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チンギスハーンに会いにいく──モンゴルのんびりツアー(2) [旅]

6月25日(火)
 ホテルのビュッフェで食事をとったあと朝8時にバスで出発。天気はくもりで、雨が降りそう。回りの写真を撮っておきます。
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 ガイドのオギーさんは中央ゴビ出身で、モンゴル国立大学で鉱物学を学んだあと、2016年から18年にかけ日本に留学したそうです。博多のラーメン店でアルバイトをし、日本語がしゃべれるようになったといいます。
 モンゴルの人口は現在360万人で、そのうち半分がウランバートルに集まっているとか。車は一家に2台がふつうだとか。
 それには理由があります。あまりに渋滞が激しいため、政策として政府はナンバープレートの末尾が奇数か偶数かによって、その日、町を走れる車を決めました。しかし、政策があれば対策がありで、庶民は奇数ナンバーと偶数ナンバーの車をそろえたわけです。かくて、渋滞はおさまらず……。ほんとか、うそかはわかりません。ジョークですね。
 歴史の説明がはじまります。モンゴルは17世紀から清に支配され、1911年から21年にかけ独立を果たし、それ以降約70年にわたって社会主義を経験し、1990年ごろに民主主義に移行、それから30年ほどだといいます。もう社会主義には戻らないだろう、とオギーさん。
 31歳のオギーさんは社会主義の時代を経験していません。それでも社会主義はいやだというのは、それが自由の抑圧というイメージと結びついているからでしょうね。
 われわれが訪れたときは、ちょうど総選挙のさなかでした。今回から議席数が76から126に増え、与党の人民党が引きつづき政権を担えるかどうかが焦点になっていました。町にはあちこちポスターが貼られています(結果的には人民党が何とか政権を維持しました)。
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 モンゴルでは学校は6月1日から9月1日まで夏休みで、その間、子どもたちはいなかに行き、遊牧生活を学ぶようです。いまはちょうど、その夏休み。オギーさん自身も都会生活からおさらばして、遊牧生活に戻りたいと話します。社会主義から市場経済になったものの、競争型の市場経済もくたびれるというのがホンネではないでしょうか。
 これが社会主義時代に建てられたアパートだというので、写真を撮ります。
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 あちこちに建設中の建物がみられます。
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 ゲル地区も残っています。ゲルというのは、テントのような移動式住居ですね。草原からやってきた人たちは、とりあえずゲルを立てて暮らしはじめます。
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 最初に訪れたのは市内の日本人慰霊碑でした。
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 公園になっていて、慰霊碑は小高いところに建っています。
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 シベリアに抑留された日本人のうち約1万2000人がモンゴルに送られ、1947年までのあいだに1600人以上が亡くなったといいます。当時の苦難を思い、ささやかな追悼をささげました。しかし、ここには封印された記憶もあるはずです。
 慰霊碑を訪れるのは、日本人観光客ぐらいで、ふだんは閑散としているようです。
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 そのあと、郊外に向かいます。途中、ゲル地区が広がっています。
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 荷物を積んでゆっくり走っている列車をみかけます。何十両も連なって、中国に向かっているそうです。
 モンゴルの最大の貿易国は、いまも中国とロシアのはずです。現代生活に不可欠な石油はロシアから輸入せざるをえません。中国との関係は複雑ですが、主力産品となる石炭や銅、金、鉄鉱石の輸出先はやはり中国が第一です。その分、中国からも多くの製品がはいってきます。
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 トール川を渡ったところにあるスーパーでトイレ休憩。そこからしばらく走り、旭天鵬が生まれたというナライハ区(ここは鉱山地区でもあります)にはいり、11時に巨大なチンギスハーン騎馬像の立つ場所に到着しました。
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 台座を含め、高さは45メートルで、2008年につくられたものだといいます。もちろん観光用の施設です。われわれが訪れたときは、韓国からの観光客が多かったような気がします。
 建物の1階にはチンギスハーン一族の肖像。いちばん上はチンギスハーンですが、そのすぐ下には中国を征服したフビライ(クビライ)の姿があります。
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 エレベーターを使って3階まで行き、そこから階段で上ると、堂々たるチンギスハーンの像の正面に出ます。ガイドさんによると、カラコルムから故郷に戻る途中で、チンギスハーンはこの場所で、縁起のよいムチを見つけたとか。たしかに黄金のムチをもっていますね。
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 歴史書にそんな記録があるかどうかは知りません。ただし、カラコルムは息子のオゴデイがつくる都なので、チンギスハーンの時代にはなかったはずです。
 チンギスハーンは、戦いに明け暮れ、戦士団とともにゲルで移動する生涯をすごしました。それでも時折、ふるさとに帰ることがあったでしょう。その途中で、ムチを見つけたというようなエピソードのようなものが、『元朝秘史』に記録されているのかもしれません。
 いずれにせよ、ここはチンギスハーンが世界制覇への意欲をたぎらせた場所ということになるでしょうか。
 社会主義時代は、チンギスハーンの名前はタブー視されていました。おそらくモンゴルがソ連圏から離脱する象徴になることを恐れたためでしょう。いまモンゴルでは、チンギスハーンがよみがえりました。
 巨像の地下には博物館が設けられていました。モンゴル帝国時代の鞍や弓、剣、貨幣、馬頭琴、衣服なども飾られていて、見応えがあります。歴史好きにはたまりませんね。
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 1階に戻ると、大きな靴が飾られていました。こんな靴をはくチンギスハーンはやはり巨人です。
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モンゴルのんびりツアー(1) [旅]

