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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 著者によると「選択の自由」と「操作的介入」と「短期的報酬」はいずれも産業化を促進するファクターだが、こうしたファクターのある社会は、同時にアディクション的行動を生みやすいという。
 そこでまず「選択の自由」とは何かを考えてみる。ここで取りあげられるのはフリードマンではない。ヘーゲルだ。
 ヘーゲルは自由の哲学者だということを、もう一度思い起こしてみよう。
 ヘーゲルによれば、自由は意志をもつ主体のみに与えられている。そして、人間の前には、さまざまな選択が与えられており、それにたいする選択の自由がある。だが、人はいつかは決心し、物事を決定しなければならない。具体的選択に踏みださなければならない。
 ひとつの選択はもうひとつの選択を切り捨てることでもある。あとになって、その選択のまちがいに気づくこともありうるが、それでも、人はどこかで選択をしなければならない。
 このとき、どれでも選べるというのは自由ではなく、恣意にすぎないとヘーゲルはいう。

〈これに対してヘーゲルが自由の真理とみなすのは、形式的な普遍性と内容的な特殊性が、現実存在に組み込まれた個別性の中で一体化しうるような自由のあり方だった。〉

 じつに、むずかしい。何をいわんとしているのだろうか。
 1980年代以降、ミルトン・フリードマンが掲げた「選択の自由」の拡大は、ヘーゲルにいわせれば「選択の恣意」の拡大にすぎなかった。現代人はかつてないほど「選択の自由」を手にしている。しかし、選択が多すぎ、情報が多すぎる社会が、自由な社会とはかぎらない。
 ヘーゲル自身はこう書いている。

〈普通の人間は、恣意的に行動することが許されている時に、自分が自由だと信じる。しかし他ならぬこの恣意の内にこそ、彼が自由ではないことが存するのである。〉

 恣意にもとづく選択は、どちらかを選べばどちらかを捨てるという矛盾のうえに成り立っている。選ばされているのだ。だから、結果的に後悔することも多い。
 これにたいし、真の自由とは何か。
 それは単に偶然の欲求を満たすことではない。やりたいことが何でもできる状態をさすのでもない。現実に根拠をもつ「即自的かつ対自的に自由な意志」こそが自由なのだ、とヘーゲルはいう。
 これもむずかしい。ヘーゲルのいう自由とは、生きたいように生きるということかもしれない。だが、そうした自由を求めるのは自分だけだけではなく、だれもが同じである。
 そのことを自他ともに相互に認めあうことがだいじなのだ。こうしてたがいの自由を認めあう社会をつくっていくことが目標となる。そうしてできあがった社会が市民社会となる。
 ところが、現実の世界史は、かならずしも、そうした方向に進まなかった。恣意的な欲求が野放図に広がるいっぽうで、管理社会の動きも強まっていった。その隙間を縫うように、アディクション行動が浸透していく。どうしてなのだろうか。
 そこで、次に方向を変えて論じられるのが、「操作的介入」についてである。近代は科学技術による「操作的介入」の時代でもあった。
操作的介入というのは、対象を細分化して、その対象に操作(実験)を加え、対象を都合のいいように加工させていく近代の知のあり方を指している。この場合、対象とは自然に存在する客体をさす。
 ゲーテは自然にたいする人間のこうした介入に強く反対した。
「人間の五感を通じたありのままの観察から、不自然な設定や人為的な装置による介入実験への転換に、ゲーテは自然に対するある種の冒瀆を感じとっていた」という。
 ゲーテが重視したのは、あくまでも五感をとおしての自然の観察である。それによって、人間ははじめて自分と自然との一体感を感じることができる。ところが、ニュートン以降の近代科学は、自然を実験対象とし、自然から可能なかぎりのものを収奪しようとしてきた。

〈ゲーテにとっての科学の起点は、あくまでも自然の側からの自己開示でなければならなかった。科学は、自然が形態的な変容と自己表現を通じて開示する姿を、磨かれた感性と知性によって注意深く観察しなければならない。人間が主観的な思い込みや支配欲を抑制し、自然の声に静かに耳を澄ます時、自然は初めて、自らの秘密のヴェールを脱ぎ捨てるだろう。〉

