バブルは常に発生する──『バブルの経済理論』つまみ読み(6) [経済学]
バブルの熱狂が金融危機にいたる歴史のメカニズムをえがいたものとしては、チャールズ・キンドルバーガーの『熱狂、恐慌、崩壊』(1978)が知られている。規模はともかく熱狂、恐慌、崩壊はその後もつづき、いまにいたる。市場はかならずしも合理的ではない。市場の不安定化をもたらす群集心理的な投機は常に存在する、とキンドルバーガーは考えていた。
投機の背後には、かならず信用の膨張がある。陶酔のなかで資産価格が高騰する。そして、陶酔はいつかさめ、資産価格が下落すると、連鎖的にパニックが生じる。
資本主義はバブルとその崩壊の連鎖をくり返してきた。もはや恐慌はないという予言は、2008年のリーマン・ショックによって完全に裏切られた。これまでの歴史をみるかぎり、いったん信用の拡大がはじまると、中央銀行は信用の膨張を抑制することができないことが明らかになりつつある。
合理性にもとづいて、その体系を築いてきた経済学は、現実のバブルにたいして無力だった、と著者(櫻川昌哉)はいう。というのも、人びとが合理的に行動するかぎり、バブルなど発生するはずがないからである。
〈合理的思考で自らの脳に塹壕(ざんごう)を築いた経済学者にとって、非合理的だとしか思えない人々の行動は理解を超えていた。合理的に行動していたらこんな荒唐無稽なことは起きなかったはずなのにと、バブルを前にして立ち尽くすのみであった。経済政策の論議は、せいぜいバブル崩壊後に生じる危機に対処すればよいというお粗末きわまりないものであった。〉
頭のなかに塹壕を築いてきたとは、言い得て妙である。
そこで、実際のフィールドに立って、経済学的思考からすれば非合理的と片づけられてしまいがちなバブルについて、経済理論を組み立ててみようという著者のこころみがはじまることになる。
バブルの経済理論を、著者はミクロ理論とマクロ理論にわけている。
まずはミクロ理論からみておこう。
〈本来価値を持たない財が価値を保ち続けるとき、価値を支えるのは人々の信念や思い込みであり、その期待はその財が元来備えている利用価値とは無関係であることもしばしばである。我々はこうした財を総称して“バブル”と呼ぶ。〉
「本来価値を持たない財」とは、不動産や株式などの資産商品である。かつてはチューリップもそうした資産商品に含まれたことがある。小麦や綿花などの先物商品も投機の対象になった。
それらに価値がないわけではない。もちろん価値がある。しかし、これらが資産商品となる場合は、流動性が高い、低いにかかわらず、目標とされるのは、あくまでも将来における価値のはねあがりである。
言い換えれば、バブルとは資産商品の価値の高騰を期待しておこなわれる貨幣による投機的行動がもたらす現象だといってもよい。
そうした商品がいつまでも値上がりするわけはない。そのことがわかっていながら、なぜか多くの人が投機に走る。バブルはギャンブルとつながっている。そして、たいていが痛い目にあった。そんな非合理的な行動を、いつもなぜか人はとる。
貨幣がバブルだとしたら、貨幣自体の崩壊もあることを著者は指摘している。それがハイパーインフレーションである。それは戦前のドイツや敗戦後の日本だけで起こった現象ではない。現在もあちこち(たとえばジンバブエやアルゼンチン、ベネズエラなどでも)で生じている。
われわれはふだん意識しないけれども、実はバブルのなかで暮らしている、と著者はいう。たとえば1万円札は10円でできるが、われわれはそれを1万円と信じて使っている。なぜなら、日本銀行券と印刷されているから、それを信用しているわけだ。そして、それが将来も1万円としての価値をもちつづけると信じているからこそ、それを貨幣として認めているのだ。もし、それがじつは紙切れだと気づかされたら、その瞬間、たちまちバブルがすけて見えてきて、1万円札の貨幣価値は暴落する。ハイパーインフレーションは貨幣の信用が失われ、その幻想が暴かれたときに発生する。
バブルは貨幣と商品との関係性において生じる。商品を中心にみれば、資産商品の価値が持続的に上昇すると判断される場合に潜在的なバブルが発生し、その判断が過剰な幻想に過ぎなかったとわかったときに、それがはじめてバブルだったとわかり、バブルの崩壊がはじまる。このときバブルは土地や株式など資産商品に集中して発生するので、物価そのものはさほど上昇するわけではない。
もうひとつは貨幣自体のバブルである。貨幣の価値が下落しつづけ、それが貨幣所有者の不安と結びつくときは、貨幣自体にたいする信頼感が薄らぎ、ハイパーインフレーションが発生する。すべての商品の価格が上昇し、急激な物価高が生じ、貨幣システムが崩壊する。
株式の場合をみておこう。理論的な説明は苦手なので避けて通る。
人が株式を買うのは、配当と株式の値上がりの両方、あるいはどちらかを期待するからである。主流派の経済学は、ここで人びとは市場について正確な情報をもち、合理的な意思決定をすると想定する。そうであるかぎり、企業の価値は正当に判断され、企業価値の上昇、あるいは下落はそのまま株価に反映されるだけであって、バブルなどおこるはずがない。
それなのに、じっさいにバブルが発生するのはなぜか。資産価格が割高になってしまうのはなぜか。逆に、大暴落がおこるのはなぜか。
市場の情報は、じつはすべての投資家に共有されているわけではない。「金融機関と一般投資家の間には情報格差が存在しており、金融機関はその情報の優位性から利益を獲得している」と著者はいう。それだけではない。市場に参加するのはかならずしも合理的に行動する懸命な投資家ばかりとはかぎらない。みずからの感覚だけを優先する自信過剰の投資家も存在する。将来への期待がふくらみ、自信過剰の投資家ばかりが増える市場ではバブルが生じる。
プロの投資家は株価の上昇がバブルだと確信しても、すぐに資産を売却しない。バブルに乗じて利益をあげようとして資産を保有しつづける。そして、多くの人がバブルと気づく直前に資産を売却するのが、プロがプロたるゆえんだ。
ここで紹介されるのが、ケネディ大統領の父、ジョセフ・ケネディのエピソードである。かれはアメリカが株式ブームにわきたっていた1920年代末期、靴磨きの少年がやたら株の話をするのを聞いて、手持ちの株をほとんど売り払った。それは1929年10月23日「暗黒の木曜日」の前日だったという。
現在のヘッジファンドがとろうとしているのも、これと同じ行動だという。できるだけバブルをあおって、たとえばIT株などの株価をつり上げ、そのピーク直前に株を売るのである。
実験経済学は、将来どこかでバブルが破裂することがあらかじめわかっていたとしても、バブルがおこりうることを証明した。キンドルバーガーも、バブルが崩壊して「流動性不足への恐怖[おカネが消えてなくなるという恐怖]がパニック心理と結び付いたとき」に、資産の投げ売りや銀行破綻が実際に起こるととらえていた。売りが売りを呼ぶわけだ。この場合は逆の行き過ぎが生じることになる。
次に論じられるのは、バブルのマクロ経済学についてである。難解なので、はっきり言ってよくわからない。
著者は4つの命題を挙げている。
(1)利子率が経済成長率を下回るとき、合理的バブルが発生する。
(2)合理的バブルの存在する定常状態の経済は、効率的な資源配分を達成する。
(3)定常状態の経済では、合理的バブルの規模はGDPの一定割合となる。
(4)経済に金融市場の不完全性が存在するとき、動学的に効率的な経済にバブルは発生する。
いずれも厳密な経済学用語で述べられているため、ぼくのような素人には、よくわからない。著者のいわんとすることを、ぼくなりに勝手に解釈してみる。
(1)から(3)までは「合理的バブル」についての命題である。
合理的バブルとは一定期間持続するバブルのことである。このときはバブルであることがわかっていても、株であれ不動産であれ、さらに買い手が増えて値が上がるにちがいないという「期待の連鎖」がバブルを持続させていくことになる。
もしバブル資産が利子率より高い収益率を保証するなら、人びとは喜んでこれを購入すると考えられる。またバブル資産が経済成長率と等しい率で上昇するならば、バブル資産の収益率は経済成長率と等しくなる。そして、利子率が成長率を下回るときは、バブル資産の収益率が実物資産の収益率より高くなるから、そこでは合理的なバブルが発生する。著者はそんなふうに説明する。
このとき人びとは実物資産よりバブル資産を購入するが、その結果、利子率は成長率と等しくなるまで上昇する。
こうして経済は利子率と成長率とが等しくなる定常状態に達する。この定常状態においては、合理的バブルのもとで、人びとの消費水準は最大に達し、効率的な資源配分がおこなわれる。
そして、仮にGDPが3%で成長して、バブルも3%膨張するとすれば、バブルは膨張しても持続する。バブルがGDPの一定割合を保つかぎり、バブルは破裂することがない。だが、GDPの成長より早いスピードでバブルが膨張すれば、いずれ経済が支えきれなくなり、バブルは破裂する。
低金利のもとで、ゆるやかなバブルがつづいているといえば、おわかりのように、これは現在2020年代はじめの日本の状況である。しかし、これもあやういバランスの上に成り立っていることはいうまでもない。
しかも、実際の金融の世界は完全性が保たれているわけではない。だれもが等しく情報を共有しているわけではなく、契約は正しく履行されているとはかぎらず、企業統治は完璧になされているとはかぎらない。「金融の世界は、市場の不完全性の“坩堝(るつぼ)”ともいえる」と、著者も指摘する。
そして、いよいよ(4)の本格的バブルの可能性が浮上する。
金融市場が不完全な世界では、バブル資産の存在が投資を刺激する。バブル資産が高騰すると企業のバランスシートは改善され、企業は銀行からの借り入れを増やして投資を拡大することができる。ここでは慎重なはずの銀行が豹変して、バブル資産を担保にして融資を拡大する方向に走り、知らず知らずのうちにマクロリスクを抱えてしまう姿がえがかれている。
著者は過剰な貯蓄がカネ余りバブルを生みやすいことも指摘する。1986年から90年にかけての日本のバブルは、その典型だった。だが、日本のバブルの特徴は、バブルに踊ったのが企業と銀行であって、家計はそれほど誤りを犯さなかったことだという。
また、バブルが経済成長率とおなじスピードで膨張するならば、バブルは持続しうるとするならば、資産商品の対象は不動産や株式とはかぎらない。現在、日本においては、土地バブルに代わって国債が余剰資金を吸収する対象になっている、と著者はいう。
なぜ、こんな現象がおこったのだろう。
〈土地神話の崩壊により、空気が少しずつ漏れ出すようにスローパンクチャーを続ける土地バブルの縮小によって節約できた資金が国債購入に向かい、国債の実質価値を支えたのである。土地バブルの暴落でできた空洞を、国債という霞(バブル資産)で埋め合わせたのである。〉
