サーリンズ『石器時代の経済学』 を読む(1) [商品世界ファイル]
長いあいだ、本棚に並ぶままになっていた本です。そのまま積み残しておいてもよかったのですが、目を通す最後のチャンスだと思うようになりました。
一概に石器時代といっても、その歴史は長く、後期旧石器時代から新石器時代までみても、少なくとも1万年近い歴史があります。その世界的な広がりを時代を追って記述するのは、考古学の研究が進んだといえ、まず不可能といえるでしょう。
そこで人類学による研究が想像力をかきたてます。石器時代といえば、農業がはじまる前の狩猟採集社会です。もちろん、歴史は残っていません。しかし、現在も狩猟採集を主な生活手段としている民族は残っています。だとすれば、かれらの生活を観察すれば、人類の初源は無理としても、少なくとも文字の残されていない先史時代の状況を理解する手がかりが見えてくるのではないか。石器時代の経済は、現在もわずかに残存する狩猟採集社会の経済を解明することで、多少なりとも明らかになってくるのではないか。そういう理屈が成り立ちます。
本書は6章と3つの補遺(補論)で成り立っています。
第1章 始原のあふれる社会
第2章 家族制生産様式──過少生産構造
第3章 家族制生産様式──生産の強化
第4章 贈与の霊
第5章 未開交換の社会学
第6章 交換価値と未開交易の外交術
補遺
目次をみるだけでもむずかしそうですが、わかる部分だけでもつまみ読みたいというのが、当方の希望です。途中で挫折する可能性もありますし、内容も保証しませんので、その点はご承知おきください。
まずは第1章からはじめましょう。
われわれは石器時代の生活は過酷だったという印象をもっています。常に自然の脅威にさらされ、貧しくて、絶え間なく働かねばならず、余暇さえないというように。しかし、このイメージはまちがっている、と著者はいいます。
「ごく低い生活水準でも、比類のない物質的潤沢さを享受できる」──それが石器時代、少なくとも狩猟採集社会のくらしだというのです。
なぜ狩猟採集民は、不断の食物探しに追われ、生存ぎりぎりの生活を送っていると思われているのでしょうか。それはオーストラリアや南アメリカの狩猟民にたいする観察から得られたものです。
物質的にみれば、狩猟民はたしかに貧しいかもしれません。しかし、時間に追われ、ものを買うために毎日必死で働いて稼がなければならないわれわれの生活のほうが、ひょっとしたら精神的に貧しいのではないか、と著者は問いを発します。
ある進化論的な人類学者は、狩猟民は「生きるために、耕作民や牧畜民よりも、はるかにはげしく働かねばならない」と書いています。さらに南部アフリカのブッシュマンを観察した研究者は、かれらが絶望的な経済状態にあり、食物不足に悩み、餓えに苦しんでいるといいます。
しかし、著者にいわせれば、「現存する食物採取民は……旧石器時代の原権を剥奪され、その生産様式に向かない限界的な生息地にすむ人々」なのです。ブッシュマンもはじめから砂漠地帯に住んでいたわけではありません。ヨーロッパ人によって、自然資源の豊かな場所から追い払われたのです。
たとえカラハリ砂漠に住んでいても、ブッシュマンは「ある種の物質的潤沢さ」のなかで生活しているととらえる人もいます。ほかの狩猟採集民も同じですが、かれらは周辺に豊富な生活資材をもっていて、それで家や器具、衣服、武器などをたくみにつくって生活しているというのです。よけいなものがないので、移動するのも簡単です。
〈狩猟=採集民は、何ももたないから貧乏だと、われわれは考えがちである。むしろそのゆえに彼らは自由なのだと、考えた方がよいだろう。〉
著者はそんなふうにいいます。ものや流行や情報を追い求めて、商品世界にがんじがらめになって生活する現代人とは大いに異なります。
狩猟採集民は生活を維持するために絶え間なく働かねばならないというのは、一種の神話だといいます。実際、ブッシュマンをみても、「たえまのない労働どころか、食物探しは断続的であり、余暇は豊富にあり、他のどんな社会状況でよりも、年間一人当りの日中の睡眠量は多い」のです。
オーストラリアのアボリジニの一日平均労働時間も、4、5時間にすぎません。しかも断続的です。食物がたくさん採れたら、翌日は休み。植物の実にせよ、魚にせよ、ミツバチの蜜にせよ、食料は豊富で、栄養状態はじゅうぶんです。残りの時間はおしゃべりや余暇や休息ですごします。
