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落第そして退校──美濃部達吉遠望(11) [美濃部達吉遠望]

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 美濃部達吉は、第一高等中学での食堂突撃事件のいきさつについて、こう記している。

〈寄宿舎での食事は、大きな食堂があって、寄宿生一同がそこに集まって一緒に飯を食うのであるが、食事時間になるとベルが鳴って戸が開き、待ちかねていた生徒はドヤドヤと入っていく習慣であった。
 ある日のこと、正午前の授業が少し早くすんだか何かで、正午の少し前に十人ばかりの連中と一緒に食堂へ来てみると、まだ戸が閉まっている。窓からのぞくと、もう飯の用意はちゃんと整って、うまそうな香りがしている。
 平生なら戸の前でベルの鳴るのを待っているのだが、腹はすいている、用意のできた飯の誘惑はある、窓は開いているというので、竹島というこれも早く故人になった友人が、まず窓から食堂に飛びこんでいき、私も続いて窓を越え、ほかの連中もその跡を追うて、まだ戸が閉まっているうちに、食卓につき食事をしてしまった。
 ところがこれがいつのまにか舎監に知られて、一人ひとり舎監のところに呼び出され、大叱られに叱られた。〉

 10人ほどの生徒が空腹に耐えきれず、食事時間のはじまりを示すベルが鳴る前に、窓から食堂にはいり飯を食ってしまったというのだ。たわいない事件である。しかし、校則を破ったことに変わりはなかった。
 舎監は一人ひとり生徒を呼びだして、こう言い放った。
「窓を乗り越えるなどは盗賊のすることで、そういう者を生徒にしておくことはできぬ。いずれ沙汰をするから、謹慎して待っておれ」
 へたをすると退学になるかもしれない、そうなると両親になんと申し訳をすればよいか。達吉はそのとき、そんなふうに思ったという。
 内心びくびくしながら一日がすぎ、処分がでた。一番乗りの竹島という生徒は4週間の禁足、つづいて窓を乗り越えた達吉は3週間の禁足、そしてその他の生徒にも何らかの懲罰が科せられた。
 禁足というのは外出禁止処分である。せっかく花が咲く時分なのに散歩にも出られず、兄の本郷の下宿にも寄れず、散髪にも行けないのはつらかった。それでも、これくらいの処分ですみ、退校にならなくてほっとしたというのが、達吉の本音だった。

 さらに、もっと大きな失敗がつづく。
 何と一学年目(予科3級)を落第してしまうのである。
 学校の規定では、3学期のテストと学年末のテストの成績を加重平均して、一科目でも50点以下をとると、全体の成績がどれほどよくても落第にするというのが決まりだった。
 達吉はほかの科目の成績はいいのに、幾何だけが苦手だった。

〈3学期の学期試験に幾何の問題が3題出たが、1題だけはやっと解けたがそれもどうも完全ではないらしく、ほかの2題は見当もつかぬ。エー面倒だと、せっかく書いた答案を破ってしまい、そのまま教室を出ようとすると、小林という受持の先生が呼びとめて、どうしたのだと聞かれる。答案はだしませんと蒼い顔をしながら奮然と応えて、教室を出てしまった。〉

 気持ちはわかるが、短気はいけない。その結果、幾何の学年平均点は49.8点と50点にわずかに足らず、ほかの科目の成績は抜群なのに、規則により、達吉の留年が決まった。
 ふつうなら気鬱になりそうなものだが、達吉は落ちこまなかった。
 1889年(明治22年)9月から、学校が一ツ橋から本郷向ヶ丘(本郷弥生町、現在の東大農学部あたり)に移転し、校舎がすっかり新しくなるとともに、新校長に木下廣次(ひろじ)が就任し、寄宿舎の制度も一新された。従来の舎監制度は廃止され、生徒自身が寄宿舎を運営する自治制度がとりいれられた。そのことが大きかったのだろう。
 ちなみに木下はのちに京都帝国大学の初代総長となり、ドイツ風の自由な学風を取り入れたことで知られる。その次男、道雄は敗戦直後、天皇の侍従次長を務めた。
 それはともかく、自治制の寮では、以前のように成績順の部屋割りではなく、仲のよい友達どうしが一室の人数をまとめて申請すると、それが認められるようになった。そのため、達吉も落第生のような気がせず、新入生とわりあい愉快にすごすことができたという次第だ。
 達吉のいた東寮の1番は定員が6人か7人で、この年、入学試験で1番になった立作太郎(たち・さくたろう)や井上孝哉(こうさい)などが同室だった。のちに、立作太郎は国際法の専門家として東京帝大教授、井上孝哉は内務省にはいり、各府県知事を歴任後、衆院議員となった。
 二度目の予科3級でも、幾何は相変わらず苦手だったが、もはや苦しむことはなくなった。このころ達吉は国文を落合直文(なおぶみ)、漢文を塩谷時敏(しおのやときとし、青山[せいざん])、英語を栗谷健次郎と篠野乙次郎から教わっている。いずれも錚々(そうそう)たる教授陣である。
 この一年は波乱もなく、順調に終わり、達吉は1890年(明治23年)7月に予科3級を終え、9月から予科2級に進級することになる。このとき兄の俊吉も第一高等中学を卒業し、帝国大学に進むことが決まった。
 達吉は数えの18歳(満17歳)になっていた。まもなく第1回帝国議会が開かれようとしていた。

 この年の夏休みが終わり、予科2級の授業がはじまると、郷里の高砂からふたたび上京した達吉は、寄宿舎を出て、井上孝哉ら4、5人の友人と丸山福山町(現文京区白山、西片あたり)に家を借りることにした。向ヶ丘の高等中学までは歩いてすぐの場所である。ここで、飯だけ誰かに炊いてもらい、若者どうしの愉快な自炊生活がはじまった。
 いまのようにどこでも食堂やコンビニがあるわけではないから、その食生活はきわめて不規則だった。みんなで牛鍋屋に行き、牛肉をたらふく食ったかと思うと、1銭5厘のパンで餓えをしのいだこともあった。そんな不養生な生活がつづくうちに、体力が衰えていたのかもしれない。
 9月下旬のある日、隅田川でボートを漕いで、家に戻ってきてから、熱がでて、急にからだの具合が悪くなった。風邪でもひいたのかと、たいして気にせず、熱があるのに学校に通っていたが、数日たってもなかなか直らない。ますます苦しくなるばかりで、とうとう寝込んでしまった。
 まわりの友人が心配して大学病院に連れていってくれた。診察を受けると、熱は40度近くあり、腸チフスの疑いがあり、すぐ入院させろということになった。兄や友人が入院の手続きをとってくれ、達吉はそのまま大学病院向かいの池(いまは三四郎池と呼ばれる)に面した伝染病室に隔離された。
 当時、大学病院の内科主任はドイツ人のエルヴィン・フォン・ベルツだった。達吉の担当となったのは、ベルツの助手をつとめている高田畊安(こうあん)という青年医師で、のちに茅ヶ崎に結核サナトリウム南湖院を開くことになるが、それは先の話。
 腸チフスにたいする有効な化学療法が開発されていなかったこの時代は、けっきょく乱暴な対処法しかなかった。それは、腸チフスの高熱がつづくと、患者を裸にして冷水浴をさせるという治療法だった。
 達吉も熱が40度以上になると、いくらいやがっても、冷水をたたえた大きなたらいに無理やりつけられるはめになった。それが嫌で、看護婦が熱を計りにくると、腋(わき)の下から検温器をはずして、できるだけ熱が上がらないように工夫したという。だが、そんな工夫もむなしく、達吉はしばしば冷水のたらいにほうりこまれた。
 熱は下がらず、一時は肺炎を併発し、危険な状態におちいったらしい。絶望と思った兄は、いなかの父に連絡した。すると父からは、いま上京するのは無理だから、遺骸はそちらで火葬に付し、遺骨だけを高砂に送るようにという手回しのよい手紙が戻ってきたという。そんな話をあとになって達吉は兄の俊吉から聞いた。
 それは幸い笑い話に終わった。達吉はだんだん快方に向かって、12月中旬に退院することができ、本郷龍岡町(現文京区湯島)に下宿していた兄のもとに引き取られることになった。
 だが、病気が治ったと思ったのもつかのま、大晦日近くになって、また高熱に襲われる。年明けの1月早々、達吉はふたたび元の伝染病室に入院した。入院当初、脈拍が130以上にのぼり、高田医師が終夜見守らねばならぬほど病勢が進んだという。
 熱は下がり、ようやく峠を越したが、そのあとも四五日ごとに発熱があり、けっきょく5月まで病室を出られなかった。このころになると、熱の出ない期間がだんだん長くなったものの、体力はすっかり衰え、だれかの肩を借りて、ベッドの周囲を歩いて回るのがせいぜいといった状態だった。
 高田医師は、このまま病院にいるよりも、むしろ郷里に帰って、ゆっくり療養したほうがいいのではないかと勧めてくれた。実際、こういう状態では学業もつづけられない。そこで達吉は第一高等中学に退校届をだしてもらい、故郷高砂に帰ることになった。

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第一高等中学にはいったものの──美濃部達吉遠望(10) [美濃部達吉遠望]

