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ロンドン海軍軍縮条約──美濃部達吉遠望(57) [美濃部達吉遠望]

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 1929年(昭和4年)7月に発足した浜口内閣は、軍縮、緊縮予算、金解禁(金本位制復帰)などの方針を示し、その実現に向けて動いた。年末の通常議会は恒例どおり開かれてすぐに散会し、翌年1月21日に再開された。その日の午後、衆議院で浜口首相、幣原外相、井上蔵相による施政方針演説がおこなわれ、政友会総裁犬養毅との質疑応答が終わると、詔書が伝達され、予期されたとおり衆議院が解散された。
 2回目の普通選挙となる第17回総選挙は2月20日に実施された。「選挙の神様」と呼ばれる安達内相はすでに全国の警察を掌握し、人事異動をおこなうなどして、この日に向けて民政党を優位に導く万全の態勢を整えていた。総選挙の結果は、民政党が273、政友会が174、その他が19と民政党の圧勝に終わった。これにより、少数与党だった民政党は議会での圧倒的多数を得ることになった。
 美濃部達吉自身は、今回の解散時期は必ずしも適切ではなかったと論じている。政府は組閣後に対支改善、軍縮、予算の圧縮、金解禁などの政策を打ちだした時点で解散し、国民に信を問うべきであって、予算の審議が未了となるのがわかりきっている通常議会での解散は避けるべきだったのではないか。明治憲法では、審議未了で予算が成立しない場合、前年度の予算が踏襲されることになっていたとはいえ、大きな政策転換がなされる以上、審議を尽くすべき議題は多かったはずだというのが、議会政治の発達を願う達吉の主張である。
 とはいえ、達吉も少数与党の民政党がいずれ選挙に打って出るのは避けられないとみていた。選挙結果により、浜口内閣が安定した政治基盤を得たことにもいちおう満足したにちがいない。それでも力によって強引に政策を推し進めようとする政府の姿勢に、どこかあせりのようなものを感じていた。
 浜口内閣が衆議院を解散した当日の1930年1月21日、ロンドンではイギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアの5カ国による海軍軍縮会議が開かれようとしていた。
 前年の1929年10月7日に海軍軍縮会議の開催を提案したのは、イギリスの労働党内閣のラムゼイ・マクドナルド首相である。軍縮を打ち出す浜口内閣はさっそくこれに応じ、ロンドン会議への参加を決めた。
 ロンドン海軍軍縮会議は、1922年のワシントン会議を引き継ぐものだった。このときの会議ではワシントン海軍軍縮条約が締結されている。その条約で、5カ国の戦艦、航空母艦など主力艦の保有トン数比率は、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアで、それぞれ5:3:3:1.67:1.67と定められた。
 ところが、ワシントン会議では、1万トン以下の補助艦の比率は定められていなかった。今回のロンドン会議は、それを決めようというのである。
 ロンドン会議への参加を決めた浜口内閣は、11月26日の閣議で、補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など)の対米比率は7割を確保するという基本方針を定めた。
ロンドンには首席全権として若槻礼次郎元首相、外務省情報部長の斎藤博(のち駐米大使)、閣僚からは財部彪(たからべたけし)海相が派遣されることになった。
 ここで少し風呂敷を広げておく。
 さきほど述べたようにロンドン海軍軍縮会議はワシントン海軍軍縮条約の延長上にあったにちがいないが、ワシントン海軍軍縮条約そのものは、ワシントン会議で締結された諸条約のひとつにすぎなかったことを頭に入れておく必要がある。
 そもそもワシントン会議とはなんのために開かれたのだろう。
 アメリカは第一次世界大戦終結後、ウィルソン大統領がみずから提案して発足した国際連盟に参加しなかった。共和党が多数を握るアメリカ上院が、大統領との確執から、国際連盟設立を含むヴェルサイユ条約の批准を否決したためである。
 そのため、大戦をへて世界の最強国となったアメリカは、ヨーロッパ中心となってしまったヴェルサイユ体制とは別の戦後秩序をみずから練りなおす必要があった。
 ヨーロッパ諸国とはあらためて個別に条約が結ばれた。しかし、太平洋・中国・極東といったアメリカにとって重要な地域における安全保障の枠組みを、国際連盟とは別の場で仕切りなおさなければならなかった。ワシントン会議の目的は、むしろその点にあった。海軍軍縮はその課題のひとつにすぎない。
 1921年末から翌年2月にかけて開かれたワシントン会議では、四カ国条約、海軍軍縮条約、九カ国条約の三つの条約が締結された。
 海軍軍縮条約の主な内容は前に述べた。
四カ国条約は、アメリカ、イギリス、フランス、日本が太平洋に所有する領土を互いに尊重することを定めたものだ。イギリスは香港、フランスはポリネシア、アメリカはフィリピン、グアム、アリューシャン列島、日本は国際連盟から統治を委任されたミクロネシア地域を保全する。だが各国はその地域の軍備を強化せず、非武装のまま維持することが決められた。
 四カ国条約の締結にともない日英同盟は廃棄されることになった。その背景にはアメリカによるイギリスへの強い働きかけがあったといわれる。
 九カ国条約は中国とかかわりのある8列国と中国との関係を定めたものといってよい。ここでは、各国が中国の主権と領土を保全するとともに、各国の中国における既得権を尊重すること、さらに中国にたいし各国が商業や経済発展に機会均等の立場をもつことが確認された。
 ヴェルサイユ条約がヨーロッパの戦後秩序を定めたのにたいし、ワシントン条約はアジアの戦後秩序を定めたものである。それにより、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの戦間期においては、ヴェルサイユ体制とワシントン体制、さらに国際連盟がそれを補完するかたちで、国際的安全保障体制がかたちづくられたといってよい。
 ところが、ドイツを抑えつけようとしたヴェルサイユ体制は、とうぜんヨーロッパの戦勝国にたいするドイツの憎悪を沈潜させることになった。
 ワシントン体制も同じである。ワシントン体制は一見、参加各国の勢力をうまく配分するかのようにみえて、実は各国の不安をかきたてずにはおかない共振装置にほかならなかった。
 日本はアメリカに頭を抑えつけられていると感じるいっぽう、日英同盟のくびきを解かれて南方進出をも射程にいれた戦略を構想するようになる。日本が中国、とくに満洲で既得権益を拡大しようとすると、アメリカはそれを門戸開放政策にたいする重要な挑戦と受け止めるようになった。
 こうして1920年代後半になると、ヴェルサイユ体制とワシントン体制、それを補完する国際連盟によって支えられた国際秩序は、ファシズム勢力と国際共産主義運動によって揺り動かされるようになる。
 1922年のワシントン海軍軍縮条約を引き継ぐかたちで開かれた1930年のロンドン海軍軍縮会議には、戦間期秩序が不安定化する予兆がただよっていた。このとき、日本の国内では、国際秩序維持勢力と、それを突破・解体しようとするファシズム勢力、ならびにわずかに命脈を保っていた共産主義勢力がせめぎあっていたのである。
 余分な背景説明に時間をとりすぎたかもしれない。ロンドン海軍軍縮条約をめぐる動きをみておくことにしよう。
 浜口政権は緊縮財政のもと軍縮を進める考えだった。これにたいし、海軍内部はまっぷたつに割れていた。
 軍事参議官の岡田啓介(前海相、のち首相)、海軍次官の山梨勝之進らは、政府の軍縮方針を支持していた。「条約派」と呼ばれる。
 これにたいし、海軍軍令部長の加藤寬治、同次長の末次信正はあくまでも強硬姿勢を崩さなかった。アメリカとの対立を必至とみる。いわゆる「艦隊派」である。
 当初、アメリカの全権代表、ヘンリー・スティムソン国務長官は日本の総トン数比率を対米6割にすべきだと主張していた。だが、日本側のねばりにあって、3月12日には6.975とする最終妥協案を示した(ほかに大型巡洋艦や潜水艦に関する案も示された)。
これにたいし、日本の全権代表、若槻礼次郎元首相は、これ以上アメリカから譲歩を引きだすのはむずかしいとして、3月14日に日本政府に請訓を送った。
 日本側の求める対米7割では、最終的にアメリカ上院の批准を得られないと判断したのである。もし条約が締結できなければ、日米間ではてしない建艦競争がくり広げられるる恐れがある。そうなれば日本の国家財政は立ちゆかなくなる。このあたりが妥協のしどころだった。
 3月15日、浜口首相は岡田軍事参議官と山梨海軍次官に海軍内の取りまとめを依頼した。ところが、海軍の艦隊派がこれに反発、ロンドン会議の様子を新聞に暴露し、政府の軟弱ぶりを批判させた。
 浜口は3月27日に昭和天皇と会い、天皇から「世界平和のため早くまとめるよう努力せよ」と言われ、条約締結の意思を固めた。
 強硬派の海軍軍令部は、ひきつづき政府の姿勢に反対しつづけた。しかし、政府はついに4月1日に天皇の裁可を得て、ロンドンの全権団に条約締結の回訓を発する。翌日、ようやく上奏を認められた加藤軍令部長は天皇に回訓反対の考えを伝えたが、すでに時遅しの感があった。
 その後も海軍軍令部の抵抗はつづく。
 海軍軍縮条約は4月11日に各国間で合意がなされ、4月22日にロンドンで調印された。
翌4月23日から日本では第58特別議会が開かれ、条約問題がさっそく大きな議題となった。野党の政友会は、統帥権干犯というそれまでにない表現を用いて、政府を攻撃した。
 ロンドン海軍軍縮条約をめぐる動きについて、美濃部達吉は新聞や雑誌に多くの論評を書き残している。

