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資本主義以前の産業──ウェーバー『一般社会経済史要論』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 農業中心の社会でも農業以外に産業がなかったわけではない。ここでは、そうした産業(主に鉱工業)が資本主義時代以前にどのように発達してきたかを、ウェーバーは論じようとしている。
 工業とは原材料を加工して有益な財をつくる作業をいう。その作業によってつくられたものが工業製品である。
 原材料の加工という点では、工業は家族の自己需要を満たすための労働からはじまった。だが、それが他人の家計のためにおこなわれることがある。
 たとえば農奴が荘園領主のためにはたらいたり、インドの農民が村のためにはたらいたりする場合、かれらは領主や村落から実物ないし貨幣での給付を受ける。これがさらに発展していくと、みずからの営利のために手仕事がおこなわれることになる。
 女性はもともと耕作奴婢だった、とウェーバーはいう。料理や機織りも女性の仕事だった。これにたいし、戦争や狩猟、家畜の飼育に従事する男たちは、金属品や革なめし、肉の調理を担当していた。家の普請や舟の建造なども、村じゅうの男たちの仕事だった。
 ウェーバーによると、最古の職業は呪医だった。鍛冶屋もまた呪術のようにみられていた。
 熟練の手仕事は首長や荘園領主の家計のもとでおこなわれる。最終的にそれは市場をめざすようになるとしても、その中間段階として他人の注文に応じて仕事をする手工業者が生まれる。手工業者はみずから原料と労働手段を持っている場合もあるし、原料と労働手段のどちらか、とりわけ原料を注文者から支給される場合もある。注文者は消費者である場合も、商人的企業家である場合も考えられる。
 労働場所は自分の家であることも、家の外であること(たとえば仕事場や工場など)もある。労働手段は道具から設備まで、さまざまだ。設備を所有するのは村であったり、修道院であったり、企業家であったりする。企業家は固定資本として設備を工場に配している。
 産業の発展をふり返っておこう。
 まず家族産業から部族産業へという道筋が想定できる。この場合は部族が特定の原料、あるいは技能を独占している。ここからは何らかの商品が生まれ、部族外にも売られるだろう。
 インドではカーストにもとづいて、人びとが伝統で定められた職業につき、生産・サービス活動に従事していた。
 市場のための専業化は職業分化を生じさせる。村落または領主が他部族出身の手工業者を呼び入れて働かせるときには、その生活の面倒を村落や領主がみなければならない。ウェーバーはこれをデミウルギーと呼んでいるが、この場合は自己需要のための生産がおこなわれるにすぎない。
 これがさらに進むと、市場のための生産がおこなわれるようになる。それを担うのは村落工業やフローンホーフ(荘園)工業である。もともと村落や領主の需要をまかなうための生産が、次第に市場に向けられるようになるわけだ。
 古代においては、貴族は大所有地で働く奴隷のなかに手工業者をかかえていた。かれらは鍛冶や製鉄、建築、車両整備、衣服づくり、製粉、パン焼き、料理のために働き、都市でも主人に仕えていた。エジプトやメソポタミアでは、王に隷属し、みごとな芸術品をつくる労働者もいた。
 こうした状態から、顧客生産や市場生産に移るためには、何よりも交換経済がある程度発達し、一定の顧客が存在しなければならない、とウェーバーは論じる。
 最初におきた現象は、貴族(領主)の奴隷がつくった織物や陶磁器が市場に流出したケースである。
 次に、領主や大地主が積極的に企業経営に乗り出す場合がある。古代ローマ時代のある大地主は、副業として、製瓦業や砂石採掘業を営んでいた。奴隷女を仕事場に集めて、紡績の仕事をさせていた者もいる。中世の修道院は醸造所や晒布場、蒸留所などを営んでいた。
 いっぽう都市では、商人が出資して企業をつくり、不自由労働者を集め、仕事をさせるようになった。古代ローマでは、貴族がエルガステリオン(作業所)に奴隷を集め、武器や高級品を製造させていたケースもある。奴隷を確保するのは難事であり、奴隷による大規模経営はめずらしい例外だった。しかし、育成した奴隷に経営をまかせ、領主がレント(収益)を徴収するケースがあったことも、ウェーバーは指摘している。