6月24日(月)
「モンゴルの草原を見たい」と言いだしたのは、つれあいのほうで、さまざまな旅行社から山のように送られてくるパンフのなかから、わが家の財政でも何とかだいじょうぶそうなコースを選びます。ぼくはいつものようにぼんやりとくっついていくだけです。
 モンゴルといっても、頭に思い浮かぶのは、ゴビ砂漠とチンギス・カン(ハーン)の名前くらい。あとは去年テレビで見たドラマ「VIVANT」のイメージが強いですね。架空の国バルカ共和国を舞台にした破天荒な冒険ドラマでしたが、そのロケ地がモンゴルでした。
 今回つれあいが選んだツアーは砂漠ではなく、草原のほうです。1週間のツアーで両方を見るのはとても無理。モンゴルの面積は日本の4倍あります。大きく分けて、ツアーは砂漠か草原のどちらかを選択しなければなりません。それで、今回は最初から行ってみたかった草原のほうにしたようです。
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 成田発の飛行機はモンゴル航空(MIAT)502便、14時40分ウランバートル行きでした。座席はビジネス、エコノミーを合わせて200ほどで、ほぼ満席です。われわれはもちろんエコノミーですが、滑走路混雑のため出発は20分ほど遅れました。
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 飛行機はいったん九十九里上空に出て旋回し、長野、北陸、日本海、韓国、黄海と西に進み、山東半島をかすめてから方向を変え、天津、北京あたりを通って北西に進みます。
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 それにしても、モンゴル人と日本人の顔つきはよく似ています。顔が丸くて頬骨が高くて、目が細い。日本人にもこういう顔つきの人は少なくないでしょう。キャビンアテンダントの人たちも、見かけはまったく日本人です。
 モンゴル人と日本人はどこかでつながっているんだろうな。ぼんやり、そんなことを考えていると、やがてゴビ砂漠らしきものが見えてきました。
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 空港に到着します。通称チンギスハーン国際空港。2021年7月に新しくできた空港です。昔の空港はいまどうなったのでしょうかね。
 日本とモンゴルの時差は1時間。飛行時間は約5時間半で、現地時間19時半(日本時間20時半)に到着しました。空港はまさに草原の中にあって、すぐ脇では馬が放牧されていました。
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 空港のロビーで、ガイドさんと待ち合わせます。ガイドさんの名前はオギーさん。ほんとうの名前はもっと長いが、そう呼んでくれといいます。今回のツアーのメンバーは12人で、夫婦づれはわれわれともうひと組だけです。友達どうしで来ている人がふた組。あとは個人参加です。男性8人、女性4人の割合でした。
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 空港はウランバートルの南西54キロの地点にあって、日本の政府開発援助によって建てられたといいます。ウランバートル市内まで1時間半から2時間かかるという話でした。どうしてそんなに時間がかかるのかと思いましたが、その理由はあとでわかってきます。
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 モンゴルの通貨単位はトゥグルグ。2024年6月現在のレートは1万トゥグルグが500円。2年ほど前は300円でしたから、ずいぶん円安が進んだことになります。加えてインフレも激しいようです。ちなみにレストランでは大の缶ビールが1万トゥグルグ、500円で、レートにすれば日本の物価とほぼ変わりませんでした。
 バスのなかで二人あわせて1万円分を両替してもらいます。20万トゥグルグになりました。チンギス・カンの肖像入りのお札です。
 バスは最初、順調に飛ばしていましたが、市内に近づくにつれ、車が混みはじめました。ご多分に漏れず、モンゴルも車社会で、渋滞が大問題になっているといいます。車は圧倒的にトヨタのプリウスです。右側通行なのに右ハンドル。運転しにくくないのかと思います。
 15階建てくらいのマンション群が見えはじめます。ウランバートルは建設ラッシュで、建設中のマンションも数多く見かけます。ガイドさんによると、冬は寒いので5月か9月くらいまでのあいだで建てなければならないといいます。
 午後10時前に、ようやく宿泊先の「東横イン」に到着。ここも日本の資本です。空港からここまで、やっぱり2時間近くかかりました。
 ご存じのように、モンゴルでは1989年末に民主化運動がおき、90年7月に初の自由選挙が実施され、92年1月に「モンゴル国憲法」が制定されました。こうして、1924年以来の社会主義体制は崩壊し、国名も「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」へと変わったのです。
 われわれは、その「モンゴル国」の首都ウランバートルのホテルにいます。

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『万物の黎明』を読む(6) [商品世界ファイル]

