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国家と王権のはじまり(2)──『万物の黎明』を読む(11) [商品世界ファイル]

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[ナチェズとシルック]
 北アメリカのミシシッピ川下流では先住民のナチェズが紀元8世紀ごろから18世紀はじめまで共同体を築いていました。
 小高い丘の遺跡が知られています。イエズス会の神父が残した記録によると、真ん中の広場を中心にふたつの集落があり、それぞれの高台に神殿と宮殿が築かれていたといいます。
 神殿には王家の祖先がまつられ、王自身はあがめられ、「偉大な太陽」と呼ばれていました。フランス人はその王の残虐ぶりや気ままなふるまい、葬儀のさいの人身御供に衝撃を受けています。
 村民は村にあまり近づかず、大村落から離れたところで暮らしていました。王は法を超越した存在で、絶対不可侵の存在として勝手なふるまいを認められています。しかし、王は宮殿から一歩も外に出ず、いわば封じ込められていました。民は王をできるだけ避け、神のような王を畏れていたのです。

〈歴史の大部分において、これが主権の内的力学であった。かたや統治者は、みずからの権力の恣意性を確たるものにしようとする。かたや臣民たちは、単純に王を完全に避けるのではないかぎり、統治者の神のごとき存在を、はてしない儀礼的制約の迷路によって囲い込もうとする。そして、手の込んだその迷路に搦め取られた統治者は、実質的に、宮殿に幽閉されてしまうのだ。〉

 ナチェズの人びとは神としての王の支配を受け入れる代わりに王を宮殿に閉じこめてしまうわけです。
 南スーダンのシルック族のケースも挙げられています。白ナイル流域の肥沃な地で穀物を栽培しながら暮らすシルック族には、レスと呼ばれる王がいました。この王は豊饒と民の幸福を願う儀礼をおこなういっぽうで、勝手気ままに振る舞っています。人びとは王を畏れ、できるだけ近づかないようにします。若い女性はとくにそうでした。
 国家のはじまりには、こうした神のような王権がからんでいることがある、と著者たちはいいます。

[古代エジプトの場合]
 紀元前3000年ごろのエジプト第一王朝(古王国)では、王が亡くなると、王の妻妾や側近たちが殉死するのが通例でした。

〈支配者の死とは、あたかも主権が儀礼の束縛から解き放たれる一瞬であるかのようなのだ。つまりそれは、一種の政治的超新星爆発を誘発し、王国の最高権力者たちにも容赦なく、行く手を阻むすべてのものを消滅させるのである。〉

 なぜこのようなことがおこなわれたのでしょうか。殉死者は妻妾から役人、料理人、宮廷のこびとまで多様で、かれらはまるで王の持ち物のように扱われていました。こうした殉死(儀礼的殺戮)には当時から疑問がもたれていたようで、のちの中王国の時代になると王の墓所には殉死者に代わってレプリカが置かれるようになります。
 初期の王権の特徴は、家産制が成立していることです。つまり王の土地はいうまでもなく、妻たちや使用人、臣下などすべてが、王の家産ととらえられ、その上に立って家父長的支配がおこなわれるわけです。
 ここで著者たちはエジプトで古王国が成立する以前の紀元前4000年から3100年ころの原始王の時代に焦点を当てます。
 ナイル川流域の新石器時代はメソポタミアとは形態を異にしていました。穀物農業よりもむしろ、牛の放牧が重視されていたのです。家よりも身体に美的価値が置かれていたのも、ナイル文明の特徴です。さまざまな身体の装飾品が製作され、ミイラ化の技術も発達します。ミイラはすでに新石器時代からつくられていたことになります。
 先史時代のナイル川流域には、小さなテリトリーを支配する家父長的君主が乱立していたようです。こうした王たちは多くの殉死者をともなう墓地を残しています。
 原始王の時代から、古王国が成立する前の紀元前3500年ごろ、大きな文化的変化が生じます。それは死者の供物としてパンやビールが捧げられるようになったことで、そこから世界初の農民が生まれた、と著者たちは記しています。
 ほんらいは死んだ王に捧げる供物をつくるために組織された農作業が農業を生み、さらに巨大モニュメントとしてのピラミッド建設へとつながるわけです。こうして王と臣民は一体化していきます。臣民を組織し、お祭り騒ぎを演出することによって、王国は発展し維持されるようになります。
 例外的な暴力と、王のためにはたらく国民の創出こそが、エジプトにおける国家の出発点だった、と著者たちはとらえています。

[初期国家の多様性]
 エジプト王国とインカ帝国は官僚制で固められていました。これにたいしメソポタミアは都市国家が中心で、たまに一人の王が都市国家を統一し、王国のようなものをつくりました。マヤの統治者は神の霊を宿す戦士にほかなりませんでした。中国では殷の都、安陽が王の儀礼をおこなう壮大な舞台として設計され、亀甲による占いが政治の方向性を決めていました。殷は戦争国家でもありました。このように初期国家のあり方はさまざまです。だが、すべての初期国家はどこかで神の世界と結びついています。
 エジプトの王権は巨大な葬祭モニュメントが特徴です。王は偉大なる家父長であるとともに、王の従者(大地主、軍司令官、神官、行政官など)によって支えられていました。王の存在はあくまでも抽象であって、宮廷には地位の争いや政治的陰謀はあっても、本質的な意味でのカリスマ的政治は存在しなかった、と著者は書いています。