 だが、五感によって自然を観察するというゲーテの科学観をよそに、近代の科学は自然観察より介入実験を重視し、ますます対象を目的化する方向に進んでいった。
 科学に対するゲーテの考え方は時代遅れのロマン主義にすぎないのだろうか。著者はそうではないという。
 ゲーテは第1に「無機的な自然と有機的な自然を相互補完的で一体的なものとして捉えていた」。
 第2に「観察者としての人間と、観察対象としての自然を一体的なものとして捉えていた」。
 そして第3に「科学を特定の意図と結びついた道具的手段とみなすことに抵抗していた」。
 言い換えれば、ゲーテは自然と人間は一体とみて、自然を人間の快適な生活に奉仕するための加工素材とみるようなことはなかったのだ。
 とはいえ、科学実験にもとづく技術的応用は19世紀以来、さまざまな発明品と工業製品を生みだし、産業と人びとの生活を一変させてきたことも事実である。
 新たな工業製品の開発によって、産業は巨額の利益を得るとともに、人びとも生活の利便性に恵まれた。たとえば化学肥料は農業の生産性を向上させたし、予防接種は感染症に大きな効果を発揮した。自動車もそうかもしれない。
 だが、こうした人類の成功体験はいまや見直されるべきだ、と著者はいう。そのさいに、ヘーゲルとゲーテのことばがよみがえってくるのだ。
 産業社会のもたらした成果は、同時に自然環境や生態系の破壊と原発事故などにみられるような巨大リスクをもたらした。
「迫りつつある生態系の危機の中で、人類は今、過去二百年の主観的理性の勝利行進が本当に成功体験であったのかどうかを問い直しつつある」
 さらにいえば、著者は、この200年の絶えざる近代化が、じつは一種のアディクション行動だったのではないか、という疑問を投げかけているといってよい。
 2011年にケンブリッジ大学のダスグプタ教授が発表したダスグプタ・レビューが紹介されている。
 このレビューは、経済指標としてのGDPの有効性を明確に批判し、資本を人工資本、人的資本、自然資本からなる富のストックとしてとらえている。
 人工資本はますます増えつづけているのに、自然資本はますます減りつづけている。はたして人類の資本(富)が全体として増えているかどうかは疑問である。現代農業は生物多様性の犠牲のうえに成り立っているのだ。
 レビューでは、さらに、産業化としての近代化自体が、資本と人口の一点集中をめざすアディクション行動にほかならなかったことが明らかにされているという。

〈産業革命としての近代化は、実験という操作的介入を通じて、かつての自然形而上学を解体し、主観的理性による自然の道具的支配を限界点近くまで推進してきた。しかし、それによって傷ついた生態系は、近代のおけるこの理性のあり方への反省を強く迫っている。〉

