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與那覇潤『平成史』を読む(3) [大世紀末パレード]

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 世紀をまたぐころ、1998年(平成10年)から2004年(平成16年)にかけての流れをみていく。
 1999年4月、石原慎太郎が東京都知事に当選する。保守派の論客として25年間国会議員を務めた石原は、自民党内ではどちらかというと浮き上がった存在だった。東京都知事への挑戦は一種のリベンジだった。
 その高校時代の同級生で、竹馬の友ともいえる江藤淳は99年7月に自宅の浴室で自殺する。妻の死とみずからの病気により、いささか情緒不安定になっていたようだ。
 日本を「母性優位の社会」ととらえる江藤にたいし、国家を人格とみて、「俺のようなマッチョな男こそが政治の中枢を担い、国家に活を入れなおさなくてはならない」というのが石原の思想だった、と著者はいう。石原の都知事当選は、「あたかも平成に対する『昭和の帰還』を見せつけた感」があったと。
 99年3月には宇多田ヒカルのファーストアルバム『First Love』が発売され800万枚の大ベストセラーになる(デビュー曲は前年の「Automatic」)。プロダクションやレコード会社を通さないスタイルで、いきなりのホームランだった。
 1998年には小林よしのりが『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』を刊行していた。このなかで、小林は左派系の知識人を罵倒しながら、「国民は軍部にだまされていただけ」と主張してきた「敗戦後の日本人」にも厳しい目をむけていた、と著者はいう。
 だいじなのは国家であり、国家を守るプロの政治なのだという意識が浮上していく。
 この年には「つくる会」の教科書、西尾幹二の『国民の歴史』が産経新聞から出版され、ベストセラーとなった。
 そのころ『批評空間』グループからデビューしたのが団塊ジュニア世代の東浩紀(あずま・ひろき)で、98年に最初の著書『存在論的、郵便的』が出版され、注目を浴びた。
 著者によれば、ベタなフロイト型の精神分析ではもう説明できない時代がはじまっているのに、既成の文壇や思想界はあいかわらずで、想像力が追いついていないというのが、東の感性の出発点だったという。
 2000年には福田和也が『作家の値うち』を出版し、小説に点数をつけて、大いに物議をかもした。
 同じ年、Amazonが日本に上陸。読者が本のレビューに☆をつけて採点する方式が導入された。巨大匿名掲示板としての「2ちゃんねる」も、この年に発足している。
 1998年7月から2000年2月にかけては小渕恵三が日本の首相だった。小渕の急死を受けて、森喜朗が首相を継ぐ。このころ議会は、衆参で多数派が異なる「ねじれ」状態にあった。
 世界をみると、イギリスでは労働党のトニー・ブレア、ドイツでは社会民主党のゲアハルト・シュレーダー、イタリアでは「オリーブの木」のロマーノ・ブロディ、アメリカでは民主党のビル・クリントンが政権を担っており、どちらかというと中道左派の勢いが強かった。韓国でも民主化運動の象徴とされてきた金大中が大統領となり、台湾でもそれまでの国民党に代わって、民進党の陳水扁が政権を奪取した。
 そんななか、相変わらずの派閥重視の姿勢をつづける日本の自民党政治はいかにも古くさく感じられた。
 しかし、この時期にこそ、平成政治の方向性が定まった、と著者はいう。
 ひとつは自民党と公明党の連立がはじまったこと、もうひとつは共産党が「最左派の野党」として定着したこと(それにより野党は常に分裂する)。
 こうして、小選挙区時代に自民党が延命できる仕組みがつくられた。
 公明党は都市部での組織票を自民に回すかわりに、「選挙区は自民、比例は公明」にと訴え、みずからの議席を確保した。
 いっぽうの日本共産党は前の自社さ連立政権への失望と、それ以降の社民・さきがけの凋落により、政権批判票をつかんだ。それ以降、妥協を拒否し「左バネ」をきかせることが、共産党のモラルとなっていく。
 1975年に社会・共産・公明が組んで、美濃部亮吉都知事の3選を実現した時代は遠い過去になりつつあった。

 2001年4月には、小泉純一郎が総理の座を射止め、5年半にわたる長期政権をスタートさせる。
 小泉政権は民間人の竹中平蔵を重要閣僚に任命するなど「サプライズ人事」をおこなった。しかし「小泉政権が採用した政策は、多分に平成初頭の細川護熙非自民政権がめざした路線を、むしろ自民党の再生のためにリサイクルしたもの」だった、と著者はいう。
 前年11月、不人気な森喜朗内閣を倒そうとした「加藤(紘一)の乱」は切り崩しにあって挫折していた。小泉の登板は、いわばその憤懣を継承するかたちとなった。
 小泉政権で記憶に残るのは道路公団民営化と郵政民営化だろう。「官から民へ」というスローガンは、世論受けして、「抵抗勢力」を排して実行されることになる。
 小泉の懐刀となった経済学者の竹中平蔵は、ネオリベラリズムの代表とみられがちだが、じつはしばしば意見を変えていた。2001年に入閣した時点でも、竹中は小泉の公約である「国債30兆円の枠」堅持に懐疑的だったという。竹中はもともと増税プランを支持していたが、小泉が任期中の消費税増税を封印すると、それに追随していく。
 小泉─竹中路線でよく知られるのは、バブル崩壊後、銀行に累積していた不良債権を強行処理したことだ。2003年5月のりそな銀行危機にあたって、政府は2兆円の公的資金を投入する代わりに、経営陣を入れ替え、事実上の国有化をはかった。
 2001年9月には、アメリカで9・11テロ事件が発生していた。これにたいし、アメリカは翌月からアフガニスタン空爆に踏み切る。小泉政権はアメリカを全面的に支持、テロ対策特措法を成立させる。
 そこから2003年末のイラク戦争への自衛隊派遣までは一直線だった。憲法との整合性は無視され、秩序をもたらすのは結局は力だという乾いた現状認識が突出するようになる。
「反左翼・反戦後」を掲げる、「新しい歴史教科書」グループは分解する。西部邁と小林よしのりは、憲法改正を唱えながら自民党の対米従属を批判する反米保守の隘路へとはいっていく。
 柄谷行人らの『批評空間』も現実の政治情勢に翻弄されながら、終焉を迎える。柄谷が立ち上げた社会運動NAM(ニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント)の失敗が引き金となった。
 柄谷がこの運動をはじめたきっかけは、1999年末に事実上日本が法的にいつでも戦争ができる体制を完成し、それにたいし議会政治があまりに無力だったからだという。うむをいわさず法整備を進め、それを国民に押しつけていく保守政治のスタイルが生まれつつあった。だが、柄谷の運動はこれに抗しえない。
 ウェブ空間が広がるようになったのは、このころからだ。それは当初、反独占と自由を志向するメディアのようにみえたが、しだいに多くの人から反響を集めるための扇情的メディアに代わっていく。
キャラと感情が論理よりも優位になる。何と2001年9月には小泉首相の個人写真集までが発売される。そんななか、論壇空間は衰弱していった。歴史の重みも消えようとしていた、と著者はいう。

 2003年10月には、イラク戦争への自衛隊派遣がはじまる。しかし、反戦デモはいまひとつ盛り上がらない。「いいことだとは思わないけど、まあしかたないかな」というのが平均的な世論だった、と著者はいう。
 そのころ、民主党は小沢一郎の自由党を吸収して、勢力を拡大しつつあった。11月の衆院選では比例区の得票数で自民党に競り勝ち、2004年7月の参院選でも1議席ながら自民党の議席数を上回った。これにたいし、社民、共産は大敗し、いわゆる「左翼」は衰退していく。
 養老孟司の『バカの壁』がベストセラーになったのは、このころだ。著者によれば、この本があたったのは、厳密な論理よりも、わいわい盛り上がろうという空気感をすくいあげることができたためだ。歴史の重みにとらわれない、軽く右寄りのスタイルが人に安心感を与えたのかもしれないという。
 理性でははかりしれない事件が頻発していた。1997年の酒鬼薔薇事件(神戸連続児童殺傷事件)、99年の桶川ストーカー事件、2000年の西鉄バスハイジャック事件、2001年の附属池田小事件。『バカの壁』がヒットした背景には、こうした異常としか思えない事件への不安も横たわっていた。
 そうしたなか、精神科医の斎藤環は、「心」を問うことなく、すべてを脳内物質の働きに還元し、マニュアル化した治療法や投薬で問題を解決しようとする傾向を批判している。
 家庭内にもインターネットが浸透していた。東浩紀はインターネットを「環境管理型権力」と名づけ、人間をコントロールする新しい力ととらえた。FacebookやYou Tube、Twitter、iPhoneなどが登場するのは2003年から2007年にかけてだ。
 2000年代前半、日韓関係が政府間レベルで悪化するのとは裏腹に、日本では韓国ドラマを中心に韓流ブームが巻き起こった。『冬のソナタ』は『宮廷女官チャングムの誓い』などが評判を呼んだ。
 日本はイラクへの派兵を拒みとおすことはできなかったものの、国内では、政府の方向性とは別の反米自立への志向も芽生えつつあった。
 とはいえ、景気は悪くなっていたから、「攻撃的な排外主義」(ネット右翼)の勢いも強くなっていく。韓流ブームと裏腹に「嫌韓」が流行しはじめる。さらに中国の台頭に反発する「反中」も広がっていく。
 日本のインターネットは「これまで表では言えなかった、どす黒い本音」を吐き出しあって、同志をつのる場所になっていった、と著者はいう。
「戦後の雰囲気」にしたりきっている文化左翼は、そうした勢いに対抗する方向性を打ちだすことができない。
 2003年には日本でもアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『〈帝国〉』が邦訳出版された。『〈帝国〉』はポスト9・11のアメリカ帝国を批判する本として受けとめられていくが、それはあきらかに誤読だった、と著者はいう。帝国はのちのGAFAに代表されるようなメガ・プラットフォームのことだ。
 時代を引っぱっていく理念をどこにも見つけられなくなっていた。平成の半ばはそんな状況になっていた、と著者はいう。
 こんなふうにまとめてみると、ずいぶん昔のできごとのようにみえて、それはついきのうのことなのだとわかる。

