伊良古へ──栗田勇『芭蕉』から(18) [芭蕉]
[広重『東海道53次』から吉田宿、ウィキペディアより]
芭蕉は貞享4年(1687)10月25日(いまの暦では11月29日)、江戸を立った。木枯らしの吹く日だったかもしれない。こんどこそ吉野の桜を見、須磨、明石にも足をのばしたいと思っていた。いまとちがい、昔の旅は車も電車もないし、時間もかかるから、そう安直な気持ちでは行けない。
このときの断片的なメモをまとめた『笈の小文(おいのこぶみ)』には、旅行記(紀行)についての芭蕉のとらえ方が示されている。
その部分を現代語訳で紹介しておこう。
〈そもそも旅行記というものは、紀貫之や鴨長明、阿仏尼[『十六夜日記』の著者]〉が、心をこめて文をつづって以来、そのほかはどれも似たり寄ったりで、斬新なものはみられない。まして、私のような浅智短才の者には、これといったものが書けるわけではない。その日は雨が降り、昼から晴れて、そこに松があり、あそこに何とかいう川が流れていたといったようなことを、誰しもがつい書いてしまいがちである。しかし、それは味気ない。よほど心に刻まれたこと以外は書いても仕方ないだろう。〉
単なる記録は残しても意味がない。この姿勢はのちの『おくのほそ道』につながるものだ。
そして、こうつづけている。
〈とはいえ、旅先の所々の風景は心に残り、山中や野中の宿がつらかったことも話の種となる。自然に身をまかせたまま、忘れられぬことを、あれこれ書きつのるのは、まるで酔っ払いの妄語、あるいは眠る人の寝言みたいなものかもしれない。それでもそれを書くのは、読んでくれる人がいることを、ひそかに期待するからだ。〉
芭蕉の『おくのほそ道』が、いまも読みつがれる古典になったことを思えば、この述懐は杞憂だった。それ以前に、この記述は芭蕉がいかに紀行にこだわっていたかを示している。
しかし、まずは『笈の小文』の旅である。
その記録は、東海道の道中を省略して、いきなり尾張の鳴海(現在の名古屋市緑区)へと飛んでいる。
芭蕉が鳴海の知足亭[鳴海の庄屋、下里知足の家]に到着したのは11月4日のことである。師を迎えて、さっそく尾張の連衆による句会(歌仙興業)がはじまった。
鳴海の門人の家々で開かれた句会で芭蕉が詠んだ句が伝わっている。
11月5日、寺島菐言(ばくげん)亭
京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲
11月7日、寺島安信亭
星崎の闇を見よやと啼く千鳥
このふたつの句は『笈の小文』にも取り入れられている。
その部分を現代語訳で示しておこう。
〈鳴海に泊まって、
星崎の闇を見よやと啼く千鳥
飛鳥井雅章(あすかい・まさあき)公がこの宿に泊まられ、「都も遠くなるみがたはるけき海をなかにへだてて」と吟じられ、みずから書かれたものをたまわった。そう主人が語ったので、
京まではまだ半空や雪の雲〉
最初の句の意味。星崎(現名古屋市南区)の闇を見よと千鳥が鳴いているのだろうか。それだけでは何のことかわからない。
星崎は川をへだてて鳴海のすぐ北西にある地名。しかし、星崎というだけで、何やら冬の夜空が広がるような気がする。
冬の夜空と千鳥の鳴き声が旅愁をさそう。
もうひとつの句。
飛鳥井雅章(1611〜79)は公家で権大納言、蹴鞠、書に秀で、歌人でもあった。いまは亡き、その人物がかつて京から江戸に向かう途中、鳴海の宿に泊まり、歌を詠んだことがあった。
その歌に和するように、これから京に立ち寄る芭蕉は、京までの旅程はまだ半ば、粉雪が舞い落ちてきそうだ、と冬の旅のさまを詠う。
とはいえ、芭蕉の思いはまだ京に向かってはいない。
空米商い[米の先物買い]により尾張藩のとがめを受け、伊良古の地に追放された門人、坪井杜国(とこく)に早く会いたいのである。
その様子は自身の記述からも伝わってくる。
〈三河の国の保美[渥美半島の現田原市保美町]というところに、杜国がしのんで暮らしているのを訪ねるため、まず越人[門人の越智越人]に連絡をとり、鳴海[現名古屋市内]から25里ほど[100キロ程度、実際には70キロほど]道を後戻りして、その夜、吉田[現豊橋市]に泊まった。
寒けれど二人寝(ぬ)る夜ぞ頼もしき
天津縄手[現豊橋市天津]。田のなかに細い道があって、海から吹き上げる風がとても寒い場所だ。
冬の日や馬上に氷る影法師〉
2年半前に会ったとき以来、杜国の運命は、名古屋の裕福な商人から領外追放の身へと一変した。その悲運に見舞われた杜国と会うため、芭蕉は越人とともに伊良古に急いでいる。
このとき、芭蕉44歳、杜国は30を過ぎたばかりだ。
吉田は東海道53次の宿のひとつ。ここに泊まったのは11月10日のことだ。
このとき同宿したのは越人にちがいないが、隣にはすでに杜国がいるような気がしている。
そして翌朝。海から冷たい風が吹くなかを馬上の影法師が進む。外は凍てついているが、心には再会の思いがたぎっている。
おそらく11月11日(いまの暦では12月16日)夕刻、芭蕉は渥美半島の保美(ほび、現田原市保美町)に謫居する杜国と再会したのだろう。
翌日、芭蕉は杜国、越人とともに、伊良古崎(伊良湖岬)に出かけている。
『笈の小文』には、こう記されている。
〈保美村から伊良古崎へは1里以上[4キロほど、実際は7キロほど]あるだろうか。三河の国の地続きで、伊勢とは海をへだてている場所だが、なぜか万葉集には伊勢の名所のなかに選定されている。
この岬の浜で、碁石をひろった。世にいらご石といわれるものだとか。骨山というのは、鷹をつかまえるところだ。南の海の果てにあって、鷹がはじめて渡ってくる場所だという。いらご鷹などと歌にも詠まれていたと思いなしていると、いっそう感動がわいてきた。そこで、
鷹一つ見付(みつけ)てうれし伊良古崎〉
伊良古崎の冬の天空に鷹が一羽すばやく飛んでいく。それを見付けたときのうれしさは、ほかにたとえようもない。才人、杜国との再会が、芭蕉を高揚させている。
『笈の小文』の旅へ──栗田勇『芭蕉』から(17) [芭蕉]
芭蕉はまた旅に出たくなっている。
2年半ほどの江戸俳壇暮らしから脱出したいと思っている。貞享4年(1687)8月の鹿島への小旅行が、その口火となった。こうして『笈(おい)の小文(おいのこぶみ)』の旅がはじまる。
俳諧は心身連動のうちに発し、「時空融合」をとらえた刹那にことばになる、と栗田勇は書いている。そのことばを求めて、芭蕉はふたたび旅にでる。
10月10日、其角(きかく)亭で開かれた送別の句座で、芭蕉はこう詠む。
旅人と我が名よばれん初しぐれ
『笈の小文』は、江戸を出発して、故郷の伊賀上野、伊勢、大和、紀伊、攝津、播磨(明石須磨)をめぐる、ほぼ10カ月にわたる旅行メモである。紀行だけでなく、俳文、批評、発句などが含まれている。一見、まとまりがない。
刊行されたのは宝永6年(1709)と芭蕉の死後15年たってからで、芭蕉自身はどうやらこのメモを本にするつもりはなかったようである。
これをまとめたのは、弟子の河合乙州(おとくに)。大津で荷問屋をいとなんでいた。芭蕉の生活を支えていたのは、こうした富裕な商人が多い。
メモをまとめたために、『おくのほそ道』ほど文の流れは整っていない。断片的で粗雑な部分も目立つ。
しかし、栗田は「いわば断片的な言葉の裂け目、割れ目からほとばしる真相を読みとらねばならない」という。
『笈の小文』の冒頭には、のちの『幻住庵記』(元禄3年[1690])[前述]に記される一文とよく似た俳文が置かれている。そこから判断しても、芭蕉が『笈の小文』の雑録を乙州に示したのは、『おくのほそ道』の旅を終えた、晩年の元禄4年(1692)になってからだと考えられている。
その冒頭を例によって、わがままな現代語訳で示しておく。芭蕉はみずからを風羅坊(ふうらぼう)と称している。
〈百骸九竅(ひゃくがいきゅうきょう[360の骨節と9つの穴])をもつ人体のなかには、心と生命が存在している。かりにそれを風羅坊と名づけよう。それは、まことに芭蕉の薄い葉が風に吹かれて破れやすい姿をさすかのようだ。
自分は長く狂句にひかれてきたが、それが、いつか生業となってしまった。あるときは、うんざりして、もうやめようかと思ったり、あるときはもっと精進して人に勝ちたいと願ったりして、そのふたつの思いが胸中にせめぎあって、いつも落ち着かないままでいた。
そのため、努力して身を立てたいと望んでもうまくいかず、懸命に学んで悟りを得たいと思っても挫折し、ついに無能無芸のまま、ただこのひと筋につながることになった。
和歌では西行、連歌では宗祇(そうぎ)、絵では雪舟、茶では利休、その道を貫いているものはひとつである。いずれも風雅の道であり、天地自然にしたがって、四季を友とする。
見るところ花はその姿をあらわし、思うところ月はその姿をあらわす。もし、かたちが花でないとしたら、それは人以前にひとしい。もし、心が花でないとしたら、それは鳥や獣のたぐいである。
人であることを見つめなおし、天地自然にしたがい、天地自然に帰ろうではないか。そうすれば、みずからを包みこむこの世界は、ひとつの宇宙となるだろう。〉
これが芭蕉晩年の境地である。
人それぞれ道があるけれども、芭蕉はこれまで俳諧の道に生きてきた。その姿は、ふらふらと世の中を渡る風羅坊のようである。薄い葉が風に破れたような、まことにみっともない風体をしている。
しかし、その心は俳諧という文芸を求め、一途に西行や宗祇、雪舟、利休の風雅の道につらなろうと進んできたのだ。
俳諧の道は、天然自然にしたがって、四季を友とするところに開けてくる。花や月が姿をあらわすのは、人がそれを見るからである。
権力やカネを求めて突きすすむことだけが、人のさがではない。めざすべきは、天地自然にしたがい、天地自然に帰ることである。
世間の風に吹きさらされながらも、芭蕉はいつしか、そんなふうに思うようになった。
こうして、また旅がはじまる。
出発にあたって、芭蕉はこう書いている(現代語訳)。
〈神無月(10月)のはじめ[いまの暦では11月下旬]、天候は変わりやすく、わが身は風に飛ばされる葉のような、あてどない心地がして、
旅人とわが名呼ばれん初しぐれ
また山茶花(さざんか)を宿やどにして
この脇の句をつけてくれたのは、岩城[磐城]の住人の長太郎なる人で、其角亭で開かれた送別会でのことである。〉
其角亭は江戸深川の木場にあったという。
長太郎は、磐城小名浜(いまの福島県いわき市)の出身で、姓は井出、俳号は由之(ゆうし)。磐城平藩、内藤家に仕えていた。
初しぐれのなかに旅立とうという芭蕉の句に、旅の宿やどに咲いているサザンカを楽しんでくださいね、とつけたのである。
ちなみに内藤家の次男、義英(よしひで、1661〜1743)は、露沾(ろせん)の俳号をもつ江戸俳壇の重鎮で、赤坂溜池(江戸時代は文字どおり大きなため池があった)に生まれ、家中内紛の責任をとらされ、当時は麻布六本木に蟄居していた。
その露沾は、この句会で芭蕉へのはなむけとして、次の句を参加者(おそらく長太郎なる由之)に託している。
時は冬吉野をこめん旅の土産(つと)
旅のみやげに、吉野をいれておきましょう。どうぞお楽しみに、というわけだろうか。
だとするなら、今回の旅の目標は、最初から花の吉野と定まっていたことになる。ついでにいえば、その同行者も決まっていた。藩から空米商いの罪に問われ、領内追放となり、伊良子の保美村で暮らしていた杜国である。
芭蕉は伊勢で杜国と落ち合い、前回の旅で出会えなかった吉野の桜をみるつもりでいる。
貞享4年(1687)10月25日、芭蕉は江戸を出発する。現在の暦でいえば、11月29日。かなり冷えこんでくるころである。
古池や──栗田勇『芭蕉』から(16) [芭蕉]
書評の仕事からも手を引いたし、翻訳の仕事も終わったし、これからは読み残した本を読みたいと思っている。
まずは、途中でやめてしまった本に戻るのが、いちばん手っ取り早い。そこで、栗田勇の『芭蕉』に戻る。例によって、むずかしい話ははしょる。すぐ何もかも忘れてしまうボケはじめ老人の読書メモである。ゆっくり気ままな読書だから、期待は禁物。
さて、前回まで6回にわたって、芭蕉が貞享元年(1684)8月から翌年4月にかけ、8カ月間、故郷、伊賀上野や吉野、大和、美濃大垣、京都、大津、名古屋などを周遊し、江戸の芭蕉庵に戻ったところまでをまとめてきた。『野ざらし紀行(甲子吟行)』に記された旅である。
次にふたたび長い旅に出る貞享4年(1687)10月まで、芭蕉は2年半ほど江戸にいる。ただし、一度、鹿島神宮に詣でる小旅行に出かけている。
今回は、栗田勇の『芭蕉』を読みながら、その2年半をふり返ってみることにする。
じつは『野ざらし紀行』が完成したのは、実際の旅が終わってから1年半近くたった貞享3年(1686)秋のことだという。江戸に戻った芭蕉は、時間をかけて、推敲を重ねていたのだろう。
貞享3年に、芭蕉は43歳。その「あとがき」を記したのは、漢学者でもあり俳人でもある親友の山口素堂だった。
素堂はこの吟行で秀逸は「道のべの木槿は馬に食はれけり」と「山路来て何やらゆかしすみれ草」の二句に尽きると断言する。たしかに、はっとする句にちがいない。しかし、前に見てきたとおり、ほかにもいくつか秀句はある。
素堂は芭蕉とは古くからのつきあいだ。芭蕉庵ができたのも素堂の尽力と支援のおかげといわねばならない。
山口素堂(1642〜1716)は現在の山梨県北杜市に生まれ、酒造業を弟に譲り、江戸に出て、林家の塾にはいった。一時、仕官したものの、38歳で上野不忍池のほとりに隠栖した。のちに官の要請により甲府濁川の治水工事をゆだねられ、功績を挙げるのは、まだ先のことだ。
