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大正政変──美濃部達吉遠望(33) [美濃部達吉遠望]

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 美濃部達吉が上杉慎吉と天皇機関説をめぐって激しい論争をくり広げていたころ、すなわち明治末年から大正はじめにかけての時代背景をふり返っておきたい。
 1910年(明治43年)の大逆事件以降、社会主義者にたいする圧迫は苛烈で、社会主義者の「冬の時代」がつづいた。ところが、社会主義者にとっての冬の時代は、民本主義者にとっては春の時代だった、と歴史家の松尾尊兌(まつお・たかよし)が記している。吉野作造によって唱えられる民本主義がどのようなものだったかは、おいおいみていくことにしよう。
 しかし、「民本主義の陽ざしは、徐々に固い雪をとかし、社会主義の芽をはぐくんだ」という面があったことは否定できない。そして1919年(大正8年)には「大衆的民主主義運動の高揚」がもたらされた。すなわち、普通選挙獲得運動が全国的な盛り上がりをみせるのだ。
 達吉の学説が広く受け入れられたのも、この時代である。1920年(大正9年)に、東京帝国大学で達吉は従来の行政法講座に加えて、法学部(法科大学を改称)で憲法第2講座を兼任するようになった。第1講座を受け持つ上杉にとって、それは大きな侮辱にちがいなかったが、学生たちははじめて憲法の講義らしい講義を受けたような気がして、知的な喜びを覚えたと伝えられる。
 大正デモクラシーがいつはじまったかについては諸説ある。
 しかし、1912年(大正元年)末から翌年2月にかけて発生した、いわゆる「大正政変」は、たしかに大正デモクラシーの息吹を伝えるできごとにちがいなかった。それまでの元老を中心とした藩閥政治に大きな批判の嵐が巻き起こった。
 1912年(明治45年[7月30日に改元])に首相を務めていたのは西園寺公望だった。
 このころが桂園時代といわれるのは、悪く言えば桂太郎と西園寺公望のあいだで、じつに12年にわたり政権のたらいまわしがおこなわれていたためである。
 驚くことに、1901年6月から1906年1月にかけては桂、1906年1月から1908年7月にかけては西園寺、1908年7月から1911年8月にかけては桂、1911年8月から1912年12月にかけては西園寺、そして1912年12月から1913年2月にかけては桂と、桂と西園寺が交代で首相となった。そして、さすがに桂の3期目に政変がおこった。
 明治憲法下の内閣は議院内閣制をとっていなかった。総理大臣(首相)を含む国務大臣は、国の元首として統治権を総攬する天皇の補弼(ほひつ)にあたるものとされ、とうぜん天皇によって任命された。しかし、首相はほとんどが元老の話し合いによって決められていたのが実情だった。
 政党内閣がなかったわけではない。1898年(明治31年)に自由党と進歩党が合体して憲政党ができ、議会で多数派をにぎった。そのときは、憲政党の首領、大隈重信と板垣退助が、伊藤博文の了解のもと、大隈を首相として内閣を結成した。だが、それはごく短期間で終わり、次に政党内閣が登場したのは、1900年(明治33年)に立憲政友会(略称政友会)を率いた伊藤博文のときである。
 達吉も『憲法講話』のなかで、こう述べていた。

〈人によっては、日本の憲法の下においては政党内閣、議院内閣は許すべからざるものであるというようなことを言う者があるようでありますが、これは固陋(ころう)なる無稽の言にすぎぬもので、何の理由もないことであります。〉

