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テオティワカンをめぐって──『万物の黎明』を読む(9) [商品世界ファイル]

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 メキシコにアステカ帝国が誕生した西暦12世紀ごろ、テオティワカンはすでに廃墟となっていました。アステカのメシカ人は、そこを「神々の集う場所」と呼びました。アステカ人が名づけた「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」、「死者の大通り」は、現在人気の観光スポットになっています。
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 いまではテオティワカンが紀元前100年ごろにつくられ、紀元600年ごろに衰退したことがわかっています。その人口は10万人と初期都市では最大規模を誇ります。テオティワカンの最盛期、メキシコ盆地周辺には100万人以上の人がくらしていたとされます。
 テオティワカンに宮殿はありません。絵画や彫刻、小さな像は残っていますが、文字らしきものの記された跡もほとんどありません。支配者の墓もなければ、儀式の場らしきものもないといいます。
その点、テオティワカンは同時代のマヤと大いに異なっていました。テオティワカンには支配者も王もいなかったのです。
「テオティワカンは実際に自覚的に平等主義的方針で組織された都市であったというのが一般的なコンセンサスである」と、著者たちは断言します。
 テオティワカンの広さは20平方キロほど。ふたつのピラミッドとシウダデーラ(城塞)と呼ばれる大きなモニュメントがあり、その周囲には2000戸の集合住宅がつくられていました。
 テオティワカンが都市として発展したのは西暦0年ごろだといいます。さらに西暦50年から150年にかけて、火山や地震の影響から逃れるため、多くの人が古い町を捨てて、テオティワカンに流入しました。
 そのとき聖なる都市のアイデンティティとしてつくられたのが、巨大モニュメントだったというのです。ピラミッド型の山や人工的な川がつくられ、儀礼がとり行われるようになりました。生け贄も捧げられました。
 ふつうならここで戦士貴族や世襲貴族が登場し、富と特権の象徴となる豪華な宮殿が誕生することになります。しかし、「テオティワカンの市民は別の道を選んだ」と、著者たちはいいます。

〈宮殿やエリートの住居を建設するのではなく、富や地位に関係なくほぼすべての市民に高品質のアパートメントを提供するという、めざましい都市再生プロジェクトに着手したのである。〉

 テオティワカンの各集合住宅には100人前後の人がくらしていました。少人数の家族がそれぞれ部屋をもち、専用のポーチも設けられていました。部屋には祭壇が設置され、壁には鮮やかな壁画がえがかれています。そして、中庭には小さなピラミッド型神殿がつくられていました。
 テオティワカンの人びとはトルティーヤ、卵、七面鳥やウサギの肉を主食とし、ブルケと呼ばれるアルコール飲料を楽しんでいました。生活困窮者はいなかったといいます。
 著者たちにいわせると、「テオティワカンは、王政や貴族政から『民衆のトラン[葦のように密集した場所]』へと方向転換した」ということになります。
全体の統治評議会のようなものはあったにせよ、多くの権限は地区評議会にゆだねられていました。大規模な官僚制は存在しませんでした。
 しかし、テオティワカンは西暦550年ごろには内側から崩壊していきます。外敵が侵入した形跡はありません。住民たちは自分たちの都市を残したまま、ちりじりになっていったのです。

 ここでテーマは一挙に近世へと移ります。
 16世紀はじめ、スペインのコルテスがアステカ帝国を滅ぼすとき、わずか1000人の兵しかもたないコルテスは、以前からアステカと対立していたトラスカラという国と同盟を結び、アステカの首都テノチティトランを陥落させたことが知られています。
ふつうトラスカラは王国だったと理解されています。しかし、著者たちはトラスカラが王国ではなかったこと、それは古くテオティワカンからの伝統を引き継いだ共和政体の都市国家であったことを論証しています。
 トラスカラには王がいませんでした。トラスカラは何世代にもわたってアステカと戦ってきましたが、その政治的決定を担っていたのは、独裁的な王ではなく、民衆からなる都市評議会の代表者たちだったのです。
 著者たちは16世紀後半にセルバンテス・デ・サラサールが記した『ヌエバ・エスパーニャ年代記』をひもときながら、トラスカラの統治評議会がどのようなものであったかを示そうとしています。
 そこには、理路整然とした議論と長時間の審議によって合意を得ようとする成熟した都市議会が存在しました。その議会での審議により、トラスカラはスペイン側のコルテスと同盟を結ぶことを選択します。
 とうぜん、そこには「われわれを害するために不穏な海が投げてよこした貪欲な怪物のごときもの」と手を結ぶことにたいする強い反対もありました。しかし、ともかくも議会でさまざまな立場からの議論が自由にたたかわされ、けっきょくはコルテスとの同盟が決まるのです。
 トラスカラの評議会にどれくらいの評議員がいたかはわかっていません。スペイン側の資料では50人から200人とされています。議題によって、その数はことなったようです。
しかし、トラスカラでの「先住民の集団統治の仕組み」は、むしろ民主主義に敵対的だったスペインの観察者を驚かせています。
 さらに驚かされたのは、この都市で評議員になるための資格でした。
名誉や名声、あるいは資産があるだけでは評議員になれませんでした。カリスマ性はむしろ否定され、評議員の資格を得るためには、多くの試練をへなければなりませんでした。

〈かれら[評議員たち]は都市民に従属することをもとめられていた。この従属がたんなるみせかけでないことを確認するために、めいめいがいくつかの課題をこなさねばならなかった。まず、野心への適切なる代償と考えられていた公衆の罵声を浴びることが義務づけられた。つぎに、自我をぼろぼろに傷つけられた政治家志望者は、長期の隔離生活のなかで、断食、睡眠剥奪、瀉血、厳格な道徳教育などの試練を与えられた。そしてイニシエーションは、あらたに公務職に就いたものが、祝宴の最中に「カミングアウト」することで幕を閉じた。〉

 選挙はかえってカリスマ的指導者を生みだすとして採用されていませんでした。それよりも、民衆から実際の試練を受け、その試練を乗り越えることが、政治家の条件でした。著者たちはコロンブス以前のアメリカ大陸に民主政体があったことを示唆しようとしています。