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 1887年(明治20年)9月、14歳(数えの15歳)の美濃部達吉は意気揚々と東京にやってきた。めざすは帝国大学(1897年に東京帝国大学と改称)である。
 だが、すぐに帝国大学にはいれるわけではない。いくつかハードルがあった。帝国大学にはいるには、その前段階として大学予備門と呼ばれていた第一高等中学校[一中](1894年に第一高等学校[一高]と改称)に合格し、そこで優秀な成績を収めなければならなかった。
 その高等中学にはいるのも容易ではない。そのための予備校があった。そのころ知られていた予備校は共立学校、英語学校、成立学舎の3校で、達吉はとりあえず成立学舎にはいった。
 成立学舎にはいったのは、英語を学んだ神戸の乾行義塾とつながりがあったからだろう。神田駿河台の成立学舎も英語教育が基本になっていた。だが、すでに神戸の2年間で英語を身につけていた達吉にとって、その授業は物足りなかっただろう。
「一年たらずはそこにいたはずであるが、そこで何を教わったか、まったく忘れてしまって、その学校が駿河台にあって本郷の湯島の下宿からそこへ毎日通っていたということのほかには、少しも印象に残っておらぬ」と回想記に書いている。
 本郷湯島の下宿は3歳年上の兄、俊吉と同居で、その兄はすでに第一高等中学で学んでいた。
 達吉は成立学舎には長く通わず、早くも翌明治21年7月に第一高等中学の入学試験を受け、みごと合格する。その間は、上野図書館(のちの帝国図書館)でも勉強していたという。
 一中にはいった達吉は、9月から一ツ橋[現在の学士会館あたり]にあった寄宿舎に入舎することになった。二本白線の帽子をかぶると、誇らしい気分がこみあげてきた。
 ここまではトントン拍子。だが、その先には大きな挫折が待ち受けている。
 第一高等中学は予科3級本科2年の5年制だった。入学当初は予科3級で、2級、1級と進んでいく。それから本科1年、2年へとつづく。
 入学した1年目、すなわち予科3級生は全員寄宿舎にはいることを義務づけられていた。その寄宿舎は自治制ではなく、舎監が生徒の行動をことこまかに取り締まっていた。
 寄宿舎の部屋は一室10人ずつで、入学成績順に割り当てられた。達吉は21番だったから、三号室の第一席である。
 このときの入学試験の1番は神野勝之助(のち大蔵官僚)、2番は片山貞治郎(のち日銀理事)、一号室にはほかに瀧精一(のち美術史家)や島文治郎(のち京都帝大図書館長)がいた。隣の二号室には桑木厳翼(哲学者、東京帝大教授)、同じ三号室には原勝郎(歴史家、京都帝大教授)などがいたという。
 だが、達吉が「大学に入るまで」という回想記を記した1936年(昭和11年)には、高等中学時代の旧友はすでに多くが亡くなっていた。「いかにも寂しい感じがする」と書いている気持ちはよくわかる。
 それはともかく、自分を監督する兄の下宿から離れ、生意気盛りだったことも手伝って、達吉は一気に解放された気分になり、気ままに青春を謳歌するようになった。

〈学校の課程などはろくろく勉強もせず、よくある文学青年のように、小説や文学ものばかりを耽読(たんどく)していた。我楽多文庫(がらくたぶんこ)や、都の花、新小説、文学倶楽部(くらぶ)、新著百種、国民の友などが、そのころの愛読雑誌であったように覚えている。〉

 明治20年ごろというと、どんな小説がはやっていたのだろう。まだ鷗外や漱石の時代にはなっていない。
 小説ではないが、達吉も福沢諭吉の『西洋事情』や『学問のすすめ』、あるいは中江兆民の『三酔人経綸問答』くらいは読んでいたかもしれない。さすがに成島柳北の『柳橋新誌』や寺門静軒の『江戸繁昌記』は懐古趣味が強すぎただろう。
 このころにはまだ滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』なども読まれていたのではないか。だが、江戸の文学はしだいに霞のかなたに消え、坪内逍遙や尾崎紅葉、幸田露伴などの若手文学者が登場しはじめていた。
『我楽多文庫』を創刊したのは尾崎紅葉である。その代表作『金色夜叉(こんじきやしゃ)』はまだ登場していないが、この雑誌では紅葉をはじめとする「硯友社(けんゆうしゃ)」の面々が健筆をふるっていた。
『都の花』は硯友社を離脱した山田美妙を中心とする雑誌である。達吉が一中に入学した直後の1888年(明治21年)9月に金港堂から発行された。二葉亭四迷がツルゲーネフの翻訳を連載していたし、幸田露伴の作も載っていた。
 このころは雑誌創刊ブームだったといえる。伊藤整によると、1989年正月に創刊された春陽堂の『新小説』は旧派の文人の拠り所となったという。『文学倶楽部』はおそらく『文学世界』の記憶違いで、春陽堂から発行された小説叢書のシリーズ名である。吉岡書籍店発行の『新著百種』は月刊の百科叢書で、尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』もその一冊だった。
 民友社の『国民之友』は徳富猪一郎(蘇峰)が編集する評論雑誌で、多くの読者を獲得した。時事評論だけではなく、文学作品も掲載されている総合雑誌だったといってよい。当時医学生だった森林太郎(鷗外)は1889年(明治22年)8月、この雑誌に匿名で「於母影(おもかげ)」という訳詩集を発表した。
 高等中学にはいったころ、達吉はこれらの雑誌を耽読していたという。しかつめらしい授業よりも、小説の世界がはるかにおもしろかったという気持ちはよくわかる。

 達吉はおとなしいほうだが、寄宿舎生活では仲間といっしょに、ずいぶん乱暴な行動に出ることもあったようだ。
 1889年(明治22年)2月11日は、いわゆる紀元節で、この日、大日本帝国憲法が発布され、全国各地で祝賀行事がおこなわれた。
 第一高等中学校の生徒たちもこの行事に参加している。
 この日は明治天皇が閲兵のため青山原に行幸されるため、本校一千の健児が護国旗を擁して雪の積もった二重橋外に整列し、御料馬車を奉迎したさい、かしこくも陛下はこの護国旗に会釈された、と『第一高等学校六十年史』は記録する。
 しかし、達吉の記憶はすこしちがっている。

〈高等中学に入学した翌年の紀元節が憲法発布式の当日で、この日は学校からも花車か何かを出して、生徒一同で雪の市中を練り回したが、夜になって寄宿舎に帰った連中は、一日中の興奮(こうふん)がまださめず、かねて舎監の圧制に憤慨していた血気の若者たちは、舎監を殴り倒そうとする騒ぎがおこった。幸いにして舎監がどこかに匿(かく)れてしまって、いくら探しても見当たらなかったので、そのうちに興奮もさめて何ごともなくすんだが、もし出遭(であ)ったならば、かなりの騒ぎがおこったことと思う。〉

 幸い、舎監殴打事件は発生せず、未遂のまま終わった。もし騒ぎがおこっていたら、まわりにいた達吉もただではすまなかったはずである。
 すでに自由民権運動は終息していたものの、学生のあいだには自由の気風が横溢していたことが、この記述からも推察できる。
 そして、さらに事件はおこる。
食堂突撃事件である。これによって、達吉は3週間の禁足処分をくらった。
 その内容はまた次回。

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民主主義の要件──シュンペーターをめぐって(10) [経済学]

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 シュンペーターは古典的民主主義学説をひっくり返し、みずからの民主主義論を述べる。
 古典的学説では、民主主義は人民による政治問題の決定を第一義とし、選挙で代表を選ぶのは二義的なことと解釈されていた。これにたいし、シュンペーターは民主主義は選挙で代表を選ぶことを第一義とし、人民による政治問題の決定を二義的なこととする。
 つまり、民主主義とは、何よりも選挙によって人民の代表を選ぶ制度をいうのであって、それによって政治問題の決定をその代表に托すことを目的とするというわけである。
 この定義によると、イギリスのような議員内閣制をとる立憲君主国は民主主義の範疇に属する。しかし、戦前の日本のように、たとえ普通選挙がおこなわれていても、議会が内閣の首班を指名するのではなく、たとえ形式的であっても君主が内閣の首班を指名する場合、その国は民主主義国とはいえない。
 だが、シュンペーターによる民主主義の定義は、選挙で選ばれた代表に政治的リーダーシップを求めることになる。それは人民の一般意志を忠実に遂行するだけではない。さらに人民の集団的意志があるとしても、それは直接そのまま政治に反映されるのではなく、政治の場では、さまざまな利害関係を勘案して、適切な判断が下されることになるだろう。
 また、民主主義とは政治的主導力を獲得するための競争であると規定することができる。そこでは軍事的圧力や専制的要素は、とうぜん排除されねばならない。民主主義は自由とも関係している。少なくとも、誰もが選挙に立候補する自由をもつこと、言論の自由、出版の自由が認められていることが民主主義の要件である。
 選挙民は選挙を通じて政府にノーをつきつけることができる。だが、それは人民が直接、政府を創設したり制御したりすることを意味しない。民主主義は選挙民に政治指導集団の承認、ないし承認の取り消しを決定する権利を与えるにすぎない。
 多数決は人民の意志を示すものではない。人民の意志は大多数によってはけっして代表されない。そのため、比例代表制のこころみが考えられてきたが、比例代表制は力強い政府の成立を阻害する可能性が強い。シュンペーターはあくまでも、政治的指導力を承認することに民主主義の原則を求めている。