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 新石器時代がはじまったのは紀元前8000年ごろです。そのころから農耕の兆しがみられました。ほとんどの学者は、人類が農耕をはじめたのは、人口増加に対応するためだったと考えています。はたしてそうだったのか、と著者たちは問います。
 トルコのコンヤ平原にはチャタルホユックという遺跡があります。紀元前7400年ごろ人が住みはじめ、その後、約1500年にわたって人が住みつづけた場所です。広さは13ヘクタールあり、人口は5000人、村というよりほとんど町で、そこには同じような家が密集していました。
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 家々の多くの部屋に鮮やかな壁画が残されていることで知られます。集落の住民は農耕をおこなっており、穀物やマメ類を栽培し、ヒツジやヤギを飼っていたとされます。豊満な女性の土偶が数多くみつかっていることから、ここには原始的母権制(家母長制)が存在したのではないかという推測もなされました。
 ところが、こうした説は最近くつがえされつつある、と著者たちはいいます。
 ここに残されていた多くの女性の像は、信仰対象となる女神ではなく、むしろ女家長の姿をあらわしたものでした。とはいえ、女性のほうが男性より生活水準が高かったという証拠はありません。男性をかたどった像はありません。しかし、壁画は、イノシシやシカ、クマ、雄牛などを追う男や少年の姿がえがかれています。
 チャタルホユックには中央の権威を示す建物らしきものはなく、身分制が敷かれていた形跡もありません。しかし、日常のきまりごとのようなものが守られ、古くなった家屋は解体され、また同じような家屋がつくられていたようです。
 著者たちによれば、注目すべきは農耕がさほど重視されていなかったことだ、といいます。もちろん、栄養面では栽培植物(小麦や大麦)や家畜(ツジやヤギ)が重要でしたが、共同体の生活は狩猟と採集が中心でした。
 チャタルホユックは、冬は寒くて湿気が多く、夏は耐え難いほど暑い場所でした。春から秋にかけ、ヒツジやヤギは平原の牧草地を移動し、ときに高地に移動しました。チャヤルシャンバ川が季節ごとに氾濫し、そこに生まれた湿地帯に穀物がまかれていたと思われます。こうした作業がくり返されるためには、何らかの儀式や分業、さらには身分制が必要だったろう、と著者たちはいいます。
 ウシは紀元前8000年くらいから家畜化されていましたが、チャタルホユックではまだ狩猟の対象でした。
 ウシが家畜化されていたのはティグリス川、ユーフラテス川の上流地域です。
 パレスチナ、イスラエル、シリアあたりから、ティグリス、ユーフラテス川上流にかけての一帯は「肥沃な三日月地帯」と呼ばれ、砂漠と山々に囲まれた農耕地が広がっています。これは19世紀になって作られた特別の意味をもつ呼称です。
 しかし、厳密にわければ、この地域は高地(シリアからトルコにかけて)と低地(ヨルダン渓谷やユーフラテス川)にわかれており、そこには紀元前1万年から8000年にかけ、まったく異なる狩猟採集社会が形成されていました。
 高地の狩猟採集民はギョベクリ・テペなどの遺跡にみられるように、ヒエラルキーのなかでくらしたと考えられます。これにたいし低地では巨石建造物はなく、異質な文化が形成されています。高地と低地のあいだでは財の取引がおこなわれています。高地からは黒曜石や鉱物が南下し、遠く紅海沿岸からは貝殻が北上しています。
 そして、新石器時代にはいると、ヨルダン渓谷からシリアのユーフラテス川上流にかけての、いわゆる「レヴァント回廊」に沿った一帯で、穀物の栽培がはじまります。
 植物は栽培化され、農作物となることによって、野生での繁殖を可能としている機能を消失するといいます。自然に種子が散布される仕組みが失われ、人の手を借りなければ、繁殖できなくなるのです。
 歴史学者のユヴァル・ハラリは、人間がコムギを栽培化したのと同じく、コムギが人間を家畜化したのだというような言い方をしています。コムギの側から農耕の起源をみる逆転の発想ですが、これはひとつの寓話にすぎないのではないか、と著者たちは疑います。
 最終氷期の終了以降、新石器時代に栽培化されたのが、さまざまなマメ類のほか、コムギとオオムギでした。肥沃な三日月地帯のさまざまな場所がその舞台です。
 最初は野生の穀物です。それらは収穫され食べられるとともに、残った藁(わら)は家屋の素材や燃料、さらにはかごや衣類、敷物などとして利用されました。しかし、すぐに栽培化されたわけではありません。肥沃な三日月地帯でも、コムギが栽培化されるまで3000年かかっているといいます。シリア北部などで栽培化が完成するのは、ようやく紀元前7000年近くになってからです。
 なぜ、これほど長くかかったのでしょうか。農耕革命というには3000年という期間は長すぎます。「その段階を特徴づけるのは、栽培に手を染めてはやめ、やめては手を染める狩猟採集民の存在である」と、著者たちは記します。
 栽培穀物の耕作はとても骨の折れる作業です。まともに農耕をおこなうには、土壌を保全し、雑草を取り除かねばなりません。さらに収穫後には脱穀や唐箕の作業が待っています。そうした作業は狩猟採集民にとって、それまでの日常生活の妨げになったにちがいありません。
 そのため、最初の栽培は、季節ごとに氾濫する湖や川のほとりでおこなわれたと推測されます。水が引くと、肥沃な沖積土の川床が残り、そこに種子をまくことができました。これならば、かなり楽に農耕ができます。
 肥沃な三日月地帯にはそうした場所が数多くあったのです。人びとは高地から穀物を集めて、低地の氾濫エリアにまき、栽培をはじめました。そして、そのあたりに住みながら、狩猟や採集、交易などもおこなっていたのです。
 コムギが人間を家畜化したという寓話は、禁断の果実を口にしたために楽園を追放された、アダムとイブの話に似ている、と著者たちはいいます。この聖書の物語では、誘惑に屈するのは女性です。しかし、じっさいに大きな役割をはたしていたのは女性です。野生の植物を収穫し、それを食料や薬、衣服、顔料、香辛料、かご、敷物、ひもなどに変えるうえで、女性たちの役割は欠かせませんでした。
 著者たちは土の発見にも注目しています。肥沃な氾濫原はコムギやオオムギの収穫をもたらしました。さらに、土や粘土は藁などと混ぜられて、建築の資材となっていきます。火と結びついて土器や土偶がつくられました。女性の小像が数多くつくられています。
 前に述べたように、肥沃な三日月地帯には低地と高地がありました。そのどちらにも、多くの定住集団がいましたが、低地と高地では生活スタイルにかなりのちがいがあったことがわかっています。
 トルコとシリアの境にあるギョベクリ・テペは丘に立てられた遺跡で、そこには大きな石の柱が残されています。紀元前8000年ころの新石器時代の遺跡と推定されています。その柱には、ライオンやイノシシ、猛禽類、それに首をとられた男の像などが刻まれています。
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 この地域には、ほかにも先史時代の大規模な定住地の遺跡が残っています。「髑髏(どくろ)の家」と呼ばれる遺跡の建物には、首なし遺体や髑髏を含め、450人以上の遺骨が詰めこまれていました。建物の外側には野牛の頭骨が据えられていました。祭壇もあったようです。
 こうしたことをみても、高地にはヒエラルキーと暴力の傾向が強かったことがわかります。何も農業がはじまったから、暴力がはじまったわけではないのです。
 最後に著者たちは「農耕革命」の神話をくつがえします。

〈「農耕革命」の発祥の地と長いあいだ目されてきた中東の肥沃な三日月地帯では、旧石器時代の狩猟採集民から新石器時代の農耕民への「転換」など、実際には起きていないのだ。主に野生資源を利用した生活から、食料生産を中心とした生活への移行には、3000年ほどの時間を要している。また、農耕は富の不平等な集中の可能性はもたらした。だが、ほとんどの場合、そうした富の不平等な集中が生まれはじめたのは、農耕のはじまりから数千年後のことなのだ。そのかんの長期にわたり、人びとは農耕を実地に試していた。〉

「農耕(農業)革命」などなかったという指摘は重要です。それでは農業のはじまりが、暴力と政治的支配をもたらしたとされるのはなぜか。次に問われるのは、そのことです。

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『万物の黎明』を読む(5) [商品世界ファイル]

