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治安維持法改正──美濃部達吉遠望(53) [美濃部達吉遠望]

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 初の普通選挙が実施されてから、ひと月もたたない1928年(昭和3年)3月15日、治安維持法違反容疑で日本共産党関係者にたいする一斉検挙がおこなわれた。
 検挙されたのは約1600人。このとき名簿上の共産党員は409人だったから、そのシンパも根こそぎ逮捕されたことになる。そのうち起訴されたのは488人だった。意外と起訴者が少なかったため、田中義一内閣は治安維持法の改正と強化をもくろむことになる。
 日本共産党は1922年(大正11年)7月15日に結成された(4月24日に準備委員会が発足)。背景にはいうまでもなく日本の貧困とロシア革命の成功がある。主要メンバーは堺利彦、山川均、近藤栄蔵(アメリカ亡命中の片山潜の代理人)、荒畑寒村などだった。
 この第1次共産党は関東大震災をへて分裂し、1924年4月半ばに解党した。再建されるのは1926年12月である。一時は理論面で福本和夫が大きな影響力をもった。だが、前衛党建設優先の福本イズムはコミンテルンから「左翼小児病」と批判され、委員長の徳田球一も辞任する。
 そして、1927年12月にはブハーリンの執筆した「1927年テーゼ」がだされ、それにもとづき、共産党は佐野学委員長のもとで、ふたたび活発な組織活動を開始する。その矢先に「3・15事件」が勃発し、共産党員やそのシンパと目される学生や労働者が一斉に逮捕されるのである。
 この事件が解禁になって新聞に報道されたのは1928年4月11日のことである。
 美濃部達吉は4月30日の『帝国大学新聞』に「暗黒政治の時代」と題する時評のなかで、こう記している。

〈今や共産党事件の爆発に際し、政府はにわかに思想の圧迫に努めている。しかしすべて思想は思想のみの力をもっては社会上にいかなる勢力をも発揮しうべきものではない。思想が実際に社会上の勢力を得るのは、社会上の事象においてその思想の実現を可能ならしむべき原因が存在する場合に限る。もし今日において我が尊貴なる国体に対し、万一にも多少の危惧が存するとすれば、それは思想自身にあるよりも、その思想の実現を誘導する社会事象に存する。〉

 達吉はあくまでも思想の自由を尊重する。共産党を支持しているわけではない。しかし、思想の自由があり、さまざまな意見が自由に表明されてこそ、問題の所在があきらかになり、それを解決する方法も考案される。暴力による思想の圧殺は、政治の責任の放棄でもある。
 田中義一のめざすのが、力の政治、排除の政治であることを達吉は見抜いていた。それは治安維持内閣だった。
 田中内閣は治安維持法のさらなる強化をめざし、4月23日から開かれた特別議会に、治安維持法改正案を提出した。しかし、会期が2週間と短かく、与野党ほぼ同数のなかで、法案は審議未了、廃案となる。すると、政府は帝国議会閉会後にほぼ同じ改正案を緊急勅令案として枢密院に提出した。枢密院は審議の末、この緊急勅令案を了承する。こうして、議会を通すことなく、6月29日に改正治安維持法が公布された。
 達吉はこうした政府の姿勢を「現内閣の他の多くの悪政の上にさらに一つの悪政を加うるもので、それは憲法のじゅうりんであり、はなはだしき権力の濫用である」と批判した。
 さらに枢密院が政府の提出した緊急勅令案をついに可決するにいたったのは、やむをえなかったにせよ、若槻内閣のときとは、あまりにちがっていると評した。「一年前には内閣の倒壊をも顧みず、緊急勅令を否決し、一年の後には内閣倒壊の結果を避くるために、これを可決するのは、その態度において、前後矛盾を免れないことは余りにも明白であって、世論が往々枢密院の政党化を非難するのは必ずしも無理ではない」
 6月29日に公布され、即日施行された改正治安維持法の変更点は3点だった。
 ひとつは従来の治安維持法が、国体の変革と私有財産の否認を目的とする結社を組織し、これに加入した者を、懲役10年以下の懲役または禁固としていたのにたいし、今回の改正では、国体の変革と私有財産の否認を分け、国体の変革を目的として結社を組織し、あるいはそれに従事した者の最高刑を死刑に引き上げていた。
 もうひとつの改正点は、従来の法律が結社を組織した者と結社に加入した者を同様に扱っていたのを、結社の組織者を特に極刑と処すと定めたことである。
 さらに、今回の改正では、結社の組織者と加入者だけではなく、結社の目的遂行に手を貸した者にも刑を科すとされた。目的遂行罪が新設されたのである。これにより、共産党員だけではなく、共産党のシンパ、あるいは共産主義に賛同する者にも、治安維持法違反の網が広げられることになった。
 政府が議会でいったん廃案になった法案にこだわり、さほど緊急とも思えないのに、議会を通さず枢密院によって緊急勅令として改正治安維持法を公布したことは、その内容の苛烈さを含めて、多くの批判を生んだ。
 達吉が治安維持法の厳罰化を批判するのは、おもに2点からだった。
 ひとつは、いま求められているのは、経済組織や政治の腐敗にたいする対策であるのに、そのような対策をとらず、いたずらに思想を弾圧するのはまちがっているという点だ。

〈なかんずく現内閣の組織せられてより以来、地方行政において、植民地行政において、鉄道行政において、特殊銀行の管理において、選挙干渉において、言論の圧迫において、暴力団の利用において、議員の誘惑[買収工作]において、閣僚大臣の選定において、世論は一般に内閣が常に政権を私利または党利のために濫用することの跡著しく、思想の悪化を助成したこと、ほとんど言語に絶するものあることを憤慨している。第一に必要なるは為政者自身の反省である。〉

 もうひとつは、今回の改正が刑法の内乱罪の規定にくらべて、あまりにも厳罰に傾いているという点だった。内乱罪でも死刑に処しうるのは、その首謀者だけで、暴動に関与した者でもせいぜい3年以下の禁固に処されるだけである。それも実際に暴動を起こした場合にかぎられている。

〈しかるにいまだ内乱を起こすにも至らず、その予備または陰謀をなしたのでもなく、ただある不逞(ふてい)なる信念のもとに結社を組織した者は、その役員その他の指導者まで死刑または無期もしくは5年以上の懲役、もしくは禁固に処せられるのである。同一の目的をもってして、現に内乱を起こした者は罪比較的に軽く、結社をなしたにとどまる者がそれよりもはるかに罪が重いのである。暴力をもって朝憲を紊乱(ぶんらん)せんとする者よりも、思想的の結社をなす者を重く罰するのが、いかにして刑の権衡(けんこう[バランス])を得たものと言いえようか。〉

 田中内閣はみずからの失政や腐敗に目をつぶり、思想統制を強化しようとしていること、さらに実際の内乱よりも思想的結社組織のほうが罪が重いことを達吉は批判した。
 もっとも緊急勅令は暫定立法であって、はじめから次の議会で承諾を得ることを条件として発布される。もし次の議会で緊急勅令が承諾を得られなければ、法律はとうぜん効力を失う。しかし、ほんらい議会で審議されるべき法案が枢密院による緊急勅令のかたちで公布されたこと自体に達吉は不条理を感じていた。
 にもかかわらず、政府の多数派工作により、次の通常議会で治安維持法の改正は承諾されるにいたった(1929年1月)。
 そのかん、政府は大逆事件以降1道3府7県に存在した内務省管轄の特別高等警察(特高)を全国に設置し、大幅な増員をおこなった。さらに司法省も思想犯を取り締まる思想検事を主要都市に配置した。
 1929年(昭和4年)4月16日には、ふたたび共産党にたいする一斉検挙が実施され、全国で約700人が逮捕された。これにより共産党は市川正一、鍋山貞親、三田村四郎、佐野学(6月に上海で検挙)などの幹部を失い、決定的な打撃を受ける。
 ちなみにイギリスでは共産党は違法ではなく、あくまでも思想の自由が守られていた。ドイツ共産党は1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を掌握するまで大きな勢力を保っていた。アメリカでも共産党は1950年代まで存続した(現在は復活)。
 しかし、戦前の日本では国体にたいする批判そのものが許されず、特高と思想検事による共産党取り締まりは徹底していた。治安維持法が制定されたころから、日本では天皇の神格化がはじまっていたといえるだろう。
 田中義一内閣の力と排除の政治は国内だけにとどまらなかった。その空気は関東軍にも伝導し、満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)が引き起こされることになる。

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ポスト・モダン批判──富永健一『近代化の理論』を読む(7) [本]

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 著者は近代を前期と後期に分け、現在は近代後期にあたるととらえている。近代はまだつづいており、ポスト・モダンははじまっていない。その伝からいえば、多くのポスト・モダン論はたわごとだということになる。
 しかし、近代後期とはどんな時代なのか。
それを言いあらわす代表的概念が、ポスト工業社会と情報社会である。ポスト工業社会を唱えたのはダニエル・ベルで、情報社会はコンピューター工学に由来する。往々にしてごっちゃに論じられるポスト工業社会と情報社会という概念は、はっきりと区別されなければならないという。

[ポスト工業社会]
 そこで、まずポスト工業社会についてだ。
 Post-industrial society を、著者はポスト産業社会(あるいは脱産業社会)ではなく、ポスト工業社会としてとらえる。なぜなら、工業の時代が終わっても産業社会はつづいているからだ。
 ポスト工業社会の特徴は、(1)産業が第2次産業から第3次産業中心に移行したこと、(2)ブルーカラーにたいするホワイトカラーの優位、とりわけ専門・技術職が求められるようになったこと、(3)労働形態が経験知識中心から理論中心に移行したこと、(4)技術管理と技術評価が重視されるようになったこと、(5)意思決定に関して新たな知的技術が導入されるようになったこと、などだという。
 先進国において工業(第2次産業)が産業の中心でなくなったのは。オートメ化、ロボット化の進展によりブルーカラー労働者が不要になったこと、さらには工場が発展途上国に移転したなどによる。そのため、多くの労働者がサービス産業部門へと移行することになった。
そうした広い意味でのサービス産業、つまり第3次産業には、卸売や小売、飲食店、金融、保険、不動産、運輸、通信、公益事業、公務、保健、教育、研究など多岐な職種が含まる。

[情報社会]
ポスト工業社会は即情報社会を意味するわけではない。ポスト工業社会にたいし、情報社会は日本でコンピューター関係者によってつくられた概念だという。
著者の理解するところでは、「情報社会とはコンピューターと通信ネットワークとがつながれた情報インフラストラクチュアの普及が高度にすすんだ社会」を意味する。つまりパソコンとスマホの世界である。
 意外なことに、著者はこうした情報社会の進展に大きな危惧をいだいている。
 コンピューターは電気通信メディアで、その機能と広がりは無限であるようにみえるが、情報は経験にもとづく主観的内面をもつ知識とちがい、一方的で瞬間的なものだという。
情報社会化は知識の生産と普及を助けるけれども、はたして人が考えることに役立っているかどうかは疑問だ、と著者はいう。コンピューターの役割は情報によって人間をコントロールすることにあって、人が主観的内面において考えることをむしろ弱めてしまうのではないか。

