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水野和夫『次なる100年』を読む(2) [本]

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 ゼロ金利は資本主義にとって「例外状況」だという。
 そんな例外状況が、いま先進国を支配している。
 現在、日本では実質マイナス金利のなかで、企業のROE(自己資本利益率)は、2017年度には8.7%まで上昇している。異常な低金利のもとで、バブルが生じているとみてよい。
 しかし、金融緩和自体によるインフレは現在のところ生じていない(2022年の円安原油高がインフレをもたらしそうではあるが)。日銀はゼロ金利政策を当面、転換しないとしている。
 2011年夏の段階で、一人あたり実質賃金は1997年にくらべ、15.1%も下落している。景気回復がつづいているのもかかわらず、生活水準は下がりつづけている。金融資産をもたない世帯の割合も高くなっている。そのいっぽうで企業利益の増加にともなって、資本家や経営者は年々富を増やしている。これは日本だけの現象ではなく、世界的な現象といえる。貧富の格差が広がっている。
 資本主義がはじまったのは13世紀ごろだ、と著者はいう。
 このころ商人のあいだに富の蓄積をめざす旺盛な利潤追求の精神が生まれた。それまでの農業中心の社会は、こうした利潤観念とは無縁だった。農業社会から商業社会への転換がはじまる。
 利潤を確保するためには、「より遠く、より速く、より合理的に」行動しなくてはならなかった。
 イタリアの商人たちはレヴァント(現在のシリアあたり)に進出し、イスラムとの交易をはじめた。その目的は東方の胡椒を得るためだったという。
 資本とは利息のつくカネにほかならなかった。そこから利子という概念も生まれてくる。「利子とは、現在の貨幣の価値と将来の貨幣との間に存在する差異の別名」にほかならない。
 このころ、教会も利子を公認するようになった。節約、預金、蓄財、労働は教会にとっても、福音書にかなった生き方であり、そこから利子の考え方が容認されるようになった。
 16世紀から17世紀にかけては、大きな転換があった。資本家第一号は海賊のフランシス・ドレイクだ、と著者はいう。ドレイクがスペインから略奪した財宝をイギリスに持ち帰り、そこから資本の膨張がはじまる。
 労働力の搾取をはじめとして、暴力的な資本蓄積こそが、資本主義の原動力だったという。そのころイギリスの東インド会社はインド支配を強めようとしていた。
資本を「蒐集」しようという衝動はこの時代にさらに高まる。科学革命が資本主義のもとでの合理的経済人の行動を後押しした。
 さらに18世紀から19世紀にかけての産業革命がある。とりわけ19世紀半ばの石油の発見は、機械による効率化と連動して、労働生産性を飛躍的に高めた。
 こうして13世紀以降、資本主義は国家とともに段階的に発展していく。経済的合理性を備えた近代的市民も登場した。
 著者が資本主義の起源にこだわるのは理由がある。

〈資本主義の起源を求めないことには、資本主義の先行き、さらにはその終わりが決められない。資本主義の原型の誕生は「利子」の公認にあるとすれば、ゼロ金利はその終焉を意味していることになる。21世紀にゼロ金利が長期化している事実と利子論から導かれる結論を考えれば、資本主義はすでに終わっていることになる。〉

 すなわち、利子こそが資本主義の指標である。その意味については、これから考察されることになるだろう。
 それにしても、現在も「海賊資本主義」が世界をおおっていることを著者は指摘する。油断も隙もならないGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)は現代の海賊だという。自然災害や金融危機、戦争などのショックに便乗して荒稼ぎする企業は後を絶たない。IT技術のつくる「電子・金融空間」(サイバー空間)が人びとの欲望を吸い取っていく。

〈経済活動が生み出す雇用と所得は実物投資空間、具体的には土地と密接に結びついていたが、「電子・金融空間」の創設がそれを断ち切った。13世紀半ばに資本と利子の概念が誕生して以来、資本の増強は雇用を増やし生活水準を向上させたが、ショック・ドクトリンは資本と雇用(市民)のリンクを断ち切ってしまった。〉

 危機や幻惑をつくりだし、混乱に乗じて荒稼ぎする資本主義のやり方は16世紀も21世紀も変わらない。21世紀においては、それはますますグローバル化している。アメリカでは新自由主義の導入とともに、上位1%の人に富が集中し、下位50%の人の生活は低下するようになった。
 金利が公認された「中世の秋」とゼロ金利の「近代の秋」を著者は比較する。
 中世の秋は中世が終わりに向かい、都市化と資本主義が幕を開ける時代だ。
それにたいし、近代の秋においては、まだ新しい兆候はみられない。資本主義がますます猖獗(しょうけつ)をきわめ、世の中はいまだに身分制が大手を振っているようにみえる。
 資本主義ははたして終わろうとしているのか。
「新しい時代の始まりが古い時代の終わりに先行しないかぎり、新しい時代は到来しない」。そのような新しい芽がどこにあるのかを、著者は探ろうとしている。
 事実上のゼロ金利政策が四半世紀もつづいていることが、ポスト近代の始まりだ、と著者はいう。政府・日銀、財界は成長戦略と異次元金融緩和によって近代を維持しようとしているが、それはうまく行くはずがない。
 海賊資本主義が跋扈(ばっこ)している。企業は節税に励み、できるだけ利益を確保しようと必死だ。そんななか労働分配率が低下し、格差が広がって、社会のモラルも失われようとしている。
 まさに現在は「歴史の危機」にある、と著者はいう。
「ゼロ金利で『成長の時代は終わっている』にもかかわらず、それを取り戻そうとして日本政府はあらゆる政策を総動員しているが、それはせいぜい『近代の秋』を延長することにしかならない」
 だとすれば、次なる100年はどういう時代になるのか。そのことを著者は問おうとしている。

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