〈君主政は、おそらく子どもが重要な役割をはたすことのできる唯一の有力な統治システムであるともいえる。なぜなら、すべては王朝の血筋の断絶を阻止する王の能力にかかっているからである。……純粋なる愛と養育の対象である幼児が政治的に重要な存在となるのは、王国や帝国においてのみである。〉

 しかし、神にも似た王の主権と、それに付随する官僚制が崩れるとき、エジプトでは王国が滅びることになります。そして、そのあとにつづくのが、「暗黒時代」と呼ばれる中間期です。中間期には中央権力は解体し、多くのカリスマ的地域指導者が権勢を振るうようになります。それは英雄政治の復活を意味していました。

〈古王国から第一中間期への移行は……「秩序」から「混沌」への移行ではなく、権力行使の枠組みの「主権」から「カリスマ政治」への変化だったのである。それにともない、神のごとき支配者に対する民衆によるケアから、権威への正当なる道としての民衆のケアへと、重点がいこうしていった。〉

 中間期はけっして暗黒時代ではないというのが、著者たちのとらえ方です。
 政治学や歴史学で古代エジプトが称賛されるのは、王(主権)と官僚制が合体して機能した最初の例だからです。そこから、社会が大規模になり複雑化すると、首長と軍隊、法律、官僚、警察が必要になってくるという理論が導かれます。しかし、こうした想定はまちがいだ、と著者たちはいいます。というのも、複雑な灌漑や道路を農耕民自身が管理している例もしばしば見かけられるからです。

[官僚制は国家以前にも]
 さらに紀元前6200年ころのメソポタミアの遺跡からは、きわめて小規模な共同体なのに、行政管理システムが存在した形跡が発見されています。そこでは村落の生産活動を相互扶助によってこなすための仕組みがつくられていました。交易も盛んで、黒曜石や金属、外来の顔料などが輸入された記録も残っていました。
 メソポタミアでは、都市や文字が生まれるはるか以前から、広い地域でおよそ1000年にわたって、管理の行き届いた村落が散在していたことがわかってきたのです。
この時代を「ウバイド期」と名づける研究者もいます。こうした村落で「管理ツールが最初に設計されたのも、富を徴収したり蓄積したりするためではなく、まさにそのようなことを防ぐためだった可能性もある」と著者たちはとらえています。
 アイリュと呼ばれるアンデスの村落共同体の集合体でも、平等主義を促進する村落官僚制が敷かれていたことがわかっています。アイリュを征服したインカ帝国は、官僚制をむしろ支配の道具として利用することで、包括的な行政機構をつくりあげます。そのとき共同体のリーダーは、事実上、国家の代理人へと転化し、私腹を肥やすことになるのです。
 官僚制がむしろ国家に先行した場合もあるわけです。しかし、官僚制を組み込むことによって、国家による収奪がはじまります。こうした現象はウルク時代のメソポタミアでも生じています。官僚制的機構がモンスター化するのは、そこに主権的権力(王権)が合流するからだ、と著者は断言しています。

[文明を問う]
 国家の起源については幻影を追うようなものであって、その論争はけっして終わることがありません。はたして、何をもって国家というかもあいまいだからです。王のかたちもさまざまで、その権力の実態をつかむのも困難です。
 国家や都市を文明と考えるのはやめようと著者たちは提言します。むしろ相互扶助、社会的協働、歓待、他者へのケアなどこそが文明であり、数学や暦の発達、オリーブやブドウ、ナツメヤシ、コムギ、トウモロコシ、コメの栽培、パンやビールの発明、織物や籠細工、土器などの技術、陸上、海洋の交易の発展こそが文明なのです。国家や王はむしろつけたりです。けっして誇るものではありません。
 ここで、最後に紹介されるのはクレタ島のミノア文明です。ミノア文明は紀元前1700年ごろから前1450年ごろまで栄えました。クレタ島のクノッソスには宮殿があり、2万5000人ほどが住んでいました。しかし、そこには君主政の痕跡らしきものがありません。
 クノッソスには目を見張るような絵画芸術が残されています。そこには玉座に座り、指揮の杖を振り回す女性像と、裸のアスリートとしての男性像が数多く並んでいます。ミノア人は交易の民であり、商人のほとんどが男性でした。しかし、かれらが海外から持ち帰るものは、ほとんど女性用の品物でした。
 クレタ島の宮殿は非武装でした。ミノアの芸術にはほとんど戦争のイメージがなく、ギリシア本土と対照的でした。玉座の間とされている場所も、そこは王の座る場所ではなく、評議会の長が座る場所で、周りには女性評議員が集まっていました。
 ミノアの芸術には英雄は存在しない、存在するのは遊戯人(プレイヤー)だけだ、と著者たちは書いています。ミノアの宮殿は演劇の舞台であり、女性のイニシエーション結社であり、行政の中心でもありました。こうした初期国家にみられる「失われた文明」から学ぶことによって、われわれはもうひとつの社会的可能性を考察することができるのではないか、というのが、ここでの結論です。

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