こうした状況は、アフリカでもオーストラリアでも同じで、狩猟採集民に共通しています。
タンザニアのセレンゲティに住むハザ族も、獲物の動物や季節ごとの植物に恵まれて、長いあいだ安楽な暮らしをつづけてきました。食物獲得に費やされる時間は一日平均2時間くらいだったといいます。周辺はすでに農耕民に取り囲まれていましたが、わざわざ苦労して農業を営む必要もなかったのです。
ハザ族は例外とみえるかもしれません。なぜなら、狩猟採集民のイメージは、食料を求めてキャンプ地を次から次へと移動しているかのように思えるからです。
しかし、多くの観察によると、狩猟採集民の移動はのんびりしたものだったようです。周辺に食物資源がなくなると、かれらがキャンプ地を放棄するのはたしかですが、この放浪を飢餓からの逃走と考えるのはまちがいだ、と著者はいいます。「彼らの漂泊は、不安なものであるどころか、テームズ河にピクニックにでもゆくような、物見遊山気分なのである」
狩猟採集民については、将来への洞察力がないとか、浪費癖があるとか、非理性的だとか、さまざまな欠陥が指摘されてきました。しかし、狩猟採集民は常に楽観的です。
かれらにとって、貯蔵はよけいなことにすぎない、と著者はいいます。貯蔵には過剰な労力を用いなければならず、自然の資源を使い果たしてしまうおそれもあり、怠け癖を促す傾向もあり、また移動の妨げにもなります。食物の蓄えが底をついても何とかなるという楽観主義がかれらには備わっているのです。
豊かさのなかの貧困ではなく、貧困のなかの豊かさ、これこそが狩猟採集社会を言いあらわすことばです。
問題は労働生産性の低さではありません。働きすぎると食物資源がなくなってしまうのです。そのため狩猟採集民の経済には移動が不可欠になります。
道具、衣類、装身具などはありすぎると重荷になります。狩猟採集民にとって重要なのは可動性です。そのことは、人口の制限にもつながってきます。
前にも述べたように狩猟採集民の労働時間は1日3、4時間で、未開農耕民よりはるかに少ない。むしろ、農耕時代の到来とともに、人びとはいっそうはげしく労働しなければならなかったといいます。きわめて逆説的なことですが、「(一人当りの)労働量は、文化の進化につれて増大し、余暇量は減少した」のです。
現代の辺境にある狩猟民はともかくとして、先史時代の狩猟民が食料不足に見舞われることはまずなかった、と著者はいいます。その意味では、むしろ現代こそが前代未聞の餓えの世紀なのです。
〈狩猟=採集民の生活は、その情況にせまられて、やむなく客観的に低い生活水準にとどまっている。しかし、それが彼らの目標なのであり、しかも適切な生産手段もあたえられているので、すべての人々の物質的欲求は、ふつうたやすく充足されている。〉
狩猟採集の生活が惨めだという発想を一新しなければならない、と著者は述べています。
ぼくもだんだん社会の外にはみだしつつありますが、のんびり読んでいきましょう。
ふたたび北アメリカの先史社会について──『万物の黎明』を読む(12) [商品世界ファイル]
この本は、17世紀終わりに侵略的なヨーロッパ人が、五大湖周辺に住むウェンダット族のカンディアロンクからその非文明ぶりを批判されたところからはじまりました。金銭への貪欲さ、女性蔑視、自由のなさなど、そこでくり返された批判が、18世紀の啓蒙主義を生みだしたのだという大胆な仮説からは、西洋諸国とアメリカ先住民の連合のどちらが文明的かわかったものではないという感慨がわいてきます。
さらに、著者たちは人類史を進化論的に説明する方法が、現在の近代化モデルこそ人類進化の成果だとする思い込みをもたらしているのではないかと指摘します。「歴史は本当にある方向に進行する必然性をもっているのか」。はたして先史社会は幼稚で貧しく、現代社会は高度で豊かなのでしょうか。内実をみると、じつはその逆なのではないか。本書を読み進めると、そんな思いもあふれてきます。
最後の章で、著者たちはふたたびヨーロッパ人がやってくる前の北アメリカ文明(それはもちろんアメリカとは呼ばれていなかったのですが)に焦点をあてています。
北アメリカには5つの異なる語族がいて、何百もの言語が話されていました。そのコミュニティには、クマとかオオカミとかタカとかの名をもつ、クラン(氏族)がはいりこんでいました。こうしたクランは外交や儀礼で重要な役割をはたし、いくつものコミュニティを結びつけていたのです。
