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資本主義以前の貨幣と銀行──ウェーバー『一般社会経済史要論』を読む(6) [商品世界論ノート]

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 ウェーバーは近代資本主義の成立を論じるにあたって、それ以前の貨幣と銀行がどのようなものであったかを説明する。
 現在、貨幣には支払手段と交換手段というふたつの機能がある。しかし、歴史的には貨幣はまず支払手段として登場したというところから、ウェーバーは話をはじめている。
 交換がなくても支払は発生する。たとえば貢ぎ物、首長からの贈与、結納、持参金、贖罪金、罰金など、支払は常につきものだ。さらに領主が家臣に支払う給与、指揮官が傭兵に渡す支払なども必要になってくるだろう。ペルシア帝国でもカルタゴでも、貨幣は軍事上の支払手段を確保するためだけに鋳造されていた。
 貨幣にはさまざまなものが用いられていた。貝殻もそのひとつである。しかし、貝殻ではなく家畜でなければ買えないものもあった。当初は、何でも買うことのできる共通貨幣はなかったといえるだろう。
 貨幣は財宝としても蓄積された。それは身分的動機にもとづくもので、貨幣を所有する者には威光があるとみられたからである。そのため、耐久性をもつ象牙や巨石、金や銀などの金属が身分的貨幣として扱われた。
 原始時代においては、女性は貨幣財貨をもつことができなかった。男の首長だけがりっぱな大きさの貝殻を所有していて、戦争や特別の贈り物のときなどにかぎって、それを放出したのだという。
貨幣が一般的交換手段として利用されるのは、対外商業がはじまってからである。そして、対外的な貨幣が、次第に共同体内部の経済に侵入してくる。
 ウェーバーは初期にはこんな貨幣があるとして、(1)宝貝、硝子玉、琥珀、珊瑚、象牙などの装飾貨幣、(2)穀物、家畜、奴隷などをはじめ、煙草、火酒、塩、鉄器、武器のような対外的交易貨幣、(3)その土地では生産できない毛皮、皮革、織物のような衣服貨幣、(4)小片に何かの印をつけた記号貨幣などを挙げている。
 こうした貨幣を評価基準として、交換を実現するのはなかなかやっかいなことだった。たとえばミズーリ州の先住民は、小刀二つ、ズボン1着、掛け布団1枚、小銃1丁、馬1頭、革天幕1張で、一人の女子を購っていた。椰子の実10個が一定量の煙草と交換されていたこともある。贖罪金もさまざまな財貨であらわされていた。こうした貨幣の数量で表現されているものは、伝統的に定められた社会的評価である。そして、この社会的評価も状況によって変化した。
 貨幣には次第に貴金属が利用されるようになる。それは、貴金属が腐蝕しにくいこと、装飾物ともなりうること、加工しやすく細分しやすいこと、秤量できることなどが理由だった。
 最初に金貨がつくられたのは、紀元前7世紀のリディア王国(現トルコ西部)においてである。バビロニアでは銀塊が秤量貨幣として用いられていた。
 政治権力者が貨幣の鋳造権を握るのは、もっとあとの時代になってからである。紀元前5世紀ごろ、ペルシアのダレイオス1世はダレイオス金貨をつくり、それを傭兵に給付している。鋳貨を財貨の取引に用いたのはギリシア人である。フェニキア人は商業に貨幣を利用しなかった。ローマでは紀元前269年にいたって、ようやく銀貨が鋳造された。
 貨幣の鋳造は17世紀まで手作業でおこなわれ、手間がかかったうえに、その仕上がりもまちまちだったという。その純正さを判断するには、刻印が比較的安全なよりどころとなった。
 ここでウェーバーは金属本位の話を持ちこんでいる。金属本位とは、特定の鋳貨を支払手段として法定することを意味する。今日では多くの金属(たとえば金、銀、銅)のあいだに特定の比率を設定する両本位制が基本になっているが、かつてはこの比率が常に変動していた。
 地方取引では銅がよく用いられ、遠隔取引では銀がよく使われていたが、しだいに金が頭角をあらわす。その場合は、とりわけ金と銀の比率が問題となった。
 ローマ帝国では銅と銀の並行本位制がとられ、銅と銀の比率は112対1を維持することが目指された。金貨も商業貨幣にはちがいなかったが、当時、金貨は経済目的より軍事的な論功行賞として交付されていたという。
 カエサルが政権を掌握すると、金本位制がとられ、銀との比率が11.9対1と定められた。
アウレウス金貨はコンスタンチヌス時代まで用いられた。コンスタンチヌスのとき新たにソリドゥス金貨がつくられ、ローマ帝国崩壊後も広く流通した。
 ウェーバーはカロリング朝から中世末にいたる貨幣の変遷についても詳しく触れているが、省略してもいいだろう。ただ、中世は銀本位制だったこと、貨幣鋳造権は王や皇帝が専有していたが、実際には貨幣の鋳造は特権者に委譲され、手工業的・ツンフト的につくられていたこと、時がたつとともに悪鋳がおこなわれたこと(悪貨は良貨を駆逐する)、それにより金(とりわけフィレンツェのフローリン金貨)の権威が高まったことなどを頭に入れておくべきだろう。
 16世紀以降は、メキシコやペルーからヨーロッパに大量の貴金属がもたらされた。ウェーバーによると、その量は1493年から1800年にかけ、金が2500トン、銀が9万ないし10万トンだったという。
これによりヨーロッパでは大量の通貨が流通するようになった。だが、混乱がつづき、貨幣制度の合理化には時間がかかった。
 近代的本位制度が過去とことなるのは、それが国庫収入の観点からではなく、純国民経済的観点から実施されたことだ、とウェーバーはいう。それは、王室収入に都合のいい観点からではなく、商業上、合理的な観点から貨幣制度が定められたということである。
 その点で先鞭をつけたのはイギリスだった。1717年にイギリスはアイザック・ニュートンの助けを借りて、ギニー金貨1枚が銀貨21シリングにあたると定めた。その後、金は本位金属となり、銀は補助貨幣に格下げされていった。
 いっぽうフランスは革命中、さまざまな実験をおこなった結果、銀を基本とした両本位制を採用し、銀と金の比価を15.5対1と定めた。
 ドイツでは銀本位制が存続していた。ドイツが金本位制に移行するのは、1870年の普仏戦争の勝利により、フランスから多額の戦争賠償金を得ることができたからである。
 さらに、カリフォルニアでの金の発見により、世界の金の量が増大し、ドイツではマルク金貨がつくられることになった。