〈現代の考古学的調査では、コルテスがメキシコの地を踏むずっと前に、トラスカラに先住民の共和政体が存在したことが確認されており、後世の文字資料からも、その民主的性格についてはほとんど疑いの余地を残していない。〉

 民主主義はヨーロッパの発明品ではなかったのです。
 しかし、国家の時代がはじまります。国家とは何か。次に問われるのはそのことです。

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想像の都市──『万物の黎明』を読む(8) [商品世界ファイル]

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 初期の都市に関する研究は、これまでの都市に関する常識をくつがえしつつあるといいます。多くの都市では、支配層の存在を示す証拠はなく、神殿や宮殿はのちになってあらわれたものだというのです。
 壁や門、溝などで仕切られ、道によって区域に分けられ、大勢の人が集まる都市はどのようにして誕生したのか。農耕革命によって人口が増え、その人口を管理するために都市が生まれたという説は支持しがたいいうのが著者たちの考え方です。
 最大規模の初期都市が存在するのは、じつはユーラシア大陸ではなく、メソアメリカ(中央アメリカ)です。しかし、この章では、まずユーラシア大陸の初期都市が検討されます。
 最初に取りあげられるのはウクライナの「メガサイト(巨大遺跡)」です。1970年代になって、ウクライナでは紀元前4100年ごろから3300年にかけてのいくつかの巨大集落跡が見つかりました。こうした都市を支えていたのは黒海の北側に広がる肥沃な黒土地帯でした。
 そんなメガサイトのひとつ、タリャンキは300ヘクタールの面積をもち、そこには1000を超える家屋があり、1万人以上が住んでいたと推定されます。しかし、統治にかかわる宮殿のような施設は見つかっていません。中央には広場があって、そこでは民衆集会や儀式、動物の囲い込みなどがおこなわれていました。
 これを大きな村落とみる向きもありますが、1万人以上の人が暮らしていた場所はやはり都市というべきでしょう。しかも、この地域には、そうした集落が10キロ程度の距離で点在していたことがわかっています。
 都市の住民は集落内で小規模な園芸や家畜の飼育、果樹の栽培などをしながら、広範な狩猟や採集活動をおこなっていました。カルパティア山脈東部や黒海沿岸からは塩を大量に輸入しています。ドニエストル川流域でとれるフリント(火打ち石などにも使われる)も運ばれ、バルカン半島からは銅が流入していました。そして集落では多くのすぐれた土器が焼かれていたのです。
 初期都市のかたちを示すウクライナのメガサイトが重要なのは、ここでは上からの支配関係がなく、都市の統一性が「地域の意思決定の過程を経由しながら、ボトムアップで生まれている」ことだ、と書かれています。そこでは、「高度な平等主義的組織が都市規模で可能であったこと」が裏づけられていたというわけです。
 次に取りあげられるのがメソポタミアです。
 そもそもメソポタミアとは「ふたつの川のあいだの土地」を意味することばだといいます。そのふたつの川とはいうまでもなくティグリス川とユーフラテス川です。
 メソポタミアではバビロニアやアッシリアなどの古代王国が発展しました。しかし、それ以前にすでに、紀元前4000年から3000年にかけて繁栄した、いくつもの都市が見つかっているのです。そこには統治者の気配を感じさせるものがないといいます。むしろ、そうした諸都市には、「原始民主政」が存在し、一般市民が統治に重要な役割を果たしていたのです。
 実際、紀元前3300年ごろ、メソポタミア南部の氾濫原にウルクという都市がありました。その人口は2万人から5万人と推定されています。小高い丘に神殿が建てられ、ここがいわば公共センターとなっており、大規模な集会がおこなわれていたはずだといいます。
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 ウルクで有名なのは、何といっても楔形文字です。神殿跡から発掘された文字板には、財やサービスの取引結果が記録されていました。神殿には作業所があって、工芸品や乳製品、毛織物だけではなく、パンやワイン、ビールがつくられていました。また倉庫には魚や油、食料品が保管されていました。
「この神殿部門の主要な経済的機能は、一年の大事な時期に労働力を調整し、一般家庭でつくられるものとは異なる加工品の品質管理をおこなうことであったと推測される」と著者たちはいいます。楔形文字は、その活動を記録するために発明されたともいえるわけです。
 神殿での作業は、神々をまつり、さらには統治者を支えることを目的としていたのでしょうか。しかし、著者たちは南メソポタミアの初期都市には君主政の痕跡は見当たらないといいます。
 神殿でつくられた毛織物などの商品は、周辺の高地にあった木材や金属、貴石などと、なんらかの方法で取引されていました。ウルクが交易路の要所に商業的、かつ宗教的な前哨基地をつくっていたこともわかっています。
 その範囲は北はトルコのタウロス山脈、東はイランのザグロス山脈までおよんでいたというのですから相当な範囲です。これがいわゆるシュメール文明の痕跡です。ウルク人はこうした前哨基地に神殿を建て、現地の人びとに衣服や乳製品、ワイン、毛織物などの商品を広める仕事に没頭していたといわれます。
 おなじころ、トルコ東部の丘陵地帯にはアルスランテペという都市がありました。ここには神殿ではなく宮殿のようなものが建設され、謁見の間のほか、剣や槍を貯える武器庫もつくられていました。反商業的な戦士貴族の社会が生まれようとしていたのです。これはメソポタミア平原の平等主義的な都市とは対照的で、貴族政、君主政につながる要素をもっていた、と著者たちはとらえています。
 インダス文明に移ります。
 インダス川下流には紀元前3000年ごろから2000年ごろまで栄えたモヘンジョダロがあります。ほかにハラッパーという都市遺跡も見つかっています。こうした都市遺跡群は現在のパキスタンからインド北部にかけて広がっています。
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 インダス文明には文字がありますが、いまだに解読されていません。モヘンジョダロの遺跡は完全に保存されているとはいえ、慎重な発掘作業がおこなわれなかったため、だいじなデータが失われてしまいました。
 とはいえ、意外なことがわかっているといいます。モヘンジョダロの城塞区域には富は集中しておらず、むしろ賑わっていたのは市街区域のほうで、そこには金属や土器、ビーズなどの工房が集まり、多くの人びとがそれを買っていたといいます。これにたいし、城塞区域には宮殿や記念碑もなく、あったのは沐浴場のような施設でした。都市にはカースト制の痕跡もありませんでした。
「インダス文明には、たとえば戦争指導者、立法者などといった、カリスマ的権威者の存在を示唆するいかなる証拠もない」と著者たちはいいます。ここにあったのは「平等主義的な都市」であって、「国家」のようなものではなかったのです。
 ウクライナのメガサイト、メソポタミアのウルク、そしてインダス川流域においても、集落の規模が巨大であったにもかかわらず、これらの初期の都市では、富や権力が支配エリートに集中されることはなかった、というのが著者たちの観察結果です。
 中国でも初期の都市の時代と、最古の王朝とされる殷(紀元前1200年ごろ)とのあいだには、大きな隔たりがあります。いまでは殷以前の新石器文化の遺跡が発掘されています。すでに紀元前2600年ごろには、山東省の沿岸部から山西省南部にかけ、黄河流域に土壁に囲まれた集落が広がっていました。
 たとえば陶寺(山西省)もそのひとつですが、300ヘクタールの広さをもつこの都市は巨大な城壁をもち、道路網と貯蔵庫がつくられ、平民とエリートの区画が厳格に区別されていました。宮殿のまわりには工房が集まり、陶器が焼かれ、翡翠などの工芸品がつくられていました。しかし、紀元前2000年ごろ陶寺では、「政治革命」がおこり、エリートが追放された形跡がある、と著者たちは記しています。

