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重田園江『ホモ・エコノミクス』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 19世紀にはいると、労働者に支持される社会主義とブルジョア層が擁護する自由主義という二つの陣営が生まれた。
 しかし、市場を重視する経済学は、科学主義の立場から、自然と同様に社会のメカニズムを探ろうとした。その前提となったのがホモ・エコノミクス、すなわち経済人の仮説だった、と著者はいう。
 リカードは『経済学および課税の原理』(1817年)によって正統派の経済学を確立した。ミルはリカードの理論を引き継ぎ、社会科学としての経済学の樹立をめざした。
 ホモ・エコノミクスの原像がつくられている。著者によると、それは「欲望を持ち、その欲望の対象が富であることをあらかじめ定められた個人、そして富の獲得のためにとるべき手段を相互比較し、合理的に選択できる個人である」。
 こうしたホモ・エコノミクス仮説にたいして、多くの批判が巻き起こった。富は一概に規定できない。富には歴史的な背景があるし、流行によっても変わる。さらに欲望は自分のためだけともいえない。子どもに財産を残そうとしたり、人のために尽くそうという考えもあるだろう。利己的動機が経済活動の大部分を占める社会は、近代だけだ。それにはたして、個人が市場において完全な情報を把握して、合理的に行動するものとも思えない。
 こうした論争は、すでにドイツでもくり広げられていた。とりわけ注目されるのが、オーストリア学派の創始者カール・メンガーだ。メンガーは歴史学派から学びながらも、歴史的な国民経済学ではなく、一般経済学の確立をめざした。
 著者によると、メンガーは「経済理論が行うべきは、人間の経済生活の中で最も枢要な、個人の財獲得に向けた努力とそれに基づく経済の仕組みについての体系を作ること」だと考えたという。その前提となるのが、いわば理念型としての経済人だった。
 メンガーは一定の前提のうえに純粋経済理論を打ち立てた。だが、それはしばしば前提抜きの一般理論として拡張され、政治的に利用されていくことになる。たとえば、メンガーが「人間がホモ・エコノミクスであると仮定しよう」としたのにたいし、その後、それは「人間は事実としてホモ・エコノミクスだ」、さらには「人間はホモ・エコノミクスとしてふるまうべきだ」という方向に変形されてしまう。それをおこなったのが、メンガーを引き継いだハイエクだという。
 19世紀後半になると、経済学はどんどん数学化への道を歩む。数学化を推し進めたのがジェヴォンズとワルラスだ。
 経済学が数学化されるさいにも、その根底には抽象化され現実離れしたホモ・エコノミクスの概念が用いられた。快楽は善とされ、そこからさらに限界効用逓減の法則が導入される。労働価値説に代わって、主観価値説、すなわち効用学説が経済学の基本になっていく。
 ジェヴォンズの経済学に登場するのは、快楽と苦痛を計量して、商品を購入し消費するホモ・エコノミクスである。その行動基準は効用であり、限界効用は逓減する。
 商品の価値はそこに加えられた労働によってではなく、市場での交換によって決まる。ものすごく苦労してつくったものでも、欲しい人がいなければ値段がつかない。逆にどんなつまらないものでも、欲しい人がいれば値がつく。
 商品の価格は需要と供給が一致する点において均衡に達する。こうして市場に商品を携えて登場する人間は、てこの原理にしたがって、均衡に達するまで行動することになる。
 経済の世界を数学化したワルラスは、限界効用逓減の法則から需要曲線を導きだし、さらに一般均衡を論じていく。そこには古典力学の世界観が反映していた、と著者はいう。すなわち動きつづける経済は、静的な状態に還元してとらえることは可能だという考え方である。
 ワルラスは、経済学とは、心的事象を数学的事象として扱う人間科学だと規定した。主観的な効用は計測しうるし、量的な価値を有する富もまた数学的な事象として取り扱うことができる。
ここから効用関数と効用の極大化条件が導きだされる。需要と供給が均衡して交換がおこなわれる点が交換極大点となる。
 この力学的世界に登場するのは、典型的なホモ・エコノミクスだ、と著者はいう。
「つまりここには、ただ一つの要素(効用極大化)だけを考慮して正しく意思決定をする、まったくブレないマシーンのような、あるいは運動する質点のような人間しか出てこないのである」
 力学との類比がおこなわれたことによって、経済学には何がもたらされただろう。
 人間はホモ・エコノミクスとしてとらえられるようになる。すなわち「欲望を所与として厳密な法則にしたがって行動する孤立した単位」。
 つまり、 ホモ・エコノミクスたる人間は、市場のメカニズムの一単位となっていく。
 もはや欲望とは何かを問う必要はない。
「経済学の解析化は欲望の中身や人の心の内側を問うことを不要にした」。「それはホモ・エコノミクスという人間像の妥当性を問う回路を、数字と関数と方程式によって閉ざし、失わせたとも言える」
 近代経済学においては、諸条件の組み合わせからなる実験的状況のもとで、因果メカニズムが追求される。そこでは外部が切り離される。すなわち市場が外部に与える不利益は無視される。
 はたして、市場メカニズムはプラスだけをもたらしているのだろうか。じつは、市場交換によって世界じゅうにばらまかれる商品は、自然と労働の搾取によって生みだされ、消費プロセスでそれらをゴミとして排出している。そのことがしばしば無視されている、と著者はいう。
 ワルラスの体系には、いわば熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)はあっても、熱力学第二法則(エントロピーの法則)はない、とも述べている。
 とりわけ産業革命以来の化石燃料の消費は、地球に不可逆なカオスをもたらしつつある。水や砂ももはや無尽蔵ではない。牛という生き物も、いまや牛肉や牛乳、乳製品の製造機のように扱われている。市場メカニズムは、その外部を見ないふりをすることによって成り立っているのだ。
 著者はいう。

〈ここで再度確認しておきたいのは、次の事柄だ。[経済学とは]現実の具体的世界から市場を切り離し、生命の循環や自然環境の全体を、「交換可能な財」という孤立し数値化された単位へと縮減してしまうこと。経済学の科学化の思想と運動、そしてその中心にあったホモ・エコノミクスの人間像は、このことに大いに関係してきた。それが私たちが生きる熱くなった地球に起きている、異常気象や環境破壊、動植物の種の絶滅など、「人新世」と呼ばれる時代に生じている末期的事態の、原因の一つであることはたしかだ。〉

 つづく。

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