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近代資本主義の原動力──ウェーバー『一般社会経済史要論』を読む(8) [商品世界論ノート]

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 近代資本主義の本命が工業にあることはまちがいない。
 今回、ウェーバーは工業経営の発達を追うところから講義をはじめる。
 工場の特徴は機械化された装置と労働過程の機械化にあるといってよいが、重要なのは、仕事場、装置、動力源、原料が企業家によって専有されていることだ、とウェーバーは話している。
 そうした工場の先駆者となったのがイギリスである。
 水力によって運転された最初の工場は、1719年のダーウェント(ダービーシャー)の絹工場だ。そのあと1738年に羊毛マニュファクチュアが生まれ、工場での半麻生産がつづき、スタッフォードシャーでの陶器製造、さらに製紙業がはじまる。
 機械化にとって画期的なのは木綿マニュファクチュアの発展だ。1769年以降、水力による機械化によって大量の紡績撚糸が生産できるようになった。加えて1785年にカートライトが力織機を発明したことにより、木綿産業は急速な発展を遂げることになる。
 機械化の加速に大きなインパクトを与えたのが石炭と鉄である。イギリスでも石炭は中世から使用されていた。だが、それは燃料などの消費目的で、製鉄にはもっぱら木炭が用いられていた。そのため、イギリスでは木の切りすぎにより、山林が荒廃した。
 鉄の利用はそもそも軍事目的としてである。17世紀に圧延機が登場すると、鉄の用途も広がった。だが、山林の荒廃が製鉄の拡大を阻んでいた。
 それを突破したのが石炭だった。1735年にコークスの製造法が開発される。そして1740年にはじめて溶鉱炉にコークスが使用され、1784年に攪錬法が導入されて、製鉄は格段に進歩した。加えて、蒸気機関が鉱山の排水を容易にしたことから、石炭と鉄鉱の増産も可能になっていった。
 石炭と鉄は、エネルギーと機械の可能性を切り開いた。蒸気機関による生産過程の機械化は、労働の有機的限界から生産を解放した。
 機械化は常に労働を節約・解放する方向に進む。「新しい発明があらわれるごとに、つねにそれは、大量の手工業労働者が、機械を操縦するための新手の少数のものと入れ替わることを意味する」。そして、商品の生産は、過去の伝統の束縛から解放され、「とらわれることなく自由に活動する知性と緊密に結合するにいたった」と、ウェーバーは論じている。
 だが、省力化は労働力が不要になったことを意味しない。むしろ逆である。労働の分野が広がるのだ。18世紀以降の産業発展は多くの労働力の補充を必要とした。
 イギリスではエンクロージャー運動によって、耕地が牧用地に転用され、農村に過剰人口が生じていた。しかも、政府の法令により、「自発的に就業しない者は強制授産場に入れられ、そこで厳格な規律に服してはたらかねばならなかった」。
 こうした労働力を管理していたのが治安判事である。治安判事は有産者層と結びつき、過剰な労働力を「新しく成立した産業に押し込んだ」と、ウェーバーはいう。
 そのいっぽう、工場ではたらく労働者が増えるにつれて、18世紀前半には新たな労働法制も導入されるようになった。労働者への支払いに生産物をあててはならないこと、また労働者には貨幣で労賃が支払わねばならないことが定められた。

 ゾンバルトがいうように戦争と奢侈が資本主義を推進したことはたしかだろう。だが、ウェーバーは、そのことを過大評価してはならないという。
 軍隊の兵員数の増加は、たしかに工業生産を刺激した。軍服や銃砲、弾丸が繊維産業や製鉄工業の需要を喚起したことはまちがいない。海軍でも軍艦の巨大化が造船業の発達を促した。
 しかし、軍隊が大衆軍隊となり、それにともない商品の大量需要があらわれたとしても、戦争こそが近代的資本主義の決定的発達条件だったとはいえない、とウェーバーは断言する。もしそうなら国家の官営事業が膨らんで、資本主義はかえって衰退したはずだ。そうなっていないのはなぜか。
 このことは奢侈についてもいえる。典型的な奢侈はフランスの宮廷や貴族のあいだでみられた。レース、薄物の下着、長靴下、傘、インディゴ染料、ゴブラン織、磁器、更紗、毛氈、チョコレート、コーヒーなどが消費されて、業者をうるおしていた。
 こうした奢侈が資本主義の発展に影響をもたらしたとすれば、むしろ奢侈品需要の大衆化、とりわけ代用品の製造がなされることによってである、とウェーバーはいう。そして、奢侈品らしきものが広く行き渡るには、品質を維持するよりも、価格を徐々に引き下げることが効果的なのだ。したがって、贅沢品という刺激より、むしろ価格引き下げのなかにこそ資本主義の本質が隠されているのだ、とウェーバーはいう。