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 農耕のはじまる前から、狩猟採集民は多くの場所に定住型の村落を築き、さまざまなモニュメントをつくっていました。
 アメリカの先住民のあいだでは、農耕はむしろ拒絶されます。ドングリや松の実をとったり、水産物を主食とするほうが効率的だったからです。とはいえ、地域によっては、トウモロコシやマメ類、カボチャ、スイカなどが栽培されることもあったようです。
 中石器時代以降、人類は文化によって細分化され、分岐していった、と著者たちはいいます。独自の特徴をもつ言語とともに、固有の伝統や慣習が形成されていきました。
 ここで取りあげられるのは、北アメリカ西海岸に居住していた非農耕民の集団についてです。その集団はそれぞれ文化的特性をもっていました。似たような特性をもつ集団は、ひとつの文化圏を形成しています。これらの文化圏は借用と拒絶の組み合わせによって、ひとつの個性を形成している、と人類学者のモースはとらえます。
 モースによる文化圏の規定にしたがえば、北アメリカ西海岸の先住民は、カリフォルニアと北西海岸(米オレゴン州からカナダ西海岸にかけて)で異なる文化圏を形成しています。19世紀以前まで、ふたつの地域では先住の狩猟採集民が、多くの人口を保ちながら、高度な生活を営んでいました。
 北西海岸の文化圏は川や海の漁業に依存しています。この地域は、海洋哺乳類や陸生植物、狩猟資源も豊富でした。先住民は冬は村落に集まって複雑な儀式をおこない、春と夏はちいさな集団に分散していきます。モミやトウヒ、セコイアなどの針葉樹を材料として、仮面や容器、家屋、カヌー、トーテムポールなどもつくっていました。
 いっぽう、カリフォルニアの文化圏は、地中海性気候で、山や砂漠、海岸線をもち、多種多様の動植物に恵まれています。釣りや狩りもおこなわれましたが、主食は木の実やドングリでした。北西海岸とちがい、家屋はきわめてシンプルで、装飾にあふれた工芸品もなく、目立つのは籠くらいのものでした。大市での部族間の交易は活発でした。
 北西海岸には「戦士貴族」がいて奴隷も多かったのにたいし、カリフォルニアに奴隷はいませんでした。
 シェルビーズや貝殻でつくられた「ワンパム」を入植者たちは「インディアン・マネー」と呼びましたが、これは貨幣とは少し異なる、と著者たちはいいます。
 ワンパムが売買に使用されることはほとんどありませんでした。むしろ、それは罰金を払ったり、契約や合意をするために用いられました。ただし、北カリフォルニア(とりわけユロック族のあいだ)では、ワンパムが用いられる度合いが高かったといいます。そのことが先住民の勤勉倹約思考を促していました。
 同じように勤勉でもカリフォルニア北部のユロック族と北西海岸のクワキウトル族とはまるで性格が異なります。
 ユロックは自律性が強く、負債や義務を負ったりすることを嫌いました。資源を集団で管理することすら嫌っていたといいます。狩猟採集場は個人の所有物で、時と場合に応じて貸し出されました。ユロックの男性も女性も禁欲的で、食事は質素、装飾はシンプルなものが好まれました。
 これにたいしクワキトルの貴族は派手好きで、虚栄心に満ちています。ポトラッチと呼ばれる儀式では、贅を競う宴会が催され、家宝が破壊されます。かれらは豊かな装飾品を施した美術品を好み、派手なパフォーマンスにふけりました。その社会は貴族と平民、奴隷から構成されています。
「カリフォルニアと北西海岸の先住民社会の最も顕著な差異は、カリフォルニアには公式の身分とポトラッチという制度がないことである」と、著者たちは記しています。
 ポトラッチがないということは、公式の身分がないということです。宴や祝祭はありましたが、そこでだされたのはふだんと変わらない食事で、踊りも派手ではなく、ちょっとユーモラスで控えめなものでした。
 ここで、著者たちは北西海岸での奴隷制に注目します。奴隷は木を刈り、水をくみ、サケを捕獲したり加工したりする仕事をさせられています。こうした奴隷制は古くから存在したようです。戦争の痕跡や墓地での埋葬の仕方をみれば、紀元前1500年ごろから奴隷がいたのではないかといいます。
 紀元前1500年ごろ、西海岸ではすでにカヌーを使った海上交通が盛んで、沿岸部と島々のあいだで、シェルビーズや銅、黒曜石、その他さまざまな製品が行き来していました。戦争と襲撃によって確保された捕虜も数多くいたようです。北西海岸では、かれらが奴隷の扱いを受けました。
 アメリカ先住民の社会は、しばしば「捕獲社会」だったとされます。

〈アメリカ大陸の「捕獲社会」では、奴隷の捕獲を独自の生産様式とみなしていたが、それはカロリー生産という通常の意味においてではない。襲撃者たちがほとんど例外なく主張するのは、その生命力ないし「活力」──征服者集団によって費消される活力──が欲しいから奴隷を捕獲するのだということである。〉

 ここでは労働力としての奴隷が求められていました。獲物としての奴隷は、よくてペット、悪くて家畜としての扱いを受けました。
 イエズス会の宣教師は、南米パラグアイのグアイクル族が、貢納として捧げられたトウモロコシやキャッサバなどの農作物を食べ、遠方の社会を襲撃して得た奴隷に囲まれて生活していたと記録しています。
 ここで、著者たちは奴隷制に支えられてきた北西海岸と、奴隷が例外的だったカリフォルニアの先住民社会の対比に話を戻します。
 カリフォルニアのユロック族にも少数の奴隷がいました。しかし、それは債務奴隷や身請けされていない捕虜で、奴隷制はむしろ倫理的に拒絶されていたといいます。
 前にも述べたように、カリフォルニアの先住民は、松の実やドングリを主食として暮らしていました。その採集と加工には多大な労力を必要とします。川にはサケをはじめとして魚が豊富にいるにもかかわらず、水産食品は補助的にしか食べられませんでした。これにたいして、北西海岸の社会は、あくまでもサケが食料の中心です。
 ここからサケ中心の社会は好戦的で略奪を好み、ドングリ中心の社会は基本的に平和を好むという結論が導かれそうです。しかし、ちょっと待てよ、と著者たちはいいます。
 歴史的現実をみれば、北西海岸のクワキウトル族の襲撃は、食料ではなく人間の確保を目的としていました。漁獲量は無尽蔵でした。しかし、クワキウトルの貴族は、自分たちが生活していくためには、多くの奴隷を必要としたのです。そのためには「人間狩り」が必要でした。平民は貴族の生活の面倒をみてくれません。そればかりか、貴族の地位を守るには、盛大なポトラッチによって、平民の支持を得る必要があったのです。
 それとは正反対に、カリフォルニアのユロックは、まるで「プロテスタント的狩猟採集者」だ、と著者たちは書いています。
 しかし、ユロックだけではなく、カリフォルニアでは、どの部族も奴隷制を採用していませんでした。いや、ひょっとしたら、どこかの段階で奴隷制を放棄したのかもしれません。かれらはとうぜん北西海岸の状況を知り抜いていたにもかかわらず、自己規律と労働を尊ぶ文化を築きました。
 ここには「分裂生成」の論理がはたらいたのではないか、と著者たちは考えます。すなわち北西海岸の暴力性をみた北カリフォルニアの人びとは、最悪の暴力から自己防衛できる制度の構築をめざすようになり、北西部とは対照的な文化を築いたというわけです。
 カリフォルニアの先住民は自覚的に平等主義的でした。そのいっぽうで、ここには貨幣への熱狂がみられます。北西海岸では先祖伝来の宝物が富であったのにたいし、カリフォルニアでは通貨(紐でつながれたツノガイの殻や、キツツキの頭皮の束)が尊ばれました。ただし、そうした通貨は相続されることなく、一代で破壊されました。
 ヒエラルキーと平等主義の力学は、農耕社会発生以前から同時並行的にはたらいていた、と著者たちはとらえています。

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『万物の黎明』を読む(4) [商品世界ファイル]