北アメリカでそうした地域間の活発な結びつきが存在した場所として挙げられるのが、オハイオ州の「ホープウェル交流圏」です。ここでは紀元前100年ごろから紀元500年ごろにかけて、文明が栄えていました。その遺跡からは、水晶の矢じり、アパラチア山脈の雲母や黒曜石、五大湖の銅や銀、メキシコ湾のホラ貝やサメの歯、ロッキー山脈のハイイログマの臼歯、隕石の鉄、ワニの歯、オニカマスの顎などが発掘されているといいます。儀礼用の道具や豪華な衣装、金属製の鏡などもみつかり、何らかの祭祀がおこなわれていたようです。
大きな土塁もつくられ、精巧な土木技術があったことがうかがえます。こうした土塁の場所には、特別の儀礼(シャーマンの儀礼や亡き英雄を称える儀式)が開かれるときに遠方からも多くの人が集まっていたのです。現在は世界遺産になっています。
ホープウェルは川に囲まれた肥沃な地ですが、住民たちはほとんどトウモロコシを栽培せず、高台に住んで、狩猟や釣り、少量の野菜栽培をしてくらしていました。おなじみの「遊戯農耕」です。戦争や暴力の形跡はみつからないとのことです。
イメージにあふれたすぐれた芸術が残されています。動物の彫像が施されたパイプ、すぐれたデザインの焼成土器、胸当て用の銅版などです。シャーマンの儀礼に用いられた作品も見つかっています。
ホープウェルの特徴は単一の首都がないことです。祭司やエリートがいた証拠もありません。その墓にはトーテム動物の断片がペンダントやジュエリーに加工されて納められていました。
ホープウェルには「白」と「赤」のクランがいて、それぞれが別の役割を担当していました。
ホープウェル交流圏が衰退したあと、紀元400年から800年にかけて、トウモロコシを主食とし栽培するグループがあらわれます。武力による抗争も頻発します。ミシシッピ川の流域に、土製ピラミッドや広場を中心とする小さな町が出現します。なかには要塞化した町もありました。
そうした町のひとつがカホキアで、カホキアはまもなくメキシコ以北の北アメリカ大陸で最大の都市になっていきます。
イリノイ州のカホキアは「アメリカン・ボトム」と呼ばれるミシシッピ川氾濫原に位置しています。トウモロコシ栽培に適した場所ですが、沼沢地のため住みにくい場所だといいます。それにもかかわらず、ここでは大工事がおこなわれ、巨大なマウンドがつくられました。チャンキーなどのスポーツがおこなわれ、それが次第に観戦スポーツ化してきたことがわかっています。
カホキアは1050年ごろ15平方キロの都市となり、4万人ほどの人が住んでいて、広場を囲むように100基以上のマウンドがつくられ、その上には神殿や宮殿、納骨堂、発汗小屋などが建てられていました。ここも現在、世界遺産となっています。
マウンドのなかでも巨大なのが「モンクス・マウンド」と呼ばれる土製ピラミッドで、支配エリートたちはその頂上から、居住ゾーンを監視していたのです。バードマンのイメージが残されています。
強大な王権が成立したカホキアは、しかし、その後100年から200年のあいだに崩壊していきます。民衆はより自由な生活を求めて、別の場所に移っていったのです。
カホキアが崩壊したあと、ミシシッピ川中流やその支流地域には、いくつもの小王国が誕生しました。その王制は不安定です。むしろ町の外部で、より平等な共同生活が営まれるようになっていました。
ヨーロッパ人がやってきたころ、ミシシッピ世界では、小王国もなくなり、マウンドやピラミッドを建造する慣習もなくなり、大草原(プレーリー)の周縁で、移動しながらくらす人びとが増えていました。町を形成したとしても、せいぜい数百人から数千人程度の小規模なもので、平等主義的に運営されていたのが特徴です。
16世紀後半から18世紀後半にかけてのアメリカ植民地時代には、南東部にチェロキー、チカソー、チョクトー、クリーク、セミノールの5部族がいたことが知られています。それらの部族は全員が平等に発言できる共同評議会によって統治され、合意にもとづいて運営されていました。とはいえ、祭司もいて王族の痕跡もあり、カーストもあったことは事実です。祭司と民衆のあいだには時に紛争も生じています。
先住民の世界には、天文学や神話、数秘術、数学、工学などの知があり、さらに人間労働を組織し、監督する技術がありました。そして、それらは刷新され、伝達されていました。