[ポスト・モダン]
 ポスト・モダン、すなわちポスト近代化という思想潮流にも、著者は批判的だ。
 ポスト・モダンとは、近代は終わり、次の時代がきているという主張をさす。社会主義や共産主義がもっていた歴史的展望は、20世紀の現実の進展とともに、すっかり失われてしまった。
それでは、いったいポスト・モダンとは何なのか。消費と遊び、ボーダーレス化などといっても、それが近代と異なるまったく新しいものとは思えない、と著者はいう。
 近代の成果を資本主義、民主主義、核家族、合理主義に代表させるとすれば、ポスト・モダンはこれらにたいし、いかなる展望を提示しようとしているのか。
ポスト・モダン論者は資本主義のあとについても、民主主義のあとについても、何も語っていない。まさか、社会主義や専制主義のほうがいいとはいえないだろう。
核家族が解体して、まったくの個人化の時代になるとも思えない。合理主義にたいして非合理主義が正しいとも思えない。
近代が揺らいでいるのはたしかだが、それをもって、近代が終わりつつあると主張するのは誇張にほかならない、と著者はいう。
 それにもかかわらず、ポスト・モダン論がはやっているのは、反近代イデオロギーが一部の共感を呼んでいるからで、日本ではそれが「西洋化」の排斥、アジアへの回帰、ナショナリズムと結びついているところに、問題の根深さがある。
 そこで、著者はこう述べている。

〈私自身は近代化論者ですから、近代が終焉すべきであるとか、近代は超克されねばならないなどとは毛頭考えません。私は近代化と産業化を、西洋文明としてよりは普遍文明として見ていますので、明治の日本の指導者たちが近代化の目的のためにいちはやく西洋化を採用したことを肯定的に評価してきました。〉

 日本はもうナショナリズムを必要とせず、これから必要とするのは「ナショナリズムであるよりは、アジアの観点からするリージョナリズム」だ、と著者は述べている。
だが、現状はあきらかにそうした言説から後退し、東アジアでは、むしろ国家間の対立が深まっているようにみえる。

[高齢化社会]
 最後に高齢化社会の問題がつけ加えられている。他人事(ひとごと)ではないので、紹介しておく。
 高齢化社会が到来したのは、近代化とともに、出産と死亡のパターンが多産多死から少産少死へと変化したためだ。
少産の理由は、かつてのような家族内労働に子どもを必要としなくなったこと、教育水準の上昇により育児のコストが高まったこと、女性の晩婚化が進んだこと、産児調節により出産が抑制されるようになったことなど。少死の理由は医療の進歩、公衆衛生の改善、栄養がよくなったことなどが挙げられる。
日本は1970年ごろから高齢化社会にはいった。1970年の高齢化率(総人口に占める65歳以上の比率)は7.1%、それが2020年には28.7%になった(本書が出版された1995年ころはまだ14.6%だった)。
 高齢化は意図しない社会変動で、それ自体として機能的に望ましいものではない、と著者はいう。近代化にともなう家族と組織の分離、核家族化、女性の地位の上昇、家族の解体傾向が少子化を促進する要因になったことはまちがいない。これは近代化がもたらした予期せぬ結果である。
 こうして、高齢化が必然的に進むことになるが、問題は高齢化社会のなかで高齢者がどのような役割をはたすようになるかだという。
家父長制の時代とちがって、核家族のなかでは高齢者のはたす役割は次第に縮小して、最後は消滅してしまう。企業においても、年功序列制は次第に見直されている。
 だが、長寿社会はけっして悪いことばかりではない、と著者はいう。昔にくらべ、元気な高齢者が多くなった。長い経験が社会に役立つこともある。また定年後に地域社会で何らかの役割をはたすことも期待される。さまざまなボランティア活動に参加することも有益だ。
 そして、今後は国と自治体が、金銭面、施設面だけでなく精神面でも高齢者対策に取り組んでいくことが重要だと指摘している。
 かつてのように、どんどんハード面での近代化を進めればよいという時代は終わったのかもしれない。いまはハードよりハートである。

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近代化の日中比較──富永健一『近代化の理論』を読む(6) [本]

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 のんびりと読んでいる。気の向くまま、あちこち。
 著者は、社会は発展段階を追って進化すると考えている。世界史において、その進化の方向が、これまでのところ近代化というかたちをとったことはまちがいない。
 近代化とともに、さまざまな機能集団(学校、企業、役所など)が形成され、家族・親族の結合強度はちいさくなり、個人の自由度が高まるとともに、社会のルールが確立されていく。
 村のような閉鎖的な地域共同体は解体され、国民社会(いずれは世界社会?)と国家(いずれは世界国家?)が形成されていく。
 身分とか階級とかといった人間関係は消滅し、社会的中間層の誕生とともに平準化された社会階層へと移行していく。
 こうした近代化への進化が、社会構造の変動(社会変動)によってもたらされたことはいうまでもない。
 では、なぜ社会変動が生じるのか。
「現行の社会構造のもとでシステムの機能的要件が達成され得ないことを当該成員たちが意識した時、そのことが現行の社会システムの構造を変えようとする動機づけ要因となる」と著者はいう。
 いまの社会構造ではもうやっていけないと思うのは、あくまでもその共同体にくらす人の主観、あるいは人びとの共同主観であり、そこから社会システムを変えようという動機が生まれるというわけだ。といっても、その方向性はけっしてランダムではなく、社会の進化(具体的には近代化)に沿ったものになるはずだ。
 では、なぜ世界は一様に近代化しないのか、あるいはしなかったのか。現実に近代化は西洋(西欧と北米)からはじまり、西洋を起点として、東欧やロシア、日本、アジアへと広がっていった。
 著者は近代化のプロセスを「内在的」(内生的)発展によるものと「伝播的」(外生的)発展によるものとに分け、これまで西洋中心に考えられてきた近代化論を、いわば世界史レベルでとらえなおそうとしている。
 だが、その作業はあまりにも膨大にわたる。そのため、本書では範囲を限定し、産業化の発生源となった西洋と、早くから西洋を受け入れた日本、近代化のスタートが遅れた中国にしぼって、社会進化の様相が比較検討される。
 先発国である西洋にとって、近代化・産業化は内生的なものである。それを起動させた要因としては、(1)資本主義の精神(2)民主主義の精神(3)合理主義の精神(4)科学的精神(経験主義、実証主義)が挙げられる。
 こうしたエートスは西洋においてのみ生みだされた、と著者はいう。
 これにたいし、後発国であるアジアなどにとっては、近代化・産業化はほぼ外生的なものとなる。それは西洋からの文化的インパクトによって、外からもたらされた。
 後発国において、それまで近代的エートスが発現しなかったのは、社会変動の担い手が内部から自生せず、そのために社会停滞がつづいてしまったからだと考えられる。しかし、単なる模倣だけでは近代化は進まない。
 後発国において社会発展が実現するためには、いくつかの条件が必要になってくる。
 まず、農業社会が内的に成熟していること。次に、すぐれた指導者をもつ政府によって適切な指導がなされること。さらに西洋への危機意識。伝統主義を克服しようとする革新的態度。国内抗争の克服。産業文明を内部化できる人材の育成。そして、従属からの離脱と独立性。
 著者は後発国が近代化を達成するために必要な条件として、以上のような項目を挙げている。
 それでは、日本の場合はどうだったのか。
 日本が産業化の道を歩みはじめたのは1880年代で、イギリスにくらべ約1世紀、フランス、アメリカにくらべ半世紀、ドイツにくらべ30年遅れていた。しかし、ほぼ1世紀のあいだに、日本はそれらの国に追いつく。
 日本が農業社会段階にはいったのは弥生式土器の時代で、紀元前200年から300年ごろのことだ。中国はすでに紀元前2000年代ごろから農業社会にはいっていたから、中国との差は歴然としていた。
 中国で国家が生まれるのは紀元前1400年ごろ、秦の始皇帝による天下統一が紀元前221年、これにたいし、日本で大和朝廷が誕生するのは西暦400年代で、日本の後発性は歴然としている。
 著者によれば、日本で古代専制体制が成立するのは645年の大化改新によるという。このときはじめて天皇は専制君主となり、公地公民制をしいて全国を支配した。
 中国と決定的に異なるのは、中国が分裂と統一を繰り返しながら、基本的に2000年間、アジア的専制を維持したのにたいし、日本は平安中期以後、しだいに封建制に移行したことである。
 徳川時代の日本は「鎖国」によって外部からのインパクトを弱め、伝統的な農業社会を保ってきた。しかし幕藩体制の困難は、まず財政面から生じ、さらに国防問題におよんだ。
 尊王攘夷論が生まれる。尊王論はいわば「古代化」で、攘夷論は伝統主義であって、尊王攘夷論として反幕思想を形づくった。だが、それは近代化とは無縁の考え方だった。
 明治維新とともに攘夷論は消えて開国論に移行し、「王政復古」が実現する。この時点では「近代化」は未知数だった。日本が伝統主義を切り捨てて、はっきりと近代化を採用するようになるのは、明治10年の西南戦争が終わってからだ、と著者はいう。
 日本が近代的な経済成長を開始するのは明治20年(1887年)からで、それまでは近代への移行期だった。重要なのは、その移行期に「上からの近代化」が推し進められたことだ。西洋の行政制度や経済制度が取り入れられ、インフラが整備された。その路線を敷いたのが大久保利通であり、さらにその後を継いだ伊藤博文や松方正義だった。
 上からの近代化は功を奏し、三井、三菱、住友などの財閥が育ち、日本経済は近代化の軌道に乗りはじめる。明治22年(1889年)には憲法が発布され、翌年には帝国議会が開会され、政治面での近代化も進んだ。
 しかし、日本の近代化は農村の窮乏化を引き起こした。農村は産業化の恩恵を受けず、近代化から取り残されていた。
 大正末期から昭和初期にかけ、農産物価格は下落し、農村はますます窮乏化する。それが日本ファシズムを発生させる源となった。日本の農村が貧困から解放されるには、戦後の農地改革と農業保護政策を待たなければならなかった。
 つづいて中国の場合をみていこう。
 中国は古代の大先進国だったが、近代になると西洋に遅れをとってしまった。しかも、近代化にさいしては、日本にも遅れをとった。その原因は中国の長期的停滞にある、と著者は指摘する。
 中国は基本的に、皇帝が支配する中央集権的統一国家を維持しつづけてきた。いっぽう、郷村では宗族集団による強力な自治・自衛制度が存続し、国家行政の浸透を防いできた。
 中国の民衆は国家にたいし高い要求水準をもたず、宗族システムのなかでいちおうの生活水準を満たしてきた。このことが東洋的停滞のメカニズムを生んできた、と著者はいう。
 とはいえ、さすがにいつまでも停滞のなかに眠ってはいられない。1911年の辛亥革命は、古代的な家産的権力を一挙に解体し、近代的な共和制を樹立しようとした。だが、いきなりの飛び越えは不可能だった。そこから大きな混乱が生じる。
 孫文のくわだてが挫折し、軍閥の袁世凱が中華民国の大総統になったことで、民主化と産業化への芽はつみとられた。その後は軍閥が割拠し、国内はいっそうの荒廃へと向かう。孫文の死後、蒋介石は北伐によって、中国を再統一しようとした。
 そこに毛沢東が登場する。毛沢東は都市のプロレタリアートよりも農民の階級闘争を重視する立場をとった。根拠地に軍を組織し、長征をおこなう過程で、中国共産党の主導権を握った。さらに、日本軍との戦いで疲弊し腐敗した国民党を破って、1949年に政権をとり、共産党指導下で一挙に社会主義を実現しようとした。
 だが、そのこころみは1958年にはじめた人民公社運動と大躍進が失敗することで挫折する。毛沢東はそれにもめげず、1966年に文化大革命を発動し、さらなる社会主義革命をめざそうとして、経済的大混乱を招いた。
 1978年の文革収束後に登場したのが、鄧小平による「四つの近代化」路線だった。これにより、中国はやっと近代化と産業化に向けての再スタートを切ることができた。
 米中関係と日中関係が改善され、それまでの「鎖国」状態にピリオドが打たれ、「経済特区」に先進諸国との合弁企業が設立された。こうして対外開放経済がスタートし、その後のめざましい経済発展がはじまる。
 ここで著者は日本と中国の比較をおこなっている。
 そのさい比較されるのは、伝統社会の構造、近代化にあたっての国内問題、近代化にあたっての国際問題である。
 まず伝統社会の構造についていうと、家族・親族に関しては、日本が一子相続と同族制度をとっていたのにたいし、中国は均分相続と宗族制度をとっていたのが大きなちがいだという。
 日本の同族がゆるやかな結合体で、権力分散的だったのにたいし、中国の宗族は緊密な内部結合と封鎖性を特徴としていた。
 そのことは伝統的な村落にもあてはまる。中国の郷村が氏族的団結による閉鎖性が強かったのにたいし、日本の村落はそれほど血縁意識が強くなく、どちらかというと中央にも開かれていたという。
 組織についてみても、中国の商人や職人のギルドは、日本よりもはるかに強い結束力をもっていた。
中国が皇帝とそれに直属する官僚によって支配され、巨大地主のもとに小作人が隷属していたのにたいし、日本では幕藩体制が成立し、村は比較的平等な自営農民によって運営されていた。
 また中国の国家が専制的な家産国家であるのにたいし、日本の国家は封建制をとり、中央集権国家ではなかった。しかし、日本では幕藩体制のもとでも天皇が存続し、明治維新後もその伝統的カリスマ性によって国民統合を保つことができた。
 近代化がはじまってからの国内事情についてみても、日本と中国の発展には大きなちがいがあった。
明治憲法はかならずしも家族の近代化をうながさなかったが、それでも1920年ごろには日本でも核家族化が進んでいる。中国でもかつての宗族の機能は弱まりつつあった。それでも日中ともに、西洋にくらべ、家族・親族の近代化はずっと遅れていた。
 日本では農村は近代化・産業化の恩恵をこうむらず、窮乏のまま取り残された。中国の場合は、はやくから地主と小作の両極分解が進んでいた。そのため農民反乱の伝統があり、毛沢東はそれを活用した。革命後、中国では地主がいなくなるが、人民公社が農民の勤労意欲を動機づけることはなかった。
 日本においては政治権力と結びつくかたちで資本家が登場し、産業化を担った。戦後は財閥が解体されるなかで、経済の近代化が促進され、高度経済成長が実現する。
 中国でも資本家は政治と結びつくなかで企業活動をおこなっていた。しかし、革命後、こうした資本家は買弁的ブルジョワジーとして排除され、社会主義のもと資本主義的な企業活動自体も否定されることになった。
 日本では初期産業化の進展とともに、階層間の格差が拡大した。農村では大地主と小作への両極分解が進み、都市では財閥が形成され、労働者階級が増えていった。
 日本と中国のもっとも大きなちがいは、日本の国内が統一されていたのにたいし、中国がほとんど分裂状態にあったことである。1949年の中華人民共和国成立後も、中国は文化大革命のもとで内乱がつづいた。そのことが中国の近代化を遅らせた、と著者はいう。
 最後に国際関係についてふれると、日本と中国は西洋先進国から外圧を受けたという面で、共通の経験をもっている。中国がアヘン戦争後、西洋列強の半植民地となったのにたいし、日本は開国によって上からの近代化をなしとげ、植民地化を免れる。そればかりか、日清・日露戦争後、アジアのなかの西洋としてふるまうようになった。
 しかし、すべては第二次世界大戦をへて大きく変化する。日本は明治以来の戦争体質を清算して貿易立国に転じ、中国は西洋先進国への従属から脱して、大国への道を歩みはじめた。
 日本と中国は、ともにアジアに位置する近代化への後発国として、多くの共通点をもつが、また同時に違いも大きい、と著者は指摘している。
 本書が出版されたのは1996年のことである。それ以来、日本と中国の関係も大きく変わった。社会変動論=近代化論の枠組みを採用するとすれば、日本と中国の現状はどうとらえればいいのだろうか。

