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近代資本主義成立の前提──ウェーバー『一般社会経済史要論』を読む(7) [商品世界論ノート]

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 人びとの需要が企業家の営利活動を通じて満たされる場合、そこには資本主義が存在するとみてよい、とウェーバーは論じている。もっとも、そうした企業が経営可能になるためには、貨幣にもとづく合理的計算がなされなくてはならないことはいうまでもない。
 歴史のすべての段階に資本主義は存在する。しかし、ウェーバーは「日常需要が資本主義的な仕方で充足されるという事実は、ただ西洋にのみ特有であり、しかも西洋においても19世紀の後半の出来事である」と強調する。
 だとするなら、なぜ16世紀以降、西洋(ヨーロッパ)においてのみ、資本主義が定着し、それが近代資本主義として発展したかが問われなければならない。言い換えれば、アジアではなぜ近代資本主義が発生しなかったのかという問題がでてくる。
 前もって答えの方向を示すとするなら、ウェーバーは近代資本主義をいわば一種の文化(福沢諭吉流にいえば文明)としてとらえようとしていたことがわかる。それは単なる経済事象にとどまらなかった。それは科学技術でもあり、都市でもあり、国家でもあり、何よりも新たな近代の精神と倫理なのだった。
 その講義を追っていくことにしよう。
 ウェーバーはまず近代資本主義が成立する前提は何かと問うている。
 ひとつは(1)企業家が物的生産手段(土地、装置、機械、道具など)を私有財産として専有しうること。次に(2)市場の自由が存在すること(身分制の束縛がないこと)。さらに(3)合理的な技術、とりわけ機械が手に入れられること。(4)法のもとで経済の自由が認められていること。(5)自己の労働力を市場で自由に売ることができること。(6)ビジネスの商業化、すなわち株式や投資が認められること、などである。

 資本主義の発達は企業の発達をともなってこそ可能だった。
 古代ローマ時代でも、国家の仕事を担う業者にたいし投資がおこなわれたことがあるが、これは一般化しなかった。
 ウェーバーは株式会社にはふたつの出発点があるという。
 ひとつは、政治権力が収益を先取りしようとして資本を集める場合で、ジェノヴァのサンジョルジョ銀行がそのひとつだった。高利のつく戦時公債は、戦争に勝利したときの戦利品や賠償金(戦利品)を当てにして発行された。ただし、失敗に終わったときは紙くずになる。
 もうひとつは商事会社に出資する場合だ。15、16世紀には、都市の呼びかけによって、市民が出資に応じ、鉄や布の会社がつくられ、それを官庁が監督した。株式の譲渡は認められなかった。収益のすべては配当金として分配され、積立金などは配慮されなかったという。
 17世紀になるとオランダとイギリスの東インド会社が動きはじめる。東インド会社は国際的な植民企業であり、国家が監督して、全国に株を割り当てていた。現在のような株式会社にはほど遠いが、それでも国家により特権を与えられた東インド会社の成功は、人びとに株式会社の意義を知らしめたという。とはいえ、東インド会社でも年々、貸借対照表がつくられ棚卸しがおこなわれるようになるのは、18世紀になってからだ。
 株式会社だけではない。近代においては、国家自体が合理的な経済主体になろうとしていた。
 中世の都市は年金証書を発行することで多くの収入を調達していた。当時は秩序ある予算制がなく、各都市は1週間ごとに経済計画を立てるありさまだったという。市の収入の増減ははなはだしく、支出は常に不足がちだった。そのため政治権力は租税請負制度によって税収の見通しを立てるようになった。
 こうして租税の合理的管理がはじまり、秩序ある財政がつくられるようになっていく。イギリスではエクスチェッカー制度が設けられた。エクスチェッカー制度は、特定の支出は特定の収入によってしか充当されないという方式を指している。こうした方式がとられたのは国王の私的目的による無駄遣いを防ぐためだったという。
 16、17世紀になると王侯の独占特許政策があらわれる。ハプスブルク家はイドリア(現スロベニア)の水銀坑採掘の特許権を握っていたし、スチュアート家も国王による独占特許政策を活用しようとした。だが、イギリスの場合は、国王の専断は早くから議会によって阻止されている。