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自由の生態学──『万物の黎明』を読む(7) [商品世界ファイル]

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 中東の肥沃な三日月地帯は、植物の栽培化と動物の家畜化がはじまった場所として知られています。三日月地帯は高地部分と低地部分にわかれ、それぞれ異なった文化をもっていますが、農耕がはじまったのは低地部分です。高地と低地のあいだでは、交易もさかんでした。とはいえ、農耕はすぐに定着したわけではなく、恒常化するまでには何千年もかかっています。これが前回の話でした。
 農耕によって土地の私有化がはじまるというのは、後世の勝手な歴史解釈にすぎない、と著者たちはいいます。実際には、一般的に共同土地保有、開放耕地、定期的な区画再分配、牧草地の共同管理がおこなわれていたといいます。
 したがって、農耕の導入が、狩猟採集民における平等主義からの脱却をもたらしたなどと考える根拠もない。むしろ、中東では数千年のあいだ、それとは真逆の事態がつづいていたというのが、著者たちの見方です。
 世界を見渡すと、先史時代に家畜化=栽培化のはじまった中核地帯は15〜20箇所確認されているそうです。対象となる植物や動物はさまざまですが、そうした地域は中東をはじめ、インド、中国、、北米、中米、南米、アフリカ、ニューギニアまで広がっています。
 しかし、いずれの地域も農耕から国家形成への一直線をたどっていませんでした。さらに、そもそも農耕を拒絶する狩猟採集民が多かったことも認識しておくべきです。
 著者たちによれば、作物や家畜がたちまち世界じゅうに広がったというのは神話にすぎない。農業や牧畜はたいへんな労苦を必要とするのであって、そうした生活様式が容易に拡散することはありえなかった。それは失敗と挫折、逆転のくり返しだったといいます。
 現生人類が誕生して以来、農耕に適した時期は2度しかなかった。それは約13万年前のエーミアン間氷期と、1万2000年前にはじまった完新世です。さらに、現在は「人新世」の時代にはいったといわれます。
「人新世」は完新世の延長上にあります。完新世が重要なのは、それが農耕の起源となる条件をつくりだしたからです。この時代は野生資源があふれ、狩猟採集民にとって黄金期となりました。海や川には魚があふれ、森林には野生の木の実や果物が豊富で、食物に事欠くことはありませんでした。
「農耕民はこのまったく新しい世界に、文化的劣等生として参入した」のだ、と著者たちはいいます。かれらは狩猟民や漁撈民、採集民がさして関心を寄せなかった空間を埋めていったのであって、それは当初、作物や家畜を育てる「遊び」としておこなわれたというのが、著者たちの解釈です。
 しかし、狩猟採集民と棲み分けるかたちで、農耕が定着するには多くの困難があり、中央ヨーロッパにおける紀元前5000年ごろの遺跡は、その失敗の跡を物語っているといいます。
 エジプトでは古王国が成立する以前の紀元前5000年から4000年にかけて、農耕ではなく家畜の飼育に依存する経済が営まれていました。もちろん漁撈や採集、狩猟も放棄されたわけではありません。
 中央スーダンから中央エジプトにかけての墓地からは、顔料や鉱物からなる装身具、さらにはビーズ細工、櫛、腕輪などの装飾品など新石器時代の文化遺産が大量に見つかっています。これはエジプトに王国が誕生する以前のものです。
 ラピタ人は、ニューカレドニアからポリネシアにかけて紀元前3000年ごろ遠洋航海をおこない、島々やラグーンに村落をつくり、高床式の家を建てました。かれらは石斧を使って森を切り開き、タロイモ、ヤムイモ、バナナなどを栽培し、家畜を育て、魚や貝、海亀、野鳥、フルーツコウモリなども食べていました。
 ラピタ人のつくった土器は独特なもので、貝殻を集めて腕輪やネックレス、ペンダントなどをつくっていました。鳥の羽根の頭飾り、パンダナスの敷物、何千キロも離れたビスマルクで産出された黒曜石の刃などが、その文化のさまを物語っています。
 新たに登場した農耕民の特徴は、それまで狩猟採集民が手を着けていなかった場所を選んで農耕や家畜の飼育をはじめたことにある、と著者たちはみています。とはいえ、そこにはどうやら遊びの要素も含まれていたというのです。 
 つい最近まで、アマゾンは孤立した部族が隠れ住んでいる場所と思われていました。しかし、最近になって、それは事実ではないことがわかってきました。いまから2000年ほど前、アマゾン地方、すなわちアマゾニアには、すでに町や段々畑、モニュメント、道路ができていて、それがペルーからカリブ海までつづいていたというのです。
 そのころアマゾニアの人びとはマニオク(キャッサバ)に特化した固定農業を営んでいたわけではありません。マニオクが主食となったのは、16世紀にヨーロッパ人と接触してからのことです。アマゾニアでは長期にわたって、「遊戯農耕」がおこなわれていた、と著者たちはいいます。
 そこでは、ゆったりと土壌が維持され、さまざまな作物が植えられ、人びとはひとつの場所にとどまるわけでもなく、狩猟や採集もおこなっています。つまり、「自由な生態学」が維持されていたのだ、と著者たちはいいます。
 これはアマゾンに限られた話ではありませんでした。北アメリカの東部ウッドランドでも、中国の黄河流域、長江流域でも同じでした。単独でアワやキビ、あるいはイネが栽培されるようになるまでには、何千年もかかっているのです。それはブタの飼育などでも同じことでした。
 それ以前、人びとは長いあいだ「狩猟や採集の文化的価値を保持しながら、農耕への閾(しきい)をまたぐことなく浮遊していた」のです。
 したがって、紀元前7000年ごろに「農業革命」がおきたという仮説は、あくまでも目的論的推論にすぎず、実際には、農業革命などおきておらず、単一的農耕をこころみた部族は、むしろ失敗に見舞われているケースが多いのです。

