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虚栗──栗田勇『芭蕉』から(8) [芭蕉]

 のちにお七火事と呼ばれる天和2年(1682)暮れの火災で、芭蕉は草庵を焼けだされ、しばらく甲斐の谷村(やむら、現都留市)に身を寄せたあと、翌年5月、江戸に戻ってきた。
 その間の消息は伝わっていない。
 おそらく江戸の門人たちが芭蕉の帰郷をうながしたのだろう。
 帰京後、芭蕉は門人のだれかの家で、しばらく世話になっていたにちがいない。
 このころ、弟子の其角(きかく)が編集した句集『虚栗(みなしぐり)』が刊行される。作者は其角や嵐雪(らんせつ)、杉風(さんぷう)、才丸(さいまろ)、素堂(そどう)など114名。江戸談林派や京、大和の人もまじっている。
 芭蕉はこの句集に跋文(ばつぶん)、つまりあとがきを寄せた。
 栗田勇によれば、『虚栗』の特徴は、漢詩文調、破調だという。
 虚栗とは、むしくい栗のこと。だれも見向きもしないだろうという謙遜の裏に自負がひそんでいる。
 芭蕉の跋文は、サービス満点で、みごとだが、どことなく気合いがはいっていない。それをそのまま引用してもとまどうばかりだろう。無理を承知で、現代文にしておく。

〈栗と呼ぶ本書には、その味わいが4つある。
 すなわち、李杜[李白・杜甫]、寒山、西行、白楽天。
 李杜が酒を飲んで心に達し、寒山が粥をすすって法を悟る。これによって、その詩は宏遠なものとなった。
 侘(わ)びと風雅が全句をつらぬいているわけではない。言ってみれば西行の山家(やまが)を訪ねたものの、そこで見つけたのは、人のひろわぬむしくい栗というところか。
 恋の句も満載だ。昔は西施の哀愁の顔(かんばせ)、いまはカネを稼ぐ小紫[江戸の遊女の名]。唐の上陽宮の閨(ねや)で、[楊貴妃に帝の寵を奪われた]宮女たちの衣桁(いこう)にツタがからまっているありさま、さらに近い世俗のほうをみると、親に心配をかける箱入り娘や、嫁姑のすさまじい争いもでてくる。寺の稚児(ちご)や若衆の情けの句も削っていない。白楽天の歌を仮名にやつして、その初心を救う便宜となればこれ幸いだ。
 その語句、表現は多様で、虚実ないまぜ。宝の鼎(かなえ)のために句を練り、龍の泉のために文字を鍛える。これはほかならぬ自分の宝となって、後日だれかがこれを盗むのを待とうというものだ。〉

 じつにテキトーな訳で恐縮するが、何となくこの句集の雰囲気がわかってもらえば、それでいい。全句に李杜[李白・杜甫]、寒山、西行、白楽天の味わいと格調が投影されている。その点で、『虚栗』はこれまでにない新しい句集だった。
 江戸時代を閉鎖的だったと考えるのはまちがっている。それは、哲学、文学、詩、絵画を問わず、庶民のなかに中国文化や王朝・中世文化が、滔々と流れこんだ時代でもあった。
 芭蕉は独(ひとり)ではあるが、けっして孤(ひとり)ではない。江戸だけではなく、全国各地の門人や知人、俳諧愛好者が、芭蕉の活動を支援している。
 その証拠は、芭蕉が甲斐の避難先から江戸に戻ったときに、52名の門人、知人がつどって、芭蕉庵を再建するため寄付をだしあったことをみてもわかる。
 天和3年(1683)9月、山口素堂(1642-1716)を願主とする勧進簿にはおよそ次のように記されていた。ちなみに素堂は江戸談林の推進者で、芭蕉とは古くからの友人だった。

〈前の芭蕉庵が裂(やぶ)れて、新たな芭蕉庵を求めております。2、3人の助けでは間に合いません。多くの助けが必要です。多くの助けを求めるのは、その願いが切実だからです。寄付の額は問いません。有志の方々におまかせします。これを清貧というか、狂貧というか、翁自身はただの貧だといいます。貧のまた貧、許子[古代中国の人物批評家]の貧といいましょうか。それでも一瓢一軒(食べるものや住むところ)は必要です。雨をしのぎ、風をふせぐ備えがなければ、鳥にすらおよびません。誰でも忍びがたいでしょう。そこで、草堂を建立するため、ぜひご協力をお願いする次第です。〉