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與那覇潤『平成史』を読む(2) [大世紀末パレード]

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 1993年(平成5年)8月、日本の政治に大きな転機が訪れる。自民党一党支配が崩れ、非自民8党派による細川護熙連立内閣が発足するのだ。
 著者は「政治改革を掲げて成立した細川非自民政権にもまた、メディアが先行してイメージを作り出した側面」があったと述べている。とはいえ、イメージが政治を動かすのは、この時代にはじまったわけでもあるまい。
 細川政権待望論は早くから盛り上がっていた。『文藝春秋』は1992年6月号に細川の「『自由社会連合』結党宣言」(実際の執筆は学習院大学教授の香山健一)なる寄稿を掲載、その勢いのまま「日本新党」が結成される。7月の参院選選挙で、日本新党は細川自身と小池百合子ら4人の当選をかちとった。それがあっという間に、翌年の細川内閣成立にいたるのである。
 細川を首相にかついだのは、自民党を離党して「新生党」を結成した小沢一郎だった。小沢は衆院選前の1993年5月に『日本改造計画』(実際の執筆は御厨貴、北岡伸一、飯尾潤、竹中平蔵、伊藤元重)を出版する。小選挙区制の導入が強く打ちだされていた。ゆるい選挙改革をめざす細川の考え方とは、あきらかにちがっていたという。
 その結果、小沢一郎がリードする細川政権は「大胆な改革」へと歩みだし、瓦解していくことになる。
 1993年には幻冬舎が設立される。社長の見城徹は慶応大学出身で、熱心な全共闘参加者だった。規範破りというべきその大胆な出版は「平成前半のアナーキー(なんでもあり)な文化環境に貢献した」と、著者はいう。
 そのいっぽうで、90年代初頭は「ベタな物語回帰」の時代だったというのがおもしろい。「愛は勝つ」という歌がヒットしたり、テレビでは禁断のドラマ『高校教師』やストリートチルドレンが生き抜く『家なき子』がはやったりと、うそっぽいのにまじめくさった虚構の雰囲気がもてはやされた。
 そのころ花田紀凱(かずよし)が編集長を務めていた『週刊文春』が美智子皇后をバッシングし、そのせいかどうか、皇后が倒れ、失語症になったというできごともあった。
 1991年に日本初のヘアヌード写真集を出した篠山紀信は、引きつづき宮沢りえの写真集を出し、大反響を呼んだ。平成初頭には性の解放の空気があった、と著者はいう。
 宮台真司や上野千鶴子が注目されるようになる。
 宮台によれば、革命によって「絶対の正義」が実現するなどというのは幻想にすぎない。それでも、これまでの世間のまなざしに代わる新しい何か(いわば脱近代の共通感覚)が求められていた。
 1994年6月にはオウム真理教が「松本サリン事件」を引き起こし、さらに翌年の「地下鉄サリン事件」へと突き進んでいく。
 1995年10月、テレビ東京で『新世紀エヴァンゲリオン』の初回が放送される。エヴァンゲリオンを著者は人類全体の浄化(革命)をめざす空虚な父と、父と対決しながら成長していく息子の物語としてとらえている。端的にいえば、全共闘の父殺しの話だ。
 このとらえ方が正しいかどうかわからない。少なくとも著者が「革命ごっこ」に反発を感じていることはたしかだ。江藤淳はそうした「革命ごっこ」=成熟しない政治意識の裏に、日本の対米依存と裏返しの安直な対米反発とがあるととらえていたという。
 1994年から95年にかけては社会党左派の村山富市を首班とする自社さ連立政権が成立した。その官房長官、五十嵐広三は元旭川市長で、社会党の衆院議員。日韓基本条約によってカバーしきれない元慰安婦への償いをおこなうため財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」を創設する。だが、正式の国家賠償ではないということで、韓国の運動家から強い反発を受ける。
 韓国では軍事政権が終わり、最後の軍人大統領、盧泰愚のもとで1987年に民主化宣言が発表された。翌年のソウルオリンピック成功にもとづき、韓国にも雪解けが訪れる。だが、そのとき長らく抑圧されてきた記憶が火を吹き、慰安婦問題が浮上してくるなどとはだれも思わなかったという。
 著者いわく。「それを包みこむ共通の歴史観を提示する準備は、誰にもできていなかった」。
 自社さ連立政権とは何だったのか。それは小沢一郎らを政権から放逐するために成立した「日本史上稀な大連立政権だった」という。首相の座に就く社会党の村山は、このとき「日米安保容認・自衛隊合憲」へと立場を180度転換した。
 村山政権は多難に襲われる。1995年1月17日には阪神・淡路大震災、3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生する。
 このとき現実的な対応を求められるなか、昔ながらのマルクス・レーニン主義は完全に求心力を失い、社会党は完全に分解していく。それに代わるものとして出てきたのが、なんとなく「保守」と対立する「リベラル」という看板だったという。
 そのころ、暗い雰囲気を吹き飛ばすような音楽がはやりはじめる。ユーロビートに乗った、カラオケ重視のメロディ。作曲家・プロデューサーの小室哲哉のつくる歌がヒットする。華原朋美とTRFの時代。それにつづきモーニング娘もデビューを果たす。
 著者は1995年にフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが自殺したことにもふれている。流動する全体社会のなかで人がサンプルかデータになってしまいかねない状況において、知識人の存在も危機にさらされていた。
 1996年には丸山眞男、高坂正堯、司馬遼太郎が亡くなる。
 晩年の丸山は民主主義といい、社会主義といい、マスコミが理念と現実をごっちゃにして論じていることを批判していた。大学人に収まらない反骨の思想があった。戦後日本の「一国平和主義」を超えた国連の改組も構想していたという。
 いっぽう、当初憲法9条の価値を認めていた高坂は、次第に憲法9条が日本人の思考を停止させていると考えるようになり、その改正をうたうようになる。
「明治の栄光」を描いたかのようにみえる司馬遼太郎は、実際には「越境的な想像力を発揮して、国民の概念をむしろ相対化しようとしていた」というのが著者に見方だ。
 1997年にはこうした3人のもっていた歴史との緊張感が失われ、のっぺりした「歴史らしきもの」=民族一丸史観が頭をもたげる。それが「右傾化の原点」だった、と著者はいう。
「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、「日本会議」が結成されたのは、この年だ。
 自民党は衆院で単独過半数を回復し、橋本龍太郎内閣(1996年1月〜98年7月)のもと、社民党とさきがけの存在感はすでに薄くなっていた。小沢一郎の新進党は極端にタカ派化していた。
沖縄特措法改正が成立する。これにより沖縄県知事が代理署名を拒否した場合も米軍が基地として土地利用を継続できるようになった。
 背景には1995年9月に発生した米海兵隊員による女子小学生輪姦事件があった。沖縄県民の怒りが爆発するなか、知事の大田昌秀は沖縄の基地固定化に危機感を覚え、米軍基地縮小に政治生命を賭していた。
 日本政府は沖縄県の対応を退け、沖縄特措法を改正した。そのうえで96年4月に、アメリカ側と移設先を準備するという条件付きで、普天間基地の返還に合意する。
 1993年に細川護熙首相は先の大戦を「侵略戦争、間違った戦争」と明言していた。これにたいし、自民党からは猛烈な反発が巻き起こった。
 とはいえ、このころまでは自民党内の一般的な見方は、国際的に侵略戦争と批判されているのは承知しているが、現在の日本は憲法9条を掲げることで、過去への反省を示しているというものだった。それが次第に変わりはじめる。
 1995年には、村山政権のもと、閣議決定にもとづいて、いわゆる「村山談話」が発表された。談話には「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」という見解が示されていた。この談話には閣僚だった橋本龍太郎、河野洋平、亀井静香、野中広務も賛同していた。
 ところが、1997年を曲がり角として、次第に右旋回がはじまるのだ。
「新しい歴史教科書をつくる会」の発足にあたり、当時、東大教育学部教授の藤岡信勝は自由主義史観を唱え、歴史修正主義へと踏みだした。
 その動きは「表立っては主張できなかった『昭和のホンネ』を、一挙に噴き出させる蟻の一穴になった」と、著者は評する。
 だが、当初の意気込みとは異なり、「つくる会」はまもなく極右と同義となり、国民運動になるまでにはいたらなかった。「歴史の『修正』というよりも衰弱、皮相化がはじまってゆく」というのが、著者の見方である。
 マルクスと天皇がなきあとの平成ゼロ年代を、著者はしばしの無邪気でアナーキーな時代ととらえているようにみえる。やがて「現実」の報復がはじまる。
 1996年にアメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』を刊行した。『文明の衝突』はフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を批判したもので、異なる文明とは対決するほかないというニヒリズムの書物として受容される。
 1995年にはジェフ・ベゾスがオンライン書店としてAmazonを開業、96年末にはスティーブ・ジョブズがAppleに復帰。いわゆるGAFAの時代がはじまろうとしていた。
 1997年7月にはタイを起点として、アジア通貨危機が発生する。危機は周辺地域におよび、年末には韓国がIMFの管理下にはいる。
 日本では4大証券のひとつ、山一証券が廃業するにいたる。「社員は悪くありませんから!」という悲壮な社長会見が語り草となった。日本のバブル崩壊が実感されるようになるのは、株価が暴落する89年からというより、このころからだ。
 ロシアでは、通貨危機の余波で、1999年にエリツィン大統領が政権を投げ出し、ウラジミール・プーチンが大統領代行に指名された。
「無秩序とともにある自由を棄て、力の支配による安全を求め出すポスト冷戦期の方向転換が、2001年9月11日の米国に先んじて、姿を露わにしつつあった」という。
 こうして並べてみると、意外に忘れていることが多い。

