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金子直史『生きることばへ』を読みながら(5) [人]

 2018年9月に亡くなった共同通信元文化部長の金子直史さんは、最後の半年間をどのようにすごしていたのだろうか。
 日記をみると4月からベクティビックスの投与がはじまったことがわかる。ベクティビックスは大腸がんの増殖を抑える抗体医薬品だが、重大な皮膚障害をともなうことがある。
 金子さんの場合も、最初は快調で、腫瘍マーカーの数値も劇的に減ったが、2カ月ほど後には皮膚障害が出はじめる(「顔の赤黒い腫れ、火傷状の痛み、ひりひり感」)。皮膚障害で薬の投与をやめれば、痛みが強くなった。ベクティビックスをやめるわけにはいかなかった。
 幸い、2週間ほどで皮膚障害は収まり、薬で激痛は緩和されるが、痛みと全身のだるさ、しんどさ、猛烈な眠気がなくなったわけではなかった。
 奥さんが車の練習をはじめたのは、夫を駅まで送迎するためだ。金子さんはときどき休みをとりながらも、会社にはできるだけ出勤している。
 しかし、仕事をしていても、とつぜん周囲から取り残されているという孤独感と寂寥感に襲われることがある。
 6月29日の日記にはこうある。

〈昨日、急に自信と安定がくつがえった。社内人事を含め、周囲は音を立てて動いている。ならばおれは──。全ての人から忘れられ、むしろ、いつ死ぬか、と見られているのではないか……。典型的な病人特有の被害妄想が頭をかけめぐった。〉

 社内の動きは気になるものである。これはサラリーマンなら、だれも同じだろう。まして、自分が社内でどうみられているか。ぼくなどは開き直って、好きなことをし、その結果とばされてしまったが、たしかに病気というのはつらい立場だ。
 1月からはじまった連載「生きることばへ」の執筆がつづいている。週1回の出稿で、7月24日の30回が最後の出稿となった。
 そして、出勤も7月26日が最後となった。

 金子さんの執筆した「生きることばへ」のなかから。
 奥野修司『魂でもいいから、そばにいて』は、東日本大震災で死者に向き合う遺族の物語だ。金子さんはこう書く。

〈震災という巨大な破壊を経て、少しずつ生きる希望を取り戻す遺族が、見いだしていった死者との共生感覚。それは、私たちが生きる社会に死者の記憶を、かけがえのない物語として重層的に含ませるような豊かな可能性を、感じさせるのだ。〉

 ぼく自身も、最近は死者との共生感がつのっている。母や多くの友人を亡くしてきたのだ。単に悲しいというだけではない。それは楽しく愉快な思い出でもある。それをいだきながら、限られた日々をすごしている。だが、死者への想像力を広げることも、いまを生きるということなのだろう。

 若松英輔『魂にふれる』にふれて、金子さんはこう書いている。

〈街の復興とともに、震災の爪痕は徐々に姿を消す。だがその背後に今も広がる、かけがえのない人を失った被災者の悲痛の思いと、生と死の物語の存在に、常に思いを致したいと痛感する。〉

 金子さんの最初の赴任地は広島だった。石内都の写真集『ひろしま』は平和記念館が所有する被爆者の遺品を丁寧に撮影した作品だ。

〈大災害や戦争による膨大な死……。それは人間の想像を絶するからこそ、個々の犠牲者の生と死を超えた、黙示録のような巨大な惨禍として抽象化してしまいがちだ。だが、それがやはり人々が感じる無数の悲しみの集積であることに、どうして気づいていけるだろうか。〉

 フランクルの『夜と霧』については、「本書を読んで心打たれるのは、そのような[ナチスの強制収容所のような]悲惨の極限にありながらも、なお人間の尊厳を保ち続ける収容者の姿だ」と書く。

 金子さんにとって、3年間仕事をした沖縄も終生の課題でありつづけた。
 連載でも5回にわたって、沖縄にふれている。
 目取真俊の作品には、「戦後の長い時間の堆積から、戦争の記憶が表に噴出する瞬間」がとらえられている、という。そして、「沖縄では広大な米軍基地の存在が、かつての戦争を今も想起させる」。
 大城立裕が『カクテル・パーティー』でえがいたのは、「復帰後も、沖縄にとっての戦争のリアリティーは、変わらなかった」ということだ。
 元沖縄県知事の大田昌秀は晩年に『沖縄 鉄血勤皇隊』の刊行に心血を注いだ。大田は「私の生は多くの学友の血で購われた」と記している。かれにとっては、沖縄戦の経験こそが「生き方の原点」だった。
沖縄支局から本社文化部に異動になったころ、金子さんは沖縄での米軍兵士による少女暴行事件に直面した。
 2016年にも米軍属による女性暴行殺害事件が発生した。
 金子さんは書く。

〈抗議の県民大会で被害者と同世代の玉城愛さんは「幸せに生きるって何なのでしょうか」と問いかけた。「生きる尊厳と生きる時間が、軍隊によって否定される」。そんな社会を生み出しているのはいったい誰なのか。〉

 沖縄のかかえる現実を、われわれはのんしゃらんと忘れがちだ。
岡本太郎は1967年4月3日にベ平連が「ワシントン・ポスト」に出した意見広告の上半分に「殺すな」と大書した。

〈岡本さんにとって「殺すな」と叫ぶのはベトナムの民衆、ヒロシマの被爆者ばかりでなく、沖縄の自然と文化でもあり、さらに「太陽の塔」という名の異形の存在でもあったかもしれない。異形の存在は進歩の流れでかき消えようとする。だが、その生命力を私たちが生き直すことはできないかというのが、岡本さんの隠れた問いだったのではないか。〉

 生命力のある異形の者への変身欲望があふれている。
 そのいっぽうで、このころ、金子さんのなかでは、自死という問いが頭をかすめている。
  がんで入院した作家の吉村昭は、点滴のカテーテルを引き抜き、みずから死を選んだ。

〈だがやはり、しかし……と思いたいのだ。人間へ微笑に満ちたまなざしを送ってきた吉村さんだからこそ、歴史の中ではまさに小さな人間の生きる姿を、もっと私たちに見せてほしかったと思えてならないから。〉

 評論家の西部邁は生命至上主義へのいらだちを感じながら、自裁の道を選んだ。だが、金子さんは「人がただ『生きる』ということそれ自体の尊さを、感じたいと思うのだ」と書く。
 はたして美しい死というものがあるのか。
「重要なのは意味付けを超えた『生そのもの』だ」
 ここで金子さんが思い起こすのは小田実のことだ。小田実は特攻隊員の死が「散華」ではなく「難死」だと語っていた。

〈小田さんが大阪空襲で見たのは、市民が逃げ惑った末に殺される無意味な死で、それは美しい死の幻想で人を戦争に赴かせる「国家原理」への、対抗軸になるはずだった。だが平和主義で被害者体験が強調され、戦中の加害体験の自覚が曖昧になると、平和思想がその内実を失う危機感があったのではないか。小田さんがベトナム反戦運動など、さまざまな市民運動を自ら率先したのは、そのためだったろう。〉