〈農耕が考案されたのは、ほかに手立てがないばあいにのみだったのである。だからそれは、野生資源の最も乏しい地域で最初に着手される傾向にあったのだ。農耕は初期完新世のもろもろの戦略のなかでは異端児だった。〉

 これはなかなか説得力のある見解です。

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ウランバートル市内見学──モンゴルのんびりツアー(7) [旅]

6月29日(土)
 8時半、ロシア製の四輪駆動ワズでホスタイ国立公園のキャンプ地を出発します。舗装道路脇で待っていたバスに乗り換え、ウランバートルに戻ります。ここからは1時間半ほどです。
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 10時、ウランバートル市内にはいります。二つの火力発電所の脇を通りながら、10時半にゴビ・カシミア工場に到着しました。
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 工場見学です。カシミア製品は石炭や銅、金、鉄鉱石などとともにモンゴルの主力輸出商品になっています。
 モンゴルには約250万頭の山羊がいて、毛の色が4種類あるとか。この工場は1981年に国営工場として発足し、いまは民営化されています。ニットや布、製品までつくっているそうです。1700人が働いていて、その8割が女性。ほとんどの工程が機械化され、製品は73%海外に輸出されているといいます。
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 工場の脇には、おしゃれなショップがつくられていて、つれあいはカシミアのセーターを買いました。
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 昼はソウル・クラブで中華料理。そのあと日本のテレビドラマ「VIVANT」の撮影場所ともなったスフバートル広場を訪れます。
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 突き当たりが1990年代に改修された政府宮殿(兼国会議事堂)です。広場の中央にはモンゴル独立の英雄スフバートルの像(写真では右側)が立っています。
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 政府宮殿の正面には巨大なチンギスハーン像が鎮座しています。社会主義時代にはモンゴル民族の英雄チンギスハーンはタブー視されていました。高さ5メートルといわれるこの像がつくられたのは、モンゴル民主化後の2006年のことでした。
 せっかくなので、チンギスハーン像をもう少しアップしておきます。
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 広場の中央には1946年に立てられたスフバートルの騎馬像があります。その台座にはモンゴル文字で「我が国びと、思いを一つに力を合わせれば、この世に獲得できないもの、知り得ないものは何ひとつとしてない」と書かれているそうです。
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 これもアップしておきましょう。スフバートル(1894〜1923)は日本ではそれほど知られていませんが、モンゴル人民義勇軍を編成して、清朝からのモンゴル独立を勝ちとった英雄とされます。1923年に30歳で急死しますが、ソ連によって毒殺されたとの説も根強いようです。
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 広場の回りには中央郵便局や証券取引所、市庁舎、銀行、ホテルなどが立ち並び、政府宮殿の向かい通りには国立博物館もありますが、何といっても有名なのは国立オペラ劇場です。
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 ローズ色の壁とドリス式円柱をもつこの建物は、第2次世界大戦後、シベリアに抑留された日本人捕虜によって建てられました。タシケントのオペラ劇場も同じです。
 よく似ていますが残念ながら、ここはドラマVIVANTに出てくるバルカ銀行ではありません。バルカ銀行のロケ地は広場から少し離れた国立ドラマ劇場のほうでした。ここには行きませんでした。
 道すがら見えた国立博物館を写真だけでも紹介しておきましょう。
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 スフバートル広場のあと、モンゴル仏教の総本山で、チベット仏教寺院のガンダン寺を訪れました。
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 ご多分に漏れず、社会主義時代にこの寺院も弾圧され、1938年に閉鎖されましたが、その後、徐々に復興し、民主化以後、ふたたび学問寺としての権威を取り戻しているといいます。その正面にある観音堂に向かいます。
 なかに入るとびっくり。巨大な観音像が立っていました。高さは26.5メートル。奈良の大仏よりはるかに大きいです。この観音像もソ連軍によって破壊され、1996年に再建されたものです。
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 観音像の周囲には、大小さまざまの阿弥陀如来像が並べられています。
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 仁王さまもいて、マニ車が観音像の周囲を取り囲んでいます。世界の平安を祈らないわけにはいきません。
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 今回のウランバートル観光はこれでおしまいです。残念ながらチベット仏の粋を集めたザナバザル美術館やボグドハーン宮殿博物館、ダシチョイリン寺院などを訪れる時間はありませんでした。
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 最後はノミンデパートで買い物(ハチミツを買いました)。そして、夕食はザ・ブルというレストランでしゃぶしゃぶ。そしてホテル「東横イン」に戻ります。
 翌朝は5時にホテルを出発、6時には空港に着き、7時45分発のモンゴル航空で成田に帰ってきました。
 帰りの日の朝焼けです。
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野生馬タヒと出会う──モンゴルのんびりツアー(6) [旅]