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與那覇潤『平成史』 を読む(1) [大世紀末パレード]

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 人には人の歴史があるというけれど、歴史の見方も人さまざまだろう。とくに同時代史に関しては、人びとの経験の多様さに応じて、その見方は千差万別だと思われる。その点、これは與那覇潤の個性あふれる『平成史』である。早いもので、平成(1989年から2019年にかけて)の時代も、はや遠くに過ぎ去った感がある。いま、それをふり返るときに、本書は多くのシーンを喚起させてくれる。
 奥付によると、與那覇潤は1979年生まれで、2007年に東京大学大学院を修了し、地方公立大学で教鞭をとった。その代表作『中国化する日本』を読んだことがある。とても面白かったが、「中国化」という概念が多義的で、すんなり理解できなかったという印象が残っている。
 與那覇はその後、重度のうつ病にかかり、2017年に大学を退職し、現在は歴史学者としてではなく、在野の文筆家として活躍している。
 ぼくより30歳以上、若い人だ。この時代を生き、いまも何とか生きているぼくは、いまでは毎日をぼんやりとすごし、何もかもすぐに忘れてしまうありさまだ。人の名前はとくに出てこなくなった。
 そんな自分でもあの時代をふり返れば、これまで気づかなかった新たな発見があるかもしれない。脳の刺激になること、まちがいなし。そんなせこい了見から、この本を読んでみることにした。ほんの少しずつだ。

 著者ははじめに、平成期は「まるで霧のなかに迷い込んだかのように、全体像を見渡しにくい時代だ」と述べている。情報があふれているという点では、この時代の見晴らしはいい。でも、どうも全体像がうまくえがけないという。
 人はばらばらに分断化され、異なる人どうしの対話がなりたたない。そのくせ、ますます社会の画一化が進み、人は与えられた全体に順応することを強いられている。
 ほんとうは全体像など知らないほうが、幸せに生きていけるのではないか、全体は「機械じかけの新たな神」にまかせて、人は目の前に提示された楽しい現実を選びとっていくほうが楽しいのではないか。著者はどこかにそんな疑いも覚えている。
 霧はますます濃くなっている。それでも「昨日の世界のすべて」を知りたいという激しい思いが、この本を書かせたといえる。
 全体は15章、全部で550ページ以上の大著だ。世紀をまたいで、1989年から2019年にかけて31年間の心象がほぼ2年ごとに順につづられている。それを少しずつ読むことにした。
 まずは1989年から1990年にかけて。
それは「静かに、しかし確実に社会のあり方が変わっていった21世紀への転換点」だったという。
 昭和天皇が亡くなったのが1989年1月7日。この年、ポーランドでは「連帯」が選挙で圧勝し、ハンガリーが社会主義を放棄し、チェコスロヴァキアでビロード革命が発生し、ルーマニアで独裁者チャウシェスクが処刑された。
 天皇とマルクス主義というふたつのモデル(師範、あるいは芯棒)が失われたところから、平成元年(1989年)がはじまる、と著者はいう。
 ふたりの父が死んだ。天皇とマルクスという父が……。それにより、世界のタガがはずれ、タブーは消えたかのようにみえる。
 父なき時代はすでに1970年前後からはじまっていた。いわゆる全共闘の時代だ。だが、平成にはいると、「最初に父を否定した世代の人びとが、今度は糾弾される側の父の座に就き」、その役割を問われるようになる。
 時代の転換点は世代の転換点でもある。
 天皇とマルクスが死んだことにより、中心は空洞化し、だれもがバラバラな「自由」を求めはじめ、社会主義は嫌われるようになった。
 1989年7月の参院選で自民党は大敗し、90年初頭からバブル崩壊がはじまる。
 1989年には、漫画家の手塚治虫、実業家の松下幸之助、歌手の美空ひばりも亡くなっている。ひと時代を築いた多くのカリスマが世を去った。
 民俗学者の大塚英志は、昭和末期に病中の天皇への記帳に訪れた制服姿の少女たちが「天皇ってさ、なんか、かわいいんだよね」という声を聞いた。それは、これまでの日本社会にはない天皇観だった。
 これまでないといえば、1989年には宮崎勤事件がおこった。「文字どおりオタクグッズに囲まれて私室に籠っていた青年が連続幼女殺人を犯した」という事件だった。
 不安な時代が幕をあけた。

 1991年から92年にかけて。
 著者が注目するのは、このころ柄谷行人と浅田彰による『批評空間』が創刊されたこと、そして漫画家の小林よしのりが『SPA!』で『ゴーマニズム宣言』の連載を開始したことだ。
 残念ながら、ぼくはこの両方とも関心がなかった。仕事に追われ、すでに感性が摩滅していたのだろう。
 浅田彰は学者の領域を超えて、軽やかに社会事象に切りこんでいく。小林よしのりはギャグマンガを武器に自由な発言の場を確保し、次第に右旋回していく。
 著者によると、柄谷行人や浅田彰が政治化するのは、1991年の湾岸戦争に際し、「湾岸戦争に対する文学者声明」を発表してからだという。
 このとき日本政府は自民党の海部俊樹首相—小沢一郎幹事長の体制。イラクへの多国籍軍派遣にあたり、それを積極的に支援するかどうかをめぐって、もめにもめていた。これにたいし、柄谷行人らはあらゆる戦争への加担に反対することを表明した。
 その後、柄谷と浅田は平和憲法擁護で共闘するようになる。しかし、平和憲法の意義が「よその地域での紛争に巻きこまれない」ことだとすれば、こうした「閉ざされた戦後」のシンボルである憲法9条を「世界史的理念」にまで格上げするのは、どこかちぐはぐではないか。著者はそんな疑問を投げかけている。
 こうした「反戦」の子供っぽさを批判したのが、評論家の加藤典洋だ。それ以降、平成期を通じて、柄谷、浅田の『批評空間』グループと、加藤をはじめとする吉本隆明の継承者たちは、「仇敵と呼べる関係」になり、思想的な対立軸を形成していくようになったという。
 1990年にはいると、大学が変わりはじめ、学際化と大学院重点化の波が広がっていった。慶應義塾大学には総合政策学部と環境情報学部ができ、湘南藤沢キャンパスが開設される。多くの大学で教養学部が解体され、専門化による大学院重視の姿勢が強まる。
 このあたり、ついぞ大学と接触のなかった(摩擦はあったけれど)ぼくには、事情がよくのみこめない。
 そして、「情報」の時代が幕を開ける。それはどんどんスピードを上げ、やがて日常のなかに情報が浸透していくことになる。
 1991年には評論家の山本七平が亡くなる。右派論壇人とみられがちな山本を、著者は国家主義にきわめて批判的だった人物ととらえている。
 1992年に出版された本としては、村上泰亮の『反古典の政治経済学』が忘れがたいという。
「ナショナリズム」、「経済的自由主義」、「技術オプティミズム」を重視する村上の立場は、新保守主義といっていいが、そこにはみずから一貫した筋道を追求する姿勢が貫かれている、と著者は高く評価している。
 天皇とマルクスなき時代のはじまりは、のっけから混沌とした様相を呈している。