 人類はこれからの方向を考えなおす転換点にいるとみてもよいのではないか。

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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 いろいろ頭を整理するのに時間がかかったため、しばらくぶりでこの本に戻ってきた。何だか気が抜けてしまったみたいだが、気を取り戻して、第3章と第4章を読んでみる。
 著者はこんなふうに書いている。
 オペラント行動が必ずしもアディクションになるわけではない。どこかで飽きがくる場合が多いからである。外からの抑止が効くこともある。さらに抑制が内部化されることもある。それでも人間の性癖には、アディクションめいたものが含まれている。
 人間は世代から世代へと学ぶべきことを引き継いでいく。その知識は膨大なものであり、長い教育期間を必要とする。そのエラーとチェックの長期的な学習過程を経て、人間はようやく自身を社会のなかに組み込んでいく。
 こうした絶えざる習練は、過度の飲酒やギャンブルにみられるアディクションとは異なる。これまでも反社会的なアデイクションにはさまざまな規制がかけられてきた。しかし、アディクションが消滅することはない。むしろ「アディクションが生じやすい社会は、イノベーションが生じやすい社会でもあり、イノベーションが生じやすい社会は、アディクションが生じやすい社会でもある」と著者は書いている。
 アディクションは商品世界の展開(イノベーション)と併走しているといえるだろう。そのことは、ネット社会で、さまざまなゲームやギャンブルが登場していることからも明らかだ。
 著者はここから大きな構図をえがいて、人類史がどのように発展してきたかをふり返ってみようとしている。
 人間にはアディクション行動がつきものだ。すると、それを抑制するために、ルールをつくる動きが生じる。ルールがつくられると、人はこれに従い、適応していかなければならない。
 しかし、これとは逆に、アディクションがルールをはみだして、イノベーションを生みだすことがある。
 それが世界への新たな介入をもたらす。適応と介入という規定はわかりにくいが、人類史はルール(規制)とイノベーション(突破)のくり返しによって発展してきたと著者は理解している。
 その第一の革命(介入)が古代の農業革命であり、第二の革命(介入)が近代の産業革命だった。そして、現代はさらに第三の革命がおころうとしているという。
 農業革命は食料の増大と人口爆発をもたらした。すると、これまでの親族を中心とした社会から、身分制社会が生まれ、それがさらに王国や帝国へと発展し、これまでの部族神話に代わって宗教が人びとの生活をコントロールしていくことになる。
 だが、農業社会において、身分と格差が固定されるにつれ、それにたいする不満が次第に蓄積するようになり、それを封じ込めることができなくなると、ついに近代への移行がはじまる。
 近代化をうながしたのは、交易のグローバル化、貨幣経済の浸透、科学技術の進歩だった。こうした動きがはじまったのは16世紀のヨーロッパにおいてである。さらに19世紀にいたると産業革命が本格化し、ヨーロッパの影響力は世界じゅうにおよんでいくことになる。
 近代化は生産力の拡大と人口爆発をもたらしただけではない。新たな社会構成体としての市民社会と、それを支える哲学を生みだした。近代化の原点は市民革命と産業革命であり、それをへて本格的な資本主義の時代がはじまる。
 日本では、市民社会の形成はしばしば無視され、日本は西欧とはちがうという論理によって切り捨てられがちだ。しかし、近代化のもうひとつの側面である市民革命には、資本主義のもたらす野放図なアディクションを抑制する哲学が下敷きになっている。それを再確認することはきわめて重要だ、と著者は主張する。
 こうして第4章の「市民社会の正当化理論」が展開される。
 王の主権は神によって付与されたものとされていた。これにたいして市民革命を成就するには、それを正当化する哲学が必要だった。その先駆けとなったのが、ホッブズ(1588〜1679)の社会契約説だったという。
 ホッブズは国家を神による秩序ではなく、人民の相互契約による秩序としてとらえなおした。
 自然状態から社会状態への移行は、神の摂理によるものではない。生得の自然権をもつ人間は、「万人の万人に対する戦争」におちいりやすい。だが、こうした恒常的な戦争状態を克服するには、たがいに契約を結んで、強力な主権をもつ国家を設立し、万人がそれに従うようにしなければならない、とホッブズは考えた。
 しかし、ホッブズの論証には、いったん相互承認されて樹立された政権が、ふたたび専制化していく危険性が残されていた。その歯止めをつくったのがロック(1632〜1704)だという。
 ロックは国家主権が人民の自由権を侵害する可能性に気づいていた。そのため行政権と立法権の分立を唱えるとともに、人民の抵抗権や革命権を認めている。さらに、ロックは生存権とともに所有権の保障を強調する。国家は人間の生存権と所有権を守るためにこそ存在するとされた。こうして国家の専制化に歯止めがかけられる。
 だが、市民社会が成立するには、生存権と所有権だけではじゅうぶんではない。市民のあいだで道徳規範が確立されなければならない、とカントはいう。さらにアダム・スミスは自由で安全で秩序ある市民社会が生まれるには、商工業の発達と自由な交易が必要だと主張した。
 スミスは商業精神は戦争と両立せず、諸民族の和解につながると考えていたという。
 近代化はイコール産業化ではない。「近代化の実現のためには、規範的な次元での広義の市民革命が避けられない」と著者はいう。つまり、市民社会があってはじめてアディクションに陥らない産業化が実現できるのだ。そうでなければ、権力欲と貨幣欲が世をおおってしまうことになる。
 だが、市民革命としての近代のプロジェクトは挫折してしまったという。その原因を探るために著者が持ちだすのが、ヘーゲルとゲーテの場合だ。
 ここでは「選択の自由」と「操作的介入」が問われることになる。