6月28日(金)
 晴れたり曇ったり雨が降ったりのモンゴルらしい天気です。モンゴルでは天気予報がほとんど役に立たないといってもよいでしょう。
 8時半に2泊したバヤン・ゴビ・キャンプを出発し、ホスタイ国立公園に向かいます。
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 ホスタイ国立公園はウランバートルのほぼ西130キロの場所にあります。いまいるブルドは南西300キロほどの場所にありますから、バスはふたたびウランバートルに向かって、やってきた道を戻る格好になるわけです。
 それにしても、どこまでもつづく草原です。たたずむワシ、空を舞うワシを見ます。
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 10時40分、トール川の手前にある、おなじみとなったルンのスーパーにやってきます。トール川では馬たちが水浴びをしています。
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 バスは舗装道路を離れて、ホスタイ国立公園に向かう草道の手前でストップ。ここで小さなロシア製四輪駆動車ワズに乗り換えるはずだったのですが、手配が間に合わず、きょうはそのまま草の中を走る土道に突っ込みます。運転手さんの腕の見せ所です。
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 12時半、無事、ホスタイ国立公園のキャンプ地に到着しました。
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 これが、われわれふたりに与えられたゲルの内部です。
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 キャンプ地にはいくつものゲルが立てられ、トイレとシャワーは別の大きな建物のなかにありますが清潔です。
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 食事をすませたあと、夕方4時からロシア製の四輪駆動車ワズに分乗して国立公園内を回る予定でした。ところが、予定が遅れて、出発が5時になります。しかし、心配は無用。いまは夜8時すぎまで明るいのです。    
 軍用車両としてつくられたワズは頑丈で、ほとんど道なき道を揺れに揺れながら進みます。周囲には草原が海のようにつづいています。
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 われわれの車が近づいてくるのをみて、好奇心旺盛なモンゴル犬が近づいてきました。
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 しばらく走ると遺跡がみえてきます。突厥時代の貴人をまつった墓だといいます。およそ6世紀くらいのものです。
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 貴人の墓のあいだに立って、記念写真を撮ってもらいました。
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 よくみると、ヒツジのかたちをした墓も残っています。
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 ふり返ると草原に虹がでていました。
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 車でさらに行くと、シカ石と呼ばれる石に遭遇しました。たしかにシカといえばシカかもしれない文様が石に刻まれています。石の高さは1.5メートルくらいでしょうか。これは紀元前の遺産です。
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 周囲にも多くの石が転がっていますが、これが何かはわかりません。
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 ここから車はちがうルートを通って、山道を爆走します。きょうは野生馬を見るのは無理か、とあきらめていました。
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 しかし、です。ガイドさんがタヒです、と叫びました。
 それは突然あらわれました。
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 親子連れです。
 モンゴルでは野生馬タヒは一度絶滅しました。しかし、たまたまプラハなどの動物園で飼われていたため、1992年に16頭のタヒが里帰りし、再野生化に成功しました。ここホスタイ国立公園では、現在400頭ほどのタヒが確認されているといいます。
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 いずれにせよ、タヒが見られたのは本日の収穫でした。
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カラコルム──モンゴルのんびりツアー(5) [旅]

6月27日(木)
 大きなゲルで朝食をとったあと、9時半にバヤン・ゴビ・キャンプを出発。小雨のなか、130キロ先のカラコルム(現ハラホリン)に向かいます。
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 キャンプからすぐの場所でラクダを見かけます。観光用に飼われているものでしょう。
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 11時、カラコルム博物館に到着。
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 モンゴル帝国以前のこの地域の支配民族を年代順に並べると、匈奴(前209〜紀元1世紀)、柔然(330〜555)、突厥(6〜8世紀)、ウイグル(744〜840)、契丹(907〜1125)の順となることがわかります。いずれも遊牧民族国家でした。そのあとモンゴル族のチンギスハーン(1167〜1227)が帝国を築き、フビライハーン(1215〜1294)が中国を征服し、大都(現在の北京)を都として、元朝を立てることになります。しかし、元は100年ほどしかもたず、そのかん30人ほどの王が乱立しました。
 博物館では映像による貴族の墓の紹介がありました。展示物は豊富です。3万トゥグレグ(1500円)払えば自由に写真撮影ができるのですが、ケチ根性がはたらいてしまいました。石像、土器、皇帝の勅書、石碑、印籠、磁器、宝石の首飾り、金製品、金貨なども展示されているのですが、写真はパス。
 モンゴル帝国は戦争国家であると同時に交易国家であったことがわかります。遊牧民族であるモンゴル人が、2代皇帝オゴデイのときにはじめてつくられた都がカラコルムでした。
 博物館には、当時のカラコルムの復元模型(ジオラマ)が展示されていましたが、宮殿や商店街などをはじめとして、仏教、キリスト教、イスラム教の寺院があったのを見ると、ここが壮大な都だったことがうかがえます。
 博物館を見学したあと、オルホン川が見下ろせる丘に登ります。
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 その頂上にはモンゴルの歴史地図をあらわすモニュメントが建てられていました。
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 そこから見下ろすオルホン渓谷はみごとというほかありません。
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 現在ハラホルンと呼ばれるこの村にはロシアの雰囲気が色濃く残っています。いまはどうかわかりませんが、ロシア人の観光客も多いようです。
 村のロシア料理店でランチ。ボルシチのような料理がでてきましたが、ツアーのある参加者が、ヒツジ肉は絶対いやと言ったはずだと抗議すると、もうひとつ別の料理をだしてくれました。
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 昼食でお腹いっぱいになってしまいましたが、そのあとが今日のハイライトです。カラコルムの都の跡を見にいきます。
 都の跡といいましたが、じつはここには何も残っていません。モンゴル帝国が都を大都(北京)に移したあと、カラコルムはさびれました。それでも少しはかつての都の痕跡が残っていたはずです。しかし、明の時代にカラコルムはすっかり破壊されてしまったのです。
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 わずかに残る亀石が、都の跡をしのぶ痕跡となっています。
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 ほかには柱のあとを示す発掘現場があるだけです。
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 都が破壊されたあと、1586年に創建されたのが、チベット寺院のエルデニ・ゾーでした。しかし、社会主義時代の1930年代末に大部分の僧院が破壊され、いまは3つの伽藍と付属の建物が残るだけです。
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 今回はケチらず、2万トゥグレグ(1000円)払って、内部の写真を撮りました。大小さまざまな仏像や仏画がまつられています。
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 これはブッダというより、高僧の似姿をあらわしたような仏像です。説明がありましたが、読みそびれました。柱には龍がまきついています。
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 さまざまな姿をした仏像。よくみると、それぞれがおもしろい。
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 ブッダとその弟子でしょうか。
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 この仏さまもリアルです。
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 これは金剛手菩薩でしょうか。怒りの夜叉ですね。迫力があります。
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 これも同じです。馬に乗っているのがわかります。
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 歓喜仏の図像です。理性の底にある、もうひとつの人の姿がとらえられているのでしょうか。
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 何だか極楽のようでもありますね。
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 ちょっとマンガっぽい。
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 これはほんとうの仏さま。
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 この人物もおもしろそう。
 こんなふうに、勝手な印象を述べてしまいましたが、仏像や仏画にはそれぞれ由来があるはずなので、そのうちもう少しまじめに勉強してみることにしましょう。そのうちはあてにならないか。
 チベット仏教について知るには、あまりに時間が短かったようです。
 キャンプ地に戻ります。キャンプ地のすぐ横にある砂山にも立ち寄りました。韓国人グループが砂丘すべりをして歓声を上げています。
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 この日もガイドさんによる星空観察がありましたが、疲れたので参加しませんでした。寒かったので、暖炉に薪をくべてもらい、おとなしく寝ることにしました。ストーブは偉大です。すぐに暖かくなってきました。
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ゲルに泊まる──モンゴルのんびりツアー(4) [旅]