 アメリカなどでは選挙民の投票によって大統領が選ばれ、大統領のもとで政府がつくられてきた。これにたいし、イギリスなどでは、選挙民は議員を選び、その議員が内閣を選出するという経過をたどる。実際には選挙で勝利した政党の党首が首相となり、内閣を組織することになる。
 そこでは、かずかずのドラマが生まれてきた。シュンペーターはそれらをことこまかく論じているが、ここではふれないでもいいだろう。
 ただ、シュンペーターが大統領や首相の政治的リーダーシップの重要性を指摘していることに注目すべきだろう。それは単に政党の意見をまとめることで生まれるわけではない。大衆を納得させる世論をつくることによって得られるものだ。そこに議会を超えたリーダーシップが生まれる。
 民主主義の過程において、内閣は独自の役割をはたしている。それは首相と議会の共同所産だが、いわば圧縮された議会であり、各閣僚は首相の命を受けて、官僚組織にたいし、それぞれのリーダーシップを発揮することになる。
 議会は立法を通じて行政にも影響をもたらすが、なかでも議会のもっとも重要な仕事は政府の予算案を承認することである。議会での議決は、究極のところ現政府の政権運営を認めるか否かに尽きるといってよい。
 政府による法案提出を選択するのは首相である。法案の通過では、首相のリーダーシップが問われる。これにたいし、野党が法案を提出する場合、与党は議会においてこれをつぶしにかかるという構図が生まれる。
 とはいえ、首相のリーダーシップは、けっして絶対的なものではない。それは民主主義の本質をなす競争的要素のためである。首相の座はつねに安泰というわけではなく、あやういバランスの上に成り立っている。また、あまりにも困難な政治課題によって、そのリーダーシップが揺らぐことも考えられる。
 民主主義の時代においても、政治を動かしているのは、民意ではなく、政治権力である。政党もまた政治的権力を得るために集まった集団だということを冷静に認識しなければならない、とシュンペーターはいう。そして、民主主義の制度のもとで、選挙民がなしうることは、政治的競争を勝ちとろうとする候補者の言い値を受けとるか、あるいはそれを拒否するかのどちらかでしかないと書いている。

 最後に問われるべきことは、はたして社会主義は民主主義と両立しうるかということである。シュンペーターは、社会主義と民主主義のあいだにはなんら必然的な関係も存在しないという。にもかかわらず、一定の社会環境のもとでは、社会主義は民主主義の原理にもとづいて運営することができると論じている。シュンペーターがめざしているのは、民主主義のもとで運営される社会主義だった。
 ここで、社会主義、民主主義という言い方には、シュンペーター独自の解釈がともなっている。社会主義は経済システムであり、民主主義は政治システムである。そして、この政治経済システムは、ともに人民による支配というイデオロギーから解放されている。
 しかし、社会主義と民主主義の関係について論じる前に、シュンペーターは民主主義とは何かを再確認している。
 民主主義とは、政治指導者たらんとする人を承認するか拒否するかの機会を人民が与えられている政治システムをいう。その機会が与えられていなければ、その国は民主主義国ではない。さらに加えて、政治指導者が選挙民の票を得るために、自由な競争をなしうることが、民主主義のもうひとつの条件である。
 政治は職業であってはならないという意見もあるが、シュンペーターは政治はけっして片手間でやれる仕事ではなく、専門的な経験を積み重ねていかなくてはならないという。
 民主主義は議会の内外で不断の闘争をともなうため、政府の能率がきわめて悪くなるという意見は、ある意味で正しい。たしかに政争に明け暮れるなかでは、まともな政治運営もできなくなってしまうだろう。さらに、選挙での票を獲得するために、政策が短期的な利益に終始して、長期的な見通しを見失うことも考えられる。だが、それは非民主的な国においても生じうる事態である。適切な制度的工夫を加えるなら、指導者に課される重圧や緊張を軽減することもできるはずだ、とシュンペーターはいう。
 逆に、民主主義は政治家を鍛え、かれらを(政治屋ではなく)能力あるステーツマンに仕立てていくはずだ。もちろん、それが見かけ倒しになることも多い。だが、少なくとも民主主義に鍛えられることによって、政治家は指導力を学ぶことになるだろう。その行き先に、困難な政治課題が待ち受けていることには変わりないとしても。
 民主主義の失敗を数え上げるのは容易である。それでもシュンペーターは民主主義を支持するという。
 ただし、民主主義が成功するためには、次のような条件が満たされなければならない。

(1)高い資質をもつ政治的人材が存在すること。
(2)政治的決定の範囲を広くしすぎないこと(権能の分与)。
(3)公共的活動を実現するための有能な官僚の存在。
(4)民主主義的自制。

 詳しく説明する必要はないだろう。こうした条件のもとに民主主義が確立されるためには、民主主義が長い伝統になっていかなければならない。そして、それは理性と寛容と品性を要する困難な道のりなのだ、とシュンペーターはいう。
 いっぽうで民主主義的方法は世上騒然たる時期にはうまくいかない可能性があることも、シュンペーターは承知している。そのとき人びとは競争的なリーダーシップよりも独裁的なリーダーシップを求めがちになる。それが一時的なものであれば、民主主義の原理が機能停止するのも一時的である。だが、それが一定期間にとどまらなければ、民主主義の原理は廃棄され、独裁制度が確立されることになる。しかし、それはもちろん望ましい事態ではない。

 最後にシュンペーターは民主主義と資本主義、社会主義の関係について述べる。
 民主主義が資本主義過程の産物であることはいうまでもない。しかし、民主主義は資本主義の消滅とともに消滅するわけではない、とシュンペーターはいう。
 資本主義のもとで民主主義はこれまで大きな成功をもたらしてきた。だが、社会構造が大きく分裂するいま、これまでの民主主義的方法はうまく機能しなくなりつつある。そこで、民主主義が独裁にやすやすと降伏するような事態が生じている。
 社会主義もまた非民主主義的な形態をとりやすい。民主主義的社会主義は失敗せざるをえないとする見方は強いが、かならずしもそうなるとはかぎらない。民主主義的な方法で公共的な管理を拡大することは可能だ、とシュンペーターはいう。
 中央当局のもとに管理された産業や企業を有能な人材が運営するならば、社会主義が機能することはいうまでもない。ただし、労働者が政府や企業を直接運営するというのは幻想にほかならない。それは大きな混乱を招くにすぎないだろう。
 社会主義のもとでも、政治的決定をおこなうための議会、内閣は必要であり、そのためには民主主義的な選挙や政党もとうぜん求められる。とはいえ、民主主義的なルールを維持していくことは、そう簡単ではない。社会主義的民主主義は見かけ倒しに終わる可能性も強い。
 シュンペーターによれば、社会主義は労働者による社会管理を意味するわけではない。むしろ、それは国家の役割強化をもたらすものとなるだろう。独占企業は中央当局の管理下におかれる。そして国家は政府(内閣)と議会によって運営されるが、その政治的リーダーシップは民主主義的な選挙によって承認されなければならない。
こうしたシュンペーターの構想と展望が実ることはなかった。いやむしろ挫折したというべきだろう。それはどうしてか。
『資本主義・社会主義・民主主義』はさらに下巻へとつづく。
 すこしくたびれてしまった。このあたりで、ちょっと一服して、気分転換に次はガルブレイスの『ゆたかな社会』を読むことにする。シュンペーターはしばらくお休みである。

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社会主義と民主主義──シュンペーターをめぐって(9) [経済学]

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『資本主義・社会主義・民主主義』の第4部を読んでみる。
 マルクスやレーニンによれば、社会主義はプロレタリア独裁によってこそ保たれるのだという。プロレタリア独裁の目的は、労働者の利益を守ることにある。そのためプロレタリア独裁こそが、まやかしの(資本家の)民主主義とは異なる唯一の(労働者の)民主主義だというわけだ。
 これはマルクス主義者の詭弁にすぎない、とシュンペーターは一蹴する。
 マルクスにとって革命とは「古びた制度が生み出す人民の意志に反する妨害物の除去を意味する」ものであって、プロレタリア独裁はそのためにこそ必要だと考えられていた。そのためには時に暴力やテロも容認される。あげくのはてに、過渡期においては民主主義を棚上げするのもやむをえないとされる。
 こうした考え方にシュンペーターは疑問を呈し、社会主義はそもそも民主主義的でありうるのかという問いを立てる。
 1920年代、ソ連共産党が一党独裁体制を堅持したのにたいし、ドイツでは社会民主党が勢力を伸ばしていた。
 だが、民主主義を取り入れた社会主義政党にたいしても、シュンペーターはいささか皮肉な見方をしている。
「彼らは、民主主義が自分たちの理想や利益に役だつならば、また役だつものとして、その場合においてのみ民主主義と提携し、他の場合にはしなかったというにすぎないのである」
 つまり、社会民主党も権力をめざすことでは、どの政党でも変わらず、そのために民主主義は都合よく利用されたにすぎないというわけである。
歴史をふり返ると、どんな国でも、大衆の意向にあわせて、異教徒迫害や魔女狩り、ユダヤ人殺戮がおこっていた。それは非民主主義的な社会だけの現象ではなかった。このことは民主主義がぜったいにすばらしいという思いこみを排するものだ、とシュンペーターはいう。

