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米国憲法を論じる──美濃部達吉遠望(40) [美濃部達吉遠望]

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 1918年(大正7年)11月に美濃部達吉は有斐閣から「米国講座叢書」の第1冊として『米国憲法の由来及(および)特質』を出版した。日本初の本格的政党内閣といえる原敬内閣が軌道に乗りはじめたころである。
 東京帝国大学で米国講座がもたれることになったいきさつを、当時の山川健次郎総長は本の序文でこう説明している。
 昨年夏、ニューヨークのチェースナショナル銀行頭取ヘボン(アロンゾ・バートン・ヘップバーン)氏から、渋沢栄一男爵のもとに1通の手紙が届いた。両国間にはさまざまな対立があって、日米戦争はとうてい免れないという人もいるほどだ。しかし、日米はともに人道と文明を擁護する国なのだから、敵どころではなく味方どうしの関係にある。わたしは両国の友誼を深めるため、東京大学に国際法ならびに日米親善のための講座を設けることを希望し、そのための寄付を申し出たい。ヘボン氏の手紙にはそんなことが書かれていた。
 その手紙を持って東京大学に渋沢栄一氏が来られた。大学としては慎重に検討した結果、大学に米国憲法あるいは米国史の講座を置くことにした。また相当の人を米国に派遣して米国の最近の事情を研究させたいと返答した。こうして、ヘボン氏から多額の寄付が寄せられ、ここに米国講座が開かれることになった。まずは、講演を美濃部達吉、新渡戸稲造、吉野作造の3博士に依頼した。
 1918年2月から3月にかけ、新渡戸が米国史、美濃部が米国憲法、4月から吉野が米国外交について講演することが決まった。しかし、講演ではおのずと聴講者の数が限られている。そのため、この講演録を叢書として公刊することとし、その第1編として、美濃部の『米国憲法の由来及特質』が発行されたのである。
 山川は米国講座叢書発刊の由来をそんなふうに説明している。
 このころ渋沢栄一は実業界を引退し、国際親善や慈善活動、文化事業に専念するようになっていた。精力的な活動はあいかわらずだ。
 渋沢は日米関係委員会なる団体をつくり、日米の実業家を中心に互いの意思疎通をはかる努力をつづけていた。チェースナショナル銀行のヘボン頭取から東京大学に米国講座を設けるよう要請があり、そのため多額の寄付がなされたのは、日米親善にかける渋沢の熱意に応えたものだ。その寄付額は五分利付日本公債12万円と現金3000円だったというから、いまでいうと4000万円程度に当たる。
 2月に東大にいわゆるヘボン講座が設置されると、渋沢はさっそく法科大学の教室におもむき、新渡戸稲造の講演を聞いている。それも一度にとどまらなかった。美濃部達吉による米国憲法講義にも顔を出しているから、相当の熱心ぶりだったといえるだろう。
 翌年5月に将来の米国講座担当者として、高木八尺(やさか)をアメリカに派遣することが決まったことも、渋沢にとっては大きな喜びとなった。高木は栄一の親友、神田乃武(ないぶ)の次男にあたる。
 達吉の米国憲法講義は3カ月ほどつづいて、それをまとめたものが、その年11月には早くも出版された。その内容は、米国憲法の由来、米国憲法の連邦主義、米国憲法の民主主義、米国憲法の三権分立主義からなり、アメリカ憲法の概要をわかりやすく説明することを目的としていた。
 はじめに達吉はこう述べている。

〈米国の憲法は種々の点において、欧州諸国または日本の憲法と異なった著しい特色を備えている。なかんずく、その最も著しい点はおよそ三つある。(1)連邦主義(Federal system)、(2)民主主義(Democratic principle)、(3)三権分立主義( Separation of Powers)これである。この講義の目的とするところは、この三種の特色について説明せんとするにある。〉