芭蕉の2歳年上で、俳友である。荘子にも造詣が深い。深川にも屋敷があったようだ。
栗田勇は、「野ざらし」の旅で、芭蕉は風雅から風狂へと、さらに境地を深めたと書いている。
これはどういうことだろうか。
「風雅」が身を世間の上におき、超俗の気配をただよわすのにたいし、「風狂」は身を世間の下におき、脱俗をめざすととらえればいいのだろうか。語弊があるかもしれないが、芭蕉はいわば精神のホームレス、さまよい人になろうとしていた。
「野ざらし」の旅の記録『野ざらし紀行』が完成する年の春、芭蕉庵では、のちに『蛙合(かわずあわせ)』として刊行される句会が開かれた。
このときの巻頭句が、
古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音
「この句は芭蕉が孤独のなかで、沈思黙考、呻吟苦吟してひねり出されたものではなく、なんと参加者は門下、知友、40名、しかも衆議判によって進められたという事情を考えると、面白い」と栗田は書いている。
衆議判とは、参加者がこぞって歌の優劣を論議するやり方をさすらしい。さぞかし、にぎやかな句会だったろう。
そのなかで、冒頭に出された芭蕉の句。それは事前に準備されていたものかもしれないが、どことなくユーモラスで、動きもあり、楽しげでもある。古池の音から、蛙の表情までイメージが広がっていく。
素直な句であり、どこにも深遠さなどないようにみえる。しかし、やはり脱俗の響きが感じられないだろうか。
芭蕉の目は世間の底に向けられている。その耳は底の音を聞くことに集中している。
その場所に自分をおくこと。世間の底とは、人の世を包む自然といってもよい。
世間という空間と時間を超えて、芭蕉はどこかに向かおうとしている。
江戸に戻った芭蕉は、連日の句会で忙しい。ひっぱりだこといってもいいくらい、人気の宗匠だった。その多忙なイベントが芭蕉の生活を支えている。
8月15日には、芭蕉庵で月見の会が開かれた。其角(きかく)、仙化(せんか)、吼雲(こううん)らと隅田川に小舟を浮かべて、それぞれ句を詠んだ。あたためた酒を飲みながら、舟を川の流れにまかせ、満月が川に映るのを九つ(いまの夜中の12時)まで楽しんだという。
そのときの芭蕉の句。
名月や池をめぐりて夜もすがら
一見楽しげな句だ。しかし、栗田は、この一句を、芭蕉が「池に映る月に、認識を超えた存在感にとりこまれ、鬼気迫るものを感じた」と評する。
池に映る月に、「鬼気迫るものを感じた」とは、いったいどういうことなのだろう。
月は人の心を映す鏡でもある。その月は天空高く輝いているだけでなく、すぐそばの池にも降りてきているのだ。
人の世ははかない。生死のあわいに、たちまち消えていく。それを月が見守っている光景は、ある意味シュールであり、「鬼気迫る」ものととってもよいのかもしれない。とはいえ、深い諦念のうちに人の世のはかなさを思う芭蕉は、やはり達観し、どこか楽しげにもみえる。
翌、貞享4年(1687)8月14日、芭蕉は鹿島神宮参拝の旅にでる。
その主要目的は、芭蕉の師ともいうべき鹿島根本寺の元住職、仏頂和尚と会うためだった。仏頂はいまは隠居し、根本寺内の長興庵に住んでいる。芭蕉としては、共に月見をしようともくろんである。
8月14日、芭蕉は曾良(そら、1649〜1710)、宗波(そうは)とともに深川を出発し、舟で行徳に向かい、行徳から陸路、現在の鎌ヶ谷に。鎌谷(かまがい)の原から、はるかに筑波山をのぞんだ。
ようやく、ひと休みできたのは、利根川ほとりの布佐(ふさ)に着いたときのことだ。昔の人はほんとうによく歩く。ちなみに布佐は、柳田国男が少年時代をすごした場所でもある。
同行した宗波は本所、定林寺の住職で、仏頂和尚とゆかりがあったのだろう。注目すべきは、ここに曾良の名前があることだ。岩波曾良は上諏訪出身で、芭蕉より5歳年下。2年前の冬に芭蕉の門下となり、芭蕉庵の近くに居を構え、何くれとなく芭蕉の世話をしている。のちに『おくのほそ道』の旅にも同行することになる。
布佐から先はというと、この旅の記録『鹿島紀行』に芭蕉はこう記している。例によって、現代語訳で。
〈日が落ちたころ、利根川のほとり布佐というところに着く。この川では網代(あじろ)を工夫してサケをとり、江戸の市場で商売している者がいる。宵のうち、その漁師の家で休ませてもらった。夜の宿は生臭い。月がくまなく晴れわたるのにまかせ、深夜、舟をださせて、川を下り鹿島にいたる。〉
利根川をサケがさかのぼっていたというのも驚きだし、江戸の魚市場にサケをおろして商売していたというのもおもしろい。
当時、鹿島へは利根川をくだるのが、いちばん便利なルートだったこともわかる。
ところが、雨が降ってきた。これではせっかくの月見も期待できそうにない。鹿島に着いた芭蕉は、何はともあれ、城山のふもとにある根本寺に向かった。元住職、仏頂は、そのなかの隠居所、長興庵で暮らしている。
〈あかつきの空が少し明るんできたので、和尚に声をかけると、驚かれた様子で、それから人びとが起きだしてきた。月の光、雨の音、ひたすら感動的な景色ばかりが胸に満ちて、いうべきことばが浮かんでこない。はるばる月を見にきたというのに、その風流が味わえないのは残念なことだ。しかし、何とかいう女人[清少納言]でさえ、ホトトギスの歌を詠めぬまま帰途についたのを悔やんだというから、私にとっては、心強い味方がいたといえるかもしれない。〉
久方ぶりに仏頂と会った芭蕉は、感極まっている。月見は後回しでよいのだ。
雨が次第に上がってきた。
この夜の月見で、芭蕉は一句詠んでいる。
月はやし梢は雨をもちながら
これにたいし、和尚はこう返した。
おりおりにかはらぬ空の月かげも
ちぢのながめは雲のまにまに
流れる雲が早いので、月がまるで走っているようにみえる。地上では木々の梢が、雨のしずくを垂らしている。芭蕉はそう詠んだ。
これにたいし、和尚はこう答えた。空の満月はいつも変わらない。その姿が変わるようにみえるのは、雲が動いているからだ。
まるで禅問答のよう。人の欲や迷いを一喝したものともとれる。
しかし、それよりも何よりも、芭蕉は仏頂と再会できたのがうれしかった。人の命は短い。別れもまた永遠である。だからこそ、再会は、ともに生きている喜びと感動をもたらすのだ。芭蕉はそう感じたにちがいない。
歌はいのちのあかしである。
まずは、途中でやめてしまった本に戻るのが、いちばん手っ取り早い。そこで、栗田勇の『芭蕉』に戻る。例によって、むずかしい話ははしょる。すぐ何もかも忘れてしまうボケはじめ老人の読書メモである。ゆっくり気ままな読書だから、期待は禁物。
さて、前回まで6回にわたって、芭蕉が貞享元年(1684)8月から翌年4月にかけ、8カ月間、故郷、伊賀上野や吉野、大和、美濃大垣、京都、大津、名古屋などを周遊し、江戸の芭蕉庵に戻ったところまでをまとめてきた。『野ざらし紀行(甲子吟行)』に記された旅である。
次にふたたび長い旅に出る貞享4年(1687)10月まで、芭蕉は2年半ほど江戸にいる。ただし、一度、鹿島神宮に詣でる小旅行に出かけている。
今回は、栗田勇の『芭蕉』を読みながら、その2年半をふり返ってみることにする。
じつは『野ざらし紀行』が完成したのは、実際の旅が終わってから1年半近くたった貞享3年(1686)秋のことだという。江戸に戻った芭蕉は、時間をかけて、推敲を重ねていたのだろう。
貞享3年に、芭蕉は43歳。その「あとがき」を記したのは、漢学者でもあり俳人でもある親友の山口素堂だった。
素堂はこの吟行で秀逸は「道のべの木槿は馬に食はれけり」と「山路来て何やらゆかしすみれ草」の二句に尽きると断言する。たしかに、はっとする句にちがいない。しかし、前に見てきたとおり、ほかにもいくつか秀句はある。
素堂は芭蕉とは古くからのつきあいだ。芭蕉庵ができたのも素堂の尽力と支援のおかげといわねばならない。
山口素堂(1642〜1716)は現在の山梨県北杜市に生まれ、酒造業を弟に譲り、江戸に出て、林家の塾にはいった。一時、仕官したものの、38歳で上野不忍池のほとりに隠栖した。のちに官の要請により甲府濁川の治水工事をゆだねられ、功績を挙げるのは、まだ先のことだ。
芭蕉の2歳年上で、俳友である。荘子にも造詣が深い。深川にも屋敷があったようだ。
栗田勇は、「野ざらし」の旅で、芭蕉は風雅から風狂へと、さらに境地を深めたと書いている。
これはどういうことだろうか。
「風雅」が身を世間の上におき、超俗の気配をただよわすのにたいし、「風狂」は身を世間の下におき、脱俗をめざすととらえればいいのだろうか。語弊があるかもしれないが、芭蕉はいわば精神のホームレス、さまよい人になろうとしていた。
「野ざらし」の旅の記録『野ざらし紀行』が完成する年の春、芭蕉庵では、のちに『蛙合(かわずあわせ)』として刊行される句会が開かれた。
このときの巻頭句が、
古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音
「この句は芭蕉が孤独のなかで、沈思黙考、呻吟苦吟してひねり出されたものではなく、なんと参加者は門下、知友、40名、しかも衆議判によって進められたという事情を考えると、面白い」と栗田は書いている。
衆議判とは、参加者がこぞって歌の優劣を論議するやり方をさすらしい。さぞかし、にぎやかな句会だったろう。
そのなかで、冒頭に出された芭蕉の句。それは事前に準備されていたものかもしれないが、どことなくユーモラスで、動きもあり、楽しげでもある。古池の音から、蛙の表情までイメージが広がっていく。
素直な句であり、どこにも深遠さなどないようにみえる。しかし、やはり脱俗の響きが感じられないだろうか。
芭蕉の目は世間の底に向けられている。その耳は底の音を聞くことに集中している。
その場所に自分をおくこと。世間の底とは、人の世を包む自然といってもよい。
世間という空間と時間を超えて、芭蕉はどこかに向かおうとしている。
江戸に戻った芭蕉は、連日の句会で忙しい。ひっぱりだこといってもいいくらい、人気の宗匠だった。その多忙なイベントが芭蕉の生活を支えている。
8月15日には、芭蕉庵で月見の会が開かれた。其角(きかく)、仙化(せんか)、吼雲(こううん)らと隅田川に小舟を浮かべて、それぞれ句を詠んだ。あたためた酒を飲みながら、舟を川の流れにまかせ、満月が川に映るのを九つ(いまの夜中の12時)まで楽しんだという。
そのときの芭蕉の句。
名月や池をめぐりて夜もすがら
一見楽しげな句だ。しかし、栗田は、この一句を、芭蕉が「池に映る月に、認識を超えた存在感にとりこまれ、鬼気迫るものを感じた」と評する。
池に映る月に、「鬼気迫るものを感じた」とは、いったいどういうことなのだろう。
月は人の心を映す鏡でもある。その月は天空高く輝いているだけでなく、すぐそばの池にも降りてきているのだ。
人の世ははかない。生死のあわいに、たちまち消えていく。それを月が見守っている光景は、ある意味シュールであり、「鬼気迫る」ものととってもよいのかもしれない。とはいえ、深い諦念のうちに人の世のはかなさを思う芭蕉は、やはり達観し、どこか楽しげにもみえる。
翌、貞享4年(1687)8月14日、芭蕉は鹿島神宮参拝の旅にでる。
その主要目的は、芭蕉の師ともいうべき鹿島根本寺の元住職、仏頂和尚と会うためだった。仏頂はいまは隠居し、根本寺内の長興庵に住んでいる。芭蕉としては、共に月見をしようともくろんである。
8月14日、芭蕉は曾良(そら、1649〜1710)、宗波(そうは)とともに深川を出発し、舟で行徳に向かい、行徳から陸路、現在の鎌ヶ谷に。鎌谷(かまがい)の原から、はるかに筑波山をのぞんだ。
ようやく、ひと休みできたのは、利根川ほとりの布佐(ふさ)に着いたときのことだ。昔の人はほんとうによく歩く。ちなみに布佐は、柳田国男が少年時代をすごした場所でもある。
同行した宗波は本所、定林寺の住職で、仏頂和尚とゆかりがあったのだろう。注目すべきは、ここに曾良の名前があることだ。岩波曾良は上諏訪出身で、芭蕉より5歳年下。2年前の冬に芭蕉の門下となり、芭蕉庵の近くに居を構え、何くれとなく芭蕉の世話をしている。のちに『おくのほそ道』の旅にも同行することになる。
布佐から先はというと、この旅の記録『鹿島紀行』に芭蕉はこう記している。例によって、現代語訳で。
〈日が落ちたころ、利根川のほとり布佐というところに着く。この川では網代(あじろ)を工夫してサケをとり、江戸の市場で商売している者がいる。宵のうち、その漁師の家で休ませてもらった。夜の宿は生臭い。月がくまなく晴れわたるのにまかせ、深夜、舟をださせて、川を下り鹿島にいたる。〉
利根川をサケがさかのぼっていたというのも驚きだし、江戸の魚市場にサケをおろして商売していたというのもおもしろい。
当時、鹿島へは利根川をくだるのが、いちばん便利なルートだったこともわかる。
ところが、雨が降ってきた。これではせっかくの月見も期待できそうにない。鹿島に着いた芭蕉は、何はともあれ、城山のふもとにある根本寺に向かった。元住職、仏頂は、そのなかの隠居所、長興庵で暮らしている。
〈あかつきの空が少し明るんできたので、和尚に声をかけると、驚かれた様子で、それから人びとが起きだしてきた。月の光、雨の音、ひたすら感動的な景色ばかりが胸に満ちて、いうべきことばが浮かんでこない。はるばる月を見にきたというのに、その風流が味わえないのは残念なことだ。しかし、何とかいう女人[清少納言]でさえ、ホトトギスの歌を詠めぬまま帰途についたのを悔やんだというから、私にとっては、心強い味方がいたといえるかもしれない。〉
久方ぶりに仏頂と会った芭蕉は、感極まっている。月見は後回しでよいのだ。
雨が次第に上がってきた。