 あえて孤高の道を選んだ芭蕉を支援しようとする人は、けっして少なくなかった。
 こうして、その冬、新(第2次)芭蕉庵が完成する。その場所は、最初の芭蕉庵とほぼ同じだったという(深川元番所、森田惣左衛門屋敷内)。
 ふたたび芭蕉庵にはいった芭蕉は、ひとつ句を得る。

  霰(あられ)聞くやこの身はもとの古柏(ふるかしわ)

 何となくうれしげである。
 新しい庵に、あられがぱらぱらと落ちる音がする。自分は相変わらずの年寄り。それでもこの天地宇宙のなか、ちいさな庵のもとでどっこい生きている。
 だが、芭蕉はこの庵に安住しない。
 翌年8月には旅にでるのだ。それも一度切りではない。
 残り10年の人生のうち、じつに4年9カ月を旅の空の下でくらすことになるのだ。
 このあたり、やはり芭蕉はただ者ではない。

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お七火事──栗田勇『芭蕉』から(7) [芭蕉]

 中村不折(1886-1943)が祖父の原画を写したとされる芭蕉庵の絵が残されている。

不折「芭蕉庵」.jpg
[中村不折「深川芭蕉庵」]

 19世紀初頭には、まだ芭蕉庵が残っていたのだろうか。芭蕉の実際の住まいがこんなふうだったかどうかはわからない。とはいえ、バショウが生命力あふれる木であることは絵からも伝わってくる。
 そういえば、京都の相国寺(しょうこくじ)を訪れたとき、鹿苑寺(金閣寺)大書院のための芭蕉図を見たのをふと思いだした。描いたのは伊藤若冲(1716-1800)である。芭蕉はほんらい南方の木で、禅宗とゆかりが深い。それは禅宗が中国の江南に拠点を構えていたことと関係しているのだろう。

若冲・芭蕉図.jpg
[若冲「芭蕉図」]

 芭蕉は延宝8年(1680)冬、隅田川と小名木川のほとりに泊船堂という草庵(のちの芭蕉庵)を建て、そこで暮らすようになった。
 翌延宝9年春、弟子の李下からバショウ1株を贈られ、それを植えたところ、北限の地にもかかわらず幸いにも育ったことは、前にも記した。
 そのとき芭蕉が詠んだ句。

  ばせお(バショウ)植ゑてまづ憎む萩の二(ふた)ば哉(かな)

 出はじめの萩の双葉がバショウの成長を妨げないか、心配でたまらないのだ。
 その年9月に改元があり、年号は延宝から天和になった。
 その秋に台風がやってきたときも、芭蕉はバショウのことが気になって仕方なかった。

  芭蕉野分(のわき)して盥(たらい)に雨を聞(きく)夜哉(かな)

 雨漏りより外のバショウのことが気になっているみたいだ。
 晩年の元禄5年(1692)の秋、49歳の芭蕉は「芭蕉を移す詞(ことば)」で、こんなふうに述べている。現代文にしておく。

〈ある年、庭にひともとのバショウを植えた。風土がバショウの心にかなったのだろう。数株の茎を備えて、その葉が茂り重なって庭を狭め、カヤの軒端も隠すほどになった。人がこの草庵を芭蕉庵と呼ぶようになったのはそのためだ。(中略)その葉は2メートルあまり。風で半ば破れて、ちょっと悲しい風情がある。たまに花をつけることもあるが、はなやかではない。茎は太いけれど、かつて荘子が無用の用を悟った木と同じく、材木にはならない。その性(さが)は尊ぶべきものがある。〉

 そのころの芭蕉の心境について、栗田勇は次のように書いている。

〈[芭蕉は]深川に独り隠棲の途をえらんで、富士と隅田川の山水の風景に、歌をこえた歌、詩をこえた詩、ことばをこえたあるものを、心深く追求し、老荘の文や、仏頂和尚の禅に親しくなじみながら、バショウの破れ葉に我が身をやつしている……〉