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トスカーナの避暑地めぐり──イタリア夏の旅日記(9) [旅]

8月13日(日)〜15日(火)
 暑くなる。避暑のため、フィレンツェ東の山中ヴァッロンブローザの僧院に向かう。標高は約1000メートル。少しは涼しかろうと思った。
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 10時前に家を出発して、モンテヴァルキにあるミワが務める会社の前を通り、山道を登り、1時間40分ほどで着く。駐車場がいっぱいで、少し離れた場所に車を止める。
 僧院ではミサが行われていたため、中に入れず。僧院の前は菜園になっている。
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 大勢の人が訪れている。屋台もでている。
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 少し下ったところにレストランがあったので、そこで食事をする。
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 けっこう豪勢に食べた。夏休みだから、いいだろう。
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 そのあと、止めてある場所に不安があるというので、少し降った場所に車を止め直し、山中を上って僧院までハイキングをする。
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 僧院を見たあと、ポツリときたかと思うと、日がさしているのに、突然、猛烈な雨が降りはじめた。木の下に避難するが、雨の勢いはますます強くなり、雹まで落ちてきて、30分ほどやまなかった。ふたたび僧院の門まで駆けこむが、びしょ濡れになる。小降りになったので、なんとか自動車に戻る。たしかに避暑の効果はじゅうぶんだ。
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 われわれはもう一枚着るものを持っていたので、それに着替えることができたが、ミワは濡れたままで車を運転し、なんとか6時前に家まで戻ることができた。わが娘ながら、たくましくなったものだ。
 翌日は、朝、掃除を手伝い、マテオの運転で建築中の家を見に行き、あたりを散歩してすごした。
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 午後はのんびり休息。パリオの予行演習がはじまるというので、テレビをみていたら、雨が降りはじめる様子が映しだされた。街にほど近い家のあたりはまだ晴れている。
 すぐやむだろうと思っていたら、家のあたりも雨になる。そのうち猛烈な雷雨となった。それが1時間ほどつづく。地球温暖化による天候異変を実感した。夕方の予行演習は中止になった。
 翌朝、ネットの日本のニュースをみる。台風7号が関西に上陸したらしい。円ユーロのレートは1ユーロ=160円近くなった。
 朝10時すぎ、昨日の雨が建築中の家に吹きこんでいないかを確認したあと、ミワの運転でアミアータ山に出かける。途中、トスカーナの典型的な風景が広がる。いまは小麦の収穫が終わっているので、ちょっと殺風景だ。
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 標高1738メートルのアミアータ山は行楽客で溢れ、道路側のあらゆる場所に車が止まっていた。森の中でのんびりキャンプしている人もいる。
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 頂上に向かう道は規制され、下りだけの一方通行になっている。途中で車を止め、歩いていく。ブナ林が広がっていた。
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 道の脇には奇妙なかたちをした巨岩も。
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 頂上近くの駐車場は満車になっていた。このあたりで標高は1670メートルある。その付近のレストランは大混雑で、あるレストランは42ユーロのメニューしか扱っておらず、もう一つのレストランは長蛇の列で、30分以上、待たなければならないという。
 そこでお手軽なバールでパンとハム、ビール、ジュースなどを注文して、そこのベンチで食べることにした。
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 お昼はこれでじゅうぶんだ。
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 今日は聖母マリアの被昇天日にあたり、イタリアも休日だという。バカンス中であることも手伝って、一番混んでいる日にきてしまった。頂上は見ただけで登らず、引き返す。
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 帰途、ローマ時代の温泉遺跡が残るバーニョ・ヴィニョーニに立ち寄る。ちいさな村の真ん中に、水槽型の鉱泉があり、いまもお湯がわきだしている。
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 泉の脇のバールで休憩。
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 岩場にお湯が流れだし、足湯ができるようになっている。下の川のきわにはプールがつくられ、そこで温泉を楽しんでいる人たちもいる。
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 あとで知ったのだが、ここバーニョ・ヴィニョーニは、タルコフスキーの『ノスタルジア』の舞台だった。
 予言者ドメニコは、世界の終末を巫女から聞き、のちにローマの広場で焼身自殺する。主人公のゴルチャコフは、そのドメニコから温泉場の端から端まで炎を絶やさずにたどりつくことができれば奇跡がおこるといわれて、それを実行に移す。
 温泉場にはいつも微風がそよいでいる。そのため蝋燭は二度にわたってかき消される。それでもゴルチャコフはこの奇妙な儀式をやめようとはしない。そして、ついに成功したとたんに心臓麻痺で命を落とす。
 その瞬間、ゴルチャコフの薄れゆく意識のなかで、天井の落ちたサンガルガーノ教会の廃墟に粉雪が降りはじめ、それが追放されたロシアの光景と一体化する。
 ゴルチャコフが奇跡をもとめて、儀式をつづけるロケ地が、じつにこのバーニョ・ヴィニョーニだった。
 そんなことも知らないわれわれは、きょうもお気楽な観光地めぐりをしていた。

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ハイパー資本主義──『資本とイデオロギー』を読む(6) [商品世界論ノート]

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 ハイパー資本主義が登場するのは1980年代以降だ。
いまや世界中の国々はこれまでにないほど密接に相互依存している。とりわけ1990年代以降は、デジタル技術の時代となり、グローバル化が段違いに進んだ。しかし、経済格差や貧困の度合いは、1980年代以降、むしろ拡大している、とピケティはいう。
 ヨーロッパや中国、米国より経済格差が大きいのは中東だ。中東では、人口の少ないいくつかの国に石油資源が集中している。中東の国境は第1次世界大戦後にイギリスとフランスによって引かれたもので、その後、欧米列強が石油産出国を保護した。
 中東では石油産出国と非産出国とのあいだで極端な経済格差がある。産出国内の格差も大きく、国家の富はごく一部に集中し、そこではたらく外国人労働者とのあいだでは極端な差がある。
 欧米諸国では、第1次世界大戦後、富の集中は拡散へと向かい、1970年代までそのままの状態がつづいたが、1980年代からふたたび集中傾向に転じた。中国とロシアでは1990年代に民営化の波が到来して以来、経済格差が急速に広がった。インドも同じだ。
 しかし、所得と富の分布に関するデータはまだまだ不正確だ。その理由は分布トップの回答者が、富、とりわけ金融資産を過少申告しているためだ。これを解決するには公的金融台帳をつくるほかないのだが、いまのところその方向性は政治的に阻まれている、とピケティはいう。
 なぜビッグデータとITの時代に、資産とその分布に関する統計が透明性を欠いているのか。ピケティによると、その理由は、再分配を嫌う財産主義イデオロギーが復活したせいだ。資産の透明性を拒絶するのが、現在の新財産主義の特徴となっている。
 近年の税制競争によって、かつてより直接税の税率は抑えられているにもかかわらず、租税回避やタックス・ヘイブンなどを利用した、企業や個人の資産隠しが横行している。そのいっぽうで、中下層階級の負担(消費税、賃金と年金からの控除)は軽減されず、高所得と巨額財産に累進課税を課すといった税制は検討されていない。
「金融不透明性と相まったきわめて高い富の集中の復活は、今日の世界的な新財産主義的格差体制の本質的特徴の一つだ」と、ピケティは指摘する。
 2015年現在、米国ではトップ1%が総私有財産(不動産、事業資産、金融資産)の37%(1980年は23%)を所有し、トップ10%が総私有財産の74%(1980年は65%)を所有している。ロシアではトップ1%が42%、トップ10%が71%、中国ではトップ1%が30%、トップ10%が67%。フランスではトップ1%が23%、10%が55%、イギリスではトップ1%が20%、トップ10%が52%といった割合になっている。
 富の遍在は1980年代以降、とりわけ90年代以降拡大した。こうした傾向は今後減速するかもしれないが、まだ持続するかもしれないという。
 1970年から2000年にかけ、世界の最貧諸国はさらに貧しくなった。人口が増加しているのに、税収は少なく、国はじゅうぶんな教育投資や医療投資さえおこなうことができないありさまだ。
 2008年以降の劇的な変化は、中央銀行が短期間で莫大な貨幣を創造するようになったことだ、とピケティはいう。いわゆるリーマン・ショック以降、世界の主要中央銀行は「量的緩和」に踏みこみ、貨幣創出オペレーションを編みだした。
 量的緩和には銀行への長期融資と民間および政府発行の債券の買い入れが含まれる。中央銀行のこの大規模介入によって、富裕国は1930年代の世界大恐慌に匹敵する危機に陥らずにすんだ。中央銀行は銀行破綻の連鎖を防いで、「最後の貸し手」としての役割を果たした。

