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大正の即位礼──美濃部達吉遠望(36) [美濃部達吉遠望]

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 大正天皇の即位礼が実施されたのは1915(大正4)年11月10日のことである。場所は京都御所の紫宸殿(ししんでん)。時の首相は77歳になった大隈重信で、20年ほど前のテロ事件で右脚を失っていた大隈は、それでも衣冠束帯を身につけ、正面の階段を上り下りした。
紫宸殿には新たに高御座(たかみくら)が新調され、大正天皇みずから勅語を朗読した。そのあと、大隈が寿詞(よごと)を唱え、万歳を三唱し、儀式は無事終了した。
 この即位礼はそれまでのような宮中儀式としてではなく、国民的行事として実施された。そのため即位礼には外国の代表を含め2000人が参列し、紫宸殿の前庭には色鮮やかなのぼり(旙[ばん])がひるがえっていた。
 その後、天皇の即位礼は、大正の即位礼を踏襲することになる(ただし平成から場所は東京となった)。その点からすれば、大正の即位礼をどのように実施するかは、重要な問題だった。
 大礼をめぐる議論は山本権兵衛内閣の時代からはじまっていた。
 1914(大正3)年3月、美濃部達吉は雑誌『太陽』に「大礼使官制問題に就(つい)て」という論考を発表している。大礼使とは、今風にいえば、即位の大礼を司る委員会のようなものだ。それを宮内官とするか、それとも国の官職とするか、またその官制を皇室令で定めるか、それとも勅命で定めるかをめぐって論争があった。
 政友会に支えられていた薩摩閥の山本内閣は、大礼使は国の官職とし、内閣総理大臣の監督下に置き、その官制は勅命によって定めるとした。これにたいし、故桂太郎の結成した立憲同志会から猛烈な反対意見が巻きおこり、この問題をめぐって議会でも激しい政府攻撃がなされた。
 とりわけ立憲同志会が批判したのは、大礼使の職制を宮中に置くのではなく、内閣総理大臣に属するものとした点だった。大礼のことは、すでに皇室典範や登極令に記されている。したがって、それを担当する大礼使が宮中官であるのはとうぜんで、総理大臣がそれを管轄するのはまちがっているというわけである。
 これにたいし達吉は、大礼は単なる皇室の事業ではなく、国家の事業だと論じて、政府の主張を擁護した。
「天皇が国家の元首として行わせたもうところは、たとえこと皇室に関するものといえども、なお国家の事務[事業]にして純然たる皇室の事務ではない」
 即位と大嘗祭の大礼は、たとえ皇室令で規定されているとしても、国家の元首としての天皇にかかわることである以上、単なる皇室事業ではなく、国家の事業なのである。もし大礼を国家の事業ではなく、皇室の事業だとするなら、大礼にかかわる費用はすべて皇室費から計上されなければならないことになる。
 即位の礼も大嘗祭も新天皇が国家の元首たる地位につかせたもう大礼であって、大礼をおこなう主体は皇室ではなく国家であることは明らかだ、と達吉は主張する。その事務を管掌するのが宮中官ではなく、国の官吏であっても、少しも不思議はない。そして、その官制は最終的に内閣総理大臣の管轄下に置かれるべきだ。
 皇室令のひとつである登極令には、天皇の践祚(せんそ)即位にあたっては宮中に大礼使を置くと定められているが、大礼が単なる皇室事業ではなく国家事業である以上、大礼使を宮中に置くという規定は、ただ宮中においてその事務を管掌するというだけのことだ、と達吉はいう。
 登極令が大礼の内容について定めていることは確かである。だからといって、大礼そのものが皇室令によらなければならないというわけではない。大礼が政府全体がかかわる国家事業である以上、それが勅命によるべきことはいうまでもない。
 そもそも、枢密顧問官も侍従武官もすべて勅命によって定められているのは、いずれもその身分が国の官吏だからである。同様に大礼使がまた国の官制として、勅令によって任命されることはとうぜんである、と達吉は論じた。
 皇室令によって定めることができるのは、皇室典範にもとづく諸規則、宮内官制、その他、皇室の事務に関する規定にとどまる。国に関する事業は、たとえ皇室に関連するとしても、皇室典範にもとづく諸規則のほかは、皇室令によって規定されるべきではない。
 達吉はそう主張し、山本内閣の措置を妥当とした。