株式や土地、住宅だけではなく、貨幣(タンス預金)や国債もバブル資産となりうるのだ。
こうしてみると、バブルはけっして昔話ではない。
バブルといってわれわれが思い浮かべるのは1990年前後の日本のバブル崩壊と2008年のリーマン・ショックぐらいだが、じつはバブルはいまも流転している、と著者(櫻川昌哉)はみている。
1980年代に日本はバブル景気を味わったあと、土地バブルが崩壊した。日本企業が生産拠点を東アジアに移すと、こんどは東アジアの株式と不動産の市場がわいた。しかし、1997年にアジア通貨危機がおこると、資金はアメリカに環流し、ITバブルを引き起こした。だが、それも2001年に崩壊し、今度は住宅バブルがはじまり、2008年のリーマン・ショックと世界的金融危機へと帰結した。そのころ、中国では住宅バブルがはじまる。
著者はこう書いている。
〈その時々の経済の主役の交代とともに、バブルの重心は移動しているのである。ある地域で起きたブームは、資金を世界中から引き寄せ、また国内のカネ余りを膨張させ、自信過剰と楽観主義のスパイラルとともに資産価格の高騰を引き起こす。〉
だが、そのバブルもいつか崩壊する。10年以上つづいた中国の住宅バブルもいま崩壊しつつある。
資産バブルが崩壊したあと、先進国政府は財政拡大と金融拡大によって、経済危機からの脱出をはかろうとした。利子率は低下し、巨大な債務残高が残り、経済は長期停滞の局面にはいった。
著者は、現在は、資産バブルの崩壊で生まれた空洞を、現金や国債が埋めている状態だという。そして、それ自体が、国によってつくられたいわば逆バブルであって、将来を先食いした一種の贈与経済なのだという。そうしたなかで、経済はますます長期停滞に落ち込みかねない。経済を動かすのは民間の力である。市場経済に活気を取り戻すには、大きな転換が必要だ、と著者は考えている。
リーマン・ショック再考──『バブルの経済理論』つまみ読み(5) [経済学]
アメリカでは2008年9月に大手投資銀行のリーマン・ブラザーズが破綻し、世界じゅうが金融危機におちいった。リーマン・ショックといわれる。そこでは住宅バブルと証券化商品のバブルという二重のバブルが重なっていた、と著者(櫻川昌哉)は指摘する。
バブルには、それが発生した場所固有の物語がある。
オランダのチューリップ・バブル、イギリスの南海泡沫事件、フランスのミシシッピ計画、ヨーロッパの数々の恐慌、昭和の金融恐慌、1929年の大恐慌、1980年代のチリの経済危機、日本の土地バブル、1990年代のアジア通貨危機、そのほかいくらでも挙げられるが、どのバブルもそれぞれ固有の特徴を背負っている。
著者はバブルの一般理論を組み立てようとしているが、それぞれのバブルがもつ固有の特徴を抜きにして、バブルの歴史を語ることはできないという。そのようなひとつとして取りあげられるのが、2008年にアメリカでおこった、いわゆるリーマン・ショックである。
それはどのようにして発生したのだろうか。
2000年から2006年にかけ、アメリカの住宅価格は実質で57%上昇し、2006年から2010年にかけ34%下落したという。典型的なバブルとその崩壊が生じていた。住宅価格の上昇がとりわけ際立っていたのは、マイアミやロサンゼルス、ニューヨークだ。
〈この時期はちょうど、住宅ローン債権を担保とした証券化商品への需要が高まった時期であった。2000年には5720億ドルであった純粋に民間発行の資産担保証券(MBS)は、その後急速に増加して2006年には2兆6000億ドルへとほぼ5倍に膨れ上がる。……とりわけ劇的に増加したのが、低所得者向け住宅ローンであるサブプライムローンであった。〉
サブプライムローンが膨れ上がり、それが住宅価格を押し上げ、最終的にバブルが崩壊する。しかし、この構図を理解するためには、証券化というアメリカ経済独特の仕組みを知らなければならない、と著者はいう。それは1913年まで中央銀行が存在しなかったアメリカの歴史的事情によるものだ。
詳しい歴史は省略するが、アメリカで全国的な金融制度確立の契機となったのが、1863年に制定された国法銀行法だった。それにより小切手の決済を含め、金融制度は徐々に整備されていくが、それでも金融危機は頻発していた。
アメリカでは表だった民間の国法銀行や州法銀行とは別に、謎に包まれたプライベートバンクがあった。その代表がJPモルガン商会だ。
ジョン・ピアポント・モルガンはJPモルガン商会の頭取として、商業銀行と投資銀行を兼ね備えた組織をつくりあげた。富裕層から預金を集めただけではなく、株式や債券の発行・引受業務を通じて企業の資金調達を助けていた。それに加えて、モルガン商会はいくつもの企業合併を仕掛けることで、巨大な持ち株会社をつくりあげている。
「最後の貸し手」がいなかったアメリカでは、JPモルガンこそが事実上の中央銀行だったという。
だが、巨大銀行JPモルガンへの国民的反発も強く、1913年に連邦準備理事会(FRB)が発足すると、12の連邦準備銀行をテコとして、金融制度全般が統括されるようになる。
第1次世界大戦のあと、国際金融センターはロンドンからニューヨークに移った。アメリカの黄金時代がはじまる。株式市場は活況を呈し、商業銀行は証券子会社を設立して、株式市場に参入した。これにより、株式市場の市場規模が爆発的に拡大し、ウォール街はバブルに躍った。
そして、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」に、株価の暴落がはじまる。1933年までにアメリカの実質GDPは29%落ち込み、物価も28%下落、失業率は25%に達した。
大恐慌がおこると、市場を陰であやつっていた巨大銀行に批判が集まった。1933年にはダグラス・スティーガル法が成立、同一銀行の商業銀行業務と投資銀行業務の兼務が禁止される。これにより、JPモルガンは商業銀行となり、投資銀行部門はモルガン・スタンレーとして生き残ることになった。
ニューディール政策は持ち家取得を促進した。そこからアメリカの住宅金融の歴史がはじまる。住宅ローン専門の貯蓄貸付組合(S&L)が誕生した。さらに政府は預金保険制度を導入して、S&Lの信用強化をはかった。こうした裏づけもあって、S&Lは長期低利の固定金利ローンを提供できるようになった。だが、当初、住宅ローンを組めたのは白人の中産階級以上にかぎられていた。
1970年代、2度の石油ショックをへて、S&Lは存続の危機に見舞われる。1980年にレーガンが大統領になると、規制緩和がおこなわれ、S&Lも資産運用対象の拡大、預金金利の自由化を認められるようになる。そのいっぽうで、預金保護は維持されていた。そこでS&Lはハイリスク・ハイリターンの融資案件や金融商品に手を出すようになる。ギャンブル的な不動産開発がはじまった。
いっぽう、S&Lは手持ちの住宅ローンの売却をはじめた。これにより市場に住宅ローン証券が出回るようになる。投資銀行のソロモン・ブラザーズはS&Lから大量の住宅ローン債権を買い取り、住宅ローン担保証券(MBS)として売りだすようになった。
住宅ローンの証券化とは、住宅ローンを担保にして、新しい証券をつくり、それを売りだすという手法である。債権のリスクはあるが、それを大量にまとめれば金融工学の手法でリスクを軽減し、利益が確保できると考えられていた。
まさに先取りしておカネをぐるぐる回して儲けをかすめるといった感じだが、多くの銀行が国債より利回りの高い安全資産として、住宅ローン担保証券を大量に買い入れるようになった。
だが、著者はここに「証券化モデルの致命的な欠陥」があったという。「証券化スキームは、責任を持って借り手から債権を回収する主体が存在しなくなるという致命的な問題点を抱えている」というのだ。
証券化は貸し出しの質の低下という致命的な欠陥を内包していた。証券化では適格な担保は確保されない、と著者はいう。
にもかかわらず、証券化商品は大量に発行されつづけた。2000年に5720億ドルだった住宅ローン担保証券は2006年に2兆6000億ドルへと5倍に膨れあがった。いっぽう、銀行は貸出条件を緩和して、住宅ローンを拡大し、サブプライムローンは劇的に増加した。
しかし、住宅価格の上昇をあてにしたビジネスが長続きするわけがない。住宅価格が下落すると、返済不能の貸出債権が続出し、証券化商品の価値も暴落する。こうして、アメリカの住宅バブル(二重のバブル)が崩壊していく。
アメリカで証券化ビジネスが拡大したのは、中央銀行体制の確立が遅れたアメリカの風土と関係している、と著者は考えているようだ。
規制緩和とともに巨大銀行の時代が到来すると、商業銀行は貸し出しだけではなく、証券化商品の購入に走るとともに、資金調達手段を多様化するようになっていた。子会社を利用して、ABCPと呼ばれる短期性負債を発行し、資金を調達していたのだ。
バブル期特有のシャドーバンキングも生まれる。
〈シャドーバンキングとはいわば、伝統的な銀行部門の外側にできた信用仲介ネットワークである。銀行規制の網をかいくぐろうとして生み出されるのが一般的であり、当局の規制は及ばないため、信用膨張を抑制することができず、金融危機の原因となる。〉
2006年から2007年ごろにはじまった住宅バブル崩壊は、住宅価格を下落させ、同時に住宅ローン担保証券の価格を下落させた。そして、2008年9月にリーマン・ブラザーズが破綻し、いわゆるリーマン・ショックがはじまるのである。MMF(マネー・マーケット・ファンド)は額面割れし、信用不安の連鎖がドミノ状にほぼすべての金融機関を襲った。
〈なぜ、世界で最も効率的で革新的なはずの金融システムは崩壊したのかと問うとしたら、その革新性にこそ崩壊の原因があったのである。長い間、中央銀行を持たなかったアメリカでは、絶えず民間貨幣創造の挑戦が試みられた。安全資産の根拠を安易に政府保証に求めない歴史風土が証券化商品を創り出し、アメリカの金融は一敗地にまみれたのである。〉
しかし、だからといって、2008年のリーマン危機が、すべてアメリカの特殊事情によるものと著者が言っているわけではない。バブルの発生と崩壊、金融危機はそれぞれ国ごとにさまざまな形態をとる。にもかかわらず、近代世界の誕生とともに、経済にバブルはつきものであって、その状況はいまも変わらない。バブルはいつのまにか忘れられるが、けっしてなくなったわけではない。
バブルとは何なのか。ここで、われわれは最初の章に戻って、あらためて著者によるバブルの定義をみていくことにしよう。
80年代の土地バブル──『バブルの経済理論』つまみ読み(4) [経済学]
1980年代の日本の土地バブルをふり返ってみる。
戦後の急速な経済成長のなかで、日本の地価は上がりつづけ、地価は下落しないという「土地神話」が生まれた
土地バブル以前に地価が上昇したのは昭和30年代前半(1955〜60年)と昭和40年代後半(1968〜73年)ごろだったという。前半期は工業地の地価上昇が目立ち、後半期は住宅地の地価上昇が目立った。銀行は土地を担保に盛んな融資をおこなっていた。
