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ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む(4) [経済学]

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 もともと競争社会のモデルに経済的保障は含まれていなかった、とガルブレイスは書いている。人は失敗しないよう努力するのが鉄則とされていたからである。
 しかし、問題は経済的損失をこうむるのが、おうおうにして本人より第三者だったことである。本人の努力を超えた、予期せぬ災害はおこりうる。そのため、経済的保障や社会保障の問題が次第に浮上してくる。
 経済社会にリスクはつきものである。不安にさらされる人がそれを取り除こうとするのはとうぜんだった。
 市場価格の予想しがたい動きに対抗するには、企業が大規模化し、独占体制を築くというのが最終的な答えだった。巨大企業化はかならずしも利潤の極大化をめざすためではなかった。リスクの軽減こそが、近代企業を動かす動機だった、とガルブレイスは書いている。
 企業はどのようにしてリスクを軽減しようとしたか。たとえば宣伝によって、消費者に自社商品にたいする嗜好を刷りこんでいく。生産部門の多様化、生産方法の改善。新商品を次々と開発していくこと。個人の権威に頼らない企業の組織管理、資金調達の多元化など。
 経済社会の発展につれて近代法人としての企業はいわば防衛力を強化し、リスクを大幅に減らした。これにたいし、いまも農民や労働者、市民は直接リスクにさらされている、とガルブレイスはいう。
 とはいえ、1930年代以降は、一般の人びとのあいだでも経済リスクを緩和する動きが出はじめた。失業保険、養老年金、遺族年金などだ。農産物の暴落に対応する支持価格制度もつくられた。労働者の生活を守る労働組合も誕生した。
 さらに政府はマクロ経済的な措置に乗り出し、完全雇用水準に経済を安定させる努力を払うようになった。
 商品の開発にともなう生産増大に加え、こうした経済的保障措置の導入が、「ゆたかな社会」を生む素地になった、とガルブレイスは考えている。そのはじまりとなったのが1930年代だった。

 思想的にみれば、アメリカ経済は保守・リベラルの潮流がぶつかり合うなかで形成されてきた、とガルブレイスはいう。それはいつの時代も変わらない。ただ、両者の関係はねじれている。保守が自由な競争を求めるのにたいし、リベラルは安全な生活を求めるという不思議な構図が生まれた。
 それはともかく、すべての人が自分には守るべき何物かがあることに気づいたのは、生活がある程度ゆたかになってからである。裸一貫の時代は、それこそこわいもの知らずだった。経済生活の向上こそが、かえって経済的保障にたいする関心を高めた、とガルブレイスはいう。企業は倒産を恐れ、労働者は失業を恐れ、農民は収入低下を恐れるようになった。
 経済的不安はきりがない。だが、「ゆたかな社会」では、おもな経済的保障システムはすでにできあがっている。それでも人びとが不安をいだくのは、現実に経済が動揺すれば、ほんらい頼らなくてもよいはずの経済的保障システムに依存しなくてはならないことを恐れるからである。そのため、政府には常に不況を防止することが求められるようになった。
 アメリカではいまも経済的保障にたいする強い反発が残っている。経済的保障が大きくなれば、競争が阻害され、人は働かなくなるというわけだ。
 だが、それは完全にまちがっている、とガルブレイスはいう。
「実際には、経済的保障への関心が高まった時代は、これまでになく生産性が高まった時代なのである」
不安の緩和と生産の増大が相伴うことによって、はじめて「ゆたかな社会」がもたらされるのだ。
だが、ガルブレイスはあくまでも生産の重要性を強調する。働く者にとっても、生産とは稼げる仕事があることを意味する。

〈かつて不平等にともなって生じる緊張の解決策となったのは生産だった。しかも、生産は経済的不安定にともなう不快や不安、欠乏にたいする不可欠の救済策となっているのである。〉