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 後期旧石器時代につづき、紀元前1万2000年あたりから数千年にわたり、中石器時代がはじまります。このころ、人類はすでに「社会」のようなものをつくっていました。男性も女性もしばしば、きわめて長距離を移動しています。狩猟採集民は大きな居住集団となり、そこには近しい親族以外のメンバーも含まれていました。
 人びとの生活は多様です。大型哺乳類の群れを追いつづける人びと、森でドングリをとる人びと、海辺で魚を捕る人びとがいます。技術は進歩し、土器や細石器、石臼などが登場し、野生の穀物や野菜の調理、肉や魚、植物性食品の保存方法も発達しています。共通の言語をもつ社会圏のようなものができつつあります。しかし、その社会圏は季節によって大きくなったり小さくなったりしました。
 ここで著者たちは平等主義を定義するのは、なかなかむずかしいと述べています。富や信仰、美、自由、知識などにたいする価値観はさまざまで、何をもって平等とするのかは一概にいえません。平等といっても、形式だけの平等ということもあります。
 イギリスの人類学者ジェームズ・ウッドバーンは、タンザニアのハッザ族を研究し、ここでは平等主義的な社会がつくられているが、その経済の特徴は「即時的収穫型」にあると論じています。ハッザ族のあいだでは、持ち帰った食べ物は当日か翌日に食べ尽くされ、余ったものはシェアされます。
 ウッドバーンが論じたこと、それは真の平等はごく単純な狩猟採集民以外には不可能だということだ、著者たちは結論づけています。
 ヴィクトリア朝の知識人は、「未開人」はつねにおのれの生存をかけて争っていると考えていました。未開人は夜明けから夕暮れまで、わずかな食料を得るために、気の遠くなるような雑多な労働をしつづけていたというわけです。
 ところが、『石器時代の経済学』で知られるマーシャル・サリンズは、1950年代後半に「初源の豊かな社会」に言及するようになります。狩猟採集民は、現代人とくらべると豊かではないようにみえるが、豊かさは相対的なものであって、生活に必要なものがすぐに手にはいることこそが豊かさだとすれば、狩猟採集民はむしろ豊かにくらしていた。しかも、かれらは1日に2時間から4時間ほどしか仕事をしていない。そんなふうにサーリンズは論じました。
 狩猟採集民には、噂話をしたり、議論をしたり、ゲームをしたり、ダンスをしたり、旅をしたりする余暇がたっぷり与えられていました。しかし、農業がはじまって、人びとが定住し生活をして、農耕の労苦に甘んじるようになると、そうした余暇が奪われるようになった。これがサーリンズのとらえ方です。
 サーリンズの「初源の豊かな社会」という仮説は、アフリカのサン族やムブティ族、ハッザ族などの民族誌からもたらされたもので、はたして先史時代の人類がアフリカの狩猟採集民のように、のんびりくらしていたかは疑問が残る、と著者たちはいいます。あくせくと宝物を貯めている貪欲なカリフォルニア北西部の狩猟採集民もいるからです。
 初源の世界はもっと多様でありえます。著者たちがいうように「人類は、農業に手を染める以前に、何万年もかけてさまざまな生活様式を実験してきた」というあたりが真相でしょう。
 ルイジアナ州にはポヴァティ・ポイントと呼ばれる場所があります。ここでは紀元前1600年ごろにネイティヴ・アメリカンがつくった巨大な土塁跡を見ることができます。ミシシッピ川流域に残された古代文明の痕跡で、大きさはおよそ200ヘクタールです。
 ポヴァティ・ポイントには北は五大湖、南はメキシコ湾から物資が流れこんでいました。この円形劇場のような集落をつくった人びとは農耕民ではなく、ミシシッピ川流域の野生資源を利用する狩猟採集民でした。
 そこには膨大な量の石器や武器、貴石が残されており、その原料はどこからかもってこられたものでした。多くの財が集まっていたはずです。巨大なモニュメントの痕跡は、ここに集まっていた人の知のかたちを示しています。しかし、この場所で盛んな交易がおこなわれていた形跡はないといいます。
 日本の三内丸山遺跡には、紀元前4000年ごろから紀元前2200年ごろまでの狩猟採集民の痕跡が残されています。三内丸山は農耕文化以前の巨大な村落跡ですが、「総じて忘れ去られていた農耕文化以前の日本の社会史が、主に大量のデータと国家遺産のアーカイヴを通して、いままさによみがえろうとしている」と、著者は記しています。
 ヨーロッパにも巨大遺跡が残っています。たとえば、バルト海北部、スウェーデンとフィンランドに囲まれたボスニア湾の奥には「巨人の教会」と呼ばれる大きな石垣が残されています。紀元前3000年から紀元前2000年ごろの狩猟採集民の遺跡です。中央ウラル山脈東斜面の「シギルの偶像」、カレリアの遺跡、それに何といっても有名なのが、イギリスのストーンヘンジですね。
 こうした遺跡は狩猟採集民のイメージを変えました。とはいえ、その背後にある政治システムがどのようなものであったかは、ほとんどわかっていません。いまでも狩猟採集民は未熟で素朴だったという神話が生き残っているのです。
 ヨーロッパ人は先住民から土地を横領しました。先住民が狩猟や採集のために管理し使用していた土地は無権利の空き地とみなされ、略奪されたのです。その根拠とされたのが、先住民は未開人だとする考え方です。
 フロリダ西海岸にはカルーサ族の「王国」がありました。もちろん王がいました。住民の食生活は魚や貝がメインで、ほかにシカやアライグマ、さまざまな鳥類が食されていました。王国は沿岸の漁場を支配し、運河や人工池をもち、軍用カヌーを保持して、近隣から加工食品や皮、武器、琥珀、金属、奴隷などを徴収していました。
 ミシシッピ川下流域にはナチェズ族の「王国」があり、ナチェズの太陽王が君臨していました。しかし、王の権力はきわめて制限されたもので、その範囲はほとんど王家の村に限定され、王が命令しても平気で無視されることもあったといいます。
ヨーロッパ人は、こうした未開人の「王国」を次々につぶしていきます。
 豊かな狩猟採集民を例外的な存在だとする考え方がいまも根強く残っている、と著者たちはくり返します。いまではたしかに狩猟採集民は辺境の地にくらしています。しかし、かれらは奥地に追いやられたのであって、1万年前はそうではありませんでした。
「だれもが狩猟採集者であったし、……狩猟採集民は好きな場所に自由に住むことができた」のです。
 農耕がはじまる前、人類はブッシュマンのような生活をしていたという考え方は捨てるべきだ、と著者たちはいいます。