この夜の月見で、芭蕉は一句詠んでいる。
月はやし梢は雨をもちながら
これにたいし、和尚はこう返した。
おりおりにかはらぬ空の月かげも
ちぢのながめは雲のまにまに
流れる雲が早いので、月がまるで走っているようにみえる。地上では木々の梢が、雨のしずくを垂らしている。芭蕉はそう詠んだ。
これにたいし、和尚はこう答えた。空の満月はいつも変わらない。その姿が変わるようにみえるのは、雲が動いているからだ。
まるで禅問答のよう。人の欲や迷いを一喝したものともとれる。
しかし、それよりも何よりも、芭蕉は仏頂と再会できたのがうれしかった。人の命は短い。別れもまた永遠である。だからこそ、再会は、ともに生きている喜びと感動をもたらすのだ。芭蕉はそう感じたにちがいない。
歌はいのちのあかしである。
惜別と帰庵──栗田勇『芭蕉』から(15) [芭蕉]
芭蕉の旅は「いわば情にまかせた放浪ではなく、禅林風の悲愁と、日本民俗の詩歌のもつ、祝祭性と諧謔性の接点を求めて、『新しみ』への厳密で計画的な旅であった」と、栗田勇は書いている。芭蕉における俳諧の革新運動とは何だったかが、みごとに要約されている。
ぼくのようなぼんくらに、むずかしい話はわからない。
ただ、芭蕉が琵琶湖に面する近江の地を気に入ったことはたしかだ。のちに『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉が、大津・石山寺近くの幻住庵にすまい、木曾義仲を供養した馬場(ばんば)の義仲寺(ぎちゅうじ)をみずからの墓所と定めたところをみても、芭蕉と大津のゆかりは深い。
[復元された幻住庵。大津市ホームページより]
しかし、いまは帰東のときである。
芭蕉は貞享2年(1685)3月中旬(現在の暦では4月中旬)、大津から東海道筋を下って、草津、石部をへて甲賀・水口(みなくち)にやってきた。かつての甲賀忍者の里である。
芭蕉は、水口で20年来の知り合いと会い、句を詠む。
命二つの中に生きたる桜かな
この句は芭蕉のもとに駆けつけた服部土芳(どほう、1657-1730)に与えたものとされる。このとき土芳は29歳とまだ若い。芭蕉とは13歳の年の差がある。20年来の知り合いとは、いうまでもなく水口の旧友たちのことだ。土芳はその会席に駆けつけたのだろう。
それぞれの人生を歩んできた命ふたつが、桜散るなかで、ふたたび出会った。年々歳々、花相似たり。ことしの桜にどのような時が流れているのだろう、と芭蕉はうたう。栗田勇は、この桜には、西行の命もこめられているのだろうと解している。
旅の別れと出会いはつづく。
〈伊豆の国、蛭(ひる)が小島の世捨て人、この男も去年の秋から行脚していたが、わたしの名を慕い、旅の道連れにと、尾張の国まで跡を追ってきたので一句。
いざともに穂麦喰らはん草枕〉
この世捨て人は斎部路通(いんべ・ろつう、1649-1738)のこと。
乞食僧で、近江の膳所(ぜぜ、現大津市)で芭蕉と出会い、門人となったらしい。その路通が尾張まで着いてきた。
芭蕉は3月下旬に以前訪れた桑名の本統寺に3日逗留、それからふたたび熱田に向かい、白鳥山(はくちょうさん)法持寺(ほうじじ)で歌仙を巻いた。俳壇渡世が芭蕉の生活を支えている。
路通が尾張にやってきたのはこのころだろう。奔放なこの破れ坊主の路通は、どちらかというと嫌われ者だ。しかし、芭蕉は路通の風狂ぶりをことのほか愛した。
栗田勇はこう書いている。
〈「いざともに穂麦喰らはん草枕」には、二羽の漂泊の烏が、新緑のなかで、黄金色に波うつ一面の麦穂の熟れた穂先を、ともについばんで生きるにまかせようという心地がある。〉
3月末から4月上旬にかけては、熱田を中心に鳴海や名古屋の俳人との交流を深めている。けっして暇ではない。作句の指導にあたる毎日である。
名古屋の坪井杜国(とこく、?-1690)には、惜別の句を贈った。
白芥子(しらげし)に羽もぐ蝶の形見かな
この句は『野ざらし紀行』にも収録された。
芭蕉は杜国との別れに、蝶がみずから羽をもいで、白いヒナゲシに化すかのような切なさをおぼえていた。いわれてみれば、たしかにヒナゲシの花びらは蝶の羽に似ている。
杜国は俊才のほまれが高く、人をひきつける魅力があったのだろう。このころはおそらくまだ20代だった。
名古屋の裕福な商人で、米問屋をいとなんでいた。米問屋といっても、徳川時代の米問屋は金融業を兼ねているようなものだ。その杜国を悲劇が襲う。芭蕉と別れた4カ月に、禁制の空米(くうまい)取引(米の先物取引)をしたかどで、尾張領内追放となり、伊良子崎に謫居(たっきょ)を強いられるのだ。
4月5日に芭蕉は、熱田で、門人の其角に書簡を出している。其角が参禅に通っていた鎌倉・円覚寺の大巓(だいてん)和尚が1月はじめに亡くなったと聞き、其角あてに弔辞をしたためたのである。そこには、次の句が添えられていた。
梅恋ひて卯花(うのはな)拝む涙かな
梅には大巓和尚の脱俗清高ぶりが託されている。卯花はウツギのこと。旧暦4月(新暦では5月)ごろ白い花を咲かせる。4月を卯月と呼ぶのはそのためだ。いまは梅の季節ではないが、卯花を拝んで、高潔な大巓和尚のことをしのんだのである。
江戸に帰る日が近づいている。
4月上旬には、熱田で送別の句会が催され、芭蕉は次の句を残した。
牡丹蘂(しべ)深く分け出づる蜂の名残かな
貞享、元禄のころは牡丹の栽培と観賞が流行していた。牡丹は富貴を象徴する花でもある。芭蕉は熱田で、富家のあるじ林桐葉(とうよう、?-1712)の厚遇を受けた。そこでみずからを蜂にみたてて、桐葉の世話になったことを感謝した。人が花や動物と一体となる詩境に、ゆたかな宇宙観が満ちている。
4月9日には鳴海の知足亭を訪れ、如意寺で句会を催した。これで、鳴海の衆ともお別れである。そして、翌10日にいよいよ帰東の途につくのである。
道中、『野ざらし紀行』に記録された句は、甲斐の山中で詠んだとする次の一句だけである。
行く駒の麦に慰むやどりかな
甲斐の山中とは、甲斐谷村(やむら、現都留市)のこと。ここには芭蕉が3年前、火事で江戸を焼けだされたとき、一時身を寄せた高山伝右衛門(麋塒)の屋敷があった。今回も芭蕉はここに宿を借りた。
中山道を通る長い道中をへて、ようやく甲斐の谷村にたどりついた思いが、この句にもこめられている。甲斐の黒駒といわれるほど、甲斐は名馬の産地だ。芭蕉も馬に乗ったのだろうか。馬が穂麦を食べているのをみると、自分もほっとする。
4月末(現代の暦では5月末か6月上旬)、芭蕉は甲州街道をへて、ようやく江戸に戻ってきた。
旅の疲れをいやすうちに、次の句が浮かんでくる。
夏衣いまだ虱(しらみ)を取り尽くさず
ひとまず旅は終わった。
季節は夏に移っている。夏の衣にシラミが湧いてきたというのは穏やかではないが、これは中国宋代の高士が、シラミをつぶしながら清談を交わしたとの故事にもとづくという。そのシラミを取り尽くせないというのだから、旅で出会った人びととの思い出が、心のなかにいつまでも湧きつづけていたのである。
[北斎「深川萬年橋下」。ウィキペディアより]
ぼくのようなぼんくらに、むずかしい話はわからない。
ただ、芭蕉が琵琶湖に面する近江の地を気に入ったことはたしかだ。のちに『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉が、大津・石山寺近くの幻住庵にすまい、木曾義仲を供養した馬場(ばんば)の義仲寺(ぎちゅうじ)をみずからの墓所と定めたところをみても、芭蕉と大津のゆかりは深い。
[復元された幻住庵。大津市ホームページより]
しかし、いまは帰東のときである。
芭蕉は貞享2年(1685)3月中旬(現在の暦では4月中旬)、大津から東海道筋を下って、草津、石部をへて甲賀・水口(みなくち)にやってきた。かつての甲賀忍者の里である。
芭蕉は、水口で20年来の知り合いと会い、句を詠む。
命二つの中に生きたる桜かな
この句は芭蕉のもとに駆けつけた服部土芳(どほう、1657-1730)に与えたものとされる。このとき土芳は29歳とまだ若い。芭蕉とは13歳の年の差がある。20年来の知り合いとは、いうまでもなく水口の旧友たちのことだ。土芳はその会席に駆けつけたのだろう。
それぞれの人生を歩んできた命ふたつが、桜散るなかで、ふたたび出会った。年々歳々、花相似たり。ことしの桜にどのような時が流れているのだろう、と芭蕉はうたう。栗田勇は、この桜には、西行の命もこめられているのだろうと解している。
旅の別れと出会いはつづく。
〈伊豆の国、蛭(ひる)が小島の世捨て人、この男も去年の秋から行脚していたが、わたしの名を慕い、旅の道連れにと、尾張の国まで跡を追ってきたので一句。
いざともに穂麦喰らはん草枕〉
この世捨て人は斎部路通(いんべ・ろつう、1649-1738)のこと。
乞食僧で、近江の膳所(ぜぜ、現大津市)で芭蕉と出会い、門人となったらしい。その路通が尾張まで着いてきた。
芭蕉は3月下旬に以前訪れた桑名の本統寺に3日逗留、それからふたたび熱田に向かい、白鳥山(はくちょうさん)法持寺(ほうじじ)で歌仙を巻いた。俳壇渡世が芭蕉の生活を支えている。
路通が尾張にやってきたのはこのころだろう。奔放なこの破れ坊主の路通は、どちらかというと嫌われ者だ。しかし、芭蕉は路通の風狂ぶりをことのほか愛した。
栗田勇はこう書いている。
〈「いざともに穂麦喰らはん草枕」には、二羽の漂泊の烏が、新緑のなかで、黄金色に波うつ一面の麦穂の熟れた穂先を、ともについばんで生きるにまかせようという心地がある。〉
3月末から4月上旬にかけては、熱田を中心に鳴海や名古屋の俳人との交流を深めている。けっして暇ではない。作句の指導にあたる毎日である。
名古屋の坪井杜国(とこく、?-1690)には、惜別の句を贈った。
白芥子(しらげし)に羽もぐ蝶の形見かな
この句は『野ざらし紀行』にも収録された。
芭蕉は杜国との別れに、蝶がみずから羽をもいで、白いヒナゲシに化すかのような切なさをおぼえていた。いわれてみれば、たしかにヒナゲシの花びらは蝶の羽に似ている。
杜国は俊才のほまれが高く、人をひきつける魅力があったのだろう。このころはおそらくまだ20代だった。
名古屋の裕福な商人で、米問屋をいとなんでいた。米問屋といっても、徳川時代の米問屋は金融業を兼ねているようなものだ。その杜国を悲劇が襲う。芭蕉と別れた4カ月に、禁制の空米(くうまい)取引(米の先物取引)をしたかどで、尾張領内追放となり、伊良子崎に謫居(たっきょ)を強いられるのだ。
4月5日に芭蕉は、熱田で、門人の其角に書簡を出している。其角が参禅に通っていた鎌倉・円覚寺の大巓(だいてん)和尚が1月はじめに亡くなったと聞き、其角あてに弔辞をしたためたのである。そこには、次の句が添えられていた。
梅恋ひて卯花(うのはな)拝む涙かな
梅には大巓和尚の脱俗清高ぶりが託されている。卯花はウツギのこと。旧暦4月(新暦では5月)ごろ白い花を咲かせる。4月を卯月と呼ぶのはそのためだ。いまは梅の季節ではないが、卯花を拝んで、高潔な大巓和尚のことをしのんだのである。
江戸に帰る日が近づいている。
4月上旬には、熱田で送別の句会が催され、芭蕉は次の句を残した。
牡丹蘂(しべ)深く分け出づる蜂の名残かな
貞享、元禄のころは牡丹の栽培と観賞が流行していた。牡丹は富貴を象徴する花でもある。芭蕉は熱田で、富家のあるじ林桐葉(とうよう、?-1712)の厚遇を受けた。そこでみずからを蜂にみたてて、桐葉の世話になったことを感謝した。人が花や動物と一体となる詩境に、ゆたかな宇宙観が満ちている。
4月9日には鳴海の知足亭を訪れ、如意寺で句会を催した。これで、鳴海の衆ともお別れである。そして、翌10日にいよいよ帰東の途につくのである。
道中、『野ざらし紀行』に記録された句は、甲斐の山中で詠んだとする次の一句だけである。
行く駒の麦に慰むやどりかな
甲斐の山中とは、甲斐谷村(やむら、現都留市)のこと。ここには芭蕉が3年前、火事で江戸を焼けだされたとき、一時身を寄せた高山伝右衛門(麋塒)の屋敷があった。今回も芭蕉はここに宿を借りた。
中山道を通る長い道中をへて、ようやく甲斐の谷村にたどりついた思いが、この句にもこめられている。甲斐の黒駒といわれるほど、甲斐は名馬の産地だ。芭蕉も馬に乗ったのだろうか。馬が穂麦を食べているのをみると、自分もほっとする。
4月末(現代の暦では5月末か6月上旬)、芭蕉は甲州街道をへて、ようやく江戸に戻ってきた。
旅の疲れをいやすうちに、次の句が浮かんでくる。
夏衣いまだ虱(しらみ)を取り尽くさず
ひとまず旅は終わった。
季節は夏に移っている。夏の衣にシラミが湧いてきたというのは穏やかではないが、これは中国宋代の高士が、シラミをつぶしながら清談を交わしたとの故事にもとづくという。そのシラミを取り尽くせないというのだから、旅で出会った人びととの思い出が、心のなかにいつまでも湧きつづけていたのである。
[北斎「深川萬年橋下」。ウィキペディアより]
奈良から京都、大津へ──栗田勇『芭蕉』から(14) [芭蕉]
野ざらしの旅は、俳諧の革新運動をおこし、地方都市に蕉風の拠点をつくりだすことになった、と栗田勇は書いている。いわゆる元禄文化が広がりはじめている。
桑名、熱田以降、『野ざらし紀行』には風景の描写が少なくなり、ほとんど詞書(ことばがき)と句だけが列記されるようになる。
「故郷越年」とある。
貞享元年(1684)11月、名古屋で『冬の日』五歌仙を巻いたあと、暮れの12月25日に芭蕉は故郷伊賀上野に戻った。
あちこちで草履の紐を解き、杖を置き、旅寝を重ねるうちに年の暮れになったと記しながら、芭蕉はこう詠む。
年暮れぬ笠着て草履はきながら