 その小田実が死のひと月前の2007年6月、金子さんを病床に招いて、話を聞いたことを思いだす。小田は、せめて、あと2年生きたいと話した。
「私には明るい率直さで語られたその一言に、逃れられない死への不安と無念、刻々と過ぎ去る時間へのやるせなさなどが、感じ取れるように思えた」と金子さんは書いている。
 せめて、あと2年というのは、金子さんも同じ思いだったろう。
 連載「生きることばへ」は、小林秀雄への言及で、いったん幕を閉じる。「歴史とは生きた一人一人の喜びと悲しみの集積であるという考えが、批評家の思考の核に揺るぎない確信としてあるように、思われる」と金子さんは書く。そして、いったん連載は終えるが、いずれ稿を改めて再開したいと締めくくっていた。
 だが、それはかなわなかった。金子さんは8月9日に入院し、9月2日にいったん退院したものの、9月13日に帰らぬ人となった。
 入院中の日記に、金子さんはこう書いている。

〈命なり、生きることについては、ずい分といろいろ書いた気がする。学ぶこともできた。ほかにまだ何かあるだろうか──あるのかも知れない。少なくとも、死ぬまでに、まだ時間はあるだろう。……ただし、死は全ての人間に予告もなしにやってくる。〉

 金子さんは、最後の最後まで、仕事をしつづけていた。

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金子直史『生きることばへ』を読みながら(4) [人]

 2018年9月に大腸がんのため58歳で亡くなった共同通信元文化部長、金子直史さんの本『生きることばへ』を読んでいる。このころ金子さんは「生きることばへ」という連載記事を出稿しながら、日記をつけていた。それを少しずつメモしながら、金子さんをしのぶ。

 2018年は空が青くて、富士山がきらめく三が日ではじまった。
 緩和ケアを受けながら、「生きることばへ」の原稿執筆がつづく。
 スーザン・ソンタグについて。

〈そして最期の時。彼女はここで初めて「私、死ぬんだわ」と泣いたのだという。それは生きる闘いを全うした果ての、祈るようなつぶやきだったのではないかと思えてならない。〉

 高見順について。

〈私は、高見が結局は[最期に]「なまの感慨」、装わない自らの姿を素直に表現せざるを得なかったことに強い印象を受ける。〉

 高見順も、最期は世間にたいする衣装や演技を脱ぎ捨て、宝石箱のような「小さな心」に戻ったのだ。
 2月になると、痛みがますます強くなり、抗がん剤としてイリノテカンが投与される。夜間も鎮痛剤のオキノームが手放せなくなる。
「神さま──。もう少しゆっくり、ラクに…」
 丸木美術館を取材。沖縄にも行きたいと思っている。
 広島と水俣もテーマでありつづけた。もちろん戦争も。
 いくつもの原稿がつづられる。

〈被爆者にとっての記憶とは、死者が生きた姿そのものなのではないか。だから時間はそこで止まり、記憶は日常の奥底に潜む。でも実は誰もが、そうした記憶を抱えて生きているのではないか──。〉

〈そして思う。一人一人の生をかけがえのないものと感じ取れる社会を、私たちはどこまで築き上げているのだろうかと。〉

 原爆でも水俣でも、人々は「なぶりもの」にされていった、と丸木俊さんはいう。「水俣はゆっくり起こってくるヒロシマ、原爆なんです」

〈水俣には「もだえ神」という言葉があるという。人の悲しみ、痛みを自分の悲しみとして引き受け、そして絶望せず、希望を手放さない存在。それは、自らの生が人々の生と分かちがたく結びついていることを、理屈ではなく、実感として感じ取れるからこそ、可能なのかと思う。〉

 これは石牟礼道子についての言及だ。
 鶴見和子も水俣を訪れている。

〈そこで鶴見さんの目に鮮明に映し出されていったのは、大多数の市民を優先して少数者に犠牲を求め、人間の生命を経済価値で計量化できると考える、近代社会のむき出しの実像だったろう。〉

 その鶴見和子も脳出血で倒れる。

〈病室を訪れた[弟の]俊輔さんに鶴見さんは「死ぬというのは面白い体験ね。人生って面白いことが一杯あるのね。驚いた」と言い、俊輔さんは「人生は驚きだ」と応えて笑い合う。〉

 おそらく金子さんもこんなふうに言ってみたいと思っている。
 満ち足りた「時」のなかにくるまれるのは、何かを書いているときだ。
 だが、病状は確実に進行している。
「CT 肺に転移増えている説明。リンパにきていて、数カ月で穴があく……」
 3月半ばには入院して、腎臓ステントを交換する。
 抗がん剤の影響で眠さと倦怠感。
 身体の機能が停止すると、魂はどこに行くのかと考える。
 真木悠介『気流の鳴る音』について。

〈現在の意味を未来の結果からの投影で測るのでなく、未来を遮断することで見えてくる目の前の現実の豊かさ!〉

 そして、宮沢賢治について。

〈宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、いわば賢治にとっての「死と再生の物語」だろう。……カンパネルラは友のため自らは犠牲となり、ジョバンニも「みんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」と言う。……悲しみを通じて見えてくる世界の輝きというものが、確かにあるかもしれない。〉

 宮沢賢治を出稿したころの日記にはこうある。
「不思議なものだ。しばらくずっと遠ざかっていたクラシックが5年ほど前から戻ってきているし、以前は聞きもしなかったバロックが、今は妙にしっくりとくるのも不思議だ」
 このころからベクティビックスの投与がはじまっている。

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金子直史『生きることばへ』を読みながら(3) [人]

 金子さんの日記から。
 夏の盛り。
 日赤の検査で、マーカー値が上がる。薬をフォルフィリにするかどうか。ためらう。いったんはじめたら、やめられない。未明まで酒を飲む。けっきょく、フォルフォックスをつづけることに。
 土曜午後の逗子海岸。

〈この日も海は、ものすごい光にあふれていた。8月半ばの逗子海岸。心にそそぎ込まれる光は熱く、見渡すかぎり、命が、それはほとばしるようだ。さんざめくように……〉

 8月24日から27日まで家族で沖縄に行く。これが最後の家族旅行となった。「交換日記」には「ほんと、サイコーの時間だったな!」と書く。
 夏の終わり。新しい抗がん剤、イリノテカンをはじめる。フォルフィリと併用だ。
 毎日の職場。変わらない日常。日常のなかでは、死は夢のように感じられる。とはいえ、徐々に増す痛み、クスリの副作用やしびれなどは、紛れもなくリアルだ。

〈ただし、ある瞬間、…例えば汐留の社屋から外に出て、眩しい陽光が汐留のビル群の間をいっぱいにしているのを見て、ふと、稲妻のように、「うそだろ? おれが…え! 死ぬの? うそだろ!」といった気分になる。でもそれは、すぐに日常の時間の中に埋めこまれる。〉