 芭蕉はバショウそのものだったのである。
 そのころ、イベントやショーのような俳諧の世界からは身を引いたため、芭蕉の生活は苦しくなったものの、その心もちはかえって晴れ晴れとしていた。
 門人たちが芭蕉の暮らしを支えてくれるから、つましいにちがいないが、食べるのには困らない。芭蕉庵にしても、日本橋の魚商人で門人の杉山杉風(さんぷう、1647-1732)の番小屋を改装したものだ。
 芭蕉庵のバショウが根づきはじめた延宝9年(1681)5月15日、芭蕉は句作指導を乞うてきた甲斐の高山伝右衛門(俳号は麋塒[びじ]=シカのねぐらといった意味合い、1649-1718)に手紙を出している。
 栗田によれば、この手紙で、芭蕉は京、大坂、江戸の俳壇の「古さ」を指摘し、昔ながらの貞門、談林風の俳諧になずむ宗匠たちを一刀両断し、新しい俳諧をとるべしとした。抽象的な表現をやめ、古人の名を借りず、具体的で平易に、心に刻まれたものを句にするよう、高山麋塒に指導している。
 このころの芭蕉はまだ若々しい。
 翌天和2年(1682)暮れの12月28日、江戸で大火が発生した。
 いまの時間でいうと、午後3時ごろ、駒込大円寺から出火し、火は本郷、上野、下谷、神田、日本橋、浅草、本所、深川へと回り、深夜になってようやく鎮火した。
 多くの大名、旗本屋敷、寺社が焼けた。死者3500人。
 両国橋は焼け落ち、芭蕉庵も焼失した。芭蕉は火が迫るなか、川につかって、難を逃れたと伝えられる。
 幕末から明治にかけてつくられた『武江年表』によれば、大円寺に放火したのは、駒込の八百屋久兵衛の娘お七ということになっている。この記述は誤りで、天和の大火をお七火事と呼ぶことから、作者が勘違いしたものだろう。
 お七の名を有名にしたのは西鶴の物語や歌舞伎などである。それによると、お七一家は天和の大火で焼けだされ、駒込正仙寺に身を寄せたところ、お七が寺小姓の庄之介と恋に落ちたことが悲劇の発端だ。お七はむしろ天和の大火の被災者である。
 お七は家に戻ったあとも庄之介が恋しいあまり、火事があればまたかれに会えると思い込み、翌年3月2日夜に放火事件をおこす。火はぼやで、すぐ消し止められたが、16歳のお七はとらえられ、引き回しの末、天和3年(1683)3月29日に鈴ヶ森刑場で、火刑に処された。
 この物語が実話なのかどうかは、わからない。
 それはともかく、芭蕉が天和2年暮れの大火で、草庵を焼けだされたことは事実である。
 芭蕉はその後、手紙でも交流のあった、甲斐都留(つる)郡谷村(やむら、現都留市)の高山伝右衛門(麋塒)宅にしばらく身を寄せることになる。
 江戸に戻るのは天和3年5月のことである。

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空の思想──栗田勇『芭蕉』から(6) [芭蕉]

 また、栗田勇の『芭蕉』を読む。
 はっきりいって難解だ。わかるところだけを読んでいる。
 延宝8年(1680)冬、深川の芭蕉庵(当初の名は泊船堂)に移り住んで以来、芭蕉はそれまでの荘子や唐宋詩に加え、禅にのめりこむようになった。
 芭蕉庵は西側が隅田川、南側が小名木(おなぎ)川に接し、東側には六間堀の運河が流れていた。まさに水辺の風景である。
 目の前の隅田川は三つ叉になっており、向こう岸には水戸藩の河端屋敷、さらにその向こうには江戸の町が広がっている。深川村と江戸市中は両国橋で結ばれていた。新大橋はまだできていない。
 入庵直後の句は何やらわびしい。