世間は年の暮れで、何かと忙しくしているのに、こちらは相変わらず漂泊の旅姿。旅のうちに年の瀬を迎えている。何やらわびしいけれど、どこか滑稽でもある。
とはいえ、いなかの家で正月を迎えられるのは、ありがたい。
誰(た)が聟(むこ)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年
貞享2年(1685)は丑の年。
どこかの新聟が嫁の実家に鏡餅を贈るさまをうたって、正月のことほぎとした。
芭蕉は2月下旬まで、郷里に逗留したようだ。
郷里で句会を開いたり、旧主家と交流を深めたりして、日をすごしている。
芭蕉が『虚栗(みなしぐり)』の軽薄な句風に猛省を加えた書簡を門人に送ったのもこのころとされる。
ちなみに栗田によれば、芭蕉はけっして松尾家やその親族のやっかい者ではなかったという。「芭蕉は江戸にあっても、いつも伊賀に在留する兄の家族や親族に心を配り、経済的援助も、無理をしつつも折あるごとに続けていた」
伊賀の俳壇や藤堂家との深いかかわりもある。風狂であっても、名士だったといってよいだろう。
2月中旬(新暦では3月下旬)、芭蕉は奈良に行く。
その道の途中で詠んだ句。
春なれや名もなき山の薄霞(うすがすみ)
ああ春だなあ。大和の国の山々に薄霞がかかっている。大和への思いがわきでる。
そして、二月堂の前で祈願した。
水取りや氷の僧の沓(くつ)の音
水取りの業はいまもつづけられている。栗田勇によると、修行の僧が素足に大きな木の沓をはき、本堂のなかを走り回り、本尊の前で五体投地をくり返す。その音の激しさはびっくりするほどだという。
芭蕉は寒夜の業をみたのだろう。そこには厳しい氷の僧の姿があった。
[二月堂修二会。ウィキペディアより]
奈良では薪能も見物したらしい。興福寺南大門の前でおこなわれたという。
芭蕉はいったん伊賀上野に戻ってから、2月下旬、京に向かった。
「紀行」には、京にのぼって、三井秋風(しゅうふう)の鳴滝の山荘を訪れたとある。ここで半月ほどすごしたらしい。このかん、京六条にも出て、句会を開いた。
しかし、松永貞徳以来のいわゆる貞門の影響が強い京都では、芭蕉の蕉風はなかなか受け入れられなかったようだ。栗田によれば、芭蕉の死後は、唯一、門人の去来が孤塁を守ったと記されている。
それはともかく、芭蕉が宿を借りたあるじの三井秋風についてである。
秋風は京都の富豪、三井三郎左衛門紹貞(しょうてい)の甥だが、『町人考見録』によると、とんでもない不行跡者で、商売ほったらかしで、ぜいたく放題、鳴滝の山荘に引きこもって、栄耀をきわめたという。黄檗宗(おうばくしゅう)に傾倒し、異形の者となったと評されている。三井家からすれば、困った変わり者だったのだろう。
鳴滝は京都の北西郊、仁和寺の西に位置する。京福電鉄に鳴滝という駅がある、そのあたりだ。ここで芭蕉は秋風と連句の会を開いているが、『野ざらし紀行』に収録されているのは「梅林」と題する二句である。
梅白しきのふや鶴を盗まれし
樫(かし)の木の花にかまはぬ姿かな
鳴滝にある秋風の梅林で遊んだときの句である。
一見、よくわからない。
栗田勇の解説によると、最初の句は、梅を植え、鶴を養って、脱俗の境地に生きた、宋時代の隠君子、林和靖(りんなせい)の故事を踏まえている。
きょうは梅の花がどこまでも白く咲いている。それなのに鶴が見えない。おや、きのう鶴を盗まれたんでしょうか、とおどけてみせる。芭蕉は三井秋風を林和靖になぞらえ、脱俗の白い花で満ちあふれる梅林のみごとさをたたえたのである。
さらに目を転じて、芭蕉は咲き誇る花など気にかける様子もなく、堂々と立つカシの木に、秋風の孤高をみる思いがした。それがもうひとつの句となった。
鳴滝からは嵯峨野が近い。嵯峨野には芭蕉の門弟、向井去来の落柿舎(らくししゃ)があった。のちに芭蕉は、この落柿舎を三たび訪れることになる。
旅の記録によると、鳴滝の山荘をでたあと、芭蕉は伏見の西岸寺に行き、任口上人と会った。まもなく桜の花が咲くころだ。
任口上人が、すぐ帰ろうとする芭蕉を引きとめて、さだめし江戸桜が気になっておられるのだろうと詠ったのにたいし、芭蕉はこう返した。
我が衣に伏見の桃の雫(しずく)せよ
京伏見では桃園がみごとだったという。桃といえば3月3日の節句である。このころ(新暦では4月上旬)桃は花をつける。
西岸寺を訪れたときも、桃の花が咲きはじめていたのだろう。芭蕉は桃園に禅林の境地をみて、任口上人との別れを惜しんだ。
そして、芭蕉は大津へと向かう。京都からは山路を越えなければならなかった。そこに、次の句がおかれる。
山路来て何やらゆかしすみれ草
芭蕉はこの句に京都との別れを託した。可憐なスミレの色が脳裏に浮かぶ。
琵琶湖が見えてくる。大津から湖岸を眺望すると、松の大木が斜めに伸びているのがわかる。そこが辛崎(からさき)だ。
芭蕉は詠う。
辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて
芭蕉はこの句を、大津の医者で門下、江左尚白(えさしょうはく、1650-1722)の屋敷で詠んだとされる(別の説もある)。
辛崎(それは唐崎でも韓崎でもある)には神社があり、松が植えられている。
芭蕉は山桜と重ねあわせて、おぼろにとらえた辛崎の松の雄渾さをたたえる。そこには古代からの時が流れていた。
[広重、近江八景より「辛崎夜雨」。ウィキペディアより]
桑名、熱田以降、『野ざらし紀行』には風景の描写が少なくなり、ほとんど詞書(ことばがき)と句だけが列記されるようになる。
「故郷越年」とある。
貞享元年(1684)11月、名古屋で『冬の日』五歌仙を巻いたあと、暮れの12月25日に芭蕉は故郷伊賀上野に戻った。
あちこちで草履の紐を解き、杖を置き、旅寝を重ねるうちに年の暮れになったと記しながら、芭蕉はこう詠む。
年暮れぬ笠着て草履はきながら
世間は年の暮れで、何かと忙しくしているのに、こちらは相変わらず漂泊の旅姿。旅のうちに年の瀬を迎えている。何やらわびしいけれど、どこか滑稽でもある。
とはいえ、いなかの家で正月を迎えられるのは、ありがたい。
誰(た)が聟(むこ)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年
貞享2年(1685)は丑の年。
どこかの新聟が嫁の実家に鏡餅を贈るさまをうたって、正月のことほぎとした。
芭蕉は2月下旬まで、郷里に逗留したようだ。
郷里で句会を開いたり、旧主家と交流を深めたりして、日をすごしている。
芭蕉が『虚栗(みなしぐり)』の軽薄な句風に猛省を加えた書簡を門人に送ったのもこのころとされる。
ちなみに栗田によれば、芭蕉はけっして松尾家やその親族のやっかい者ではなかったという。「芭蕉は江戸にあっても、いつも伊賀に在留する兄の家族や親族に心を配り、経済的援助も、無理をしつつも折あるごとに続けていた」
伊賀の俳壇や藤堂家との深いかかわりもある。風狂であっても、名士だったといってよいだろう。
2月中旬(新暦では3月下旬)、芭蕉は奈良に行く。
その道の途中で詠んだ句。
春なれや名もなき山の薄霞(うすがすみ)
ああ春だなあ。大和の国の山々に薄霞がかかっている。大和への思いがわきでる。
そして、二月堂の前で祈願した。
水取りや氷の僧の沓(くつ)の音
水取りの業はいまもつづけられている。栗田勇によると、修行の僧が素足に大きな木の沓をはき、本堂のなかを走り回り、本尊の前で五体投地をくり返す。その音の激しさはびっくりするほどだという。
芭蕉は寒夜の業をみたのだろう。そこには厳しい氷の僧の姿があった。
[二月堂修二会。ウィキペディアより]
奈良では薪能も見物したらしい。興福寺南大門の前でおこなわれたという。
芭蕉はいったん伊賀上野に戻ってから、2月下旬、京に向かった。
「紀行」には、京にのぼって、三井秋風(しゅうふう)の鳴滝の山荘を訪れたとある。ここで半月ほどすごしたらしい。このかん、京六条にも出て、句会を開いた。
しかし、松永貞徳以来のいわゆる貞門の影響が強い京都では、芭蕉の蕉風はなかなか受け入れられなかったようだ。栗田によれば、芭蕉の死後は、唯一、門人の去来が孤塁を守ったと記されている。
それはともかく、芭蕉が宿を借りたあるじの三井秋風についてである。
秋風は京都の富豪、三井三郎左衛門紹貞(しょうてい)の甥だが、『町人考見録』によると、とんでもない不行跡者で、商売ほったらかしで、ぜいたく放題、鳴滝の山荘に引きこもって、栄耀をきわめたという。黄檗宗(おうばくしゅう)に傾倒し、異形の者となったと評されている。三井家からすれば、困った変わり者だったのだろう。
鳴滝は京都の北西郊、仁和寺の西に位置する。京福電鉄に鳴滝という駅がある、そのあたりだ。ここで芭蕉は秋風と連句の会を開いているが、『野ざらし紀行』に収録されているのは「梅林」と題する二句である。
梅白しきのふや鶴を盗まれし
樫(かし)の木の花にかまはぬ姿かな
鳴滝にある秋風の梅林で遊んだときの句である。
一見、よくわからない。
栗田勇の解説によると、最初の句は、梅を植え、鶴を養って、脱俗の境地に生きた、宋時代の隠君子、林和靖(りんなせい)の故事を踏まえている。
きょうは梅の花がどこまでも白く咲いている。それなのに鶴が見えない。おや、きのう鶴を盗まれたんでしょうか、とおどけてみせる。芭蕉は三井秋風を林和靖になぞらえ、脱俗の白い花で満ちあふれる梅林のみごとさをたたえたのである。
さらに目を転じて、芭蕉は咲き誇る花など気にかける様子もなく、堂々と立つカシの木に、秋風の孤高をみる思いがした。それがもうひとつの句となった。
鳴滝からは嵯峨野が近い。嵯峨野には芭蕉の門弟、向井去来の落柿舎(らくししゃ)があった。のちに芭蕉は、この落柿舎を三たび訪れることになる。
旅の記録によると、鳴滝の山荘をでたあと、芭蕉は伏見の西岸寺に行き、任口上人と会った。まもなく桜の花が咲くころだ。
任口上人が、すぐ帰ろうとする芭蕉を引きとめて、さだめし江戸桜が気になっておられるのだろうと詠ったのにたいし、芭蕉はこう返した。
我が衣に伏見の桃の雫(しずく)せよ
京伏見では桃園がみごとだったという。桃といえば3月3日の節句である。このころ(新暦では4月上旬)桃は花をつける。
西岸寺を訪れたときも、桃の花が咲きはじめていたのだろう。芭蕉は桃園に禅林の境地をみて、任口上人との別れを惜しんだ。
そして、芭蕉は大津へと向かう。京都からは山路を越えなければならなかった。そこに、次の句がおかれる。
山路来て何やらゆかしすみれ草
芭蕉はこの句に京都との別れを託した。可憐なスミレの色が脳裏に浮かぶ。
琵琶湖が見えてくる。大津から湖岸を眺望すると、松の大木が斜めに伸びているのがわかる。そこが辛崎(からさき)だ。
芭蕉は詠う。
辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて
芭蕉はこの句を、大津の医者で門下、江左尚白(えさしょうはく、1650-1722)の屋敷で詠んだとされる(別の説もある)。
辛崎(それは唐崎でも韓崎でもある)には神社があり、松が植えられている。
芭蕉は山桜と重ねあわせて、おぼろにとらえた辛崎の松の雄渾さをたたえる。そこには古代からの時が流れていた。
[広重、近江八景より「辛崎夜雨」。ウィキペディアより]
美濃から尾張へ──栗田勇『芭蕉』から(13) [芭蕉]
ときどき思いだしたように、栗田勇の『芭蕉』を読んでいる。
貞享元年(1684)、芭蕉の野ざらしの旅は、吉野をでたあと、大和、山城をへて、近江路を通り、美濃にはいった。江戸深川を8月に出発し、美濃の大垣に着いたときは9月下旬になっている。
例によって、芭蕉の記述をやぼな現代語訳で示しておく。
〈大和から山城をへて、近江路にはいり、美濃にいたる。今須・山中をすぎると、いにしえの常磐(ときわ)の塚がある。伊勢の守武(荒木田守武)が詠んだ「義朝(よしとも)殿に似たる秋風」とどうしても似てしまうが、自分もまた一句。
義朝の心に似たり秋の風
不破
秋風や藪も畠も不破の関
大垣では、木因(ぼくいん)の家に泊まらせてもらった。武蔵野をでたときは、野ざらしになるのを覚悟していたので、
死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮〉
常磐は、平家と戦って敗れた源義朝(1123-60)の愛妾で、義経(牛若)の母。牛若が京の鞍馬山から出奔したという知らせを聞いて、あとを追うが、山中(やまなか)の宿で、賊に殺されたという伝説が残っている。だが、これは事実ではないらしい。
山中では、近世、大きな戦いがくり広げられた。すなわち関ヶ原の合戦である。だが、芭蕉はそのことに触れない。思いはひたすら物語にえがかれる中世、常盤の悲劇へと向かう。
芭蕉は伊勢の内宮に仕えた連歌師、荒木田守武(1473-1549)が、「月みてやときはの里へかかるらん」に「義朝殿に似たる秋風」と付けたのを知っている。
常盤は臨月で里へ帰っているというのに、義朝殿は薄情にもちっとも姿を見せないという戯(ざ)れ歌である。
芭蕉はそれをひっくり返して、義朝が常盤のことを思ってやまないと転じ、それを常盤の塚へのたむけとした。
古代の不破の関は関ヶ原に置かれていた。そもそも関ヶ原という地名は、不破の関があったことに由来するのだろう。その関もいまはすっかりなくなって、藪や畠となり、秋風が吹くばかり、と芭蕉はうたう。
芭蕉が宿を借りたあるじ、谷木因(1646-1725)は大垣の船問屋で、大垣では名の知られた俳人だった。北村季吟に俳諧を学び、井原西鶴とも交流があったという。芭蕉とは以前からの知り合いだった。