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社会変動の歴史──富永健一『近代化の理論』を読む(5) [本]

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 著者は人間社会の発展段階を(1)未開社会(紀元前8000年ごろ〜紀元前2000年ごろ)(2)農業社会前期(紀元前2000年ごろ〜紀元1000年ごろ)(3)農業社会後期(1000年ごろ〜1600年ごろ)(4)近代産業社会前期(1600年ごろ〜1900年ごろ)(5)近代産業社会後期(1900年以降)に分類する。
 そのうえで、(1)家族・親族(2)組織(3)地域社会(4)社会階層(5)国家と国民社会からなる社会構造を、それぞれ発展段階ごとに変動の様相をとらえようとしている。その変動は一括して社会変動と呼ばれる。

(1)家族・親族の変動
 人間社会に通底するのが家族・親族である。どの発展段階でも、家族・親族なしに人間社会は成り立たない。
 未開社会では、家族の血統のたどれる親族集団が氏族を形成し、狩猟、労働、防衛、相互扶助、祭祀などの機能を一体的にもつ生活共同体を維持していた。だが、社会が発展するにつれ、そうした一体的機能は次第に分化し、親族の全体的機能は解体・縮小されていく。
 農業社会の前期はメソポタミアやエジプトからはじまり、ギリシア、ローマにいたる。後期は中世ヨーロッパがその典型である。
ギリシア、ローマは家父長制の時代だ。
「家父長権は父から男の子へと伝えられ、家父長たるものは家系を絶やさぬように、家の祭祀と家産を管理する責任を先祖に対して負っていたと同時に、家成員に対して絶対の権力をもっていた」
とはいえ、古代ギリシアは長子相続制ではなく、家父長である父が死ぬと均分相続がおこなわれていた。
 中国の「家」も、基本的に家父長制だといってよい。家長が死ぬと、男の兄弟だけが均分相続で家産をもらい受けた。しかし、数代にわたって、家産を分けないまま一つの家が持続されることもあったという。そうした大家族を形成するのは、大資産をもつ上層階級だった。
 中国では宗族という親族集団があった。宗族が家父長制家族と併存したことが、西洋とは異なる中国の特徴だという。
 日本では「家」は家長の直系家族が受け継いだ。その家長権は「嗣子」によって継承される。嗣子のみが家督を相続し、嗣子以外の傍系(次男、三男など)は家から離れなければならない。しかも分家でないかぎり、家産の分与にあずかれなかった。
 家父長制は農業社会段階の産物であり、その眼目は土地の相続である。本家と分家は依存関係でしか成り立たないことが多く、本家と分家が同族集団を形成する。東北地方などではこうした同族集団が昭和10年代まで残っていたという。

(2)組織の変動
 組織は近代の所産である。未開社会では組織らしきものはない。とはいえ、近代以前でも組織らしきものはあった。
農業社会になると国家が発生し、ある程度の行政事務をおこなう統治組織がつくられる。
 古代ギリシアには武器や靴、衣類、家具などをつくる「エルガステリオン」と呼ばれる作業所があった。古代ローマでも、鉱山や大農場などが経営されている。その所有者は個人もしくは団体で、実際の仕事を担っていたのは奴隷だった。
 しかし、中世になると、そうしたものはなくなり、農業にしても商業にしても、農家や商家、職人の家による自営業形態をとるようになる。家族が同時に経営体でもあった。そこではしばしば経営上の必要から非親族者が家のなかに迎えられた。日本では奉公人や丁稚、徒弟などがそうした存在にあたる。
 近代にいたって株式会社が発生する。それに先立ち、中世にはソキエダスやコメンダと呼ばれる会社形態が生まれた。
 最初の株式会社はオランダの東インド会社、つづいてイギリスの東インド会社である。これらはみな貿易会社だったが、産業革命をへると、株式会社が産業資本のかたちをとるようになる。その前駆的形態が問屋制前貸やマニュファクチュアだった。
 産業革命はマニュファクチュアを近代的大企業に発展させる契機となった。株式会社制度と工場システムが結合され、官僚制的な組織が導入されることになった。
 しかし、産業社会後期になると、情報産業やサービス産業、ハイテク産業が盛んになり、臨機応変に対応する機動性が求められるようになる。官僚制的な組織原理に代わって、新たな組織原理が必要になってきている。