 ここから生産の話がはじまる。訳文の問題もあって難しい。原著を横に置きながら、まとめてみる。
 現代の世界では国境を越えて生産(というより商品生産)の重要性が認識されるようになった。
「ゆたかな社会」に、ものは豊富にある。それでも人はいまでも生産の増大にこだわりつづける。生産は依然として文明の進展度を測る手段になっている、とガルブレイスはいう。
 資源、技術、労働、資本が生産のファクターである。これらの結びつきにおいて、とりわけ重視されてきたのは技術開発だ。だが、技術進歩に関しては、産業によって大きなちがいがある。概して巨大企業では技術開発のために大きな投資がおこなわれる。その目的は商品の開発と生産増加だ。
 不況は、たとえ小さな景気後退であっても、商品生産に大きな影響をおよぼす。そのとき経済学者は雇用や収入がどれだけ減るかに注目するが、企業が関心を寄せるのは、あくまでも利潤の確保である。
 問題は不況のさいには、企業だけでは経済的保障が保たれないことである。そのため、政府の役割は必須となる。
 経済において重視されるのは生産性である。怠惰だけではなく、過剰投資や保護関税、特恵、補助金、無駄遣いなどにも、大きな非難が寄せられてきた。だが、それは外部的な要素ではあっても、おそらく生産性の増加とはほとんど関係がない。大企業の時代においては、企業戦略が立てられ、技術導入と資源利用の効率化、適切な労働力配置がはかられ、計画的に投資率と成長率の向上をめざす体制が組まれるようになった。
 しかし、ガルブレイスの言いたいことは、むしろここからだ。豊富な商品の生産は、たしかに「ゆたかな社会」をもたらす原動力になってきた。そして、経済においては、一般には民間の生産だけが重要だと考えられている。
 そのいっぽう、公共サービスは社会にとっては必要悪であり、それが多くなると民間経済を圧迫すると思われてきた。こうした見方は伝来のもので、きわめて非合理だ、とガルブレイスはいう。
 たとえば国民総生産(GDP)は、年間の財とサービスの価値を一括して計算するものだが、そこに含まれているのは民間がつくりだす価値だけでない。政府がつくりだす価値も含まれている。つまり、政府もまた社会に必要な生産価値をつくりだしていることを認識しなければならないのだ、とガルブレイスはいう。
 にもかかわらず、何かというと公共サービスは目のかたきにされ、できれば減らしたほうがよいものと思われがちだ。だが、社会のゆたかさを支えているのは、民間の財とサービスだけではない。公共サービスがあってこそ、「ゆたかな社会」が築かれることを忘れてはならない、とガルブレイスは強調する。
 経済の発展は衣食住の拡充とともに進み、市場が確立することで(つまりふつうに物やサービスが売り買いできるようになって)、生産と分配のシステムが広がっていった。
 そうしたシステムをつくってきたのは民衆であって、これまで政治権力はむしろその力を抑えつけたり収奪したりするばかりだった。そのため、民衆のあいだに国家への不信が生まれるのはとうぜんだった。市場経済が国家に対立するという見方は根強かったし、いまも根強い、とガルブレイスはいう。

〈貧しい世界の悪王たちは、強欲のあまり、民間でつくられたものを破壊したり、損傷したりするのもまったく平気だった。ものをつくる人も資本も破壊された。いまでは経済はそんなにやわではなくなっている。政府はそこまで理不尽ではない。現代の西洋諸国では、経済の成長と公共活動の拡大が、いくつかの例外はあるにしても、並行して進むようになった。経済と公共活動は補完しあうようになっており、実際そうでなくてはならないのだ。〉(拙訳)

 ガルブレイスは民間資本の生みだす財やサービスだけでは「ゆたかな社会」は生まれないと考えている。商品が増えるにつれて、公共の投資やサービスがかならず重要になってくる。道路、交通機関、電気、ガス、水道、医療、図書館、警察、さまざまな社会保障など。いや、むしろ公共サービスがまだ少なすぎることこそが問題だという。
 ガルブレイスによれば、「われわれは重要な生産の一部門、すなわち公共財に二流市民のような位置づけしか与えていない」。
 こうしたリベラルな考え方は、現在主流となっている「新自由主義」の価値観とは正反対のものだ。はたして「新自由主義」はより「ゆたかな社会」をもたらすことができただろうか。
 長くなったので、今回はこのあたりでおしまいにしよう。ガルブレイスの考え方は、だいたいわかったのではないか。だが、まだ終わってはいない。ガルブレイスは、われわれはゆたかになったと思っているが、はたしてその内実はどうなのかを次に問うているからである。

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