの方形に分割され、その中央部分の収穫が皇帝に属するものとされた。だが、この制度が存続したのは一時で、中国の経済制度は基本的に氏族経済だった、とウェーバーはいう。氏族は支配する土地に、祖先の霊廟と学校を建て、共同の耕作と経済を営んでいた。
 インドでは2種類の農業制度があった。村が共有地をもつことは共通している。また村の所有する園地には、手工業者や僧侶、理髪師、洗濯屋、職人などが定住していた。ひとつの形態の村では、個人の土地所有と貢納義務が原則となっており、村長が村を支配している。もうひとつの形態では、村長はおらず、多くの旦那衆が村を支配している。領主に支払う租税は村長や旦那衆によって請け負われ、それがさらに下請けされるという仕組みになっていた。
 ウェーバーによれば、農業共産制が存在したかは、はっきりとはわからない。もっとも原始的な制度では犂や畜牛はなく、男子が耕地に棒で穴をあけ、女子がそのなかに種や苗を入れるという方式がとられていた。北米のイロコイ族は巨大な長屋に住み、男子は戦士または狩人となり、さらには開墾などの重労働に任じ、女子は畠仕事をおこなっていた。

 ウェーバーはこうしてさまざまな農業制度を説明しながら、ここから共同体を支える家族について、考察を進めていくことになる。
 いまでもそうだが、個人は何らかの集団に帰属しなければ生きていくことはできない。それは家族であったり、氏族であったり、さらには呪術的集団、村落共同体、政治的団体、荘園領主などであったりした。
 現在でも生活の基本単位となるのは、両親とその子供からなる小家族だが、古代においては小家族を内包する氏族が経済を維持していた、とウェーバーはいう。
 氏族は伝来の土地を専有している。だが、戦争によって新たな土地を得る(あるいは逆も)こともあった。
 ここでウェーバーはマルクス主義の家族発展論を紹介している。それによると、原始共産制時代は乱婚であり、つづいて特定の氏族が他の氏族と自由な結婚カルテルを結ぶ団婚が生じた。その後、過渡的な段階として母権制が生じ、それが父権制、さらには一夫一婦制に推移していくというのがその見方だった。
一夫一婦制は私有財産の相続に関係している。だが、それとともに売淫という形態も発生したという。
 売淫の歴史は古くにさかのぼる。祭祀や豊年祈願の宗教上の行為は別として、それはたいてい賎民の営利行為だった、とウェーバーはいう。売淫は公認されていたが、それを批判する宗教指導者がいなかったわけではない。厳格なイスラムや禁欲を謳うカルヴィニズムは売淫に正面から反対した。これは実際には穏和な態度を保持していたカトリックとは対称的である。
 ウェーバーはマルクス主義による家族形態の発展図式にやや批判的な態度をとっている。乱婚は偶発的にしか生じない。母権制は一般にひろくおこなわれていたわけではなく、特定の条件のもとでしかあらわれない。
 家族の族内婚は、エジプトのプトレマイオス王朝でおこなわれた貴族制度であり、血統を純粋に保つことが目的だった。氏族の族内婚も身分や財産の保全に結びついていた。略奪婚は不法であり、復讐の対象でもあったが、同時に騎士的な行為として認められていた、云々。
 父権にもとづく合法的婚姻では、父と正式の妻とのあいだに生まれた子供だけが、財産や身分、祭祀などの相続権をもつとされていた。しかし、純粋な母子集団、純粋な父子集団、あるいは母権制においては、相続の形態は父権制とはことなる。
 次にウェーバーは家族が発展する流れを論じる。
狩猟、牧畜、農耕という段階的図式は意味がない、とかれはいう。それらは同時並行的でもあるからだ。
もっとも原始的な農耕は家畜なき農耕だ。それは狩猟とも並行していた。家畜を飼い馴らすには長い時間を要した。家畜は乳をとるため、あるいは食肉のために飼われた。馬が飼育されたのは軍事目的のためである。
 人力だけの農耕は、土地面積に応じ、小家族によって、あるいは数百人の人びとによっておこなわれた。
 ほんらい、農耕と収穫は主に女の仕事で、犂が使われるようになって、男が関与するようになった。一般的にいうと、家内労働と耕作は女の仕事で、狩猟と戦争は男の仕事だった。
 戦争を指導するのは首長の役割だった。若い男たちは訓練のために家を離れ、一定期間、メンナーハウスと呼ばれる若衆宿のようなところで暮らした。トーテミズムの起源も、こうしたメンナーハウスのうちに求められるのではないか、とウェーバーはいう。
 土地が女の働き場所であったかぎりにおいて、土地は母権制によって相続された。ただし、それを後見したのは母方の兄弟だった。いっぽう、戦いによって得られた土地は軍事集団が所有し、女は土地の権利から排除された。
 そして、これまでの土地も、犂の登場とともに、男の働く場所となっていくにつれて、母権制の基礎が崩れていく。
 ほかにも男子の家長権が拡大する要因はあった。たとえば、家族間でそれぞれの家の兄弟がたがいの姉妹を交換する婚姻方式、あるいはトーテム相互の団婚といった方式が、母権制を弱めていったことはまちがいない、とウェーバーはいう。
 氏族についても述べておく必要がある。
 氏族は血縁関係をもつ家族の集合である。呪術的なトーテムの氏族、軍事的氏族、大きな地位と力をもつ男子氏族なども氏族に含まれる。
 氏族には長老がおり、氏族内のもめごとを仲裁する役割を担っていた。とはいえ長老が絶対的な権力を有しているわけではなかった。
 古代都市には多くの氏族が集まっており、個人はそれぞれの氏族の一員として軍事的、政治的な役割をはたした。
 だが氏族は次第に弱体化していく。氏族に代わって、宗教や国家が個人を包摂することが多くなった。
最初に官僚制が発達したのはエジプトの新王国で、国家の権力が氏族の力を解体した。これとは対称的に、中国では氏族の力が長く残った、とウェーバーは話している。

 原始的な家族共同体はかならずしも共産主義的ではなかった、とウェーバーはいう。原始的な共同体でも、財の専有や相続があり、父の絶対的家長権も存在していた。それが共産主義的であるのは消費面にかぎられる。
 家族共同体は次第に大規模な家族共同体に発展していく。それは自然に発展する場合もあるし、政治的に拡大される場合もある。
 スラブでは家族共同体からツァドルーガ(村落共同体)が発生し、アルペン地方では独自の地方共同体が生まれた。
 家族共同体の発展が家長制を生んだというのがウェーバーの見方だ。家長は家政にたいする専有権をもち、その権限は妻子、奴隷、家畜、労働用具にまで及んだ。
 だが、家長制は永続せず、やがて弱体化していく。家長制に代わって一夫一婦制が生じる。それが生じたのはローマにおいてであり、キリスト教がさらに一夫一婦制を促進することになった、とウェーバーは論じている。
 ウェーバーが何を言いたいのか、正直なところよくわからない。もう少し読み進めないと、その真意はつかめないのかもしれない。

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