その木因の家で、芭蕉は「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」の名句を詠む。まだ生きてるよ、とやや自嘲気味なところに滑稽さがただよう。
のちに木因とは句風のちがいから疎遠になるものの、このころはまだ親しい関係が保たれていた。
俳諧は座の文化、かけあいの芸術でもある。芭蕉はひと月ほど大垣に滞在し、座をおこし、歌仙を巻いている。
それから、興にまかせ、木因とともに、句商人(あきんど)、すなわち俳諧師のやつがれ姿をして行脚の旅に出た。
「野ざらし」の旅はつづく。11月上旬(いまの暦では12月中旬)、季節は冬に移っている。また現代語訳で。
〈桑名本当寺で一句。
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす
旅の枕に寝あきて、まだほの暗いうちに、浜のほうに出たとき、
曙(あけぼの)や白魚(しらうお)白きこと一寸(いっすん)〉
本当寺は本統寺のこと。芭蕉は多度山権現を訪れたあと、この寺に数日滞在した。牡丹の句は、この寺で開かれた夜会の席で詠まれた。
寒牡丹といえば冬の千鳥を思い起こす。それは雪のほととぎすと同じで、清冽な趣がある。栽培されて、みごと大ぶりの白い花をつけた冬の牡丹から千鳥へと連想を広げ、ほととぎすの哀切な声を引きだした一句だ。
そして、次の日の朝、浜辺にでたとき、次の一句が頭に浮かんでくる。
曙や白魚白きこと一寸。
水平線があかく染まって、生まれたての太陽が顔をのぞかせる。このとき、芭蕉が思いえがくのは、白魚の何ともいえない白さだ。大きなあかい太陽と、ちいさな白魚の白さの対比。生きていることの実感が伝わってくる。
芭蕉は木因と別れ、桑名から船で熱田に向かった。
桑名では林桐葉(はやし・とうよう、?-1712)宅に逗留。俳席をもつかたわら、熱田神宮に詣でた。
〈熱田神宮に詣でる。社殿はじつに荒れ果て、築地塀も倒れて、草むらに隠れている。あちこち縄をはって、ちいさな社の跡を示し、そこに石を据えて、それぞれ神を名乗っているありさまだ。
ヨモギ、シノブも手入れされないまま生えている。めでたいというより、胸をつかれる。
忍(しのぶ)さへ枯れて餅買ふやどりかな〉
このころの熱田神宮はよほど荒廃していたらしい。栗田勇によると、大鳥居も倒れていたという。熱田神宮は草薙剣(くさなぎのつるぎ)をご神体とする。「筑波の道(連歌)の祖とされる日本武尊(やまとたけるのみこと)のゆかりから、とくに連歌・俳諧者たちの信仰も深かった」ようだ。
[現在の熱田神宮社殿。ウィキペディアより]
芭蕉は、霜枯れでシノブさえ枯れ果て、昔をしのぶよすがさえないなか、門前の茶店で餅を買って休むおのれの姿をうたう。そこにゆったりと古代からの時が流れている。
このあと、芭蕉は名古屋にはいり、尾張連衆と交わり、『冬の日』五歌仙を興行する、とある。「いわゆる蕉風確立の契機ともなった重要な歌仙」だ。『芭蕉七部集』にも収められているとか。
『野ざらし紀行』では、名古屋にはいる道中に浮かんだ句が無造作に並べられている。
〈名古屋にはいる道すがらの風吟(尾張旅泊)。
狂句木枯(こがらし)の身は竹斎に似たるかな
草枕犬もしぐるるか夜の声
雪見に歩きながら
市人(いちびと)よこの笠売らう雪の傘
旅人をみる
馬をさへながむる雪の朝(あした)かな
海辺で一日すごして
海暮れて鴨の声ほのかに白し〉
竹斎とは仮名草子にでてくる狂歌好きの医者の名前。狂歌に熱心なばかり患者もつかなくなり、東に下る途中、名古屋に立ち寄った。そのときの風体は、笠はほころび、コートもぼろぼろ、羽織もすすけているといったありさま。芭蕉は物語にえがかれている竹斎に自らをなぞらえた。
そして旅寝の枕に聞こえてくるのは、犬の遠吠え。しぐれのわびしさが夜の闇の深さをいや増す。
雪が降ったのだろう。次の句は雪のなかを歩くと、雪のつもった笠がなかなか風流なので、どなたかこれを買ってくださらんかとおどける。
雪の朝は幻想的な世界が広がる。馬に乗る旅人も、まるで中国古代の詩人のようにみえてくる。
そして、海辺での絶唱が生まれる。
海暮れて鴨の声ほのかに白し。
桑名で詠んだ「曙や白魚白きこと一寸」に対応する。
夕暮れた海にカモの声がほんのり白く聞こえてくる。カモの姿はもう見えない。ただ、その声がほんのり白く聞こえてくるのだ。白くとしかいいようがない。それは自分をも白く透明にしていく。宇宙の閑寂に包まれるようだ。
芭蕉はそううたった。
貞享元年(1684)、芭蕉の野ざらしの旅は、吉野をでたあと、大和、山城をへて、近江路を通り、美濃にはいった。江戸深川を8月に出発し、美濃の大垣に着いたときは9月下旬になっている。
例によって、芭蕉の記述をやぼな現代語訳で示しておく。
〈大和から山城をへて、近江路にはいり、美濃にいたる。今須・山中をすぎると、いにしえの常磐(ときわ)の塚がある。伊勢の守武(荒木田守武)が詠んだ「義朝(よしとも)殿に似たる秋風」とどうしても似てしまうが、自分もまた一句。
義朝の心に似たり秋の風
不破
秋風や藪も畠も不破の関
大垣では、木因(ぼくいん)の家に泊まらせてもらった。武蔵野をでたときは、野ざらしになるのを覚悟していたので、
死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮〉
常磐は、平家と戦って敗れた源義朝(1123-60)の愛妾で、義経(牛若)の母。牛若が京の鞍馬山から出奔したという知らせを聞いて、あとを追うが、山中(やまなか)の宿で、賊に殺されたという伝説が残っている。だが、これは事実ではないらしい。
山中では、近世、大きな戦いがくり広げられた。すなわち関ヶ原の合戦である。だが、芭蕉はそのことに触れない。思いはひたすら物語にえがかれる中世、常盤の悲劇へと向かう。
芭蕉は伊勢の内宮に仕えた連歌師、荒木田守武(1473-1549)が、「月みてやときはの里へかかるらん」に「義朝殿に似たる秋風」と付けたのを知っている。
常盤は臨月で里へ帰っているというのに、義朝殿は薄情にもちっとも姿を見せないという戯(ざ)れ歌である。
芭蕉はそれをひっくり返して、義朝が常盤のことを思ってやまないと転じ、それを常盤の塚へのたむけとした。
古代の不破の関は関ヶ原に置かれていた。そもそも関ヶ原という地名は、不破の関があったことに由来するのだろう。その関もいまはすっかりなくなって、藪や畠となり、秋風が吹くばかり、と芭蕉はうたう。
芭蕉が宿を借りたあるじ、谷木因(1646-1725)は大垣の船問屋で、大垣では名の知られた俳人だった。北村季吟に俳諧を学び、井原西鶴とも交流があったという。芭蕉とは以前からの知り合いだった。
その木因の家で、芭蕉は「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」の名句を詠む。まだ生きてるよ、とやや自嘲気味なところに滑稽さがただよう。
のちに木因とは句風のちがいから疎遠になるものの、このころはまだ親しい関係が保たれていた。
俳諧は座の文化、かけあいの芸術でもある。芭蕉はひと月ほど大垣に滞在し、座をおこし、歌仙を巻いている。
それから、興にまかせ、木因とともに、句商人(あきんど)、すなわち俳諧師のやつがれ姿をして行脚の旅に出た。
「野ざらし」の旅はつづく。11月上旬(いまの暦では12月中旬)、季節は冬に移っている。また現代語訳で。
〈桑名本当寺で一句。
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす
旅の枕に寝あきて、まだほの暗いうちに、浜のほうに出たとき、
曙(あけぼの)や白魚(しらうお)白きこと一寸(いっすん)〉
本当寺は本統寺のこと。芭蕉は多度山権現を訪れたあと、この寺に数日滞在した。牡丹の句は、この寺で開かれた夜会の席で詠まれた。
寒牡丹といえば冬の千鳥を思い起こす。それは雪のほととぎすと同じで、清冽な趣がある。栽培されて、みごと大ぶりの白い花をつけた冬の牡丹から千鳥へと連想を広げ、ほととぎすの哀切な声を引きだした一句だ。
そして、次の日の朝、浜辺にでたとき、次の一句が頭に浮かんでくる。
曙や白魚白きこと一寸。
水平線があかく染まって、生まれたての太陽が顔をのぞかせる。このとき、芭蕉が思いえがくのは、白魚の何ともいえない白さだ。大きなあかい太陽と、ちいさな白魚の白さの対比。生きていることの実感が伝わってくる。
芭蕉は木因と別れ、桑名から船で熱田に向かった。
桑名では林桐葉(はやし・とうよう、?-1712)宅に逗留。俳席をもつかたわら、熱田神宮に詣でた。
〈熱田神宮に詣でる。社殿はじつに荒れ果て、築地塀も倒れて、草むらに隠れている。あちこち縄をはって、ちいさな社の跡を示し、そこに石を据えて、それぞれ神を名乗っているありさまだ。
ヨモギ、シノブも手入れされないまま生えている。めでたいというより、胸をつかれる。
忍(しのぶ)さへ枯れて餅買ふやどりかな〉
このころの熱田神宮はよほど荒廃していたらしい。栗田勇によると、大鳥居も倒れていたという。熱田神宮は草薙剣(くさなぎのつるぎ)をご神体とする。「筑波の道(連歌)の祖とされる日本武尊(やまとたけるのみこと)のゆかりから、とくに連歌・俳諧者たちの信仰も深かった」ようだ。
[現在の熱田神宮社殿。ウィキペディアより]
芭蕉は、霜枯れでシノブさえ枯れ果て、昔をしのぶよすがさえないなか、門前の茶店で餅を買って休むおのれの姿をうたう。そこにゆったりと古代からの時が流れている。
このあと、芭蕉は名古屋にはいり、尾張連衆と交わり、『冬の日』五歌仙を興行する、とある。「いわゆる蕉風確立の契機ともなった重要な歌仙」だ。『芭蕉七部集』にも収められているとか。
『野ざらし紀行』では、名古屋にはいる道中に浮かんだ句が無造作に並べられている。
〈名古屋にはいる道すがらの風吟(尾張旅泊)。
狂句木枯(こがらし)の身は竹斎に似たるかな
草枕犬もしぐるるか夜の声
雪見に歩きながら
市人(いちびと)よこの笠売らう雪の傘
旅人をみる
馬をさへながむる雪の朝(あした)かな
海辺で一日すごして
海暮れて鴨の声ほのかに白し〉
竹斎とは仮名草子にでてくる狂歌好きの医者の名前。狂歌に熱心なばかり患者もつかなくなり、東に下る途中、名古屋に立ち寄った。そのときの風体は、笠はほころび、コートもぼろぼろ、羽織もすすけているといったありさま。芭蕉は物語にえがかれている竹斎に自らをなぞらえた。
そして旅寝の枕に聞こえてくるのは、犬の遠吠え。しぐれのわびしさが夜の闇の深さをいや増す。
雪が降ったのだろう。次の句は雪のなかを歩くと、雪のつもった笠がなかなか風流なので、どなたかこれを買ってくださらんかとおどける。
雪の朝は幻想的な世界が広がる。馬に乗る旅人も、まるで中国古代の詩人のようにみえてくる。
そして、海辺での絶唱が生まれる。
海暮れて鴨の声ほのかに白し。
桑名で詠んだ「曙や白魚白きこと一寸」に対応する。
夕暮れた海にカモの声がほんのり白く聞こえてくる。カモの姿はもう見えない。ただ、その声がほんのり白く聞こえてくるのだ。白くとしかいいようがない。それは自分をも白く透明にしていく。宇宙の閑寂に包まれるようだ。
芭蕉はそううたった。
吉野晩秋──栗田勇『芭蕉』から(12) [芭蕉]
芭蕉最初の紀行文といえる『野ざらし紀行』の旅で、かれが当初からめざしたのはふるさと伊賀上野と吉野の西行庵だった、と栗田は記している。
貞享元年(1684)9月半ば、芭蕉は同行した門人、千里(ちり)の里、大和竹ノ内村を訪れたあと、ひとり吉野に向かった。
『野ざらし紀行』には、こうつづられている(現代語訳)。
〈ひとり吉野の奥にやってきたが、じつに山が深い。白雲が峰に重なり、烟雨(えんう)が谷をおおう。山人の家がところどころちいさく見え、西で木を伐(き)る音が東に響き、寺々の鐘の音が心の底に伝わってくる。昔からこの山にはいって、世を忘れた人の多くは、詩にのがれ、歌に隠れたものだ。吉野はまさに唐土(もろこし)の廬山に匹敵するといってもよいだろう。
ある坊に一夜を借りた。そのときの句。
碪(きぬた)打ちて我に聞かせよや坊が妻〉
とくに注をいれる必要はないだろう。いれるとすれば中国の廬山くらいなものか。廬山は江西省の北端にあり、標高1474メートル。「山上には奇岩秀峰が林立し、山麓の湖水とあいまって美しい景観を持つ」と栗田はいう。「脱俗隠栖の地として名高い」とも。
吉野を日本の廬山だとするのは、当時の国際感覚の広がりを想像させておもしろい。ぼくなどは中国共産党の廬山会議を思いだしてしまうが……。
ところで、芭蕉は吉野が世を忘れた人の多くが、詩にのがれ、歌に隠れた山だと書いているが、これはホームレスの隠士をめざしたいかにも芭蕉らしいとらえ方で、栗田自身は「『花の吉野』は、特殊な伝統のある場所であったことも忘れてはならない」と付記している。
それは万葉集、人麻呂の呪歌(じゅか)にもみられるように、吉野には霊性が宿っているということなのである。
ちなみに、持統天皇(645-703、在位690-697)は、前後31回にわたって吉野に行幸したという。文芸評論家の山本健吉は、吉野は禊(みそ)ぎの場所であり、「その禊ぎには、若やぐ霊力によって変若(おち)かへることができるといふ信仰があつた」と論じているとか。
たしょう生々しい話をすると、吉野は反攻の拠点ともなった。壬申の乱のときの大海人皇子(のちの天武天皇)しかり、源平合戦のときの源義経しかり、建武中興の後醍醐天皇しかり、ということになる。
吉野はよみがえりの地なのだ。千本桜はそれを象徴する存在だった。
[桜の吉野。2013年4月に訪れたときの写真。]