〈だが、中央銀行は世界のあらゆる問題を解決し、資本主義全体を規制すること(あるいは資本主義を超克すること)などできない。過度の金融自由化、拡大する格差、気候変動と闘うには、他の公的制度が必要だ。つまり、集合的な熟議と民主的な手続きに基づく議会で作られる法、税、条約などだ。〉

 ピケティは中央銀行の限界をそんなふうに指摘している。とはいえ、金融危機や戦争、大規模な自然災害において、貨幣創造によって、膨大な資源を短期間で動員できる機関は中央銀行しかない。
 中央銀行は民主的正当性にもとづくことなく、GDPの数倍にわたるマネーを創造することができる。だが、そのことは深刻なガバナンス問題を引き起こす可能性があるのだ。
 経済金融化がここ数十年で驚くべき水準に達したことは強調に価する、とピケティはいう。ユーロ圏でも、金融資産と負債の総価値はGDPの10倍以上に達している。だが、金融部門全体の規模が実体経済よりも早く成長するような状況は永遠につづくわけがないという。
 貨幣創造はいまのところさほどインフレを引き起こしていないが、一部の資産価格は上昇している。国債の名目利率はゼロに近く、実質金利はマイナスだ。これは中央銀行が大量の国債を買い入れているためだ。だからといって、大口投資家がもうかっていないかというと、そうではなく、かれらは年間6〜8%の利益を確保しているという。
 ピケティは疑問を投げかける。

〈多くの国民は、ヨーロッパ経済活性化に目に見える効果がほとんどないのに、金融機関救済のためになぜあんな巨額のお金を創造したのか、そんなリソースを苦しむ労働者の救済、公共インフラ開発、再生可能エネルギー移行への大規模投資の資金に動員できないのかと、当然ながら問い始めている。〉

 これはとうぜんの疑問である。
 さらにピケティが問うのが、現在の新財産主義を支えるイデオロギー、とりわけハイエクの権威主義的リベラリズムだ。
 ハイエクは『法と立法と自由』で、あらゆる再分配政策への恐れを表明している。再分配は既存の財産権に疑いを投げかけ、累進課税の悪循環をもたらすというのだ。ハイエクは憲法で累進課税という発想自体を禁止すべきだとも主張する。議会に財産権を損なうような立法権を与えてはならないともいう。けっきょくのところハイエクの求める議会は財産権を擁護する議会に尽きる。
 ここ数十年で台頭してきた新財産主義イデオロギーは、極端な能力主義とも結びついている、とピケティはいう。それは経済システムにおける勝者を称賛するいっぽうで、敗者を無能と非難する。さらに貧困者が貧しいのは当人のせいだと主張する。
 1980年代以降、教育の不公正と能力主義の偽善はますます強まっている。
能力主義イデオロギーは、起業家と億万長者賛美とも結びついている。億万長者の慈善活動への期待や称賛も絶えない。だが、それらは新財産主義がもたらす権力の讃仰にほかならないのだ、とピケティは断言する。
 そろそろハイパー資本主義を終わりにしたほうがいいのではないか、というのが、ピケティの主張である。
(ピケティの『資本とイデオロギー』をこれで半分ほど読んだことになります。このあと、さかのぼって、前近代社会とは何か、近代社会について、さらに現代の政党分析などにも触れなければなりませんが、ちょっと休憩をいれます。)

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のんびり毎日がすぎる──イタリア夏の旅日記(8) [旅]

8月10日(木)〜12日(土)
 シエナ郊外の家で、とくに何の予定もない日々をすごしている。われわれは毎日が休みのようなものだが、ミワとマテオはちょうど2週間の夏休み、ユウキは3カ月の夏休みにはいっている。遠くに旅行に行けないのは、改造中の家の工事が終わらないのと、いま住んでいる家の売却交渉が進まないためだ。
 10日の朝も、業者が道路に飛び出しているガスの配管をチェックするというので、ミワとと建築中の家に出かけた。今度の家はオール電化で、ガスは使わない。そのためガスを止めるのだが、その配管が道路に飛びだしているので、それをどう処理するかを決めなければならないのだ。家の中ではトイレとバスの工事が進んでいた。
 生協に寄って帰宅し、日本からもってきたそうめんを作って食べる。午後1時半、マテオがサイクリングから戻ってくる。部屋に引っ込んでいると、ガス管の処理方法をめぐって論争する声が聞こえてくる。
こちらは今日も快晴だが、日本は台風が続けてやってきて、お盆には台風が関東地方を直撃する気配だという。日本のニュースはほとんどない。
 マテオはまもなくはじまる8月のパリオ(カンポ広場での競馬)の旗がお披露目になるというので、チェントロ(シエナ旧市街)に出かける。帰りは8時ごろになるというので、ミワの運転で近くのモンテリッジョーニに出かけた。丘の上の城壁の町だ。13世紀はじめ、シエナがフィレンツェと戦っていたときは、シエナの前哨砦だった。いまは知る人ぞ知る観光地になっている。
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 ネコものんびり歩いている。
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 トスカーナの青空に城門。何だか絵になる。城門の入り口は傾斜がきつく、戦車の侵入を防ぐ仕掛けがつけられている。
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 城門の外を一周しようとしたが、やめてしまう。その代わり、広場でカクテルを飲んで、うっとりする。のんびりした1日がすぎていく。
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 翌日も朝はゆっくりして、9時半になってから、ミワがいつも散歩にいっているという場所に連れて行ってもらう。シエナ大学理学部の脇を通って、キャンティの山並みを眺めるルートだ。遠くにキャンティの山並みと修道院が見える。
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 りっぱな家も建っている。ここからの眺めは最高だろう。だが、いかんせん暑すぎた。全コースを3分の1ほど歩いたところで引き返すことにした。
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 昼は冷やし中華をつくり、午後はのんびり。ところが、6時に家を見にくる人がいるという連絡がはいり、慌てて家を掃除する。対応はマテオにまかせて、ミワとわれわれはシエナのチェントロ(旧市街)に行くことにした。ユウキはいかないという。友達に親と一緒にいるのを見られたりすると、ばつがわるいのだろう。
 久しぶりのチェントロだ。いつものようにサッカー場に近いメディチ要塞前の駐車場に車を止め、いまはバス停になっているグラムシ広場を通って、町の中心部にはいっていく。グラムシ広場は、イタリア共産党の創設者のひとりアントニオ・グラムシ(1891〜1937)の名前にちなむ。シエナとグラムシにはどんなゆかりがあるのかを知りたいものだ。
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 1472年創業の世界最古のモンテ・デ・パスキ銀行の前を通る。2016年に深刻な経営危機におちいり、いまは事実上政府の管理下にあるという。
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 カンポ広場にやってきた。
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 石畳の上には土が敷かれ、来週のパリオに向けて、着々と準備が進んでいた。
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 ホタテ貝のかたちをした広場の底の要部分に、市庁舎(パラッツォ・プップリコ)とマンジャの塔が立っている。この堂々とした中心があるからこそ、市民(いまは世界市民)の集まる広場が生きてくるのだ。
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 中心を求めるという人の心性はいつの世も変わらない。はたして、ぼくにとって世界の中心(無限中心)は何なのかと、ふと思ったりする。いまもさまよったままだ。
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 ドゥオモ(大聖堂)の前にやってくる。昔はだれでも無料でなかにはいれたが、いまはけっこうな料金をとる。
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 なかにははいらない。入り口から写真をとると、パリオに参加するコントラーダ(町会)の旗が並び、ミサがおこなわれているようだ。この時間、観光客は外で待たされている。
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 街には1時間ほどいただけで戻る。以前は街を歩くと少し緊張したものだが、今は街が身についてきたような気がする。

 トスカーナが日本と違うのは、朝が爽やかなことだ。翌朝、午前中はのんびり。昼はマテオのご両親、お母さんの双子の妹さんと一緒にモンテリッジョーニ近くのレストランで食事する。
 3日前、ぼくと同い年のお母さんは、車で降りるときに転んで、顔と膝をぶつけた。そのとき、みんなでお見舞いにいったが、少し楽になったので、みんなで食事をしようということになった。ワインとビールもいただき、おなかいっぱいになった。
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 4時ごろ家に戻り、昼寝。気温は34度でさすがに暑い。