 民主主義とはいったい何か。
 シュンペーターによれば、民主主義とは政治的(立法的、行政的)決定に到達するためのある種の制度にほかならない。
 民主主義はそれ自体が目的ではないし、絶対的な理想でもない。アリストテレスは民主主義を人民による支配と規定し、これを理想国にはほど遠いものとしていた。
 現代において、民主主義は選挙権と結びついている。だが、それはかならずしも無制約に認められているわけではなく、その運用状況は各国によって、まちまちだ。
 民主主義には支配という概念も含まれている。直接民主主義は、人民による支配を意味する。だが、直接民主主義が成立するには、人民の数が限られていることと該当地域が狭いことを条件とする。
 すると、現代民主主義の要件は「人民によって承認された政府」が存在することと規定できるかもしれない。だが、人民の熱狂的忠誠によって支えられた独裁政治や専制政治があることを考えれば、これも民主主義の十全な規定とはいえそうもない、とシュンペーターは論じる。
 人民は実際にはけっして支配しない。人民の意志や人民の権利が持ちだされるのは、王に代わって特定のカリスマが求められるときだ。そして、人民が選ばれた代表にたいして、みずからの権利を譲渡し、服従するという擬制的な考え方が生まれた。
 だが、こうした考え方は支持しがたい、とシュンペーターはいう。
 政治制度として、実際に存在するのは、政府や議会、裁判所といった国家の機関である。
 人民ははたしてみずからの意志をある議員一個人に代表させることで、人民の権力を委ねるのだろうか。人民は選挙でみずからの意志を示し、代表としての議員を議会に送りこみ、政府は議会の意志にもとづいて、人民の幸福を達成するよう国家を運営するというのはほんとうだろうか。
 18世紀になると、ロックなどの哲学にもとづいて、これが民主主義だと考えられるようになった。だが、19世紀になると、ロマン主義的な政治理論が盛んになって、選挙によってではなく、革命や戦争によって国家を変革するという考え方も登場してきた。
 すると、はたして民主主義とは何かがますますわからなくなる。

 シュンペーターはもう一度、古典的学説に立ち戻って、民主主義を規定しなおそうとする。
 18世紀哲学による古典的定義はこうだ。

〈すなわち、民主主義的方法とは、政治的決定に到達するための一つの制度的装置であって、人民の意志を具現するために集めらるべき代表者を選出することによって人民自らが問題の決定をなし、それによって公益を実現せんとするものである、と。〉

 民主主義の目標は、人民の「共通の意志」にもとづいて、「公益」を実現ことであると謳われている。公益とは公共の福祉、公共の幸福と同義である。その実行は政府とその行政に委ねられる。
 こうした考え方にもとづく民主主義的装置は、ほぼ完璧なものとみえる。しかし、とシュンペーターはいう。
 すべての人民が一致する公益なるものはありえない。人生いかにあるべきか、社会はいかにあるべきかという価値観は人によってさまざまだし、たいていが相対立するものだ。
 経済的満足や健康についての意見も異なる。最大幸福という概念についても、重大な疑念がある。人民の意志、ないし一般意志という概念も、現実にはたして存在するのか。
 そうなると、民主主義の実態はいったい何かということになる、とシュンペーターは問いを投げかける。
 一般意志という用語には執着しないほうがよい。共通意志、あるいは世論は、合理的統一性に欠け、さほど意味をもたない。それはとらえどころのない意見のかたまり以上のものではなく、すぐにころころと変わっていく。
 さらに人民の意志を代表するとされる政治的決定が、はたして人民が真に欲しているものであるかも疑う余地がある。公正な妥協が成立することもあるが、決定が上から押しつけられることも考えられる。
 ナポレオンは第一執政として軍事的独裁政治をおこなったが、それはフランス革命で生じた混乱を収拾し、民主主義的なやり方ではなしえなかった安定をもたらした。そのことも事実として知っておく必要があるだろう、とシュンペーターはコメントしている。
 民主主義を考える場合には、選挙民の意志がどれほどの明確性と自立性をもつものであるかを検討しなければならない。
 ごく身近のできごとにたいしては、たしかにきちんとした判断がなされるかもしれない。しかし、自分とかけ離れた世界についてはどうだろう。人間の行動には超合理的、あるいは非合理的な側面が含まれていることを忘れてはならない、とシュンペーターはいう。
 古典的民主主義学説が唱えるような仕方で人が合理的に行動するとはかぎらない。たとえば、ル・ボンのいう群集心理、さらには見かけのイメージによって左右されることは大いにありうる。政治的決定においても経済的決定においても、人びとは「しばしば非理知的で、偏狭で、自己本位である」とみたほうがいい、とシュンペーターは警告する。
 もちろん、国家の課題でも、たとえば税金や関税などは、私的な金銭的利害にかかわる身近な問題にちがいない。その場合、人びとは合理的な判断を示すようにみえるかもしれない。だが、それは短期的な合理性にすぎず、長期的には誤った判断となりうると、とシュンペーターはいう。
 さらに身辺の利害関係とは直接関係のない国家的事件や国際的事件になると、個々人の現実感はまったく失われてしまう。そこでは責任感や明確な意志は失われ、人びとの考え方は雷同的となり、感情的になりやすい。
 こうして市民は、政治問題に関しては超合理的ないし非合理的な偏見や衝動に動かされがちになる。
古典的民主主義学説は市民が常に明確で合理的な意志を示すものと仮定するのだが、政治問題に関しては、市民は真剣味を欠き、むしろ非理性的、無責任な傍観者として行動することが多い、とシュンペーターは断言する。
 世論の形成過程においては、往々にして論理的要素や合理的批判が欠如しがちである。そこに「胸に一物ある集団」、すなわち政治の周辺にたむろする連中がつけいる隙が生まれる。

〈われわれが政治過程の分析において当面するものは大部分本然の意志ではなくて、つくり出された意志である。そして古典的民主主義でいうところの「一般意志」に実際上相当するものは、すべてこの人工によってつくられたものであることが多い。〉

 民主主義は人民の意志によって推進されているわけではない。大衆の意志がつくりだされるのは、広告が消費者の好みをつくりだすのと、さほど変わらない。政治問題については、かたよらない情報を得て、政策がもたらす帰結を冷静に認識することはきわめてむずかしく、人びとはむしろ自分のもつ先入観や時の勢いに動かされがちだ。
 民主主義の実際がこんなふうであるにもかかわらず、民主主義の古典的学説がなぜ今日まで生き残っているのだろう。その根拠となっている功利主義的合理主義はもはや見捨てられている。それにもかかわらず、民主主義の幻想は生き残っている。
 それはなぜか。
 シュンペーターによれば、それは民主主義がいまや宗教的信条となっているからだという。いまや民主主義は理想の図式、旗印、シンボルとなった。とりわけアメリカにおいては、民主主義が国家の発展に結びつけられ、国民のイデオロギーとして、熱心に信奉されるようになった。
 ほかの多くの国においても、19世紀以降、民主主義は革命の旗印になった。こうした黎明期の栄光がなかなか消えがたいことが、古典的な民主主義学説をいまだに信奉させる要因になっている、とシュンペーターはいう。
 だが、古典的民主主義学説どおりに、民主主義が現実に実現されている国はどこにもないのだ。
 さらにシュンペーターは皮肉な口調で、こうつけ加える。
「政治家は大衆をうれしがらせる標語や、自分の責任のがれのためや、人民の名において反対者を粉砕するために好都合な機会を与える標語をありがたがるためである」
 ここでシュンペーターは民主主義に大きな疑問をつきつけている。だが、それは古典的民主主義学説の創造的破壊をこころみるためだといってもよい。
 それでは、シュンペーターはどのような民主主義理論を打ち立てようとしているのか。次回、見ていくことにする。

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自由民権運動──美濃部達吉遠望(9) [美濃部達吉遠望]