 生産費を抑え、価格を引き下げることによって利潤を増やそうというのは近代資本主義特有の考え方であって、こうした考え方が生まれた背景には16、17世紀の価格革命があった、とウェーバーは述べている。
 このころヨーロッパには中南米から大量の金銀がもたらされ、貨幣価値が下がったことで、物価が全般的に上昇した。農業生産物の価格は上昇し、そのおかげで農業は市場生産に移行できるようになった。しかし、工業製品の価格上昇は抑えられ、農業生産物と比較すると、むしろ相対的に下落した。
 そこで、ウェーバーはこう言うことになる。

〈したがって、発展過程は、資本主義がまずあらわれ、しかる後に価格の下落が起こったというふうに行われたのではない。むしろ反対に、価格が相対的に下落し、しかる後に資本主義が生まれ出たのである。〉

 つまり、物価が上昇し、工業製品の価格が相対的に下落するなかで、技術と経営の革新がなされ、それが近代資本主義の成立につながっていく、とウェーバーはとらえるのである。
 技術と経営の合理化によって、生産費を下げ、価格を引き下げようという動きは、17世紀にはいると、かずかずの発明をもたらした。
 1623年にはイギリスに特許法が誕生した。それにより発明は14年間にかぎって保護され、その後はすべての企業家がこの発明を利用できるようになった。もっとも、もとの発明者には十分な配当がなされる。
 18世紀の繊維工業におけるさまざまな発明は、資本主義の発展に決定的な影響をもたらした。もし特許法の刺激がなければ、こうした発明は不可能だったろう、とウェーバーは論じている。
 商業はいかなる場所、いかなる時代にもあった。しかし、合理的な労働組織、つまり機械装置とともに労働を合理的に組み立てるやり方は西洋にしかなかった、とウェーバーはいう。

 資本主義が自律的に発展するには、市民という概念が必要だった、とウェーバーは考えていた。それでは、この西洋独特の「市民」はどのようにして生まれたのだろうか。このあたり少し脱線気味になる。
市民とは何か。ウェーバーは3つのとらえ方を示す。
 ひとつは、特定の経済的利害状況に、いくつかの階級がかかわる場合。市民階級は統一的な階級ではない。富裕な市民も貧しい市民も、企業家も手工業者も同じ市民である。
 政治的意味においては、市民は特定の政治的権利(人権)を有する政治的存在である。
 最後に(限定的にいえば)市民とは財産と教養をもつ社会層(とりわけブルジョワジー)を意味する。
 こうした市民の3概念は、重なりつつも異なる面があるけれども、いずれも西洋に固有の形態で、しかも「市民は、つねに特定の都市の市民である」。
 そうした都市は、西洋にしか存在せず、都市も市民も西洋特有の形態だ、とウェーバーは断言する。
都市が文化にもたらした影響ははかりしれない。芸術や科学を生みだしたのも都市である。政党を生みだしたのも都市だった。都市は宗教の担い手ともなった。
 経済的観点からみれば、都市は当初、商工業の所在地であり、外部から不断の食料品移入を必要とした。したがって、都市は何らかのかたちで食料品への対価を払わねばならなかった。
 軍事的にみれば、都市はたいていかつての城砦だった。さらに、そこは行政機関の所在地でもあった。
 しかし、西洋以外では自治団体としての都市はなかった、とウェーバーは断言する。西洋の都市は古代においては共住、中世においては盟約を基本として発生した。
 697年、ヴェネツィアは東ローマ帝国の支配から脱して、初代総督を選出し、独自の共和制を発足させている。
 アテナイ(古代アテネ)に代表されるポリスについても、ウェーバーはこう話している。

〈ポリスなるものは常にシュノイキスモス[誓盟]の所産である。ポリスは必ずしも事実上集落が営まれてその結果生れたとは限らない。むしろそれは事実上誓盟団体が結ばれた結果として成立し、しかもこの誓盟団体たるや、共同の祀神会食が挙行され、祭祀団体が創設せらるること、およびこの祭祀団体にはただアクロポリスの上に墓地を所有し、かつ市内に住居を有するもののみが仲間に加入するということを、意味するところのものである。〉