そして、吉野は何よりも聖地だった。だが、芭蕉にまつりごとの話は似合わない。むしろ、この地に庵をかまえた西行(1118-90)の跡をたずねることが、旅の目的だった。
芭蕉は吉野の宿坊に宿をとった。栗田によると、吉野には喜蔵院、南陽院といった妻帯の僧侶が営む宿坊があったという。
だからこそ、「碪(きぬた)打ちて我に聞かせよや坊が妻」の句がでてくるのである。
碪とは洗った衣を打って柔らかくしたり、皺を伸ばしたりする道具。打つと音が聞こえてくる。砧とも書く。
解説によると、このとき芭蕉の脳裏に浮かんでいたのは、世阿弥の能『砧』だったという。
栗田はこう評する。
〈芭蕉が耳にしたのは、現実の砧の音ではない。詩的幻想に他ならない。和歌的叙情に対する芭蕉の俳諧としての新しい立場がある。現実の「坊が妻」を能のシテとして見、自己をワキ僧と観じることは、日常を超脱した風狂の立場である。〉
芭蕉はきぬたの音を聞いたわけではない。この吉野の地で、坊さんの奥さんが洗いものをきぬたで打って、その音を聞かせてくれたら、なんとも風雅なのにと想像したのである。どことなく、おかしみもある。
翌日、芭蕉は西行庵に向かった(現代語訳)。
〈西行上人の草庵跡は、奥の院から右に2町[約200メートル]ほど分け入り、山人しか通わない細い道を通り、険しい谷を下った場所にある。何とも尊い。とくとくと湧いている清水は昔から変わらないとみえ、いまもとくとくと雫(しずく)が落ちている。
露とくとく試みに浮世すすがばや〉
西行庵はいまも残っている。われわれ夫婦が2013年に吉野を訪れたときは水分(みまくり)神社までたどりついたものの、その奥にまで行く元気がなかった。いまからすれば惜しいことをしたものである。
[西行庵。吉野町公式ホームページより]
西行庵脇の清水は、いまも湧いており、「苔清水」と名づけられているようだ。
観光客の多いいまとちがって、芭蕉が訪れたころは、さぞかし深山幽谷の趣だったにちがいない。
芭蕉の句はくどくどしく説明するまでもない。とくとくと湧いてくる清水で、浮き世の塵をすすいでみたいものだと歌う。
人の身も心もさわやかにする吉野は、やはりよみがえりの地にちがいなかった。人とは挫折をくり返しながら、また立ちあがり、ふたたび歩きだす存在なのだ。
貞享元年(1684)9月半ば、芭蕉は同行した門人、千里(ちり)の里、大和竹ノ内村を訪れたあと、ひとり吉野に向かった。
『野ざらし紀行』には、こうつづられている(現代語訳)。
〈ひとり吉野の奥にやってきたが、じつに山が深い。白雲が峰に重なり、烟雨(えんう)が谷をおおう。山人の家がところどころちいさく見え、西で木を伐(き)る音が東に響き、寺々の鐘の音が心の底に伝わってくる。昔からこの山にはいって、世を忘れた人の多くは、詩にのがれ、歌に隠れたものだ。吉野はまさに唐土(もろこし)の廬山に匹敵するといってもよいだろう。
ある坊に一夜を借りた。そのときの句。
碪(きぬた)打ちて我に聞かせよや坊が妻〉
とくに注をいれる必要はないだろう。いれるとすれば中国の廬山くらいなものか。廬山は江西省の北端にあり、標高1474メートル。「山上には奇岩秀峰が林立し、山麓の湖水とあいまって美しい景観を持つ」と栗田はいう。「脱俗隠栖の地として名高い」とも。
吉野を日本の廬山だとするのは、当時の国際感覚の広がりを想像させておもしろい。ぼくなどは中国共産党の廬山会議を思いだしてしまうが……。
ところで、芭蕉は吉野が世を忘れた人の多くが、詩にのがれ、歌に隠れた山だと書いているが、これはホームレスの隠士をめざしたいかにも芭蕉らしいとらえ方で、栗田自身は「『花の吉野』は、特殊な伝統のある場所であったことも忘れてはならない」と付記している。
それは万葉集、人麻呂の呪歌(じゅか)にもみられるように、吉野には霊性が宿っているということなのである。
ちなみに、持統天皇(645-703、在位690-697)は、前後31回にわたって吉野に行幸したという。文芸評論家の山本健吉は、吉野は禊(みそ)ぎの場所であり、「その禊ぎには、若やぐ霊力によって変若(おち)かへることができるといふ信仰があつた」と論じているとか。
たしょう生々しい話をすると、吉野は反攻の拠点ともなった。壬申の乱のときの大海人皇子(のちの天武天皇)しかり、源平合戦のときの源義経しかり、建武中興の後醍醐天皇しかり、ということになる。
吉野はよみがえりの地なのだ。千本桜はそれを象徴する存在だった。
[桜の吉野。2013年4月に訪れたときの写真。]
そして、吉野は何よりも聖地だった。だが、芭蕉にまつりごとの話は似合わない。むしろ、この地に庵をかまえた西行(1118-90)の跡をたずねることが、旅の目的だった。
芭蕉は吉野の宿坊に宿をとった。栗田によると、吉野には喜蔵院、南陽院といった妻帯の僧侶が営む宿坊があったという。
だからこそ、「碪(きぬた)打ちて我に聞かせよや坊が妻」の句がでてくるのである。
碪とは洗った衣を打って柔らかくしたり、皺を伸ばしたりする道具。打つと音が聞こえてくる。砧とも書く。
解説によると、このとき芭蕉の脳裏に浮かんでいたのは、世阿弥の能『砧』だったという。
栗田はこう評する。
〈芭蕉が耳にしたのは、現実の砧の音ではない。詩的幻想に他ならない。和歌的叙情に対する芭蕉の俳諧としての新しい立場がある。現実の「坊が妻」を能のシテとして見、自己をワキ僧と観じることは、日常を超脱した風狂の立場である。〉
芭蕉はきぬたの音を聞いたわけではない。この吉野の地で、坊さんの奥さんが洗いものをきぬたで打って、その音を聞かせてくれたら、なんとも風雅なのにと想像したのである。どことなく、おかしみもある。
翌日、芭蕉は西行庵に向かった(現代語訳)。
〈西行上人の草庵跡は、奥の院から右に2町[約200メートル]ほど分け入り、山人しか通わない細い道を通り、険しい谷を下った場所にある。何とも尊い。とくとくと湧いている清水は昔から変わらないとみえ、いまもとくとくと雫(しずく)が落ちている。
露とくとく試みに浮世すすがばや〉
西行庵はいまも残っている。われわれ夫婦が2013年に吉野を訪れたときは水分(みまくり)神社までたどりついたものの、その奥にまで行く元気がなかった。いまからすれば惜しいことをしたものである。
[西行庵。吉野町公式ホームページより]
西行庵脇の清水は、いまも湧いており、「苔清水」と名づけられているようだ。
観光客の多いいまとちがって、芭蕉が訪れたころは、さぞかし深山幽谷の趣だったにちがいない。
芭蕉の句はくどくどしく説明するまでもない。とくとくと湧いてくる清水で、浮き世の塵をすすいでみたいものだと歌う。
人の身も心もさわやかにする吉野は、やはりよみがえりの地にちがいなかった。人とは挫折をくり返しながら、また立ちあがり、ふたたび歩きだす存在なのだ。
ふるさと伊賀へ──栗田勇『芭蕉』から(11) [芭蕉]
10月にはいって栗田勇の『芭蕉』下巻が発売された。書店でみると厚さが上巻の3分の2ほどしかない。目次を眺めると、上巻で予告されていた「第6部 枯野の旅──旅に病んで」が欠落し、おくのほそ道の最終到達地である大垣で、筆が止まっている。栗田氏は88歳のご高齢である。「枯野の旅」はもはや執筆がかなわぬのであろうか。なんともいえぬ思いをいだく。それでも芭蕉最後の旅が完結することを祈らないわけにはいかない。
それはともかく、当方もまた年寄りの読書である。その歩みはじつにゆっくりとしていて、しかも断続的。この先、どこまで読み進めるかもわからないが、本を読むのは、老後に残された楽しみのひとつにはちがいない。
貞享元年(1684)8月、41歳の芭蕉は深川芭蕉庵から、いわゆる『野ざらし紀行』の旅に出立した。東海道をへて、伊勢を参拝したところまでは、前に記した。今回は栗田勇著『芭蕉』をさらに読みながら、その後の芭蕉の足どりをたどってみよう。
芭蕉は8月末に伊勢を立ち、9月8日にふるさとの伊賀上野に戻った。
うまくコピーできないのだが、自筆の画巻(えまき)には、伊勢の社と五十鈴川に架かる橋がえがかれ、そのあと、ふるさとに戻ってきたときの様子がつづられている。
[『甲子吟行(別名、野ざらし紀行)画巻』より]
前年6月20日に母が亡くなったのに、江戸で大火に遭った直後で、帰郷することができなかった。それが、ようやく一段落したため、芭蕉は母の菩提をとむらう旅に出たのである。
『野ざらし紀行』には、こう書かれている。例によって、現代語にしておこう。
〈9月のはじめ[現在の暦では10月半ば]、ふるさとに戻った。母はすでになく、いまはその面影に接することもできない。何もかも変わってしまった。兄や姉の鬢(びん)も真っ白になり、眉のあたりも皺だらけで、たがいに「何とか生きているよ」と言うばかり。兄が守り袋を開いて、いう。「母の白髪を拝めよ、浦島の子の玉手箱ではないけれど、おまえの眉も少し白くなったな」。それを見ていると、しばし涙がとまらくなった。
手に取らば消えん涙ぞ熱き秋の霜〉
母の遺髪を手にすれば、いまにも飛んでいってしまいそうだ。それを見ていると、熱い涙があふれてくる。外は霜のおりる季節だというのに……。
芭蕉はそう歌い、慟哭した。
ふるさとには長く滞在しなかった。あまりにつらかったのかもしれない。
大和に向かった。
〈大和の国に行脚した。葛下(かつげ)の郡(こおり)、竹ノ内というところに行く。ここは同行した千里(ちり)の里なので、何日か逗留して、足を休めた。
綿弓(わたゆみ)や琵琶に慰む竹の奥〉
竹ノ内は葛下郡当麻(たいま)村にほど近い村落。
葛下郡は葛城下(かつらぎしも)の略称だという。
現在の葛城市の一部。竹ノ内は二上山(ふたがみやま、にじょうさん)の麓にある。作家、司馬遼太郎の母方の里でもある。
[二上山。市のホームページから]
伊賀上野から竹ノ内に行くには、奈良を通らず、初瀬(現桜井市)経由の街道を行く。初瀬には長谷寺があるが、今回、芭蕉は旅を急いだようである。長谷寺はまたあらためて訪れる機会があるだろう。
栗田勇は、日本人の魂のルーツともいうべき、この大和葛城の地について、こう書いている。
〈いま、芭蕉の俳人としてのルーツをたずねて、旅をたどっていると、あの葛城山から二上山の風景が、胸中にありありと甦ってくるのを抑えることができない。そして芭蕉もまた、大和の国というとき、葛城山から二上山への風景に、日本の最初の山間に遊行する修験者役小角(えんのおづぬ)の原像をも感じとっていたと想わずにはいられないのである。〉
司馬遼太郎は河内と大和竹内(たけのうち)村を結ぶ竹内街道を「古代ミワ(三輪)王朝や崇神王朝、さらにはくだって奈良朝の文化をうるおした古代のシルク・ロードともいうべき道だ」と呼んでいる。
古代日本文化の中心は、葛城山、二上山のふもとに広がっていた。そこが、もともとの大和の地である。
大和高田から竹内峠にいたる道は、いますっかり鄙びているらしい。かえって芭蕉が歩いたころのおもかげを残しているかもしれない。
ところで、芭蕉の詠んだ句「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」についてである。
綿弓とは、実を取りだした綿を弦で柔らかくする道具。綿打弓ともいう。
その綿打弓をはじく音がまるで琵琶のように聞こえてくる。その弓をはじいているのは、隠士のような村長(むらおさ)だ。
旅人の無聊を慰めてくれる琵琶のような綿弓の音が、竹林の奥に住む村長の住まいから聞こえてくる、と芭蕉は歌った。
竹ノ内村に滞在中、芭蕉は当麻寺(たいまじ)を訪れている。
〈二上山当麻寺に詣でて、庭の松を見た。千年を経たのではないかと思われる巨木で、その大きさは牛をも隠すほどだ。木は情をもたない。それでも、それが伐られなかったのは、仏縁によってであろう。幸いにして尊いことである。
僧 朝顔 幾死(いくし)に返る法(のり)の松〉
当麻寺は、役小角ゆかりの古寺として知られる。
寺には中将姫が蓮の糸で織ったと伝えられる当麻曼荼羅図も残されている。
芭蕉は千古の松をたたえることで、とだえることのない寺の法灯に思いを寄せた。そして、僧も朝顔も生死のうちに次々と入れ替わるものの、寺は法を護持しながら、この松のようにいつまでもつづくと歌ったのである。
栗田はこう記している。
〈この句では、一日にして終わる朝顔や、またはかない命の僧侶たちが、いくたび死しても、この松ばかりは千歳の永遠の命を表わしていることを詠じている。ここからは、深い歴史的時間、永劫回帰の時間の流れを通して、大和の国の風景、そして古代の歌人たちの詩歌が偲ばれているのである。〉
芭蕉にとって、旅とは単なる空間の移動ではなく、時の遡上をも意味していた。次の行き先は西行ゆかりの地、吉野である。
それはともかく、当方もまた年寄りの読書である。その歩みはじつにゆっくりとしていて、しかも断続的。この先、どこまで読み進めるかもわからないが、本を読むのは、老後に残された楽しみのひとつにはちがいない。
貞享元年(1684)8月、41歳の芭蕉は深川芭蕉庵から、いわゆる『野ざらし紀行』の旅に出立した。東海道をへて、伊勢を参拝したところまでは、前に記した。今回は栗田勇著『芭蕉』をさらに読みながら、その後の芭蕉の足どりをたどってみよう。
芭蕉は8月末に伊勢を立ち、9月8日にふるさとの伊賀上野に戻った。
うまくコピーできないのだが、自筆の画巻(えまき)には、伊勢の社と五十鈴川に架かる橋がえがかれ、そのあと、ふるさとに戻ってきたときの様子がつづられている。
[『甲子吟行(別名、野ざらし紀行)画巻』より]
前年6月20日に母が亡くなったのに、江戸で大火に遭った直後で、帰郷することができなかった。それが、ようやく一段落したため、芭蕉は母の菩提をとむらう旅に出たのである。