 ウェーバーは銀行の話にも触れている。
 資本主義が成立する以前も、銀行はなかったわけではない。多種多様な通貨が流通するなかで、銀行の主な役割は両替だった。
 さらに遠隔地での支払の必要が加わると、支払委託の引き受けが業務に加わる。
 小切手のような支払手段も必要になった。貨幣保管業務、言い換えれば預金業務もはじまった。これらはエジプトでもローマでもおこなわれていたという。
 各種の通貨がないバビロニアでは両替業務はなかった。その代わり、銀行業者は銀塊に刻印を押して貨幣とする業務を請け負っていた。バビロニアの銀行は振替業務をおこなっており、銀行切符(ただし流通の対象ではない)のようなものも発行していたという。
 古代ローマでは、銀行業者は公認の競売業者でもあった。注目されるのは、銀行において当座勘定取引がおこなわれていたことである。
 しかし古代の銀行は、民間経営は例外で、たいていが神殿や国家によって運営されていた。
 神殿(たとえばデルフィ神殿)は金庫としての役割も果たしており、預けられたお金を略奪することはできなかった。奴隷たちはみずからの貯金を神殿に預け、それによって自由が得られる日を待った。いっぽう、王にとって神殿は大きな貸主でもあった。
 国もまた国庫収入を目的として銀行業務を営んでいた。プトレマイオス朝のエジプトでは、王が国庫財政上の機関として、銀行を独占していたが、それは近代的な国立銀行制度とはまるで無関係の機関だった。
 中世の銀行制度は当初はささやかなもので、11世紀には両替屋がある程度だったという。それが12世紀になると遠隔地の支払取引のために手形証書が使われるようになった。金貸しをおこなっていたのは、定住の商人ではなく、ユダヤ人やロンバルディア人(北イタリア人)などの外来者だった。
 うちつづく貨幣悪鋳に対応するため、中世の商人たちは結束して銀行を設立し、その預金をもとに振替証券や支払小切手を発行した。だが、その銀行はなかなかつづかなかった。
 中世の銀行は、法王庁のために租税を徴収する仕事なども請け負っていた。戦争をはじめようとする団体や国王にも融資もおこなっている。だが、その回収は容易ではなく、銀行はしばしば倒産の危機に見舞われた。
 政治権力者は安定した銀行を求めるようになった。そのためにさまざまな独占権(たとえば関税)をもつ独占銀行がつくられるようになる。ジェノヴァのサンジョルジョ銀行はそうした銀行のひとつだった。
 ここでウェーバーは中世の手形の特徴について詳しく述べているが(たとえばジェノヴァの商人Aがいかにしてバルセロナの商人BにCを通じて一定の金額を払うか)、それについては省略する。ただ、手形が支払の無条件の保証を得ることによって今日の銀行紙幣へとつながることを覚えておけばいいだろう。
 かつてイギリスでは金を扱う貴金属商人が銀行を営み、預金を引き受けたり、融資や振替の業務をおこなったりしていた。しかし、1672年にチャールズ2世が巨額の負債を踏み倒すために支払停止を命じたことから、多くの銀行が破産に追いこまれた。そこから、もっとしっかりした独占的銀行が求められるようになった。
 もともとイングランド銀行は、オレンジ公ウィリアムがルイ14世と戦うための戦費を調達するために、1694年に設立された。だが、国王の権力が強化されることを恐れた議会は、これを国立銀行として認めなかった。そのうえ、「議会の決議にもとづかないかぎり、国家にたいし貨幣を前貸しすることはできない」との規定を設けた。
 イングランド銀行は120万ポンドの株式資本によって設立されたが、これはたちまち国家のふところに消えてしまった。しかし、とウェーバーはつけ加える。