グレートプレーンズに住むオーセージ族は、ミシシッピ文化を受け継ぐ人びとであり、ミズーリ川の戦略的位置を活用し、フランスと同盟を結び、1678年から1803年まで交易帝国のようなものを築いていました。
かれらは2000人規模の村落をもち、夏と冬のキャンプ地を往復していました。村落はふたつの半族と24のクランによって構成されており、クランから少なくともひとりが代表として儀式に出席しなければならない決まりでした。
オーセージには独自の宇宙モデルと寓話が伝えられています。祈りと儀式があり、連日のように会議が開かれ、議論が重ねられて、さまざまな決定がなされていたのです。
ここで著者たちが強調するのは、先住民が個人の自由、相互扶助、政治的平等を体現し、まさに反権威主義的な歴史を築いてきたことです。そして、かれらはその哲学によって、ヨーロッパ人の所業を批判していました。
16世紀後半から17世紀初頭にかけ、五大湖周辺にくらしていたイロコイ語族は、ウェンダット(ヒューロン)、ホデノショニ(ファイブ・ネーションズ=イロコイ同盟)、ニュートラル(フランス人による呼称、自称アッティワンダロンク)に分裂していました。
しかし、17世紀後半になると、イロコイ語族は衰退し、ちりじりになって不安定な生活を送るようになります。本書で何度も登場するウェンダットのカンディアロンクはかつてのイロコイ連邦の復活をめざしていたのでした。
19世紀になって口承資料がまとめられたとき、わずかに残っていたのはホデノショニの叙事詩だけでした。それは社会秩序が崩壊し、権力者が文字通り人食い人種になってしまった世界に、ピースメーカーがあらわれる物語でした。
著者たちは、アメリカ先住民は国家が登場するのを阻止するような政治システムを構築しようとしていたのだとさえ評しています。
イロコイ語族が連邦を形成するのは12世紀ごろから17世紀半ばにかけてです。そのころはトウモロコシやマメ、カボチャが栽培されていました。しかし、イロコイはそうした栽培植物に片寄ることなく、それまでの伝統である狩猟や漁撈、採集に力を入れながら、ロングハウスと呼ばれる家をつくり、町を築いていたのでした。
ミシシッピ人との交易もおこなわれていました。とくに16世紀からはミシシッピ文化の影響が高まったといわれます。信仰にかかわるさまざまな物品や儀式用の装飾品、チャンキーストーン、シェルビーズなどがみつかっています。
いずれにせよ、イロコイの伝説的マザー、ジゴンサシーや英雄ツォーハリセンの時代は遠くに消え去っていきました。そして、フランスの支配がはじまります。残ったのは王権や国家への道を選ばず、個人の自由をとりわけ重視したイロコイの思想だった、と著者たちは論じています。
こんな一節もあります。
〈人類史のなかで、なにかがひどくまちがっていたとしたら──そして点在の世界の状況を考えるならば、そうでないとみなすのはむずかしいのだが──、おそらくそのまちがいは、人びとが異なる諸形態の社会のありようを想像したり実現したりする自由を失いはじめたときからはじまったのではないか。〉
現在まわりを見渡すと、世の中がどんどん進化して、いまのようなすばらしい世界ができあがったと手放しで喜べる状況にないことは、あきらかです。むしろ、われわれはどうしようもない閉塞状態に置かれ、日々あがいているようにみえます。
懐疑主義やニヒリズムにおちいるのもいたしかたありません。
〈すくなくともしばらくのあいだは、ほとんどなにも変わらないだろう。これはまちがいない。……[だが]わたしたちは楽観主義者である。そうなるのに、さして時間はかからないと考えている。事実、わたしたちはすでに最初の一歩をふみだしている。〉
本書の「結論」に記されたことばです。
国家と王権のはじまり(2)──『万物の黎明』を読む(11) [商品世界ファイル]
[ナチェズとシルック]
北アメリカのミシシッピ川下流では先住民のナチェズが紀元8世紀ごろから18世紀はじめまで共同体を築いていました。
小高い丘の遺跡が知られています。イエズス会の神父が残した記録によると、真ん中の広場を中心にふたつの集落があり、それぞれの高台に神殿と宮殿が築かれていたといいます。
神殿には王家の祖先がまつられ、王自身はあがめられ、「偉大な太陽」と呼ばれていました。フランス人はその王の残虐ぶりや気ままなふるまい、葬儀のさいの人身御供に衝撃を受けています。