  柴の戸に茶を木の葉掻(か)く嵐かな

 優雅な隠棲のようにみえて、茶も出せないほどの貧乏暮らし。外は嵐で木の葉が舞っている。
 目の前の小名木川にかかる万年橋を渡ると、すぐに仏頂(ぶっちょう)禅師(1642-1715)の住まう臨川庵がある。芭蕉はここに数年間、参禅に通った。
 仏頂は「常陸国鹿島の臨済宗根本寺の住職であったが、鹿島神宮と寺領の訴訟の件で、江戸に居つづけ、深川の臨川庵に仮の根拠地をおいていた」とある。
 芭蕉より2歳年上。鹿島神宮が寺領を奪いとろうとしたことに抗議して、根本寺が幕府に訴えたというのがおもしろい。訴訟は9年がかりとなり、天和2年(1682)に寺側の勝訴で決着した。
 仏頂は訴訟終了後も江戸に滞在し、臨川庵に居住したという。したがって、芭蕉とのつきあいは2、3年といわず、もっと長かったはずだ。
 栗田は芭蕉のことを「象徴主義の詩人」と呼び、19世紀フランスの詩人ボードレールと比較しているが、そのあたりの話は省略しよう。「芭蕉は複雑深淵な詩人だった」と書いているところだけに注目しておく。それはおそらく、芭蕉が漂泊の人(精神のホームレス)でありながら、超越的なものをとらえていたことと関係している。
 芭蕉に大きな影響を与えた仏頂禅師とは、どういう人物だったのだろう。
「深川移転は、貧に徹し、行脚僧の暮らしに徹し、仏頂禅師に親しく師事し、新しい芭蕉風、いわゆる蕉風の俳諧へと歩をすすめるためであったろう」と、栗田は書いている。学識があり修行を積んだ相当の坊さんだったろうと思われる。
 栗田は仏頂の残した法語を長々と紹介しているが、理解するのがむずかしい。ただ仏頂が精神の集中を説き、自然を友とすべきことを勧め、空(永遠)を観して迷いを去ることを説き、万物の背後に霊性がひそむことを教えていたことは、それとなくわかる。
 著者はいう。

〈蕉風といわれる芭蕉の手法「匂い・響き・移り・位」など、それと婉曲に暗示される象徴の世界は、数多く語りつがれているが、その根底にある「空」の思想を忘れてはなるまい。その要だからである。〉

「匂い・響き・移り・位」というのは連句の決まりごと。匂いとは情緒、響きとは気分、移りとは余情、位とは品格。前句から、それらを引き継ぐべきものとされる。だが、そうした手法を別にして、空の思想をとらえねばならないと著者はいう。
 空の思想というのは、ぼくなどには、実際のところ、よくわからない。おいおい、わかってくることを期待しよう。
 芭蕉が臨川庵に通いはじめたころにつくった作品が残されている。

  枯枝に烏(からす)のとまりたるや秋の暮

 古来の画題「寒鴉枯木(かんあこぼく)」を俳諧にしたものといわれる。
 この句はのちに元禄2年(1689)の『曠野(あらの)』では、次のように改作される。

  枯枝に烏のとまりける秋の暮

 前者が絵をみての印象であるのにたいし、後者は脳裏に浮かぶ一幅である。それだけに思い入れが深く、強い意志のようなものを感じる。

枯木寒鴉図.jpg
[河鍋暁斎「枯木寒鴉図」]

 カラスは高貴な鳥とはいえない。俗世間にまみれた鳥である。それでも枯れ枝にとまって、世間の移り変わりをじっと見つめている。そこには人の世の永遠の相をみようとする張りつめた緊張感のようなものがただよっている。その一瞬がたぶん空なのである。芭蕉はその孤独なカラスに、みずからを重ねている。

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深川芭蕉庵──栗田勇『芭蕉』から(5) [芭蕉]