(3)地域社会(村と都市)の変動
 都市と農村が生まれるのは、農業社会になってからである。
 古代ギリシアやローマの都市国家では、市民は農村の不在地主にほかならなかった。
 といっても、古代における都市の形態は多様であり、スパルタとアテネはかなりちがう。スパルタの市民は重層歩兵団として、たえず軍事訓練に従事しなくてはならなかった。これにたいしアテネでは、とくに手工業が発達し、市民のなかには自作農民や商工業自営業者も含まれていた。
 古代ギリシアでは小麦とオリーブが主要作物で、不在地主の所有する土地を奴隷が耕作していた。ギリシアの都市は基本的に軍事都市で、ポリスの周辺に広がる農村がこれを経済的に支えていた。
 古代ローマの都市も農村地主によってつくられた。ギリシアのポリスとのちがいは、都市在住者が土地所有貴族と平民に分かれていたことである。貴族は門閥氏族の成員で、官職を保持し、戦場では将校として指揮をとった。これにたいし、平民は土地ももたず、手工業や商業に従事し、戦場では重装歩兵団を形成した。
 しかし、ポエニ戦争後、ローマでは重装歩兵団が解体され、ゲルマンの傭兵隊が軍事をになうようになる。さらに共和制末期になると、ラティフンディウムと呼ばれる大土地所有制が進み、奴隷制による大農場経営と小作人が生みだされた。
 西ローマ帝国の滅亡により、中世がはじまると、ゲルマン社会が農業社会の中心となった。古典古代が都市国家の時代だったのにたいし、中世は荘園領主が農村に居住し、農民を支配する村落優位の時代になった。ゲルマン社会は本来まったくの村落社会だったが、それでも12世紀ごろから都市が生まれるようになった。
 中世の都市が古典古代の都市とことなるのは、それが、みずから手工業や商業を営み、村落に土地をもたない人びとによってつくられた自治団体だという点にある。古典古代では、都市が農村を支配していたのにたいし、中世では都市と農村の関係は対等で、市場をとおして相互に結びついていた。
 中世の都市では、商工業者がギルドやツンフトのような同業団体を結成していた。こうした同業団体は氏族や奴隷とも無縁であり、その点、より近代に近づいていた。
 いっぽう、中世の村落では、土地を私的に専有する農民が、家族で自営的な耕作をおこなっていた。その土地は、宅地、庭畑地、共同耕地、共有地、森林からなり、それは世襲的に相続されていた。農民は農奴と呼ばれているものの、村落共同体の成員として、村落共同体が総有している共同耕地や共有地、森林の分け前にあずかっていた。
 封鎖的な村落共同体は、交通関係が発展するにつれ、次第に開かれたものになっていく。近代化・産業化とは、「都市の都市度を高め、村落の村落度を低める過程」だった、と著者はいう。こうして、社会関係の開放性が進み、都市と村落とのあいだの社会移動が増えるにつれ、いよいよ近代がはじまることになる。

(4)社会階層の変動
 社会階層が生じるのは社会的資源の分配が不平等だからである。未開社会は比較的に平等社会で、不平等が高まるのは農業社会にはいってからだ。
 西洋の古代は、土地所有者階級と奴隷が存在した。ギリシア、ローマは征服国家で、戦争は土地の取り合いを意味し、奴隷は戦争の産物だった。この時代、農業と手工業はほとんど奴隷に依存していた。
 東アジアでは奴婢が存在し、賎民として扱われていた。インドにはカーストがあり、シュードラが賎民だった。かれらはアーリア人に征服された民族の末裔と考えられる。
 中世は身分制社会で、支配者の封建領主が土地を領地として支配し、土地を通じて農民を支配していた。家産制と封建制が、その主な形態だ。
家産制では、中央に専制君主がいて、そのもとに家臣団がいる。王は家臣に土地と人民を管理させ、そこから貢租を収めさせ、家臣には官職に応じてフリュンデ(秩禄)を与える。
 これにたいし、封建制では地域ごとに小規模領主が根をおろし、中央の王の力はさほど強大ではない。それでも領主は安全確保のため王に保護を求めて、王と封臣関係を結び、王は封臣となった領主の土地を保証するという関係を保った。
 家産制では君主の力が強いため、国内の富が君主に集中し、人民の側に富が蓄積されにくい。これにたいし、封建制では、君主に富と権力が集中せず、人民の側に富が蓄積され、近代化・産業化の素地がつくられていく、と著者はいう。
 近代社会は17世紀のヨーロッパにはじまる。ルネサンス、宗教改革、地理上の発見がその出発点だ。とりわけフランス革命が近代化を切り開いた。サンシモンは社会を貴族、ブルジョワ、産業者(働く人)という三つの階級から成り立つものととらえた。マルクスとエンゲルスは、サンシモンを発展させ、ブルジョワジーとプロレタリアートの対立という考え方を打ち出した。
 しかし、20世紀にはいるにしたがって、ブルジョワジーとプロ李足りアートの対立では収まらない現象がでてくる。
 これまでの旧中間層(農民、手工業者、小産業者、小商人)に加えて、新中間層が登場するのだ。新中間層は被雇用者という意味では労働者だが、単純肉体労働者ではなく、比較的高い教育水準や技術水準を身につけ、専門技術職や管理職などを担っていた。こうした新旧中間層の拡大によって、階級の区別は次第に見えにくくなり、むしろ階層による区分があてはまるようになった、と著者はいう。

(5)国家と国民社会の変動
 未開社会に国家はなかった。国家が登場するのは農業社会になってからである。
 古代ギリシアやローマは例外として、古代の国家は原則として王の専制によって成り立っていた。王のもとには行政組織があり、行政幹部は家臣団を形成していた。こうして、家産制国家の原型がつくられる。すべての土地と人民は王ひとりに帰属し、家臣団はフリュンデ(秩禄)をもらうだけである。
 王のオイコス(家)が解体され、家臣団が王から独立して、一定の土地と人民を世襲的に支配するようになると封建制が成立する。
 ところが17世紀に商業資本が発展し、資本主義の時代がはじまると、閉鎖的だった地域共同体は次第に解体され、国民社会が形成されるようになる。そのとき、農業社会のうえに築かれていた絶対王制は市民革命の挑戦を受け、貴族も支配層としての地位を失って、王制は次第に形骸化、もしくは廃止されるようになる。
 こうして近代国家が生まれる。近代国家がそれ以前の国家と異なるのは、第1に国民社会を下部構造にもつ国民国家であること、第2に立法・行政・司法の組織をもつ主権在民の国家であること、第3に多くの機能集団や組織、地域社会を内包する国家であることだ、と著者はいう。
 しかし、近代産業社会が後期段階にはいると、国家はこれまでにない新たな対応を迫られるようになる。それは失業、疾病、災害、高齢化などに対応する社会保障、コミュニティの維持、福祉国家の推進、さらにはグローバル化だという。
 いまも社会構造は変動しつづけている。

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昭和の幕開け──美濃部達吉遠望(52) [美濃部達吉遠望]

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 1926年(大正15年)12月25日、長く精神の病を患っていた大正天皇が亡くなる。摂政を務めていた皇太子裕仁親王が即位し、年号は昭和と改まった。
 議会では諒闇中[天皇が喪に服している期間]の政争を避けるということで、憲政会、政友会、政友本党三党の妥協が成立し、すんなりと政府予算案が成立する見通しがついた。
 2月になると政府が提出している震災手形法案が、政友会の攻撃の的にさらされた。
 震災手形法案とは、3年半前の関東大震災で決済不能となった手形のうち処理できない残債分を、公債発行や政府日銀保証によって一挙に解消しようというものだ。しかし、実際は大震災以前から大戦バブルの崩壊で大量の不良債権をかかえていた台湾銀行などを救済することも大きな目的に含まれていた。
 それまで政府与党のスキャンダルを追及して倒閣に持ちこもうとしていた政友会は、予算案の成立で政府と一時妥協したものの、ここにきて政府の経済救済策を批判する方向に舵を切った。
 ピンチにおちいった若槻内閣は、ふたたび野党第2党の政友本党との関係修復をはかり、3月1日にいわゆる「憲本連盟」(憲政会と政友本党の連盟)を成立させる。
 だが、若槻内閣はけっきょくもたない。
 内閣が倒れるきっかけとなったのは、衆議院で震災手形法案の審議がおこなわれているさいちゅうの3月14日に、片岡直温(なおはる)蔵相が、東京渡辺銀行が破綻したと発言したことである。東京渡辺銀行はじっさいにはまだ破綻していなかったのだが、この失言によって休業を余儀なくされる。その後、全国の中小銀行にたちまち取り付け騒ぎが広がっていった。
 震災手形法案は3月23日に貴族院でも可決成立した。だが、その直後の27日に台湾銀行が鈴木商店との取引を停止すると発表した。
 台湾銀行は朝鮮銀行と同じく政府系の特殊銀行で、植民地の台湾で中央銀行としての役割をはたしていた。いっぽうの鈴木商店は、当時、三井物産や三菱商事に匹敵する総合商社だった。
 鈴木商店が倒産に追いこまれたため、鈴木商店を主要取引先としていた台湾銀行は危機におちいり、日銀の救済を受けなければとても立ちゆかなくなった。
 そこで、議会閉会中のため、政府は台湾銀行救済の緊急勅令を出すよう枢密院にはたらきかける。だが、枢密院はこれを拒否した。
 これにより憲政会の若槻内閣は身動きがとれなくなり、総辞職に追いこまれる。その結果、元老の西園寺公望の推挙により、政友会の田中義一が次期首相となる。4月20日、田中義一内閣が成立した。
 このとき美濃部達吉は枢密院による事実上の倒閣を批判し、『帝国大学新聞』で、こう述べている。

〈立憲政治の普通の事情からいえば、内閣の倒壊するのは、内閣の内部の不統一から来る自発的瓦解か、総理大臣の死亡または不健康に基く辞職か、しからざれば衆議院の多数から不信任の意思を示されたことに原因するものでなければならぬ。健全な立憲政治において、外部から内閣を倒壊せしめうべき力を有するものは、ただ国民の代表者としての衆議院のみに限らるべきもので、貴族院すらも内閣の進退を左右しうべきものであってはならぬというのが、憲政の理論である。いわんや枢密院の決議によって内閣を倒壊せしむるに至っては、憲政の甚だしき変態であることは言うを待たぬ。〉