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ソ連解体とポスト共産主義社会──『資本とイデオロギー』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 ソヴィエト(評議会)型共産主義は、財産主義イデオロギーにたいする、もっとも急進的な挑戦だった、とピケティは述べている。「財産主義は私有財産の全面的な保護が繁栄と社会調和をもたらすと請け合ったのに対し、ソヴィエト共産主義は私有財産の完全廃止と包括的な国家所有による置換に基づいていた」というわけだ。
 ソヴィエト型共産主義が失敗したあと、いまやポスト共産主義社会はハイパー資本主義と変わらなくなっている。ロシアでは新興オリガルヒが海外に資産をためこんでいるし、中国はダイナミックな混合経済を発展させながらも、中央集権制による多くの不透明性をかかえている。
 ソ連の試みはなぜ失敗したのか。ピケティによれば、ボリシェヴィキが政権の座についたとき、かれらには何の「科学的な」計画もなかった。明確な答えがないまま権力を維持するため、スケープゴートがつくられ、粛清と収監が日常化し、権力が超個人化した。政治・社会・経済制度の策定には、慎重さ、分権化、妥協、実験精神が必要なのに、少なくともスターリンにはそうした配慮はいっさいみられなかったという。
 1920年代末には農業集産化と生産手段の国有化が強制的に導入された。それに反対したとみなされた人びとは排除・拘禁され、重労働を課されるか、死刑に処せられたのだ。
 ピケティはこのような体制が長くつづいたのは不思議なくらいだと述べている。しかし、それなりの理由はあったという。
 1920年から50年にかけての公共投資はたしかにロシアに近代化をもたらした。インフラ、輸送、教育、科学、公共衛生面では、たしかに改善があった。所得と富の集中は減り、少なくとも1950年代までは生活水準が上昇した。
 とはいえ、言論活動をはじめとして、多くの制限があり、人びとが自由に移動することすら認められなかった。生活水準の上昇もなくなり、1980年代には、西ヨーロッパのせいぜい60%程度にとどまっていた。多くの資源が軍事部門に投入されるいっぽうで、消費財の品質は劣悪だった。
 1950年代以降80年代にかけて、男性の平均寿命も低下している。ゴルバチョフによるアルコールの過剰摂取を抑える取り組みは、かえって政権への反発を招いた。
 1950年代以降、脱植民地、人種平等、男女平等などの世界の動きを支持したソ連は、一種の道徳的威信を与えた。だが、その威信も1970年代には色あせていった。
 ソ連の体制はあらゆるかたちの生産手段の私有にたいし、極度に過激なスタンスをとった。小規模事業でも私有を認めたら、限度がなくなり、一歩ずつ資本主義の復活に進むのではないかという恐怖があった。
「20世紀のソヴィエト・イデオロギーは、私有財産が小さな隙間から入り込んで最終的に制度全体を侵さないよう、厳格な国家所有権以外の認可を拒絶した」と、ピケティは述べる。
 しかし、人が求める財やサービス(つまり商品)をすべて中央政府が規制しようとすると、そこには中央集権的で、しかも抑圧的な体制が生まれることはまちがいない。
 ソ連のやり方は根本的にまちがいだった、とピケティはいう。かれがめざそうとするのは、あくまでも分権的で参加型の社会主義だ。国家所有(公有)はあってもいいが、それは透明性がなくてはならず、しかも社会所有や一時所有の企業と並び立つかたちでなくてはならない。
 ポスト共産主義のロシアは、公有財産を壮絶に盗んだオリガルヒの社会になった、とピケティは評している。公有財産はたちまちのうちに民営化され、とりわけエネルギー部門が少数の抜け目ない株主の手に落ちた。
 加えて、ロシアには累進税も相続税もなかったから、そこに超自由主義的な状況が生まれ、その結果、ロシアは世界でもっとも不平等な国のひとつになってしまった。財産隠しも盛んで、金融資産はタックスヘイブンに隠され、違法行為が常態化しているという。
 政治面をみても「1999年にプーチンが政権についてからは、政敵の拘束とメディア弾圧によって、ロシアは[真の対立候補がいないまま]事実上独裁的な国民投票支配の下におかれている」という。
 いっぽう中国はどうだろう。
 私有財産の完全廃止と集産化、工業化強行という毛沢東時代の試みは完全な失敗に終わった。その失敗から教訓を学んだ中国は1978年以降、共産党の主導権を維持しながら、混合経済を発展させるという道を選んだ。
 1978年段階で70%近くに達していた中国の公的資本の割合は、2005年以降、ほぼ30%に落ち着いている。
「総財産の70%近くが民営化されたためにこの国はもはや共産主義ではないが、かといって公共財が総財産の約30%超という、少ないとはいえ相当なシェアを占めているがゆえに、完全な資本主義でもない」とピケティは評する。
 中国の体制はいわば独裁混合経済なのだ。
 住宅用不動産はほぼすべて私有になっており、不動産はいちばんの民間投資先になっている。農地は親から子に相続できるという意味で、部分的私有になっている。
 中国国民は「戸口」を与えられ、地方住民か都市住民かを指定される。地方戸口から都市戸口になれば、都市での公共サービスを受けられるようになるものの農地の所有権を奪われる。そのため、都市への出稼ぎが多い。
 混合経済への移行によって、中国では経済格差が広がった。
 2020年現在、中国では上位10%が約40%の所得シェアを占め、下位50%のシェアは約15%となっている(1980年には上位10%と下位50%がともに27%の割合だった)。
 中国の経済格差はヨーロッパより大きく、米国に近づきつつある。国内通行証と移住制限の存在が大きな格差の一因となっている。さらに最近は社会統制制度も導入され、監視社会化が一段と進んでいる。
 中国の所得と富のデータがきわめて不透明なことも、ピケティは指摘するのを忘れていない。
中国では、建前上、累進税制が採用されているが、所得税に関する詳細なデータは公表されていない。相続税はないため、相続に関するデータはまったくない。
 そのため経済格差には不透明な部分があり、実際には経済格差はもっと広がっているかもしれない。汚職の規模はさらに大きく、資本逃避も増大している可能性もある。
 習近平は権力の継続的行使によって、党の潜在的退廃を抑止するというが、「人口13億の国の格差を、単純に公開糾弾と収監だけで抑えるのか疑うのは当然だ」と、ピケティはいう。
 経済が開放され、事業が民営化されたいまの中国は、なんでもありの世界になってしまった。国を挙げてのビジネス・ラッシュが進み、ニューリッチの億万長者が生まれた。文化大革命の時代とは隔世の感がある。
 中国は西側の議会制民主主義をカネの力に左右されているとして非難しつづけている。それが当たっていないとはいえない。とはいえ、こうした主張にもとづいて、真の選挙競争なしに共産党が権力に居座りつづける姿勢はまちがっている、とピケティは断言する。
 東ヨーロッパの状況も見ておこう。
 共産主義体制下にあった東欧諸国のほとんどは2000年代初頭にEUに加盟した。プラス面でいえば、東欧諸国の所得格差は米国やロシアより、ずっとちいさい。共産主義からの移行は比較的穏やかにおこなわれ、ロシアのように少数のオリガルヒが所得シェアの大半を独占することはなかった。
 2018年には平均所得もヨーロッパ平均の70%程度を占めるようになった。とはいえ、西ヨーロッパにくらべれば、平均所得がまだまだ低いことも事実である。
 東欧の国々にはEUからかなりの給付金が流れこんでいる。とはいえ、ハンガリーやポーランド、チェコなどの人びとは、ドイツやフランスの資本が相変わらず自分たちを食いものにしていると考えている。いっぽう、東欧資本の相当な利益が国外に流出していることもたしかだ。そうしたことが東側のフラストレーションとナショナリズム(社会自国主義)の高まりを呼びさましている。
 東欧のポスト共産主義諸国では、経済格差拡大の結果、幻滅が広がり、ある種の経済保守主義が生まれている、とピケティはいう。
 そのため、社会民主主義政党は相手にされなくなり、リベラル保守[EU下での資本主義]とナショナリスト保守[脱EUの資本主義]の対立が目立つようになった。しかし、これは東欧だけの現象ではない。ピケティがこれを懸念すべき状況とみていることはまちがいない。かれが打ちだすのは、あくまでも新社会主義の立場だ。

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エトルリア文明に圧倒される──イタリア夏の旅日記(7) [旅]

