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近代産業社会の社会構造──富永健一『近代化の理論』を読む(2) [本]

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 ぼく自身はばくぜんと、社会とは人間集団の共同体を指すと考えている。国家は社会を包摂する政治組織体にほかならないが、外的にみれば、それ自体、ひとつの共同体であるという面で、ひとつの社会だとみることもできる。
 国家と社会は別の存在だが、社会をくるんでいるのは国家であって、社会が国家をくるんでいるわけではない。とはいえ、国家は社会によって支えられており、社会と国家の関係にはつねに緊張感がある。
 国家は革命や併合(征服)、分裂によって生成・消滅することはあっても、国家そのものが消滅することはない。こうした考え方は滝村隆一に由来するものだ。
 こんなことを考えはじめると、頭がこんがらがってくる。

 日本では明治以前に「社会」ということばはなかった。
 社会は翻訳語で、福地源一郎がsocietyを社会と訳した。それらしいものをそれまで日本人は「世の中」とか「世間」と呼んでいた。
 しかし、社会という翻訳語が登場すると、社会はたちまち日本人のあいだに定着していった。
 著者によると、広い意味で、社会とは自然にたいして人間のつくったものを指すとされる。しかし、それではあまりにばくぜんとしている。
 そこで、もっと限定的に、社会とは多くの人間によってつくられた関係のシステムだという規定がでてくる。具体的には家族、企業、学校、村落、都市、国民社会、国家などからなるシステムである。さらに、このシステムは群衆や市場、社会階層、民族、国際社会といったサブシステムをもっているという。そして、システム全体を統合するのが国家だ。つまり、国家によってつつまれている社会を研究するのが社会学であって、国家を含むその全体を社会と呼ぶなら、そのシステムは国際関係(国際社会)によって、つねにチャレンジを受けているともいえる。

 著者は「社会構造」と「社会変動」というとらえ方を示しているので、それに沿って、問題を整理してみることにしよう。
「社会変動」についてはあとで論じられる。まず「社会構造」とは何かということだ。社会構造は静態的なとらえ方で、いわば社会のいまを断面的かつ抽象的に切り取ったものだ。だが、それはけっして静態的ではありえず、社会変動の波にさらされているという構図が浮かび上がるだろう。
 いずれにせよ、社会には構造があるとされている。
 しかし、社会構造を定義するのはむずかしい。
 著者はこんなふうに言っている。

〈社会構造とは、社会を構成している次のような構成諸要素のあいだの相対的に恒常的なむすびつきとして定義されます。それの構成諸要素としては、個人行為にちかいレベル(ミクロ・レベル)から全体社会のレベル(マクロ・レベル)までいくつかの段階が区別されることになるのですが、それらをミクロからマクロに向かって順次に、役割・制度・社会集団・地域社会・社会階層・国民社会というように配置することができるでしょう。構造分析をこれらの諸段階のどのレベルで考えるかは、社会構造の概念化におけるレベルのとり方の問題であり、構造概念自体としてはどのレベルで考えるかはまったく任意です。〉

 残念ながら、ぼくなどには何が書いてあるかさっぱりわからない。
 要するに、社会というのは複雑なつくりから成り立っているらしいということがわかる。
 その基礎になるのは家族(ミクロ・レベル)だが、そこからはじまって組織(企業や団体)、地域社会、国民社会(マクロ・レベル)にいたる結びつきがあって、社会階層という区分けも厳然とある、その全体の関係を社会構造と呼ぶ、とでも勝手に解釈しておくことにする。
 社会構造を考えるには、どのレベルをとってもいい。どのレベルをとっても社会構造の全体が見えてくる。それは一種の透視画法のようなものだ。
 また、社会には、決められた制度があり、そのなかで人は割り振られた役割をはたすものと考えられている。
 だが、そういっただけではあまりに抽象的だ。

 そこで著者は、現代のモデルと考えられる近代産業社会を取りあげて、その社会構造を分析しようとしている。
 近代産業社会の特性は、機能分化、すなわち分業だ。近代産業社会は「それ以前の社会構造に比して、格段にこまかく分離した多数の構造的構成要素」から成り立っている。
 とりわけ注目されるのが、家族と組織の分離だ。
 封建時代においては、家族が共同生活の単位であると同時に経営の単位でもあった。それは農民でも商人でも同じで、そのとき「家」は家父長制の形態をとっていた。
 近代産業社会においては、家族は経営的機能を喪失して、消費生活の単位に純化し、経営的機能は組織によって担われることになる。こうした分離は一挙に生じたわけではなく、何十年、何百年かかって起こった。これによって、家父長制家族は解体し、核家族が誕生した。
 すると基礎集団である核家族と機能集団である組織(企業など)とのあいだに関係が生じることになる。そのとき家族の成員は組織の成員でもあるというダブル・メンバーシップを得ており、社会的にみればエンプロイー(被雇用者)社会が生まれたことになる、と著者は書いている。
 核家族と組織は持続的な相互依存関係にあり、そこには相互交換が発生する。
 具体的に、それは

 労働市場
 消費財市場
 金融市場
 社会的交換

 ということになる。
 労働市場において、企業は家族から労働サービスを得、家族は企業から賃金や給与を得る。
 消費財市場において、企業は家族に生産物を売り、家族は企業から消費財を買う。
 金融市場において、企業は家族の貯蓄から資本を借り、家族は企業から利子や配当を得る。
 社会的交換において、家族は企業から与えられた地位や権力、名誉を得る。

 ただし、ここで気をつけなければならないのは、家族はひとつではなく、企業もひとつではないということだ。実際には無数の家族と無数の企業があって、その関係は複雑にからみあっている。その複雑にからみあった家族と組織の関係からなる地理的なかたまりを地域社会あるいは国民社会、とらえ方によっては都市と村落と呼ぶことができる。
 こうした地域社会あるいは国民社会は、地域行政組織(自治体)や国家によって統合され、税と引き換えにさまざまな行政サービスを受ける関係にある。
 近代産業社会のこうした社会構造を、著者は個別の領域にわたって、さらに詳しく論じていくことになる。(つづく)

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