 逗子海岸。海の家は終わり、海水浴客はまばら。

〈おれは、本当に海と空と風と、そして太陽が好きだ。……泳いでいると、からだが透明になってくる気がする。〉

 歩くと、尾てい骨あたりの痛みが強くなる。
 未明に激痛が走ることも。
 メシアンのピアノ曲を聞く。

〈いつまで生きられるか。やはり、あくまで不安はない。痛みを始め、起きていく身体の不調に、どのように対処していくか、という課題があるだけだ。〉

 仕事は休みなくつづけている。石牟礼道子の『春の城』をはじめ、新刊紹介をいくつも書く。
 フォルフィリとイリノテカン。少し痛みが緩和されたような気がする。
 10月になって、来年用の企画を立てようと思った。
 仕事はいそがしい。ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロの原稿を受け取ったり、加藤典洋の評論を処理したり、沖縄に行き、石川真生の取材をしたり、と。
 来年の企画を2本立てる。ひとつは「遠近法の現代図」。これはいわば比較日本近現代史だ。もうひとつは「生きることばへ」。自分にひきつけながら、生と死と希望をテーマにする。
「神よ、神さまよ。少しでも長く、おれに時間をくれ」
 このころ、眠れなくなる。「1時間寝て、痛みで起きの繰り返し」
 激しい痛み。歩けない。立っていると痛みで脂汗。
 日赤でモルヒネ入りの粉末をもらう。
 11月。抗がん剤に加え、痛み止めを服用する。夜はモルヒネを飲まないと眠れなくなる。
 休みに夫婦で長野を旅行。小布施や北斎記念館を訪れ、山田温泉に泊まった。これが夫婦最後での旅行になった。
 日赤での抗がん剤治療はつづいているが、マーカー値がまた上がったことにショックを受ける。
 12月。抗がん剤治療がつづく。副作用でものすごい眠気。そのくせ、痛みのため夜が眠れないので、モルヒネを服用しなければならない。
 ステント交換手術もおこなった。
 年末からは毎週1本の割合で、「生きることばへ」の連載出稿がはじまる。最初の出稿は無言館の話だ。つづいて、正岡子規の話。
 第1回の冒頭。

〈人は普段、いつもの平穏な日常が続くことを疑わない。だから思いも寄らない病や命の危険に突然直面すると、未来への不安、死への恐怖が避けようもなく広がる。そこで人の生、そして死は、どう見えてくるのだろう。その問いに正面から向き合った文化人らの作品を読み解きながら、生きるための希望を探りたい。〉

 子規の『病牀六尺』については、こう書く。

〈一読して実感したのは、進行する病と近づく死を前にした子規の意外なほどの明るさだった。ありがちな病者の悲哀とは全く違う。病気を相対化し、その深刻さを笑おうとする生きる心の強さが、その時の私に強い印象を与えたのだろう。〉

 実感がこもっている。
 そして、2018年1月になった。
 緩和ケアを受けながらの原稿執筆がつづく。

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金子直史『生きることばへ』を読みながら(2) [人]

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 引きつづき、金子さんの日記を読んでいる。
 2017年1月6日に余命宣告を受けたあとは、しばらく放心状態になったと書かれている。それはそうだろう。
 化学療法の影響で、熱もつづいていた。
 12日には自宅の逗子に近い葉山の近代美術館で、宮迫千鶴夫妻の美術展をみたあと、海の向こうにくっきりと浮かぶ「真っ青な富士山」を見た。
 下旬から、社にも顔を出しはじめている。ある日、八重洲ブックセンターで、中江兆民や高見順の本を買ったのは、何か書きたいという思いがうごめいていたのだろう。
 金子さんには、奥さんと21歳と19歳のふたりの娘がいて、娘と「交換日記」なるものをつけていることも知った。
 2月4日の土曜日には、家族で葉山の森戸神社にお参りし、このときも青い海の向こうに富士山が浮かびあがっているのを見た。さぞかし感動的な富士だったにちがいない。
 その翌日、スタバで楽しそうにバイトする長女の姿をみて、うれしくなったという気持ちもよくわかる。
 2月6日には、社に手術後の状況報告。肺に微量の転移がみられ、化学療法がしばらくつづくが、ライターに復帰したいと伝えている。
 このころの日記には、煩悶のあとがうかがえる。
 子どもたちには「がんだけど必ず治るよ」と伝えているが、そのままでいいのか。そのうち、今できていることができなくなるだろうが、まわりのみんなに悲しい思いをさせたくない。
「神さま、たのむから、まだもう少し時間くれよ」
「今はいたって元気でも(せいぜい口内炎と小量の鼻血のみ)体内ではカチカチと、時計が時を刻んでいるのだろう。願わくは不発弾たらんことを!」
 3月には、就職活動をしている長女に内定がでてほっとしている。編集局から、文化部に編集委員として戻ることになった。現場復帰だ。
 化学療法や日赤での検査がつづく。現場に復帰すると、病気などまるでうそのように、さまざまな仕事が押し寄せる。
 いろいろな記憶がよみがえる。「そういうたくさんの記憶を抱えながら、おれという存在が、この世からいなくなるって? それはいったいどういうことだ! ……ふとした瞬間に、そうした思いが頭をよぎる」
 4月初旬の土曜日には、夫婦で箱根の日帰り温泉に行った。「降りしきる雨の向こうに満開の桜がにじんでいた」。下旬。次女の成人式写真の前撮りをする。娘のはじけるような笑顔が嬉しかった。
 すでに抗がん剤のアバスチンが効かなくなっている。
 文化部の仕事は忙しい。取材、インタビュー、新刊紹介、原稿、細部チェック、出稿。講演会や催しにも出かける。飲み会もある。
 5月10日。日赤で余命1年未満の宣告を受ける。
 ふと思う。「誰が死のうと、日常には穏やかさがあり、笑いがある。死とはその日常からの撤退だ」
 下旬、沖縄に取材にいき、辺野古を訪れた。座り込む人びとを機動隊が問答無用でごぼう抜きにするのを見た。
 初夏の出勤。「青く輝く空。空に向かって歌い出しそうな樹々。山をおおう緑。おれは光が好きだ。日差しを全身に浴びて過ごしていたい。これから職場へ」
 ある日、昼食を終えて、社のビルに戻る空中回廊で、いなずまのように思う。
「え! なに? おれが死ぬの? ほんまかよ! 信じられん、どうにも信じられん」
 6月からは丸山ワクチンの投与もはじめている。副作用の強い新たな化学療法も検討。
 6月某日、逗子のレストラン、サーファーズから海を眺める。
「ものすごく貴重な〈今〉が、ここにあると思った。心の中に刻印したくなるような──。/光にあふれる海と空。……飛翔するカモメを思った」
 次女の20歳の誕生日。「色々たいへんだろうが、ガンバレ!」
 このころのテーマは沖縄だ。インタビュー、沖縄現地取材がつづく。
 29に上がったマーカー値はフォルフォックスで抑えられているが、副作用がきつい。口内炎と強烈な眠気、その他もろもろの症状。
 7月には上田の無言館を訪れ、あらためて戦没画学生の遺した作品をみる。自分も何かまとまったものを書きたいと思いはじめている。
 日赤の検査で、肺の病巣が広がり、骨盤への転移もあると指摘された。新たな薬をはじめるべきか、迷う。
「治癒の可能性はない。投与し尽くしたところが死になる」と悟ってはいる。しかし、わらにもすがる思いで、有明のがん研でも見てもらった。「何もしなければ半年、3カ月で症状がでる」といわれ、よけいショックを受けた。
 22日、文化部の後輩で論壇担当の東海亮樹が48歳で亡くなった。

〈東海[本ではTになっている]が死んだ。昨21日の未明。大動脈瘤破裂で一週間意識不明だった。……自尊心が強く、生きづらいやつだった。繊細で涙もろい奴だった。死は、全ての人間にとってすごく傍らにある。〉(ぼくは東海さんとは親しかったので、Tとするのは忍びなく、本名で引用させてもらった。下町が好きで、何でもよく知っていた。このときも悲しかった。)