〈そのかわり銀行は貴金属取引の権利、商品抵当貸付の権利、および手形取引の権利を獲得した。ことに最後に示した権利はもっとも重要なものであった。何となればこれは銀行券発行権と相関関係に立つからである。……イングランド銀行こそ、組織的に手形を売買した最初の銀行であり、したがってまた、商人ならびに生産者のために、満期前に手形をあらかじめ割引することにより、最終生産物が最終消費者に達するまでの長い経過を短縮した最初の銀行であった。〉

 要するにイングランド銀行の設立によって、イギリスは手形割引権(企業信用)と銀行券発行権をもつ近代的な中央銀行をつくりあげたということになる。ウェーバーによれば、こうした銀行はインドや中国ではつくられなかったという。

 最後にウェーバーは補足的に資本主義時代以前の利子についても触れているので、簡単に紹介しておこう。
 村落共同体や氏族共同体のなかでは、利子も貸付も存在しなかった、とウェーバーは話している。相互扶助が原則だったからである。困ったときに人を助けるのは、共同体の義務になっていた。ユダヤ人もイスラム教徒も同胞からは利子をとらなかった。
 利子が発生するのは内輪ではない別種族や別身分の者への貸付がなされるときだった。
一般に利子は資本のこうむる危険にたいする代償として発生する。古代においても家畜や穀物の貸付を受けたときには、その数倍のものを返すのが決まりだった。海上貸付は危険が大きいぶん、利子も高かった。
 中世の教会は高利を禁止する宣言をたびたび発した。
 多くの人がユダヤ人の貸付に頼っていた。しかし、同時に人びとは国家がユダヤ人の資金を没収し、かれらを追放することを期待していた。こうして、ユダヤ人は町から町へ、村から村へと追いまくられることになった。
 教会自身が貸金所を創設することもあった。だが、これは長くつづかず、かれこれするうちに教会も利子を黙認する寛大な態度をとるようになる。
 とりわけ北ヨーロッパでは、新教が利子禁止のタテマエをなし崩しにしていった。正当な利子を擁護する理論を展開したのは17世紀のカルヴィン派指導者、クラウディウス・サルマシウスだった、とウェーバーは話している。

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