 奴隷制にもとづく古代企業は、不特定な市場ではなく、かぎられた狭い市場を対象としていた。
 古代ギリシア人は美術品を除き、ごくささやかなものしか所有していない。古代ローマでもベッドは贅沢品で、人びとはマントにくるまって地べたで寝ていた。これにたいし、中世の都市貴族は多くの実用的な家具をもつようになっていた。
 10世紀から12世紀にかけ、北ヨーロッパでは、古代の帝国にくらべ、はるかに広範囲な購買力あるいは買い手が存在した、とウェーバーはいう。
 市場が拡大したのは中世の10世紀ごろからで、農民の購買力が増えたのが大きな要因だった。農民の隷属関係は次第に厳しさを減じており、いっぽう農業の集約度は進歩していた。こうした背景のもとで、手工業が興隆してくる。
 12世紀、13世紀になると、王侯によって多くの都市がつくられ、都市の時代がはじまる。ヨーロッパでは、奴隷制度はすでに引き合わなくなっていた。
 皇帝が都市に特権を与えたため、貴族や商人、隷農、熟練手工業者などが都市に集まってきた。その後、帝国の力が衰えるとともに、都市の独立傾向、自治的傾向が強まっていく。
 都市に定住した手工業者は、土地を所有した完全市民ではなく、都市の内外に住んでいる領主や後見人(ムントマン)に賃租を支払わなくてはならなかった。また、都市のなかには、独特の手工業者秩序をもつフローンホーフ(荘園)も存在した。
 自由手工業者は道具はもっているが、固定資本(設備)はもっていない。一般に顧客の注文に応じてはたらく生産者だった。かれらが賃仕事にとどまるか、つくった製品を売って生活する仕事人になるかどうかは、市場の状況によってことなっていた。
 賃仕事は富裕な階級のために働くところに成立する。これにたいし、つくった製品を売る仕事(価格仕事)が成立するのは、多くの民衆を相手とする場合だった。
 多数の民衆の購買力は、価格仕事が成立する前提であり、これがのちに資本主義成立の前提となっていく。しかし、だいたいにおいて古代でも中世でも、手工業者は賃仕事が多かった、とウェーバーは述べている。

 手工業者が職業別に結合するとツンフト(職人ギルド)が結成される。ツンフトは内部には労働の規制、外部には独占化を求めた。
 ツンフトが本格的に誕生するのは、ヨーロッパ中世においてである。競争が激化するなか、仲間の生業を維持することを目的に結成されたとみてよい。
 ツンフトは仲間の経済機会を均等にするよう努めた。そのためにさまざまな規制が設けられた。一人の親方が突出した資本をもつことは禁止され、労働も伝統に沿っておこなわれねばならず、労働者(徒弟)の数も統制された。商品の品質は監査され、原料は共同購入されることもあった。
 ツンフトは製品ごとにこまかく設けられ、ひとつのツンフトが別のツンフトの領分を侵すことは禁止されていた。価格は公定され、ツンフトが商人のために働くことも禁止されるなど、ツンフトにはさまざまな規制が設けられていた。
 ツンフトは対外的には純粋な独占政策を発揮した。仲間どうしの違反には厳しく目を光らせ、ツンフトが絶対的権力を有する地域内においては、ほかの手工業を認めなかった。価格は公定されていた。ツンフトにおいては、同一労働者がはじめからおわりまで完成品を生産することになっており、それによってツンフト内部で大経営が発生しないよう配慮されていた。
 だが、ツンフトは次第に壁にぶつかるようになる。新たな営利の機会が減ってきたこともそのひとつだ。修行期間や無報酬期間が長くなり、親方にはなかなか昇進できなくなっていた。親方の数は相変わらず制限されている。親方の地位が世襲されることも多くなった。そこで、ツンフトから離れる平職人も増えてくる。

 ツンフトについて、ウェーバーはいくつかの点を追加して述べている。
 ひとつはツンフトが都市という地盤のうえにはじめて姿を現したことである。中世都市の住民は、さまざまな身分をもつ人の寄せ集めで、その大多数は自由な経歴をもっていなかった。手工業者のうちで市民と認められている人はごくわずかだった。
