SSブログ

資本主義以前の商業──ウェーバー『一般社会経済史要論』を読む(5) [商品世界論ノート]

200px-Coat_of_arms_of_the_House_of_de'_Medici.png
 ミュンヘン大学でのマックス・ウェーバーの講義ぶりを記述したものが残っている。

〈ウェーバーの講義は準備されたテキストの読み上げでは全くなかった。彼が教室にもってくるもののすべては、見たところ彼がアウトラインのほんのわずかの基本的な項目を書きとめたにすぎないと思われる小さな数枚の紙片であった。だから、学生たちは学問的で芸術的な創造のうっとりさせるような過程をよく眺めていたものだった。言葉や思想が爆発的な力で生みだされた。ウェーバーは早く実に急いで話した。この奔流についてゆくことは容易ではなかった。だが、すべてのものは、きわめて厳密に練りあげられた体系的な秩序において提示され、きわめて精確な逐語的な定式であらわされた。〉

 この記述を引用する長部日出雄は「マックス[・ウェーバー]の講義は、あらかじめ調べ抜き考え抜かれた主題を、語りながらさらに自在に展開していく即興演奏の要素を、多分にふくむものだった」と、感嘆しきりの様子で記している。
 さて、その講義だが、いまは資本主義以前の商業を概説するところまで進んでいる。
 商業はことなる共同体間の取引として発生する、とウェーバーは述べる。共同体間で生産が分化する結果、商業が発生した。やがて、生産自体が商業を目的とするようになり、商業が独立した職業となっていく。
 インドでは、商人(バニヤン)階級はカーストに位置づけられていた。いかなる生き物も殺すことを禁じられているジャイナ教徒は、宝石や貴金属を扱う商人となった。土地を所有できないユダヤ人が商業、とりわけ金融業に向かったのも、宗教的な理由からだ、とウェーバーはいう。
 中世には領主商業があらわれた。領主が荘園の生産物の余剰を市場で売るため、職業的商人を手代として雇うのだ。
 王侯が他人種の商人に保護を与え、その代償として手数料を徴収する習慣は中世にも存在した。
 古代オリエントでは、権力者どうしがたがいに贈り物をしてよしみを通じていた。ふつうは黄金や戦車だが、馬や奴隷が贈られることもあった。
 エジプトのファラオは自身が船主として、交易事業を営んでいた。ヴェネツィアの首長(ドージェ)たちも船主だった。ハプスブルク家も18世紀までみずから交易事業を直営していた。しかし、王たちが商人に商業を特許したり、請け負わせたりして、その成果の一部を受けとることが多くなる。
 独立した商人層が生まれる前提としては、交通手段が確立されていなければならなかった。
 メソポタミアでは河川を渡るときに、空気をいれた山羊皮が用いられていたし、イスラムの時代でも革嚢船があった、とウェーバーは話している。
 陸上では13世紀ころまで、商人は自分の背に商品を担いだり、ロバやラバなどに二輪車をひかせたりして荷物を運んでいた。馬は最初、戦争にしか用いられず、運送手段として用いられるようになったのは、わりあい新しい時代にはいってからだという。
 船の発達には長い時間を要した。最初は昼間の沿岸航海しかできなかった。やがてアラブ人がモンスーンを利用して、インドへの遠洋航海をころろみる。しかし、すでに中国人は3、4世紀に羅針盤を利用しており、ヨーロッパ人がそれを採用するのははるかあとのことだ。いずれにせよ、羅針盤の導入は航海に決定的な影響をもたらした、とウェーバーはいう。
 帆は船のスピードアップに貢献した。それでも古代においては、ジブラルタル─オスティア(ローマの外港)間、メッシナ─アレクサンドリア間はそれぞれ8〜10日の日数を要していた。帆船航海術の完成は16、17世紀のイギリスを待たなければならない。
 海上商人はいつでも海賊に転じた、とウェーバーは話している。商船は軍船・海賊船にもなった。しかし、それも次第に役割によって分化してくる。
 古代のエジプトの王は、いちばんの船持ちでもあった。私的な運漕業を開始したのは、フェニキア人とギリシア人である。
 船に関しては、ローマ人はカルタゴ人に遅れをとっていた。ローマで私的運漕業がはじまるのはポエニ戦争後だ。とはいえローマ人は基本的に陸地中心で、海洋の交易には不熱心だった。