〈[氷河の後退した直後の時代]そこでは、資源の豊富な海岸、河口、河川流域に沿って多数のあたらしい社会が形成されはじめ、大規模でしばしば常設の居住地に集まり、まったくあたらしい産業を生みだし、数学的原理にもとづいてモニュメントが建造され、地域特有の料理が発展していた……〉

 王宮や常備軍もあったし、建造物や大きな土塁、運河なども築かれていた。交易もさかんにおこなわれていたにちがいありません。
 ここで、著者たちは私的所有の起源について考えます。私的所有の根源にあるのは、排除の構造です。その対象は、特定の生きている人間にとって不可侵のものとされます。それは権利や自由と結びつき、ヨーロッパの近代思想をつくりあげます。
 アメリカの先住民社会では、こうした私的所有の考え方はきわめて異質なものでした。人に見せてはいけない聖物はありました。とはいえ、土地や天然資源の所有者は神々や精霊であり、人間はせいぜいそれを管理して恩恵にあずかるものと考えられていました。
 しかし、所有者がいなかったわけではないのです。湖や山、木立や動植物など、身の回りのものにはすべてオーナーがいるのです。共同体にくらす先住民は、それぞれがオーナーとして、身の回りの土地や産物を守り、ケアする義務を負っています。それは自己の所有物なら、意のままに破壊し、改造してもよいというローマ法の所有概念とはことなっていた、と著者たちはいいます。
 人類にとって、所有権は、不可侵なるもの(聖なるもの)と同じくらい、古くからある観念です。したがって、問題は私的所有がいつからはじまったからではなく、それがどのような内容のものであったかということだ、と著者たちは指摘します。

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『万物の黎明』を読む(3) [商品世界ファイル]

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 人類の起源は神話に彩られているが、それは後世の物語だ、と著者たちは書いています。先史時代の存在が確認されたのは、1858年にイギリスのデヴォン州の洞窟で、明らかに人がつくったとしか思えない石斧が発見されたときからでした。
 1980年代には「ミトコンドリア・イヴ」が話題になりました。このミトコンドリアをもつ12万年前(16万年±4万年)の女性こそが現代人の共通の祖先とされます。しかし、人類の生物学的祖先はほかにも数多く存在したはずです。初期人類の頭蓋骨や、かれらが用いた打製石器はいまでも時折発見されますが、かれらがどのような姿をし、どのような生活をしていたかは、ほとんどわかっていないといいます。
「おそらく確実にいえるのは、祖先をたどれば、われわれはみなアフリカ人だということのみである」
 およそ20万年前に誕生したホモ・サピエンスがアフリカを出たのは、およそ7万年前で、4万5000年前にヨーロッパに到着したと推定されます。
ヨーロッパでは約4万年前に先行人類であるネアンデルタール人が絶滅します。ホモ・サピエンスはネアンデルタール人と共生し、まれに交配していました。ネアンデルタール人が絶滅した理由は、氷床が移動し、ヨーロッパが苛酷な環境に見舞われたためだ、と著者たちはみています。
 考古学では、5万年前から1万5000年前の時代を後期旧石器時代と呼んでいます。気候的にみれば氷期です。そのころの人類ははたして平等主義的な狩猟採集民のバンド(小集団)を組んでいたのでしょうか。これには異論もでているようです。すでにヒエラルキーがあったのではないか。
 ヨーロッパでは3万年ほど前の、個人または小集団の埋葬場がいくつもみつかっています。遺体は目立つ姿勢で置かれ、豪華な装飾品で飾られています。なかには王族と見紛うものもありました。
さらに、トルコ南東部のギョベクリ・テペと呼ばれる場所では、200本以上の石柱がみつかり、ここには石造神殿があったのではないかといわれています。
 ギョベクリ・テペだけではありません。ヨーロッパ東部でも2万5000年前から1万2000年ほど前の大きなモニュメントが見つかっており、そこではマンモスの肉が保存されたと思われる形跡があります。そうした集落は、琥珀や貝殻、動物の毛皮を交易する中心地となっていました。
 こうした遺跡をみると、農耕のはじまる数千年前から、人類社会は権力や身分、階級によって分断されていたのではないかという説もでるようになりました。
だが、そうした説はあやまりだ、と著者たちは断言します。身分制や国家のきざしは見当たらないといいます。
 狩猟採集民を劣った人類だとする偏見はいまだに根強いし、初期の人類はチンパンジーに近いという見方をする人もいます。
しかし、かれらが現代人と同じように「懐疑的で、想像力に富み、思慮深く、批判的分析ができる」人たちであったことは明らかだ、と著者はいいます。もっとも、その社会では、変わり者がリーダーに選ばれることもまれではなかったし、異端児の預言者もいたといいます。
 レヴィストロースは初期の人類がわれわれと同様の知をもっていることを認識した数少ない人類学者でした。かれはブラジルの少数民族ナンビクワラと接し、その社会がすぐれた首長のもとで村落を営んでいることをリポートしました。
その後の人類学は、アフリカの狩猟採集民の生活を記録することを通じて、狩猟採集民の生活を社会的発展の一段階として位置づけるようになります。しかし、著者たちは、かれらは現代に生きる人びとであって、「過去の時代への直接の手がかりを与えてくれることはない」と論じています。
 そこで、後期旧石器時代の豪華な副葬品をともなった埋葬に話が戻ります。ある場所では異常に背の低い人物が埋葬されていました。別の場所では、当時からすれば巨人とみられる、きわめて高身長の人物が埋葬されていました。
 そうしたことをみれば、最終氷期の後期旧石器時代にはすでに世襲エリートが存在したという結論は単純に導けないといいます。
当時、着衣のまま遺体を埋葬することは、きわめて異例でした。かれらは世襲貴族だからではなく、むしろ「非凡」で極端だったからこそ、そんなふうに丁寧に埋葬されたのではないかというのが、著者たちの見解です。
 旧石器時代の遺跡には、季節ごとによる集合と分散の形跡がみられます。そのことは獲物の群れの移動や、周期的な魚の捕獲、木の実の採集に関係していました。
季節ごとに分散したり集まったりしながら、「人びとは豊富な野生資源を利用して、宴を催したり、複雑な儀礼や野心的な芸術プロジェクトに取り組んだり、鉱物や貝殻、毛皮などを取引したりしていた」のです。
 トルコのギョベクリ・テベの神殿も、大猟(大漁)豊作の宴が開かれた場所と考えられます。
時代はずっとあとになりますが(紀元前三千年紀)、イギリスのストーンヘンジも一連の儀式用の建造物だったと思われます。ストーンヘンジには一年の大事な時期(たとえば夏至や冬至)にブリテン諸島一円から大勢の人びとが集まってきて、宴を開き、祈りをささげていました。しかし、そこには恒常的な王国は存在しませんでした。
 著者たちによると、ここで、注目すべきは、レヴィストロースが、ブラジルのナンビクワラ族が季節ごとに異なる社会を組織していることを見抜いていたことだといいます。
イヌイットも夏と冬では異なる社会構造のなかで生活していました。夏のイヌイットは長老の専制的支配のもとで行動します。しかし冬のイヌイットは大きな集会所のもとで平等な集団生活を送るのです。
 カナダ北西部のクワキトル族の場合は、冬に世襲貴族が登場し、裁きがおこなわれ、ポトラッチと呼ばれる大宴会が開かれます。しかし、夏の漁期になると、貴族の板張り宮殿は解体され、社会は小さなクラン単位に戻っていきます。
 アメリカのグレートプレーンズの諸部族を研究したロバート・ローウィも同じような結論に達しています。狩猟シーズンに一時的につくられた権威は、季節が終わるとアナーキーな状況に戻っていくというのです。
グレートプレーンズの先住民は、権威主義的権力の可能性と危険性を認識していた、と著者たちはいいます。儀礼の季節が終わると、権力は解体されただけではありません。毎年、どのクランが権力を行使できるかは、順番によって決められていました。
 固定的な政治組織や社会秩序はつくられませんでした。制度はあくまでも柔軟なものであって、旧石器時代の人類は国家なき社会のなかでくらしていた、と著者たちはいいます。
「国家なき社会の人びとは、政治的自己意識にかけて、現代人より劣っていたどころか、現代人よりはるかに高かった」
 そう唱えたのはフランスの人類学者ピエール・クラストルですが、著者たちも同じ見解に達しています。そこでは国家なき社会が自覚的に組織されています。先史時代の人びとは固定された政治支配がなされないようにするために、細心の政治的配慮を払っていたというのです。
 政治的支配は一時的なものでした。しかも、それには単一のパターンがなかったことも指摘されています。政治的支配は夏場だけのこともあるし、儀礼のときだけのこともあるし、また男性と女性が月替わりで支配することもあるというのです。
ヒエラルキーはこんなふうに定期的に構築されたり解体されたりしていました。
 先史時代の人びとは「無知な未開人でもなければ、賢明なる自然の子でもない」、「かれらはわたしたちとおなじ人間であり、おなじように鋭敏で、おなじように混乱している」と、著者たちはあらためて論じます。
しかし、その最も賢いはずのホモ・サピエンスが、なぜ永続的で不平等な政治システムを根づかせてしまったのでしょうか。著者たちにとっては、それこそが問題でした。