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浜口内閣の発足──美濃部達吉遠望(56) [美濃部達吉遠望]

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 政友会の田中義一内閣が総辞職したあと、1929年(昭和4年)7月、西園寺公望の推薦により民政党総裁の浜口雄幸(おさち)が首相の座についた。議会では少数派の内閣だから、いずれ総選挙を実施しなければならないことはわかりきっていた。
 浜口は高知県出身で、東京帝国大学を卒業してから大蔵省にはいり、大蔵次官を務めたあと政界入りした。加藤高明、若槻礼次郎の内閣のもとで、蔵相や内相を歴任し、首相になったのは59歳のときである。
 浜口内閣は外相に国際協調路線をとる幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)、内相に「選挙の神様」と称される安達謙蔵、蔵相に前日銀総裁の井上準之助、陸相に宇垣一成(うがき・かずしげ)、海相に財部彪(たからべ・たかし)といった強力な布陣を敷いた。
 歴史学者の坂野潤治(ばんの・じゅんじ)にいわせれば「戦前日本でもっとも民主的な内閣だった。
 浜口内閣は対支改善、軍縮の促進、財政整理・緊縮、金解禁の断行、社会政策の確立など10項目の政治綱領を掲げた。田中義一内閣とのちがいは鮮明だった。
 経済政策において、とりわけ目玉となったのが金解禁である。
 金解禁とは、金を国際通貨の基軸とする金本位制に復帰することにほかならない。金本位制をとらないかぎり、円にたいする為替レートは常に変動している。浜口内閣は、日本経済を安定した成長軌道に乗せるためには、多少のデフレを覚悟しても、金解禁を実施せざるをえないと思いつめていた。
 日本は1917年(大正6年)に金本位制から離脱したあと、関東大震災や金融恐慌があったために、世界の金融秩序に復帰するチャンスを逸してきた。
 経済学者の中村隆英によると、もともと金解禁に慎重だった井上準之助は、慎重な準備をおこなえば、金解禁にともなう不況を招くおそれはないとの信念をいだくようになっていたという。
 井上はそのため、まず横浜正金銀行に指示して、意識的に為替レートを旧平価に近づけようとした。これにより、第2・四半期には100円=44.6ドル(1ドル=2.24円)だった対米レートは、第4・四半期には100円=48.5ドル(1ドル=2.06円)と上昇をつづけた。
 さらに井上は日本銀行に指示して、金利を高めに誘導し、金融を引き締めた。そのいっぽう実行予算を組んで、財政支出を約9000万円削減して、16億8000万円とし、大幅に公共投資を削減した。
 ドルにたいする円のレートを切り上げて、金輸出を禁止した時点の旧平価のもとで、金解禁を実施することが井上の目標だった。そのために国内の需要を抑制し、輸入を削減し、輸出を伸ばす方向が模索された。1929年後半の物価は下がり、不況の色が濃くなった。
 当時、雑誌『東洋経済』を拠点にしていた石橋湛山や高橋亀吉、『中外商業新報』(のちの日本経済新聞)の小浜利得(おばま・としえ)らは、旧平価による金解禁は、あまりにも企業や国民に犠牲を強いるとして、これに反対したが、井上は断固として、みずからの信念を貫いた。
 こうして浜口内閣は1930年(昭和5年)1月に、100円=49ドル(1ドル=2.04円)の固定レート(旧平価)のもとでの金解禁に踏み切る。
 折悪しく、前年10月24日金曜日には、ニューヨークで株式が大暴落し、それが引き金となって世界恐慌が発生していた。
 浜口内閣の金解禁と歩調を合わせるように、大きな打撃を受けたのは製造工業以上に、むしろ農山村だった。米価、繭価はともに急落し、農家の所得は1929年から31年のあいだに半減する。これにより日本の農村地帯は深刻な窮乏に見舞われることになった。都市でも多くの企業が倒産し、失業者が増えた。
 憲法や行政法を専門とする美濃部達吉も、金輸出解禁には無関心ではいられなかった。「金輸出解禁が国家及び国民の全体にとり、いかに重大な関係のある行為であるか」を認識している。
1929年10月発行の『法学協会雑誌』では、もっぱら法律的な観点にかぎって、金輸出解禁問題を論じた。
 達吉がまず問題だとしたのは、1917年の寺内正毅内閣による金輸出禁止が、法律や勅令によってではなく、大蔵省令になされたことである。それにより、形式的にいえば、今回の金輸出解禁は前の大蔵省令を廃止するだけで実現しうることになった。
 これにたいし、達吉は疑問を呈する。国民経済の全体を根底から動かすような経済政策が一大蔵大臣の権限によって決定されていいものだろうか。
 緊急勅令や軍の運用、官制上の措置、条約締結などの天皇の大権をのぞき、「すべての立法権、すなわち国民の権利義務につき新たなる規律を定めるの権は、原則として常に議会の議決を経ることを要する」と達吉はいう。
 官制上の措置は、公共の安寧秩序を維持し、臣民の幸福を増進するための命令にかぎられる。すると金輸出を禁止したり解禁したりする行為は、はたして官制上の措置として、大蔵大臣の職責において決定しうるものだろうか。そうではない。

〈私は金輸出禁止のごときは、その性質上、ただ法令をもってのみ定めうべきもので、当然議会の協賛を要し、ただ議会の閉会中緊急の必要がある場合にかぎり、議会の事後承諾を条件として緊急勅令をもって、これをなしうるにとどまると信ずる。〉