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 西南戦争は日本での最後の内戦となった。その目的が、半ば独立国化していた薩摩をつぶす戦争だったとすれば、それはアメリカの南北戦争とも似ていた。
 いずれにせよ、西南戦争が終結することによって、ひとつの時代が終わり、あらたな時代がはじまった。この年、美濃部達吉は高砂小学校に入学したばかりだ。それから小野中学、神戸の乾行(けんこう)義塾を経て、東京に出るまでの10年間は、明治政府がさまざまな抵抗を振りきりながら、近代国家建設を急ぐ時代と並行している。
 そのあたりの流れをまとめておくことにしよう。
 西南戦争が終わった翌年、大久保利通が暗殺された。木戸孝允(たかよし)は戦争中に病死しており、権力に一種の空白が生まれていた。その穴を埋めたのが伊藤博文、井上馨、山県有朋、黒田清隆、それに大隈重信である。
 そのころから自由民権運動が盛んになった。征韓論争に敗れて政府を去った板垣退助は、その直後の1874年(明治7年)1月に、民選議院設立建白書を政府に提出していた。有司専制を改め、すぐに議会を設立するよう求めたのである。だが、その後、外征と内乱がつづいて、議会の設立問題は議論されないまま立ち消えとなっていた。
 そしていよいよ、自由民権の叫びをともないながら、議会設立要求が全国各地で盛りあがってくる。
その中心を担ったのは、政治の輪から排除された一家言ある処士たち、新たな時代に目ざめた豪農たち、政治に関心の強い知識人たちだった。
 かれらは全国で結社を立ち上げる。おのずと高知の板垣退助率いる立志社がいわばそのセンターの役割を果たすようになり、やがて全国組織の愛国社が生まれた。
 1880年(明治13年)、自由民権を唱える全国組織の愛国社は全国大会を開き、国会期成同盟を結成した。土佐の板垣退助を中心に、片岡健吉や福島の河野広中が立ち、国会の早期開設を求める声が広がっていく。
 慶応義塾の福沢諭吉はけっして自由民権派にくみすることはなかったが、多くの塾生を言論界や実業界に送りこむなかで、かれもまた国会開設を支持するようになった。
 こうした動きに政府も対応せざるをえなくなる。
 このころ、西郷、大久保なき政府で、大きな力をもつようになったのが財政を司る大隈重信だった。
 1880年(明治13年)、大隈重信は参議に昇格し、強気の殖産興業政策を推し進めた。西南戦争時に発行された膨大な不換紙幣がインフレを引き起こし、物価は2倍に跳ねあがっていた。にもかかわらず、大隈は強気の姿勢を崩さず、外債を導入して、さらに積極財政を維持しようとした。
 これに懸念をいだいた井上馨は伊藤博文や岩倉具視を動かし、外債募集を不可とする明治天皇の詔勅を得て、大隈の猪突猛進を阻止した。それにより西南戦争後のインフレ処理を優先することが政府の基本方針となった。
 政府内では薩長派閥のあいだから大隈にたいする不信が次第に高まっていく。そんなときにおこった重要課題が、全国に広がる国会開設要求に政府はどう対応するのかという問題だった。
 政府内の意見はほとんどが慎重論だった。まず経済の安定をはかり、民法や商法などの法制を整備することがだいじであって、やがて華族や士族のなかから議員を選んで、諮問会議のようなものをつくるようにすればよい。国会開設は時期尚早ということに政府の意見はまとまりつつあった。
 ところが大隈だけはちがった。大隈は来年1882年(明治15年)末に、総選挙をおこない、再来年に国会をひらくべしという意見書を左大臣の有栖川宮に提出する。しかも、そこには行政府は議院内閣制をとり、参議や省卿は議員から選ぶという内容が書かれていたから、伊藤や井上は仰天した。
 大隈の案はイギリス流の議員内閣制だった。福沢諭吉が会長を務める交詢社は、4月に大隈を後押しするように私擬憲法案を発表した。さらに8月には立志社の植木枝盛(えもり)が独自の日本国憲法草案を起草した。
 この年はいわば憲法ブームで、自由民権派のあいだから数多くの憲法草案がだされている。歴史家の色川大吉が多摩の土蔵から発見した「五日市憲法草案」もそのひとつだった。
 こうした動きに危機感をいだいた伊藤博文は、みずからも憲法作成の必要を感じるようになった。だが、憲法調査のために渡欧する前に、薩摩派に接近し、さらに岩倉具視を抱きこんで、緊急の御前会議を開き、大隈参議罷免を決定する。
 大隈はやむなく10月12日に辞表を提出した。その日、9年後の1890年(明治23年)に国会を開設するという天皇の詔勅が出された。
 これが明治14年の政変である。
 大隈が辞任したあと、明治政府の財政政策は大きく転換し、薩摩の松方正義による緊縮財政がはじまる。増税がはかられるいっぽう、濫発されていた紙幣が一挙に消却された。これにより、いわゆる松方デフレがはじまり、物価の下落とともに、不景気の波が広がっていく。
 国会開設の詔勅が出された直後、板垣退助を総理とする自由党が結成された。いっぽう、政府を追放された大隈重信は翌年4月に立憲改進党(略称、改進党)を結成した。
 ともに1890年の国会開設をにらんだ動きだが、松方財政に反対する点は共通しているものの、ふたつの政党は極端に仲が悪かった。
 改進党が『郵便報知新聞』や『東京横浜毎日新聞』などのメディアを通じて国民に訴える姿勢を重視したのにたいし、自由党は自由民権のスローガンのもと民衆運動をくり広げていった。
 これにたいし、政府は集会条例に加え、新聞紙条例や出版条例を改正するとともに、全国に警察網を張りめぐらせ、政党の監視を強めていった。
 おそらく自由民権が急速に広がった理由は、自由ということばが、束縛からの解放と受け止められ、それがしばしば勝手気ままをイメージさせたからである。
 ほんらい、自由とは個我の覚醒とそれにもとづく行動を意味する。だが、北村透谷のように自由を自己の内面のドラマとして受け止める者は少なかった。
 自由ということばは魅力的だった。それはとりわけ若者たちをひきつけた。自由民権は植木枝盛の「天賦人権論」、すなわち人にはそもそも自己の幸福を追求する権利が与えられているという考えと結びついて、若者たちのもやもやとした鬱憤(うっぷん)を解き放つ水路となっていった。
 言論・集会・結社の自由、財産権・生活権・参政権といった国民の権利(市民権)の保障、それが自由民権派のめざす最大公約数だったといえるだろう。
 自由民権は文明の合言葉になった。だが、それは対外進出(国権)の権利を正当化する論理とも結びついていた。
 自由党結成からまもない1882年(明治15年)4月、板垣退助は岐阜で演説を終えたあと、暴漢に襲われるた。胸の傷は浅かったが、そのとき犯人に向かって、「板垣死すとも自由は死せず」との名せりふを叫んだとされる。このテロ未遂事件により、自由民権運動はさらに盛り上がった。
 その後、傷の癒えた板垣は、かねてからの念願だった洋行の旅に出る。板垣自身は知らなかったが、そのカネは三井銀行から提供されたものだった。のちに改進党系の新聞は、板垣の洋行費は政府からでていると書き立て、自由党を攻撃する材料とした。
 板垣の洋行中、自由党は急進化していった。松方デフレのもと、窮乏する農村を背景に、福島事件や高田事件がおこり、多くの自由党員が逮捕された。
 急進化の勢いは止まらない。
 1884年(明治17年)5月には、群馬事件が発生した。自由党員にひきいられた農民3000人が妙義山のふもとに結集し、「むかし思えばアメリカの独立したるも蓆旗(むしろばた)、ここらで血の雨降らさねば自由の土台固まらぬ」と気勢を上げた。だが、蜂起計画そのものはお粗末で、たちまち警官隊に蹴散らされた。
 9月には加波山(かばさん)事件がおこる。栃木県令の三島通庸(みちつね)を暗殺する計画だったが、途中で露見し、16人が筑波の北、加波山に籠もった末、警察署などを襲ったものの鎮圧された事件である。
 そして、10月末には困民党を結成した秩父の農民が蜂起する。内務卿の山県有朋は憲兵隊に加え東京鎮台の兵を秩父に送りこみ、これを弾圧した。
 秩父困民党が蜂起する直前、板垣退助は大阪で自由党を解党した。さらに12月、大隈重信は立憲改進党から脱党する。
 こうして自由党と立憲改進党が空中分解したことにより、自由民権運動は冬の時代にはいった。
 美濃部達吉の少年期は、自由民権運動が盛り上がり、衰退していく時代にあたっている。だが、少年はまだ少年の夢を生きている。周囲では「末は博士か大臣か」という期待が、かれを包みはじめているが、それは本人のあずかり知らぬところだった。国家の学に取り組み、なまの権力を経験するのは、まだ先のことになる。
 帝国大学入学をめざして、達吉が東京に出たのは1887年(明治20年)。まだ14歳の少年は、はじめての東京にとまどうばかりだった。

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ある時代背景──美濃部達吉遠望(8) [美濃部達吉遠望]

