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社会変動の歴史──富永健一『近代化の理論』を読む(5) [本]

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 著者は人間社会の発展段階を(1)未開社会(紀元前8000年ごろ〜紀元前2000年ごろ)(2)農業社会前期(紀元前2000年ごろ〜紀元1000年ごろ)(3)農業社会後期(1000年ごろ〜1600年ごろ)(4)近代産業社会前期(1600年ごろ〜1900年ごろ)(5)近代産業社会後期(1900年以降)に分類する。
 そのうえで、(1)家族・親族(2)組織(3)地域社会(4)社会階層(5)国家と国民社会からなる社会構造を、それぞれ発展段階ごとに変動の様相をとらえようとしている。その変動は一括して社会変動と呼ばれる。

(1)家族・親族の変動
 人間社会に通底するのが家族・親族である。どの発展段階でも、家族・親族なしに人間社会は成り立たない。
 未開社会では、家族の血統のたどれる親族集団が氏族を形成し、狩猟、労働、防衛、相互扶助、祭祀などの機能を一体的にもつ生活共同体を維持していた。だが、社会が発展するにつれ、そうした一体的機能は次第に分化し、親族の全体的機能は解体・縮小されていく。
 農業社会の前期はメソポタミアやエジプトからはじまり、ギリシア、ローマにいたる。後期は中世ヨーロッパがその典型である。
ギリシア、ローマは家父長制の時代だ。
「家父長権は父から男の子へと伝えられ、家父長たるものは家系を絶やさぬように、家の祭祀と家産を管理する責任を先祖に対して負っていたと同時に、家成員に対して絶対の権力をもっていた」
とはいえ、古代ギリシアは長子相続制ではなく、家父長である父が死ぬと均分相続がおこなわれていた。
 中国の「家」も、基本的に家父長制だといってよい。家長が死ぬと、男の兄弟だけが均分相続で家産をもらい受けた。しかし、数代にわたって、家産を分けないまま一つの家が持続されることもあったという。そうした大家族を形成するのは、大資産をもつ上層階級だった。
 中国では宗族という親族集団があった。宗族が家父長制家族と併存したことが、西洋とは異なる中国の特徴だという。
 日本では「家」は家長の直系家族が受け継いだ。その家長権は「嗣子」によって継承される。嗣子のみが家督を相続し、嗣子以外の傍系(次男、三男など)は家から離れなければならない。しかも分家でないかぎり、家産の分与にあずかれなかった。
 家父長制は農業社会段階の産物であり、その眼目は土地の相続である。本家と分家は依存関係でしか成り立たないことが多く、本家と分家が同族集団を形成する。東北地方などではこうした同族集団が昭和10年代まで残っていたという。

(2)組織の変動
 組織は近代の所産である。未開社会では組織らしきものはない。とはいえ、近代以前でも組織らしきものはあった。
農業社会になると国家が発生し、ある程度の行政事務をおこなう統治組織がつくられる。
 古代ギリシアには武器や靴、衣類、家具などをつくる「エルガステリオン」と呼ばれる作業所があった。古代ローマでも、鉱山や大農場などが経営されている。その所有者は個人もしくは団体で、実際の仕事を担っていたのは奴隷だった。
 しかし、中世になると、そうしたものはなくなり、農業にしても商業にしても、農家や商家、職人の家による自営業形態をとるようになる。家族が同時に経営体でもあった。そこではしばしば経営上の必要から非親族者が家のなかに迎えられた。日本では奉公人や丁稚、徒弟などがそうした存在にあたる。
 近代にいたって株式会社が発生する。それに先立ち、中世にはソキエダスやコメンダと呼ばれる会社形態が生まれた。
 最初の株式会社はオランダの東インド会社、つづいてイギリスの東インド会社である。これらはみな貿易会社だったが、産業革命をへると、株式会社が産業資本のかたちをとるようになる。その前駆的形態が問屋制前貸やマニュファクチュアだった。
 産業革命はマニュファクチュアを近代的大企業に発展させる契機となった。株式会社制度と工場システムが結合され、官僚制的な組織が導入されることになった。
 しかし、産業社会後期になると、情報産業やサービス産業、ハイテク産業が盛んになり、臨機応変に対応する機動性が求められるようになる。官僚制的な組織原理に代わって、新たな組織原理が必要になってきている。