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『万物の黎明』を読む(2) [商品世界ファイル]

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 ヨーロッパ中心主義が生まれたのは15世紀後半にポルトガルの艦隊がインド洋に進出し、スペインがアメリカ大陸を征服するようになってからだといいます。
 ヨーロッパ人の入植者はアメリカ先住民と接するなかで、かれらから多くの批判を受け、それによってヨーロッパの自画像の点検を迫られるようになった、と著者たちは指摘しています。ヨーロッパにおいて、社会的不平等がなぜ生まれたのかという問いもそのひとつです。
 アメリカの征服はキリスト教の名のもとに正当化されました。しかし、先住民と接するなかから、ヨーロッパ人は、人間の本来の姿は自由と平等なのだという考え方をいだくようになったというのです。このあたりの展開は、逆転の思想史ですね。
 そんなことはありえないと思う人たちに、著者たちは初期の宣教師や旅行者の記録を紹介します。かれらはヌーベルフランスと呼ばれていた五大湖周辺で活動し、アメリカ先住民と接触していました。
 異なる言語をもつ部族に分かれた先住民は、河川の流域に住み、トウモロコシやカボチャ、マメなどを収穫していました。採集や農耕はどちらも女性の役割で、男たちは狩猟と戦争に従事していたといいます。
 16世紀に入植したフランス人は砦を築き、先住民を「未開人」とみなしました。しかし、「未開人」のほうはというと、精神的に豊かである自分たちとちがって、ヨーロッパ人は貪欲で争ってばかりいる盗人や詐欺師のような存在だととらえていたというのです。17世紀のフランス人宣教師がそんなふうに証言しているそうです。
 本書には、当時のイエズス会宣教師の記録が延々と紹介されていますが、ここで強調されるのは、アメリカ先住民のほうがヨーロッパ人よりもよほど自由だったということです。首長との関係も対等で、司法もゆるやかでした。肉体はわがものであり、性の自由も享受されていました。
 その統治もよほど民主的でした。集会ではオープンな政治的討議と、雄弁で理性的な議論が展開され、恣意的な権力は拒否されました。ヨーロッパの啓蒙主義は、むしろこうした先住民の思想から学び、それを受け継いだものだ、と著者たちは考えているようです。
 ヨーロッパにくらべ、アメリカ先住民の社会はよほど自由で平等で、思いやりがあり、自立的でした。
 次に紹介されるのが、18世紀はじめにフランスのラオンタン男爵が残したウェンダット連邦の政治家カンディアロンクとの対話記録です。ウェンダット連邦は、イロコイ語を話す4部族の集合した共同体で、アメリカ五大湖周辺にありました。ヒューロン連合とも呼ばれています。
 雄弁家のカンディアロンクはラオンタン男爵に向かって、ヨーロッパ人の欠点を鋭く指摘します。ヨーロッパ人は諍(いさか)いに明け暮れ、助けあいの精神を欠き、権力に盲目的に服従するというのです。
尊大な宗教と懲罰的な法律で人を縛りつけるいっぽう、カネもうけに必死なのがヨーロッパ人だ。「利益追求に動かされた人間は、理性ある人間たりえない」と、先住民のカンディアロンクは断言します。
 ヨーロッパ文明のほうが、よほど非人間的なようにみえます。
 しかし、カンディアロンクのこうした見方にたいして、経済学者のテュルゴーは反論します。
 未開人の自由と平等は、かれらの優越性を示しているのではなく、むしろ劣等性のあらわれなのだ。かれらは自給自足していて、平等に貧しい。社会が発展してくれば、分業が進み、技術が進歩して、貧富の差があらわれるものだ、と。
 さらにテュルゴーは、狩猟から牧畜、農耕をへて、都市商業文明にいたる社会進化論を唱えました。
 ルソーの『人間不平等起源論』は、ヨーロッパでこうした社会進化論が盛んな時代に発表されたといいます。だからこそ、衝撃的でもあったわけです。ルソーは、もともと自然状態にあった人間が、文明が発達し、私的所有が一般化するとともに、競争と不平等のなかで寛大さを失っていったと論じます。
 フランス革命後、保守派の論客は、革命的テロルと全体主義をもたらしたとして、ルソーを非難します。かれらからみれば、ルソーこそが左翼的知識人のはじまりでした。
さらに、かれらは、ルソーの考え方の根拠には「愚かな未開人」を「高貴な未開人」ととらえるばかげた発想があると糾弾します。
 著者たちは、ルソーか反ルソーかといった論争には興味がないと言っています。また、きわめて多義的な「平等主義」という概念をめぐって、あれこれと論じるつもりもないとしています。「平等」の観念は、人類の歴史においては、ごく最近になって登場したものなのです。
 著者たちも「この世界がひどくまちがってしまった」という意識を濃厚にもっています。それでも問われていることは、人類の初期状態をできるだけ明確にとらえなおすことです。