 憲法では、内閣および帝国議会とは別に、枢密院が天皇の最高顧問府として設けられている。そのかぎりにおいて、枢密院の決定が内閣を倒壊させる事態は考えられないことではない。しかし、そうしたことが生じるのはけっして望ましくなく、むしろ異常な事態と言わねばならない。こんなことがおこるなら、枢密院の存在そのものすら疑わなければならない、と達吉はかなり厳しい口調で、今回の措置を批判している。
 ただし、政府にも問題がなかったわけではない。台湾銀行の窮状は前から知られていたのだから、やろうと思えば議会開会中に審議ができたはずである。それを議会閉会後、二三週間もたたぬうちに、枢密院に緊急勅令をだすよう申し入れたのだから、あまりにも乱暴な措置といわねばならない。
 その結果、枢密院の反発を招き、憲法違反だとして内閣の倒壊につながったのだから、政府の責任も大きい。それでも枢密院の決議によって、内閣の更迭が生じるような事態は、憲政政治のはなはだしい変態(例外状況)であると論じた。
 こうした例外状況は、まもなく通常となる。そんな時代がやってくることを達吉は予感していたのだろうか。
 田中義一は政友会単独の内閣を組閣した。当面の金融恐慌に対処するためには、引退を表明した高橋是清にあらためて蔵相就任を請わねばならない。急転回する中国の情勢に対処するため、外相はみずからが兼任した。内相には司法官僚出身の鈴木喜三郎をいれた。
 金融恐慌は収まる気配をみせない。全国で取り付け騒ぎがつづいていたため、高橋蔵相は全国の銀行に2日間の自発的休業を命じ、緊急勅令による3週間の支払い停止(モラトリアム)を実施した。日銀は急遽、印刷した大量の紙幣を全国の銀行に貸し付け、最悪の事態に備えた。政府は日銀にたいし5億円の支払い補償をした。
 こうした措置により、恐慌は次第に沈静化していく。それでも華族の銀行といえる十五銀行をはじめ、大阪の繊維業界と関係の深い近江銀行など、44の銀行が休業に追いこまれる。
 こうして、金融恐慌後、日本の銀行業界は、三井、三菱、住友、安田、第一、第百(のち三菱に統合)の大銀行体制のもとに再編成されていくことになる。
 6月1日に憲政会と政友本党が合体し、民政党が発足した。民政党の総裁には浜口雄幸(おさち)が就任。二大政党時代が到来したのだ。まもなく初の普通選挙が実施されるのは必至だった。
 恐慌は収まっていくものの、日本じゅうをそこはかとない経済不安がまとわりついていた。そんななか、学生のあいだではマルクス主義の影響がじわじわと広がる。これにたいし、政府はますます思想統制の動きを強めようとしていた。
 師走にはいったころ、東大正門内で大学生が警察官によって検束されたという記事が新聞に掲載された。このことを知った達吉は驚く。
「もしそれが濫用せられるとすれば、警察官の専断によって実質上ほとんど刑罰に等しいものを課しうるものとなり、憲法上の自由の保障は、ほとんど効果を失ってしまわねばならぬ」と、さっそく当局を批判する一文を『帝国大学新聞』に寄せた。
 警察検束が許されるのは、泥酔者や自殺をくわだてる者を保護するための保護検束、ならびに公安を害するおそれがある者を検束する予防検束にかぎられる。
 予防検束はいたって濫用されやすい。しかし、危険思想をもつというだけで本人を長期にわたって検束することは、警察検束権の濫用にほかならない。それはむしろ警察による不法監禁だといってもよい。警察官の検束が不当な場合は、被検束者はとうぜん正当防衛の権利をもつ、と達吉は断言した。
 治安維持法の成立を受けて、いわゆる「主義者」を取り締まる「特高」、すなわち特別高等警察がつくられようとしていた。それは次第にあらゆる反政府運動を監視し取り締まる秘密警察へと発展していく。

 1928年(昭和3年)1月の通常議会で、田中内閣は首相の施政方針演説直後に衆議院を解散した。民政党から内閣不信任案が提出されることを知り、それに先んじて手を打ったのだ。
 こうして、2月20日に日本初の普通選挙となる総選挙がおこなわれることが決まった。
 達吉は反対党にまったく発言の機会を与えることなく議会を解散した政府の処置を姑息(こそく)だと批判する。「解散は決して不意討であってはならぬもので、双方の意見が十分に闘わされ、その相対立しえないことが明白になって始めて断行せらるべきものである」
 まさに正論というべきだろう。
 日本では政党政治がまだ成熟していない。「政党政治がややもすれば国家および国民の福利を度外視してひたすらに政党自身の発展を謀(はか)り」、党利のために手段を選ばないことを、達吉は嘆いている。
 そんな嘆きをよそに、少数与党の政友会はこの総選挙で圧勝を期し、膨大な選挙資金をつぎ込み、身も蓋もない選挙干渉をおこなった。
 その結果は政友会217、民政党216のほぼ同数の議席で、政友会はようやく第1党を確保できたたにすぎなかった。もくろみは大きくはずれた。
 しかし、今回の選挙では、社会民衆党、労働農民党、日本労農党などからなる無産政党が、衆議院に議席を得たことだった。それはわずか8議席にすぎなかったが、そのことに達吉は唯一の「喜び」を覚えた。
 そのあとすぐ、反動政治の嵐が押し寄せてくる。
 達吉は書かないわけにはいかない。

〈近頃の日本の政治の有様を見ると、我々はただ政治上の暗黒時代が来ったという感じを禁じ得ない。立憲政治の最大の長所の一つは、政治の秘密主義を排して、国民の環視の下に公明正大なる政治の行わるることにあるといわれている。しかるに普通選挙による第一回議会開会の今日にあたって、政治の公明正大はほとんど跡を絶ち、心ある者をして暗黒政治の到来を痛嘆せしむるに至ったのは、はたして何人(なんぴと)の罪であろうか。〉

 暗黒政治の到来。いったい何がおこったのだろう。

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若槻内閣のスキャンダル──美濃部達吉遠望(51) [美濃部達吉遠望]

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 1926年(大正15年)1月に加藤高明の急死を受けて成立した若槻礼次郎内閣は、少数与党の悲しさで不安定な政局運営を強いられた。
 若槻はとかく政友会との合同(再統一)をうわさされている政友本党に接近し、加藤の残した税制改革案と予算案を何とか成立させた。
 これがのちに憲政会と政友本党との合同を生み、1927年(昭和2年)6月の立憲民政党(略称民政党)の結成につながる。だが、それまでには、まだ紆余曲折がある。
 政党政治は何かとスキャンダル合戦を招きやすい。
 最初に暴露されたのは、政友会の田中義一総裁にからむ政治資金問題だった。それは田中が陸軍大臣だった当時の公金横領の疑いにまで発展していくが、けっきょくうやむやのままに幕を閉じた。
 これに対抗するように、第51議会閉会後、浮上したのが、松島遊郭疑獄と朴烈事件である。
 松島遊郭は西の吉原とも呼ばれた大阪の歓楽地で、その場所があまりに町の真ん中にあったため、これを郊外に移そうという計画があった。その移転にからんで、与野党の議員が複数の不動産業者から賄賂をもらったという疑惑が浮上した。与党で標的となったのが、憲政会総務の箕浦勝人(みのうら・かつんど)である。
 箕浦は加藤内閣時代に内務大臣をしていた若槻のもとを訪れ、若槻に松島遊郭の移転を認めるよう求めたとされる。若槻はこれに応じたわけではなかったが、このとき箕浦が不動産業者から謝礼をもらっているなどとは想像もしていなかった、とのちに語っている。
 与野党のからんだこのスキャンダルは、大阪地裁検事局が動いて、長く政界をゆるがすことになる。若槻首相自身も大阪地裁検事局の予審訊問を受けている。
 若槻自身は事件にからんでいないことが判明するが、箕浦はじめ6人が起訴され、箕浦は有罪となった。しかし、最終的には無罪となり、箕浦は政界を引退することで、事件は闇から闇へほうむられた。
 松島遊郭スキャンダルと並んで騒がれていたのが朴烈事件である。
 朝鮮独立運動家の朴烈が、内妻の金子文子とともに拘束されたのは、関東大震災直後のことで、それからずっと拘束されたまま3年後の1926年3月25日に、ふたりとも大逆罪により死刑判決を受けた。
 具体的な天皇暗殺計画などは存在しなかった。しかし、拘束された朴烈と金子文子が大言壮語し、朝鮮独立と皇太子暗殺を唱えるので、高等法院は刑法第73条の規定により、ふたりに死刑判決を下さざるをえなかった。
 だが、判決後、検事総長が司法大臣に特赦による減刑を申し立てるなど、減刑を求める声は強く、それらを受けて、若槻も特赦に傾いた。
 4月5日、恩赦により、ふたりは無期懲役に減刑された。しかし、金子文子は7月23日に刑務所内で自殺する。朴烈は獄中で生き延び、太平洋戦争後に出獄して、戦後、在日本朝鮮居留民団の初代団長となった。
 だが、国会では若槻が特赦を上奏したことが問題になった。野党政友会が特赦はまちがっていると政府を攻撃したのである。
 このとき美濃部達吉は、若槻による特赦上奏を擁護し、「恩赦の意義について」という論評で、こう述べている。

〈朴烈らが改悛の情なきにかかわらず減刑を申請したのは不当であるとするのは全く非難の当を失するものである。問題は彼らが改悛したか否かにあるのではなく、彼らの犯行が減刑に該当すべき事情ありや否やにある。〉

 朴烈らの犯罪事情が秘密に付されているため、実際の事情はわからないが、大逆罪を定めた「刑法第七十三条の罪こそ、かえって減刑の理由の最も生じやすい犯罪である」と達吉は断言する。
 さらに「皇室に対する犯罪について、至尊の慈仁によりこれを恩赦したまうことは、こと皇室に関するだけに、国民をして皇恩の篤(あつ)きを感ぜしむること、一層大なるものがある」と、いかにも尊皇主義者らしい弁護論を展開している。
 若槻が朴烈の減刑を決定したのは、死刑にした場合の朝鮮での反応を恐れたためである。だが、これにたいしても、政友会側はむしろ苛烈に臨んだほうが朝鮮統治のためにはよかったと主張し、若槻による特赦の上奏を国体にかかわる大問題とばかりに重要視した。
 朴烈問題が大問題になったのは、じつは金子文子が自殺した直後の7月29日に怪写真のはいった1枚の文書が新聞社などにばらまかれたためである。それは朴烈と金子文子が予審調べ室で抱きあっている写真で、これをばらまいたのは、北一輝だった。朴烈とは旧知の仲だった。政府をゆさぶり、さらには政党政治に打撃を与えるのが目的だったと思われる。
 怪写真事件は国体問題にまで発展し、政界では感情論と煽動主義が荒れ狂い、若槻内閣はなすすべもなく波間をただよっていた。そのさなか、9月になって、これまで新聞紙法で長く報道を禁じられていたある事件が封印を解かれる。
 いわゆる京都学連事件である。事件は前年12月にさかのぼる。ことの発端は同志社大学の構内掲示板に軍事教練反対のビラが貼られたことだった。
 この反対運動をおこしたのは、京都帝国大学と同志社大学の社会科学連合会に属するグループで、マルクス主義を信奉していた。
 警察は一斉捜索をおこない、多くの学生を検挙したが、さしたる証拠も出ず、激しい抗議を受けたこともあって、いったんはかれらを釈放した。
 しかし、この年1月から4月にかけ、警察は全国で38人の左翼学生を逮捕し、治安維持法で起訴した。そのなかには京大の石田英一郎、岩田義道、鈴木安蔵、東大の是枝恭二、村尾薩男、後藤寿夫(林房雄)、慶応大学の野呂栄太郎などが含まれていた。東大のグループはいずれも新人会に属していた。
 事件が報道されると、達吉は官憲による学生の検挙を激しく批判し、今回の事態を招いた原因は大学の教育にあるのではなく、治安維持法という悪法そのものにあると指摘した。