 こうしたポリスのようなものは東洋では生まれなかった。その理由をウェーバーは、治水を統制する王の権力が強大だったことと、呪術や禁忌の縛りが強かったことに求めている。だが、アジアの都市については、さらに詳しい言及が必要なはずである。
 ここでウェーバーは、古代都市と中世都市の比較を長々とつづける。
 古代都市でも中世都市でも都市を支配しているのは豪族だった。ほかの人びとは彼らに服従しているにすぎなかった。こうした豪族は商業機会を求めて、都市に定住した。それはアテナイでもヴェネツィアでも同じである。「商業が最初の都市形成に対して決定的影響を与えた」とウェーバーはいう。
 もうひとつ、古代都市と中世都市に共通するのは一時的にとはいえ民主制が確立されたことだ。つまり豪族の支配に代えて市民の支配が成立した。アテナイが民主制を経験したのと同じように、中世イタリアの都市国家もコムーネ(自治都市)を形成した。なぜ、そんな現象が生じたのだろう。
 民主化をもたらした要因は、平民大衆が軍事活動を担うようになったこと、それと富裕者の力が増したことだ、とウェーバーはいう。
 とはいえ、中世の民主制は古代の民主制とは大きくことなっていた。中世のフィレンツェではアルティ・マッジョーリと呼ばれる大ツンフト(ギルド)が市政を動かしていた。それは商人や両替屋、宝石屋のほか、法律家、医者、薬屋を含む集団だった。アルティ・マッジョーリの下位には、アルティ・ミノーリ(職人ツンフト)と呼ばれる小資本家の職人たちがいた。いっぽう、フィレンツェの貴族たちは中産階級に対抗するため、最下層のチョンピ(労働者)と手を結ぶことがあった。
 ツンフトの都市政策は、先祖伝来の営業権を確保しながら、周囲の農村を支配することをめざしていた。こうした政策はやがて破綻していくものの、古代民主制にはこのようなツンフト支配はみられない、とウェーバーはいう。
 都市においては資本と労働の対立がつきものだった。古代においては、それは土地所有者と土地なき者(プロレタリウス)との対立となった。
 古代の重要な政策のひとつは、土地を奪われる債務奴隷の発生をできるだけ抑えることだったという。都市には金貸しの貴族層がいて、農村の貧乏に人にカネを貸していた。ここから農民が土地を奪われ、プロレタリア化することは必至だった。古代の都市がこれを避けようとしたのは、あくまでも軍事力の弱体化を避け、市民軍を維持するためだった、とウェーバーはいう。
 中世では、豪族に対抗するのは企業家であり手工業者であり、かれらが市民としてツンフトを組織し、都市を支配していた。もっともツンフトとチョンピ(労働者)との対立も伏在していただろう。
 中世の都市においては、市民は自由だった。「都市の空気はすべてを自由ならしむ」という原則は、中世の都市にこそあてはまった。「身分の平等化と、自由の束縛の撤廃とは、中世都市の発展の決定的傾向になった」とウェーバーは話している。
 古代においては、事情はこれとは逆で、身分の差や隷属関係があり、多くの奴隷いた。しかも、民主政治の発展にともなって、都市にはますます奴隷が流れ込み、身分的不平等が拡大していった。
 こうして古代の民主制の実態があきらかになる。それは戦士ツンフトによる都市国家なのだ、とウェーバーはいう。
 古代の都市国家の関心は、武力によって得られる営利に向けられている。都市国家の利益を守るため、市民の数は制限されていた。市民には戦利品や調貢が与えられた。征服した土地が分配されるとともに、穀物が配られ、劇場が開放されていた。人民裁判所や民会に参加した市民には手当が支払われた。
 だが、とウェーバーはいう。「慢性的戦争はギリシアの完全市民にとっては正常の状態であった」。さらに、「戦争は都市を富裕ならしめるに反し、長い平和の時期は市民の到底耐ええないことであった」ともつけ加えている。
 古代ギリシアに中世のような手工業者ツンフトが生じなかったのは、古代都市国家の民主制が戦争によって支えられていたためだ。古代においては、商人や手工業者は市民として認められなかった。
 今回の講義を締めくくるにあたって、ウェーバーは次のように話している。
 いかなる時代においても商人は存在した。商人は租税を請け負ったり、戦費を融通したり、戦利品を処分したり、高利をとったり、投機をしたりして活動していた。しかし、それはあくまでも非合理的資本主義であり、労働を組織することによって機能する合理的資本主義ではなかった。
 合理的資本主義は市場における、より大量、かつ大衆的な需要をめざして、努力を傾けるものである。だが、古代において、こうした発展は閉ざされており、それがようやく緒についたのは、西洋の中世末期においてだった、とウェーバーは話している。

〈古代においては、都市の自由は官僚的に組織せられたる世界国家のうちに解消する。……[つまり]政治的資本主義にとってもはや生存の余地なき環境たるところの、世界国家の官僚制的組織のうちに解消する。〉

 言い換えれば、古代の資本主義は政治(官僚的組織)に密着した政治的資本主義なのであって、それは帝国が拡大し、官僚の統制経済が強まるとともに解体を余儀なくされるものだった、とウェーバーはみていた。
 現に後期の古代ローマ帝国では傭兵のかわりに徴兵制が敷かれ、軍船にたいする強制服務の義務が課され、各都市の需要に応じて穀物が分配されるようになった。農民は先祖の土地と職業に縛られ、道路建設などに駆り出され、都市の住民は財産をしぼりとられた。
 これにたいし、近代の都市の運命はこれとはまったくことなる形態をとった、とウェーバーはいう。
国家の台頭によって、都市の自治権が奪われていったのは事実である。しかし、その都市を手に入れたのは「互いに覇を競いつつある民族国家」にほかならなかった。
 ウェーバーは、この「封鎖的民族国家こそが、資本主義に対して、その存続の機会を保証した」のだと話している。つまり、国民と領土によって規定される封鎖的な「国家」は、他国の攻勢からの生き残りをはからないわけにはいかず、そのために国家は資本と結合したというのである。その意味で、近代資本主義は近代国家の産物だ、とウェーバーは考えていた。
 古代都市と中世都市の比較論からは、さまざまな議論が展開できそうだ。

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