 そして、このころ、金子さんの日記にはこんなふうに記されている。

〈死へ向けて、どう時間を組織していくか。それを考えるのに忙しい。死への恐怖を味わっている暇がない。〉

 ひとつひとつのことばが身にしみる。
 まるでぼく自身のあしたがえがかれているような気がする。たぶん、かれは死とはなにかを教えてくれているのだ。

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金子直史『生きることばへ』を読みながら(1) [人]

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 2018年9月13日、共同通信文化部の金子直史さんが大腸がんのため亡くなった。享年58歳。その遺稿集が2019年8月に出版された本書である。
 個人的な思い出をいくつか。
 金子さんとはじめて会ったのは、2002年8月28日。当時、文化部長の立花珠樹さんもいっしょだった。ぼくは、あのころ子会社のKK(株式会社共同通信社)図書編集部にいて、田口ランディさんの新企画をめぐって文化部から相談を受けたのだった。同じ部の但木幸子さんにつきあってもらったことを覚えている。そのときの金子さんは元気そのもので、どこか無頼派の雰囲気さえただよわせていた。
 2008年3月には、辺見庸氏の連載「水の透視画法」の出稿作業を、立花さんとともにぼくが金子さんから引き継ぐことになった。この作業はぼくの定年後もつづき、その後、KKからの単行本化へとつながっていく。
 最後に金子さんと会ったのは2014年5月28日に日本プレスセンターで開かれた講談社の鷲尾賢也さんを偲ぶ会でのことだ。「やあ、どうも」といった軽いあいさつしか交わさなかったが、そのとき彼の顔が赤黒くなっているのが気になった。思えば、これが彼を最後に見かけたときだ。もっと話をしておけばよかったと悔やまれる。
 年譜をみれば、2013年1月29日に、金子さんは渋谷の日赤医療センターで大腸がんの手術を受けている。だから、その1年数カ月後に会ったとき、彼は引きつづき、抗がん剤治療を受けていたのかもしれない。そのことに気づかないぼくは、相変わらずの脳天気ぶりだった。
 2016年6月の検査で、大腸がんの再発がわかり、10月6日に渋谷の日赤で12時間におよぶ手術。
 年末にはがんが肺に転移していることがわかり、翌2017年1月6日の執刀医診断で、余命宣告を受けた。「まあ、何もしなかったら1年。処置をして2年?……3年かな??」
 いきなりの宣告である。
 そのときの日記には「『これはなんだ? いったいなんだ? 悪夢か?』と思った」と記されている。
 それから1年8カ月、金子さんはがんばる。原稿を書きつづけた。
 いま、その遺されたことばと、ぼくは向き合っている。

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『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(4) [人]

 山本七平は昭和天皇のことをどうみていたのだろうか。
 それをうかがうことができるのが1989年に刊行された『昭和天皇の研究』である。
 昭和天皇は3つの事例を例外として、立憲君主の枠からはみださなかった、と七平はみる。憲法を順守すること、きわめて厳密だったという。
 戦前、戦中においても、国務に関しては、国務大臣に権限をゆだね、その意志決定に容喙(ようかい)することはなかった。美濃部達吉の天皇機関説を支持していた。天皇自身が統帥権をふりまわして政府を批判したことは一度もない。
 ただし、例外がある。そのひとつが二・二六事件にさいして、昭和天皇が青年将校を暴徒と呼び、反乱鎮圧を指示したことである。
 もうひとつの例外。それは開戦が近づくなか、1941年9月の御前会議で、明治天皇の御製を詠みあげたことだ。「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という歌だ。明治天皇が内心、日露戦争に反対していたように、昭和天皇も日米開戦に懐疑的だった。しかし、軍部はそれを天皇が開戦を是認したと解釈した。
 さらに、第3の例外が終戦の「聖断」である。終戦を決断できない重臣たちにかわって、昭和天皇がポツダム宣言受諾による終戦を決断した。
 そのほかにも天皇がみずから「ご意向」を述べることがなかったわけではない。だが、それは通ることもあったし、通らないこともあったという。
 著者の東谷はこう書いている。

〈七平が指摘するように昭和天皇が立憲君主としての「自己規定」を守り続け、そしてもし重臣たちや軍部もまた立憲政治の「自己規定」を貫いて責任を自覚すれば、戦前・戦中の日本は違ったものになったかもしれない。〉

 日本の政治は戦争の空気に流され、無責任ないけいけ精神によって、無謀な戦争に突入してしまった。
 以前の現人神思想批判の激しさからすれば、昭和天皇を立憲君主としてとらえようとした七平の視点は、意外なほどあまいようにみえる。しかし、それは、天皇に過剰な幻想を加えることなく、天皇を立憲君主としてとらえる姿勢がだいじだと七平が考えていたからだ、と著者はいう。
 おそらく、七平は日本に大統領制はなじまないと考えていただろう。

 晩年の七平はイエス伝を書こうと思っていた。
 みずから経営する山本書店からは、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』を出版している。これは紀元66年から70年にかけてのローマへの抵抗を記録したものだ。そこでは奇しくもイエス・キリストの実在が証言されている。
 七平の方法は、歴史を通じてイエスを見るというものだ。とうぜん、ユダヤ人の物語にもふれることになる。
 著者の東谷は、不幸に不幸を重ねながらも神と対峙するヨブの姿勢が、戦争中の七平の姿と似ているという。七平は聖書の『ヨブ記』を、みずからの卑小性を認めながら、神に訴えて撥ねつけられ、それでも神に訴えつづける男の物語として読み解いていた。
 七平の父親は内村鑑三の弟子だった。だが、七平自身は内村に相矛盾する感情をいだいていた。
 こんなふうに書いている。

〈言うまでもなく内村は、その前半生において、日本の社会に徹底的にもまれ、叩かれ、再起不能なまでに叩き付された人間である。そしてこの経験は否応なく彼に、「日本なる一種の怪物」を凝視させる目を与え、これに対処する道を教えたといえる。〉

 これはまるで七平自身の自画像のようにみえる。七平もまた「日本なる一種の怪物」とぶつかっていた。
 遠藤周作が『沈黙』や『深い河』などでえがいた日本的なキリスト教に、七平は懐疑的だった。それは日本の「空気」にのみこまれたキリスト教なのだと思われた。
 生前最後の作品『禁忌の聖書学』は未完のまま残された。
「イエス伝は僕のライフ・ワークになるだろうが、それを書いたとき、僕は命を吸い取られるかもしれない」と、七平は語っていたという。
 七平は日本民族の永遠性の保証を、日本教、すなわち日本的自然の象徴である天皇制にみていたように思える、と著者は書いている。しかし、天皇制がはたしていつまでつづくかに疑問ももっていた。
「七平は最期まで聖書の世界と日本教の世界を行き来していた」と著者はいう。

〈七平は「現人神」に対して強い憎悪を抱いていたし、それを生みだした「日本教」に対しても戦いを挑んできた。七平説では、この「日本教」は「空気」を生みだすアニミズム的な文化なのだから文句なしに「敵」だといってよい。
 ところが、そのいっぽうで日本を継続させるためには天皇制が必要だという説には同意を示し、また、昭和天皇には立憲君主としての自己規定を貫いた見事な君主として高い評価を与えているのである。〉