〈治安維持法は要するに現在に政治上の勢力をもっている階級の人々の信念を絶対の真理と看做(みな)し、これに反対する思想を異端視して、刑罰をもってその思想を抑圧せんとするものである。それは一つの信念の他の信念に対する戦いであって、その一方の信念を有する者が、たまたま現在の権力者であるために、その権力を施用して反対の信念を圧迫せんとするものである。信念と信念との戦い、主義と主義の争いにおいて、言論と教化との力によらず、法律と刑罰との力をもって、反対の主義信念を殲滅しようとするものなることにおいて、あたかも往年の切支丹(キリシタン)禁制とその軌を一(いつ)にしている。治安維持法の悪法なる所以(ゆえん)は実にこの点にある。〉

 治安維持法は、現在の政治勢力を守るために「法律と刑罰との力をもって、反対の信念を圧迫せんとするもの」であり、いわば近代以前の考え方にもとづいている。
 治安維持法は国体の変革と私有財産制度の否認を目的として結社をつくること、およびそれに加入する者を10年以下の懲役または禁固とする法律だった。端的にいって、それは「共産党鎮圧法」といってよい。
 暴力によって現在の秩序を破壊しようとする者にたいしては、権力でこれを圧するのはとうぜんだ。しかし、信念として現在の秩序に反対する者があったとしても、それは思想の自由として認めるのが、立憲政治の立憲政治たるゆえんだ、と達吉は明言する。

〈社会文化の健全なる発達は、種々の異なった主義、思想が、相並立して互いに相争い相研磨することによってのみ庶幾(しょき[こいねがう])しうべきもので、これらの種々の思想の争いのあることは、決して患うべきではなく、かえって文化の発達のために望ましいところである。ただ、その争いは常に公明正大でなければならぬ。権力を有する者が権力をもって反対の主義思想を圧迫するところの非なるは、なお権力を有しない者が暴力をもって自己の主義を実現せんとするの非なると同様である。二者ともに断じて排斥しなければならぬ。しかも治安維持法は実にこの非をあえてするものである。〉

 ここには達吉の理念が明白にあらわされている。思想の自由こそが社会発達の原理であり、種々の異なった主義、思想があって、はじめて文化は発達する。権力者が権力によって主義思想を弾圧し、反権力者が暴力によって自己の主義を実現しようとするのは、前近代的な発想である。
 こう述べたうえで、達吉は学生が共産主義を実現するために実際運動をおこなうことには反対だという。
 学生は勉強するのが本分で、実際運動などしてはならないというのではない。学生が社会を改善するために実際運動に関係することを禁止すべき理由はない。
 問題は、学生の社会運動、ことに共産主義運動が、実際運動であるだけではなく、社会革命を目的とする運動であることだ。
 達吉は社会主義ないし共産主義のもつ独善性に疑念をいだいていた。革命によって、これを急速に実現しようとすれば、社会は大混乱におちいり、あげくのはてにロシアのような独裁政治を招きかねない。ファシズムを採用したイタリアも同様である(この時点でヒトラーはまだドイツの政権を掌握していなかった)。

〈学生は現在なお学習の半途にある者である。現に学習中にあるにもかかわらず、早く既に社会科学の真理を握持し得たりとなし、社会の秩序をかく乱することをも顧みずして、急速にこれを実現せんとする運動に従事せんとするのは、その早計いうを待たざるところで、それは学生として断じて許すべき事柄ではない。〉

 達吉は官憲による「治安維持法」を批判するいっぽうで、学生に自重を求めていた。前途有望の青年たちを失いたくなかったのである。
 だが、権力の側はひたすら圧迫の度合いを強めようとしていた。

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明治憲法の特色──美濃部達吉遠望(50) [美濃部達吉遠望]

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 九州帝国大学が京都帝国大学福岡医科大学を母体として、福岡の地に発足したのは1911年(明治44年)のことである。その後、1924年(大正13年)に法文学部がつくられた。このとき東京帝国大学法学部長の美濃部達吉は、九州帝国大学の法文学部法科の教授を兼任することとなった。
 ちなみに九州帝国大学といえば、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、さらには『神聖喜劇』を書いた大西巨人が法文学部を中退したことなどを思いだすが、それは以下の話とはなんら関係がない。
 1925年(大正14年)8月に達吉は九大で学生を前に3回にわたり「日本憲法の特色」と題する講演をおこなっている。その内容はまとめられて、翌年1月から『国家学会雑誌』に6回掲載された。
 さらにいうと、この論考は大幅に書き改められて、達吉の東大退官後の1934年(昭和9年)に、『日本憲法の基本主義』というタイトルで日本評論社から刊行された。天皇機関説事件のあと、発行禁止となる3冊の本の1冊である。
『国家学会雑誌』にこの連載がはじまったころ、日本でもようやく政党政治が定着するのではないかとの期待が高まっていた。
 加藤高明首相が貴族院の議場で倒れ、死亡したあと、元老の西園寺公望はその後継として、加藤内閣で内相を務めていた同じ憲政会の若槻礼次郎を次の総理大臣に推挙した。憲政の常道が実施されたのである。達吉もまた、これによって二大政党による立憲政治が定着することを願っていた。
 だが、すでに護憲三派体制は崩壊し、憲政会は衆議院の3分の1ほどの議席しかない。野党政友会の総裁となった退役陸軍大将の田中義一は、虎視眈々と次期総理の座をねらい、若槻内閣攻撃の材料を集めていた。
 ここで「日本憲法の特色」という論考を取りあげるのは、大正末年当時、達吉が憲法にもとづく日本の国家体制をどのようにみていたかを知るためである。それは、のちに時局を警戒しながら書き改められる『日本憲法の基本主義』とも、いささか異なる雰囲気をただよわせている。
 達吉は、最初にその講義の目的を、法律的にみて日本の立憲政治の特色がどこにあるかを明らかにすることだと話している。あまりにも簡約すぎる憲法条文にこだわらず、世界からみた日本の立憲政治の特色を示してみたいとまで踏みこんでいるのは、明治憲法の積極解釈をこころみたものと理解できるだろう。
 達吉は聴講する学生に、明治憲法の特色が(1)君主主権主義、(2)二院制代議主義、(3)権力調和主義、(4)兵政分離主義、(5)中央集権主義、(6)成文憲法主義の6点にあると指摘している。以下、順にそれをなぞってみよう。

(1)君主主権主義
 国家の主権にたいする考え方には君主主権主義と国民主権主義とがある。日本は君主主義をとっているが、君主主権といっても、君主に万能無制限の権力があるわけではなく、その権力にはおのずから憲法による制限が課されている。
 また国家最高の意思は、君主の単独の意思によって決定されるわけでもない。立憲君主制のもとでは、そこにとうぜん議会の意思が反映される。
 君主主権の主権とは「最高」という意味で、君主主権とは、国家の政治組織において君主が最高の地位にあることを意味する。しかし、立憲政治のもとでは、その権力の範囲はおのずから定められている。
 君主と大統領が異なるのは、大統領が国民のなかから選挙によって選ばれるのにたいし、君主が自身固有の権利を有していることである。その固有の権利は、他のいかなる権力によっても掣肘されない。
 日本では、天皇の大権はほかの国の君主よりもはるかに強い色彩を帯び、はるかに広範なものとなっている。それはこれまでの歴史にもとづくもので、「将来憲法がいかに改正せらるることありとするも、少なくとも一系の皇統を戴く君主主権の政体は永遠にこれを変更すべからざるものとしている」。
 この点からすれば、達吉はあくまでも尊皇主義者だった。
 皇室に関する法律は、皇室典範によって定められている。皇室典範が憲法と切り離されて、独自の規範となっているのは、日本特有の歴史的国情によるものだ。これにより皇位の継承は、皇室の自治にゆだねられていることになる。こうした皇室の自治権は侵犯することができない。
 とはいえ、皇室典範は皇室内部だけに効力を有するものではなく、同時に国家法としての効力を有している。憲法と皇室典範は対等の地位を有する国家の二大基本法だといってよい。
 皇室典範により皇室には自治権が認められているから、皇室はいわば治外法権の地位に置かれている。皇族には兵役義務も納税義務もなく、戸籍法も適用されない。その戸籍は皇統譜に記載される。
 明治憲法は欽定憲法主義をとっている。すなわち天皇の大権にもとづいて制定されたものである。
 君主主権主義は、けっして君主独裁主義を意味するものではないが、天皇の大権と議会の権限との関係は大権が主であって、議会は副と定められている。その点において、明治憲法は大権中心主義をとっている。
 天皇はその大権にもとづいて、国民にたいする統治権を行使する。議会の決議は直接には国家意思とはならず、天皇の裁可によってはじめて国家意思となる。
 議会の議決が得られない場合でも、政府は大権にもとづいて、緊急勅令や予算外支出、予算超過支出、財政上の緊急処分をおこなうことができる。
 とはいえ、議会が国家意思に参与できないというのは誤りである。天皇は一般国務に関しては国務大臣の責任により、これをおこなうとされており、議会はとうぜん国政に関与することができる。法案の審議はいうまでもない。加えて、上奏、建議、質問、予算および決算の審議などを通じて、議会は国政に関与する。
 大権は神聖不可侵だという考え方も誤っている。神聖不可侵なのは天皇の御一身であり、国務上の大権はけっして神聖不可侵ではなく、天皇の名において国務大臣がその責にあたる。
 さらに大権そのものも憲法や条約、法律によって制限されていることはいうまでもない。

(2)二院制代議主義
 明治憲法は君主主権主義を基礎とするとともに立憲政治をもとにしている。立憲政治とは民衆政治である。君主が国民の心をもって心とすることが立憲君主制の要点である。
 立憲政治は政府による議会にたいする責任政治でもあり、各個人の人格を尊重する人格解放の政治でもあり、人民の権利を保証する法治政治でもある。
 国政において肝要なのは総理大臣の任命である。それが君主の大権であることはまちがいないが、「君主はその個人的の信任に基づいて総理大臣を任命せらるべきではなく、国民の信頼に基づいてこれを任命せらるべきものである」。元老による総理大臣の推挙は、あくまでも国民の意向にもとづかなければならない。
 日本の立憲政治では、国民はただ選挙をおこなうにとどまり、みずからは直接国政に参加するのではなく、議員が国民を代表して国会に参与するかたちをとっている。そこで、国会の議決が法律上国民の意思の発表と認められ、すなわち民意が国会によって表明されることになる。
 議会が国民代表の機関ならば、理論上はむしろ一院制度のほうがその性質に適合するはずだが、世界では二院制がふつうの制度になっている。 その理由は選挙と多数決主義のもつ欠点を是正するためである。
 さらに、日本では議会の権限が諸外国にくらべ制限されている。議会は国政の参与機関であるにすぎない。議会の役割は立法と国政の監視にあるはずだが、日本ではその立法権はいちじるしく制限され、議会の査問権も認められていない。質問権も形式的なものにとどまっている。議会の会期もごくかぎられている。
 日本も諸外国のように二院制をとっているが、貴族院というすこぶる特異な議院を有しているのが特色で、しかも第二院の貴族院がきわめて強い権限をもっていることが問題だ。
 帝国議会は国民の代表機関として、政府にたいし完全な独立性を有しているはずだが、その一院である貴族院はなかば天皇の機関のような存在になっている。それは議員が勅令によって任命されるためで、そのため政府にたいする独立性が失われがちになる。貴族院の役割は、あたかも国民の代表機関である衆議院の力をそぐことに向けられているかのようだ。そればかりではなく、力をたのんで内閣の存立を脅かす事態さえ生じさせている。
 こうした貴族院の現状は改革されなければならない。