1980年代にはいると産業の中心は製造業からサービス業に移り、とりわけ大都市の商業地の地価が上昇しはじめる。
〈1980年代になると銀行間の貸し出し競争が激化して、融資額は土地の評価額のせいぜい7割程度とする慣行は次第になし崩しとなった。銀行は、評価額の8割や9割まで貸し出すようになり、さらには、来年には地価が30%ほど上昇するだろうという見込みをもとに、評価額の10割を超えた貸し出しが横行するようになった。そして貸し出しのターゲットとなったのが不動産業である。〉
1980年代後半の巨大バブルはどのように発生したか。著者の櫻川昌哉はいくつかの要因を挙げている。
このころ銀行は預金過剰におちいっていた。製造業を中心とする優良企業はそれまでの借金体質をあらため、銀行からの借り入れを圧縮していた。そのため銀行は新たな融資先として不動産業と不動産購入を手がける金融・保険業への貸し出しを増やすことになる。
このころの日本人は自信過剰におちいっていた。「アメリカに追いつくことを目標に堅実に努力を続けてきたら、気がついたら世界のトップランナーに躍り出ていた」という気分になっていた、と著者は記している。
日米貿易摩擦が生じていて、アメリカは不況にあえいでいた。そんななか1985年にプラザ合意が成立し、それによりほぼ1年のあいだに、日本円の対ドルレートは250円から150円へと大幅に切り上がった。日本国内での景気失速を恐れた日銀は1986年から公定歩合の引き下げに踏み切った。日本経済を輸出主導型から内需主導型に転換すべきだという前川レポートが出された。
国内の不動産ブームに火がつきはじめる。大都市では政府保有の跡地に高層ビルやマンションが林立するようになり、地方ではリゾート開発が進んだ。
1987年になると、株価と地価の上昇が目立つようになった。日米間の貿易不均衡はさほど是正されていない。2月にパリで開かれた先進国首脳会議G7に先立ち、日銀はアメリカと協調するためさらに公定歩合を引き下げた。
日銀は物価には敏感だったが、バブル経済への理解力が乏しかった、と著者は書いている。「誰が見ても、金融引き締めのタイミングの誤りが、バブルに拍車をかけたことは疑いようもない事実である」
1985年末に1万3000円台だった日経平均株価は1989年末に3万9000台をつけた。1985年から1990年にかけ、地価の全国平均は117%高騰した(倍以上になった)。なかでも東京や大阪などの商業地の地価は5〜6倍となった。
1986年から90年にかけてのバブルの大きさを、著者はGDPの2.4倍とみている。1990年のGDPは427兆円だったから、バブルの規模は実に1025兆円だったということになる。未曾有の大きさだった。その巨大なバブルがやがて破れ、日本経済は最悪のシナリオを迎えることになった。
日銀は1989年からようやくバブル対策に乗りだし、5回にわたって公定歩合を引き上げ、1990年に6%とした。金融引き締めと並行して、不動産融資の総量規制も実施された。こうして1991年から地価は徐々に下がりはじめた。
1992年には実質経済成長率がほぼゼロ・パーセントに下落した。地価の下落は巨額の不良債権を生みはじめていたが、積極的な不良債権処理はおこなわれなかった。景気の後退を受けて、日銀は金融緩和に転じた。
だが、地価も株価も反転することはなかった。1995年には住専(住宅金融専門会社)が破綻し、6850億円の公的資金が投入された。1997年にアジア金融危機が発生すると、国内でも金融危機が生じ、三洋証券、山一証券、北海道拓殖銀行の3つの金融機関が破綻した。
1998年には日本長期信用銀行(長銀)の経営不安が表面化し、金融再生法にもとづいて、長銀と日債銀(日本債券信用銀行)が一時、国有化されることになった。
日本では1991年から地価が底打ちするまで13年かかった、と著者は指摘している。これはリーマン危機のときのアメリカが2年後にほぼ地価が底を打ったのと対称的だという。
それだけ、地価の調整に時間がかかった理由として、著者は不良債権の処理が先送りされたことを挙げている。大蔵省は不良債権の処理に積極的ではなく、銀行や企業も不良債権を隠そうとしていた。
だが、それも隠しきれなくなる。2002年には「金融再生プログラム」が出され、不良債権の処理が加速化された。2003年にはりそな銀行、足利銀行が国有化された。しかし、2005年には主要銀行に関しては不良債権の処理が山を越し、それとともに地価の調整もほぼ終了した。
バブル崩壊によって、日本経済が失ったものは想像以上に大きかった、と著者はいう。企業と銀行とのあいだに構築された長期的な融資関係は、土地神話に支えられた「砂上の楼閣」にすぎなかった。
いまも預金は増えつづけているが、企業向けの貸し出しはむしろ縮小している。金融の劣化が進んでいる、と著者はいう。技術進歩に金融がついていけず、投資は低迷している。
日本経済はバブル崩壊以後、30年間にわたり1%程度の成長率に甘んじるようになった。最初の10年ほどは、過剰債務の調整と投資の低迷がつづいた。1990年以降は生産性の上昇率が低下した。不良債権の処理を先送りしたことがゾンビ企業を温存してしまったという指摘もある。
2005年になって、不良債権の処理が見通しがたったあとも、日本経済に活気は戻ってこなかった。
バブル崩壊で楽観主義が失せ、企業家精神が萎縮してしまったのではないか、と著者は危惧している。それとともに「会社」の居心地のよさが、労働力の流動性をはばみ、転職市場を未発達のままにしているともいう。
企業が内部留保を増やしているのも、そうした保守性のあらわれだ。
さらに著者は「無形資本経済」への対応の遅れを指摘している。つまり、日本型システムは新たな時代に対応できなくなったために失速したのではないかというわけだ。
無形資本とは目に見えない知識資本だ。特許や著作権、デザインなどの知的所有権、研究開発、マーケティング、組織資本、データベースやソフトウェアなどをいう。日本はIT化の波に乗り遅れているし、保守的な金融システムが無形資本への投資を阻み、企業の成長を阻害しているという。
日本企業の閉鎖性も問題だという。
日本の金融システムの問題点を、著者は次のように指摘する。
〈まずは、銀行が物的資産を担保とした貸し出しから脱却できないことであり、次に、企業が情報開示の重要性を理解しないことであり、そして、預金保険制度が資金の流れを堰き止めていることである。〉
人間関係のもたれあいのうえに成り立つ日本社会の不透明性が成長の足を引っぱっているのだ、と著者はみている。
だが、はたしてそうなのだろうか。いま欠けているのは、むしろ未来へのヴィジョンだというような気がする。社会主義が惨状に苦しみ、資本主義がバブルでついえるなか、商品世界の次の光がみえてこないことが、現在の停滞と破壊をもたらしているととらえるのは、ぼくのように無知な老人の妄想なのだろうか。
いつまでも財政拡大はできない──『バブルの経済理論』つまみ読み(3) [経済学]
国際的な基準でみると、2020年段階で日本の政府債務・GDP比率は270%に達したという。つまり、日本は名目GDPの2.7倍の国債を発行しているということになる。OECD主要23カ国のなかで、これほどまで多くの割合で国債を発行している国はほかにない。このまま行けば、日本の財政は破綻するのではないか。多くの人が心配しはじめている。
櫻川昌哉の『バブルの経済理論』を読んでみる。
量的緩和がはじまる以前の2012年段階でも、日本の債務残高は対GDPで180%に達していた。にもかかわらず、国債利回りは2%未満と世界的にみても、もっとも低かった。2021年段階でそれは0%台とさらに低くなっている。
ふつうは債務残高が増えると、国家財政のデフォルト・リスクが高まり、国債利回りが上昇する。ところが、日本の場合は、そうならなかった。その理由として、著者はいくつかの仮説を挙げている。
ひとつは消費税率が10%と低く、まだ税率の引き上げ余地があると考えられ、財政破綻のリスクは低いと見積もられていること。
ひとつは金融緩和の効果。とりわけ2013年4月以来の量的緩和による長期国債の買い取りが長期金利を押し下げていること。
さらに日本では90%以上の国債が国内で保有されていること。とりわけ2019年段階で日本銀行の保有率は50%以上となったが、民間銀行や保険会社、ゆうちょなどの公的金融、公的年金基金などの国債保有率も高かった。こうした日本の金融機関が国債の保有を支えている。
日本の国債利回りは他の先進国とくらべて圧倒的に低いが、それでも日本の投資家は日本の国債を買いつづけている。その理由として銀行などの貸し出しの伸び悩みを挙げる人もいる。
だが、著者はいう。
〈利回りが低いからといって、国債は安全な資産ではない。政府に保護された金融機関や時代の流れの中で役割を終えたはずの金融機関が、国債の受け皿機関として温存されたのである。国債市場を構成するのは海外で資金運用する能力を持たない金融機関、つまり「安全資産の欠如」に直面している金融機関であり、市場の情報が価格に正しく反映されていないのである。〉
その結果、市場は骨抜きになったしまった。利回りが上昇しないと、緊張感がなくなり、政治家はますます財政再建を先送りし、国債残高はさらに積み上がっていく。その異常さにもっと気づくべきだ、と著者は警告する。
にもかかわらず、日本の財政が安定しているようにみえるのはなぜか。現在の日本経済は余剰資金がかなりの規模で存在するバブル経済だ、と著者はいう。経済成長がほとんど見込めないなかで、余剰資金は安全資産に向かう。現在の銀行預金は700兆円を超えているが、そのうち貸し出されているのは450兆円ほどで、残りの貯金は国債や日銀への預け入れ(超過準備)に向けられている。
2013年以降の量的緩和以降、デフレはほぼ終息し、名目成長率はプラスに転じたが、国債の利率は成長率を1.5%ほど下回るようになった。現在、「日本国債の価値を支えているのはバブル、つまり借り換えで償還費用を賄うことができるという期待である」と、著者はいう。しかし、余剰資金がだぶついているからといって、いくらでも財政赤字を拡大できるわけではない。
1990年代以降、日本の国債はGDP成長率を上回るペースで発行され、2006年にはすでにGDP比170%を超えていた。その後、リーマン危機、東日本大震災などがつづき、財政再建計画は水の泡となり、2019年段階で国債のGDP比は230%となった。さらに、新型コロナ・ショックが追い打ちをかけて、国債残高はますます積み上がっている。2025年までに基礎的財政収支(国債費を除く歳出から税収・税収外収入を引いた額)を黒字化するという目標もさらに遠のきつつある。
基礎的財政収支の黒字化は、財政健全化のための最小限の指標である。そのなかで、最大の問題となるのが社会保障費の増大だという。増えつづける社会保障費にはたして財政は対応できるのか。