8月9日(水)
タルクイニアには、あした木曜にマテオの運転で行くつもりだった。しかし、木曜はマテオが友達とサイクリングに行くことになったため、予定変更。急遽ユウキを叩き起こして、8時半にシエナの自宅を出発した。
 タルクイニアに行きたいといいだしたのは、つれあいである。ぼくはそこがどんなところか、何の知識もなかった。
 タルクイニアにはエトルリアの遺跡があるという。シエナから南下すること約2時間。さらにもう少し南下すればローマだ。マテオの運転はレーシングのようで、少し怖い。
 エトルリア人の墓地ネクロポリにやってきた。いまでは丘の上の公園として整備されている世界遺産だ。さっそくはいってみる。にょきにょきキノコのようなものが置かれている。これも墓なのか。何だ、これだけかと思ったら、そうではなかった。むしろメインは小屋のような建物の下にある。その下にエトルリア人の墓があるのだ。
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 入れ替わりで20近い墓が公開されている。そのひとつを選んで、下に降りていってみる。この小屋は現代になって墓を見るためにつくられたものだ。もともとはちいさな土の盛り上がりだったのではないか。
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 地下には墓室があり、ボタンを押すと30秒ほど電気がついて、室内の様子をみることができるようになっている。中央のへこみには石棺が置かれていたはずだ。電気がつくと、彩色された絵のかずかずが浮かびあがる。いまから2500年以上前の絵だ。昔、ここにエトルリア人が住んでいたことを実感する。
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 この絵はいったい何をあらわしているのだろう。左右の壁には、くつろぎながら左ひじをついて食事をとるふたりの男の姿。帯で仕切られた部分の下は海の光景で、波の上を何十匹ものイルカがはね、鳥が飛んでいる。
 正面上部には大きな壺が置かれているが、油のようなものがはいっているのだろうか。壺の横で、ふたりの楽師が古代の弦楽器キタラとアウロスを奏でている。左は豪華な衣装をつけた女性、右は薄衣をまとった少女と裸の給仕が踊っているようにみえる。そして、いちばん上には大きく口を開けた闘志満々のライオンが2頭向きあっている。
 どうみても、現世の楽しみが死後もつづきますようにという感じの絵だ。エジプトの絵などとは根本的にモチーフが異なっている。
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 墓を出て、丘のいちばん向こうの端まで歩く。小麦の収穫はすでに終わっているが、周囲には豊かな穀倉地帯が広がっている。昔から食べるものには困らなかったのだろう。
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 別の石室にはいってみる。ここにも音楽と踊りのモチーフがある。
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 ブルーやグリーンを含め鮮やかな色彩が完璧に残っている石室と出会った。何といっても正面上のヒョウが目を引きつける。
 宴会が開かれているようだ。左右の壁には音楽に合わせて踊る人や召使いの姿。正面のちいさな木の枝にはベリーの実がたわわだ。ふたりの裸の召使いは、客の世話をしているのだろうか。3組の仲のいい男女が宴会を楽しんでいる様子が伝わってくる。
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 次の一室は青いパンサーと赤いライオン。右に座っているのは冥界の番人だろうか。
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 エトルリアの絵は躍動的だ。みているだけで、こちらもからだを動かしてみたくなる。
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 細部をみていても、飽きない。いかんせん、こちらに歴史的教養が欠けている。だが、エトルリア文明が存在したことは実感できる。
 今日は涼しい方だというが、それでも昼近くになると、さすがに太陽が照りつけて、大汗をかく。いくつも墓をみているうちに、さすがにくたびれ、おなかもすいてきた。
 そこで、昼はネットで見つけたシーフードの店に行くことにした。調べてみると、街を離れて海べにちかい場所だった。車で向かうと、ずいぶん辺鄙なところだ。客もいないので、だいじょうぶかと心配したが、そのうち常連さんらしい人もやってきた。
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 今日あがったばかりというタコを前菜とし、新鮮なロブスターのパスタを食べる。絶品。値段は高かったが、値打ちはあった。マテオがおごってくれた。
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 午後はタルクイニアの考古学博物館に行く。エトルリアの遺物が展示されている。
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 エトルリアの石棺。浄化されることのない苦悩と悲しみがそのまま伝わってくるような気がする。
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 回廊には、堂々とした姿の石棺が置かれていた。下にえがかれているのは、おそらくこの人物の事績なのだろう。
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 目を見張ったのは、高い位置に展示された、翼のある2頭の天馬だった。郊外にあった寺院の祭壇を飾っていたものだという。紀元前4世紀の作品で、1938年に発見された。エトルリア芸術の粋といえるだろう。
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 隣の部屋にはミトラ神によって犠牲として屠られる雄牛の像が置かれている。
 エトルリア人は紀元前8世紀から紀元前3世紀ごろにかけて、イタリア中部のトスカーナを制していた部族集団といってよいだろう。のちにローマによって軍事的に吸収されるが、当初はローマよりはるかに高度な文明を誇っていた。王政時代のローマでは、ふたりのエトルリア系の王を輩出している。詳しい歴史はまだ謎に包まれている。
 何はともあれ、エトルリア文明の一端に触れることができたのが、きょうの小旅行の収穫だった。

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社会民主主義の成果と限界──『資本とイデオロギー』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 ピケティによると、1950〜80年は社会民主主義の黄金期だった。社会民主主義にもとづいて実施された税制と社会政策により、社会は以前より平等となり、繁栄したという。
 ここでピケティは社会民主主義という用語をより広い意味で使っている。「私有財産と資本主義を社会に組み込もうとする政治実践と制度すべてを指す」というのだ。これは「社会民主党」を名乗る政党の時々に応じた政治綱領よりも幅広い用い方だ。
 したがって、たとえ政党政治の変遷はあったとしても、ドイツやイギリス、フランス、イタリアの戦後政治は、少なからず、社会民主主義に接近していたと理解される。さらに、民主党時代の米国、かつての自民党時代の日本、一時期のアルゼンチンなども社会民主主義をとりいれていたと理解することができる。
 しかし、社会民主主義の次第は1980年にはいってから大逆転することになる。それ以降はトップ10%の総所得シェアが急増し、経済格差が拡大していくのだ。
 もっとも1950〜80年の社会を理想化してはならない。格差は縮まったとはいえ、それはまだ大きな格差の残る社会だった、ともピケティは述べている。
 ほんらい社会民主主義がめざしたものは、公的所有だけではない。公的所有に加えて、社会所有、一時所有の3つの組み合わせだった、とピケティはいう。
 ソ連型共産主義は中央集権的な国家権力による企業の国有化だけを目標とした。これにたいし、社会民主主義は、中央政府、地方公共団体による企業の公的所有だけをめざしたわけではない。株主だけではなく労働者が経営に参加する社会所有、さらには最富裕層の資産の一部を社会に還元させる一時所有の考え方ももっていたというのだ。
 国有化は透明性が求められなければならないが、ソ連型共産主義の国有化はそうではなかった。社会民主主義のもとでも、国有企業はある。しかし、むしろピケティが重視するのは、あとふたつの考え方(つまり共同経営制度=社会所有と累進課税=一時所有の考え方)である。
 労働者の参加による企業の権限共有という考え方は、ドイツやスウェーデンなどで、1950年代から定着した。ドイツでは従業員2000人以上の全企業では取締役会の議席の半数(500人〜2000人の企業では3分の1)を労働者が占めることが義務づけられている。こうした共同経営制度が生まれたのは、これまでの組合闘争や政治闘争の成果だった。
 とはいえ、こうした共同経営制度はいまのところドイツと北欧に限定されている。
 従来、イギリスの労働党やフランスの社会党は国有化と公共部門の拡大に傾いていた。これにたいし、共同経営制度を推進したのは、ドイツの社会民主党(SPD)である。SPDは1920年代、30年代には国有化を唱えていたが、1950年代からは共同経営制度の方向へと転換した。
 そして、1980年代の国営化から民営化への流れを受けて、90年代以降は、フランス社会党もイギリス労働党も国有化に言及することはなくなり、むしろ共同経営制度について論議するようになっているという。
 共同経営制度の目的は労働者の経営参加を拡大することによって、社会的経済的効率性を高めながら、労働条件と賃金を改善することだ。