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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 第1章に戻って、読み進めていく。
 アディクションがタバコ、アヘン、アルコールなどの常習をさすことばとして使われるようになったのは18世紀以降のことだ。もちろん、それ以前にも、こうした悪癖はみられたが、これが常習化したのは、対象となる商品が容易に手にはいるようになってからだろう。
 そして、そうした常習癖が病気として認識されるようになったのは19世紀後半からであり、さらにアディクションという名称が定着したのは20世紀末になってからだという。
 だが、アディクションは精神に作用する薬物やアルコールなどへの「物質依存」だけをさすわけではない。スマホゲームやギャンブルなどの「行動嗜癖」もアディクションととらえるべきだろう。
すると、「物質依存」と「行動嗜癖」はつながっているのか、それともぜんぜん別物なのかという問題が生じる。
 これをめぐっては医学界でも、さまざまな論争があるが、前にも示したように、著者はアディクションをより幅広く定義している。

〈アディクションとは、自発的選択がもたらす短期的報酬によって動機づけられたオペラント行動を、しばしばみずからの意志に反して、反復的に継続する状態をさす。〉

 アディクションにはさまざまな要因が重なっていることがわかる。
「自発的選択」は「選択の自由」がある場所で、はじめて発生する。目の前には何でも選ぶことができる商品世界が広がっている。そこから、人はみずからを陶酔させる商品を自発的に選び取る。
 そして、その選択は学習によって習慣づけられた行動、すなわちオペラント行動を引き起こす。
 オペラント行動を促すのは「短期的報酬」、すなわち予測される眼前の快感である。
 こんなふうにアディクションを定義すれば、薬物やアルコールなどへの物質依存とゲームやギャンブルの行動嗜癖が連続性をもち、同じ構造をもっていることになる。
 さらに著者は「分かっちゃいるけどやめられない」こと、「どうにもとまらない」ことを、アディクションの特徴として挙げている。つまり自己制御ができなくなる現象がアディクションなのだ。
 ぼく自身は、こうしたアディクションを商品世界特有の現象としてとらえたい誘惑にかられている。
 人はなぜアディクションにおちいるのだろうか。
 動物とちがい人間は理性によって感情(衝動)を抑えることができるし、抑えるべきだと啓蒙主義者は考えた。ところが、啓蒙主義者によるこの人間理解は、現実の人間行動を説明できない。というのも、人間はしばしば動物の衝動に備わっていた自己調整機能(安定化装置)を逸脱して、アディクション的行動に走るからだ。
 いっぽう功利主義者は人が自分の幸福を最大化しようとするのはとうぜんであって、アディクションもひとつの選択だと考える。もしそれが社会に害を与えるならば、課税を強化したり、厳罰を与えたりして、それを抑える対策をとればいいという。だが、それでおさまらないのがアディクションなのだ。
 制御できずに「どうにもとまらなくなる」のがアディクションだ。欲求を抑えきれなくて、欲求のとりこになってしまう。
 その欲求は学習によって条件づけられたものだ。それが病的強迫症になったときにアディクション行動が発生する。
「無意識的土台に刻まれたこの『学習された連関』は、想像以上に私たちの行動と思考を拘束している」と、著者はいう。
 人間はだれもが生まれつき無意識的認知機能をもっている。人間の認知機能は中枢神経系の生理学的機能によって担われているが、そこには眼前の事象を説明し、さらに予見する強固なアルゴリズム(学習機能)がはたらいている。
 人が学ぶのは、行動して、何かとぶつかり、「あ、そうか」と、ひらめくことを通じてだという。その結果が因果連関の発見につながり、自発的なくり返し行動を生んでいく。
 しかし、そうだとしても、人はなぜギャンブル中毒(アディクション)におちいるのだろうか。
 ギャンブルの醍醐味は五感を超えた第六感にある、と著者はいう。