2018年に120兆円だった社会保障給付額は、2040年には190兆円程度に膨れあがるとみられている。その上昇分70兆円のうち半分が税金でまかなわれる。
成長率やインフレ率の算定にもよるが、2040年段階で社会保障費の財政支出は対GDP比5%増になる、と著者は想定している。国債の利払い費は成長による税収増でカバーされるとみたうえで、基礎的財政収支のバランスをとったうえで(プラス2%)、社会保障費をまかなうにはGDP比7%の税収増が必要であり、それをすべて消費税でまかなうと、著者の計算によると、それは17.5%になる。すると、消費税は現行の10%から27.5%に引き上げなくてはならない。
これはもちろん机上の計算である。その計算は利子率が成長率より高いか低いかによっても変わってくるし、さらに国際的な動向も関係してくる。それが実際に実施できるかも問題だ。
しかし、著者は「増え続ける社会保障費を賄うための増税スキームをあらかじめつくっておくこと」がだいじだという。「社会保障費がGDP比で1%上昇すれば、消費税率もまた1%上昇させると法律でルール化するのが望ましい」。
ただし、消費増税のたびに消費不況になる過剰反応を抑えるには、政府による正しい説明が求められる。年金と消費税の問題がつながっていることを国民に理解してもらわなければならない。「政治に求められる見識とは、年金を受給したければ増税を受け入れるべきであり、増税が嫌なら年金受給をあきらめるしかないことを国民に向かって正直に説明することである」
残るは国債問題である。
経済が過剰貯蓄状態にあるなら、いくら国債を発行しても債務不履行にはならないし、インフレを懸念する必要もない。これがMMT(現代貨幣理論)といわれる考え方である。
この考え方は日本経済の現状に即しているようにみえる。国債利回りが成長率を下回っているかぎり、これは正しい。いくら国債を増やしても、財政赤字のコストは小さい。インフレになれば、その時点で財政拡大をやめればいいということになる。
しかし、そううまい話があるのか、と著者はいう。
財政拡大は短期的には民間経済を刺激するが、次第にその効果は薄れていく。クラウディングアウトをおこして、民間需要を収縮させるからである。
中期的には、国債の大量発行は民間の資本蓄積を阻害する。さらに長期的には「財政赤字が持続すると、政府債務が経済の規模に比べて大きくなりすぎるという弊害が生まれる」。
その結果、財政が厳しくなり、長期の成長にとって必要な研究開発、教育、経済のデジタル化といった公共投資が抑制されてしまう。さらに財政余力がなくなり、いざというときの対応が追いつかず、長期的な経済停滞をもたらしかねない。「結局のところ、財政赤字が持続すれば、国債残高は膨れ上がり、経済成長は減速する」
現在、日本は財政と金融の分離を原則とする財政ルールを放棄し、中央銀行が国債を買い支えるという財政ファイナンスの入り口にさしかかっている、と著者はいう。
〈中期的には、国債発行が投資の変化を通じて資本蓄積に影響を与える。国債発行は民間部門に利用可能な資金を政府が奪うので、一般的に考えれば、民間の資本蓄積を阻害する。〉
いつまでも財政を拡大し、国債を増発しつづけるわけにはいかない。政府債務残高がGDP比で260%を超えている現状は異常である。
著者はかつて日本の軍国主義時代におこなわれた日本銀行による財政ファイナンスが、敗戦後のハイパーインフレーションを招いた歴史をふり返って、こう述べている。
〈勝ち目のない戦争は、敗戦がほぼ明らかになっても撤退の判断ができずに、ずるずると最悪の事態へ突き進んでいったのである。……無担保貸出にまで頼って軍拡を推し進めたのは誰かといえば、統帥権独立を盾に権力を牛耳った参謀本部である。今となっては偏狭で傲慢な、そして狂信的な軍国主義者であるかのように描かれる彼ら陸軍の幹部は、難関の試験で選抜されて、陸軍士官学校、陸軍大学を超優秀な成績で卒業した“普通”の秀才でもあった。〉
現在の構図はこれとよく似ているという。足下を見ることなく、経済大国の栄光を追い求めて突っ走った先には何が待っているのだろうか。
いまおこっているのは「経済の贈与化」であり、経済の贈与化が進行すれば、市場経済は縮小し、経済は成長しなくなる、と著者はいう。現在、新規の貯蓄のうち民間投資に回るのは5割強で、4割強は政府債務の購入に回されている。このことは金融の劣化を示す以外のなにものでもない。
「日本経済を筋肉質の経済につくり変えるために、金融の劣化を食い止めなければならない」
日本経済を正常な軌道に戻すために、著者は以下のような提言をしている。ひとつはゼロ金利政策からの離脱。財政拡大政策を打ち切りにすること。基礎的財政収支の黒字化を目標として、消費税を12〜13%に上げること。円の国際化を進め、国債の海外保有を促進すること。
いずれにせよ、いまは経済の変わり目だ。
アベノミクス、クロダノミクスに終止符を──『バブルの経済理論』をつまみ読み(2) [経済学]
「デフレと流動性の罠」という章を読んでみる。
貨幣には価値尺度、交換手段、価値の貯蔵という機能がある。その貨幣は決済手段として用いられると想定されている。
ケインズは「流動性選好」という概念を打ち立てた。簡単にいってしまえば、流動性選好とは、資産を貨幣のかたちで保有しようとする欲求を指している。
「流動性の罠」とは何か。名目利子率が一定以下に下落すると、中央銀行が供給したベースマネーはそのまま退蔵されてしまい、国債への需要も生まれず、金融政策がきかなくなる。そのため、金融政策による景気回復は不可能となる。これが「流動性の罠」である。
1999年以来、20年以上にわたって、「ゼロ金利政策」をつづけている日本は「流動性の罠」におちいっている、と著者はみている。
金利が名目ゼロになった段階で、人びとは資産としての貨幣を保有するようになった。家計と非金融法人企業の現金残高は1995年段階で45兆円程度だったが、それが2017年には109兆円に膨らんでいる。著者の計算では、いまや日本の名目GDPのおよそ11%にあたる60兆円がタンス預金になってしまっているという。
ここで、むずかしい議論を差し引いていうと、著者は「名目利子率が長期にわたって持続する世界とは、人々が実物資産だけでなくバブル資産を保有するバブル経済なのである」という定式を導きだしている。ぼく流にいうと、バブルとはおカネが実物に向かうのではなく、おカネがおカネ自体の膨張を目的とする経済現象である。
日本経済がバブル経済だとすれば1980年代の資産バブルと1990年代以降のデフレはつながっている。バブルが崩壊しても、利子率が成長率を下回るとバブル経済は残る。その結果、貨幣が退蔵されて、デフレがつづくことになる。金利をゼロにしたからこそ、デフレが起こるという一見意外な結論を著者は導きだしている。
名目金利がゼロになると、人々は債権と実物資本だけではなく貨幣をも資産として選ぶようになる。すると、それは物価を押し下げる力としてはたらき、デフレをもたらす。
アメリカの場合はFFレート(連邦準備制度理事会による政策金利)がほぼゼロに据え置かれたにもかかわらず、インフレ率は2%に保たれた。その理由は、当局者がこの政策を無期限に実施するつもりはないと表明しつづけたためだという。
アメリカ経済は2013年1月にリーマン危機以前の水準を回復した。しかし、その後も雇用回復を重視して、ゼロ金利は維持された。2015年にはニューヨークの株式市場が新高値を更新し、連邦準備制度理事会は7年間におよぶゼロ金利の解除を発表した。市場もまたゼロ金利政策はあくまでも短期だと認識していた。そのかん、アメリカはデフレにおちいらなかった。
日本では2013年4月に黒田東彦が日銀総裁に就任し、大規模な量的緩和を実施し、2年でインフレ率を2%にすると宣言した。
しかし、出口戦略については、いっさい触れなかった。それは一種の賭けだった、と著者はいう。
ゼロ金利のもとで、金融緩和をつづければ、投資は拡大し、景気が拡大して、物価は上昇すると考えられていた。だが、そのもくろみは、みごとに失敗する。経済はデフレを脱却できず、長期停滞におちいった。
人々はインフレ率2%という目標より、ゼロ金利がつづくという展望を信じた。そのため貨幣需要が強まり、デフレがさらにつづくことになった。
〈出口を明示しないまま時間のみが経過すると、人々は名目利子率ゼロが長期化すると予想して、貨幣を保有し続け、決して手放さない。そして経済はデフレに逆戻りしてしまう。〉
インフレ目標が達成されないため、日銀は2015年1月から日銀が金融機関から預かる当座預金にマイナス金利を導入することに決めた。それによって総支出の上昇をはかったのだが、それは逆に信用の収縮を招き、銀行の経営基盤を弱体化することになった。
預金金利がすでにゼロ下限に達しているとき、貸出金利が下がりつづけると、利ざやは縮小され、銀行の経営を圧迫する。
マイナス金利の導入は、金融緩和政策がこれからも長期的につづくことを予想させ、経済はますますデフレ傾向におちいった。
金融緩和政策はさらにずるずるとつづく。その結果、日本経済はついに国の発行した国債を中央銀行が引き受ける、事実上の財政ファイナンス状態となった。
日本の名目GDPの水準はこの20年間ほとんど変わっていない。これは世界で日本だけだという。
国内財における生産性向上の努力が価格を下げ、かえってデフレを進行させている面も否定できない(賃金も低く抑えられる)。
日銀は量的金融緩和によって、2012年から17年にかけ、ベースマネーを147兆円から502兆円に増やした。しかし、そのかん2012年に500兆円ちょうどだった名目GDPは2017年には545兆円へと9%しか増えなかった。したがって異次元の金融緩和はGDPの増加とあまり結びつかなかったといえる。
ベースマネーが急速に増加したのは、日銀が市場から大量に国債を購入したためである。国債の購入によってベースマネーが増えても、それはGDPの増加にはさほどつながらなかった。
金融緩和の目的は実質利子率を引き下げて、経済活動を刺激することである。ところが現実はそうなっていない。それはどうしてか。
銀行は名目利子率がゼロになっても預金金利をマイナスにすることはできないので、利ざやが縮小され、そのため経営が圧迫される。そのため、貸し出しはかえって減ってしまう。
さらに、名目利子率がゼロになると、バブル資産としての貨幣が求められ、タンス預金が増えていく。「逆説的なことに、ゼロ金利の長期化は、金融政策の本来の意図とは真逆に働く力を取り込むこととなり、金融政策からその有効性を奪ってしまう」
いまや日本経済の海図なき航海はいつ難破してもおかしくない、とまで著者は述べている。