6月26日(水)
 晴れ。8時にホテルを出発します。市内はすでに混み合っていますが、学校が夏休みのため、これでも渋滞は少ないほうだといいます。
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 看板をみても日本経済の衰えを感じます。トヨタやSONYの看板は見かけるものの、中国資本や韓国資本の進出が目立ちます。ガソリンスタンドの多さもおどろきです。
 郊外に出ると、スクラップ工場や石油タンクが並んでいます。これも都市郊外の風景なのでしょう。
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 モンゴルには鉱山も多いが、いまの政府は腐っているので、開発がうまくいっていないとガイドさんが嘆きます。市場経済には市場経済なりの悩みがあるようです。
 モンゴル人の給料は安く、日本円にして、だいたい月8万円くらいだといいます。それなのにウランバートルのマンションは1億円くらいする。だれが買ってるのでしょう、とガイドさんもくびをかしげます。
 ただしモンゴル人はだれでも政府から700㎡の土地をもらえるといいます。社会主義が崩壊したあと、モンゴルでは土地の私有化が認められるようになりました。とはいえ、遊牧のための草地は、私有化の対象外だとか。
 9時、カルフールで休憩。しばらく走ると家畜売場を見かけます。
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 10時すぎ、草原地帯に出ました。このあたり、コムギの栽培も盛んなようです。こうした農地もいまや私有化されているはずです。
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 しかし、何といっても草原。モンゴル草原は広大です。チンギスハーンはなぜ世界征服の旅に出ようと思ったのだろう。ふと、その謎を知りたいと思いました。
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 11時、トール川を渡り、ルン郡のサービスエリアに到着。ここはウランバートルから140キロの場所です。周囲には牛や馬、ヒツジが放牧されていました。
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 草原にワシが飛んでいます。青い空に白い雲が浮かび、草原がどこまでもつづきます。同じことを書いているのは、草原が海にようにかぎりなく広がっているからです。
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 バスは揺れながらも快調に飛ばしていきます。水辺に牛や羊の群れが集まっています。
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 13時半、ブルドのバヤンゴビ・キャンプに到着。
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 われわれの泊まったゲルです。
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 くちばしの赤いカラスが集まると、雨が降るという伝説があるそうですが、さっそくそのカラスがやってきました。
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 天気は下り坂のようです。しかし、空にはワシが舞っていました。
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 15時30分、ホイル・ザウルへ。ここではゲルの組み立て方を教わり、モンゴルの民族衣装を着せてもらいました。ぼくのこの写真を遺影に使ったら、みんなびっくりして大笑いするだろうと思うと、何だか愉快です。
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 遊牧民のゲルを訪問したあとキャンプに戻ります。食事のあと、22時から星空観察。草原に寝っ転がって、北斗七星。夏の大三角形、ひっきりなしに飛ぶ人工衛星を見ます。残念ながら天の川は見られませんでした。
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テレルジ国立公園──モンゴルのんびりツアー(3) [旅]