 議会による立法が原則である。そうなると1917年の寺内内閣による金輸出禁止の大蔵省令も権限外だったことになる。これを撤回させるには裁判所の命令によるほかないが、こうした行政命令が裁判所によって出されたためしはこれまでない。
 そこで、現実としては、金輸出を解禁するためには、以前の大蔵省令を廃止するほかなく、これが現在の浜口内閣がおこなったことである。
 それでも、議会での議決をへず、一大蔵大臣の権限でこれをおこなったことは、立憲政治においてはきわめて異常事態といわねばならない、と達吉は論じた。
 こうした強引な政策変更は金解禁にとどまらなかった。
 浜口内閣は田中内閣のときにすでに議会で可決されている予算にたいしても変更を加え、新規事業を中止または延期することによって、1億4700万円(実際には約9000万円)を節約する実行予算を編成した。
さらに10月には官吏減俸案まで打ち出し、歳出削減をめざした。さすがに減俸案は現場からの強い反対にあって撤回せざるをえなかった。
 政府が次々と打ち出すこうした案は、金融緊縮によって円高を誘導し、金本位制への復帰をめざすための方策だったといえるだろう。
 議会での審議をへずに、こうした強行措置がとられたのは、当時、民政党が少数与党だったためでもあるが、政権の実績を上げようとするあせりのようなものもあったはずである。
 とうぜん野党の政友会は憲法違反だとして反発したが、これにたいし政府は予算を節約するのは政府の自由だとして、実行予算の実施に踏み切った。これにより、建設が進んでいた国会議事堂や警視庁、鉄道などの工事もいったん中止されることになった。
 浜口政権の一見果断というべき対応をみながら、達吉はこの先に落とし穴のようなものが待ち構えているのではないかというような漠然とした不安を感じていた。
 政府による実行予算編成が憲法違反ではなく、政府の自由な権限に属することを認めつつ、達吉はこう書いている。

〈……政治上の主義を異にした新内閣が組織せられて、前内閣の政策を非なりとする場合においては、前内閣の政策をそのまま踏襲することはもとより不可能であり、したがってある程度において前内閣の定めた事業計画を変更し、事業の中止または繰り延べをおこなうこともやむをえないところであり、必ずしも政治上の責任に反するものというべきではない。
しかしながら前内閣の提出したものにせよ、すでに議会の承認を得た事業計画を変更して、事業の中止または繰り延べを行うことは、政治上から言って、明らかに議会の意思に反するものであり、したがって政府はかくのごとき変更を実行せんとするにあたっては、これを議会に報告して、その承認を求むることが当然でなければならない。〉

 達吉が主張するのは、議会政治のルールがあってしかるべきだということである。にもかかわらず、政党政治はおうおうにして権力をかさにして、議会における説明と承認の原則を踏みにじり、独善的な方向へと走りやすい。
 原敬の時代にようやくはじまったといえる政党政治が、はたしてこの日本で定着しうるのか。達吉が不安を感じていたのは、政党政治のあやうさだったといってよい。
 ちょうどそのころ、政友会では総裁の田中義一が狭心症によって死亡し、田中とまるで対照的な党人の犬養毅が新総裁にかつぎあげられようとしていた。

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臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 ドイツの植民地獲得は、イギリスやフランスに遅れをとっていた。1883年に西アフリカを植民地にしたのが最初である。その後、1885年に東アフリカ、すなわち現在のタンザニアの大陸部分、ルワンダ、ブルンジを獲得している。その総督を務めたのがドイツ植民協会のカール・ペータースだった。
 ペータースはドイツ領東アフリカに「ドイツ東アフリカ会社」を設立し、貿易とプランテーションに乗り出す。アフリカでプランテーションといえば、まず思いつくのが東アフリカを原産地とするコーヒーだった。
 東アフリカ会社は調査の末、ウサンバラの丘陵地帯にコーヒー栽培に適した土地をみいだす。多くのプランテーション会社が設立され、東アフリカ会社自体もその一角に加わった。
 丘陵地帯と港を結ぶ鉄道もつくられた。だが、肝心のコーヒー栽培がうまくいかない。プランテーションの乱立が足を引っぱっただけではない。雨が多すぎたほかに、労働力がうまく確保できない。加えて、ブラジルの生産過剰により、コーヒー価格が低迷した。
 1905年にはマジ・マジ反乱が発生した。綿花栽培をはじめとした植民地政府による強制労働が、現地人の反乱を引き起こしたのである。反乱はまたたくまに広がる。これにたいし、ドイツは軍隊を派遣し、反乱を徹底的に鎮圧した。反乱後、ドイツ領東アフリカの住民人口は、戦禍と飢餓により激減したといわれる。
 その後、ドイツは東アフリカ植民地の再建と改革に乗りだす。だが、ウサンバラのコーヒー栽培に関してはうまくいかない。先はまったく見込めなかった。
 しかし、ドイツ人はあきらめなかった。ウサンバラに代わる有望な地をみつけた。キリマンジャロの南山麓だった。
 キリマンジャロのコーヒー生産は大成功を収める。
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 いっぽう、ヴィクトリア湖に面したブコバには、もともとコーヒーが自生していた。ドイツは現地のスルタンを説得して、ここにコーヒー・プランテーションをつくることにも成功する。収穫高は抜群で、しかも上質なコーヒーができた。
 ブコバのコーヒーはイエメンのアデンを介して、モカの名前でヨーロッパに輸出された。すでにモカの港は衰退して久しかった。それでも、アラビア・モカの名前が残ったのは「東アフリカのコーヒーがアデンに送られ、そこでモカの名を冠して市場に出されていた」ためだという。
 第一次世界大戦に敗北したことにより、ドイツは植民地を失った。しかし、人種差別の思想は根強く残った。ドイツ人はみずからを支配人種ととらえ、「劣悪人種」を管理して、かれらから労働力を引きだすという考え方を変えることはなかった。
「ドイツ人がアフリカの『原住民』を扱ったその方法を、ユダヤ人問題の『最終解決』に応用するとき、人種差別主義は国家の官僚機関による合理的な大量殺戮へと展開する」と、著者は書いている。

 第一次世界大戦中、ドイツ政府は必死になってコーヒーを確保しようとした。ブレーメンとハンブルクには大きな備蓄倉庫が立っていた。しかし、思わぬ長期戦を前に、その備蓄も尽きてくる。中立国オランダからの輸入に奔走するが、それもおぼつかなくなる。
 こうしてコーヒーが欠乏すると、兵士の士気も低下してくる。キールの軍港で、水兵たちが「レーテ(協議会)」を結成し、反乱の火蓋を切る。兵士の反乱は全海軍に広がり、ドイツ革命が発生、ホーエンツォレルン家が倒れ、ワイマール共和国が誕生する。
 ワイマール共和国は「ラーテナウ暗殺に始まり、ヒトラーの政権獲得に終わる」と、著者はいう。
 ラーテナウはユダヤ人実業家で、電機メーカーAEGの会長。当時はワイマール共和国の外相を務めていた。1922年に極右テロ組織によって暗殺された。
 ヒトラーは1923年にミュンヘンのビアホールで蜂起し、逮捕される。投獄されたのは8カ月にすぎない。1933年に首相に就任するまで、着々とナチ党の勢力を伸ばしていく。
 その間、1920年代のコーヒー世界はどうなっていたか。
 当時、圧倒的にコーヒーを産出していたのはブラジルである。サンパウロ州の高度600メートルから800メートルの高原地帯は、コーヒー栽培にとっては理想の風土だった。ブラジルは世界のコーヒーの4分の3を生産していたという。
 ところが、大豊作によって生産過剰が生じる。政府はコーヒーを買い入れて価格維持をはかるが、供給の調整がなかなかうまくいかない。すると、そのうち第一次世界大戦が勃発して、今度は需要が落ちこんだ。
 第一次大戦後、ブラジルに幸運をもたらしたのは、アメリカ合衆国の禁酒法だった。そのおかげで、アメリカでのコーヒー需要は一気に伸びた。
 だが、それも1929年の大恐慌まで。コーヒーの価格も大暴落した。それに対抗するため、ブラジルはコーヒーの廃棄をはじめる。廃棄されたコーヒーの一部は、蒸気機関車の燃料になった。
 著者はいう。

〈全世界の消費量の2年半分にあたるコーヒーを廃棄する光景が照らし出しているのは、人間の汗水たらした日々の労働が、無価値としてしか現象しなくなった市民社会の現状であった。それは資本主義自由経済の失効の気分に明確なイメージを与え、新たな国家秩序への渇望を、濃密なアロマとしてドイツの空中に漂わせたのである。そのアロマにいちばん旺盛に元気回復の活力を見出したのはナチズムであった。〉