 だが、すでに山本内閣はもたなくなっていた。1月にドイツのシーメンス・シュッケルト社東京支社が海軍の高官に賄賂を贈っていたことが発覚し、さらに軍艦「金剛」の建造をめぐるイギリスのヴィッカース社による収賄も明らかになって、政府を糾弾する声が民衆のあいだからも高まっていた。この声に押される格好で3月24日に山本権兵衛内閣は総辞職し、難産の末、4月16日に大隈重信内閣が成立することになる。
 ほんらい、大正の大礼はこの年11月におこなわれる予定だった。ところが、その4月9日に沼津御用邸で静養していた明治天皇の皇后、昭憲皇太后(ちなみに大正天皇の生母は柳原愛子)が亡くなったため、1年間延期されることになった。
 その後、勅令により、大礼使総裁には伏見宮貞愛(ふしみのみやさだなる)、同長官に侍従長の鷹司熙通(たかつかさひろみち)、以下御用掛、事務官などが任命された。
 達吉の提起した大礼使論議は、政局の混乱にまぎれて、ほとんど注目されることがなかった。しかし、この一見煩雑な論議の背後には、憲法上、大きな問題が隠されていたといえるだろう。
 明治体制の統治機構は天皇親政がタテマエである。そこには宮内省、内大臣府、侍従長、枢密院などに守られた堅固な天皇の城が築かれていた。
 問題は、その天皇の城が、国家の外につくられているのか、それとも国家の内につくられているのかの認識のちがいだったといってもよい。時の権力者はおうおうにして、天皇の城を雲の上の存在にしたがっていた。
 達吉は天皇は国家の上にあって国家を統治するものとは考えない。天皇はあくまでも国家の内にあって、統治の最高機関として位置づけられるのだ。
 明治天皇のときに倣って即位の大礼を宮中行事とするのは、一見正当なようにみえて、それは皇室を国家の外に、そして国家の上に位置づけようとするこころみなのである。近代国家において、天皇は国家の元首にほかならないのだから、その即位礼ならびに大嘗祭は、まさに国家行事にほかならず、ひいては国民の行事なのだというのが達吉の考え方だった。
 こうして、いつのまにか立憲同志会の主張はうやむやとなり、大正の大礼ははじめて国家行事として、さらには国民の行事としておこなわれることになった。山本内閣が海軍汚職事件によって退陣したことも、論戦の収束をうながしたにちがいない。
 早稲田を拠点として相変わらず怪気炎を上げていた大隈重信が、16年ぶりに総理大臣の座を射止めるのは、山本権兵衛の次の総理に頭を痛めた元老たちが、大隈にやむなく白羽の矢を立てたからである。
 依然として、元老が政府の首班を決定する時代がつづいていた。山県有朋、井上馨、松方正義、大山巌は元老会議を開いて、最初、貴族院議長の徳川家達の名前を挙げたが、徳川は辞退する。つづいて司法大臣などをつとめた貴族院議員の清浦奎吾が推薦され、清浦に大命が下った。だが、組閣工作がうまくいかなかず、清浦は組閣を断念する。その結果、山県有朋が強く推し、井上馨も賛同して、国民に人気のある大隈が、高齢にもかかわらずふたたび総理に選ばれるという結果になった。
 こうして、大正の即位礼は大隈内閣のもとで挙行される。
 その大礼は、大嘗祭、伊勢神宮、神武天皇陵、伏見桃山陵参拝などを含めると20日以上の日程におよんだ。
 大正天皇は1915(大正4年)、11月6日に東京駅を出発し、途中名古屋で1泊し、7日に京都にはいった。沿線では多くの人びとが動員され、奉祝の光景がくり広げられた。
 原武史によると、11月10日の即位式では、こんなエピソードがあった。

〈11月10日に行われた紫宸殿(ししんでん)の儀では、高御座(たかみくら)の天皇が勅語を朗読してから、大隈が国民を代表して、寿詞(よごと)を奏上し、天皇に向かって万歳を三唱する午後3時30分に、植民地を含む全国で一斉に万歳を叫ぶことになった。実際には足の不自由な大隈が歩行に時間を費やしたたため、大隈がまだ寿詞を読んでいるうちに万歳を唱える結果となったが、その光景は確かに、京都だけで見られたわけではなかった。〉

 この日、京都や東京だけでなく、全国津々浦々、いや台湾や朝鮮でも、祝砲や祝笛、祝鐘が鳴らされ、万歳の声が上がった。
 大正の大礼は、天皇をめぐる国民的行事の原型をつくりあげたといえるだろう。
 国家と天皇と国民を一体化しようとする動きがますます強まろうとしている。
 そのころまだ大正天皇は健康を保っていた。

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