村民は村にあまり近づかず、大村落から離れたところで暮らしていました。王は法を超越した存在で、絶対不可侵の存在として勝手なふるまいを認められています。しかし、王は宮殿から一歩も外に出ず、いわば封じ込められていました。民は王をできるだけ避け、神のような王を畏れていたのです。
〈歴史の大部分において、これが主権の内的力学であった。かたや統治者は、みずからの権力の恣意性を確たるものにしようとする。かたや臣民たちは、単純に王を完全に避けるのではないかぎり、統治者の神のごとき存在を、はてしない儀礼的制約の迷路によって囲い込もうとする。そして、手の込んだその迷路に搦め取られた統治者は、実質的に、宮殿に幽閉されてしまうのだ。〉
ナチェズの人びとは神としての王の支配を受け入れる代わりに王を宮殿に閉じこめてしまうわけです。
南スーダンのシルック族のケースも挙げられています。白ナイル流域の肥沃な地で穀物を栽培しながら暮らすシルック族には、レスと呼ばれる王がいました。この王は豊饒と民の幸福を願う儀礼をおこなういっぽうで、勝手気ままに振る舞っています。人びとは王を畏れ、できるだけ近づかないようにします。若い女性はとくにそうでした。
国家のはじまりには、こうした神のような王権がからんでいることがある、と著者たちはいいます。
[古代エジプトの場合]
紀元前3000年ごろのエジプト第一王朝(古王国)では、王が亡くなると、王の妻妾や側近たちが殉死するのが通例でした。
〈支配者の死とは、あたかも主権が儀礼の束縛から解き放たれる一瞬であるかのようなのだ。つまりそれは、一種の政治的超新星爆発を誘発し、王国の最高権力者たちにも容赦なく、行く手を阻むすべてのものを消滅させるのである。〉
なぜこのようなことがおこなわれたのでしょうか。殉死者は妻妾から役人、料理人、宮廷のこびとまで多様で、かれらはまるで王の持ち物のように扱われていました。こうした殉死(儀礼的殺戮)には当時から疑問がもたれていたようで、のちの中王国の時代になると王の墓所には殉死者に代わってレプリカが置かれるようになります。
初期の王権の特徴は、家産制が成立していることです。つまり王の土地はいうまでもなく、妻たちや使用人、臣下などすべてが、王の家産ととらえられ、その上に立って家父長的支配がおこなわれるわけです。
ここで著者たちはエジプトで古王国が成立する以前の紀元前4000年から3100年ころの原始王の時代に焦点を当てます。
ナイル川流域の新石器時代はメソポタミアとは形態を異にしていました。穀物農業よりもむしろ、牛の放牧が重視されていたのです。家よりも身体に美的価値が置かれていたのも、ナイル文明の特徴です。さまざまな身体の装飾品が製作され、ミイラ化の技術も発達します。ミイラはすでに新石器時代からつくられていたことになります。
先史時代のナイル川流域には、小さなテリトリーを支配する家父長的君主が乱立していたようです。こうした王たちは多くの殉死者をともなう墓地を残しています。
原始王の時代から、古王国が成立する前の紀元前3500年ごろ、大きな文化的変化が生じます。それは死者の供物としてパンやビールが捧げられるようになったことで、そこから世界初の農民が生まれた、と著者たちは記しています。
ほんらいは死んだ王に捧げる供物をつくるために組織された農作業が農業を生み、さらに巨大モニュメントとしてのピラミッド建設へとつながるわけです。こうして王と臣民は一体化していきます。臣民を組織し、お祭り騒ぎを演出することによって、王国は発展し維持されるようになります。
例外的な暴力と、王のためにはたらく国民の創出こそが、エジプトにおける国家の出発点だった、と著者たちはとらえています。
[初期国家の多様性]
エジプト王国とインカ帝国は官僚制で固められていました。これにたいしメソポタミアは都市国家が中心で、たまに一人の王が都市国家を統一し、王国のようなものをつくりました。マヤの統治者は神の霊を宿す戦士にほかなりませんでした。中国では殷の都、安陽が王の儀礼をおこなう壮大な舞台として設計され、亀甲による占いが政治の方向性を決めていました。殷は戦争国家でもありました。このように初期国家のあり方はさまざまです。だが、すべての初期国家はどこかで神の世界と結びついています。