6月25日(火)
 チンギスハーン騎馬像を見学したあと、ウランバートルの東60キロにあるテレルジ国立公園にやってきました。
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 そのキャンプ場のゲルで昼食です。メニューは羊肉のボーズ(包子)とホーショール、それにサラダとスープです。羊肉が苦手な人は食べませんでしたが、われわれはありがたくいただきました。
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 テレルジ国立公園の高度は1600メートル。さわやかです。
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 お花畑が広がっているので、植物好きの人にはたまらない場所ですね。写真撮影をするつれあいの動きがとまりません。
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 中腹にはアリアバル寺院というチベット仏教寺院がありました。参拝させてもらいます。
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 なかには金色の仏像が安置されていました。
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 お寺の周囲には、マニ車が並んでいます。これを回せば、実際にお経を読まなくても読んだことになるというので、一心に回させていただきました。お花畑に囲まれたお寺を参拝し、マニ車を回したので、これで安心して極楽に行けそうですね。
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 モンゴルにチベット仏教がはいったのは16世紀末。その後、17世紀半ばに王族の血を引く転生活仏ザナバザルが登場し、華麗で妖艶なチベット仏教美術が花開きます。
 1691年にモンゴルは清朝の支配下にはいりますが、チベット仏教への信仰はつづき、代々の活仏(ダライラマ)が衆生を導く象徴となります。
 社会主義の時代、1930年代には、激しい宗教弾圧がはじまり、1万人以上の僧侶が処刑され、700以上の寺院が破壊されたといいます。それでも、信仰は生き残り、民主化以後、ふたたび信教の自由が認められるようになったのです。
 モンゴル人のほとんどがチベット仏教を信仰しています。とはいえ、ガイドさんによると、シャーマニズムも残っており、東部ではイスラム教が盛んで、最近はキリスト教も増えているといいます。
 お花畑に囲まれたアリアバル寺院をあとにしたわれわれは、亀石を見にいきます。たしかにカメのかたちをしていますね。何となく霊力を感じさせます。
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 夕方、ウランバートルに戻ってきました。市内を一望できるザイサンの丘にのぼります。丘には1971年につくられたという戦勝記念碑が立っています。第2次世界大戦に勝利したモンゴル人民義勇軍とソ連兵の功績をたたえるものです。
 かつてはてっぺんまで、階段でのぼったようですが、いまでは丘の手前に立派な商業施設が建ち、途中までエレベーターで行くことができます。トール川の川端には柳絮が舞っていました。
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 ぜいぜいいいながら、戦勝記念碑の場所まで上ります。そこからはウランバートルの町が一望できました。
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 ウランバートルの標高は約1300メートル。モンゴル高原の町です。しかし、町として発展するのは、17世紀にふたつのお寺が建てられてからだといいます。それも最初はゲルの集まった町でした。
 人びとが家を建てて住みはじめるようになってから100年ほどしかたっていません。それまで人びとの中心は遊牧生活でした。
 社会主義時代に4階建てと12階建ての建物がつくられました。高層化が進むのは、民主化時代になってからです。
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 いまや大都会ですね。

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チンギスハーンに会いにいく──モンゴルのんびりツアー(2) [旅]

6月25日(火)
 ホテルのビュッフェで食事をとったあと朝8時にバスで出発。天気はくもりで、雨が降りそう。回りの写真を撮っておきます。
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 ガイドのオギーさんは中央ゴビ出身で、モンゴル国立大学で鉱物学を学んだあと、2016年から18年にかけ日本に留学したそうです。博多のラーメン店でアルバイトをし、日本語がしゃべれるようになったといいます。
 モンゴルの人口は現在360万人で、そのうち半分がウランバートルに集まっているとか。車は一家に2台がふつうだとか。
 それには理由があります。あまりに渋滞が激しいため、政策として政府はナンバープレートの末尾が奇数か偶数かによって、その日、町を走れる車を決めました。しかし、政策があれば対策がありで、庶民は奇数ナンバーと偶数ナンバーの車をそろえたわけです。かくて、渋滞はおさまらず……。ほんとか、うそかはわかりません。ジョークですね。
 歴史の説明がはじまります。モンゴルは17世紀から清に支配され、1911年から21年にかけ独立を果たし、それ以降約70年にわたって社会主義を経験し、1990年ごろに民主主義に移行、それから30年ほどだといいます。もう社会主義には戻らないだろう、とオギーさん。
 31歳のオギーさんは社会主義の時代を経験していません。それでも社会主義はいやだというのは、それが自由の抑圧というイメージと結びついているからでしょうね。
 われわれが訪れたときは、ちょうど総選挙のさなかでした。今回から議席数が76から126に増え、与党の人民党が引きつづき政権を担えるかどうかが焦点になっていました。町にはあちこちポスターが貼られています(結果的には人民党が何とか政権を維持しました)。
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 モンゴルでは学校は6月1日から9月1日まで夏休みで、その間、子どもたちはいなかに行き、遊牧生活を学ぶようです。いまはちょうど、その夏休み。オギーさん自身も都会生活からおさらばして、遊牧生活に戻りたいと話します。社会主義から市場経済になったものの、競争型の市場経済もくたびれるというのがホンネではないでしょうか。
 これが社会主義時代に建てられたアパートだというので、写真を撮ります。
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 あちこちに建設中の建物がみられます。
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 ゲル地区も残っています。ゲルというのは、テントのような移動式住居ですね。草原からやってきた人たちは、とりあえずゲルを立てて暮らしはじめます。
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 最初に訪れたのは市内の日本人慰霊碑でした。
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 公園になっていて、慰霊碑は小高いところに建っています。
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 シベリアに抑留された日本人のうち約1万2000人がモンゴルに送られ、1947年までのあいだに1600人以上が亡くなったといいます。当時の苦難を思い、ささやかな追悼をささげました。しかし、ここには封印された記憶もあるはずです。
 慰霊碑を訪れるのは、日本人観光客ぐらいで、ふだんは閑散としているようです。
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 そのあと、郊外に向かいます。途中、ゲル地区が広がっています。
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 荷物を積んでゆっくり走っている列車をみかけます。何十両も連なって、中国に向かっているそうです。
 モンゴルの最大の貿易国は、いまも中国とロシアのはずです。現代生活に不可欠な石油はロシアから輸入せざるをえません。中国との関係は複雑ですが、主力産品となる石炭や銅、金、鉄鉱石の輸出先はやはり中国が第一です。その分、中国からも多くの製品がはいってきます。
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 トール川を渡ったところにあるスーパーでトイレ休憩。そこからしばらく走り、旭天鵬が生まれたというナライハ区(ここは鉱山地区でもあります)にはいり、11時に巨大なチンギスハーン騎馬像の立つ場所に到着しました。
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 台座を含め、高さは45メートルで、2008年につくられたものだといいます。もちろん観光用の施設です。われわれが訪れたときは、韓国からの観光客が多かったような気がします。
 建物の1階にはチンギスハーン一族の肖像。いちばん上はチンギスハーンですが、そのすぐ下には中国を征服したフビライ(クビライ)の姿があります。
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 エレベーターを使って3階まで行き、そこから階段で上ると、堂々たるチンギスハーンの像の正面に出ます。ガイドさんによると、カラコルムから故郷に戻る途中で、チンギスハーンはこの場所で、縁起のよいムチを見つけたとか。たしかに黄金のムチをもっていますね。
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 歴史書にそんな記録があるかどうかは知りません。ただし、カラコルムは息子のオゴデイがつくる都なので、チンギスハーンの時代にはなかったはずです。
 チンギスハーンは、戦いに明け暮れ、戦士団とともにゲルで移動する生涯をすごしました。それでも時折、ふるさとに帰ることがあったでしょう。その途中で、ムチを見つけたというようなエピソードのようなものが、『元朝秘史』に記録されているのかもしれません。
 いずれにせよ、ここはチンギスハーンが世界制覇への意欲をたぎらせた場所ということになるでしょうか。
 社会主義時代は、チンギスハーンの名前はタブー視されていました。おそらくモンゴルがソ連圏から離脱する象徴になることを恐れたためでしょう。いまモンゴルでは、チンギスハーンがよみがえりました。
 巨像の地下には博物館が設けられていました。モンゴル帝国時代の鞍や弓、剣、貨幣、馬頭琴、衣服なども飾られていて、見応えがあります。歴史好きにはたまりませんね。
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 1階に戻ると、大きな靴が飾られていました。こんな靴をはくチンギスハーンはやはり巨人です。
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モンゴルのんびりツアー(1) [旅]