ここで著者が提案するのが、ゼロ金利を解除して、名目利子率を引き上げる出口戦略である。具体的には中央銀行が売りオペを実施して、国債を市場に供給し、貨幣を回収する。利上げをすれば、国債の利払い費が増えるため、新企国債の増発が必要となる。純政府債務が増加するため、物価もまた上昇する。タンス預金のうまみはなくなって、人々は貨幣を手放すから、余剰資金が生まれ、実質利子率は押し下げられる。荒唐無稽のようにみえて、これは意外と実効性がある、と著者はいう。
ただし、こうした出口戦略は慎重を要する。まずは金利正常化に向けて舵を切ると宣言することがだいじである。実際にはゼロ金利をしばらく維持したまま、タンス預金を銀行預金に移行させることを先行させるべきだという。そして、インフレ期待が形成された段階で、利上げをおこなう。具体的には400兆円を超える国債を売りオペで市場に売却する。
現在の日銀の政策はケインズ・モデルにもとづいた、近視眼的な景気刺激策にすぎない、と著者はいう。
〈それと引き換えに失ったのは、自律性を欠いた金融政策、財政への信頼の喪失、低金利経済がもたらす将来不安、米ドル依存体質の継続である。さらにつけ加えるなら、需要不足信仰による景気刺激策は、市場規律を弱め、日本経済の足腰を弱体化させた。〉
アベノミクス、クロダノミクスに終止符を。いまこそゼロ金利政策を転換するとともに財政規律を回復し、円の国際化をはからねばならない。直感とはまったく逆に、利上げこそが景気を回復させ、成長を促進するというのが著者の主張である。
櫻川昌哉『バブルの経済理論』 をつまみ読み(1) [経済学]
ぼくのような年寄りでも、少しは日本経済がどうなっているのかが気になる。最近はコロナ禍やウクライナ戦争で、ついそちらに関心が移りがちで、足もとのほうはつい忘れがちだ。そこで、この本を買ってみた。近ごろはもっぱらツンドク本の整理ばかりで、新刊を買うこともなかったが、久しぶりの散財である。
大著なので、全部読むのはたいへんそうだ。そこで、著者には申し訳ないが、ついつまみ食いならぬつまみ読みをしたくなる。ほんとうは頭からきちんと読まないといけないことはわかっているし、そうしないと深い内容がつかめないのも承知している。それなのに、ついつまみ読みしてしまうのは、生来のせっかちがなせるわざである。そのくせ、専門家ならぬ悲しさで、むずかしい理論は避けて通るをよしとする素人だから、なんともはや理解のほどは保証しない。
そんなわけで、いっぺんに通して読むのはあきらめて、時折、ぱらぱらとめくりながら、気にかかった章(序章と終章を含めると全部で14章ある)のメモをとっておくことにした。何度もいうように、メモを取るのは、そうしないとすぐ忘れてしまうからだ。
きょう読むのは第9章の「リーマン危機からコロナ危機へ」だ。
2008年のリーマン危機はぼんやりと記憶している。加熱したアメリカの住宅市場がおかしくなったことをきっかけに、リーマン・ブラザーズという投資銀行が破綻して、ニューヨークの株価が暴落したあと、世界的な金融危機が発生し、ドルも大幅に下落したはずだ。
その後の10年は予想どおりのことと予想外のことがおこった、と著者は指摘する。予想どおりというのは、住宅バブルが崩壊して、市場利子率が低下したこと。予想外のことというのは、その後、各国で歴史的な低金利がつづいていること、そしてドルが暴落しなかったことである。それどころか資金はむしろアメリカに集中した。なぜ、こんなことがおこったのだろう。
著者によると、リーマン危機後、たしかにドル資産は売られた。だが、それ以上にアメリカ人は保有する対外資産を売却した。これによってドルの暴落に歯止めがかかったというのは、なるほどと思わせる。
リーマン危機は、むしろヨーロッパに打撃を与えたというのも、いまからふり返ればそのとおりである。ヨーロッパの金融機関はアメリカの証券化商品を大量にかかえていた。そのため、むしろユーロ危機が深刻となり、逆に国際通貨としてのドルは守られたのだという。
ユーロ危機は2009年にはじまった。ギリシャが巨額の財政赤字を隠していることが発覚したのが発端だった。ヨーロッパ各国はそれぞれ思惑をかかえながら、その解決に乗り出す。しかし、危機はギリシャだけで収まらない。アイルランド、ポルトガル、スペイン、イタリアにまで波及していく。この危機は、最終的に欧州中央銀行(ECB)による危機国の国債買い取りによって回避されることになった。
1990年代以降、中国は20年以上にわたりほぼ10%という前例のない経済成長を遂げた。とりわけ2000年代以降は急速にアメリカを追い上げている。習近平は2013年に「一帯一路」構想をぶちあげ、国際的なインフラ投資の主導権を握ろうとしているとされる。
だが、リーマン危機以降、2010年代にはいると、中国の成長トレンドは下方に屈折し、2016年の経済成長率は6.7%に落ちている。
これからの中国経済にたいする著者の見方は厳しい。現在、中国はセメントや鉄などの重工業で、過剰な設備をかかえている。市場改革は不徹底なままで、すでに生産性の停滞がはじまっており、国家主導の成長戦略は限界に達しているという。
いっぽう、アメリカは長期停滞に陥っているという見方がないわけではない。市場利子率の低下は、将来の経済成長率の低下を先取りしているのではないか。人口成長率はほぼゼロで、技術革新の源泉は涸れ果て、コンピューターなどによる第3次産業革命は飛躍的な生産性向上と結びついていないという悲観論もある。
にもかかわらず、著者によれば、「アメリカ経済は堅調そのもので、危機を脱却した2012年以降、GDP成長率は実質値で平均して2%を維持している」という。つまり、かならずしも長期停滞とはいえないというわけだ。
リーマン危機以来10年の世界経済の特徴は、歴史的な低金利にある。経済は市場利子率が成長率を下回る領域に突入した。とりわけ2009年以降、アメリカ、ドイツ、日本では、利子率が成長率を下回る状態が定着している。
なぜ歴史的な低金利がつづいているのだろうか。その原因として著者が挙げるのが、まず経済成長率の低下である。経済成長率は人口成長率の低下と技術進歩率の鈍化によって押し下げられ、それが実質利子率(物価上昇率を勘案した金利)の低下につながっている。
だが、著者は世界的にみれば2010年以降、長期停滞論がいわれているほど成長率は下落していないという。問題は利子率が大きく下落し、成長率を下回る状態がノーマルになっていることだ。
その原因として考えられるのが金融緩和の影響だ。日本では日銀が年80兆円のペースで長期国債を買い取る大規模な量的緩和を実施しているが、そうした金融緩和が実質利子率を押し下げる要因となっている。
さらにリーマン危機以来、新規の資金需要が減少し、それが実質利子率を低下させている側面もあるという。
そのいっぽうで、新興国、先進国を問わず、法人貯蓄率の上昇がみられる。法人貯蓄率と家計貯蓄率の合計である民間貯蓄率は20%程度と安定しているが、そのなかで家計貯蓄率は低下しているのに法人貯蓄率が上昇しているのが、最近の特徴だという。
家計収入の格差が拡大しているように企業利益の格差も拡大している。そして、「企業利潤の一部企業への集中は、経済全体での外部資金への依存度を低下させる傾向を持つ」。
おもしろいのは、アップル、グーグル、フェイスブック、アマゾンのGAFAと呼ばれる企業について、著者がこんな指摘をしていることだ。
〈GAFAに象徴される情報通信企業の資産を見ると、機械や建物などの物的資本の比率は少なく、無形資本の占める比率が高い。グーグルにとって資本といえるのは、蓄積された膨大なデータと人的資本であり、物的資本といえるのは、膨大なデータを貯蔵するデータセンターくらいのものである。〉
なるほどな、と思う。まさに濡れ手にアワ。情報とおカネはまわりから集まってくる。
それはさておき、いまは歴史的低金利の話だ。
歴史的低金利のもとで、投資家はどのような行動を取るのだろう。常識的に考えれば、金融資産を世界各国に分散して、リスクを軽減することによって利益を享受するとみられるかもしれない。だが、現実にとられている行動はそうではない。グローバルリスクが高まるなかで、人びとは萎縮して、より安全資産を求めているのである。
そのなかで、人びとが向かったのはアメリカだった。著者はいう。「ドル一強」の時代はいまだにつづいており、米ドルに続く、あるいは米ドルをしのぐ通貨が生まれる予兆はみえない。国際決済においても、外貨準備高においても、米ドルの占める割合はいまだに圧倒的だ。
2020年には史上まれにみるリスクが世界を襲った。新型コロナウイルスの感染が世界的に拡大した。
世界全体の成長率は前年の3%程度からマイナス6%に落ち込み、リーマン危機以上のショックを与えた。多くの国はなりふりかまわぬ大規模な財政拡大に走り、国債残高を急速に膨張させた。人びとは安全資産に逃避する行動を取り、実質利子率はさらに低下した。国債の低利消化を求めて、ゼロ金利をとる国も増え、中央銀行が国債を引き受ける財政ファイナンスも実施されている。
著者が懸念するのは、こうした措置が緊急避難的な対応にとどまらず、長期化することである。そうなると「たとえ財政危機は来なくとも、世界的なデフレ傾向と低成長が続くなか、いったん増えた政府の債務残高はなかなか減らない」。長期停滞がつづくことになる。
著者はコロナ危機が終わっても、経済の姿は元に戻らないとみている。人びとのライフスタイルは変わり、企業の組織形態も変わり、産業の新陳代謝が進むだろうとみている。
経済の話はむずかしい。ぼくはいまどんな場所にいて、どこに向かっているのだろうかと思う。
次は「デフレと流動性の罠」という章を読んでみたい。
公共分野を強化せよ──ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む(8) [経済学]
〈生産的な社会が最終的に問われることは、社会が何を生産しているかである。こうした言い回しからは、一部のものがふんだんに供給されているのに、ほかのものはわずかしかつくられていないことが浮かびあがってくる。こうした不釣り合いによって、社会的不満と社会的不健康のもとが生みだされる。豊富な分野と貧弱な分野とのあいだには境界が引かれている。大雑把にいって、民間で生産され販売される商品やサービスは豊富なのに、公共的に提供されるサービスは貧弱なのだ。〉
現在は「ゆたかな社会」といわれるが、民間では商品(財とサービス)が豊富につくられているのに、公共サービスがきわめて不足しているのが実情だ、とガルブレイスは考えている。
現在の公共サービスはあまりにも貧弱だ。アメリカでは学校も公園も病院も街路も空気も、要するに公共的な分野がひどくないがしろにされているという。
民間では商品の生産が連動して拡大する。それにともなって消費も拡大し、あらたな必要も生じる。だが、民間経済が発展すればするほど、国家による調整や保護が求められる。
民間部門と公共部門のあいだには「社会的バランス」が保たれなければならない。このバランスが重要なのにもかかわらず、どちらかというと民間部門が優先されて、公共部門がないがしろにされる傾向がある。その結果が交通事故の多発であり、大気汚染や公害、都市の乱開発、社会的荒廃などだ、とガルブレイスはいう。