 この口ぶりからは、達吉が藩閥内閣ではなく、政党内閣、議院内閣を支持していたことが伝わってくるだろう。とはいえ、明治憲法下では議院内閣は例外で、首相の人選は、元老による了承を得るのが暗黙の原則だったといえる。
 こうして、1901年(明治34年)からは、桂太郎と西園寺公望のあいだで、12年にわたり、政権のたらいまわしがおこなわれることになる。
 桂太郎(1847〜1913)は長州藩に生まれ、陸軍にはいり、ドイツに留学後、陸軍次官、台湾総督などをへて、閣僚となった。1901年に首相となり、日英同盟を締結し、日露戦争を戦った。山県有朋の後継者といえる。
 いっぽう西園寺公望(1849〜1940)は公卿出身で、フランスに留学し、「東洋自由新聞」社主となるが、その後、伊藤博文に随伴し、閣僚、枢密院議長などを歴任し、伊藤の後継者として政友会総裁となった。議会多数派を率いているというのが西園寺の強みである。
 桂は反政党主義の立場だが、首相となった軍官閥の桂が安定した議会運営をおこなうには、議会多数派の政友会を率いる西園寺の協力が欠かせなかった。そのため、両者のあいだで密約が交わされる。それは桂が退陣するときには、西園寺に政権を譲り、西園寺が退陣するときには桂に政権を譲るという約束だった。この約束は二度くり返され、大正時代にはいって3度目の桂のときに政変が発生するわけだ。
 日露戦争後の経済状況はどうだったのだろう。日本はロシアから賠償金をとれないまま、巨額の外債を含む膨大な戦争国債をかかえていた。さらに満洲と韓国の権益を維持するには、軍事増強をはからなければならないという課題もあった。
 桂を引き継いだ西園寺新政権は、積極的な経済政策を打ち出し、国内のインフラ整備に取り組んだ。鉄道を国有化し、港湾設備を強化し、電話の普及を促進し、河川を改修し、国営八幡製鉄所も拡張した。そのためには、さらに新たな公債発行と増税に頼らなければならなかった。戦勝気分と政府の積極財政が追い風となって、多くの企業が生まれた。
 だが、好景気は長くつづかない。背伸びしたつけが回り、1907年(明治40年)には東京株式市場で株が暴落し、それに追い打ちをかけるようにアメリカで恐慌が発生し、日本の主力輸出商品である生糸の輸出が激減する。
 不況は1908年(明治41年)下旬までつづき、足尾鉱山では暴動が発生し、長崎の三菱造船所でも争議が勃発した。増税反対運動も盛んになっていた。東京の市電[都電になるのは1943年]を運営していた東京鉄道会社は運賃を値上げしようとして、大反対運動に見舞われる。こうした動きのなか、西園寺政権のもとで認められた社会党は禁止され、ふたたび桂内閣が発足した。
 桂内閣は思い切った経済引き締めをはかり、超緊縮予算を打ち出した。公債整理を優先しながら、日露戦争のときに上げられていた地租を引き下げる。また、社会主義者の徹底的な取り締まりをはかりつつ、労働者の生活改善をめざす工場法を制定した。飴と鞭が桂内閣の特徴である。やがて、1910年(明治43年)の大逆事件が発生する。
 桂が西園寺に政権を禅譲することは当初から約束されていた。不平等条約の完全改正を花道として、1911年8月に、桂は西園寺に政権を譲った。これもなれ合いにちがいない。しかし、重要なのはすでにこのころ、もはや政党を抜きにして、政権を運営できない時代になっていたことである。
 景気の低迷がつづいている。日本にとっては重化学工業化が次の課題だったが、投資はいまひとつ盛り上がっていない。西園寺政権は国債の償還を進めながら、行政整理をおこない、不要不急の事業を見合わせるなど、慎重な財政運営に終始していた。そこに軍からの突き上げがくる。1910年に韓国が併合されたあと、海軍も陸軍もたがいに競い合うかのように軍備拡張のための予算獲得に走った。だが、それにじゅうぶん答えられないまま、陸軍が反発して西園寺政権は瓦解した。
 問題はそのあとだった。だれを次の首相にするかで、元老会議はもめにもめた。元老会議といっても、いま残っている元老は山県有朋、松方正義、井上馨、大山巌の4人だけだった。桂太郎は宮中の内大臣兼侍従長になったばかりだから無理だろうという意見がでたあと、海軍大将の山本権兵衛、朝鮮総督の寺内正毅、貴族院議員の平田東助といった名前が出ては消え、77歳の松方正義にも打診がなされるほどだった。
 そして、10回の元老会議をへて、やはり桂しかあるまいというところに話がおちついた。元老4人は大正天皇に拝謁し、山県がこれまでの経緯を説明し、天皇から桂を首相に任命するとの勅語が出された。
 これにより桂はみたび首相となった。だが、この政権はわずか50日しかもたない。
 桂は閣僚に加藤高明、後藤新平、若槻礼次郎をいれるなどして強力な布陣を敷いた。問題となっている陸海軍の拡張計画を1年延期させ、歳出を1割削る財政計画を検討し、さらに陸軍大臣、海軍大臣を文官にすることさえ検討していた。そのいっぽうで安定政権をつくるために、政友会とは別にみずからの政党を結成したいと考えていた。
 だが、発足早々の桂内閣を「護憲運動」の嵐が襲う。政友会の尾崎行雄、国民党の犬養毅らは、陸軍のごり押しで西園寺内閣が倒れ、不透明な元老会議でまたも長州閥の桂内閣が発足したことに憤りを感じていた。東京の歌舞伎座や両国国技館をはじめ、各地で憲政擁護の大演説会が開かれた。
 民衆の勢いに押される格好で、政友会をはじめとする諸政党は、国会に内閣不信任案を提出した。数万の群衆が霞ヶ関の国会議事堂を取り囲み、事態を見守った。
 これに対抗して、桂は議会を5日間停会とし、政局の打開をはかった。そのかんに新党をつくろうとしたが、思ったほど人数が集まらない。議会ではのちに「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄が政友会を代表して、名演説をぶった。