 投資は時に投機につながった。近代資本主義の歴史が恐慌の歴史でもあったことを、ウェーバーも指摘している。
 1630年代、オランダではチューリップ・バブルが発生した。
 ウェーバーはいう。

〈チューリップは、植民事業によって富裕になった貴族社会における奢侈的需要の目的物となり、突如として架空の熱狂相場を出現した。民衆は労せずして利益を獲得したいとう迷妄にはまりこみ、その極、ついにすべての幻想が突如瓦解し、多くの生活が破滅したのだった。〉

 だが、チューリップ恐慌は些細な歴史のエピソードにすぎなかった。より深刻だったのは、1720年代に発生したフランスの投機恐慌とイギリスの南海泡沫事件である。このふたつとも幻の植民事業計画が関係していた。
 フランスの場合は、当時フランスの財務総監を務めていたジョン・ロー(イングランド銀行の創設者のひとりでもある)が、ミシシッピ会社をつくり、北米にあるフランス領ルイジアナ(五大湖からメキシコ湾にいたる広大な地域)を開発する計画を立てたのが発端だった。だが、それは夢想のうちに雲散霧消する。ミシシッピ会社の証券は暴落し、会社の破産後には、膨大な数の出資者の嘆きが残された。
 イギリスの南海会社も同じ経過をたどる。南海会社は国にたいして巨額の前払いをおこない、南洋における商業の独占権を確保した。だが、その結果もミシシッピ会社と同じだった。投機によって莫大な財産が費やされ、山師がほくそ笑むだけの結果で終わった。
 その後も恐慌はなくならなかった。1815年、25年、35年、47年にも恐慌はくり返された。「恐慌爆発の原因は、投機過剰の結果、生産そのものではなくむしろ生産手段が、消費財の需要の増加より一そう急速に増加したという事情から生じた」とウェーバーは説明している。
 生産手段が急速に増加したのは、19世紀とともに鉄の時代がはじまったからでもあった。
 恐慌がなければ社会主義も生まれなかっただろう、とウェーバーは話す。マルクスのいうように、たしかに社会主義は恐慌を防ぐ手段として有効かもしれない、とウェーバーも認めている。だが、不安定な競争の上に成り立つ近代資本主義のダイナミズムは、社会主義の理念を振りきって進む。
 1929年には世界大恐慌が発生する。だが、このときウェーバーはすでにこの世にはいなかった。

資本主義が発達するためには卸売商人の存在が欠かせなかった。その卸売商人が小売商人から分離したのは18世紀のことだ、とウェーバーは話している。
 輸入商はできるだけ早く外国への支払いをすませるため、商品をオークションにかけた。また逆に外国に輸出するために商品を業者に委託することもあった。
 商品の販売を委託される販売代理商(日本でいえば問屋や商社)があらわれると、いっぽうでそれを買い入れる買入代理商があらわれる。当初は現物を見ないで見本で買入がおこなわれていた。
 取引所の前身は定期的に開かれるメッセ(大市)であり、ここでは商人どうしの取引がおこなわれていた。
 近代的な意味での取引所がつくられるのは19世紀になってからだ、とウェーバーは話している。それ以前にも有価証券や雑種貨幣を扱う取引所はあった。しかし、19世紀になると典型的な商品が取引対象となり、先物取引もはじまる。取引されたのは穀物や植民地の大量商品(砂糖など)であり、その後、工業証券にたいする取引が活発になった。とりわけ鉄道の建設にかかわる鉄道債券が工業証券の人気を引っぱっていった。
 卸売商業が活発になるには通信と交通の発達が欠かせない。
 新聞が商業に役立つようになるのは18世紀末からである。このころから商品の販路を拡張するため新聞に広告が打たれるようになった。
株式相場が新聞に発表されるようになるのは19世紀になってからで、取引所はそれまで閉鎖的なクラブだったとウェーバーは話している。とはいえ、情報がなければ取引は成立しない。それをかつては郵便制度と信書が支えていた。
 交通についていうと、18世紀には船の数も大きさもある程度増えたが、大きな変化とはいえなかった。河川通航は閘門施設によって改良されたが、根本的な革新にいたらなかった。陸上交通も同様だが、道路事情は砂利舗装により大きく改善された。それでも陸上の荷物運搬には海上や河川にくらべ、より多くの費用がかかった。
 そこに鉄道がでてくる。「鉄道は単に交通といわず、経済一般に対して、歴史の示したもっとも革命的な手段となった」とウェーバーは語っている。いまから100年前の1920年のことである。