(3)権力調和主義
 権力調和主義とは「立法権と行政権とを厳格に分離せず、両者をして相調和し得べからしむる組織をなしていることを意味する」。
 行政、司法、立法の三権が完全に分離独立しているのではなく、三権のあいだに調和統一が保たれるのを期待するのが、日本憲法の特色だ。
 日本では立法権も行政権も天皇に属している。立法権については原則として議会の協賛を要するが、行政権は原則として議会の協賛を要しない。法案は政府も議員も提出できるが、実際には政府の提出する法案が大部分を占めている。
 とはいえ、議会は上奏、建議、請願受理、質問などの権限をもっており、それによって行政権に関与することができる。さらに予算および決算の審議を通じて、行政のすべてにわたって監督権を有する。
 こうして議会も政府もともに立法と行政に関与するのであって、大権が議会から独立し、議会はこれにまったく関与しえないというような考えは絶対に排斥しなければならない。
 議会と政府はけっして没交渉の位置にあるわけではない。憲法のもとでは政府と議会は、相互に影響をおよぼし、その間に調和を保たせるようにするのが、必然の勢いである。国務大臣は天皇にたいしてのみ責任があるわけではなく、議会にたいしても責任をもっている。
 議院内閣制を憲法はかならずしも必要な制度とは認めていない。国務大臣の任命は天皇の大権に属するものだ。「けれども政府と議会とを相互の交渉あるものとなし、一方には政府の解散権を認むるとともに、一方には議会の不信任決議の権を認めている結果は、議院内閣制はその必然の結果として、期待せられ得べきものである」。それが憲政の常道である。
 日本では裁判官は天皇によって任命されており、そのかぎりにおいて司法権は行政権の支配下にあるといってよい。だが、裁判官は法律にしたがって裁判をなすものであるから、その意味では立法権に絶対服従しているともいえる。つまり、憲法では「権力の調和統一が国政の進行に必要なることを認め、立法権をもって国家の最高の作用となし、而して立法権は政府と議会の協力によって行わるるものとなし、行政権と司法権とは共に立法権の下に立つものとしているのである」。
 議会政治こそが政治の原動力にならなければならない。

(4)兵政分離主義
 憲法では陸海軍を統帥する大権と国家統治の大権が分離され、内閣が陸海軍の統帥にかかわらないことになっている。陸海軍統帥大権は、軍の大元帥としての天皇が総攬するところであって、参謀総長と海軍軍令部長が天皇を補弼し、議会はこれに関与する権限を有しない。これをが兵農分離である。こうした考え方はドイツ帝国の制度にならったものだ。
 兵政分離主義は憲法に明記されているわけではないが、事実上の慣例となっている。兵政分離主義の長所は軍の行動を効率的かつ機敏にすることにある。だが、その一方で政府をはじめ局外者の容喙を拒否する傾向を生じやすく、軍の独走を招きやすい。
 しかし、兵政分離主義には例外もあって、軍政と軍令はとうぜん区別されるべきだ。軍政はいうまでもなく国政にかかわっている。兵権と政権との区別はあきらかにされねばならない。陸軍大臣、海軍大臣は現役武官制をとるべきではない。

(5)中央集権主義
 明治維新以降、日本は連邦主義をとらず、中央集権を主義としている。統治権は国家に一元化されている。さらに中央官庁が直接全国を支配し、中央官庁の命を受けない行政官庁が地方に存在することを求めないのが原則である。
 ただし、例外として地方自治制度が認められている。地方自治体は純然たる地方的利害に関してのみ、みずからこれを処理する権限を与えられている。こうした地方自治制度は天皇の大権に由来するものではない。
 地方自治制度の充実をはかるべきである。

(6)成文憲法主義
 日本憲法は不文法ではなく成文法を採用している。それにより憲法は明瞭性と固定性という特徴をもつようになった。
 それにより、だれもが憲法の内容を認識することができるいっぽうで、時勢に応じて伸縮自在に変化する弾力性を失ったともいえる。
 日本の憲法は条文がきわめて簡潔であり、そのためかえってかなりの程度まで、不文憲法をもって補充されなければならない。従来の日本の学界の通弊は、ただ成文法にのみ重点を置いて、不文法の重要性を軽視していることにあった。

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社会変動論──富永健一『近代化の理論』を読む(4) [本]

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 社会構造論と社会変動論は重なりあっている。社会構造論が空間軸に沿った記述だとすれば、社会変動論は時間軸に沿った記述だ、と著者はいう。
 社会変動とは社会構造の変動である。社会変動は長期にわたる変動であり、現在の社会構造を構成する家族・親族(基礎集団)、組織(機能集団)、地域社会(村落、都市)、社会階層、国家と国民社会が、そのなかでどのように変動してきたかをとらえる。

[社会の成長、発展、進歩]
 社会は成長、発展、進歩するといわれる。
 社会成長は健康、栄養、住居、教育、医療、生活の質、社会保障などの指標がどのように改善されているかを示すものだ。残念ながら、経済のGDPのように、社会全体の状況をあらわす単一指標はない。
産業化の進展とともに、上に挙げたような指標は上昇し、しだいに水平に近づいていく。その一方で、産業化が環境汚染やアノミー化、離婚、犯罪などを促進している側面もあるから、社会成長はどこまでもプラス方向に進むとはかぎらない、と著者はいう。
 社会発展は社会システムの質的な変化を指している。著者によれば「社会成長と構造変動とがあいともなっている社会変動を社会発展と呼ぶ」。そして、社会成長と社会発展は社会進歩ととらえることができるという。
 しかし、社会はかならずしも常に成長、発展しつづけるわけではない。社会の停滞はよくみられる現象だ。戦争や天災が生じれば、社会が退行することもある。とはいえ、社会退行がどんどん進んで、文明社会が未開社会に戻ってしまったという事例はかつて歴史上ないという。
 これとは別に社会進化という言い方もある。社会進化とは未開社会から近代産業社会にいたる発展を進化としてとらえる考え方で、これも社会変動理論の一類型だと考えられる。

 そこで、著者はこれまでの近代化理論には、進歩の理論、進化の理論、発展の理論の3つの理論があったとして、これを紹介しながら、最後にこれらを統合して、みずからの考え方として価値中立的な社会変動理論を打ち出すことになる。

[近代化=進歩]
 まず近代化を「進歩」ととらえる考え方。
著者は近代をつくりだしたのは西洋であって、「近代」を明示したのは西洋の思想家だと明言する。
 封建時代の旧守的な態度からは、進歩の考え方はでてこない。儒学やキリスト教も同様じだ。しかし、西洋では宗教改革がおこり、合理主義と実証的な近代科学をよしとする啓蒙主義が広がっていった。そこからは世代的継続を通じての進歩という発想が生まれた。
 フランスのサンシモンとコントは実証主義を唱え、イギリスのロック、バークリー、ヒュームは経験主義哲学をつくりあげた。ともに神学、形而上学を排除する知識哲学だった。重視されたのは、誤りを一歩一歩ただしていく態度であって、進歩はそうした検証から生まれると考えられた。
 コントによれば「人間の進歩という合理的な考え」を最初に定式化したのはパスカルだったという。さらにパスカルの考え方を発展させたのが、コンドルセーだ。コンドルセーは、偏見とか迷信といった非合理的なものを取り除き、理性の力を増大させ、自然科学、社会科学を学び、さまざまな技術を開発していくことこそが、文明を進歩させる原動力だと考えていたという。

[近代化=進化]
 次に近代化を「進化」ととらえる考え方。進化は内容的には進歩と異なるわけではなく、進歩を環境にたいするより高度な適応と考えたところに思想的な意義があるという。最初に社会進化論を唱えたのはスペンサーだ。人間社会は分業によって進化する。スペンサーは、社会は有機体であって、構造分化によって機能を高め、軍事型社会(個人は国家のためにある)から産業型社会(国家は個人のためにある)に向かうという明るい展望をえがいた。
 人類学の分野で社会進化論を唱えたのはモーガンだ。モーガンは人類社会が未開社会から現在の進化した文明にいかに到達したかを明らかにするために、未開人と思われるイロクォイ族の調査研究をおこない、『古代社会』を著した。モーガンは人類の進化を野蛮、未開、文明の3つに分け、原始乱婚から一夫一婦制にいたる6段階の婚姻の進化図式を示した。しかし、いまでは原始乱婚説はマリノフスキらによって否定されているという。
 こうした西洋文明社会を絶対的な基準とする単線的な社会進化論は、現在では支持を失っている、と著者は明言している。

[近代化=発展]
 これにたいし、近代化をより客観的に「発展」としてとらえる考え方がでてくる。価値中立的に近代化を状態Aから状態Bへの移行としてとらえる考え方だ。その場合、社会が質量両面において、より高次なものになっていくことが想定されている。
 社会発展とは、社会が伝統的形態から近代的形態へと移行することを意味する。それは「科学革命・精神革命・技術革命・産業革命・市民革命などのすべてを包含した、多方面にわたる変動の総合的産物」であって、著者はそれを一括して「社会構造の変動としての近代化」と名づけている。
 テンニェスは、こうした社会変動を「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」と言い表した。しかし、著者によれば、それは「ゲマインシャフトとゲゼルシャフトが未分離である状態から、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトが分離している状態へ[家族と組織の分離]」へと言い直すべきだという。いずれにせよ、近代化にあたっては、村落共同体的な社会関係が壊れて、損得と取引とビジネスの世界が誕生したことは疑えないだろう。
 いっぽう、ウェーバーは支配の社会学の観点から、近代化を「伝統的支配から合法的支配へ」の移行としてとらえた。伝統的支配は家父長的支配を典型としていた。それは王を家父長として、王にひたすら仕える社会である(家産制)。これにたいし、封建制はそれぞれの地域を世襲的に領有する領主が中央の王と封臣関係を結んで安全を保障してもらう制度だ。だが、家産制も封建制も伝統的支配であって、ウェーバーは近代社会ではこうした支配のかたちが崩壊して、法による支配が原則となるととらえた。