〈合理的計算では予測不能な偶然性を、競争相手よりも的確に読みとる勘を働かせること。これがギャンブラーの腕の見せどころだ。〉

 これにおカネが報酬としてつけ加わると、認知機能がさらに刺激されて、欲求を抑えることができなくなってしまう。
 ここで著者はギャンブル性がもっとも高いとされるルーレットのケースをが取りあげている。ルーレットといえば、真っ先に思い浮かぶのが、みずからもギャンブラーだったドストエフスキーが書いた『賭博者』という小説だ。
『賭博者』でドストエフスキーがえがくのは、ルーレット賭博で財産をなくし、破滅していく人たちのことだ。
 ルーレットでは過去のデータはまったく役に立たず、じつは何の予測もできない。にもかかわらず、ルーレットに賭ける人びとは、ここには何か隠された法則性があると思いこんで、自分の予測した場所に持ち金を賭ける。
 ドストエフスキーは、はじめルーレットなどばかばかしいと相手にしなかった金持ちのおばあさんの姿をえがく。彼女は、たまたま大当たりをとったことから、ルーレットにのめりこみ、最後はすっかり財産をなくしてしまうのだ。
 著者はいう。

〈ギャンブルの魅力を生み出している最初の一歩は、おそらくお金自体ではないだろう。ギャンブルの魅力はむしろ、偶然に支配されている不確定な未来について、自分が的確な予測をなしえたことへの報酬感情にある〉

 一回の成功体験が、心のうちにドーパミンを生みだす擬合理的装置をつくってしまう。そして、その装置はいったん築かれると、他人から説得されても、なかなか修正されない強固なものとなる。

〈ともすれば、私たちは、アディクションが、理性的意志の弱さゆえに性や食などの基本欲求の誘惑に溺れる現象だと思い込みがちだ。そしてギャンブルもまた、金銭欲という基本欲求に溺れる現象だと、簡単に考えてしまう。たしかに性欲、食欲、金銭欲の満足は、短期的報酬としてアディクションを強化しただろう。しかし、アディクションの形成には、私たちが考えている以上に、擬合理的装置に支配された認知機能が深く関与している。〉

 人間の脳には合理的装置だけではなく擬合理的装置が備わっている。擬合理的装置にはインスピレーションと歓喜をもたらす機能が備わっているだけではない。それは超自然的なスピリチュアリティとも結びついている。さらに、それはしばしば頑固な固着性を生みだす。
 合理的装置はそうした擬合理的装置を理不尽なものとして排除したがる。だが、じつは「理性自身もまた本能体系の内側に位置しており、そのごく一部をなす不完全な機能に過ぎない」と、著者はいう。
合理的判断なるものが事実の検証を無視して、しばしば暴走する現実をわれわれはみてきた。

〈擬合理的装置は、仮説的真理を浮動の真理と見なすように、たえず合理的装置に囁きかけている。その意味で、合理的装置は、その自己理解とは裏腹に、引き続き、擬合理的装置の強い影響下にある。〉

 アディクションをもたらすのは、人間のもつ擬合理的装置にほかならない。そのためアディクションにおちいる可能性はだれにもある。
 それでは、アディクションを抑えることはできるのだろうか。著者の問いはそんなふうにつづいている。
 ここから連想されるのは、資本主義が合理的装置のようにみえて、じつは擬合理的装置そのものなのではないかという疑いである。

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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 まだ全体を読み終えていない。最初の1、2章を読んだところで、挫折しそうになっている。渾然一体としている。スケールの大きな著作なのはまちがいないが、このまま進むと、渾然ではなくて混然のまま終わるのではないかという悪い予感もしないではない。
 著者は序章に「この旅の最終目的地をとりあえず見定めておきたい読者」へのアドバイスとして、「まずは最後の第7章を通読してから冒頭に戻るという一風変わった旅行メニューも提案しておきたい」と述べてくれている。
 なまけものの当方としては、さっそくこのアドバイスにしたがって、第7章の「金融資本主義とアディクション」から読みなおすことにする。それもマルクスの価値形態論やフェティシズム論に触れた7章の前半はややこしいので省略し、「金融資本主義の誕生」以降を読んでみることにする。
 著者によると、金融資本主義の誕生は1971年8月のいわゆるニクソン・ショックにさかのぼるという。このときアメリカのニクソン大統領は、ドルと金の兌換停止を発表した。それから2年後、金ドル本位制にもとづく固定相場制は完全に崩れ、先進国は変動相場制に移行することになる。こうして、1945年に発足したブレトン・ウッズ体制は崩壊した。
 しかし、そもそもブレトン・ウッズ体制とは何だったのか。
 1944年7月、アメリカ・ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで連合国通貨金融会議が開かれ、国際通貨基金(IMF)の創設などが決まる。そこでドルを基軸通貨とする固定為替制が誕生した。
 だが、イギリスを代表して会議に出席したケインズは、それに反対した。独自の世界通貨構想をもっていたからである。ケインズは、国際決済を処理するための人工通貨を創出すべきだと提案した。
 著者はこう説明する。