『野ざらし紀行』には、こう書かれている。例によって、現代語にしておこう。
〈9月のはじめ[現在の暦では10月半ば]、ふるさとに戻った。母はすでになく、いまはその面影に接することもできない。何もかも変わってしまった。兄や姉の鬢(びん)も真っ白になり、眉のあたりも皺だらけで、たがいに「何とか生きているよ」と言うばかり。兄が守り袋を開いて、いう。「母の白髪を拝めよ、浦島の子の玉手箱ではないけれど、おまえの眉も少し白くなったな」。それを見ていると、しばし涙がとまらくなった。
手に取らば消えん涙ぞ熱き秋の霜〉
母の遺髪を手にすれば、いまにも飛んでいってしまいそうだ。それを見ていると、熱い涙があふれてくる。外は霜のおりる季節だというのに……。
芭蕉はそう歌い、慟哭した。
ふるさとには長く滞在しなかった。あまりにつらかったのかもしれない。
大和に向かった。
〈大和の国に行脚した。葛下(かつげ)の郡(こおり)、竹ノ内というところに行く。ここは同行した千里(ちり)の里なので、何日か逗留して、足を休めた。
綿弓(わたゆみ)や琵琶に慰む竹の奥〉
竹ノ内は葛下郡当麻(たいま)村にほど近い村落。
葛下郡は葛城下(かつらぎしも)の略称だという。
現在の葛城市の一部。竹ノ内は二上山(ふたがみやま、にじょうさん)の麓にある。作家、司馬遼太郎の母方の里でもある。
[二上山。市のホームページから]
伊賀上野から竹ノ内に行くには、奈良を通らず、初瀬(現桜井市)経由の街道を行く。初瀬には長谷寺があるが、今回、芭蕉は旅を急いだようである。長谷寺はまたあらためて訪れる機会があるだろう。
栗田勇は、日本人の魂のルーツともいうべき、この大和葛城の地について、こう書いている。
〈いま、芭蕉の俳人としてのルーツをたずねて、旅をたどっていると、あの葛城山から二上山の風景が、胸中にありありと甦ってくるのを抑えることができない。そして芭蕉もまた、大和の国というとき、葛城山から二上山への風景に、日本の最初の山間に遊行する修験者役小角(えんのおづぬ)の原像をも感じとっていたと想わずにはいられないのである。〉
司馬遼太郎は河内と大和竹内(たけのうち)村を結ぶ竹内街道を「古代ミワ(三輪)王朝や崇神王朝、さらにはくだって奈良朝の文化をうるおした古代のシルク・ロードともいうべき道だ」と呼んでいる。
古代日本文化の中心は、葛城山、二上山のふもとに広がっていた。そこが、もともとの大和の地である。
大和高田から竹内峠にいたる道は、いますっかり鄙びているらしい。かえって芭蕉が歩いたころのおもかげを残しているかもしれない。
ところで、芭蕉の詠んだ句「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」についてである。
綿弓とは、実を取りだした綿を弦で柔らかくする道具。綿打弓ともいう。
その綿打弓をはじく音がまるで琵琶のように聞こえてくる。その弓をはじいているのは、隠士のような村長(むらおさ)だ。
旅人の無聊を慰めてくれる琵琶のような綿弓の音が、竹林の奥に住む村長の住まいから聞こえてくる、と芭蕉は歌った。
竹ノ内村に滞在中、芭蕉は当麻寺(たいまじ)を訪れている。
〈二上山当麻寺に詣でて、庭の松を見た。千年を経たのではないかと思われる巨木で、その大きさは牛をも隠すほどだ。木は情をもたない。それでも、それが伐られなかったのは、仏縁によってであろう。幸いにして尊いことである。
僧 朝顔 幾死(いくし)に返る法(のり)の松〉
当麻寺は、役小角ゆかりの古寺として知られる。
寺には中将姫が蓮の糸で織ったと伝えられる当麻曼荼羅図も残されている。
芭蕉は千古の松をたたえることで、とだえることのない寺の法灯に思いを寄せた。そして、僧も朝顔も生死のうちに次々と入れ替わるものの、寺は法を護持しながら、この松のようにいつまでもつづくと歌ったのである。
栗田はこう記している。
〈この句では、一日にして終わる朝顔や、またはかない命の僧侶たちが、いくたび死しても、この松ばかりは千歳の永遠の命を表わしていることを詠じている。ここからは、深い歴史的時間、永劫回帰の時間の流れを通して、大和の国の風景、そして古代の歌人たちの詩歌が偲ばれているのである。〉
芭蕉にとって、旅とは単なる空間の移動ではなく、時の遡上をも意味していた。次の行き先は西行ゆかりの地、吉野である。
伊勢──栗田勇『芭蕉』から(10) [芭蕉]
小夜の中山は、東海道は金谷宿と日坂(にっさか)宿のあいだの峠。標高はさほどでもないが、急坂なので、旅人は難儀する。芭蕉は早朝、金谷から馬で峠までのぼった。途中、うとうとしていたので、小夜の中山に着いたといわれて、びっくりし、目が覚めたのである。
西行ゆかりの地、小夜の中山をうかうかと通り過ぎるわけにはいかない。
西行(1118-90)はここで次のような歌を詠んでいた。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや
命なりけりさよの中山
絶唱である。年をとって、もう一度越えることなど無理と思っていた小夜の中山を越えたのだ。いつ消えるともしれぬ命のなかで、いま宇宙にたったひとつあるこの命のありがたさを思わないわけにはいかない。
西行の歌に芭蕉は和している。
命なりわづかの笠の下涼ミ
この句は『芭蕉句集』にとられたもので、小夜の中山を越えたときの句ではないかもしれない。
それでも、このとき芭蕉の脳裏に西行の歌が響いていたことはまちがいない。西行の命には、とてもおよびもつかないが、自分もちいさなこの命を生きているのだ。
折口信夫流にいえば、芭蕉にとって西行の歌は、ひとつの「らいふ・いんできす(命の指標)」にほかならなかった。
ここで『野ざらし紀行』は一気に伊勢に飛んでいる。
貞享(じょうきょう)元年(1684)8月中旬[現在の暦なら9月下旬]に、門人千里(ちり)とともに江戸深川を出発した芭蕉は、8月末、伊勢に到着した。伊勢まで10日少しかかっている。
こう記している(現代語訳)。
〈松葉屋風瀑(まつばやふうばく)が伊勢にいるのを尋ね訪れて、10日ばかり足をとどめた。
自分は武士のように腰に刀を差しておらず、首に頭陀袋(ずだぶくろ)を下げ、手に18個の数珠をもっている。
僧に似てはいるが、世間の塵にまみれている。かといって頭の髪がないので、俗人でもない。私は僧でないけれど、浮屠(ふと)[ホームレス]のたぐいであって、神前に入ることを許されない。
日暮れて外宮に詣でた。一の鳥居の下はほの暗く、御燈(みあかし)がところどころに見え、[西行の歌った]このうえもない峰の松風が身にしむように覚えて、感動のあまり、
みそか月なし千歳(ちとせ)の杉を抱く嵐〉
松葉屋風瀑(?-1707)はいわゆる御師(おんし)の家柄で、江戸に滞在したとき、談林派の素堂や芭蕉と親交があった。
伊勢参りを案内するのが御師だ。逆に、御師に頼まなければ、伊勢参りができなかった。
滞在先としては気楽だった。
芭蕉は僧形をし、頭を丸めているため、内宮、外宮とも三の鳥居より内での参拝は許されない。僧には穢(けが)れがあるとみなされたからである。
そのため、芭蕉は内宮にははいらず、外宮の一の鳥居のところまで行き、はるかに清浄の場を拝し、西行も味わったであろう森厳の気を感じたのである。
みそか(30日)なので月は出ていない。千古の神杉を嵐気(らんき)、すなわち山の気配が包みこんでいる。そのさまに、芭蕉は心打たれた。
宇治山田に10日間滞在するうち、芭蕉はいわゆる西行谷も訪れている。西行谷は、西行が草庵をむすんでいたとされる谷である。あくまでも伝説にすぎないが、西行と聞けば、そこを訪れてみるのが、いかにも芭蕉である。
芭蕉が訪れたころ、ここには神照寺という寺があった。現代の五十鈴公園の南側あたり。内宮からはさほど離れていない。ふもとには五十鈴川から分かれた小川が流れていた。
芭蕉はおよそこう記している(現代語訳)。
〈西行谷のふもとに小川が流れていた。女どもが芋を洗っている。それを見て、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
その日の帰り、ある茶店に立ち寄ったところ、蝶という女が「あたしの名前で句をつくってみて」といい、白い布をだすので、それにこう書きつけた。
蘭(らん)の香や蝶の翅(つばさ)に薫物(たきもの)す
さらに閑人の茅舎(ぼうしゃ)を訪れたときの句。
蔦(つた)植ゑて竹四五本の嵐かな〉
川で芋を洗う女を見て西行を思うのが、いかにも芭蕉らしい。
おそらく天王寺江口の遊女と西行の交流を思い浮かべたにちがいない。
栗田勇は、聖から俗への反転に、俳諧の即興と滑稽のおもしろさがあるとしたうえで、この句を「芋洗うせせらぎに白い女のふくらはぎ、洗われた芋の白さ、そして月光の砕け散る川のせせらぎの輝きを連想させる趣深い俳諧と思われる」と評している。
茶店の女将(おかみ)に頼まれて、芭蕉が即興で句をしたためる場面も楽しい。さぞかし、色っぽい女将だったのだろう。
おや蘭の香りがするぞ。蝶の羽根(お蝶さんのたもと)には、香がたきしめてあるのかな。
漢詩の風格を保ちながら、くだけてみせるところに滑稽の妙味がある。
そのあと、句は風雅の境地へと転調する。
伊勢には神々しさと派手な遊興が融合していた。
その静けさとにぎやかさの混沌をよそに、閑居を保っている人もいる。
その茅屋にはツタがからまり、四、五本植えられた竹のあいだを風がそよいでいる。芭蕉はこんな住まいが好きなのだ。
西行ゆかりの地、小夜の中山をうかうかと通り過ぎるわけにはいかない。
西行(1118-90)はここで次のような歌を詠んでいた。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや
命なりけりさよの中山
絶唱である。年をとって、もう一度越えることなど無理と思っていた小夜の中山を越えたのだ。いつ消えるともしれぬ命のなかで、いま宇宙にたったひとつあるこの命のありがたさを思わないわけにはいかない。
西行の歌に芭蕉は和している。
命なりわづかの笠の下涼ミ
この句は『芭蕉句集』にとられたもので、小夜の中山を越えたときの句ではないかもしれない。
それでも、このとき芭蕉の脳裏に西行の歌が響いていたことはまちがいない。西行の命には、とてもおよびもつかないが、自分もちいさなこの命を生きているのだ。
折口信夫流にいえば、芭蕉にとって西行の歌は、ひとつの「らいふ・いんできす(命の指標)」にほかならなかった。
ここで『野ざらし紀行』は一気に伊勢に飛んでいる。
貞享(じょうきょう)元年(1684)8月中旬[現在の暦なら9月下旬]に、門人千里(ちり)とともに江戸深川を出発した芭蕉は、8月末、伊勢に到着した。伊勢まで10日少しかかっている。
こう記している(現代語訳)。
〈松葉屋風瀑(まつばやふうばく)が伊勢にいるのを尋ね訪れて、10日ばかり足をとどめた。
自分は武士のように腰に刀を差しておらず、首に頭陀袋(ずだぶくろ)を下げ、手に18個の数珠をもっている。
僧に似てはいるが、世間の塵にまみれている。かといって頭の髪がないので、俗人でもない。私は僧でないけれど、浮屠(ふと)[ホームレス]のたぐいであって、神前に入ることを許されない。
日暮れて外宮に詣でた。一の鳥居の下はほの暗く、御燈(みあかし)がところどころに見え、[西行の歌った]このうえもない峰の松風が身にしむように覚えて、感動のあまり、
みそか月なし千歳(ちとせ)の杉を抱く嵐〉
松葉屋風瀑(?-1707)はいわゆる御師(おんし)の家柄で、江戸に滞在したとき、談林派の素堂や芭蕉と親交があった。
伊勢参りを案内するのが御師だ。逆に、御師に頼まなければ、伊勢参りができなかった。
滞在先としては気楽だった。
芭蕉は僧形をし、頭を丸めているため、内宮、外宮とも三の鳥居より内での参拝は許されない。僧には穢(けが)れがあるとみなされたからである。
そのため、芭蕉は内宮にははいらず、外宮の一の鳥居のところまで行き、はるかに清浄の場を拝し、西行も味わったであろう森厳の気を感じたのである。
みそか(30日)なので月は出ていない。千古の神杉を嵐気(らんき)、すなわち山の気配が包みこんでいる。そのさまに、芭蕉は心打たれた。
宇治山田に10日間滞在するうち、芭蕉はいわゆる西行谷も訪れている。西行谷は、西行が草庵をむすんでいたとされる谷である。あくまでも伝説にすぎないが、西行と聞けば、そこを訪れてみるのが、いかにも芭蕉である。
芭蕉が訪れたころ、ここには神照寺という寺があった。現代の五十鈴公園の南側あたり。内宮からはさほど離れていない。ふもとには五十鈴川から分かれた小川が流れていた。
芭蕉はおよそこう記している(現代語訳)。
〈西行谷のふもとに小川が流れていた。女どもが芋を洗っている。それを見て、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
その日の帰り、ある茶店に立ち寄ったところ、蝶という女が「あたしの名前で句をつくってみて」といい、白い布をだすので、それにこう書きつけた。
蘭(らん)の香や蝶の翅(つばさ)に薫物(たきもの)す
さらに閑人の茅舎(ぼうしゃ)を訪れたときの句。
蔦(つた)植ゑて竹四五本の嵐かな〉
川で芋を洗う女を見て西行を思うのが、いかにも芭蕉らしい。
おそらく天王寺江口の遊女と西行の交流を思い浮かべたにちがいない。
栗田勇は、聖から俗への反転に、俳諧の即興と滑稽のおもしろさがあるとしたうえで、この句を「芋洗うせせらぎに白い女のふくらはぎ、洗われた芋の白さ、そして月光の砕け散る川のせせらぎの輝きを連想させる趣深い俳諧と思われる」と評している。