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 すこし回り道になるが、ここで幼年時代から少年時代にかけての達吉をめぐって、その時代背景に触れておくことにする。それは単なる背景にとどまらない。のちに達吉がみずからの憲法論を築いていくさいの前提となる流れだったともいえる。
 達吉は1873年(明治6年)に生まれたが、そのころ明治新政府は江戸時代の清算をおこなうことに躍起になっていた。西南戦争が終わる1877年(明治10年)までは、革命と解体の時代がつづいていた。
 明治国家の建設がはじまるのは、そのあとである。
 中村隆英の『明治大正史』を参考にしながら、その流れを概観してみよう。
 維新のはじまりは開港と王政復古である。尊皇攘夷はねじれて、いつのまにか尊皇開国に変わっていたが、革命の先は見えず不安に満ちていた。
 最初にともかくも求められたのは幕藩体制を解体することである。
 1869年(明治2年)には版籍奉還がおこなわれた。すでに幕府が崩壊した以上、諸大名が幕府から預かっていた土地と人民を天皇に返還し、あらためてその地位を認めてもらおうとするのはとうぜんのことだ。これにより全国の国土は天皇の国土となった。
 だが、維新が革命である以上、藩はけっして昔に戻らない。1871年(明治4年)には廃藩置県が断行される。半独立状態にあった封建の藩が廃止され、統一中央政府のもとに県が設立された。
 当初は、これまでの藩を引き継いで、全国に3府302県がつくられた。だが、その年のうちに3府72県まで整理される。このとき、前に述べたように、達吉の生まれた姫路藩は姫路県となり、さらに飾磨県と改称されている。
 この年11月には、岩倉具視(ともみ)を大使、木戸孝允(たかよし)と大久保利通を副使とする、いわゆる岩倉使節団が2年弱にわたる欧米歴訪の旅に出発した。留守政府を預かったのは西郷隆盛だ。
 大きな改革はしないと約束したはずだった。ところが、実質上の西郷政権に集った大隈重信や井上馨(かおる)、江藤新平らは、鬼の居ぬ間にとばかりに、次々と改革に着手した。
 改革のベースとしたのは、天皇のもとでの西洋化である。軍事、法律、教育、医学、産業、風俗、出版など、あらゆる面で西洋の作風が取り入れられていく。そして、それらはこれまでの伝統に乗っかり、伝統を押しつぶしていった。
 1872年(明治5年)、留守政府は学制を発布し、大学、中学校、小学校からなる新たな学校制度を発足させた。学校の普及には時間がかかり、その制度もころころ変わる。だが、いずれにせよ達吉が明治の教育の階段を上って、海外留学のルートをたどるようになったのは、この学制のおかげだった。
 穢多・非人と呼ばれていた被差別民の呼称が廃止され(新平民と陰でささやかれるようになったとしても)、廃刀令が出され、僧侶の肉食妻帯が許されるようになったのもこの年からである。
 まもなくキリスト教の禁教が解かれた。キリスト教の布教が認められていなかったなら、達吉が神戸の乾行義塾で英語を学ぶ機会もなかったわけである。
 徴兵令が出されたのも西郷政権のときだ。陸軍は内乱を想定し、地域の鎮圧を目的として、東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に鎮台を置いた。海軍の強化も進んでいた。
 司法卿となった江藤新平は、民法や刑法、裁判の手続き法などの整備を急速に進めていた。
 インフレと貿易問題は悩みのタネだった。だが、明治政府がもっとも苦慮していたのが財政問題で、西郷政権もそれに対応しようとした。
 最初の課題が、旧藩の借金と藩札をどう清算するかだった。中村隆英によると、新政府は旧藩の借金を、だいたい7割から8割踏み倒したという。それによって、大名貸しをおこなっていた大商人の多くが倒産に追いこまれた。達吉の育った港町、高砂の商人も、これにからんで大きな痛手をこうむったにちがいない。
 1873年(明治6年)、西郷政権は大胆な施策に踏みこむ。地租改正である。これまで物納していた年貢に代わり、税は金納しなくてはならなくなった。税のベースになったのが地租である。政府は国の定めた土地価格に応じて、土地所有者から3%の国税と1%の地方税をとると宣言した。
 加えて、秩禄処分に向けて、舵が切られた。明治にはいっても、元公家や元武家には華族や士族として禄(俸給)が与えられていた。
 その家禄の奉還が奨励されるようになったのが、やはり留守政府の時代である。家禄を奉還すれば、4年ないし6年分の資金が与えられる。だが、それに応じる華族や士族は少なかった。
 財政負担に耐えきれなくなった明治政府は、3年後の1876年(明治9年)、ついに秩禄処分に踏みきることになる。
 それはともかく、留守政府のはずの西郷政権がはたした政治改革は意外と大きかった。西郷政権は幕藩体制を解体し、明治国家建設の露払いをしたといえるくらいである。
 そこに2年近く日本を留守にした岩倉使節団の一行が戻ってくる。
 1873年夏から秋にかけて、いわゆる征韓論争が発生した。西郷隆盛が帰朝した大久保利通と対立し、朝鮮征伐を唱える西郷がそれに反対する大久保に敗れて、下野したとされるできごとである。
 しかし、その実際をみると、奇妙なことに閣僚のなかでは西郷だけが「征韓論」者ではなかったことがわかる。西郷はみずから朝鮮におもむき、開国の理を説いて、日朝の連携をうながそうとしていた。
 いったん認められていた西郷の派遣は、土壇場で岩倉・木戸・大久保によってひっくり返された。それにより大隈重信を除いて、西郷政権の主要閣僚(江藤新平や板垣退助など)は一斉に政府を去った。
征韓論争は政府の実権をめぐる争いにほかならなかった。これに勝利したことにより、岩倉使節団の主要メンバーは、留守政府を一掃することに成功した。
 西郷の留守政府のあとは実質上の大久保政権が成立した。
 大久保政権で際立っていたのは対外攻略である。
 1874年(明治7年)、漂流した琉球人(宮古島島民)が台湾の先住民に殺害されたことから、明治政府は台湾に軍を送り、先住民を掃討した。
 そのころはまだ沖縄に琉球王国が存続していた。日本はこの台湾征討によって、清国から賠償金を得るとともに、沖縄が日本の一部であることを事実上、国際的に認めさせたのである。
 1875年(明治8年)9月、仁川(インチョン)近くの江華島で事件が発生した。その周辺海域を測量していた日本の軍艦に江華島の砲台から乱射が浴びせられたため、日本軍は江華島の砲台を破壊した。この事件をきっかけに日本側はすぐさま6隻の艦隊を派遣し、砲艦外交のもと強引に朝鮮側と日朝修好条規を結ぶ。朝鮮は強引に開国を余儀なくされた。
 征韓論で政府を追われた西郷隆盛は、このとき篠原冬一郎(国幹[くにもと])に、わが国のとった態度は先方を軽蔑したもので、天理に恥ずべき行為だという内容の書簡を送っている。
 大久保政権がめざしたのは国家の確立である。欧米歴訪の経験は、大久保に近代国家なくしてはこれからの日本はないというという意識をめざめさせていた。国家は対外的に武を張り、対内的に治を安んじてこそ国家たりうる。そうした思いが大久保を前に走らせていた。
 だが、国内では急進的な近代化を前に各地で不満が爆発する。1876年(明治9年)には、地租改正に反対する農民一揆が全国に広がった。秩禄処分の強行に反発する不平士族たちは次々と反乱をおこした。そして、その反乱は大きな渦となって、明治10年の西南戦争へとつながっていく。
 近代国家の創成がつくりだすそんな遠い海鳴りを、たとえかすかであったとしても、ものごころのついた達吉がとらえていたと想像するのはうがちすぎだろうか。

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まだ過渡期なのか──シュンペーターをめぐって(8) [経済学]

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 社会主義ははたして機能しうるのかを考える場合には、とうぜん人的要素がかかわってくる。こうした人的要素を抜きにして、社会を公共的に管理することはできない、とシュンペーターはいう。
 シュンペーターは大企業中心の資本主義の時代をへることによって、はじめて社会主義は可能になるという青写真をえがいている。
 その社会主義の運営には、神のような能力など必要としないし、特別の倫理的高潔さすら必要としないという。もちろん精神改造や苦しい社会的適応なども不要である。
 まず農業についていうと、農業では、生産計画を設定し、土地使用を合理化し、農民への機械、種子、種畜、肥料を供給し、生産物の価格を確定し、この価格での生産物の買い上げをおこなうだけで、社会主義はじゅうぶんに達成される。
 労働者と勤め人の仕事もいままでと変わらない。仕事が終われば家庭に帰り、日常の営みをおこなう毎日がつづく。
 上層階層はどうだろうか。シュンペーターはブルジョアを追放せよなどとはいわない。むしろ、社会主義のもとで、かれらの指導的能力をよりいかすべきだという。
 社会主義者はおうおうにして自分たちが権力を握り、これまでの支配者を追放するのだと考えがちだ。だが、問われるのは、はたしてかれらに社会を引っぱっていく能力があるかどうかである。
 とはいえ、社会主義を考えるときには、巨大で包括的な官僚装置を想定せざるをえない。官僚はしばしば否定的に言及されがちだ。しかし、官僚は「近代の経済発展の不可避の捕捉物でもあり、社会主義共同体においてはいままでよりもいっそう必須のものとなるであろう」とシュンペーターはいう。しかし、それは民主主義によって支えられるものでなくてはならない。
 問題は事業運営の官僚的なやり方が、個々人の創意工夫を奪いがちだということである。それによって働く人びとは意欲を失い、努力しようという気をなくしてしまう。それは資本主義のもとでもありうることだろう。
 純粋に利他的な義務観念だけに依拠するのは非現実的である。人は利己心と無縁ではありえない。それでも働くことの喜びや社会的なやりがいといったものは存在し、社会主義共同体がそうした場となりやすいのも事実である。
 資本主義社会では金銭的利得が典型的な指標となり、社会的名声が他人にたいする優越感を生みだしている。だが、社会主義においては金銭よりもバッジ(名誉)のほうに値打ちが認められるようになるかもしれない、とシュンペーターはいう。。
 社会主義においても、人並みはずれた業績を成し遂げた人には、それなりの所得と待遇を与えるべきだろう。こうした刺激は、貴重な努力の推進力となる。だからといって、それが度を超したものである必要はない。
 社会主義経済においては、中央当局が国家資源の一部を直接配分することによって、新しい工場や設備を導入することができる。その必要性はあくまでも社会的に判断されることになるだろう。つまり社会主義においては、これまで私的企業に委ねられてきた投資を中央当局がおこなうことになるのである。
 もちろん、社会主義においても、生産装置は円滑に運用されなければならない。しかし、そこには利潤を求めるブルジョア雇用主にような監督や規律は存在しない。すると問題は、はたして社会主義が社会的利益のために、それなりの権威を保ちうるかということになる。
 権威による規律には自己規律と集団規律とがある。社会主義にとっても、こうした規律はとうぜん求められる。
 そして、社会主義秩序にたいする労働者の忠誠心は、資本主義秩序の場合よりも高いと考えられる。なぜなら社会主義的な経済政策は労働者に支持されるからだ。
 つまり、社会主義における規律は、資本主義の場合よりも、より自主的に保たれるとシュンペーターはみるわけだ。
 失業の不安はもはや解消される。普通以下の仕事しかできない人にたいしても、それなりの訓練がほどこされるだろう。それでも将来にたいする不安は残るし、これに政治がどう応えるかは社会主義においても大きな課題となる。
 ブルジョアの時代は終わった。いまや政府は労働者の味方となり、労働者の権利を擁護するようになった。
 いまや労働者の規律を導くのは、社会主義的管理者の仕事になった。中央当局の権威は絶対的であり、全経済エンジンの運行に責任をもち、それをくつがえすことは容易ではない。
 労働組合は一種の国家機関となり、これまで頻発していたストも減ると同時に、組合員も増えて、社会的利益を代表する機関となっていく。組合は工場の規律や配置転換をうながす役割をもはたすようになる。
 社会主義はまだ青写真でしかなく、それがいわば牧歌的社会主義であることをシュンペーターも認めていた。
 シュンペーターにとって、社会主義はあくまでも経済制度である。それが政治制度としての民主主義と両立するかどうかは、別の課題だった。社会主義と民主主義の関係は、あらためて論じられることになるだろう。