〈この通貨はバンコールと名づけられ、対外決済を処理するためだけの純粋な計算単位として考えられた。バンコールと各国通貨は固定為替で結ばれるが、貿易赤字が一定水準を越えれば、それに利子が課せられ、自国通貨の切り下げを迫られる。輸出超過国も同じようにバンコール債権に利子が課せられ、自国通貨の切り上げを迫られる。こうして国際収支のバランスが回復される。〉

 重要なのは、為替投機の対象とならないバンコールが介在することによって、各国通貨は直接取引されることなく、為替レートの調整がなされることだった。しかし、アメリカの根強い反対によりケインズ案は葬られ、ドルが唯一の基軸通貨になることが決まった。
 金ドル本位制は長くつづかない。「トリフィンのジレンマ」が発生したからである。

〈アメリカが世界経済の成長のために、基軸通貨ドルの国際的流動性を確保しようとすれば、絶えず国際収支を赤字化しながら、ドルを世界に供給し続ける必要がある。それによるドルの過剰発行は、やがて保有金が許容する限度を上回るだろう。そうなればドルの信認が揺らぎ、アメリカの金が国外流出する。そして金の市場価格が、公式の兌換レートから乖離し、投機の対象となる。これがブレトン・ウッズ体制を支えきれなくなった一つの原因だった。〉

 ニクソン・ショックと二度の石油ショックをへて、開始されたのが、下からではなく「上からの階級闘争」だった、と著者はいう。新自由主義の名のもと「民営化と規制緩和による戦後福祉国家の段階的スリム化」が断行された。
 新自由主義のビジョンとは、次のようなものだ。
 肥大化した公的セクターを民営化し、公務員を適正規模まで削減する。規制緩和をおこなって、女性の労働力を有効活用し、多様な働き方を可能にする。それにより女性は家事と育児から解放され、消費市場は拡大するだろう。
こうしたビジョンは、今後の明るい経済社会の方向を指し示すかのように思えた。
 だが、新自由主義による一連の改革がもたらしたのは、じっさいには「低賃金労働の容認と促進、雇用の非正規化の拡大」だった、と著者はいう。
 いっぽうブレトン・ウッズ体制から変動為替制に移行したあとも、ドル本位制は変わらなかった。「アメリカの巨大な対外赤字は解消せず、しかも、為替相場がドル安に振れることもなかった」。
 1980年代には、貨幣がみずから商品と化し、デリバティブと呼ばれる金融派生商品が発生する。いまや貨幣は単なる商品の媒介手段ではなく、みずからが商品となり投機対象となってしまった。
 それを可能にしたのが、1980年代に実施された金融の規制緩和だ。日本では1980年に外為法が改正され、対外取引が原則的に自由化された。資本移動の自由化が進み、さらに金利の自由化も進む。
 1980年代初頭にアメリカが日本に期待したのは、日本が金融・資本市場を開放することによって、外国資本が日本に流入して、それにより円高ドル安が促されることだった。
 ところが、じっさいには逆の現象がおこった。アメリカの高金利を求めて、日本の資金が流出し、さらなるドル高円安を招いたのである。それを政治的に是正しようとしたのが、1985年のプラザ合意にほかならなかった。
 こんなふうに書かれている。

〈ここからも分かるように、資本移動が自由化されると、為替相場は国際収支よりも、金利の方に敏感に反応するようになる。低金利の黒字国(日本)から高金利の赤字国(米国)に資本が移動すると、赤字国の通貨は上昇し、黒字国の通貨は下落する。それは両国の貿易不均衡を拡大するように作用する。いわば、為替にポジティブ・フィードバックがかかってしまう。〉