 古代、船の動力には奴隷が漕ぎ手として用いられていた。船主は商人で、ギリシアのポリスにはエンポロスと呼ばれる船乗りの商人がいた。ローマでは国が船舶の徴用と穀物の配給を仕切っていた。しかし、ローマでは船による運送は発達せず、軍船も衰退して、海賊が横行することになった。
 古代や中世でも船荷に関する決まりが設けられていた。遭難によって船荷を捨てざるをえないときには、関係者が共同でその損害を負担することになっていた。海上貸付には高い利子が発生した。とはいえ、遭難で荷を失ったときには、貸主は幾分かの利子削減に応じなければならなかった。
 中世の海上商業は、古代とちがい組合によって営まれるようになる。商人たちは仲間組合を結成し、船長を雇って共同で船荷を運搬し、共同で危険を分担した。資本家による海上貸付もあって、行商人たちはこの方式をよく利用したという。
 行きの船には海外で売られる商品が積まれ、それに商人が同道する場合もあれば、別の商人に販売をゆだねる場合もあった。そこで生じた利益はその都度分配された。
 近世を尺度とすれば、中世の海上商業の取引高はきわめてわずかなものだった、とウェーバーはいう。航海の期間も長かったため、資本の回転もきわめて緩慢だった。海賊に襲われる危険もあった。それでも、地中海やバルト海では、それなりの規模の取引がおこなわれていた。
 海上にくらべ陸上の危険は少なかった。その代わり運賃は比較にならぬくらい高くなった。陸上商業でも13世紀までは商人が商品についていくのがふつうだった。その後は、運搬人が荷物に責任をもつようになる。
 問題は道路事情だった。古代ローマの道路は、あくまでも首都への食糧供給と政治的・軍事的目的のためのものだった。中世の荘園領主は農民たちに道路や橋梁の建設・維持を課し、めいめい勝手に道路をつくるようになった。
 中世では海上にくらべ陸上の取引ははるかに少なかった。加えて、運送に時間がかかった。アジアや中東では、隊商が荷物の運搬を引き受けていた。
 人びとが個人的に旅行ができるようになったのは、14、15世紀になってからである。当初は荘園領主が農家に馬や馬車を貸しつけて運送にあずからせていた。そこから次第に独立した運送業者が生まれ、運送業者のツンフトが結成される。
 中世は河川の舟航が盛んだった。領地内の運輸独占権をもっていた領主や大司教は、この権利を船乗りたちにゆだねた。しかし、しだいに船乗りたちは団体を結成し、河川通行権をにぎるようになる。ツンフトや都市の自治団体が船を所有して、この権利を行使する場合もあった。
 商人は身分の保証を求めた。最初に求めたのは首長の保護である。つぎに法的な保護が求められた。商人の数が増えるにつれてハンザ(団体)が結成される。都市には外来商人のための居留地がつくられた。
 最後に商品を取引できる市場が必要になってくる。エジプトやインド、ヨーロッパでも、もともと市場は外来商人のために、王の特許により創設された、とウェーバーは話している。市場ではさまざまな決まりが設けられ、手数料や市場税がかけられて、王はこれによって利益を得ていた。
 定住商人は都市発展の産物だ、とウェーバーはいう。もちろん、以前から城の回りの集落に市はあった。だが、そこに定住商人がいたわけではない。
 定住商人の起源は行商人だ。かれらは周期的に旅行し、地方で生産物を売ったり買ったりしていた。次に、かれらは使用人に地方を回らせて産物を集めるようになり、さらに地方に支店を設けて、使用人を常駐させるようになる。そして、自身は都市の定住商人となるのである。こうした状況が可能になったのは中世末期だという。
 中世商業の中心は小売業だった。はるばるオリエントから商品をもたらす商人も、直接、消費者に商品を売ることに重点を置いていた。本来の卸売商人は中世末期でもほんのわずかしか存在しなかった。ハンザ同盟の商人たちも他国で小売商人を組織することに重点を置いていた。
 定住商人が闘ったのは、まずユダヤ人や他国商人、田舎の商人などのような外部的存在であり、かれらを市場から排除しようとした。そして、内部においては、仲間のひとりが突出しないよう機会の均等を求め、さまざまな規制を設けた。営業活動の範囲や消費者の囲い込みをめぐっても争いが生じたという。
 さらにウェーバーは各地の商人の集まりとしてメッセ(見本市)の存在を挙げている。その代表がシャンパーニュの大市だった。シャンパーニュでは4つの町で6つのメッセが、それぞれ年に50日間開かれていた。