民間部門の成長にたいして、なぜ公共部門がおくれをとる傾向があるのか。
公共サービスは税によってまかなうほかないのだが、増税には根強い抵抗がある。それにアメリカの場合は、連邦収入のかなりの部分が軍事費に回されており、固定資産税に頼る地方自治体はじゅうぶんな公共サービスができないままでいるからだと指摘する。
伝統的な経済学では、公共サービスはできるだけ抑制すべきだという考えが支配的だった。そのため個人がテレビや自動車、住宅にカネを使うことは推奨されても、自治体が学校にカネを使うことはしぶしぶでしか認められてこなかった。こうした社会的アンバランスが「ゆたかな社会」に混乱と退廃を引き起こしている、というのがガルブレイスの見方だ。
ガルブレイスはくり返し教育の重要性を強調している。
経済が成長するには、量的にも質的にも生産設備を拡充することが必要になってくる。そして、それを支えるのが、教育と訓練を受けた労働者の存在だ。ところが、物的資本にたいする投資は積極的におこなわれても、人的資本にたいする投資はなかなかおこなわれない。ほんとうは人的資本こそが大きな利益を生みだすかもしれないのに、それは公共の仕事にゆだねられている、とガルブレイスはいう。
科学や技術が進歩するなかで、人間にたいする投資はますます必要になっている。それなのに公教育はむしろないがしろにされている。商品生産への投資や技術開発には余念がない。基礎研究や応用研究にも巨額の資本がつぎこまれている。軍事部門への投資も大きい。
しかし、ほんとうにだいじなのは人間の価値を高める教育への投資なのだ。「それなのに、それが商品の生産ほども正当化されないとするなら、人間の充足と実現をめざすべきだという理念もまるで台無しになってしまうのではないだろうか」
生産は欲望を刺激する。資本は欲望をかきたてる消費者をつくる。だが、そう都合よく、ことは進まない。
教育は人をつくるのだ。そして、教育は両刃の剣としても作用する。
〈現代の産業に求められる技術や科学からすれば、教育はなくてはならないものだ。しかし、それによって趣味が広がり、より自律的で批判的な態度がつくられるようになれば、現代経済に欠くことのできない欲望創出力は次第に威力を失っていく。自分たちに奉仕していると思われたメカニズムの利益に自分たちが操られていたのだとわかってくるのは教育のおかげである。すると消費者は簡単にだまされなくなる。〉
生産の神話は崩れた、とガルブレイスはいう。
だとすれば、われわれは何をめざすべきか。
生産至上主義(GDP信仰)を克服しなければならない。これまで重視されてきたのはは能率や生産性ばかりだった。生産に役立てば、それは善であり、そうでなければ無益であると思われてきた。だが、そうした考え方がはたして正しいかをふり返ってみる必要がある。
産業化はゆたかさではなく悲惨さをもたらしているかもしれないのだ。それはいっぽうで欲望を刺激しつつ、冷淡さと残酷さをばらまいているかもしれない。ゆたかな世界と貧困の世界との断絶をもたらしているかもしれないのだ。
生産至上主義から脱却するひとつの方向性は「保障を生産から分離すること」だ、とガルブレイスは論じている。
じつは現代の関心は、生産それ自体よりも所得と雇用になっている。失業手当制度はいちおうできあがっている。だが、それはやっと生きていける水準に抑えられている。その基準を見直すべきだ。
さらに仕事をするのが困難な人には、生産とは無関係に別の収入源を与えるべきだともいう。ベーシックインカムによる所得保障、あるいは負の所得税も考慮されるべきだ。
次に重要なのは社会的バランスの回復である。民間の財とサービス(商品)は拡大しているのに、公共サービスはきわめて貧弱な状態に置かれている。学校、病院、図書館、都市の整備、衛生、公園、警察、その他無数の公共サービスをもっと充実させるべきだ。
それらは税によってまかなわれるほかない。アメリカの場合、連邦政府は個人所得税と法人税、地方政府は固定資産税を主な財源としてきた。連邦政府の場合、最大の問題は軍事費の割合が大きすぎることだ、とガルブレイスはいう。軍事費を削って、公共サービスに回すべきだ。
公共サービスを充実させ、社会的バランスを取り戻すためには、税収を増やすほかない。高所得者からもっと税金をとるべきだという主張は強い反対にあい、むしろ高所得者の減税が実現してしまった。だが、それはやはりおかしいというのが、ガルブレイスの立場だろう。
これに代わって登場したのが売上税(日本では消費税、少し仕組みがちがう)である。ガルブレイスは「社会的バランスが不完全であるかぎり、売上税の税率を高めることをためらうべきではない」と書いている。もちろん、この売上税は軍事費のためではなく、あくまでも公共サービスの充実のために用いられる。
売上税の効果は、民間財の値段を多少上げることによって、公共財をもっと豊富にすることにある、とガルブレイスは書いている。その課税は州や市町村によっておこなわれ、税収は公共目的のために用いられる。それによって、よりよい学校、よりよい町、よりよい市内交通、さらには経済的安定がもたらされるのだ。
売上税は公共部門の支出を増やすことにつながるから、社会的バランスを改善するだけでなく、経済成長を促す要因ともなる。公共目的により多くの資源を用いることは、けっして民間の生産を阻害することにはならない、とガルブレイスは断言する。
「ゆたかな社会」になっても貧困はなくなるわけではない、とガルブレイスはみている。
貧困を絶対的なものととらえることはできない。「人の所得が、生きていくにはたりるものであっても、社会的な水準よりはるかに低い場合、その人は貧困なのである」というのが、ガルブレイスの規定だ。
窮乏の度合いは、所帯の大きさや場所によっても変わってくる。貧困は個人の性質が原因の場合もあるし、地域の性格によることもある。
都会でも、地域でも貧困地帯はひとつの島のようなかたまりとなっている。貧困から脱出するのは容易なことではない。
それでも極貧の人びとは社会の多数派から少数派へと変わった。政治家はいまや貧困層よりも中間層に訴えるようになった。貧困救済の努力をと呼びかける政治家はいまやごくわずかだ、とガルブレイスはいう。
貧困の問題がなくなったわけではない。かつては、働かざる者くうべからずというのが社会のルールだった。しかし、貧困が少数者の問題になったいまは、むしろ働けない人にも基本的な収入を保証しなければならない、とガルブレイスはいう。貧困家庭の子供が学校に通えるようにすること、学校でじゅうぶんな給食をだすこと、町が適切な保健業務をおこなって子どもたちの健康を見守ること、住宅を確保することなどは最低限必要なことだ。
「ゆたかな社会」でも貧困が残っていることに目をそむけてはならない。臭い物にふたをするように貧困の問題を無視してはならない。それをほうっておいてはならない、とガルブレイスは訴える。
いっぽう「ゆたかな社会」では、労働の形態が変わりつつあるという指摘もなされている。かつてにくらべ週の労働日と労働時間は少なくなっているし、労働の強度も減っており、労働する人の数も減りつつある。それにたいし、余暇が増加してきたのもたしかである。
児童と老人が労働力からはずされ、これに代わってより多くの女性が労働市場に加わるようになったのも近年の特徴である。
さらに、「ゆたかな社会」の特徴として、「新しい階級」が生まれつつあることをガルブレイスは指摘する。
それは社会的エリート層だといってよい。会社の役員、医者、大学教授、弁護士、ジャーナリスト、芸術家、建築家などといった人たち。かれらは何よりも威信をめざしている。他人から尊敬を集めることが、かれらにとっては、仕事で満足を生みだす源泉になっている、とガルブレイスはいう。そして、その階級はしばしば次の世代へと受け継がれる。
長時間の退屈で陰鬱な労働から、もっと楽しくはたらいて暮らす生活へと次第に転換することは、けっして悪いことではない。生産至上主義にもとづいて所得を極大化することよりも、子どもたちが面白くてやりがいのある仕事をみつけるほうが、両親にとっても幸せなのではないか。それには教育がやはりキーになる、とガルブレイスは考えている。
そして最終章。
われわれの社会では商品の生産が社会の進歩の基本的な尺度になっている。だが、何のための生産かといえば、それは人びとの幸福のためだといってよいだろう。
幸福を定義するのはむずかしい。商品と幸福を同一視するのもどうかと思う。しかし、それはどこかで結びついているはずだ、とガルブレイスはいう。
社会には安全保障が求められる。現代経済の基本的な安定装置は、巨額の税に支えられた大きな公共部門によってつくられる。そのなかに大規模な軍事支出が含まれており、それがいっこうに減る気配を見せないことは問題だが、公共部門が現代経済に大きな役割を果たしていることはまちがいない。
そして、世界にはまだ飢餓と窮乏に苦しむ地域が多く、そこからの救いを約束するために、アメリカは余分の資力をもたなければいけない。科学的に未開拓な分野にも進んでいかなければならない、とガルブレイスはいう。
さらに、こう書いている。
〈アメリカにとって、もっともだいじなのは、能力、知識、教育の資源である。試されているのは、物的な投資の有効性よりも人への投資の有効性だ。われわれは壮大な普遍化の時代に生きている。〉
教育は国防や外国援助に劣らず、重要な公共の分野である。教育をないがしろにして人びとの幸福は得られない。ガルブレイスが最後に強調するのは、教育の重要性である。
こうしたガルブレイスの考え方は1980年代以降、保守派の復権にともない、猛烈な反発を受けるようになった。それでも、ガルブレイスの主張はいまでも聞くべき内容をもっているというべきだろう。
インフレーションをめぐって──ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む(7) [経済学]
もともとガルブレイスは「ゆたかな社会」には、インフレーションがつきものだと考えていた。それを克服しようとしても、そこには大きなジレンマがひそんでいるととらえていたのだ。だが、1998年の最終版(第5版)で、この考え方は誤りだったとしている。
戦後はインフレの時代だった。しかし20世紀の終わりからは、低失業・低インフレ、低成長の時代がつづくようになったからである。
その面では、たしかに時代が変わったのである。
そもそもガルブレイスは、戦後インフレの仕組みを賃金・価格の相互作用としてとらえていた(ただし2度の石油ショックによる狂乱物価はあきらかにこれとは異なる)。
全般に物価が上がると、労働組合は経営者と交渉して、賃金上昇を勝ちとる。すると、経営者は賃金上昇分をカバーするため、製品の価格を上げる。こうして価格の上昇が社会全体に波及すると、全般に物価が上がるため、労働組合は労働者の生活を守るため、ふたたび賃金上昇を要求せざるをえない。このようなプロセスがはじまると、賃金と物価の悪循環がはじまる。