 連邦主義、民主主義、三権分立が米国憲法の特徴である。だからといって、米国憲法が大日本帝国憲法より優れているということではない。ただアメリカがこういう憲法を採用している国だと理解することが、アメリカ理解につながるし、これからの日本を考えるうえでも大いに役立つというのが、達吉の考え方だったといってよいだろう。じっさい、日本の政治が民主的傾向をとるべきことを達吉は念願していた。
 達吉の米国憲法論は、きわめて広範かつ詳細にわたるもので、その問題点の指摘を含め、いまでも検討に値すべき学問的研究だと思われるが、ここでその全容に立ち入ることはやめておく。
 だが、アメリカの実業家の寄付により、東京帝国大学内に米国講座が設置されるようになったこと自体が画期的なできごとだった。それは、日米間に波風が立つようになっており、それを解決するための日米相互理解が求められていたあかしでもあった。
 その波風とは移民問題にほかならなかった。移民問題はけっきょく収まることがなく、ついに1924年(大正13年)に、日本側のいう「排日移民法」が成立し、深刻な日米対立の火種となっていく。だが、1918年の時点では、それはさほど大きな問題ではなく、やがて解決されるものと信じられていた。
 蛇足ながら、その経緯をふり返っておく。
 それは1906年にサンフランシスコで大地震が発生したときにさかのぼる。このときサンフランシスコ市当局は、日本人学童を市内の公立学校から東洋人学校に移すことを決定した。
 日本人を白人から隔離して、中国人や朝鮮人と一緒に学ばせるようにするという決定に日本側は反発し、ついには大きな外交問題にまで発展した。サンフランシスコの日本人学童は93人しかいなかったが、日本側の反発は大きく、日米戦争必至という雰囲気さえただようほどだった。
 ここで大統領のセオドア・ルーズヴェルトが市当局の決定に介入する。ルーズヴェルトは、連邦政府が日本人の流入を抑えるよう努力するかわりに、サンフランシスコ教育委員会による日本人学童隔離条例を撤回させた。
 だが、カリフォルニアの白人たちの気持ちは、容易に収まらなかった。各地で反日騒動が発生する。それほど差別感情にもとづく反日意識は根強かったのである。
 1907年から翌年にかけ、日米紳士協定が結ばれた。これにより日本からアメリカ本土への労働移民(ハワイは別)は年500人以下に制限されることになった。その協定では、そのかわりアメリカは満洲における日本の勢力圏を黙認するという了解が含まれていた。
 1908年にはアメリカの艦隊「ホワイト・フリート」が日本を友好訪問し、日米友好の機運が高まる。さらにルート国務長官と高平小五郎駐米大使のあいだで「高平・ルート協定」が結ばれ、それにより日米の戦略的互恵関係が強化された。
 こうして日米間の対立は解消されたようにみえた。だが、そうみえたのは表面だけで、じっさいにはアメリカの排日運動はさらにエスカレートしていく。移民問題は解決したわけではなく、依然として現地では日本人への悪感情や差別は根強かった。
1913年(大正2年)には、カリフォルニア州で外国人土地法、日本側のいう「第1次排日土地法」が成立する。
 日米紳士協定が締結されたあとも、カリフォルニア州では日本人の数が増えつづけていた。いわゆる「写真花嫁」によって、日本人移民が日本から妻を迎え、それにより日系人の子どもも増えていた。
そのころ日本人移民は白人との対立を避けるため、カリフォルニアの田舎に移住し、農地を購入して、農家として生計を立てるようになった。そうした日本人による農地所有を制限することが、「排日土地法」の目的である。
 日本側がこれに抗議したことはいうまでもない。だが、アメリカの軍人のなかには、日本との戦争も辞さないという者もいた。大統領のウッドロー・ウィルソンはそうした動きを抑えた。
 アメリカ側は、日本人による土地所有の制限は人種差別ではなく、あくまでも経済的な理由によると主張した。日本側との議論は平行線をたどった。
 しかし、1914年(大正3年)に第1次世界大戦が勃発したため、排日土地法への日本政府の関心は薄れていく。日本国内での関心もさほど盛り上がらなかった。それよりも、同じ側に立って、ともにドイツと戦うことになった日米の友好関係が尊重されたのである。
 東京大学に米国講座が設けられたのは、移民問題をかかえながらも、日米関係が比較的穏やかだったこの時期にあたっている。
 1917年(大正6年)11月には、前外務大臣石井菊次郎と米国務長官ロバート・ランシングのあいだで、いわゆる「石井・ランシング協定」が結ばれた。この協定で、アメリカは日本が中国に特殊利益をもつことを認め、いっぽう日本は中国にたいするアメリカの「門戸開放、機会均等、領土保全」の主張を認めた。
 ロシア革命によりロマノフ王朝が崩壊し、「日露協約」が紙切れ同然になったことを知った日本政府が、こんどはアメリカを相手に中国での権益を必死になって守ろうとしたと見られなくもない。
 また、日本はカリフォルニアの排日土地法に目をつぶる代わりに、満洲の権益保全をより強固なものにしようとしたともいえるだろう。
 日米関係はこれで一見落ち着いたかに思えた。だが、そうではなかった。
 1920年(大正9年)に、カリフォルニアでは「排日土地法」がさらに強化され、日本人による農地保有はさらに難しくなる。さらに、これに追い打ちをかけるように1924年(大正13年)に、連邦議会においていわゆる「排日移民法」が成立するのである。
 こうして日米対決の構図がますます鮮明になる。日本国内では反米感情が高まっていく。アメリカはいよいよ日本の対中国政策を懸念するようになった。
 話が先に進みすぎたかもしれない。
 いまはまだ1918年(大正7年)の時点である。東大の「米国講座」で米国憲法について講義したとき、達吉は日米関係がこれほど急速に悪化していくとは思いもしなかったはずである。

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