 そこには一歩踏み外せば破綻しかねない矛盾した論理があったが、その矛盾に耐えながら、常に緊張を忘れず、現実にありうる狭いエッジのうえで考え抜くところに七平の真骨頂があったのかもしれない。
 1991年12月10日、山本七平はがんのため69歳で亡くなっている。もともと病弱な人なのに、20年あまりの評論活動で、200冊以上の本を残した。

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『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(3) [人]

 戦後、山本七平は出版界のなかで生きてきた。いくつかの出版社を渡り歩いたあと、1950年代半ばに自分の出版社、山本書店を立ち上げた。聖書学の本をだすのが念願だったという。
 本を刊行するかたわら、古本屋で江戸時代の思想書をみつけては読みふけっていた。その蓄積があったからこそ、1979年にカッパ・ブックス(光文社)から『日本資本主義の精神』を刊行することができたのである。この本では儒教や仏教、さらには鈴木正三(しょうさん)や石田梅岩の考え方が紹介されていた。
 七平は、経済学者の考える日本経済が、大企業中心のかなりゆがんだもので、その実態とはかけ離れたものであることをあきらかにした。
 日本の会社は合理的な計算だけで成り立っているわけではない。古くからの家族的ないし共同体的な性格が会社を支えている。それはけっして西洋にくらべて遅れていることを意味するわけではない。あくまでも日本社会の特徴なのだ、と七平は論じていた。
 その思想的ルーツを、七平は石田梅岩(1685-1744)に求めている。士農工商の身分秩序で商がいやしまれるなか、梅岩は商人に存在意義があるとし、「倹約」と「奉仕」の心構えこそが商人の道だと説いていた。ここから、いわゆる「石門心学」が生まれる。商人が売買するのは天下の助けになる、商人が売買によって利益を得るのは商人としての役割をはたすためである、と梅岩は論じた。
 さらに七平は江戸時代の藩に注目する。藩こそが日本企業の原型だったと述べている。藩は擬似的な「家」だった。
 江戸時代、財政逼迫により藩の運営は困難をきわめた。倹約とリストラによる改革を実行するのは簡単なようにみえる。だが、そうではなかった。
 藩主と家臣が一体となって苦労を重ね、それによって国を次の世代に伝えていくという心づもりがなければ、藩はつづかないのだ。それは商家でも同じである。現代の企業でもそうだろう。
 この独特の家意識、共同体意識が日本の企業、ひいては日本資本主義を支えてきた。
 だが、七平は単にそれを絶賛するわけではない。同時に、こうした共同体意識の強い日本企業が一歩誤れば、逆説的な結果を招くことも自覚していた、と著者の東谷はいう。
 共同体意識は、会社至上主義や甘え、無意味な競争意識、見かけだけの忠誠心をも生みだす。そのことは、バブル崩壊後、とりわけあらわになった傾向である。
 七平自身、こう書いている。

〈長所とは裏返せば短所であり、美点は同時に欠点である。このことは、日本に発展をもたらした要因はそのまま、日本を破綻させる要因であり、無自覚にこれに呪縛されていることは「何だかわからないが、こうなってしまった」という発展をもたらすが、同時に「何だかわからないが、こうなってしまった」という破綻をも、もたらしうるからである。〉

 ここには日本社会の特質をさぐるとともに、その長所と欠点を認識することで、自覚的な判断の必要性を説く七平ならではの発想がみられる。

 もうひとつ、次の代表作にもふれておこう。
 戦争中、フィリピンの戦場で、七平は日本人とは何かという疑問につきあたった。なかでも、「現人神(あらひとがみ)」への疑問が長くつきまとっていた。その謎を解くために書かれたのが1983年に刊行された『現人神の創作者たち』だという。
 その根源をさぐるために、七平は江戸時代の思想家、とりわけ山崎闇斎(1619-82)とその学派、崎門(きもん)派までさかのぼっている。
 学者のあいだでは、闇斎にたいする評価は低かった。せいぜい朱子学に神道思想をとりいれた思想家とみなされているだけだった。
 尊皇思想、言い換えれば「現人神」思想の起源をさぐるうちに、七平は江戸時代初期に日本に亡命した朱舜水(1600-82)という存在に気づく。徳川光圀(みつくに、すなわち水戸黄門)は、朱舜水の影響を受けて、『大日本史』の編纂をはじめたのだった。
 山崎闇斎は、その『大日本史』に心ふるわされた。闇斎にはエキセントリックなところがあり、みずからを絶対とし、いわば力づくで、弟子たちを自分の考え方にしたがわせた。
 しかし、晩年、神道に帰依すると、なかにはついていけなくなる弟子がでてくるようになり、闇斎学派すなわち崎門派は分裂する。この分裂は、朱子学が日本化されるなかで生じたといってもよい。そこに七平は思想のドラマをみた。
 崎門派は、君主とは何か、臣とは何かという問いをめぐって分裂した。儒教には、あやまちを犯した君主は放伐すべしという思想がある。しかし、日本ではどんなことがあっても君主は絶対だという考え方が生まれていた。
 そして、その究極の君主こそ天皇だということになる。天子をおいて君主はなく、臣たる者は天子に尽くさねばならない。激しい論争のなかで、闇斎派からそうした考えが噴出してくる。ここからは幕末の水戸学まで一息である。すなわち絶対忠君の考え方が生まれ、万世一系思想が確立されていく。
 ここで話は脇にそれるけれど、著者の東谷は、丸山眞男による日本政治思想史研究の方法を批判し、尊皇思想の淵源を追求した山本七平のほうに軍配をあげて、こんなふうに述べている。

〈江戸時代は朱子学で始まり、荻生徂徠の「作為」によって近代への道筋を見出したという[丸山眞男の]借り物の構図は、あまりにも無理な議論だったといえる。そもそもこの構図では、七平が『現人神の創作者たち』で示そうとした、日本の近代を実現した主役である、尊皇攘夷思想へと発展した日本的朱子学の役割を無視してしまうことになる。……
 七平は戦場での悲惨な体験を経るなかで、なぜこのような思いをせざるを得なかったのかという激しい疑念を抱き、まったく独力で孤独な探求を二十年余も続けた末に、本来あるべき江戸時代の思想史研究の道筋を日本に取り戻したのである。〉

 おそらく、これはただしい。
 クリスチャンである七平は、現人神の思想に賛同していたわけではない。しかし、多くの知識人のように、現人神の思想を小馬鹿にして、うっぷんを晴らしたりはしなかった。その根は意外と深いとみていたのである。
 現人神の思想は、変動いちじるしい日本の近代社会に一種の秩序意識をもたらした。だが、それは同時に諸刃の剣でもあった。現人神の名のもとに、一千万人以上が戦場に送られ、何百万もの人びとが戦没死したことは否定できないからである。
 戦後、天皇はみずから現人神でないことを宣言した。だが、日本人のなかには、いまも天皇を神のようにあがめる気持ち、そして天皇の国が認める殿上人になりたいという気持ちがまだ根強く残っている。その根源には伝統的な尊皇思想がある。『現人神の創作者たち』は、そのルーツをさぐろうとした作品だったといえるのかもしれない。

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『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(2) [人]