[構造―機能―変動理論]
 著者はこうしたさまざまな近代化論を紹介したうえで「構造―機能―変動理論」なるものを打ちだしていく。この理論はパーソンズの構造―機能理論を発展させたものだという。そのもととなるのはスペンサーとデュルケームの考え方だ。
 機能の変化は構造の変化と結びついている。たとえば企業が生まれるなどして社会構造が変化すると家族の機能も変化していく。
 人は状況に応じて、社会システムの構造を変化させることができる。それによって古代の専制政治が封建制になり、封建制が近代資本主義になっていく。要するに構造変動が起こることが人間社会の特徴だという。
 機能的要件が満たされなくなると、諸個人はシステムの現行の構造に不満をもつようになり、何らかのアクションを起こす。しかし、そういう動機が生じない場合は社会システムは安定している。すなわち構造―機能―変動の動学は均衡(平衡)状態にある。
 社会変動、すなわち古い社会構造から新しい社会構造への移行過程を理論化して、著者はこう述べている。

〈以上の考察から、次のことが明らかです。すなわち、社会変動は、当該社会システムにおいて、多くの成員が現行の構造のもとで機能的要件が十分充足されていないと思っており、したがってシステム内部に現行の構造を変えるような行為を始動する動機づけが充満するようになると、システムの均衡は崩壊します。システムのそのような現状を認識した成員たちは、新しい均衡を実現することのできる新しい構造を求めて、さまざまな試みをはじめます。それらの試みにはきわめて多くの変異があり、そして最終的にはその中から一つのものが選択されて、新たな構造への収斂が帰結するようになることで、一回の構造変動は収斂するのです。〉

 社会変動を促すのは、個々人の欲求水準であり、ひいては国民規模での欲求水準である。徳川幕府から明治政府への体制転換も、この理論によって説明できるという。
 こうして社会変動の一般理論をかたちづくったうえで、著者はそれを歴史の発展段階にあてはめていくことになる。
 著者によれば、その発展段階は(1)未開社会(紀元前8000年ごろ〜紀元前2000年ごろ)(2)農業社会前期(紀元前2000年ごろ〜紀元1000年ごろ)(3)農業社会後期(1000年ごろ〜1600年ごろ)(4)近代産業社会前期(1600年ごろ〜1900年ごろ)(5)近代産業社会後期(1900年以降)に分類できる。農業社会前期が古代、後期が中世、近代産業社会前期が西洋の近代、後期が現代にあてはまることはいうまでもないだろう。
 次回は発展段階ごとの社会変動を扱う。

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近代の社会構造──富永健一『近代化の理論』を読む(3) [本]

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 著者は近代産業社会の社会構造を家族、組織、地域社会、国家の順に並べて論じている。この順は小さな(ミクロ)レベルから大きな(マクロ)レベルへと並べたものだといってよい。さらに、社会階層は全体社会からみた人間の階層(階級)分類である。社会構造はいわば縦軸と横軸からみた社会集団の組み合わせによって形成されている、というのが著者の理解である。
 近代産業社会の構造は、しかし、いきなり生じたわけではない。それには未開社会から古代、中世、近代にいたる長い歴史があるのだから、それを無視するわけにはいかない。むしろ、これまでの経緯を踏まえることによって、近代の社会構造の特質が明確になってくる。そこで、著者は社会集団の分類にしたがって、個別に分析を加えていく。

[家族と親族]
 まず取りあげられるのが、いわば現代社会の「基礎集団」というべき核家族である。核家族は夫婦(あるいはどちらか)と未婚の子どもからなる家族を指すが、こうした家族形態は近代特有のものである。
 古くから家族にはいろいろな形態があった。しかし、いつの時代も家族が親族の一部として成り立っていることはまちがいない。夫婦にはそれぞれ親や兄弟がいて、その親にも親や子がいてという親族関係は、その当人を起点として、集団としての大きな広がりをもっている。
 未開社会においては、共通の祖先をもつ家族が、族外婚を通じて氏族社会を形成していた。しかし、農業社会になると、氏族ではなく家父長制家族が中心になる。
 大家族、小家族、複婚家族、複合家族、未分家族、家父長家族、直系家族など、家族の形態は実に多様である。だが、重要なのは近代産業社会では、家族が核家族と呼ばれる形態に収斂されてきたことだ、と著者はいう。
 家族が核家族の形態をとるようになった理由は、近代産業社会では、家計と企業が分離されたからだ。近代以前においては、農業だけではなく、商業や工業も家族で営まれていた。しかし、家計と経営が分離されると、家族の経済機能はおもに消費になっていく。さらに幼稚園と学校などでの教育が普及すると、家族の教育的機能も補助的なものとなっていく。氏族のもつ政治的権力や祭祀的機能も失われていった。さらに農村共同体が解体すると、親族の相互扶助機能も失われた。
 しかし、核家族が中心となった家族そのものが解体することはない。夫婦の愛情、家計、子育てといった家族の役割はほかに代替できないし、核家族は共同性の中心として、これからも持続していくと著者は断言する。

[組織(企業など)]
 近代産業社会を切り開いたのは組織、とりわけ企業だといってよい。企業をはじめとする組織は「特定の機能を達成することを目的として」つくられた社会集団である。こうした組織は近代化・産業化によって誕生した。
 機能集団としての組織は、支配関係と分業によって成り立っている。分業とは労働の分割と配置にほかならず、その目的は組織の効率を高めることにある。さらに組織は支配関係を組みこむことによって、命令により目的達成を促進する機能を有している。
 組織の役割は「合理性すなわち目的達成における効率性を追求すること」にある。こうした合理性は、組織(企業)と家族(家計)が分離されることによって生まれた。社会学的にいえば、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトが独立したということになる。
 近代産業社会においては、組織は常に競争関係におかれている。そのため組織は外からの刺激によって、たえず合理性を追求する努力を強いられているといってよい。
 企業は刻々と変化する市場に対応しなければならず、そのために組織をどうつくりあげていくのが合理的かを問われている。
 もう一度まとめてみよう。近代産業社会の構造は「一方で家族(ゲマインシャフト)と企業(ゲゼルシャフト)が分離し、他方で企業が市場の中の無数の小島として大海の中に浮かび、しかもこの市場が家族と企業をつないでいる」という図式によって理解することができる。これが著者のとらえ方である。

[地域社会]
地域社会は社会集団ではなく、政治的に分けられた一定範囲の領域を指している。村落と都市が地域社会を形成している。
 村落の特徴は社会関係が封鎖的に集積していることだ、と著者はいう。村落の産業は農業だけとはかぎらない。林業や漁業もあり、まれに工業がある。産業化と近代化が進むと、村落の封鎖性は解体され、次第に村落らしさは失われていく。
 歴史的にみれば、村落がつくられたのは中世の農業社会においてである。村落は自給自足が原則であり、そのかぎりにおいて、村民にとって村落は全体社会だった。
 日本では1930年代でも村落共同体が残っていた。農業機械や化学肥料、テレビ、自動車などが農村にはいるのは、1955年以降の高度成長期である。それ以降、村落の封鎖性は次第に崩れていった。
 いっぽう、都市の特徴は社会関係が開放的だという点にある。都市は結節点だ。人は都市に流入し、都市から流出する。都市の産業は非一次産業、つまり二次産業ないし三次産業である。これは市場があってはじめて成り立つ産業だ。さらに人口規模と人口密度が大きいこともが都市の特徴といえるだろう。
 都市は古くから存在した。古代において、都市は政治都市であり、消費都市でもあった。中世では商人や手工業者が都市を形成した。しかし、そのころ巨大都市はできず、社会全体は村落的な性格を色濃く残していた。日本でも徳川時代に江戸や大坂のような大都市が出現したが、それ以外の町はちいさく、人口数万程度にとどまっていた。
 だが、産業化と近代化が次第に都市の「都市度」を高めていく。企業や官庁、学校、その他のサービス機関が、都市に人口を吸引する役割をはたしていった。その結果、現在、先進国では、人口の8割以上が都市に住むようになっている、と著者は指摘する。

[社会階層]
 人間の社会はこれまでずっと不平等社会だった。ここで著者は社会構造論にいわば垂直的な軸を導入しようとしている。
 政治権力や経済力、文化力などの社会資源は、いつの時代も共同体の成員に均等に与えられているわけではなかった。不平等の度合いが高まったのは農業社会にはいってからである。古代ローマなどでは、大土地所有者である地主が奴隷を使役しながら農場を経営していた。中世においては、土地所有権をもつ荘園領主が農奴と呼ばれる農民を支配していた。これにたいし、近代産業社会では資本をもつ資本家が労働者を雇用するようになる。
 農業社会における領主と農民の区別は身分と呼ばれ、産業社会における資本と労働者の関係は階級と呼ばれる。
 しかし、近代産業社会が進展するにつれて、階級に代わって社会階層という新たな概念が登場すると著者はいう。固定的な身分や階級とちがい、社会階層は流動的で、その地位は世代間で移動する傾向をもつ。
 近代産業社会が進むにつれて、人が他者と競争しながら、職業や所得などの社会的地位を求めるという経歴パターンが生まれるようになった。こうした地位達成過程が開かれたことが、これまでの階級とは異なる社会階層概念が生まれるようになった理由だ、と著者はいう。

[国家と国民社会]
 最後に登場するのが、国家という概念である。国家は社会を包摂する。国民社会というのは国家のもとで国民的な広がりをもつ全体社会を指しているという。
 日本において国民社会が形成されたのは明治以降だ、と著者は書いている。それまでは封建制のもとで領国が形成され、日本全体が国だという意識は希薄だった。国民社会のもとで、はじめて村落共同体の封鎖性が解体され、全国的な規模での資本主義市場が形成されていく。近代化、産業化とともに都市化が進展する。
 国民社会が成り立つのは、国家が存在してこそである。しかし、国家と社会は相互依存関係にあり、国民国家は国民社会があってこそ成り立つ、と著者はいう。
 国家の形態は多様である。古代エジプト、古代ギリシア、ローマ帝国、秦漢帝国以来、国家は人間に欠くことのできないものとして存在してきた。
 著者によれば、国家とは「一定領域の土地を領有しそこに居住している人びとを支配している統治機構である」。そして、国民とは「一定領域の土地の上に居住して、原則として同一の民族に属し、言語と文化を共有し、立法・行政・司法の統一組織を有する人びと」のことである。
 近代の国民社会の上に形成されるのが国民国家である。しかも、現代においては、この国民国家が福祉政策を実施することがとうぜんとみなされるようになった。
 この国民国家がグローバルな国際関係のなかに置かれていることはいうまでもない。しかし、いまのところ、国民社会に対応する世界社会という社会システムがすでに構築されているわけではない、と著者は指摘している。

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