〈彼は常に口を開けば忠君愛国を唱え、忠君愛国はおのれの専売のごとく言っているが、そのなすところ、玉座をもって胸壁となし詔勅をもって弾丸となした。しこうしてその政敵を倒さんとするものである。〉

 そこで危機感を覚えた桂は、大正天皇を動かして、西園寺に内閣不信任案の取り下げを示唆する勅諭をださせた。しかし、政友会のほうはおさまらない。
 不信任案成立が避けられないとみた桂は、議会解散に打って出るつもりだったが、選挙で勝てる見込みはなかった。内閣総辞職の道しか残っていなかった。だが、その前に桂はまたも議会を停会とした。そのため、恐れていた民衆暴動がまたも日比谷付近で発生する。国民新聞、やまと新聞、二六新聞など政府支持の新聞が焼き討ちにあう。暴動は東京だけで収まらず、大阪や京都にも波及した。
 こうして、桂は辞任した。そうなると次は政友会内閣が誕生するはずだが、そうはならなかった。内閣不信任案の撤回を示唆した大正天皇の勅諭に背いたことを理由に、西園寺公望が政友会総裁を辞任したためである。
 元老会議が開かれた席で、西園寺は次期首相に海軍大将の山本権兵衛を推し、これにより急遽、山本内閣が成立する。政友会内部では陸軍内閣のあとは海軍内閣かと反発する向きもあったが、政友会総務の原敬は党内の反対を抑え、山本内閣を支えることをあきらかにした。
 つい長々と政局にふれることになったが、美濃部達吉と上杉慎吉のあいだで天皇機関説論争が交わされていた時期は、まさに大正政変がおこったときと重なっている。何となく美濃部のほうが優勢を保ちながら、この論争があいまいなまま立ち消えとなったのは、政局の動きが激しさを加えていたからかもしれない。
 大正時代を迎えるなか、元老の影響力は次第に低下し、議会と軍の力が大きくなりつつあった。
 そんななか、天皇を国家の最高機関と位置づけ、元老による国政支配をよしとせず、国家機関としての議会の役割を重視する達吉の憲法解釈は、明治立憲体制のあるべき姿を示すとともに、大正デモクラシーを牽引する思想として次第に認められていくことになるのである。

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