 ここで取引された最大の商品はイギリスやフランドルの羊毛と羊毛製品である。これにたいしイタリアなどからは香料、染料、臘、サフラン、樟脳、漆などがもたらされた。シャンパーニュには世界中の貨幣が集まり、為替や手形の決済がおこなわれていた。
 合理的な商業には計算技術が欠かせなかった。位取り計算法はインドで発明され、アラブ人がこれを発展させ、ユダヤ人がヨーロッパに伝えた。ヨーロッパで計算法が普及したのは十字軍の時代になってからだという。そして、中世のイタリアで簿記がつくられるにいたった。
 ウェーバーによれば、簿記の必要性が高まったのは、家族的な経営体である商家が非家族的な経営体を形成することになってからだという。
 たとえば南ヨーロッパでは、東方に向かう商人が、多くの出資者とコンメンダ(委託)契約を結び、帰国後におのおのの出資者とそれぞれ決算をおこなうようになった。北ヨーロッパでは企業家が旅に出る多くの組合員にコンメンダを与えていた。
 コンメンダ業務が普及すると、継続的経営体が発展し、経営体のなかに計算という要素がはいってくる。
 フッガー家でもメディチ家でも、当初は家計と経営は未分離だった。だが、しだいに家計の計算と営業上の計算が分離されるようになってくる。こうした現象は西洋においてしか生ぜず、それが初期資本主義の発展に決定的な影響をもたらしていく、とウェーバーは指摘する。
 だが、その前に商人ギルド(商人組合)について論じなくてはならない。
 ギルドには外来商人のギルドと定住商人のギルドがある、とウェーバーは話している。
 外来商人のギルドといえば、13、14世紀までロンドンにはドイツ商人のギルドがあった。だが、何といっても有名なのはハンザ同盟だ。ハンザ同盟はバルト海沿岸の商業を掌握していた。
 定住商人ギルドとしてウェーバーが挙げるのが、中国は上海の茶商組合や広東の公行ギルドである。かれらはすべての海外貿易を独占していた。
 インドにも仏教時代にギルドが出現したが、カースト制度が再興するにおよんで衰退したという。バニヤンと呼ばれるカーストが商業を担っていた。ジャイナ教徒は定住商業に従事し、ゾロアスター教徒は卸売商業や遠隔地交易を営んでいた。
 西洋のギルドの特徴は、政治権力から特権を与えられていることにある。都市ギルドは経済問題に関して都市を管轄する商人組合となった。イギリスには国王の租税を請け負うギルドがあったという。
 西洋のギルドの歴史は実に多様で、イギリス、イタリア、ドイツをみても、その発展はそれぞれ異なる。
 イギリスのギルドは13世紀に絶頂に達するが、14世紀にはいると手工業者がそこから排除された。いっぽうツンフトの内部でも商人が台頭していく。16世紀になっても、イギリスでは卸売商業と小売商業が分離されていない。そのかたわら、特許によって貿易商人のギルドが創設された。ギルドの上位に強大な国家権力が立っていることがイギリスの特徴だという。
 イタリアでは都市国家の内部でギルドが発展し、都市の内部で手工業者と商人が争っていた。
 ドイツでもイタリアと同じく、都市の内部からギルドが発達した。しかし、北ドイツでは都市の経済政策がギルドを制御するというイギリス的特徴がみられた。比較的ちいさな都市では、小売商と仕立屋のギルドが職工ギルドと争っていたが、大都市を掌握していたのは貴族だった。
 北ドイツでは、ギルドの支配するハンザ都市の同盟、すなわちハンザ同盟が結成された(その中心都市はリューベック、ハンブルク、ブレーメンなど)。
 ハンザ同盟は14世紀に最盛を誇り、バルト海地域の交易を担った。
 ウェーバーによると、ハンザ同盟の商業上の特権にあずかったのは、ハンザ都市の市民だけだったという。利用できるのは組合所有の船だけで、貨幣取引はせず、商品取引のみをおこなった。
 ハンザ同盟は各地に商館や倉庫をおいて、商品ネットワークを築き、その取引を厳格な統制下においた。同盟内では度量衡が統一され、商品の規格化もなされたという。蝋や塩、金属、布地をはじめとして多くの商品が取引されていた。
 同盟は軍隊をもたず、強い関税政策ももたなかった。政治的には緩やかな統一体である。加盟する各都市では、商人貴族政治を確保することが目指されていたという。
 15世紀になるとハンザ同盟は衰えはじめる。しかし、資本主義前段階の商業の発達を語るうえで、ハンザ同盟は避けて通れないテーマだ、とウェーバーは考えていた。

nice!(9)  コメント(0)