 資本主義秩序から社会主義秩序への移行期がどのような問題を引き起こすのかについてもシュンペーターは論じている。
 資本主義の発展は、経済過程を社会化していく傾向がある。農業を除いて、事業は巨大化した会社組織によって統轄されるようになり、進歩は緩慢となり、機械化され、計画化されていく。投資機会は減少し、利子率はゼロに近づく。産業の資産と管理は個人的性格を失い、集められた株式と債券を所有するにとどまってしまう。資本主義的動機や資本主義的基準はその活力を失う。こうした資本主義の成熟が社会主義への移行をうながすことになる、とシュンペーターはいう。
 しかし、社会主義への道がいつから、どのようにしてはじまるかは容易にはいえないという。資本主義秩序はみずからの力だけでは社会主義秩序に移行しないだろう。そこには憲法改正のような動きがともなわなければならない。
 資本主義の発展とともに、事物的にも精神的にも社会化の傾向はどんどん進んでいく。そして、その傾向が政治的な動きを生みだしていく、とシュンペーターはみる。
 資本主義が成熟した状態にある場合は、社会主義への移行は革命的にではなく平和的におこなわれるだろう。
 農民の所有権は守られ、小規模経営の手工業者や独立の小売商人はそれまでの仕事や商売を許される。株式や債券の所有者にたいしては、それが消滅する代わりに年金などのかたちで支払いがなされる。
 大規模企業の管理者は、よほどの場合を除いて、基本的にその地位を保証される。新しい企業の創設は禁止される。銀行はすべて中央機関の支店として位置づけられようになる。中央銀行は生産省とは独立のものとなり、金融機関の全般的監督をおこなうことになる。
 こうして中央当局は急激な変動を避けて、少しずつ支配権を獲得しながら、経済体制を軌道に乗せていく。当面、生産の調整がおこなわれるのは総生産量の5%程度である。人間の配置転換は大幅におこなわれるにちがいないが、それは大きな困難をともなわないだろう。経済体制の合理化が進められるのは、そのあとである。
 以上は高度資本主義が社会主義に移行する場合である。
 シュンペーターは次に資本主義が未成熟な社会にたいする社会主義原理の適用を論じる。
 未成熟とは、中小企業の数が多く、大企業がほとんど発展していない段階をさす。このような場合においては、新しい秩序の確立は革命によるほかない。
 ボリシェヴィズム革命では、革命的大衆が政府の中央官庁や政党本部、新聞社などを占拠し、そこに自分たちの同志を配備した。
 革命政権は銀行を接収し、それを財務省の監督下に置き、新たな銀行紙幣を発行するだろう。そのさい生じるインフレによって、貨幣や債券の所有者は財産を大きく減らすことになる。それに乗じて革命政府は社会化を遂行する。
 革命政府のもとでは、大産業はたちまち社会化され、残存する私的産業も次第に機能を停止する。社会への監視が強められる。
 はっきりと書いているわけではないが、シュンペーターはこうしたかたちでの移行を望んでいなかったようにみえる。だが、現実にはこうした暴力的移行のケースが数多くみられた。
 社会主義への移行期は、むしろ長期にわたるというのが、シュンペーターの展望だったといえるだろう。その移行期においても、社会主義者は説法と待望に甘んじるだけではなく、ある程度の社会化政策を実現できる、とシュンペーターはみた。
 その例として挙げるのが、たとえばイギリスである。イギリスでは電力にたいする国家管理や国家統制が求められていた。イギリス国民の優秀さからすれば、広範な国有化政策を実施することで、社会主義への一歩を踏みだすことができるだろう、とシュンペーターはいう。
 ほかに社会化できる分野としては、銀行や保険事業、鉄道や道路、自動車産業、鉱山(とりわけ炭坑)、鉄鋼産業、建築産業なども考えられる。兵器や船舶、食料貿易、その他も国有化産業の対象となりうるだろう。農民の地位を保全することを前提に、土地の国有化を検討することもひとつの課題だとシュンペーターは書いている。
 シュンペーターがこの本を書いた時代から80年近くが経過し、いまでは国営化から民営化への流れがごくとうぜんのように受け止められるようになった。
 社会主義はもはや時代遅れなのだろうか。
 そう断定するのは簡単である。しかし、その前に、社会主義といえばすぐに批判の的となる民主主義の問題を、戦時中のシュンペーターがどうとらえていたかをみていくことにしよう。

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シュンペーター的課題──シュンペーターをめぐって(7) [経済学]

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 シュンペーターのなかで、社会主義はまだ青写真として描かれていた。ソヴィエト型社会主義は、そのひとつの形態であるにすぎなかった。
 社会主義はあくまでも経済様式なのだが、そこからはもちろん文化的な可能性も広がっていく。それはかならずしも抑圧的(一党独裁的)形態をとるわけではない。
 シュンペーターによれば、社会主義経済は経済的配慮の負担を軽減することによって、むしろ人びとの文化的エネルギーを解放するだろうという。経済的安定が得られることによって、人びとには創造的な才能を発揮する可能性が与えられるはずだというのだ。
 もちろん、これまで資本主義社会が才能ある人びとに立身出世のはしごを提供してきたことも事実だ。だが、社会主義においては、その可能性はさらに広がるだろうというのが、シュンペーターの見方である。門閥支配はできるだけ排除されなければならない。
 たとえ社会主義のほうが資本主義よりも生産効率が低くても、人びとはより暮らしやすく、幸福であり、満足を覚える可能性もある。生産第一、利潤第一が、消費者第一にシフトするからだ。消費財のストックがより平等に分配されるならば、消費者の満足は極大化するだろう。
 とはいえ、社会主義的エンジンの生産効率も高いに越したことはない。そうなれば分配の議論もささいな問題になってしまうからだ。
 社会主義のほうが資本主義よりもより高い福祉水準を満たす可能性がある。資本主義においても所得税や相続税の課税強化によって、一定の福祉を満たすことはできるだろう。だが、それにはおそらく限度がある。
 社会主義経済においては、資本主義経済においてみられるような不確実性は存在しない。もちろん、その経済運営は、合理的かつ最適の生産体制をめざさなければならず、そのためには人的資源と物的資源の節約が必要になってくる。そのことによって、生産効率は必然的に上昇する。
 社会主義においても過剰生産はありうるだろう。しかし、競争的資本主義よりもそれをよりうまく避けることができるはずだ。
 進歩のための計画や新事業の整合性、順序正しい時間的配分は、社会主義のほうがはるかに効率的におこなうことができる。
 資本主義においては、景気の変動が産業全体を萎縮させるが、社会主義においては、それはまずありえない。時に無用化した工場や設備を廃棄することも必要になってくるが、それは景気の波とは関係がない。企業の整理や設備の更新はより少ない混乱と損失によって実現されるだろう。
 シュンペーターはいう。

〈社会化とは、大企業によって設計された方向に沿い、これをこえて一歩前進することを意味するということ、あるいは同じことになると思うが、ちょうど100年前のイギリスの産業を典型とする競争的資本主義に対して大企業的資本主義の優位性が証明されたごとく、いまや社会主義的管理は、おそらく大企業的資本主義に対する優越を示すことになるであろうということ、これである。〉