インフレが収まらなくなると、政府はそれに対応するため、金融政策や財政政策を発動する。景気の引き締めによって、物価の上昇は抑えられる。しかし、その結果、投資と消費の削減を招き、失業が増加する。物価と雇用はトレードオフの関係にあった。そのため、むやみな金融・財政政策はとれなかった。
しかし、いまでは賃金・物価の悪循環はなくなりつつある、とガルブレイスはいう。それはひとつに労働組合が弱体化したためである。産業の中心は、いまや伝統的な産業からサービス業、通信業、ハイテク産業、娯楽産業などへと移ってしまった。労働組合が弱体化すると、賃金はなかなか上がらなくなる。こうして雇用水準が高いときでもインフレ率が低い状態がつづくようになった。
最終的にガルブレイスは、そのように考えるようになった。
こうした理解が正しいかどうかはわからない。
ここでは、1998年の最終版を中心に、『ゆたかな社会』のインフレーション論を紹介しておくことにする。
ガルブレイスはいう。
戦争や内乱や飢饉のときにはインフレがつきものだった。しかし、いまでは平和と繁栄の時期にもインフレが居座るようになり、とくに戦後はインフレと共存する期間が長かった。
一般にインフレは好ましくないとされる。価格の上昇は人を不安にさせるからだ。だが、その割にインフレを抑えようとする努力がなされなかったのは、インフレによって利益を得る人がいたのと、賃金の上昇がそれをカバーしたこと、さらに、それはいずれ収まると考えられてきたからだ。
やがてそうもいかなくなって、政府が介入するようになった。しかし、それは不況のときほど真剣ではなかった。インフレは自然に収まるという考えは依然として根強かった。むしろ、へたに対策をとれば、不況をもたらすという恐れもあった。それでも、インフレはどこかで抑えなくてはならなかった。
ガルブレイスが経済を寡占部門と競争部門に分けていることに注目すべきだろう。鉄鋼・機械・自動車・化学・非鉄金属などの寡占部門においては、計画的に生産費を価格に転嫁することができる。ところが農業などの競争部門では、生産者は決められた価格に従わなければならない。
そのうえで、ガルブレイスは生産を増やしても、インフレの解決にはならないという。それは投資の増加につながり、需要を増やすことになって、かえって価格上昇に拍車をかけてしまうからだ。
それに大企業は安易に生産を拡充しない。一定の需要があるかぎりできるだけ価格を維持しようとする(価格を上げるのは、むしろ需要が減った場合だ)。これにたいし、競争産業では需要に敏感に反応する。生産高を一定とすれば、需要が大きくなれば価格は上昇し、需要が小さくなれば価格は下落する(逆に需要が一定なら、供給の変化によって価格は上下する)。
ここに登場するのが労働組合だ。そして、企業は賃上げを口実に価格を上げるのが常套手段になっている。ここから賃金と価格の上昇スパイラルがはじまるというわけだ。
インフレでもっとも苦しむのは大企業体制に帰属する人びとではなく、自分を保護する後ろ盾をもたない個人やグループだ、とガルブレイスはいう。農民もインフレの悪影響を受ける。最大の被害者は年金生活者だろう。公務員も被害をこうむりやすい。自由職業の場合は、立場に応じてさまざまである。アメリカの弁護士や医者などはおそらくそのサービス料を上げることができる。
インフレが人びとに与える影響はさまざまだ。しかし、いずれにせよ、インフレを統御しなければならないという意見が浮上し、政府が乗りださざるをえなくなる。
ここで問題になるのは、需要水準を抑えるべきか、それとも賃金と物価の悪循環を断ち切るべきかということだ。両面作戦をとって、需要をある程度抑えながら、賃金・物価の悪循環を止めるなら、インフレは克服できる。しかし、そこにはジレンマがひそんでいる、とガルブレイスはいう。
金融政策についてみていこう。
ガルブレイスはいう。
19世紀、イングランド銀行は公定歩合を動かすことによって、景気の安定をはかるようになった。政治とは一定の距離を保ちながら、金融政策によって経済をコントロールするという考え方が生まれたのは、このころからだ。
金融政策の決定は舞台裏でおこなわれ、人びとはいつのまにかそれによって動かされる。そのため、金融政策は神秘的で魔術的なものとすらとらえられていた。
インフレ退治を期待されたのも金融政策だった。利子率が上がれば貸付用資金の供給が減り、生産者や消費者の借入が減って、需要総額が抑制される。それによって価格は安定すると考えられた。
だが、実際はそう理屈どおりにはいかなかった。多少利率が上がったところで、刺激された消費者の需要は減らなかったし、投資もさほど減らなかったからだ。金融政策の効果を台無しにする方策はいくつもあった。
ただし、金融政策がはたらくとすれば、それは経済活動のなかでも、いちばん移り気な要素にたいしてであり、それが長期の投資だった、とガルブレイスはいう。すると、金融政策はきびしい不況を招くほどに投資を減らしてしまう危険性がある。そうした事態は避けなければならない。
ガルブレイスはさらに、高金利は大企業より、建設業者や中小企業、農民に負担を強いることになると書いている。
そこで、金融政策にたいするガルブレイスの見方は否定的なものとなる。
〈金融システムに魔法は存在しない。どんなにみごとに秘術めかして運用されたとしても、ゆたかな社会ではとうぜんとされる生産と雇用の責務と価格の安定性を調和させることはむずかしいのである。〉
これはインフレ時代の発言だが、現在でもあてはまる教訓だろう。
さらに進もう。次は財政政策だ。
一般に保守派は金融政策を好み、リベラル派は財政政策を好むといわれる。
財政政策は金融政策のような神秘性をもたず、簡明直裁に作用する。財制裁策でも、増税は景気の停滞をもたらす。賃上げは抑えられ、需要は減り、物価は安定する。その効果は金融政策より著しいほどだ。しかし、実際には増税政策が嫌われてきたことはいうまでもない。
インフレ対策のために積極的な財政政策をとろうとすると、それは増税ということにならざるをえない。政府支出の削減はだいたいにおいて認められないからだ。それはかけ声だけで、実際には予算はむしろ膨らんでいく。
不況対策としては減税と公共投資が広く受け入れられるのに、インフレ対策としての公共支出削減はなかなか認められない。増税もまた強い抵抗を受ける。
増税(とりわけ金持ちへの課税)は所得分配に影響をもたらすため、保守派から強い抵抗を受ける。さらに増税は需要の減退をもたらすため、生産にもマイナス作用としてはたらき、ひいては失業を増やす可能性もある。そのため、インフレを抑えるために増税政策がとられることはまずない、とガルブレイスはいう。
とはいえ、財政政策と賃金・価格統制を併用すれば、インフレには効果を発揮するかもしれない、とガルブレイスは述べている。こうした統制にたいする反発は根強い。だが、政府支出をある程度抑えながら、賃金・価格をの統制することは可能だと考えていた。
インフレ対策としては、金融政策も財政政策も、それなりに大きな矛盾をかかえている。本書の最終版が刊行された1998年の段階では、幸い失業率は低く、インフレも抑えられているが、それがどこまでつづくかはわからない、とガルブレイスは述べている。インフレの問題はけっして終わったわけではないのだ。
資本の力とローンの話──ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む(6) [経済学]
生産には既得権益があるとガルブレイスは書いている。それにもっともかかわっているのは実業家であり、かれは成功の度合いに応じて報酬を得、同時に社会的な敬意を受ける。これにたいし、公共サービスに携わる人は忘れられがちで、現代社会ではもっぱら実業家に注目が集まっているという。
その実業家は自身の利益のために闘う。そのため国家や知識人には懐疑をいだいてきた。
アメリカのリベラル派(自由主義者)は最近まで実業家を支持してきた、とガルブレイスはいう。それは商品生産の一義的重要性を認識していたからだ。生産を増やせば、失業問題を含むすべての社会問題は解決すると信じられていた。保守派が均衡予算の放棄をためらったのにたいし、リベラル派は政府の役割の拡大を支持した。
このあたり、「リベラル派」あるいは「保守派」というイメージが、アメリカと日本では、かなり食いちがっていることを認識すべきだろう。リベラル派は自由主義者とも訳されるが、そう訳すと、日本ではリベラルと自由主義がちがうようにみえてくるのが不思議である。
だが、その混乱は、アメリカでも同じようで、たとえばハイエクは自分は保守派ではなくリベラル派だと主張したが、そのリベラル派とはあきらかにケインズのようなリベラル派ではなく、もっと古典的なリベラル派である。その古典的なリベラル派、とりわけハイエクを継承したと称するフリードマンなどが「新自由主義者」を名乗るのだから、ぼくのような素人は、ますます混乱が増すばかりである。
そして、当のガルブレイス自身もリベラル派にはちがいない。だが、正統ではなく異端の(ケインズ左派の)リベラル派だったといえるだろう。ほんとうにややこしい。
ガルブレイスは正統リベラル派(日本では自由主義者という)の考え方を次のようにまとめている。
「リベラル派は、生産がすでにありあまる財を増やすだけの時代になっても、生産の増大こそが政治的成功を勝ちとる試金石だと本心から信じつづけていた」
生産至上主義(すなわちGDP至上主義)はいまだに根強い。
アメリカでは、リベラル派が実業家を支持し、保守派が実業家を牽制するという構図が生まれていたようにみえる。ことばのイメージでいうかぎり、これは日本とは逆の構図だったようにみえる。
混乱の海から抜けだそう。政治軸を整理し、再編してみなければならない。
ガルブレイスは実業家の時代はかげりを見せはじめているという。きらびやかな財を誇るのは俗悪とみなされるようになった。社会活動に貢献しない実業家は軽蔑される風潮すらある。そして、実業家と競争関係にある知識人がもてはやされるようになった。
生産の量ではなく、生活の質が問われるようになった。若者たちは、人種の平等や環境問題、公共と民間の役割、社会の持続可能性、さらに率直な芸術的・知的表現に関心を深めるようになっている。
それでも、この社会ではまだ生産が至上の力をもちつづけている、とガルブレイスはいう。この生産の力をわれわれは資本の力と言い換えてもよいだろう。
先に進む。ガルブレイスは小さなスケッチを重ねるように、現代の商品世界の様相をえがいている。
次は「借金とりがやってくる」という章だ。
「ゆたかな社会」は多額の消費者ローンのうえに成り立っていることがあきらかになる。
生産の目的は消費である。この定言からすれば、経済の主体は消費需要であって、生産はあたかも需要に従属するかのようにみえる。しかし、ガルブレイスはそうではないと考えている。現実は生産(資本)こそが主体であり、消費は生産に従属するのである。