エジプトの王権は巨大な葬祭モニュメントが特徴です。王は偉大なる家父長であるとともに、王の従者(大地主、軍司令官、神官、行政官など)によって支えられていました。王の存在はあくまでも抽象であって、宮廷には地位の争いや政治的陰謀はあっても、本質的な意味でのカリスマ的政治は存在しなかった、と著者は書いています。
〈君主政は、おそらく子どもが重要な役割をはたすことのできる唯一の有力な統治システムであるともいえる。なぜなら、すべては王朝の血筋の断絶を阻止する王の能力にかかっているからである。……純粋なる愛と養育の対象である幼児が政治的に重要な存在となるのは、王国や帝国においてのみである。〉
しかし、神にも似た王の主権と、それに付随する官僚制が崩れるとき、エジプトでは王国が滅びることになります。そして、そのあとにつづくのが、「暗黒時代」と呼ばれる中間期です。中間期には中央権力は解体し、多くのカリスマ的地域指導者が権勢を振るうようになります。それは英雄政治の復活を意味していました。
〈古王国から第一中間期への移行は……「秩序」から「混沌」への移行ではなく、権力行使の枠組みの「主権」から「カリスマ政治」への変化だったのである。それにともない、神のごとき支配者に対する民衆によるケアから、権威への正当なる道としての民衆のケアへと、重点がいこうしていった。〉
中間期はけっして暗黒時代ではないというのが、著者たちのとらえ方です。
政治学や歴史学で古代エジプトが称賛されるのは、王(主権)と官僚制が合体して機能した最初の例だからです。そこから、社会が大規模になり複雑化すると、首長と軍隊、法律、官僚、警察が必要になってくるという理論が導かれます。しかし、こうした想定はまちがいだ、と著者たちはいいます。というのも、複雑な灌漑や道路を農耕民自身が管理している例もしばしば見かけられるからです。
[官僚制は国家以前にも]
さらに紀元前6200年ころのメソポタミアの遺跡からは、きわめて小規模な共同体なのに、行政管理システムが存在した形跡が発見されています。そこでは村落の生産活動を相互扶助によってこなすための仕組みがつくられていました。交易も盛んで、黒曜石や金属、外来の顔料などが輸入された記録も残っていました。
メソポタミアでは、都市や文字が生まれるはるか以前から、広い地域でおよそ1000年にわたって、管理の行き届いた村落が散在していたことがわかってきたのです。
この時代を「ウバイド期」と名づける研究者もいます。こうした村落で「管理ツールが最初に設計されたのも、富を徴収したり蓄積したりするためではなく、まさにそのようなことを防ぐためだった可能性もある」と著者たちはとらえています。
アイリュと呼ばれるアンデスの村落共同体の集合体でも、平等主義を促進する村落官僚制が敷かれていたことがわかっています。アイリュを征服したインカ帝国は、官僚制をむしろ支配の道具として利用することで、包括的な行政機構をつくりあげます。そのとき共同体のリーダーは、事実上、国家の代理人へと転化し、私腹を肥やすことになるのです。
官僚制がむしろ国家に先行した場合もあるわけです。しかし、官僚制を組み込むことによって、国家による収奪がはじまります。こうした現象はウルク時代のメソポタミアでも生じています。官僚制的機構がモンスター化するのは、そこに主権的権力(王権)が合流するからだ、と著者は断言しています。
[文明を問う]
国家の起源については幻影を追うようなものであって、その論争はけっして終わることがありません。はたして、何をもって国家というかもあいまいだからです。王のかたちもさまざまで、その権力の実態をつかむのも困難です。
国家や都市を文明と考えるのはやめようと著者たちは提言します。むしろ相互扶助、社会的協働、歓待、他者へのケアなどこそが文明であり、数学や暦の発達、オリーブやブドウ、ナツメヤシ、コムギ、トウモロコシ、コメの栽培、パンやビールの発明、織物や籠細工、土器などの技術、陸上、海洋の交易の発展こそが文明なのです。国家や王はむしろつけたりです。けっして誇るものではありません。
ここで、最後に紹介されるのはクレタ島のミノア文明です。ミノア文明は紀元前1700年ごろから前1450年ごろまで栄えました。クレタ島のクノッソスには宮殿があり、2万5000人ほどが住んでいました。しかし、そこには君主政の痕跡らしきものがありません。