 アウシュヴィッツの収容所長ルドルフ・ヘスは、ガス室に送りこむユダヤ人に、入浴が終わったら熱いコーヒーを飲ませると約束したという。その浴室、じっさいにはガス室に送られるユダヤ人は、いったいどんな思いでそのことばを聞いたのだろう。その先に、どんな惨劇が待っているかも知らずに。
 コーヒーは幸せを与えてくれる飲み物だった。われわれにとっても、朝のコーヒーは1日のはじまりを後押ししてくれる約束事のようなものだ。
 ごくあたりまえのそんなちいさな喜びは、じつは世界史と世界経済が生み落とした産物であることを、日ごろわれわれはさほど意識しない。それはいつもあたりまえのように届けられる恵みだと感じている。
 1962年の5月、ニューヨークのカフェ・コモンズでコーヒーを飲んでいたある若者は、通りを見ながら、ある歌詞が思い浮かび、それを鉛筆でメモした。若者の名はボブ・ディラン。歌詞は「風に吹かれて」と名づけられた。
 著者はいう。

〈商品フェティシズムと、自然と人間の搾取とは、同じメダルの両面である。コーヒーという商品は地球を一枚のメダルにして、華麗なフェティシズムと陰惨な搾取を繰り広げた近代の典型的な商品であった。〉

 一杯のコーヒーの裏には、欲得づくの植民地主義と辛苦の労働がまとわりついている。にもかかわらず、コーヒーは時を超えて歩みつづける。いまもその歴史は歩みをとめていない。
 たまには、そんなコーヒーの歴史に思いを寄せてみるのも悪くないだろう。そこからひとつの旅がはじまることはまちがいない。
 その答えは風に吹かれるままかもしれないけれど。

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臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 オスマン帝国は1529年に神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲するも挫折する。次にウィーンを包囲したときは1683年になっていた。
 このときオスマン帝国の力はすでに限界に達していた。ドイツ・ポーランド連合軍の総攻撃を受けて、敗走する。あとに残された荷物のなかに大量のコーヒー豆があった。そのコーヒー豆をもらい受けた男がウィーンで最初のカフェを開く。そんな逸話がある。
 パリの上流社会でコーヒーが広がりはじめるのは、その15年前、ルイ14世の時代だった。オスマン帝国大使のパリ着任がそのきっかけとなった。
 そのコーヒーを民間で売りはじめたのがアルメニア人の出稼ぎ商人である。最初のカフェはうまくいかないが、カフェはやがて学者や文士のたむろする場所になっていく。1689年には豪奢な雰囲気のカフェ、プロコプも誕生する。カフェという空間からは、100年のあいだにフランス啓蒙主義、アメリカ独立運動、フランス大革命がはぐくまれていく。
 フランスでは、コーヒーはあまりからだによくないといううわさがあり、そこから独特の飲み方が誕生する。ミルクと砂糖をたっぷりいれたカフェ・オ・レである。
 フランスの特徴は、イギリスとちがい、コーヒーが女性の文化にも取り入れられていったことだ、と著者は指摘する。
『フランス史』の著者ミシュレは、1719年の「パリは一つの巨大なカフェになった」と論じている。このころパリには300軒のカフェがあり、そこで人びとはおしゃべりに花を咲かせていた。
 オランダの後を追って、フランスも植民地でのコーヒー栽培をこころみようとする。最初に目をつけたのが、西インド諸島、カリブ海のマルティニク島である。それは功を奏し、1759年にマルティニクとグアダルーペから1120ポンドのコーヒーが輸出される。やがてフランス領西インド諸島から産出されるコーヒーは膨大な量に達した。フランス産コーヒーは中東にまで進出し、モカ・コーヒーの地位を脅かしていく。
 だが、西インド諸島のコーヒー栽培を担ったのは黒人奴隷であることを忘れてはならない。

〈コーヒーを「ニグロの汗」と呼ぶ、おぞましい語彙が残っている。人手のかかるコーヒー栽培を支える労働力は黒人であった。アフリカ西海岸に集められた黒人奴隷はキリスト教牧師の祝福を受けた後、西インド諸島のプランテーションへ運ばれ、奴隷を降ろした船は、今度は砂糖、タバコ、ラム酒、インディゴ、そしてコーヒーをヨーロッパに運ぶのである。黒人奴隷の輸送には……細心の注意は微塵も払われなかった。黒人の三分の一が輸送中に死亡したという。〉

 植民地商品はナント、ボルドー、マルセイユなどの商業資本をうるおし、フランスに製糖産業、皮革産業、木綿産業をもたらした。
 パリの宮廷では、豪奢なコーヒー文化と上流社会のサロンが日々を彩るようになる。大衆はそんな生活とはまるで無縁、毎日パンとスープで腹を満たすのが精一杯だった。
 1787年、フランス全土は不作に襲われる。翌年も同じ。厳冬がつづいた。パリでは三部会が開かれた。パレ・ロワイヤル周辺のカフェはアジテーションの渦と化す。アメリカ独立革命の熱気がまだただよっていた。
 1789年7月14日、バスティーユ監獄が襲撃され、反乱が広がる。カフェは革命派の拠点となる。
 フランス植民地西インド諸島のハイチは、コーヒー、木綿、カカオ、香料などフランスの富の一大源泉だった。その住民はほとんどがアフリカから連れてこられた黒人奴隷で、ほかにわずかな白人と、混血のムラート、それに少数の先住民からなっていた。1791年8月、大規模な黒人奴隷暴動が発生する。1804年、ハイチはついに独立をはたす。だが、その先には苦難の歴史が待っている。

 ナポレオンの台頭はコーヒーの歴史にも大きな影響をおよぼしている。
 1794年に左派のロベスピエール派が倒れ、国民公会が解散され、1795年に総裁政府が成立したとき、ナポレオンは、その指導者だったバラス子爵に見込まれて、かれの副官となった。
 総裁政府は左右の勢力から脅かされていた。右の側は王党派であり、左の側はバブーフを中心とするパンテオン協会である。10月にパリで王党派がクーデターをおこすと、ナポレオンはその鎮圧に成功する。その返す刀で、翌年2月にはパンテオン協会を武力で倒した。
 ナポレオンは着々と支配者への道を歩みはじめる。
 1797年、オーストリア軍に勝利したナポレオンはウィーンに入城する。そして、講和をこばみつづけるオーストリア使節団を前に、手にしていたコーヒー・カップを床に落とし、カップが粉々になるのをみて、「余は貴殿たちの国をこのようにもできるのだ」と言い放ったという。
 1804年、ついに皇帝となったナポレオンはドイツを蹂躙し、神聖ローマ帝国を解体する。1806年にはベルリンに入城し、ベルリン勅令を発し、大陸封鎖を宣言した。
 著者によると、「大陸封鎖というのは、大陸を封鎖することではなく、大陸で海を封鎖すること」なのだという。その最大目的はイギリスとの通商関係を断つことにあった。しかし、海が封鎖されると、コーヒーもはいってこなくなる。
 ナポレオンはコーヒーのことを考えていなかったわけではない。ろくな食事をとらなくても、なんとなく元気のでるコーヒーを軍隊に導入したのはナポレオンだといわれている。コーヒーが手にはいらないとなると、いったいどうするつもりなのか。
 先例があった。
 プロイセンのフリードリヒ大王(1740〜86)は、啓蒙主義と軍国主義によってプロイセンを強国に導いた。そのフリードリヒ大王がオランダからのコーヒー輸入の多さに業を煮やして、こころみたのが代用コーヒーづくりだった。
 その原料はチコリ(キクニガナ)。麦芽、大麦、ライ麦、サトウキビ、いちじく、ドングリ、その他もろもろもこころみられた。それでも庶民は本物のコーヒーを飲みたかった。コーヒーのお湯割りがはやる。
 ナポレオンは海を封鎖したため、西インド諸島からもジャワからもコーヒーがはいってこなくなった。唯一の例外はトルコ、エジプト、シリアのルートで送られるアラビア・モカだけだった。しかし、猛烈に高い。コーヒーの味と香りを忘れられない庶民は、代用コーヒーに走った。
マルクスとエンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』には、こんな一節があるという。