 戦争末期の1944年5月に、山本七平はフィリピンに送られ、ルソン島北部のジャングル戦で悲惨きわまる経験をしている。かれは、その体験を『ある異常体験者の偏見』、『私の中の日本軍』、『一下級将校の見た帝国陸軍』で、くり返し語っている。
 ジャングル戦の実態はどういうものだったのだろう。それは「放置されて腐敗していく死体がありふれた風景となるなかで、生命の危機に怯え、まともな食料もないまま、病名も分からない皮膚病に悩まされる、はてしない地獄のような毎日のこと」だった、と東谷は書いている。
 この戦場で、七平は自分の誤った判断で、部下を2名戦死させてしまう。戦争だから、それは仕方ないことだったのだが、七平はそのことをいつまでも悔やんでいた。
 軍は機械的な規則や命令だけでは動かない。組織には微妙な人間関係が存在している。組織間には、暗黙の了解や、貸し借りの関係もある。七平が部下を戦死させることになったのは、他の部隊への義理を返そうとしたためだった。
 終戦まぢか、親しかった少尉の分隊を見殺しにしたことも、七平の心に重くのしかかっていた。その少尉は「オレたちがここで頑張り、一兵でも多くの米兵をここに引きつけておく限り、敵の本土侵攻はそれだけ遅れる」と語っていたという。
 1945年8月27日、七平はアメリカ軍に降伏し、ルソン島南部のカランバン収容所に送られた。そこで見たのは、それまでの秩序が崩壊して、ヤクザによる暴力支配が生まれたことだった。自治組織ができず、暴力支配が横行するのは、日本人集団の大きな特徴だった。
 収容所では、現実と言葉とが乖離しているという、日本人の特色についても考えさせられた。あまりにも空疎な言葉、精神主義が横行している。そうした傾向は、右翼、左翼を問わない。日本人は、精神力という「不確定要素」を発揮すれば、たとえ軍備が劣っていても、相手に勝つことができると思っていたのだ。
 実体語に空体語を対置するのが、いまも変わらぬ日本人の特徴だ、と七平は指摘する。実体は常に希望的観測によってごまかされてしまうというわけだ。
 東谷は「甘い見通しが裏切られ、現実のほうがどんどん重くなってしまうと、その分のバランスをとるために、非現実的な言葉だけが膨らんでいくという現象」が、いまも多く見られると解説している。そして、最後は自然的虚脱状態がやってくる。
 東谷はこうも書いている。

〈多くの戦争体験記は、いかに戦争とは悲惨なものかを描こうとする。ところが、七平の場合には悲惨な戦場に直面した日本人はどのように行動するか、なのである。〉

 七平にはどこか冷めているところがある。それは、かれが日本では少数派でマージナルなクリスチャンであることと関係している、と東谷はみる。だが、いずれにせよ、戦争体験は七平に日本人とは何か、日本社会とは何かという根源的な問いがわきあがらせる大きなきっかけになったのである。
 こうして書かれたのが、1977年に出版された名著『「空気」の研究』である。
 日本社会は空気で動いているといわれる。しかし、日本人はしばしば空気に流され、判断を誤る。戦艦「大和」の特攻作戦が決まったのも、こうした戦争末期の空気のさなかだった。インパール作戦もそうだろう。
 だが、七平は単純に空気(ムード)を否定していない、と東谷はいう。人びとが空気に流されるのは、いまも昔も変わらない。いつのまにか、戦前の空気が否定され、戦後の空気が肯定されているだけだ。だが、その空気がはたして正しいかどうかとなると、疑問がわいてくる。
 空気とは臨在感だ、と七平はいう。臨在感とは、周囲の物や言葉に影響力を感じ、それに動かされてしまう心理的習慣を指す。日本人が空気を読むのは、アニミズム的な宗教感覚に由来しているのではないか、と七平は考えていた。つまり、目の前の現象を自分の同類のものとして、肯定的に受け入れてしまうのだ。
 こうした空気から抜けだすきっかけが水だ、と七平はいう。水をさす、あるいは水をかけることによって、人は現実に引き戻される。とはいえ、水をさすのは容易ではない。それが別の空気を生んでしまうこともある。
 しかも、日本人はみずからの正しさを、つじつまの合わない論理をもちだしたり、状況にあわせて平気で事実をねじまげたりして正当化する傾向がある。
 七平にとっては、戦後の平和主義は戦前の軍国主義と同じ空気なのだった。日本人がこうした空気に流されるのは、絶対的な固定倫理をもたないからである、と七平は論じた。
 日本の根本原理はキリスト教のような絶対神ではなく、汎神論にもとづく家族的相互主義であって、その頂点に天皇がいる、と七平はとらえた。それは西洋が進んでいて、日本が遅れているということではない。日本には日本のよさがあると同時に、問題もあるのだ。それは逆に西洋も同じである。
 日本人がその時々の空気によって動くのは、ある意味では自然なのだ。だが、それが場合によっては、あやまった判断につながることも、おおいにありうる。だとすれば、どうすればよいのか。
 東谷は七平の示した方向を、次のように解説している。

〈私たちはこうした「空気」について、それが「本能」と化していることを自覚しつつ、性急な理解を排して、ひとつひとつの事態について手をなぞるように確認し、バランス感覚を発揮し、「虚語」や「空体語」が肥大していないか確かめるしかないのである。〉

 まるで綱渡りのような、一種緊張に満ちた日々の精神的格闘を思わせる。だが、それが批評の宿命というものなのだろう。

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『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(1) [人]

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 このところ、ずっと体調が悪かった。
 ひどい花粉症で、つらい咳と喉の痛みがつづくなか、転倒して顔をしたたか地面にぶつけ、そのあと胃腸をこわし、すっかり弱った。
 どこにもでかけず、近くのレンタルショップで借りた韓流ドラマをみている。だいぶ流行遅れだが、『善徳女王』が、このところのお気に入り。とくに悪役のミシルが好きだ。
 元気な人をみると、うらやましくなるが、体力と気力の衰えは、いかんともしがたい。終日、ぼんやりすごすことが多くなった。歳だなと思う。
 しかし、あんまりぼんやりしていても、ますますぼけてしまいそうなので、読み残しの本を本棚からとりだしてみることにした。
 今回、読むのは東谷暁の『山本七平の思想』である。

 プロローグにこうある。

〈本書は、運命的な人生を歩むことで日本の未来を透視した、山本七平[1921-1991]という人間の生涯をたどりながら、私たちに残してくれた日本人および日本についての鋭い分析を、いまの時点で振り返りつつ読み直すことを目的としている。〉