 都市領主はツンフトの代表を任命し、ツンフトの経営にまで干渉しようとした。しかし、かれらはそうした都市領主と闘い、みずからツンフトの代表者を選ぶとともに、都市領主の干渉をはねのけた。不当な賦役や租税、賃借料とも闘った。都市貴族と政治上平等な地位を得るために闘った、とウェーバーは述べている。
 ツンフトはこうした闘いに勝利を収めた。だが、その結果、多くの敵をもつことになった。
 ツンフトの反対者は、まず消費者だった。ツンフトの市場独占と独占価格に対抗するため、都市当局は自由親方を任命したり、市営の肉の販売所やパン焼き窯を設置したりして、ツンフトに対抗した。
 ツンフトには別の競争者がいなかったわけではない。それが荘園や修道院の手工業者である。とりわけ「修道院はツンフトに対して手ごわい競争をいどむこととなり、したがってツンフトは激烈にこれと闘争した」とウェーバーは述べている。そして、商人と結びついた田舎の手工業者の存在も無視できなくなってくる。
 ツンフトと労働者との関係もあやしくなってきた。ツンフトが職人の数を制限したり、なかなか親方になれないのに平職人にたいする親方の規制が厳しくなるいっぽうだったりしたからである。
 ツンフトは小売商人とも対立した。小売商人にとっては、公定価格を崩さないツンフトは商売の妨げにほかならなかった。
 ツンフトどうしの闘いもあった。たとえば毛織物工業ではその生産工程が横断的に分割されており、最終的な毛織物ができるまで、選毛・洗毛から染毛、仕立てにいたるまで、その工程ごとにツンフトが分かれていた。その全工程をどのツンフトが制するかで、争いが絶えなかったのだ。とはいえ「生産過程中のもっとも多く資本力を有する段階が勝利者となる」ことが多かった、とウェーバーは指摘する(毛織物の場合は、選毛・洗毛のツンフト)。

 ツンフトはなぜ崩壊するにいたるのか、ウェーバーが次に論じるのはこのテーマである。
 ツンフトの親方が商人または問屋となって、原料を買い入れ、これを他のツンフトに配分し、全生産過程を統合して製品を売るようになることはじゅうぶんに考えられる。この場合、ツンフトはカンパニーに転化し、いわば商人ツンフトが生まれたことになる。
 原料が高価で、その輸入に巨額の資本を必要とする場合、ツンフトは輸入業者(たとえばフッガー家)に依存しないわけにはいかなかった。そうした高級原料には琥珀(こはく)や絹などがあり、初期の木綿もそのひとつだった。輸入原料だけではない。ツンフトは国外に製品を売る場合は輸出業者に頼らざるをえなかった。
 問屋制度を促したのは繊維工業だ、とウェーバーは話している。ヨーロッパでは11世紀以来、羊毛と麻の戦いがあり、17、18世紀には羊毛と木綿の戦いがあって、けっきょく木綿が勝利を収めた。
 中世都市の繁栄を支えたのは羊毛産業だった。フィレンツェでは羊毛職人のツンフトが大きな政治勢力となっており、その背後にはすでに問屋の存在がみられた。パリの羊毛問屋はシャンパーニュの大市のための仕事をしていた。フランドルでもイギリスでも問屋制度が発達した。
 イギリスはもともと粗製の羊毛を輸出していたが、13、14世紀には未染色の半製品、そしてついに完成品の輸出をおこなうようになった。それが可能になったのは、都会の問屋と田舎の職工が結合することによってである。
 両者の争いがなかったわけではないが、問屋制度の発達によって、ツンフトは次第に影響力を失っていく。職人は問屋のために直接労働する家内工業的小親方に転じていった。
 問屋制度は次のような段階をへて発展していった、とウェーバーはいう。すなわち(1)手工業者からの買い入れ独占、(2)原料の配給、(3)生産過程の管理、(4)道具の配給、(5)生産過程の結合、である。
 問屋制度が長く持続した理由を、ウェーバーは産業革命以前の時代は、固定資本の割合が少なかったことに求めている。このことは、問屋制度が広範な家内工業に依存していたことを意味している。
だが、まもなく工場が生まれようとしていた。

 家庭から分離された仕事場生産は昔から存在した。荘園や組合が仕事場をつくることもあった。それが大規模な仕事場になることもあった。マニュファクチュアは多くの労働者を一カ所に集めて、規律をもって労働させる制度である。工場では、企業家が固定資本(設備)と労働力を投入し、異質結合的に協働がおこなわれる。