〈ナポレオンの大陸封鎖によって生じた砂糖とコーヒーの欠乏はドイツ人を対ナポレオン蜂起に駆り立て、このようにして1813年の輝かしい解放戦争の現実的土台となったことで、砂糖とコーヒーは19世紀においてその世界史的意義を示したのである。〉

 ナポレオンが敗れたのは、砂糖とコーヒーの欠乏が原因だという。これはほとんど冗談に近い話だが、少なくともナポレオンが砂糖とコーヒーを奪ったことが、ドイツ・ナショナリズムに火をつけたことはまちがいないだろう。
 ナポレオンから解放を勝ちとったベルリンッ子は、甘いコーヒーとケーキに喜びを見いだす。こうしたベルリン・スタイルのケーキ屋兼カフェハウスをつくったのは、スイスからやってきた出稼ぎ職人だったといわれる。
 ナポレオン戦争の余波は南アメリカにもおよんだ。
 ナポレオンにリスボンを占領されたポルトガル王室は植民地ブラジルに脱出した。こうして1808年から14年間、リオデジャネイロがポルトガルの首都となった。だが、王室がポルトガル本国に帰還したあと、ブラジルがもはやポルトガルの植民地に戻ることはない。1822年にブラジルは独立を宣言する。
 そのころ、ブラジルからはヨーロッパに向けて、コーヒーが輸出されるようになっていた。やがてブラジルは世界のコーヒー循環を司る中枢へのぼりつめていく。
 たかがコーヒー、されどコーヒー。コーヒーは世界を揺り動かしている。
 つづきはまた。

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臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 毎日飲んでいるコーヒーなのに、その歴史についてはよく知らない。本棚で眠っていたこの本を読んでみることにした。
 コーヒーの原産地は東アフリカである。それが眠気を覚ます健康な飲料としてイスラーム世界に出現するのは、西暦15世紀のことだという。
 イスラーム世界でコーヒーを広めたのは、イスラーム神秘主義の修道僧、スーフィーたちである。目ざめてあれ、まどろみを追い払えというスーフィニズムにとって、眠気を醒ますコーヒーは格好の飲み物だった。
 やがて、それは「黒いザム・ザムの聖水」と呼ばれるようになる。ザム・ザムとはメッカのカアバ神殿近くにある水場のこと。コーヒーは神聖視されることになる。
コーヒーをだすのは客人をもてなす証しでもあった。
 アラビアやエジプトにコーヒーが広まってくると、反発もでてくる。1511年にメッカでコーヒーが禁止された。だが、それは長くつづかない。まもなくコーヒーはイスラーム世界で公認される。さらにメッカ巡礼がコーヒーを各地に伝えることになった。
 16世紀初めには、カイロやイスタンブールでも「コーヒーの家」ができ、スーフィーたちが集まるようになった。その後、「コーヒーの家」は増えつづけ、社交の場となっていった。
 やがてイエメンのサヌアに近いノビ・チュアッペ山の麓でコーヒーが栽培されるようになる。コーヒー栽培には温暖な気候や適度な雨量が必要なだけではない。灌漑施設などの設備、多くの手間を要した。つまり、元手がかかる。コーヒーは、最初から商品になることを運命づけられていた。
 コーヒーを飲む習慣はアラビア、ペルシャ、トルコのイスラーム世界を越えて、南アジア、東南アジアへと広がっていく。ヨーロッパも「コーヒーの家」を取り入れるようになる。1652年にロンドン、1666年にアムステルダム、1671年にパリ、1683年にウィーン、1686年にプラハにカフェが誕生する。
 しかし、このころコーヒーの供給源はイエメンにかぎられていた。ヨーロッパへの出荷港はイエメンのモカ。そのため、モカがコーヒーの代名詞となった。
 コーヒー交易は莫大な利益をもたらした。
カイロの豪商たちは南アラビアのコーヒーの独占権を握った。イエメンのコーヒーは砂漠や紅海を越えて、カイロの倉庫に集まってくる。
 著者いわく。

〈豪商に必須の能力は、商品交換によって結合される共同体のそれぞれの価値観の差異から利益を捻出できることである。彼はアラビア南端の住民のささやかな暮らし向きの中で生産されるコーヒーと、イスタンブールのトプカピ宮殿のハーレムで、金や銀のカップに注がれて飲まれるコーヒーとの違いが分かる広い視野を持っていなければならない。その巨大な差異を前提にしながら、商品としてのコーヒーはそれぞれの共同体の中では等価物の外観を有しながら移動していくのである。〉

 コーヒー交易にかかわろうとするのは、カイロの豪商だけではない。東地中海沿岸を拠点とするレヴァント商人も同じだった。現在のシリア、レバノン、イスラエルの沿岸にあたるレヴァントには、フランスやイタリアの商人たちが集まり、地中海交易を担っていた。彼らがコーヒーに目をつけなかったわけがない。
 だが、そもそもヨーロッパでコーヒーが売れるのだろうか。
「コーヒーという新商品の使用価値が人間の内的欲求として定着することを誰よりも欲していたのは商業資本家であったはずである」
 ヨーロッパでもコーヒーが飲まれるようになるには、まずイメージづくりがだいじである。
 だが、その前に抜け目のないオランダの商業資本家の動きをみなければならない。
 インド航路や新大陸航路が発見されて以来、オランダは世界市場に乗り出している。紅海はすでにイスラーム世界とヨーロッパ世界の接点となっていた。インドやインドネシアにコーヒーを船で運ぶのはオランダである。
 さらにオランダがたけていたのは、イエメンでしかつくられていなかったコーヒーを、植民地のジャワでつくろうとしたことである。モカからコーヒーの苗木が取り寄せられ、ジャワ・コーヒーが生まれる。それは1712年にはじめて輸出され、たちまちヨーロッパとアメリカの市場を席巻することになる。
 オランダ東インド会社はジャワの支配層と結びついて、プランテーションをつくった。そして、ジャワの住民たちにオランダのためのコーヒーを栽培させることで、莫大な利益を確保した。
 こうして「第三世界の基本的産業構造がヨーロッパの『消費欲望』に応じて形成され、しかもその商品は一面的に世界市場に依存し、国家の自律的経済に多大の困難を与えるという、今日の第三世界に残る問題の基礎が敷かれる」。

 商品は世界を変える。コーヒー生産によって、かつての農村共同体は分解を強いられる。いっぽう、コーヒーという商品を消費する側でも、生活スタイルに新しい要素が加わる。
 ロンドンではじめてコーヒー・ハウスが誕生したのは1652年のことである。それが1683年には3000、1714年には約8000に達した。
 コーヒー・ハウスは、市民にそれまでにない「公共空間」を提供した。ここでは、情報収集や取引がおこなわれ、政治的議論やおしゃべりがくりひろげられた。一時、政府はコーヒー・ハウスの閉鎖を命じるほどだった。だが、猛反発にあい、すぐに営業が再開され、コーヒー・ハウスは以前にもましてにぎわうようになった。
 コーヒーはアルコールに代わる飲料として、謹厳なるピューリタンの教義にも合致していたという。

〈イスラーム・スーフィズムの精神的庇護のもとに誕生したコーヒーは、ある独特な陶酔、覚醒的な陶酔を特徴としていた。コーヒーのそうした商品特性は、資本主義の基本的倫理の、少なくとも一端を形作る、冷静で醒めた宗教としてのピューリタニズムに好ましいものであったことは疑いない。〉