 つまり、貿易収支よりも金利差が為替レートを左右してしまうのだ。これはいま(2024年)でもおきていることだ。
 経済は為替の変動に振り回されるようになる。プラザ合意のあと急激に円高ドル安が進むと、日本企業は円高に耐えきれず、工場を海外に移転した。だが、いったん移転した工場は、ふたたび円安に戻ったからといって、現地の事情もあり簡単に本国に戻るわけにはいかなくなってしまう。あとには経済の空洞化が広がっていく。
 新自由主義と金融資本主義は二人三脚で進んだ。規制緩和と民営化に加えて、富裕層の減税が実施されたのだ。その減税分を補うのが国債の発行だった。
「本来ならば、資産保有者への課税を大胆に強化することによって、国家財政を均衡化させ、租税国家としての原則に立ち戻るのが本筋だ」と著者は主張する。
 なぜ大量の国債発行がまちがっているのか。それは、大量の国債発行がハイパーインフレや財政破綻を招く恐れがあるからだけではない。

〈本書の視点から見ると、国債発行の真の問題は別にある。資産保有者の税負担を賃金依存者の税負担よりも相対的に軽くした上で、租税の不足分を国債発行で賄い、その金利を租税の中から資産保有者に払い続けるということは、とりも直さず、賃金依存者である租税負担者から資産保有者への長期的な所得移転を国家が仲介しているということだ。〉

 この指摘はまったく正しい。ただし、国債の発行を停止すれば、増税しなければならないが、それをどういうかたちでおこなうかが問題となるだろう。
 それはともかくとして、著者が最後に指摘するのが、金融資本主義がアディクションを生みだしやすいということである。
 ほんらい商品の媒介機能をはたす貨幣がフェティシズムの対象となれば、ますます貨幣愛が高まり、貨幣へのアディクションが強まることはまちがいないだろう。
 1980年以降の金融資本主義の発展は、デリバティブを生みだし、すべての人に投機の機会をもたらした。
 2016年にはイギリスがEUを離脱し、トランプがアメリカ大統領になるという信じられないできごとがおきた。だが、このふたつのできごとには共通点がある、と著者はいう。
 それは「忘れられた人々」の怒りの噴出だ。
為替相場が招いたドル高は、国内の製造業に大きな圧力をかけ、その結果、製造業の疲弊と地域共同体の解体を招いた。そのいっぽう、新自由主義国家は高金利で資本を招き寄せ、経済社会全体をカジノ化していく。
 製造業で地道にはたらくよりも、金融商品を動かして利ざやを稼ぐほうが収入が高いとなれば、優秀な人材はそちらに流れ、貨幣へのアディクション傾向がますます増大していく。
 その結果、忘れられた人びとは、トランプの暴言や単純なメッセージに共感を寄せ、みずからの不満と怒りのはけ口としていく。

〈トランプ現象を通じて垣間見えてくるのは、金融資本主義がもたらした産業資本主義の解体過程と、そこでの人々の孤立化だ。そこで生じた不安や怒りは、単純なものを求めて、アディクション的行動へと流れていく。〉

 資本主義はいつもコマのように回りつづけていて、止まったときにはおしまいになる。そのため、資本はいつも人びとを、満足感が永久に得られないアディクション状態に置く、と著者はいう。
 今後、資本がめざす方向は認知機能の開発だ。食欲に限界はあっても、認知機能に限界はない。
情報社会が発達していくと「社会のあらゆるレベルで複雑な議論や手続きや行為調整が敬遠され、単純な命令や簡明な権力行使が喝采を浴びるようになる」状況がくることを、著者は恐れている。
 ここで問題はふたたび現在の金融資本主義とアディクションの共依存に戻る。
 アディクションとは何か。そもそも人はなぜアディクション行動におちいるのか。それをふり返ることは、みずからのアディクション行動を脱することにつながるだけではない。「資本主義が民主主義をコントロールする社会ではなく、民主主義が資本主義をコントロールする社会を再構築すること」につながるはずだ、と著者は述べている。

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