クノッソスには目を見張るような絵画芸術が残されています。そこには玉座に座り、指揮の杖を振り回す女性像と、裸のアスリートとしての男性像が数多く並んでいます。ミノア人は交易の民であり、商人のほとんどが男性でした。しかし、かれらが海外から持ち帰るものは、ほとんど女性用の品物でした。
クレタ島の宮殿は非武装でした。ミノアの芸術にはほとんど戦争のイメージがなく、ギリシア本土と対照的でした。玉座の間とされている場所も、そこは王の座る場所ではなく、評議会の長が座る場所で、周りには女性評議員が集まっていました。
ミノアの芸術には英雄は存在しない、存在するのは遊戯人(プレイヤー)だけだ、と著者たちは書いています。ミノアの宮殿は演劇の舞台であり、女性のイニシエーション結社であり、行政の中心でもありました。こうした初期国家にみられる「失われた文明」から学ぶことによって、われわれはもうひとつの社会的可能性を考察することができるのではないか、というのが、ここでの結論です。
国家と王権のはじまり(1)──『万物の黎明』を読む(10) [商品世界ファイル]
国家の定義はさまざまです。一定の領域を支配する主権を有する共同体というのもそのひとつでしょう。しかし、過去にさかのぼって、国家がいつ生まれたかをとらえようとすると、そのはじまりはきわめて茫洋としてきます。都市が誕生したあとに、やがて強力な王権や帝国が誕生したことはまちがいないのですが。
著者たちはウェーバーにならってとりあえず支配の原理を「暴力の統制、情報の統制、個人のカリスマ性」と類型化してとらえます。この三つの組み合わせは随意で、その発生順序も別々と考えられます。
いずれにせよ、近代国家の概念を先史時代にそのままあてはめるわけにはいかないでしょう。そのことを前提として、国家のはじまりらしきものをみていくのが、この章の目標です。
[アステカ、インカ、マヤ]
スペイン人がアメリカを征服したとき、アメリカにはアステカとインカという二つの国家が存在していました。
現在のメキシコとグアテマラを中心とするアステカ帝国は1428年から1521年にかけて、ペルー、ボリビア、チリ北部に広がるインカ帝国は1533年に滅ぼされるまで200年にわたって繁栄しました。
アステカもインカも存在したのは世界史的にみれば近世で、古代国家とはいえないのですが、ふたつの帝国についてはスペイン人が多くの記録を残しており、それによってある程度、近代以前の古い王権のかたちを想像することができます。
アステカはメキシコ盆地を支配し、テノチティトランを都としていました。アステカの男性貴族は、人生を永遠の戦いないし征服とみなし、女性は家庭の仕事に専念するものとされていました。そこには君主と官僚、軍隊、宗教があって、都市計画がほどこされ、税が徴収され、風俗が規制されていました。
アステカを支えていたのは3都市の同盟で、王は飾りで、政治的決定は実際には貴族の評議会でおこなわれていました。征服と殺戮がアステカのイメージです。
これにたいし、インカはクスコを都とし、管理行政に長けていました。国の隅々まで道路網がめぐらされ、庶民には貢納や賦役労働が求められていました。
インカの主権者は太陽の化身とされ、すべての権威はその一身から発します。王の血縁者が周辺を固めていました。
王は死んだあともミイラとして保存され、引きつづき帝国を支配するとされていました。王は年に一度、輿に乗って軍とともに四つの行政区を異動します。そのため最後の王アタワルパは、クスコから遠く離れた場所で、征服者ピサロの部下によって、あっさりと殺害されてしまいます。
アステカとインカは対照的な国家でしたが、ともに王をいだいていたため、スペインの征服者がその領土を掌握するのは比較的容易でした。王さえ倒せば、その支配機構を引き継ぐことができたからです。
ところが強力な王国が存在しないユカタン半島やチアパス高地、グアテマラの征服は容易ではありませんでした。ここにはマヤ語を話す人びとが残っていたのです。
マヤ地域では紀元前900年ごろからいくつもの都市が生まれています。マヤ文明は紀元8世紀ごろ全盛を迎え、その後、次第に衰退していきました。ここには強力な王国がありませんでした。16世紀にやってきたスペイン人は、ここで長年にわたり反乱と抵抗に直面することになります。