 さらに、コーヒーが当時の医学界からあたかも万能特効薬としてもてはやされたことも、コーヒーが大いに飲まれるようになったひとつの要因だったという。
 だが、なんといっても、「人々を引きつけたのはコーヒーと呼ばれる黒い苦い飲み物それ自体というよりは、新種の『公共の場』の魅力であり、真の商品は情報であった」。
 コーヒー・ハウスのなかは自由な空間であり、デモクラティックな精神に満ちていた。しかも、そのカウンターでは美女たちが立ち働いていた。上流社会の社交場とは異なり、コーヒー・ハウスは身分の枠を超えて気兼ねなく市民が集い、社会情勢や政治動向、商売から文芸にいたるまでの会話を交わすことのできる集会所だった。
 ところが18世紀半ばには、ロンドンのコーヒー・ハウスは急速に衰退する。代わってあらわれるのが、食事のできるクラブだった。
 コーヒー・ハウスに入りびたる亭主に業を煮やした女性たちがコーヒー反対運動に立ち上がったことが、コーヒー・ハウス衰退の原因だという説もある。

〈ロンドンのコーヒーはあまりに男の飲み物であった。婦人たちが、コーヒー・ハウスに埋没した夫たちを呼び戻し、他方では公共的制度としてのコーヒー・ハウスの活力が使い果たされた時、家庭的団欒のひとときにロンドンの男性と女性は改めて素知らぬ顔でコーヒーを飲むというわけにはいかなかった。コーヒーに代わる非アルコール系飲料として瞬く間に女性をとらえ、そして結局、イギリス人の家庭をとらえたのは紅茶であった。〉

 トマス・トワイニングが女性にも受けそうな優雅なティー・ハウスを開いたのは1717年のことである。むさくるしいコーヒー・ハウスは次第にはやらなくなる。
 ロンドンではコーヒーは敗れた。だが、それでコーヒーの命運が尽きたわけではない。ヨーロッパ大陸の舞台が待っていたのである。
 つづきはまた。

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田中首相解任──美濃部達吉遠望(55) [美濃部達吉遠望]

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 昭和天皇はお飾りではなかった。寡黙でもなかった。よくしゃべり、自分の意思をもち、喜怒哀楽も示した。だが、それがそのまま外部に伝わらなかったのは、天皇が明治憲法下では国家の最高機関だったからである。天皇の意思は個人としての意思ではなく、公の意思でなければならなかった。
 丸山眞男は政治思想史講義において、統治にかかわることばには「しろしめす」と「きこしめす」があって、しろしめすが支配し、おさめることだとすれば、きこしめすは臣下の奏上を聞くことだと話している。
 そして、天皇とは、臣下の「まつりごと」を「きこしめす」ことによって、「あめのした」を「しろしめす」存在だった。
 天皇は群臣からまつられる存在であって、みずから直接統治するのではなかった。天皇がまつるのは神々、すなわち天つ神、国つ神、皇室の祖霊である。みずからはあくまでも共同体の祭祀の統率者にとどまる。
 それが丸山のえがく日本の政治の「古層」である。この古層は日本が近代化されたあとも存続したという。
 明治憲法下においても、天皇は直接統治したわけではない。臣下のまつりごとを「きこしめす」こと、すなわち謁(えつ)を賜(たまわ)ることがもっとも重要な仕事だったといってよい。国務大臣をはじめとする臣下は天皇への内奏を求められていた。
 田中義一首相の「まつりごと」にたいして、昭和天皇は次第に不信感をつのらせていた。だが、天皇個人が「まつりごと」に直接関与することは許されない。
『昭和天皇実録』や伊藤之雄の『昭和天皇伝』などによると、天皇が6月4日の張作霖爆殺事件について、田中首相から上奏を受けたのは12月24日のことである。
 このとき田中は中国情勢とともに張作霖事件について説明したが、事件の詳細については白川義則陸軍大臣から上奏すると述べたにとどまっている。もちろん、この時点で、田中義一が張作霖爆殺が関東軍将校の仕業であることを知っていたことはいうまでもない。
 翌日、宮中の側近、すなわち牧野伸顕(内大臣)、一木喜徳郎(宮内大臣)、珍田捨巳(侍従長)、奈良武次(侍従武官長)、河合弥八(侍従次長)は、陸軍大臣の上奏にさいして、天皇がどのような言葉を賜うかをめぐって協議し、牧野はその結果を天皇に報告している。
 白川陸相は12月28日に天皇に拝謁し、張作霖爆死事件について調査を開始すると述べている。だが、何度もいうように、政府はすでに真相をつかんでいた。元老の西園寺公望や天皇側近も、爆殺がすでに関東軍の仕業であることをつかんでいた。
 1929年(昭和4年)にはいってからも、天皇には政府からなかなか調査結果が報告されない。田中首相と白川陸相はほぼ1週間おきに謁を賜っているというのに、事件については具体的な報告はなく、田中からはただいま調査中というのらりくらりとした返事が戻ってくるだけだった。
 白川陸相から天皇にことの真相が明かされたのは3月27日になってからである。それも天皇から強くうながされて、白川が答えた。
 事件は関東軍参謀、河本大作の単独発意によるものだが、事件の内容が外部に暴露されれば国家に不利な影響をおよぼすため、外部には公表せず、陸軍の軍紀粛正に努めたいという。この報告を受けて、天皇と側近は政府と軍の対応にますます不信を覚えた。
 決定的な瞬間が訪れたのは、6月27日である。この日の午後、天皇は御学問所で田中首相と会い、田中から張作霖爆殺事件については、犯人不明のまま警備責任者の行政処分のみをおこなうという報告を聞いた。
 天皇はこれにたいし、これまで厳正に対処すると述べていたのに、前と話がちがうと激しい口調で詰問し、田中に辞表をだしたらどうかとまで迫った。田中が弁明におよぼうとすると、天皇はその必要はない、とこれを退けた。
 翌日、田中は辞意を表明する。その結果、7月2日に民政党の浜口雄幸内閣が発足することになった。
 天皇による田中義一の事実上の解任は、もちろん天皇個人の意思によるものではない。元老の西園寺公望は懸念を示したが、天皇側近グループ、とりわけ牧野伸顕内大臣や、珍田捨巳の死去にともなって新たに就任した鈴木貫太郎侍従長、一木喜徳郎宮内大臣も田中の辞任やむなしの方向に傾いていた。
 ただ、牧野らは天皇がそこまで強く田中に辞任を迫るとは思っていなかった。そのことを天皇はのちに「若気の至り」だったと後悔している。
 田中が突然辞意を表明した理由については報道されなかった。貴族院からの弾劾があったり、内閣の人事や不戦条約をめぐるさまざまな不手際があったりして、とうとう辞任に追いこまれたというのが、世間の受け止め方だった。
 だが、この退任劇はあとに尾を引く。右翼や青年将校のあいだから、天皇の側近、重臣ブロック、すなわち君側の奸が政治をゆがめているという憶測を生むからである。

 田中義一内閣の政治運営が混乱をきわめているころ、美濃部達吉の関心は議会政治のあり方に向けられていた。
「選挙革正論」と題する論考の冒頭に、こう記している。

〈立憲政治は議会政治であり、而して議会政治は結局政党政治に帰するのほかないことは、政党を好むと好まざるとを問わず、何人も否定しえないところである。それはなぜかと言えば、議会政治は多数決政治であり、議会の多数を占むるためには集団的の力によるのほかなく、ことに国民的の選挙の競争において、多数の議員をかちうるには、集団的の力をもってするのほか、まったく不可能であるからである。〉

 立憲政治は議会政治であり、議会は多数決政治であって、それは政党政治によるほかなく、政党は選挙によって選ばれるという道筋が成り立つ。
 日本で立憲政治(憲政)が誕生したのは、1889年(明治22年)の憲法発布以来であり、本格的な政党政治がはじまったのは、ようやく原敬内閣(1918〜21)になってからだ。