 次にピケティは教育問題を論じる。なぜなら教育こそが生活水準の改善と格差縮小に大きな役割を果たしてきたからである。社会民主主義が教育にはたしてきた役割は大きい。だが、それが挫折し、1980年代からむしろ教育格差が拡大するようになったのはなぜか。
 アレクシ・ド・トクヴィルは1835年に米国の先進性は教育の普及と土地所有の分散にあることを指摘している。教育面における米国の優位性は20世紀もつづいた。
 ヨーロッパの教育制度は、もともと伝統的なエリート教育への志向が強く、国民全体への教育の普及はむしろ遅れていた。それが自覚されるようになるのは20世紀にはいってからである。これにたいし、日本は早くから教育制度の改革に取り組み、1950年代にすでに高校進学率がすでに60%に達していた。
 しかし、米国では1980年代以降、急速に教育が不平等化し、極端な教育階層化が生じるようになる。それは米国内の経済格差の拡大を反映している、とピケティはいう。
 2010年代にはいると、米国ではトップの1%が総所得の20%を占めるいっぽうで、底辺の50%はいまや全体で総所得の12%しか得ていないという極端な経済格差が生じている。とくに底辺の50%、すなわち国民の半分の所得シェアが1980年以降、下落しつづけていることが問題だ。
 生産システムがいくつかの最大企業に集中され、弱小企業が振り落とされるなかで、教育にも大きな格差が生まれるようになった。
 高度な生産システムには高い技能が求められる。かつて高等教育は人口のごく一部の特権だったが、富裕国ではいまや若い世代の大半が大学を卒業するようになっている。
 それでも、米国では、高等教育へのアクセスは親の所得によってほぼ決まるのが現実だという。最貧家庭の大学進学率は低く、富裕家庭の大学進学率は高い。ここから教育格差が生まれ、さらに所得格差が生じるという悪循環がはじまっている。
 あまり透明とはいえない「優遇制度」もあるという。それによると、最富裕の親が多額の寄付をして、ほんらいなら入学できそうもない子どもを最高レベルの大学に入学させているというのだ。
 米国では教育アクセスの格差はかなり大きくなっているが、それはヨーロッパでも例外ではないという。表向きでは機会均等や能力主義が標榜されるが、それとは裏腹に、教育アクセスが不平等になる傾向が強まっている。
 社会民主主義のもとで進められてきた教育制度の改革が停滞し、むしろ逆転したようにみえるのはなぜだろう。ヨーロッパでも1980年代以降、教育への公共支出の割合は停滞し、ほぼ横ばいになっているという。
 先進国が高等教育大衆化時代に移行し、大学進学率が50%以上になった時代に、公的な教育支出の凍結がもたらした影響は大きかった。それにより、下流か中流に属する家庭は、大きな経済的負担を強いられることになり、そればかりか卒業後の機会にもたいして恵まれないという結果を味わうことになった。
 ピケティは1980年以降の公的な教育投資の停滞が、格差の拡大だけではなく経済成長の鈍化をもたらしたことを指摘している。「過去2世紀の歴史を見れば、教育の平等は経済において格差、財産、安定性の神聖化よりも重要な役割を果たした」のはまちがいない、と述べている。教育の平等が失われたことが、社会の停滞と緊張を招いているというのだ。

 次は課税の問題である。
 ピケティは、社会民主主義が挫折したもうひとつの原因は、公正な課税についてのしっかりした考え方を欠いていたためだと指摘する。かれによれば、社会主義は生産手段の国有化にこだわり、そのために累進税や共同管理、自主管理といった問題については思考停止におちいりがちだったという。
 累進課税の保護と拡大については、国際協調が必要なのに、それも怠りがちだった。また公正な税制として、累進資産税という発想を採用することもなかったという。
 ピケティは、20世紀の社会民主主義運動は、国民国家の狭い枠組みのなかでのみ、社会財政国家の構築に専念していたとも述べている。
 たしかにヨーロッパのレベルでは1992年にEU(欧州連合)が発足し、96年には共通通貨ユーロも発行された。しかし、EUには多くの制約があり、EU各国政府は、拡大する格差と低成長にうまく対応できていない。その理由は、税制や社会政策については加盟各国の合意ができていないことだという。それどころか1980年以降の「税制ダンピング」が長期的な法人税低下をもたらし、社会福祉政策にマイナスの影響をもたらしている。
 1980年代末、フランス社会党は単一通貨(ユーロ)と欧州中央銀行(ECB)設立を受け入れるのと同時に、資本フローの自由化を認めた。それにより金融自由化とグローバル化が進む。社会民主主義は経済のグローバル化に対応できなかった、ともピケティは指摘する。
 一部の集団はグローバル化でもっとも利益を受けただけではなく、税率ダンピング競争によって累進課税をまぬがれ、さらなる利益を得た。それにより、富と資本はトップ集団に集中し、経済格差が広がった。
 間接税が重くなるいっぽうで、資本所得(配当、金利、地代など)を多くもつ最富裕層にたいしてはむしろ税の逆進性(税がかえって低くなる)が高まっている。タックスヘイブンによる租税回避も日常化している。その意味では、国家を超えた新たな税制と税務が必要になっている、とピケティは指摘する。
 広がるいっぽうの経済格差を縮小するためには、累進所得税、累進相続税、累進資産税からなる累進税体系を再確立しなくてはならない、という。所得税と相続税に関してはすでに経験がある。とりわけ、今後焦点となるのは累進資産税だ。
 第2次世界大戦後、日本、ドイツ、イタリア、フランスは一度限りの資産税(財産税)を実施し、これにより巨額の債務を一挙に解消した経験がある。農地改革もある意味では私有財産にたいする特別税だったといえる。農地改革により、一定以上の大きな土地は差し押さえられ、小作農に分配された。
 年次資産税に関しては、これまでの歴史を踏まえた論議が必要になる、とピケティはいう。フランスは不動産税を課している。米国の財産税は固定資産(土地、建物)だけではなく個人資産(自動車や船、金融資産)なども税の対象としている。しかし、これらの税制はいまのところ定率で、富裕層にむしろ有利にはたらいているという。
 税制に関して、「既存の制度は、何よりも政治―イデオロギーのパワーバランスと、対立するさまざまな政党の動員能力で形成された、社会政治過程の結果であり、それは今後も同じような形で進化し続ける」というのが、ピケティの考え方だ。
 その意味で、累進資産税はまだ将来の政治課題だといえるかもしれない。とはいえ、米国の大統領選では、たとえば5000万ドルから10億ドルまでの財産にたいして毎年2%、10億ドルを超える財産にたいして毎年3%の資産税をかけるべきだという主張も登場するようになった。ピケティ自身は超億万長者には少なくとも5〜10%の税をかけるべきだと主張している。
 とはいえ、税制改革にたいする反対意見も根強い。とりわけグローバル金融資本の時代において、銀行が破綻に瀕したり、景気回復が遅れたりした場合などは、たちまち富裕税の議論は横に押しやられ、富裕層に有利な減税措置がとられたりする。
 しかし、ピケティはそれでも「累進富裕税についての冷静な議論は避けられない」と主張する。
 いつの時代も求められるのは、人びとの大多数が納得できる富の分配についての公正規範である。それをおろそかにしたままでいると、世界は社会の亀裂と民族的・ナショナリズム的敵意へと後退していくことになる。ピケティの警告は現在の危機に向けられている。

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シエナ郊外散歩とサンジミニャーノ──イタリア夏の旅日記(6) [旅]

8月8日(火)
 朝、9時ごろから娘のミワに案内してもらい、家の近所を2時間ほど散歩する。ここはイタリア・トスカーナのシエナ郊外だ。家はシエナの旧市街から車で10分足らず。鉄道のシエナ駅をはさんで、旧市街に対面する丘の上にある。
 道路を渡って、高台の散歩道にはいる。
 ミワのつれあいのマテオが勤務するシエナ大学病院がよく見える。向こうはキャンティの山々。
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 細い道はなかなか風情がある。
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 その先にはオリーブ畑が広がっている。
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 高台からはシエナの町がよく見渡せる。向こうに見えるのはアミアータ山。
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 道の先には、カンポ広場のマンジャの塔がすっくと立っている。
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 原っぱの下に見えるのは鉄道のシエナ駅だ。
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 民家の庭には、こんな大木も。広がった樹形が気に入った。
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 さすがに暑くなってきたので家に戻ることにする。
 昼は日本から持ってきた乾麺をゆで、ユウキと一緒にそばを食べる。会議で出かけていたマテオも戻ってきて、作りおきのそばを食べてくれた。
 新しい家ができるので、この家は売却して、引っ越すことになっている。不動産屋さんからの連絡で、夕方、家を見にくる人がいるというので、ざっと掃除する。その対応はマテオに任せて、われわれはミワの運転でユウキと一緒に、シエナの街に出るつもりだった。ところがユウキの気が変わり、街に行くことはやめることにした。どうやら街で友達とばったり出会ったりするのが、いやなようだ。
 そこで、時間つぶしのため、家から車で40分ほどのサンジミニャーノに行くことにした。たぶん10年ぶりくらい。いやもっとかもしれない。
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 サンジミニャーノの市役所で、20年ほど前、ミワとマテオが結婚式を挙げたことを思い出す。
 サンジミニャーノは塔の街として知られる。13世紀に隆盛をほこった商人たちがこぞって72もの塔を立てたという。その塔はさほど多く残っているわけではないが、いまも多くの観光客を引きつけている。
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 ひさしぶりに懐かしい街を歩いていて、実は生きているのは、街のほうで、ここにあふれている多くの人は幻影にすぎないのではないかという不思議な感慨に襲われる。有が無になり、無が有になる。時の流れは速い。
 ドゥオモ広場にやってきた。右は大聖堂、左にあるのはポポロ館。ポポロ館の右には大きな塔がそびえている。
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 だいぶ日が落ちてきた。マテオから電話がかかってくる。短い時間だったが、そろそろ帰ることに。いまイタリアでは金利が高くなったため、家は簡単には売れなくなっているという。
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 7時半に帰宅。近くのピザ屋さんに行ってピザを買い、夕食を済ませる。

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