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重田園江『ホモ・エコノミクス』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 20世紀にはいると、数理経済学はますます、精緻化され、多様化していく。数理経済学の発想は経済学にとどまらず、それ以外の分野にも広がっのルールとメカニズムにしたがって行動することを余儀なくされるようになる。
 ここで著者が取りあげるのが、シカゴ学派の論客ゲイリー・ベッカー(1930〜2014)だ。かれは経済学的思考(ホモ・エコノミクスの論理)をあらゆる人間行為に拡張した。
 たとえば、人種差別や犯罪に関する経済学というのもあるが、興味深いのは「人的資本」という考え方である。
 それまで人的資本は労働力としか評価されていなかった。しかし、人間は資本なのだ、とベッカーはいう。それは企業にとっては収入を増加させる要素となるし、家計にとっては文化的な消費を増大させる要素となる。
 企業は収益改善のために設備投資をおこなうだけではなく、同時に人への投資をおこなう。たとえば職業訓練や研修、あるいは職場環境の改善などだ。モノと同じくヒトも投資すればリターンがある。
 人的資本にどれだけの投資がなされるかは期待収益率によって決まる。投資をしても将来、それに見合う収益が得られそうにないと判断されれば、それが投資の限度になる。
 つまりこれは、人は資本というより、商品そのもの、あるいは商品を生む商品としてとらえられているということである。
 著者は「人的資本論の最大の特徴は、教育を投資と収益の観点からのみ捉えるところにある」としたうえで、みずからの職場である大学をも人的資本を生産する企業とみるベッカーの考え方に強く反発している。しかし、これがいまの大学の現状でもある。
 さらに著者はセオドア・シュルツ(1902〜98)の農業経済学にも注目する。シュルツは農業のビジネス化を唱えた。現代のアグリビジネス企業、バイオ企業によるグローバルな農業支配をもたらす経済学を切り開いた人物だ。
 慣習的農業の近代化、ビジネス化がシュルツの目標だった。ロックフェラー財団とフォード財団は、このシュルツの考え方にもとづいて、開発途上国での「緑の革命」プロジェクトを立ち上げた。それはあくまでも先進国に都合のよい革命だった。
 農民に近代的農業にたいする知識を学ばせ、農家を農業経営者に変える。そのうえで、品種改良した種子や化学肥料、農具や機械を購入させ、大量の農作物をつくらせる。
 農業をあくまでも投資と収益でのみとらえるのが、シュルツの考え方だ。 土地は農産物の工場となり、生産性と効率性のみが求められる。
その結果、人びとはますます都市に流れ、農村は再生不可能なほどのダメージをこうむった、と著者は指摘する。
 経済学的思考に先導されて、世界の隅々までたえまなく商品世界を浸透させていく圧力は、人びとにはたして何をもたらしたのだろうか。
 ゲームの理論、社会的選択理論、行動経済学といった新しい経済学のジャンルについて、ぼくはほとんどわからない。
 ここで、著者が論じるのは、そうした新しい経済学が政治学にも適用されているということである。
 アンソニー・ダウンズは『民主制の経済理論』において、投票行動を市場における商品売買と同じととらえた。ここでは、有権者の選択によって政治家が選ばれ、多数派をなす与党によって政策が実践されると想定される。
 有権者が候補者に投票する基準は、候補者の政策がどれだけ自分のメリット、デメリットになるかである。政党もまた得票の最大化をめざして行動する。つまり、政党のつくりだす政治のイメージは、有権者によって買われるというわけだ。
 いっぽう、ジェームズ・ブキャナン、ゴードン・タロックの『公共選択の理論』は、社会的ルールや政策がどのように決定されるかを論じる。
 新たな社会的ルールや政策が受け入れられるのは、個人がそれによって課される費用より便益が上回ると考えたときのみだとされる。
 政策の決定は、個人と政治共同体との取引、交渉、合意によってなされる。こうして、都市計画や道路計画などにしても、人びとは「利益と費用を勘案しながら政治的アクターとしてさまざまな決定に参加する」。
 これがブキャナンらがえがいた民主社会のルールだという。
 もちろん、政治過程の経済主義的なとらえ方にたいしては反論もある。
コリン・ヘイは『政治はなぜ嫌われるか』のなかで、ダウンズやブキャナンらの考え方を批判している。
 有権者はみずから政治家や政策を選んでいるようにみえて、じつは政党による世論操作に操られているのだ。政党が流すのは、政治家や政策のつかみどころのないイメージにすぎない。
 有権者が投票によって、どのような効用を得られるかは定かではない。すると、人気商品をイメージにつられて買うように、政治家を選ぶことにばかばかしさを感じる人もでてきて、棄権が増えてくる、とヘイはいう。
 著者はさらにつけ加える。
 低成長時代にはいると、民営化、規制緩和、構造改革、財政規律といった新自由主義的な公共選択がいかにも正しいかのように受け止められるようになった。官僚不信が根強いこともあって、民営化論、市場化論はますます広がっていく。民間へのアウトソーシングも推奨されるようになった。
 だが、それはほんとうに正しかったのか。公的機能の縮小が生みだした脱政治化のプロセスは、むしろ政治の無責任と民間への責任の押しつけという現象を生みだしたのではないか、と著者は指摘する。
 人間をホモ・エコノミクスととらえる見方は、商品世界をさらに進展させた。そこでは人は商品世界のまさに一部となり、そのルール下で競争することを強いられ、そこからはみだす者は排除される。監視社会の傾向がますます強まっている。
 著者は最後にこう書いている。

〈相変わらずホモ・エコノミクス[「富を追う人]、「自己利益の主体」]はじわじわといろいろな場所に浸透し、世界を動かす原動力になりつづけている。私たちは知らぬ間に、その人間像を前提とした社会の「構え」にがんじがらめにされている。〉

 人間はけっしてホモ・エコノミクスなどではない。それなのに、なぜこんな無慈悲で残忍な人間像が、いまだに世を支配しているのだろうか。
 ホモ・エコノミクスの図式からの脱却をはからなければならない。

〈今後は、経済学の自己抑制と社会的価値観の転換が同時に起こらなければ、「人類が生存する地球」という未来は存在しなくなってしまうだろう。私たちはそういうところまで、将来を食い潰して暴利を貪り、取っておくべきものを先取りして蕩尽し、地球上にいる多くの他者を犠牲にしてきたのだ。〉

 難解な本ではある。しかし、時に自分もホモ・エコノミクスになっていないかとふり返るのもだいじだろう。

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