〈しかし、かくして多年の闘争ののち、わずかに確立することを得た政党政治が、はたしてよく国民の満足を買いえたかと言えば、事実はほとんど正反対であった。最初のあいだこそは、薩長政府の陰鬱なる政治にたいし、政党政治の明るさを喜んだのであったが、政党政治に伴う新たなる弊害は、年を経るに従って、ますます顕著となり、国民は議会に対し、政党に対し、ほとんど絶望の感をなすに至った。〉

 とりわけ政党政治の弊害を露呈したのが田中義一内閣で、田中内閣の唯一の功績は「現在の制度のままでは政党政治の弊害が国民にとり実に耐えがたいものであることを明示したことにある」とまで、達吉は述べている。
 政党政治の弊害は選挙にカネがかかりすぎることだ。選挙で勝つためには、政党は資本家からカネを集めるほかない。政党にとっては、政権を掌握することが、資金を収得し、政党の存立を維持する絶対の要件となる。こうして二大政党による政権の争奪が激烈となる。
 政党政治の弊害を緩和するには、現行の選挙制度を革正するほかない、と達吉はいう。
いまの選挙はあまりにもカネがかかりすぎる。その結果、政権を握った政党は、政権を利権のために濫用し、支持者に便宜をはかって、けっきょくさまざまなスキャンダルを招くことになる。逆にカネがない無産政党などは国政に進出するのが困難になる。
 現在の選挙制度は政党にたいする国民の意向を反映しているとは思えない。地元の名士を議会に送りだす傾向になりがちで、国民がどのような政策を望んでいるかは、はなはだ不明確となってしまう。
 政党の腐敗を防ぐには国民の監視が必要だが、現在のような選挙制度では、いかに国民の信頼を失っても、選挙資金を多く持っている政党が有利ということになってしまう。
 現在の普通選挙には根本的欠点がある、と達吉はいう。
 人の価値は数では計れないはずなのに、選挙では数が勝敗の唯一の基準になってしまう。また、選挙人はほとんどが、政治や候補者のことをじゅうぶんに理解していない。選挙人が確固とした見解をもたないまま、不正な勢力に動かされやすいことも問題だ。
 普通選挙ではこうした欠点は避けがたい。だからといって、普通選挙をやめるべきではない。むしろ、その欠点をなくすために選挙の方式を変更することを達吉は提唱する。
 1928年(昭和3年)の普通選挙以来、日本では中選挙区制(大選挙区制の一種)の単記投票法がとられるようになった。この方法は少数党にやや有利とはいえ、選挙制度としてはけっして適切なものではない。
 その理由の一つは、選挙運動の費用が膨大なものになることである。各候補者は広い地域にわたって、票を獲得するために運動をくり広げなくてはならない。また、候補者が多くなるために、そのなかの一人を選択する基準が定めにくくなり、そのため人間関係や情誼、買収などに投票が左右されやすくなる。いっぽうで、投票に無関心になり、棄権する者も増えてくる。だれに投票してもたいして変わらないという気分が生じるのも問題である。死票が多いのも中選挙区単記投票法の欠点だといえる。
 こうした選挙制度をあらためないかぎり、政党政治の腐敗はなくならない、と達吉はいう。加えて、当時は政府与党を有利にするために、しばしば官憲による選挙干渉がおこなわれていた。
 こうした問題を解決するために、達吉はきわめて大胆な新選挙制度の導入を提案する。それが「名簿式比例代表法」である。
 名簿式比例代表法は政党本位の選挙制度である。政党は順位を定めて候補者を名簿に列記する。選挙人は個人に投票するのではなく、政党に投票する。選挙区は撤廃し、全国を一選挙区とする。そして、全国を通じて票数を計算し、各政党の票数に応じて、名簿にもとづき当選者の数を確定する。選挙は通常議会の閉会後およそ1カ月のあいだに、全国一斉に年1回おこなうものとする。
 達吉がこうした選挙制度を提案したのは、選挙費用を少なくし、選挙の腐敗をなくし、死票を減らすためだった。選挙では政策本位の選択が求められたといえるだろう。毎年、議会が終わるたびに、国民がいわば政党の成績を審査するという考え方はユニークだった。
 比例代表制は小党分立を促し、政局を常に不安定にするのではないかという批判は根強かった。だが、中選挙区制でもそれは変わらず、むしろ単一の政党が議会の絶対多数を占め、金力を背景に横暴な政治をおこなうことこそが問題だ、と達吉は論じた。
 政党が名簿によって候補者を届け出ることも、「公選」には抵触しない。なぜなら「政党に投票することは即ちその政党の提出した名簿に投票することであり、したがってその名簿に列記せられた候補者は等しく国民によって公選せられたものであることを失わない」と、達吉はいう。
 大選挙区(中選挙区)単記投票法は、政党政治の腐敗を誘う大きな原因であって、それを改善するためには、これに代わるべき方法として、名簿式比例代表法を選ぶほかないというのが達吉の考え方である。
達吉がモデルとしたのはドイツの選挙制度だった。だが、そのドイツでも政党政治はうまく機能しているとはいえない。ワイマール共和国では、比例代表選挙制のもと、国民社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチスが急速に勢力を伸ばそうとしていた。

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張作霖爆殺事件──美濃部達吉遠望(54) [美濃部達吉遠望]

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 1928年(昭和3年)6月4日、奉天軍閥の張作霖は奉天(現瀋陽)に戻る途中に、乗っていた列車を爆破され死亡した。
 爆破を指揮したのは関東軍の河本大作大佐で、世間にその実相が知られるようになるのは第二次世界大戦後である。政府はあくまでも国民党の国民革命軍の仕業だという見解を押し通していた。
 日本軍はそれまで馬賊出身の張作霖を満洲の軍閥として支持してきたから、その理屈はいちおう成り立つ。ところが、状況はすでに変化していた。
 それまでの中国革命の流れを整理しておこう。
 1911年の辛亥革命のあと、中華民国の総統となったのは、孫文ではなく袁世凱だった。その後、袁世凱はみずからの権力を強固なものにするため、南方の革命派を弾圧したため、中国は北京政府と南方政権に分裂した。
 1916年に袁世凱が死亡し、その部下の段祺瑞が北京政府の政権を握ると、中国各地では軍閥が台頭した。
 南方の孫文はソ連と連携、中国共産党と合作し、南北統一のため北伐をはかろうとする。しかし、志半ばにして、1925年3月に死亡した。
 その後、国民党は蒋介石を国民革命軍総司令に任命し、1926年7月から北伐を開始する。当面の目標は湖南、湖北を支配する呉佩孚(ごはいふ)、福建、浙江を支配する孫伝芳との戦いだった。
 北伐が成功するにつれ、汪兆銘を主席とする広州国民政府は、1926年12月に武漢に遷都し、武漢政府を開いた。
 いっぽう、しだいに武漢政府と対立するようになった蒋介石は、1927年4月12日に上海で反共クーデターをおこし、4月18日に南京国民政府を樹立する。
 こうして国民党は容共の武漢政府と反共の南京政府に分裂する。しかし、軍事的実力者の馮玉祥(ひょうぎょくしょう)の調停により、武漢、南京の両政府を南京国民政府に一体化することが決まった。国共合作を解消するいっぽうで、蒋介石の総司令職を解任することが条件だった。
 そこで、いったん下野した蒋介石は1927年9月から11月にかけて日本を訪問する。このとき11月5日に田中義一首相と会見している。
 田中は北伐への自重を求めつつも、反共主義の蒋介石を支持すると話した。日本が願うのは満洲の治安維持であり、日本はかならずしも張作霖を支援しているわけではないとも述べている。
 田中は蒋介石が南方にとどまり、共産党を抑えることに専念するよう求めたつもりだった。だが、蒋介石はそうは受け止めず、田中が北伐を容認するものとみた。
 中国に戻った蒋介石は1928年1月4日に、南京政府からふたたび国民革命軍総司令に任じられ、北伐の途につく。そのころ北京政府の実権は、表向き日本の支持する張作霖が握っていた。
 国民革命軍は4月はじめに山東省に達した。これにたいし、日本の田中首相は居留民保護を理由に4月17日に山東出兵を閣議決定する。日本は1922年のワシントン会議で山東省の領有を放棄するものの、山東省には多くの利権をかかえていた。
 5月3日、山東省の済南で北伐軍と日本軍が衝突する。日本軍は5月11日に済南を占領した。これにたいし、蒋介石は日本軍とのさらなる戦闘を避け、済南を迂回して北上する経路をとった。
 北伐軍が迫るなか、張作霖は北京を退き、奉天に撤退することを決意する。そして、6月3日に北京を離れ、京奉線で奉天に向かうが、その途中、4日午前5時半に、もうすぐ奉天という場所で列車を爆破され、死亡するのである。
 日本の新聞には「南方便衣隊」が埋設した爆弾が破裂し、張作霖が負傷(のちに死亡)したと報じられた。
 いまでは、張作霖を死亡させた爆弾は、満洲の完全掌握を狙って、関東軍の河本大作が仕掛けたものであることが判明している。しかし、当時、世間では北伐軍の便衣隊、すなわちゲリラ部隊の仕業だと信じられていた。
 政府は事件直後に真相をつかんでいた。だが、それは国家の利益を考えて秘匿され、公表されなかった。田中が昭和天皇に事件の真相を報告するのは12月24日になってからである。
 蒋介石は当初から張作霖の爆死を関東軍の仕業だと見抜いていた。国民革命軍は6月7日に北京に無血入城し、これにより北伐が完了した。さらに12月29日に張作霖の息子、張学良が国民政府の傘下にはいることを表明し、これにより蒋介石のもとで中国全土が統一された。
 関東軍の謀略は裏目に出て、かえって満洲の支配をあやうくさせた。そのことが1931年の満洲事変を引き起こすことになるのである。