 工場成立の前提条件は、大量かつ継続的な販路が存在することで、そのためには市場の安定と貨幣の購買力が求められる。工場は家内工業や問屋制度でつくられるものよりも、より安価に商品を供給しなければならない。
 工場での生産には豊富な原料と固定資本(設備)、それに多くの自由な労働力が欠かせなかった。イギリスで自由な労働力が得られたのは、農民からの土地収奪がなされ、農村人口がプロレタリア化したためだ、とウェーバーは述べている。
 ツンフト的な手工業は固定資本なき経営であり、大きな設備を必要としなかった。しかし、近代以前においても、設備を必要とする仕事場があった。たとえば製粉所や製材所、搾油所、晒布所、パン焼竈、醸造所、鋳造所、鍛鉄場などで、これらは王侯、荘園領主、都市貴族、あるいは市民によって営まれていた。
 16世紀のイギリスのある繊維工場は工場の走りだが、ウェーバーによると、そこには200の織機が据え付けられていて、職工たちは賃金をもらうために機械の前で働いていた。少年が補助的に働く姿もみられた。だが、手工業者の訴えにより、1555年に国王はこの工場を禁止している。当時はまだ問屋制手工業者の影響が強かったのだ。
 工場に新しい進展がみられるようになるのは、17、18世紀になってからである。近代的分業と同時に、人間以外の動力源が用いられるようになった。最初は馬力起重機、ついで水や風が利用された。風を利用した代表はオランダの風車で、水は採鉱業でも欠かせなかった。
 工場の先駆者は中世の王侯の貨幣鋳造所だった、とウェーバーはいう。武器、さらに軍隊の被服や火薬を製造するためにも秘密を保持する工場が必要とされた。
 需要という点で確実なものとしては奢侈的需要があった。ゴブラン織や敷物、金の器や陶器、窓硝子、ビロード、絹、石鹸、砂糖など、上層階級のための需要を満たすための工場がつくられた。こうしたものをつくるには特別の設備が必要だった。
 美術品にカネをだすことのできない庶民は紙でつくった壁紙を求めたというのはおもしろい。「民衆は、模造品で、上層階級の行うような奢侈的消費の代用物をえていた」とウェーバーはいう。それでも市場はほぼ貴族階級にかぎられていた。
 フランスではフランソワ1世(在位1515〜47)が武器や壁紙などの王立工場をつくっていた。イギリスではツンフトが都市を制していたため、工場は地方に建設する以外になかった。
 ドイツで最初に工場がつくられたのは16世紀のチューリヒ(現スイス)で、ユグノーの亡命者が絹と緞子(どんす)を製造し、それがたちまちドイツの諸都市に普及した。16世紀から17世紀にかけ、アウグスブルクでは砂糖や緞子、ニュルンベルクでは石鹸、アンナベルクでは染色、ザクセンでは織物、ハレとマクデブルクでは針金の工場がつくられ、そして18世紀には王侯直営の陶器工場がつくられている。
 ウェーバーは工場は手工業から発生したわけではないという。工場でつくられたのは、木綿、陶器、緞子など、新しい生産方式を必要とする新しい生産物だった。
 同様に工場は問屋制度から生まれたものでもなかった。工場において重要なのは固定資本という要素だった。その意味では、工場はむしろ荘園領主の設備を継承したものといえる。機械は工場に先行したわけではなく、工場が蒸気と機械の発展を促したという見方をウェーバーはとっている。
 近代的工場の成立は企業家と労働者に重大な影響をもたらした。企業家はいまや市場のための生産に責任を負うことになった。労働者もまた自由な労働者として、企業と労働契約を結んで、仕事をすることになった。
 だが、こうした工場制度が成立したのは、ヨーロッパの一部に限られていた。インドではカースト制度、中国では村落的氏族関係が大経営の成立をさまたげた。大経営は古代の奴隷制、中世の不自由労働からも生まれるはずがなかった。ツンフトによる拘束も工場の発展を阻害した。にもかかわらず、工場が誕生することができたのは、機械化という刺激があったからだ、とウェーバーはいう。そして、その機械化の推進力となったのは、鉱山業の発展にほかならなかった。
 すなわち、石炭と鉄の時代がはじまるのである。

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