茶店の女将(おかみ)に頼まれて、芭蕉が即興で句をしたためる場面も楽しい。さぞかし、色っぽい女将だったのだろう。
おや蘭の香りがするぞ。蝶の羽根(お蝶さんのたもと)には、香がたきしめてあるのかな。
漢詩の風格を保ちながら、くだけてみせるところに滑稽の妙味がある。
そのあと、句は風雅の境地へと転調する。
伊勢には神々しさと派手な遊興が融合していた。
その静けさとにぎやかさの混沌をよそに、閑居を保っている人もいる。
その茅屋にはツタがからまり、四、五本植えられた竹のあいだを風がそよいでいる。芭蕉はこんな住まいが好きなのだ。
野ざらしの旅──栗田勇『芭蕉』から(9) [芭蕉]
芭蕉は貞享(じょうきょう)元年(1684)8月から貞享2年4月にかけ、長い旅にでる。
その旅の前半を栗田勇は次のように要約している。
〈貞享元年(1684)8月、41歳の芭蕉は、門人千里(ちり)を伴い、「野ざらしを心に」、つまり野垂れ死にを恐れず、江戸深川を出発。東海道を伊勢国まで直行し、故郷の伊賀国に着いたのは9月の初め、前年に亡くなっていた母の遺髪に慟哭(どうこく)。千里と別れ、ひとり大和国吉野の奥に西行の跡を訪ねた。〉
苗村千里(?-1716)は芭蕉の門人で大和の竹内(たけのうち)村(現葛城市當麻[たいま]町)出身。芭蕉に同行したのは、かれもまた帰郷するためだったろう。
栗田の簡潔な要約にしたがえば、貞享元年の旅で、芭蕉が目的としたのは、前年6月に亡くなった母の菩提をとむらい、西行ゆかりの地を訪ねることであった。
著作を刊行する予定などなかった。しかし、感興にまかせて、筆を走らせ、句を詠み、絵を添えるにつれて、それはおのずから紀行となった。
その著作のタイトルは芭蕉みずからつけたのではない。その草稿を、のちの人が『野ざらし紀行』とも『甲子吟行[画巻](かっしぎんこう[えまき])』とも呼ぶようになったのである。
紀行は地の文と句、絵によって構成されている。
[『野ざらし紀行』冒頭]
その冒頭を現代文にしてみよう。
〈千里の旅を行くにあたり、道中の糧食を用意するわけでもない。「三更(さんこう)月下無何(むか)に入る」[夜半の月下、無為自然の境地]と歌った昔の人[荘子]の杖(つえ)[教え]を頼りにして、貞享甲子(かっし)秋8月[1684年9月]、川岸の破れ家を出発する。風の声がいかにも寒げだ。
野ざらしを心に風のしむ身かな
秋十年(ととせ)かへつて江戸をさす故郷
箱根の関を越える日は雨が降って、山がすっかり雲に隠れていた。
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき〉
実際の原文では、地の文は1字下げで書かれ、句は天つきで書かれているが、ここでは便宜上、それを逆にしてみた。
芭蕉の旅立ちはいかにも不安げにみえる。カネもなければ、からだに自信があるわけでもない。まるで乞食坊主のような旅立ち。
野ざらしとは、野にさらされる遺骸(むくろ)のこと。旅先で野垂れ死にするかもしれない哀れな身だ。
もちろん、そのイメージは虚構であり、半ばつくられた気分だったかもしれない。けっしてカネがあるとはいえないが、旅の目算はついていた。むしろ旅に出られるなら、いつ死んだっていいという喜びの気分のほうが強い。
しかし、いざ出発してみると、江戸にきて早くも10年、江戸がもう第二の故郷になっていることに、いまさらながら気づく。多くの門人や俳友との別れはつらい。そこで、芭蕉はまた帰ってくるよと歌うのである。
箱根の関を越えたときは、雨が降っていて、天気が悪かった。道は難渋しただろう。
これまでは毎日、富士を仰ぎ見ながら、東海道を歩んできた。きょうは霧しぐれのなか、富士がまったく見えない。だが、見えないからこそ、さまざまな姿を思い起こし、富士がかえってしのばれるのである。
芭蕉がショックを受けたのは、富士川を船で渡ったときである。川のほとりに3つぐらい(いまなら2歳)の子が捨てられているのを見た。
現代文にすると、こう記している。
〈富士川のほとりを行くと、3つぐらいの捨て子があわれげに泣いていた。この川の激しい流れを思うと、浮き世の波をしのぐことはできまい。露ばかりの命を待つだけであろうと捨て置いてしまった。小萩に秋風が吹くなか、花はこよい散ってしまうかもしれない。あすにはしおれてしまうかもしれない。そう思うと切なくなり、たもとから食べるものを取りだし、投げて通ると
猿を聞く人捨て子に秋の風いかに
いったいどうしたのだろう。お前は父に憎まれたのか、母に疎(うと)まれたのか。父がお前を憎んだわけではあるまい、母がお前を疎んだわけでもあるまい。これは宿命なのだ。お前はわが身のつたなさを泣くがいい。〉
猿の句は、渓谷で猿が啼くのを詠んだ杜甫の詩「秋興八首」を踏まえているという。あるとき聞こえてきた猿の悲痛な声は、旅する杜甫の心を動かし、断腸の思いを誘った。
芭蕉もまた明日をも知れぬ、この人捨て子の運命に思いをはせている。
人の世ははかない。しかし、たくましく生きよという願いが猿の一語にこめられている。
次はいよいよ東海道の難所、大井川である。
江戸幕府はここを攻守の要とし、架橋、渡船を許さなかった。そのため、大井川を渡るには主として輦台(れんだい)か肩車に頼らねばならなかった。旅人は渡しを仕切る人足たちに悩まされたようである。
芭蕉の記録は、こうである。例によって現代文で。
〈大井川を越えるはずの日は、一日中雨が降っていたので、
秋の日の雨江戸に指をらん大井川[千里]
馬上の吟
道のべの木槿(むくげ)は馬に食はれけり
二十日あまりの月[未明の有明の月]がおぼろに見えて、山ぎわはまだ暗い。馬上でうとうとしながら何里か進むが、まだ鶏も鳴かない。杜牧の詩でいう早行の残夢を味わっているうちに小夜(さよ)の中山に着いたので、とつぜん目が覚める。
馬に寝て残夢月遠し茶の煙(けぶり)〉
芭蕉は大井川で句を詠まず、同行の千里(ちり)の句に、みずからの感想をゆだねている。
「秋の日の雨」と字余りにしたのは、雨にうんざりする様子をあらわしたものか。江戸では、友人たちが、そろそろ大井川を渡るころかと指おり数えているかもしれない。これから大井川を越える緊張感のようなものが伝わってくる。
これにたいし、芭蕉の吟は、大井川を越えて、ほっとした様子をえがいたものか。
芭蕉は金谷宿から馬に乗っている。
栗田はいう。
「未明の薄闇のなかに、仄白(ほのじろ)く浮かぶ木槿の花と香りに取り合わせも優美であり、薄明の中でとつぜん馬が木槿の花を食うというのも、深みが増してよい風景であろう」
芭蕉の地の文は、唐の杜牧(803-52)の「早行の詩」にしたがう。
芭蕉は早朝、馬に乗って出発し、夢うつつで小夜の中山に着いた。
有明の月がまだ残っている。
静岡県で茶畑が盛んにつくられるのは明治以降だ。江戸期は、このあたりまだ茶畑が広がっていない。
〈「茶の煙」は、峠の茶屋の朝茶を淹(い)れる煙か、民家の朝の食事の煙かもしれない。あるいは芭蕉のフィクションかもしれない。〉
栗田はそう書いている。
だが、芭蕉は小夜の中山に着いて、びっくりし、とつぜん目が覚める。
そこが訪れたいと念願していた、西行ゆかりの歌枕の地だったからである。
[広重『東海道五十三次』日坂、佐夜ノ中山]
その旅の前半を栗田勇は次のように要約している。
〈貞享元年(1684)8月、41歳の芭蕉は、門人千里(ちり)を伴い、「野ざらしを心に」、つまり野垂れ死にを恐れず、江戸深川を出発。東海道を伊勢国まで直行し、故郷の伊賀国に着いたのは9月の初め、前年に亡くなっていた母の遺髪に慟哭(どうこく)。千里と別れ、ひとり大和国吉野の奥に西行の跡を訪ねた。〉
苗村千里(?-1716)は芭蕉の門人で大和の竹内(たけのうち)村(現葛城市當麻[たいま]町)出身。芭蕉に同行したのは、かれもまた帰郷するためだったろう。
栗田の簡潔な要約にしたがえば、貞享元年の旅で、芭蕉が目的としたのは、前年6月に亡くなった母の菩提をとむらい、西行ゆかりの地を訪ねることであった。
著作を刊行する予定などなかった。しかし、感興にまかせて、筆を走らせ、句を詠み、絵を添えるにつれて、それはおのずから紀行となった。
その著作のタイトルは芭蕉みずからつけたのではない。その草稿を、のちの人が『野ざらし紀行』とも『甲子吟行[画巻](かっしぎんこう[えまき])』とも呼ぶようになったのである。
紀行は地の文と句、絵によって構成されている。
[『野ざらし紀行』冒頭]
その冒頭を現代文にしてみよう。
〈千里の旅を行くにあたり、道中の糧食を用意するわけでもない。「三更(さんこう)月下無何(むか)に入る」[夜半の月下、無為自然の境地]と歌った昔の人[荘子]の杖(つえ)[教え]を頼りにして、貞享甲子(かっし)秋8月[1684年9月]、川岸の破れ家を出発する。風の声がいかにも寒げだ。
野ざらしを心に風のしむ身かな
秋十年(ととせ)かへつて江戸をさす故郷
箱根の関を越える日は雨が降って、山がすっかり雲に隠れていた。
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき〉
実際の原文では、地の文は1字下げで書かれ、句は天つきで書かれているが、ここでは便宜上、それを逆にしてみた。
芭蕉の旅立ちはいかにも不安げにみえる。カネもなければ、からだに自信があるわけでもない。まるで乞食坊主のような旅立ち。
野ざらしとは、野にさらされる遺骸(むくろ)のこと。旅先で野垂れ死にするかもしれない哀れな身だ。
もちろん、そのイメージは虚構であり、半ばつくられた気分だったかもしれない。けっしてカネがあるとはいえないが、旅の目算はついていた。むしろ旅に出られるなら、いつ死んだっていいという喜びの気分のほうが強い。
しかし、いざ出発してみると、江戸にきて早くも10年、江戸がもう第二の故郷になっていることに、いまさらながら気づく。多くの門人や俳友との別れはつらい。そこで、芭蕉はまた帰ってくるよと歌うのである。
箱根の関を越えたときは、雨が降っていて、天気が悪かった。道は難渋しただろう。
これまでは毎日、富士を仰ぎ見ながら、東海道を歩んできた。きょうは霧しぐれのなか、富士がまったく見えない。だが、見えないからこそ、さまざまな姿を思い起こし、富士がかえってしのばれるのである。
芭蕉がショックを受けたのは、富士川を船で渡ったときである。川のほとりに3つぐらい(いまなら2歳)の子が捨てられているのを見た。
現代文にすると、こう記している。
〈富士川のほとりを行くと、3つぐらいの捨て子があわれげに泣いていた。この川の激しい流れを思うと、浮き世の波をしのぐことはできまい。露ばかりの命を待つだけであろうと捨て置いてしまった。小萩に秋風が吹くなか、花はこよい散ってしまうかもしれない。あすにはしおれてしまうかもしれない。そう思うと切なくなり、たもとから食べるものを取りだし、投げて通ると
猿を聞く人捨て子に秋の風いかに
いったいどうしたのだろう。お前は父に憎まれたのか、母に疎(うと)まれたのか。父がお前を憎んだわけではあるまい、母がお前を疎んだわけでもあるまい。これは宿命なのだ。お前はわが身のつたなさを泣くがいい。〉
猿の句は、渓谷で猿が啼くのを詠んだ杜甫の詩「秋興八首」を踏まえているという。あるとき聞こえてきた猿の悲痛な声は、旅する杜甫の心を動かし、断腸の思いを誘った。
芭蕉もまた明日をも知れぬ、この人捨て子の運命に思いをはせている。
人の世ははかない。しかし、たくましく生きよという願いが猿の一語にこめられている。
次はいよいよ東海道の難所、大井川である。
江戸幕府はここを攻守の要とし、架橋、渡船を許さなかった。そのため、大井川を渡るには主として輦台(れんだい)か肩車に頼らねばならなかった。旅人は渡しを仕切る人足たちに悩まされたようである。
芭蕉の記録は、こうである。例によって現代文で。
〈大井川を越えるはずの日は、一日中雨が降っていたので、
秋の日の雨江戸に指をらん大井川[千里]
馬上の吟
道のべの木槿(むくげ)は馬に食はれけり
二十日あまりの月[未明の有明の月]がおぼろに見えて、山ぎわはまだ暗い。馬上でうとうとしながら何里か進むが、まだ鶏も鳴かない。杜牧の詩でいう早行の残夢を味わっているうちに小夜(さよ)の中山に着いたので、とつぜん目が覚める。
馬に寝て残夢月遠し茶の煙(けぶり)〉
芭蕉は大井川で句を詠まず、同行の千里(ちり)の句に、みずからの感想をゆだねている。
「秋の日の雨」と字余りにしたのは、雨にうんざりする様子をあらわしたものか。江戸では、友人たちが、そろそろ大井川を渡るころかと指おり数えているかもしれない。これから大井川を越える緊張感のようなものが伝わってくる。
これにたいし、芭蕉の吟は、大井川を越えて、ほっとした様子をえがいたものか。
芭蕉は金谷宿から馬に乗っている。
栗田はいう。
「未明の薄闇のなかに、仄白(ほのじろ)く浮かぶ木槿の花と香りに取り合わせも優美であり、薄明の中でとつぜん馬が木槿の花を食うというのも、深みが増してよい風景であろう」
芭蕉の地の文は、唐の杜牧(803-52)の「早行の詩」にしたがう。
芭蕉は早朝、馬に乗って出発し、夢うつつで小夜の中山に着いた。
有明の月がまだ残っている。
静岡県で茶畑が盛んにつくられるのは明治以降だ。江戸期は、このあたりまだ茶畑が広がっていない。
〈「茶の煙」は、峠の茶屋の朝茶を淹(い)れる煙か、民家の朝の食事の煙かもしれない。あるいは芭蕉のフィクションかもしれない。〉
栗田はそう書いている。
だが、芭蕉は小夜の中山に着いて、びっくりし、とつぜん目が覚める。
そこが訪れたいと念願していた、西行ゆかりの歌枕の地だったからである。
[広重『東海道五十三次』日坂、佐夜ノ中山]