(3)地域社会(村と都市)の変動
 都市と農村が生まれるのは、農業社会になってからである。
 古代ギリシアやローマの都市国家では、市民は農村の不在地主にほかならなかった。
 といっても、古代における都市の形態は多様であり、スパルタとアテネはかなりちがう。スパルタの市民は重層歩兵団として、たえず軍事訓練に従事しなくてはならなかった。これにたいしアテネでは、とくに手工業が発達し、市民のなかには自作農民や商工業自営業者も含まれていた。
 古代ギリシアでは小麦とオリーブが主要作物で、不在地主の所有する土地を奴隷が耕作していた。ギリシアの都市は基本的に軍事都市で、ポリスの周辺に広がる農村がこれを経済的に支えていた。
 古代ローマの都市も農村地主によってつくられた。ギリシアのポリスとのちがいは、都市在住者が土地所有貴族と平民に分かれていたことである。貴族は門閥氏族の成員で、官職を保持し、戦場では将校として指揮をとった。これにたいし、平民は土地ももたず、手工業や商業に従事し、戦場では重装歩兵団を形成した。
 しかし、ポエニ戦争後、ローマでは重装歩兵団が解体され、ゲルマンの傭兵隊が軍事をになうようになる。さらに共和制末期になると、ラティフンディウムと呼ばれる大土地所有制が進み、奴隷制による大農場経営と小作人が生みだされた。
 西ローマ帝国の滅亡により、中世がはじまると、ゲルマン社会が農業社会の中心となった。古典古代が都市国家の時代だったのにたいし、中世は荘園領主が農村に居住し、農民を支配する村落優位の時代になった。ゲルマン社会は本来まったくの村落社会だったが、それでも12世紀ごろから都市が生まれるようになった。
 中世の都市が古典古代の都市とことなるのは、それが、みずから手工業や商業を営み、村落に土地をもたない人びとによってつくられた自治団体だという点にある。古典古代では、都市が農村を支配していたのにたいし、中世では都市と農村の関係は対等で、市場をとおして相互に結びついていた。
 中世の都市では、商工業者がギルドやツンフトのような同業団体を結成していた。こうした同業団体は氏族や奴隷とも無縁であり、その点、より近代に近づいていた。
 いっぽう、中世の村落では、土地を私的に専有する農民が、家族で自営的な耕作をおこなっていた。その土地は、宅地、庭畑地、共同耕地、共有地、森林からなり、それは世襲的に相続されていた。農民は農奴と呼ばれているものの、村落共同体の成員として、村落共同体が総有している共同耕地や共有地、森林の分け前にあずかっていた。
 封鎖的な村落共同体は、交通関係が発展するにつれ、次第に開かれたものになっていく。近代化・産業化とは、「都市の都市度を高め、村落の村落度を低める過程」だった、と著者はいう。こうして、社会関係の開放性が進み、都市と村落とのあいだの社会移動が増えるにつれ、いよいよ近代がはじまることになる。

(4)社会階層の変動
 社会階層が生じるのは社会的資源の分配が不平等だからである。未開社会は比較的に平等社会で、不平等が高まるのは農業社会にはいってからだ。
 西洋の古代は、土地所有者階級と奴隷が存在した。ギリシア、ローマは征服国家で、戦争は土地の取り合いを意味し、奴隷は戦争の産物だった。この時代、農業と手工業はほとんど奴隷に依存していた。
 東アジアでは奴婢が存在し、賎民として扱われていた。インドにはカーストがあり、シュードラが賎民だった。かれらはアーリア人に征服された民族の末裔と考えられる。
 中世は身分制社会で、支配者の封建領主が土地を領地として支配し、土地を通じて農民を支配していた。家産制と封建制が、その主な形態だ。
家産制では、中央に専制君主がいて、そのもとに家臣団がいる。王は家臣に土地と人民を管理させ、そこから貢租を収めさせ、家臣には官職に応じてフリュンデ(秩禄)を与える。
 これにたいし、封建制では地域ごとに小規模領主が根をおろし、中央の王の力はさほど強大ではない。それでも領主は安全確保のため王に保護を求めて、王と封臣関係を結び、王は封臣となった領主の土地を保証するという関係を保った。
 家産制では君主の力が強いため、国内の富が君主に集中し、人民の側に富が蓄積されにくい。これにたいし、封建制では、君主に富と権力が集中せず、人民の側に富が蓄積され、近代化・産業化の素地がつくられていく、と著者はいう。
 近代社会は17世紀のヨーロッパにはじまる。ルネサンス、宗教改革、地理上の発見がその出発点だ。とりわけフランス革命が近代化を切り開いた。サンシモンは社会を貴族、ブルジョワ、産業者(働く人)という三つの階級から成り立つものととらえた。マルクスとエンゲルスは、サンシモンを発展させ、ブルジョワジーとプロレタリアートの対立という考え方を打ち出した。
 しかし、20世紀にはいるにしたがって、ブルジョワジーとプロ李足りアートの対立では収まらない現象がでてくる。
 これまでの旧中間層(農民、手工業者、小産業者、小商人)に加えて、新中間層が登場するのだ。新中間層は被雇用者という意味では労働者だが、単純肉体労働者ではなく、比較的高い教育水準や技術水準を身につけ、専門技術職や管理職などを担っていた。こうした新旧中間層の拡大によって、階級の区別は次第に見えにくくなり、むしろ階層による区分があてはまるようになった、と著者はいう。

(5)国家と国民社会の変動
 未開社会に国家はなかった。国家が登場するのは農業社会になってからである。
 古代ギリシアやローマは例外として、古代の国家は原則として王の専制によって成り立っていた。王のもとには行政組織があり、行政幹部は家臣団を形成していた。こうして、家産制国家の原型がつくられる。すべての土地と人民は王ひとりに帰属し、家臣団はフリュンデ(秩禄)をもらうだけである。
 王のオイコス(家)が解体され、家臣団が王から独立して、一定の土地と人民を世襲的に支配するようになると封建制が成立する。
 ところが17世紀に商業資本が発展し、資本主義の時代がはじまると、閉鎖的だった地域共同体は次第に解体され、国民社会が形成されるようになる。そのとき、農業社会のうえに築かれていた絶対王制は市民革命の挑戦を受け、貴族も支配層としての地位を失って、王制は次第に形骸化、もしくは廃止されるようになる。
 こうして近代国家が生まれる。近代国家がそれ以前の国家と異なるのは、第1に国民社会を下部構造にもつ国民国家であること、第2に立法・行政・司法の組織をもつ主権在民の国家であること、第3に多くの機能集団や組織、地域社会を内包する国家であることだ、と著者はいう。
 しかし、近代産業社会が後期段階にはいると、国家はこれまでにない新たな対応を迫られるようになる。それは失業、疾病、災害、高齢化などに対応する社会保障、コミュニティの維持、福祉国家の推進、さらにはグローバル化だという。
 いまも社会構造は変動しつづけている。

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