6月24日(月)
「モンゴルの草原を見たい」と言いだしたのは、つれあいのほうで、さまざまな旅行社から山のように送られてくるパンフのなかから、わが家の財政でも何とかだいじょうぶそうなコースを選びます。ぼくはいつものようにぼんやりとくっついていくだけです。
 モンゴルといっても、頭に思い浮かぶのは、ゴビ砂漠とチンギス・カン(ハーン)の名前くらい。あとは去年テレビで見たドラマ「VIVANT」のイメージが強いですね。架空の国バルカ共和国を舞台にした破天荒な冒険ドラマでしたが、そのロケ地がモンゴルでした。
 今回つれあいが選んだツアーは砂漠ではなく、草原のほうです。1週間のツアーで両方を見るのはとても無理。モンゴルの面積は日本の4倍あります。大きく分けて、ツアーは砂漠か草原のどちらかを選択しなければなりません。それで、今回は最初から行ってみたかった草原のほうにしたようです。
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 成田発の飛行機はモンゴル航空(MIAT)502便、14時40分ウランバートル行きでした。座席はビジネス、エコノミーを合わせて200ほどで、ほぼ満席です。われわれはもちろんエコノミーですが、滑走路混雑のため出発は20分ほど遅れました。
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 飛行機はいったん九十九里上空に出て旋回し、長野、北陸、日本海、韓国、黄海と西に進み、山東半島をかすめてから方向を変え、天津、北京あたりを通って北西に進みます。
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 それにしても、モンゴル人と日本人の顔つきはよく似ています。顔が丸くて頬骨が高くて、目が細い。日本人にもこういう顔つきの人は少なくないでしょう。キャビンアテンダントの人たちも、見かけはまったく日本人です。
 モンゴル人と日本人はどこかでつながっているんだろうな。ぼんやり、そんなことを考えていると、やがてゴビ砂漠らしきものが見えてきました。
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 空港に到着します。通称チンギスハーン国際空港。2021年7月に新しくできた空港です。昔の空港はいまどうなったのでしょうかね。
 日本とモンゴルの時差は1時間。飛行時間は約5時間半で、現地時間19時半(日本時間20時半)に到着しました。空港はまさに草原の中にあって、すぐ脇では馬が放牧されていました。
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 空港のロビーで、ガイドさんと待ち合わせます。ガイドさんの名前はオギーさん。ほんとうの名前はもっと長いが、そう呼んでくれといいます。今回のツアーのメンバーは12人で、夫婦づれはわれわれともうひと組だけです。友達どうしで来ている人がふた組。あとは個人参加です。男性8人、女性4人の割合でした。
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 空港はウランバートルの南西54キロの地点にあって、日本の政府開発援助によって建てられたといいます。ウランバートル市内まで1時間半から2時間かかるという話でした。どうしてそんなに時間がかかるのかと思いましたが、その理由はあとでわかってきます。
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 モンゴルの通貨単位はトゥグルグ。2024年6月現在のレートは1万トゥグルグが500円。2年ほど前は300円でしたから、ずいぶん円安が進んだことになります。加えてインフレも激しいようです。ちなみにレストランでは大の缶ビールが1万トゥグルグ、500円で、レートにすれば日本の物価とほぼ変わりませんでした。
 バスのなかで二人あわせて1万円分を両替してもらいます。20万トゥグルグになりました。チンギス・カンの肖像入りのお札です。
 バスは最初、順調に飛ばしていましたが、市内に近づくにつれ、車が混みはじめました。ご多分に漏れず、モンゴルも車社会で、渋滞が大問題になっているといいます。車は圧倒的にトヨタのプリウスです。右側通行なのに右ハンドル。運転しにくくないのかと思います。
 15階建てくらいのマンション群が見えはじめます。ウランバートルは建設ラッシュで、建設中のマンションも数多く見かけます。ガイドさんによると、冬は寒いので5月か9月くらいまでのあいだで建てなければならないといいます。
 午後10時前に、ようやく宿泊先の「東横イン」に到着。ここも日本の資本です。空港からここまで、やっぱり2時間近くかかりました。
 ご存じのように、モンゴルでは1989年末に民主化運動がおき、90年7月に初の自由選挙が実施され、92年1月に「モンゴル国憲法」が制定されました。こうして、1924年以来の社会主義体制は崩壊し、国名も「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」へと変わったのです。
 われわれは、その「モンゴル国」の首都ウランバートルのホテルにいます。

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