だが、生産にとって消費が減るのは、生産自体を脅かすことになる。生産が商品の需要に依存していることはまちがいないからである。そのため経済政策としては失業の増大を避け、できるだけ完全雇用を維持することが求められる。
ガルブレイスは生産が欲望を生みだす複合作用として、消費者負債の増加を指摘している。
アメリカでは消費者負債が戦後、圧倒的に増加したという。不動産貸付を除いても、信用残高は1956年に425億ドルだったものが1967年には991億ドルと倍以上に増えている。その大半は自動車ローンだった。
この間、個人可処分所得も増加したが、その割合をはるかに超えて、個人ローンの割合が増えた、とガルブレイスはいう。いまではその額ははるかに多いはずだ。
「ゆたかな社会」が個人ローンのうえに築かれていることを忘れてはならない、とガルブレイスは警告する。多くの家庭がローンの支払いをかかえている。
〈不可避とはいえ、こうした大衆規模での負債拡大にともなう緊張はかなりのものである。それ自体、外から喚起されて生じた欲望が残したものは、借金であり、それは分割払いで商品を買った人に冬の雪のように舞い下りてくる。全国の何百万の家庭が承知しているのは、通知が届くとまもなく回収人がやってくるということだ。このすばらしい社会では、借金とりこそが中心人物なのではないか。〉(拙訳)
そこまで悲壮にならなくてもよいかもしれない。だが、ローンやクレジットの支払いが、いつもわれわれの生活を追いかけてくるのも事実である。
ガルブレイスは想像する。
あまりにも多くの宣伝に辟易して、宣伝効果が失われてしまうときがやってくるかもしれない。そうなると、人はものを買わず、貯金を殖やして、借金を返済する。すると総支出が減るから、総生産も減って、投資も減り、経済は不況におちいる。逆に欲望が刺激されすぎて、負債が大きくなりすぎるときには、貸し倒れの危険性が生じる。
昔、カネを借りるのは、ほとんど企業が投資するためだった。いまでは消費者が借金を増やしている。それによって、経済の不確実要因が増幅される。なぜなら、消費者は景気のいいときに借金を増やし、景気の悪いときに借金を減らす傾向があるからだ。そうした消費者行動がより大きな景気の山と谷をつくることになる、とガルブレイスは指摘する。
何はともあれ、「ゆたかな社会」では、消費者負債が経済ファクターのひとつとなった。
商品の生産と販売が神聖視される社会では、消費財への融資を抑え、その販売を抑えることになる措置をとるのはきわめてむずかしい。しかし、経済的安定と社会保障の観点からすれば、政府は何らかの予防措置をとる必要がある、とガルブレイスは主張している。
このあたりは、まさに2008年のリーマン・ショックを予想したかのような発言である。
最後にガルブレイスは「ゆたかな社会」のじつに奇妙な特徴を挙げる。それは民間でつくられる財にたいしては、それがどんな商品であっても、負債が奨励されるのにたいし、公共サービスへの支出(学校、病院、図書館、交通機関など)はできるかぎり抑えられていることだという。
こうした社会的アンバランスについては、別の章でまた論じられるだろう。そして、こうしたガルブレイスの発言が、新自由主義を掲げるフリードマンらからの強い反発を受けることになるのである。
このあと、インフレーションの話がはじまる。
『ゆたかな社会』は1958年に初版がだされ、1998年の第5版まで、じつに40年にわたって改訂されつづけたが、そのなかでもっとも変更されたのが、インフレーションをめぐるいくつかの章である。
当初、ガルブレイスは「ゆたかな社会」にはインフレがつきものだと考えていた。ところが、最終版ではその考えが誤っていたことを認めている。
インフレはすっかり収まってしまった。その理由を含め、次回はそのあたりを読み解くことにしよう。
依存効果──ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む(5) [経済学]
生産の増加は、職を増やし、不平等を見えなくすることで、「ゆたかな社会」をもたらした。だが、なぜ生産を増やしつづけねばならないのだろうか。
生産を増やすのは、かつては基本的な衣食住をより多く満たすためだった。だが、いまではもっとエレガントな自動車や、エキゾチックな食べものや、エロティックな衣装や、洗練された娯楽、つまり敏感で、伝染性があって刺激的な現代的欲望を満たすことに生産が向けられるようになった、とガルブレイスはいう。
経済学はなによりも生産を重視する。与えられた資本と労働、資源のもとで生産効率をいかに高めるか、生産の阻害要因をいかに排除するかが経済学の大きな課題となってきた。
そして、生産の重要性と消費者需要の切迫性を強調することが、経済学の習い性になっていた。つまり、どんなくだらない生産であろうと、どんなくだらない消費であろうと、生産と消費は、それ自体擁護されなければならなかったのだ、とガルブレイスはいう。
現在認められている消費者需要の理論はどのようなものだろうか。
はっきりいって、それはじゅうぶんに研究されているとはいいがたい。肉体的であれ心理的であれ、人の欲望はかぎりなく、それがどこまで充足されたかを証明することはできない。欲望は消費者の個性にもとづくもので、経済学にとって欲望は与件にすぎないとされる。
経済学にとって重要なのは需要と供給の価格理論であって、いまでは限界効用理論が人間の基本的な経済活動を説明すると考えられている。
なかでも限界効用逓減という概念が重要である。それによると穀物がありあまるようになると、穀物への需要は大きな伸びを示さなくなり、所得はほかのものの消費に回されるということになる。
経済学において限界効用理論はより精緻化され、都合の悪い事実は排除されていった。
そのさい、経済学では商品そのものの評価はされないことになった。必要か不要か、重要か重要でないかは関係ない。それが売買されることだけが問題なのだ。
消費者の関心を引く商品には無限の組み合わせがある。そして個々の商品の限界効用は逓減するけれども、別の新たな商品が比較的に高い限界効用をもたらす。そして、あらたな製品が登場するかぎり、消費者は次々と欲望を満たすように行動する。その行動は商品やサービスの供給がなされるかぎり、どこまでもつづく。
だが、そういう経済学の考え方はまちがっている、とガルブレイスはいう。消費には順番というものがあって、最初に選ばれるのはより優先度の高いものだ。これにたいし、経済学者は消費に優先度などないという。それがいま消費されているという事実だけが重要なのだという。
たしかに限界効用逓減の理論は、欲望と財の価格評価の関係を示すうえでは役立つかもしれない。財を追加で購入しても、それによって得られる満足度が低ければ、人はそれに多くを支払おうとは思わないはずである。そうした個々人の行動を社会的に集計すると、右下がりの需要曲線が得られるだろう。だが、限界効用理論は、消費者の実際行動を無視した仮説にすぎない、とガルブレイスはいう。
いずれにせよ、商品は多いほど、商品が少ないより欲求が満たされる。商品が重要だという仮説は疑われようもなかった。というのは、商品こそが人類の窮乏を救ってきたからである。こうして限界効用理論を含む経済学も生き残ってきた。
それにたいする異議がなかったわけではない。ケインズは人間の欲求がかぎりないものであることを認めながら、もし絶対に不可欠なものが満たされるようになったら、経済は人類にとって重要な問題ではなくなるかもしれないと論じた。しかし、不況対策についてはともかく、この点に関しては、ケインズはまだ支持を得られていない、とガルブレイスは述べている。
このあたりの話はなかなかややこしい。
先に進もう。次は「依存効果」を論じた有名な章である。
欲望は常に固有の現象として、それ自体存在するというのが、経済学の従来の考え方である。生産はそうした欲望を満たすためになされると考えられてきた。
しかし、ほんとうは生産が欲望をつくりだすとしたらどうだろう。「生産が欲望をつくりだすとしたら、生産を欲望を満たすものとして擁護することはできなくなる」とガルブレイスはいう。
ケインズは他人に負けまい、あるいはその先に行こうという気持ちが、はてのない欲望を生みだすと論じている。だれかが何かを買うと、自分もほしくなる。それによって、満たされるべき欲望は次々と広がり、また新しい欲望が生まれていく。
「ゆたかな社会」では、欲望それ自体というとらえ方は後ろに引っこんでしまった。それよりも、もっと生活水準をあげたいという意欲が、社会的な体裁を保つという意識とあいまって増していく。
ガルブレイスはさらに現代社会における宣伝とセールスの重要性を指摘する。そして、その目的は欲望をかき立てることだから、欲望は自立的に決定されるという旧来の考え方は、すでに通用しなくなっているという。
新しい製品を売りだすときには、宣伝費を投入しなければならないことは、もはやだれもが知っている。
だとすれば、「欲望が生産に依存することを認めなければならない」とガルブレイスはいう。「生産は、受け身的な人との競争によってだけではなく、積極的な宣伝その他によって、満たされるべき欲望をつくりだすのだ」
こんなあたりまえのことを従来の経済学は認めてこなかった。宣伝などむしろ不要という見方が強かったのだ。
それ自体決まった欲望という考え方はいまでも生き残っている。そして欲望を満たすための生産がもっともだいじなこととされる。
だが、それでは宣伝に動かされて人がものを買っているという現在の「ゆたかな社会」のできごとを理解できなくなってしまう、とガルブレイスはいう。
ガルブレイスは、欲望が生産に依存する「依存効果」なるものを次のように説明する。
〈次第に社会がゆたかになっていくと、欲望を満足させるプロセスによって、だんだんと欲望がつくりだされるようになっていく。これが受動的に作動する場合もある。消費の増加は生産の増加に対応するものだが、そのさい、提案や競争心が欲望をつくりだすことになる。さらに、生産者が宣伝やセールスを通じて積極的に欲望をつくりだす場合もある。こうして欲望が生産に依存するようになるのである。〉
われわれは、膨張自体を自己目的とする資本主義が次々と欲望を生みだしていくととらえたくなる。
マルクスは資本が生き残り膨張していくのは、労働者の生みだす剰余価値を資本が搾取するからだと考えた。これにたいし、ガルブレイスは資本が生き残り膨張していくのは、生産が商品を通じて欲望を開発していくからだととらえている。そして、ここに「ゆたかな社会」が生まれていく。
資本主義の終焉がささやかれるいま、そのことをどう考えればよいのだろう。倫理的な批判を加えるのは容易である。だが、おそらくそれだけでは、じゅうぶんではない。
いまはそうした現象があることを確認するだけで、もう少し先に進んだほうがいいだろう。ようやく半分ほど読み終わったところである。