 ここで植民政策が近代資本主義の成立といかにかかわっているかが論じられる。
植民地を獲得することでヨーロッパに大きな富がもたらされたことをウェーバーも認めている。富の源泉は(1)植民地の生産物の独占、(2)植民地への販売の独占、(3)植民地と母国との交通の独占によるものだった。
 植民地の富を確保するため、例外なく武力を背景にした圧力が用いられた。植民地の管理は、スペインやポルトガルのように直接国家がおこなう場合もあれば、オランダやイギリスのように権限を委譲された会社がおこなう場合もあった。
 ウェーバーは前者を封建的類型、後者を資本主義的類型と呼んでいる。
 封建的類型の植民地では、土地が封土(スペイン植民地ではエンコミエンダ)として植民者に分配された。
 資本主義的植民地では、たいていプランテーションがつくられ、現地住民の労働力が投入された。アメリカでは当初先住民の活用が考えられたが、それは失敗に終わり、黒人の奴隷が輸入されることになった。
 19世紀の初頭、ヨーロッパ人の植民地には約700万人の黒人奴隷が住んでいた。しかし、その死亡率はきわめて高かった。そのため1807年から48年にかけ、アフリカからさらに500万人以上の奴隷が輸入された。
 奴隷労働から得られる収益はけっして少なくなかった。奴隷たちはプランテーションの規律に従わされ酷使された。それは、まさに略奪経済だった、とウェーバーはいう。
 それでもウェーバーは論敵のゾンバルトを批判して、植民地商業が近代資本主義の成立にもたらした影響はごくわずかなものだったと断言する。たしかに植民地商業は略奪によって、富の集積を可能にした。だが、それは西洋の労働組織とはおよそ異なるものだった。
 植民地での搾取形態は、奴隷制度の撤廃とともに終末を迎える。奴隷制度と戦ったのはクエーカー教徒だけだった。カルヴィン派もカトリックもこの点では何の寄与もしていない。奴隷制度撤廃にもっとも大きな力となったのは、北米植民地の独立だったという。
 1815年のウィーン会議は、奴隷商業の禁止を宣言した。北米植民地が失われたことで、イギリスは奴隷商業への関心を失ってしまう。イギリスで奴隷制が廃止されるのは1833年のことである。それでも1807年から48年までに盛大な密輸入によって、膨大な多くの黒人がアメリカに運ばれていた。
 ウェーバーはこう論じている。

〈16世紀から18世紀にかけての奴隷制度が、ヨーロッパの経済組織に対して有する意義はきわめて小さい。それはこの奴隷制度がヨーロッパ内における富の集積に対して大きな意義を有するのとよい対照である。すなわちこの制度はレントナー[不労所得特権層]を多数そだてはしたが、しかしかの工業における経営形態や資本主義的組織やを発展せしめることに対しては、実にいうにたりぬ程しか寄与しなかったのである。〉

 植民地がヨーロッパに大きな富をもたらしたことは否定できない。しかし、近代資本主義が成立したのは、奴隷制のプランテーションによってではなく、あくまでも工業の発達によってだ、とウェーバーはとらえていた。
 このつづきはまた。

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