その反乱の気風はいまもつづいているといえます。古典期のマヤには王国らしきものがあって、高度な美術品が残されていましたが、王権は崩壊し、支配者はくり返し追放され、脱集権化が進んだことがわかっています。
[エジプトの場合]
エジプトの王国の歴史は紀元前3000年ごろまでさかのぼり、その後、古王国(紀元前2686〜2181)、中王国(紀元前2055〜1795)、新王国(紀元前(紀元前1550〜1069)とつづき、最後に末期王朝(紀元前664〜332)の時代を迎えます。
王国と王国のあいだには、それぞれ第1、第2、第3の中間期があります。中間期には単一の王がおらず、外来王や諸侯王が次々と即位していました。5人の王女がつづいた時代もあります。
エジプト学者によって、こうした時代区分がなされたのは19世紀になってからだといいます。その区分自体に政治的意図がはたらいているとの見方もあるようですが、ここでそのことに踏みこむ必要はないでしょう。
3つの中間期が暗黒時代で、王国の時代が繁栄した安定期だったとはかぎらない、と著者たちはいいます。
たとえば、中王国の時代には、後継者をめぐる王族の争い、過酷な課税、兵の徴集、国家による少数民族の弾圧、鉱山や建設にたいする強制労働、隣国からの奴隷、金の暴力的略奪などが盛んにおこなわれていました。
とはいえ、世界史からみれば、国家や帝国が存在したのは例外的地域であって、アフリカ、北アメリカ、中央アジア、東南アジアでも、たいていはゆるやかで柔軟な社会、「固定した包括的権威のシステムを組織的に避ける社会」が広がっていたことを忘れてはならない、と著者たちは述べています。
[アメリカの初期国家、オルメカとチャビン]
メキシコ湾岸のメソアメリカにはオルメカと呼ばれる古代文明が存在していました。紀元前1500年ごろから前1000年ごろに栄えた文明です。同じタイプの土器、人型の小像、石彫を残していますが、暦法や文字、球技なども発明していました。その中心地は現在のメキシコ、ベラクルス州で、サンロレンソなどいくつかの都市が残っています。
こうした都市には、ピラミッド型の遺跡が残っており、エリートがいたこともわかっています。特筆すべきは一連の巨大な頭部の彫刻です。オルメカの指導者をあらわしているようですが、革製ヘルメットをつけているようにみえます。どうやら、ここでは球技のようなものがおこなわれていたようです。
実際に石造りの球技場の跡が見つかっています。そうした球技はマヤやアステカにも引き継がれます。古典期のマヤでは、競技スポーツは戦争の延長だったといいます。
オルメカには祭祀センターがあり、暦の特定の日時に人びとが球技場に集まりましたが、そのとき以外はほとんど無人だったといいます。これも初期国家のひとつのかたちだといいますが、何とも不思議な国家です。
南アメリカでも、インカ以前に国家が存在しました。それは少なくとも紀元前1000年にさかのぼります。
ペルー北部高地のチャビン・デ・ワンタルには大神殿が残っており、チチカカ湖畔にはティワナクという大都市がありました。ペルー北海岸のモチェには、金がちりばめられた女王の豪華な墓が残されています。
チャビン・デ・ワンタルにインカ以前の「帝国」があったことは、どうやらたしかなようです。それは東はアマゾンの熱帯雨林、西は大西洋岸にいたる広大な国家でした。まさに帝国です。
しかし、チャビンは「アンデスのローマ」などとはとても呼べない、と著者たちはいいます。それは帝国らしからぬ帝国だったからです。
チャビンには動物と人が一体化したような何とも奇妙な彫像が数多く残されていますが、世俗の統治にかかわるようなモニュメントは何もありません。軍事的な要塞もないし、行政区画もありません。
しかし、そこは迷路や吊り階段もあり、試練の場でもあり、イニシエーションやヴィジョンクエストの場でもありました。まさにシャーマニズム的世界に満ちていたといえます。
「チャビンが『帝国』であったとすれば、それは秘教的知とむすびついた像(イメージ)に基礎を置いていた」と著者たちは書いています。
ここで、著者たちがいいたいのは、球技の都市オルメカやシャーマニズムの都市チャビンが、ある種の遊びや神秘知によって、さまざまな共同体を統合する「帝国」だったということです。
武力をともなわないけれども、これもたしかに国家のかたちにはちがいありませんでした。おもしろいですね。
長くなりましたので、つづきは回を改めます。