 美濃部達吉は張作霖爆殺事件を論じていない。どうも関東軍の仕業らしいといううわさはあったものの、真相は闇のなかに隠されていたからである。
 中国情勢は風雲急を告げていた。しかし、驚くべきことに、そのころ議会でくり広げられていたのは、条約の文言をめぐる些末とも思えるやりとりだった。
 1928年(昭和3年)2月の総選挙後、議会では与野党の勢力が伯仲していた。4月23日に開かれた特別議会では、極端な選挙干渉があったとして、民政党などの野党が鈴木喜三郎内相への弾劾案を提出した。これがすったもんだの末、可決され、5月4日に鈴木が辞任している。治安維持法改正案が審議未了に終わったのは、こうしたごたごたがあったためである。
 議会閉会後も内閣改造をめぐって紛擾がつづいた。いっぽう野党の側では、8月に有力政治家の床次竹二郎が民政党から離脱し、新党を結成する騒ぎもあった(翌年、政友会に復帰)。
 外の嵐をよそに「コップのなかの嵐」が吹き荒れるという状況は、いまも昔も変わらない。
 そのころ浮上したのが「不戦条約」の文言をめぐる問題だった。
 ケロッグ=ブリアン協定とも呼ばれるこの条約は1928年4月13日にパリで作成された。ケロッグは米国務長官、ブリアンはフランスの外相。その後、8月27日に日米英独伊など15カ国が参加し、パリで不戦条約が調印される。最終的に63カ国が批准することになるこの条約は、締結国相互間の不戦を宣言したもので、パリ不戦条約と呼ばれる。
 その条約の第1条は、締約国は「人民の名において」国際紛争の解決手段を戦争に訴えず、締結国相互では国家政策手段の戦争を放棄するとうたっていた。ところが、日本国内では、その文言が大問題になる。「人民の名において」不戦を宣言するのは、天皇の大権を否認するものだという議論が巻き起こったのである。
 美濃部達吉は条約の原文にある「イン・ザ・ネームス・オブ・ザ・ピープル(in the names of the peoples)を「人民の名において」と訳したのが誤解を生んだのだと論じた。字義からいえば、これは「人民」というよりは国家全体の意思においてという意味であり、けっして天皇の条約締結の大権を否認するものではない。いわば翻訳の問題だというわけだ。
 だが、年末から開かれた議会では、野党の民政党が「人民の名において」という字句をしつこく取りあげて、政府攻撃の材料とした。
 田中首相はこれにたいし、条約は「人民の名において」ではなく、「人民のために」宣言したものだという見解を示して、ようやく議会の承認を得た。
 ところが、枢密院ではまた問題が蒸し返される。その結果、「人民の名において」という字句は日本においては適用されないという宣言を付すことで、不戦条約はようやく1929年(昭和4年)6月26日に枢密院を通過し、やっと批准されることになるのである。
 昭和初期の日本の政治的雰囲気を知るには、達吉が『現代憲政評論』に収めた「国体思想に基づく憲法論争」という一文を読んでみるのがよいのかもしれない。
 そのころから与野党を問わず、さまざまな集団や組織も、神格化された天皇、すなわち国体への忠誠度が、みずからのアイデンティティを示す尺度となりつつあった。それは東京帝国大学法学部教授の達吉自身も例外ではなかった。
 達吉はこう書いている。

〈コムミューニズムの思想がますます広く年若い読書階級の間に普及していくのに伴って、一方にはこれと反対の立場にある者の間には国粋主義ともいうべき思想がますます極端化して、それが政策の上にも社会事象の上にも著しく現れてきたことは、この数年来のわが国におけるもっとも顕著な現象の一つである。自分は三千年の歴史をもったわが君民一致の国体をもって世界に誇るべき日本のもっとも大なる長所となし、これを擁護することは国民のもっとも貴重なる義務であり、社会組織の改革がいかに必要であるにしても、それはただこの国体の基礎のもとにのみ実現せられうべきものなることを信ずることにおいて、世のいわゆる国粋主義者とその思想を一にする者である。しかしながら政府の当局にしても、また民間の有志にしても、実際に国体擁護のためと称して取っている手段は、往々にして常軌を逸し、ただにその目的に達しないのみならず、かえってその擁護せんと欲するものを危うするおそれあるものがあるのは、国家のために遺憾至極と言わねばならぬ。〉

 国体を守るべきことはいうまでもない。しかし、問題は、国体擁護のためと称する常軌を逸した思想と行動が横行していることだ。
 不戦条約の「人民の名において」という文言をめぐる天皇大権論争もそのひとつだった。国民の前に真相が明らかにされることのなかった満洲某重大事件もまた常軌を逸した動きにちがいなかった。
 さらに、政府は野党民政党を攻撃するために、民政党がその政治綱領に「議会中心政治」を掲げているのは、天皇中心の国体を破壊するものだと批判するようになっていた。
 これにたいし、達吉は議会中心政治は天皇中心政治を否定するものではなく、立憲政治の当然の帰趨だと、あらためて主張しないわけにはいかなかった。

〈議会中心政治の価値いかんについては、今や世界いたるところにこれを疑う声がすこぶる高い。その実際にこれを破壊しおわったものには、ソヴィエート・ロシアおよびイタリアの独裁政治がある。議会政治はもとより無条件に謳歌せらるべきものではないにしても、これを独裁政治の専横と陰鬱とに比して、なお大いなる長所を有することは疑いを容れぬ。われわれはただ努めてその弊を除くべく、みだりにこれを否定し、その破壊を企つることは、これを避けねばならぬ。いわんやこれをもって、わが国体に反するものとなすがごときにおいてをや。〉

 達吉はあくまでも議会政治を擁護し、それが進展することを願っていた。ドイツではまだヒトラーが政権を握っていない。しかし、世界では議会政治を否定するボリシェヴィズムとファシズムが勢いを増しつつあった。

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