 シュンペーターは社会化という用語を使っている。それは資本の社会化を意味するといってよいだろう。資本を個人の所有物ではなく、社会全体の所有物に変えていこうという発想だ。具体的には大企業の資本所有権が社会化されること。そのさいのポイントは、破壊ではなく継承である。
 それ以上のことをシュンペーターは語っていない。社会化で思い起こされるのは国有化ということだが、単純にそうではないような気がする。最近よくいわれる企業のコンプライアンス(法令順守)というのでもなさそうだ。
 国有企業というといまでは悪い印象だけが広がっているだけに、「社会化」という概念はくせものであって、素直に受けとるわけにはいかない。シュンペーターは社会主義について、あまりに楽観的すぎたのではないか。第2次世界大戦後の経験は、ソ連や中国にかぎらず、社会主義の負の側面をあらわにした。
 それでもシュンペーターは、社会主義(ソ連経済というわけではない)には資本主義より優位性があると考えていた。計画経済は合理的な生産体制となりうるし、より重要なのは失業問題への対応だという。
 社会主義社会においては、不況が排除される結果、失業が少なくなる。そして、技術改良によってたとえ失業が発生したとしても、失業者には新たな仕事への選択が与えられるようになるだろう。
 社会主義においては、技術改良は個々の企業の事情によってではなく、法令によって普及させることができる。また企業は私的に所有されているわけではないから、人材を適材適所で配置することも可能になる。
 商業社会の顕著な特徴は、私的領域と公共的領域の分離である。その対立はしばしば敵対関係をもたらす。だが、社会主義においては、生産部門は公共的領域に属することになる。それにより、企業と国家ないし官庁との対立は解消されるだろう。
 租税はまた国家の本質的属性であり、不可避的に生産過程を阻害する役割を果たしてきた。それによる無駄もまた計り知れなかった。社会主義社会においては、こうした無駄はなくなるはずだ、とシュンペーターはいう。
 社会主義にたいするこうした見方はあまりに楽観的だったということもできる。
 戦後経済が進展するなかで、計画経済の失敗があきらかとなり、国有企業の非効率性も指摘されるようになった。いまや社会主義は過去の夢想と化した感もある。
 だが、社会主義を駆逐したとされる資本主義も、戦前とはすっかりその様相を異にしている。たとえ新自由主義が小さな国家を唱えようとも、現実に存在するのは国家資本主義である。その形態や文化が異なっているとしても、ある意味で資本主義は「社会化」され、国家の管理・監督のもとに置かれている。
 いま、ふたたび資本主義の終焉が唱えられるいっぽう、文化を異にする国家資本主義間のせめぎあいも盛んになっている。もはやシュンペーターのように楽観的に社会主義を語る時代は終わったのだろう。それでも、国家と資本主義のあとにくるものを想像すると、シュンペーター的課題はかならずといっていいほど再浮上してくるのである。

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いまさら社会主義?──シュンペーターをめぐって(6) [経済学]

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『資本主義・社会主義・民主主義』の第3部「社会主義は作用しうるか」を読みはじめる。
 商業社会は社会主義社会に移行するというのが、シュンペーターのヴィジョンである。
 商業社会は生産手段の私的所有と生産過程の私的契約によって成り立っている。その発展形態が、信用創造(カネがカネを生む)という現象の加わった資本主義である。
 これにたいし、社会主義社会とは、社会の経済的な事柄が私的領域ではなく公共的領域に属している社会を指す、とシュンペーターは規定する。
 それは全体経済の把握という点で、中央当局の存在を前提とするが、かならずしも中央当局が絶対的な権力をもつことを意味しない。
 シュンペーターによれば、ソヴィエト型の集産主義ないし共産主義は、社会主義のひとつの型にすぎないとされる。
 社会主義はひとつの新しい文化的世界でもあると書いている。だが、シュンペーターは社会主義について語られるさまざまな美辞麗句を避け、「社会主義の文化的不確定性」について語る。
 社会主義は独裁的でも民主的でもありうるし、神政的でも無神論的でもありうるし、禁欲的でも快楽的でもありうるし、国家主義的でも国際主義的でもありうるし、好戦的でも平和的でもありうる。
 シュンペーターに言わせれば、社会主義は実際には文化的プロテウス(予言と変身を得意とする神)なのだ。
 ここでは発想の逆転がみられる。
 社会主義はひとつの経済様式にすぎないのだ。それは人民を救済するわけでも、人民を抑圧するわけでもない。それがどのような文化様式をとるかは、社会主義とはまったく別問題である。
 だとすれば、経済的に社会主義は機能しうるか。もちろん機能しうるとシュンペーターはいう。
 フォン・ミーゼスは市場のない社会主義は体制として成り立たないという考え方を示したが、それにはじゅうぶんな反論が可能だというのが、シュンペーターの立場だ。
 資本主義とちがい社会主義では生産と分配が分離される。
 社会主義経済の原則は平等主義である(もっとも年齢や社会的役割に応じてある程度ランクづけはなされるだろう)。
 人びとには一定の消費財への請求権を表現する証券が配られる(口座振り込みのかたちでもよい)。その総額は総社会的生産物の価値に該当する(保留分=国家共同体予算については社会的合意が必要だ)。その証券(カードでも紙幣でも)によって、人びとは食料や衣料、家財、家屋、自動車などを手に入れることができる。
 問題は限られた経済的条件のもとで、消費者の極大満足をもたらすように生産がいかになされるかということである。
 中央当局は各産業単位に生産財と用役を配分しなければならない。そのさい、各産業単位は消費者から支払われた証券によって、中央当局から生産手段を得て、もっとも効率的な生産をめざすことになる。
 生産財を含む生産手段の価格は、合理的費用計算によって、あらかじめ中央当局によって定められている。中央当局は需要に応じて、それを配分するだけである。
 社会主義は資本主義の生みだした一定の生活水準を受け継ぎ、それをできるかぎり平等にいきわたらせることを目的とする。
 社会主義のもとでは、経済の進歩はストップしてしまうのだろうか。
 新技術の開発や改良はとうぜん考えられる。そのために必要となる追加労働時間にたいしては、とうぜん支払いがなされなければならない。中央当局は国会の議決によって、投資のための予算項目を確保することができる。
 社会主義のもとでも職業選択の自由は認められなくてはならない。職業の種類と量はもちろんかぎられている。だれもが希望の職につけるかどうかはわからない。しかし、どのような仕事を選ぶかは各人にまかせられるべきだ。資本主義社会ほど極端ではないけれど、職業に応じて、支払われる金額はとうぜん異なってくる。
 資本主義社会でごく当たり前に使われている概念は、社会主義のもとではどのような変容をとげるのだろう。
 たとえば地代。資本主義のもとでは、地代とは土地の生産的使用にもとづく報酬を指す。この報酬はとうぜん土地所有者に帰属する。しかし、社会主義のもとでは、土地は私有財産ではない。したがって、その余剰は社会的簿記のインデックスに組み入れられることになる。
 所得についてはどうだろう。資本主義においては、それは生産にたいする報酬だ。これにたいし、社会主義のもとでは、各人に所得が配分される(ベーシックインカムが保証される)。だが、それはもはや賃金とはいえない。消費財にたいする請求権を示す労働証券である。
 利潤や利子、価格、費用といった資本主義的概念も社会主義のもとでは変容をとげることになるだろう。だが、名称はともかくとして、社会主義のもとでも類似的な現象が残ることはいうまでもない。
 シュンペーターは社会主義が資本主義の大企業体制を受け継ぐものだと考えている。完全競争モデルは、経済学者が理想とする仮説にすぎない。
 それぞれの大企業はひとつの経済単位として、民主的に選ばれた中央政府のもとで、生産を持続する。
 とはいえ、市場がないとすれば、経済的合理性も失われてしまうのではないのだろうか。
 これにたいしシュンペーターは、もし市場が存在しなくとも、当局があらゆる消費財にたいして、その重要度の指標を決定できるなら、計画経済はじゅうぶんに機能しうるという。
 ただし、社会主義機構は巨大な官僚組織(ないし市民ボランティア)の存在を必要とするだろう。
経済の合理的ないし最適な決定にとっては、社会主義経済と商業経済とのあいだに大きなちがいがあるわけではない。とりわけ今日、資本主義が大企業体制のもとで運営されていることをみれば、社会主義における経済決定はむしろ単純化されるだろう、とシュンペーターはいう。
 なぜなら、社会主義においては競争がなく、そのため産業や工場の管理者は、ほかの仲間の行動を容易に知りうるからである。中央当局も積極的に産業の情報を関係者に伝えることによって、経済はよりスムーズに運営されるようになるだろう。
 シュンペーターは、第2次世界大戦中に、きたるべき経済体制として、資本主義に代わる社会主義の青写真をえがいた。
 戦後、それはばかげた空想として葬り去られることになる。冷戦がはじまり、米ソ対立が激しくなって、社会主義は自由のない遅れた貧しい体制として排撃されることになる。
 しかし、資本主義国においても、かつての自由放任資本主義はもはや過去のものとなっていた。ケインズ主義のもとで、国家による経済のコントロールがあたりまえとなり、戦後の高度経済成長がもたらされた。
 それが限界に達すると、こんどはハイエクの新自由主義がもてはやされるようになった。
 マーガレット・サッチャーはある記者会見でハイエクの『自由の条件』をかかげてハイエク支持を表明し、シュンペーターの予測したような道を歩んではならないと話したという。
 それ以来、社会主義はますます時代遅れとみなされ、とりわけソ連崩壊以降は、マルクスやシュンペーターが予想したのとは真逆の、社会主義から資本主義への転換が叫ばれるようになった。
 だが、その新自由主義がいまはあやしくなっている。社会主義ははたして滅んでしまったのだろうか。
 シュンペーターの問いをもう一度振り返ってみよう。

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