国家と王権のはじまり(1)──『万物の黎明』を読む(10) [商品世界ファイル]
国家の定義はさまざまです。一定の領域を支配する主権を有する共同体というのもそのひとつでしょう。しかし、過去にさかのぼって、国家がいつ生まれたかをとらえようとすると、そのはじまりはきわめて茫洋としてきます。都市が誕生したあとに、やがて強力な王権や帝国が誕生したことはまちがいないのですが。
著者たちはウェーバーにならってとりあえず支配の原理を「暴力の統制、情報の統制、個人のカリスマ性」と類型化してとらえます。この三つの組み合わせは随意で、その発生順序も別々と考えられます。
いずれにせよ、近代国家の概念を先史時代にそのままあてはめるわけにはいかないでしょう。そのことを前提として、国家のはじまりらしきものをみていくのが、この章の目標です。
[アステカ、インカ、マヤ]
スペイン人がアメリカを征服したとき、アメリカにはアステカとインカという二つの国家が存在していました。
現在のメキシコとグアテマラを中心とするアステカ帝国は1428年から1521年にかけて、ペルー、ボリビア、チリ北部に広がるインカ帝国は1533年に滅ぼされるまで200年にわたって繁栄しました。
アステカもインカも存在したのは世界史的にみれば近世で、古代国家とはいえないのですが、ふたつの帝国についてはスペイン人が多くの記録を残しており、それによってある程度、近代以前の古い王権のかたちを想像することができます。
アステカはメキシコ盆地を支配し、テノチティトランを都としていました。アステカの男性貴族は、人生を永遠の戦いないし征服とみなし、女性は家庭の仕事に専念するものとされていました。そこには君主と官僚、軍隊、宗教があって、都市計画がほどこされ、税が徴収され、風俗が規制されていました。
アステカを支えていたのは3都市の同盟で、王は飾りで、政治的決定は実際には貴族の評議会でおこなわれていました。征服と殺戮がアステカのイメージです。
これにたいし、インカはクスコを都とし、管理行政に長けていました。国の隅々まで道路網がめぐらされ、庶民には貢納や賦役労働が求められていました。
インカの主権者は太陽の化身とされ、すべての権威はその一身から発します。王の血縁者が周辺を固めていました。
王は死んだあともミイラとして保存され、引きつづき帝国を支配するとされていました。王は年に一度、輿に乗って軍とともに四つの行政区を異動します。そのため最後の王アタワルパは、クスコから遠く離れた場所で、征服者ピサロの部下によって、あっさりと殺害されてしまいます。
アステカとインカは対照的な国家でしたが、ともに王をいだいていたため、スペインの征服者がその領土を掌握するのは比較的容易でした。王さえ倒せば、その支配機構を引き継ぐことができたからです。
ところが強力な王国が存在しないユカタン半島やチアパス高地、グアテマラの征服は容易ではありませんでした。ここにはマヤ語を話す人びとが残っていたのです。
マヤ地域では紀元前900年ごろからいくつもの都市が生まれています。マヤ文明は紀元8世紀ごろ全盛を迎え、その後、次第に衰退していきました。ここには強力な王国がありませんでした。16世紀にやってきたスペイン人は、ここで長年にわたり反乱と抵抗に直面することになります。
その反乱の気風はいまもつづいているといえます。古典期のマヤには王国らしきものがあって、高度な美術品が残されていましたが、王権は崩壊し、支配者はくり返し追放され、脱集権化が進んだことがわかっています。
[エジプトの場合]
エジプトの王国の歴史は紀元前3000年ごろまでさかのぼり、その後、古王国(紀元前2686〜2181)、中王国(紀元前2055〜1795)、新王国(紀元前(紀元前1550〜1069)とつづき、最後に末期王朝(紀元前664〜332)の時代を迎えます。
王国と王国のあいだには、それぞれ第1、第2、第3の中間期があります。中間期には単一の王がおらず、外来王や諸侯王が次々と即位していました。5人の王女がつづいた時代もあります。
エジプト学者によって、こうした時代区分がなされたのは19世紀になってからだといいます。その区分自体に政治的意図がはたらいているとの見方もあるようですが、ここでそのことに踏みこむ必要はないでしょう。
3つの中間期が暗黒時代で、王国の時代が繁栄した安定期だったとはかぎらない、と著者たちはいいます。
たとえば、中王国の時代には、後継者をめぐる王族の争い、過酷な課税、兵の徴集、国家による少数民族の弾圧、鉱山や建設にたいする強制労働、隣国からの奴隷、金の暴力的略奪などが盛んにおこなわれていました。
とはいえ、世界史からみれば、国家や帝国が存在したのは例外的地域であって、アフリカ、北アメリカ、中央アジア、東南アジアでも、たいていはゆるやかで柔軟な社会、「固定した包括的権威のシステムを組織的に避ける社会」が広がっていたことを忘れてはならない、と著者たちは述べています。
[アメリカの初期国家、オルメカとチャビン]
メキシコ湾岸のメソアメリカにはオルメカと呼ばれる古代文明が存在していました。紀元前1500年ごろから前1000年ごろに栄えた文明です。同じタイプの土器、人型の小像、石彫を残していますが、暦法や文字、球技なども発明していました。その中心地は現在のメキシコ、ベラクルス州で、サンロレンソなどいくつかの都市が残っています。
こうした都市には、ピラミッド型の遺跡が残っており、エリートがいたこともわかっています。特筆すべきは一連の巨大な頭部の彫刻です。オルメカの指導者をあらわしているようですが、革製ヘルメットをつけているようにみえます。どうやら、ここでは球技のようなものがおこなわれていたようです。
実際に石造りの球技場の跡が見つかっています。そうした球技はマヤやアステカにも引き継がれます。古典期のマヤでは、競技スポーツは戦争の延長だったといいます。
オルメカには祭祀センターがあり、暦の特定の日時に人びとが球技場に集まりましたが、そのとき以外はほとんど無人だったといいます。これも初期国家のひとつのかたちだといいますが、何とも不思議な国家です。
南アメリカでも、インカ以前に国家が存在しました。それは少なくとも紀元前1000年にさかのぼります。
ペルー北部高地のチャビン・デ・ワンタルには大神殿が残っており、チチカカ湖畔にはティワナクという大都市がありました。ペルー北海岸のモチェには、金がちりばめられた女王の豪華な墓が残されています。
チャビン・デ・ワンタルにインカ以前の「帝国」があったことは、どうやらたしかなようです。それは東はアマゾンの熱帯雨林、西は大西洋岸にいたる広大な国家でした。まさに帝国です。
しかし、チャビンは「アンデスのローマ」などとはとても呼べない、と著者たちはいいます。それは帝国らしからぬ帝国だったからです。
チャビンには動物と人が一体化したような何とも奇妙な彫像が数多く残されていますが、世俗の統治にかかわるようなモニュメントは何もありません。軍事的な要塞もないし、行政区画もありません。
しかし、そこは迷路や吊り階段もあり、試練の場でもあり、イニシエーションやヴィジョンクエストの場でもありました。まさにシャーマニズム的世界に満ちていたといえます。
「チャビンが『帝国』であったとすれば、それは秘教的知とむすびついた像(イメージ)に基礎を置いていた」と著者たちは書いています。
ここで、著者たちがいいたいのは、球技の都市オルメカやシャーマニズムの都市チャビンが、ある種の遊びや神秘知によって、さまざまな共同体を統合する「帝国」だったということです。
武力をともなわないけれども、これもたしかに国家のかたちにはちがいありませんでした。おもしろいですね。
長くなりましたので、つづきは回を改めます。