 山本七平の著書は膨大にある。ぼくはこれまでほとんど読んだことがないので、このようなガイドブックはありがたい。
 そのデビュー作は1970年にイザヤ・ベンダサンの名前で、みずから経営する山本書店から出した『ユダヤ人と日本人』だった。七平は最後まで自分がイザヤ・ベンダサンだと認めることはなかった。だが、かれこそベンダサンだということは、なんとなく知れ渡っていく。
 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの作品は、日本文化の特色をユダヤ文化との対比で軽妙にえがきだしたものである。七平が実際のユダヤ人とその文化をよく知っていたわけではない。かれが知り尽くしていたのは聖書である。とりわけユダヤ教の原典でもある旧約聖書の思想こそが、日本文化の奇妙な特徴をあぶりだす手品のたねとなっていた。
 先にたねあかしをしてしまうと、『ユダヤ人と日本人』のおもしろさを半減してしまうことになる。この本は、いわばユダヤ人をだしにして、日本人があたりまえとして疑わぬことに疑問を投げかけ、それがいかに特異なことかをあぶりだしたところにユニークさがあった。
 たとえば、日本人は、安全と水は無料で手にはいると思いこんでいる。あるいは、日本人はユダヤ人とちがって、全員一致の決議がよいことと思いこんでいる。日本人はコメの文化をあたりまえと思っているが、牧畜文化を基層とする世界の大勢からすれば、それはじつにめずらしい文化なのだ、というように。
 日本の文化は、全員一致で同一行動をするのをよしとする。そのため、独裁者を必要としない。古来、祭儀権と行政権を分立して、独裁者を生みださない工夫がこらされていた。
 また、日本人には理屈を超えた「理外の理」というようなものがあって、なるべく皆が損をしないような仕組みがはかられている。日本には「日本教」とでもいうべき独自の宗教があって、「世間」と結びついた規範や規律が人びとのあいだに行き渡っている。
 この本は、作者が謎ということもあって、単行本だけでも75万部以上売れたという。
 著者はこう書いている。

〈『日本人とユダヤ人』の「日本人は世界的な視野でみると、異質だといわれているユダヤ人と比べても、もっと異質な存在なのだ」というメッセージは、まさに知りたいこと、知らねばならないことが書いてあると思わせるに十分だった。〉

 たしかに、それもこの本が売れた要因のひとつだろう。
 しかし、より重要なのは、この本が山本七平の暗黙のデビュー作として、その後の活躍を支えるジャンピング・ボードになったことだ。
 これ以降、山本七平は、日本人とは何か、日本社会とは何かというテーマを終生にわたって追求していくことになる。
 著者のいうように、七平がこうしたテーマに固執するようになった理由は、その出自と関係している。七平自身が「私は生まれながらのクリスチャンなので、もの心のついたときすでに教会の中にいた」と書いている。
 日本のキリスト教徒はカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教のすべてを合わせて100万人そこそこ、全人口のわずか1%だ。七平はクリスチャン共同体のなかで、少数派であることを自覚しながら育った。
 さらに、その親戚のなかに、トリさまと呼ばれる人がいた。父の叔父にあたり、大逆事件で幸徳秋水とともに処刑された大石誠之助の実兄だった。トリさまは、口癖のように「怒りを抑える者は、城を攻めとる者に勝る」と話していたという。
 著者はこう書いている。

〈少数派であるキリスト教徒という立場は、それだけなら必ずしも逆境ではなかったかもしれない。しかし、戦前において天皇の弑逆(しぎゃく)を試みた人間の係累であるという境遇は、社会生活のなかで肩身を狭くする理由でありえた。ましてや、戦争遂行のために天皇崇拝が強く鼓吹されている時代にあっては、迫害に至ってもおかしくなかった。〉

 七平は大逆事件について、ほとんど論じなかった。むしろ避けて通っている。怒りを抑える道を選んだのだろう。耐えることが習い性になっていたともいえる。
 七平は少年のころから無類の読書好きだった。マルクスやクロポトキン、バクーニン、幸徳秋水の本も読んでいた。聖書の研究書も読みあさった。そうしたなかで、七平はいまさらながらに日本が神仏習合の国であることに気づく。それがのちに、かれを徳川時代の思想の研究をうながすことになったという。
 青山学院高等商業学部に進学した七平は、相変わらず読書の日々を送り、ドストエフスキーやカント、それにコーランや古代エジプトの歴史書まで読書範囲を広げていた。
 1941年12月8日、日米開戦の日がやってくる。翌年6月、七平は徴兵検査を受けた。そして、その10月に入営して、1年半後の1944年5月に下関からの輸送船でフィリピンの戦場へと向かう。
 そして、フィリピンでの絶望的な戦いと収容所での経験が、日本軍と日本人について、さらに深く考えさせることになるのだが、それについてはまた次回述べることにしよう。

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苅部直『丸山眞男』を読みながら思うこと二、三(2) [人]