〈考古学、人類学、および関連分野が蓄積してきた証拠は、以下のことを示唆している。先史時代の人びとは、自分たちの社会でなにが重要なのかきわめて具体的な考えをもっていたということ。そうした考えはきわめて多様であったこと。そしてそのような社会を一様に「平等主義的」と表現しても、それらの社会についてなにもわからないということ。〉

 こうした前提にたって、著者たちは旧石器時代以降の人類史を再検討していくことになります。

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『万物の黎明』を読む(1) [商品世界ファイル]

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 人類学者デヴィッド・グレーバーと考古学者デヴィッド・ウェングロウによる大著。グレーバーにとっては、これが遺著となりました。「人類史を根本からくつがえす」という日本語のサブタイトルがついていますが、原著のサブタイトル「新しい人類史」と、もう少し控えめです。さらに3巻が予定されていました。しかし、グレーバーの急死によって、その構想は突然、中断されてしまいます。
「人類史のほとんどは、手の施しようもなく、闇に埋もれてしまっている」というのが、本書の書き出しです。ホモ・サピエンスは少なくとも20万年前に登場したといわれていますが、そのかん現在までに何がおこったのか、われわれが知っているのは、人類の痕跡や記録の残るごくわずかの時期についてです。
 すべてのものごとは先史時代にはじまったといわれれば、たしかにそのとおりでしょう。
 キリスト教は、かつて楽園にくらしていた人間が原罪によって汚染され、堕落したという構図をえがきます。ルソーも1754年の『人間不平等起源論』で、かつては平等だった人間が、文明と国家の誕生とともに、しだいに不平等になっていったと論じます。これとは逆にホッブズは1651年の『リヴァイアサン』で、人間はもともと万人が激しく争いあっていたが、これが収まったのは国家が生まれたからだと主張しました。
 著者たちは、キリスト教やルソー、ホッブズなどにみられる先史時代のイメージを取り除くことからスタートします。なぜなら、そうしたイメージは真実ではないばかりか、退屈でもあり、また何らかの政治的意図を秘めているからだといいます。
 20万年前までさかのぼるのは無理としても、およそ過去3万年前から人類社会がどのように発展してきたかについては、近年の考古学や人類学が新たな証拠を提供してくれているようです。そこからは、従来の歴史観にたいするさまざまな疑問がわきあがってきます。
 農耕開始以前の狩猟採集民は、はたしてどのようなくらしをしていたのか。農耕のはじまりが、身分やヒエラルキーをもたらしたというのはほんとうか。都市には階級的区分があったのか。農耕社会には権威主義的な統治者が存在したのか。
 最近の研究は、こうした問題にたいして、従来のイメージとはずいぶんちがった像を浮かびあがらせるというのです。
 のんびり読んでみることにします。
 先史時代の姿を知るには、先史時代を遅れた社会と決めつける偏見を取り除くことがだいじだといいます。最初から人間を利己的なものと規定したり、人間社会は平等なものであるべきだと想定したりすることも、やめたほうがいい。むしろ「人間を、その発端から、想像力に富み、知的で、遊び心のある生き物として扱ってみたらどうだろうか」。
 狩猟採集民の世界といえば、たかだか数十人の小集団(バンド)からできていて、人びとは平等だが貧弱な生活を送っていたという見方が一般的です。いっぽう、農耕社会になると部族のなかから首長が誕生し、ヒエラルキーができるとともに、人類は自然状態から脱しはじめるととらえられることが多い。だが、これは裏づけのない思い込みではないか。
 じっさい、それはルソー自身が認めているように、ひとつの仮説にすぎなかったのです。
 先史時代の人たちがどのようにくらしていたかは、じつはほとんどわかっていません。
 アルプスで発見された、紀元前3350〜3110年あたりと推定される、いわゆる「アイスマン」の遺体には脇腹に矢が刺さっていました。明らかに暴力の痕跡です。
 これにたいし、カラブリア(イタリア南部)の洞窟で発見された「ロミート2」と称される約1万年前の成人遺体は、かれが障碍者であったにもかかわらず、集団からだいじにケアされ、育てられてきたことを示しています。
 このふたつの例は、先史時代について、まったく逆のイメージを呼び起こします。
 現在もアマゾンの熱帯雨林でくらすヤノマミは、民族学者のシャグノンによって、「獰猛な人びと」というイメージを植えつけられ、未開人の典型と決めつけられました。さらに、ここには、ホッブズの原理(万人の万人にたいする戦い)が生きているとされたのです。
しかし、ヤノマミについても、まったく逆の証拠もあがっています。ヤノマミは「悪魔でもなければ、天使でもない」ごくふつうの人たちなのです。
 著者たちは、西洋文明がいかにすぐれているかという思い込みにもとづいて、いわゆる未開文明をみるのはやめたほうがいいと考えているようです。むしろ逆なのではないか。

〈先住民の生活は、きわめてラフにいうと、「西洋」の町や都市での生活よりもずっと人をわくわくさせるものであったような印象を受ける。〉

 貧弱な歴史から決別しなければならないといいます。
 人には交換性向があり、人間社会には市場がつきものだという考えもそのひとつです。市場経済がなくても、物品が長距離移動することができるのは、マリノフスキ−の民族誌が証明しています。財の交換はあります。しかし、それは交易とは似ても似つかぬものでした。
 夢でみた物品を求めて旅にでることや、呪術師や治療師としてのわざを磨くために村々を訪れること、女たちが集まり身の回りの装飾品を賭けてギャンブルに興じることも頻繁におこなわれていました。
 こう書かれています。

〈本書で、著者たちは、人類のあたらしい歴史を提示するだけでなく、読者をあたらしい歴史学に招待したいと考えている。わたしたちの祖先に[未熟ではなく]完全なる人間性を復権させる、そのような歴史学である。〉

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