 丸山は終戦直後の状況を「多様で混沌とした可能性をはらんでいた民主主義の沸騰期」と呼んでいる。丸山はこのころ埴谷雄高や武田泰淳、竹内好と出会い、互いに往き来する仲となった。丸山がおしゃべりで、話しはじめると止まらなかったというのは意外である。この習性はおそらく最晩年までつづいたにちがいない。
 思想の科学研究会などの文化団体結成にもかかわり、三島市のサークルに呼ばれて講義もしている。大学に閉じこもることなく、行動範囲を広げて、生き生きと活動していた様子がうかがえる。
 連合国軍、とりわけ米軍の占領下であったにもかかわらず、この国には奇妙なことに「多様で混沌とした」自由の空間が生まれていた。共産党までもが合法化され、広く人権が認められ、思想統制がなくなり、言論の自由が保証されるというのは、戦時中では考えられない状況だった。丸山自身も解放感を感じていた。
 とはいえ、戦後の自由はあてがわれた自由にちがいなかった。丸山はそれを自主的な自由にまで高めねばならないと主張している。制度の変化に満足するのではなく、それを支える人間の精神を改革しなければならない。とりわけ、政治の場にかぎらず、職場や団体にも民主主義を定着させなければならない。精神の改革こそがポイントである。
 このころ、丸山は健全で民主的なナショナリズムの形成を支持していた。憲法9条については軍事的国防力をもたない国家という新しい国家概念に共鳴している。労働組合の活動にも期待を寄せていた。
 戦後、丸山が注目されたのは、その天皇制批判である。もともと昭和天皇自身には敬意をいだいていた。だが、悩みに悩んだ末に、丸山は天皇制が日本人の自由な人格形成に致命的な障害をもたらしているとの結論に達する。こうして、1946年5月号の『世界』に代表論文「超国家主義の論理と心理」が発表された。
 この論文で、丸山は日本では国家が人間の内面へ無限に介入するいっぽう、「私的利害」が国家権力をたやすく動かすこと、そしてより上位の者へと随順する「権威への依存症」が上から下まで日本人全体に浸透していることを指摘した。まるで、現在の森友・加計の構図があてはまるかのようだ。
 権力の偏重が日本の宿痾だった。ここで、蛇足ながら、ぼく自身の思いつきのセオリーをもちだすと、日本では、政治家は支持者に弱く、役所は政治家に弱く、民間は役所に弱いというじゃんけんのような関係が成り立っている。民間が役所に便宜をはかってもらおうとすれば、政治家を動かすのがいちばんだ。役所は政治家と昵懇の民間業者をけっして邪険にせず、政治家から具体的な指示がなくても積極的に便宜をはかる。日本では、こうした図式で利権構造がつくられてきた。森友・加計問題は、たまたま安倍首相がらみで目立つだけで、日本の利権構造のなかでは、ほんの氷山の一角のできごとだともいえる。
 おそらく戦後直後は、こうした日本の政治構造、利権構造が変わると期待された「空白」の時代だった。
「超国家主義」とは別の論文で、丸山は政治家や軍人、官僚にみられる「無責任の体系」を指摘している。これも、現在とまるで同じ光景ではないだろうか。口先はともかく、ほんとうに責任をとろうとする政治家や官僚がいないのが、日本の政治世界である。丸山は、昭和天皇も政治責任は免れないと論じた。だが、その先は急に弱腰になる。日本社会の病理をただすには各人が「純粋な内面的な倫理」を確立し、「自由なる主体的意識」を育てるほかない、というのが丸山の考え方だった。
 丸山は日本人の倫理性と主体性の欠如を指摘しつづけた。それはわかりにくく、しばしば誤解を生んだこともたしかだ、と著者は指摘する。倫理性や主体性の問題では片づかないと思う人も多かっただろう。しかし、戦後たてつづけに発表された丸山の論考が、日本人の無意識にまで踏みこむことで、マルクス主義などではみられないユニークな視点を提示したのはまちがいないだろう。
 だが、そもそも倫理性と主体性とは何を意味するのか。それは前に述べたように、自由と平和と正義の理念を指すのだろうか。大衆社会状況のなかで、そうした古典的理念はすでに失われつつあった。
 人びとはすでに情報の渦に巻きこまれ、政治よりも娯楽やスポーツなどに関心をもつようになっている。自主的判断といっても、それはマスメディアによってすり込まれた見解をなぞっているだけかもしれない。大衆社会のなかで、人はむしろ情緒や欲望に突き動かされ、政治権力はそうした流れを統合するものとして機能していた。
 カール・シュミットがいうように、敵と味方を区別し、味方を結集し敵を排除しようとする努力が「政治的なるもの」だとすれば、政治はこの世界のどこにも遍在する。こうしたせめぎあいを最終的に調整し統合する権力が政治権力なのである。政治権力によって構成される国家は、かつてないほど強力な存在となった。にもかかわらず、その権力を行使する意志の中心が見当たらない空虚な制度体になってしまっている。そのようななかで、はたして個人は倫理性と主体性を保つことができるのか、と丸山は問わざるをえなかったという。
 だが、それは難問だった。
 戦後の解放の時代はそう長くつづかなかった。いわゆる「逆コース」がはじまる。朝鮮戦争の勃発、警察予備隊の発足、レッド・パージ、日の丸・君が代の復活と、事態は急速に展開する。講和条約をめぐる論争が盛んになるころ、「恐怖の時代」の到来を感じた丸山は「平和問題談話会」に参加し、リベラリストの立場から、平和共存と非武装中立の立場を唱えた。
 だが、そのころから丸山は結核をわずらい、1951年2月から1年2カ月、1954年1月から1年4カ月、国立中野療養所での入院生活を強いられることになる。ストレプトマイシンによる化学療法はまだ普及していなかった。
 療養生活のなかで、丸山は「他者感覚」の重要性に思い至る。すなわち、安易に同情するのではなく、相手を他者として理解し、対話をつづけていくことがだいじだと考えるようになったという。
 政治的無関心の広がりは政治への無力感のあらわれだ、と丸山はみていた。だが、それは「焦燥と内憤」と背中合わせになっており、いったん政治指導者にあおられると、「権威への盲目的な帰依」に向かっていく。それがファシズム独裁を生むのではないか、と思うようになっていた。
 こうした反動的な動きに対抗するには、「国民ができるだけ自主的なグループを作って公共の問題を討議する機会を少しでも持つこと」がだいじになってくると考えていた。このころ丸山はナショナリズムへの警戒を強めている。政府の動きを監視しなくてはならない。それをおこなうのは政治のアマチュアだ。「政治を目的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与えられる」。そうした経験を積むことによって、人びとは適切な政治的思考力と判断力を身につけていくことができる、と丸山は主張した。
 こうして、丸山は市民のひとりとして、60年安保反対運動に加わる。だが、運動が盛り上がるなか、丸山は大きな不安を感じていた。一時的な盛り上がりのあとには、宿酔いにも似た長い停滞がやってくるのではないかと思っていたという。熱狂的な大衆運動には、どちらかというと懐疑的だった。
 丸山は政治を本来的に保守的(あるいは精神的)なものと考えており、激しい行動によるラディカルな変革へのあこがれを、ファシズム的なものとみて嫌っていたという。
 丸山の手記には、イギリスの政治哲学者マイケル・オークショットの次のようなことばがつづられている。
「政治学とは、恒久に完璧な社会を打立てる技術ではなくて、すでに存在しているある種の伝統的社会を研究してつぎにはどこへ行ったらよいのかを知る術である」
 60年安保闘争のあと、丸山は現実の政治状況から離れて、日本思想史の研究に立ち戻っていく。だが、スランプがつづいた。
 1968年から69年にかけての大学紛争のあと、病気もあって1971年に57歳で東大を退官。悠々自適の生活にはいったあとも、82歳で死去するまで、ほとんど論文らしいものは発表しなかった。
 丸山は日本人の思考様式には、現在の状況を仕方がないとする歴史観、共同体秩序からの離反を罪とみなす倫理意識、上位の人に奉仕するのをよしとする政治意識がまとわりついていると指摘していた。だとすれば、こういう社会のなかで、はたしてありのままの「個」としての自我などというものが芽生えるのか。
 丸山は1960年の「忠誠と反逆」という論文のなかで、徳川時代の武士がみずからの主君をいさめるための「諫争(かんそう)」に注目する。ここには、まさに忠誠と反逆の葛藤が引き起こすエネルギーの噴出がみられる。
 しかし、こうしたダイナミズムは明治以降、次第に失われていく。人びとの自我は内なる相克の意識を失い、陰影を欠く平凡なものになっていった。ばくぜんとした反逆が現代の気分なのである。
 現代人は国家や社会の内部に浸透するイデオロギーや常識によって、世界をはじめから一定の「イメージ」でとらえるようになっている。自分が「逆さの世界」に生きていることも、なかなか気づかない。
 だいじなのは、内と外との境界に自分を置くことだ、と丸山はいう。それ以外に、内側から与えられたイメージを突き崩すことはできない。そして「他者をあくまでも他者としながら、しかも他者をその他在において理解すること」。こうした日々の営みが新たな思索を切り開いていく、と丸山は考えていた。
 丸山は日本思想史の研究を通じて、引き継ぐべき伝統を新たにえがきなおそうとした。そして、それを日本人にあった「型」として抽出した。そのようなこころみのひとつが、1986年に刊行された『「文明論之概略」を読む』に結実している、と著者はいう。そこで強調されたのは庶民の智恵だった。
 1978年に丸山は来日したフランスの哲学者ミシェル・フーコーと会っている。「目の前の現実を見すえながら過去の歴史に沈潜し、史料の森の中をかけめぐって、これまで支配的な伝統と考えられてきたものとは異なる、もうひとつのありえた伝統をくみだし、それを明確な形に描きあげること」──その点で丸山とフーコーの方法は共通していた、と著者はいう。
 1980年の論文「闇斎学と闇斎学派」では、朱子学者たちの激しい論争をふり返りながら、不寛容の悲劇が広がる時代に、「他者感覚」をもちながら「境界」に立ちつづけることを、ぎりぎりの選択肢として示したという。それは新左翼が内ゲバにふける時代への忠告でもあった。
「政治と同じく学問についてもアマチュアによる『在家仏教』を唱えた丸山にとっては、あらゆる人々が広い意味での知の担い手として、対話の相手なのだった」と、著者はしめくくる。
 精神的格闘ということばが思い浮かぶ。晩年の丸山は、大衆社会化する日本のなかで、単純に西洋の知に依拠せず、真にリベラルであるための通路を切り開こうとしていたのかもしれない。

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