 延宝8年(1680)、芭蕉37歳。
 芭蕉は日本橋河岸に近い、小田原町の小沢太郎兵衛(卜尺)の貸屋に住んでいる。
 そのあたりはというと、
「日本橋の魚市、駿河町の呉服店、本町の薬種店、大伝馬町の木綿店、伊勢町の米河岸・塩河岸、十軒店(通町の十間店)の雛市というように、日本橋の北界隈には多彩な商店が展開していた」(高橋庄次『芭蕉伝新考』)
 芭蕉は江戸のにぎやかな商業地の中心で暮らしていた。かれの俳諧活動を支えていたのは、まさに江戸町人だった。
 芭蕉が妻帯していたこともつけ加えておくべきだろう。
 芭蕉には3人の子がいる。延宝6年(1678)までに、そのうちふたり、二郎兵衛と長女のまさが生まれていた。また、父親を亡くした甥の桃印(とういん)を、養子として迎えいれている。
 延宝8年9月には桃青版の『俳諧合田舎其角(はいかいあわせいなかきかく)』、『俳諧合常磐屋杉風(ときわやさんぷう)』が刊行された。桃青(芭蕉)門下の句作は、ますます活発になっている。
 そのころ芭蕉は荘子(そうじ)に傾倒していた、と栗田勇は書いている。
「芭蕉は、流行する連歌、連句が言葉遊びの娯楽におちいり、一時しのぎの滑稽の座に落ちていくのを批判し、強い反発を覚えていた」
 芭蕉が荘子に傾倒したのは、漢学を和様化することによって、「形骸化した俳諧を粉砕しようとした」ためではないか、と栗田は論じている。
 中国では明清交代期の戦乱が収まり、1644年に清が中国を支配するようになった。そのころから東アジアの「平和と安定」期がはじまるとともに、日本に中国文化の波が押し寄せていた。
 明治期が「西洋化」の時代だったように、意外にも江戸前期は上層から庶民にいたるまで「中国化」が浸透する時代だったというのは興味深い。
 芭蕉が荘子を読みふけったのも、中国思想の流行とけっして無縁ではない。荘子だけではない。芭蕉は杜甫や李白、蘇東坡などの詩にもふれていた。
 そのさなか、大きなできごとがおこる。
 10月21日、新小田原町から出火し、芭蕉の住む小田原町の貸屋が焼けてしまうのである。
 その冬、芭蕉は深川村の草庵に居を移した。その場所は隅田川と小名木川(おなきがわ)、六間堀に囲まれ、船の往来も盛んだった。芭蕉は杜甫の詩にちなんで、みずからの草庵を「泊船堂」と名づけた。
 翌年春、門下の李下が、庭の端にバショウを植えた。バショウは大きな葉を茂らせる。芭蕉はこの木がおおいに気に入り、草庵の名を「芭蕉庵」と変えた。さらに俳号として、芭蕉を名乗るようになった。
 芭蕉はなぜ江戸俳壇の中心である日本橋から離れて、隅田川端の深川に居を移したのだろうか。隠棲の思いが強かったという。
 栗田勇はこう書いている。

〈37歳での深川べりの入庵は、貧しさを承知で、侘び住まいの中での俳諧の創作活動に熱中するためであったと思われる。その背景には「無為の自然」を道とする荘子や杜甫の精神を踏まえることはもちろんのこと、西行の乞食僧(こつじきそう)として乞食行脚をする境遇への追慕の念も深かったのであろう。〉

 芭蕉庵に移り住んでから1年後の天和元年(1681)に、芭蕉は「寒夜の辞」と呼ばれる文と句を残している。現代語訳しておこう。

〈深川三つ叉のほとりに侘びしい草庵を結んで、遠くは富士の雪をのぞみ、近くは万里をいく船をながめる。あさぼらけに漕ぎゆく船の航跡、芦の枯れ葉の夢のように吹く風、夕方をすぎると、月を見ながら空樽を前に時をすごし、枕に頭をのせながら布団の薄さを嘆く。〉

 そのときの句。

  櫓(ろ)の声波を打(うっ)て腸(はらわた)氷(こお)る夜や涙

 芭蕉庵の前を流れる隅田川の向こう岸は、深川三つ叉と呼ばれ、芦の茂る中洲が川を分けていた。現在、この中洲は残っていないが、その懐かしい光景は広重の「東都三十六景」にも描かれている。

広重「東都三十六景中洲三つ叉.jpg
[広重「東都三十六景中洲三つ叉」]

 そして、この年、芭蕉は「茅舎の感」と題する有名な句を詠んだ。

  芭蕉野分(のわき)して盥(たらい)に雨を聞(きく)夜哉(かな)

 芭蕉は見たものを伝えるだけではない。音の詩人でもある。
 川をこぐ櫓の音、嵐、そして盥に落ちる雨音が、空間の広がりを想像させる。

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江戸へ──栗田勇『芭蕉』から(4) [芭蕉]

[娘たち一家と短い夏の旅行をし、そのあといなか(高砂市)で、母の初盆をいとなんだため、ブログを書く時間がとれませんでした。また、気の向くままに再開します。栗田勇の『芭蕉』を断続的に読んでいます。]

 1672(寛文12)年春、芭蕉は故郷、伊賀上野から江戸に下った。
 厳密にいうと、このころの名前はまだ芭蕉ではなく、松尾宗房である。伊賀には友人や弟子も多く、京、大坂にもたくさんの知人がいた。にもかかわらず、芭蕉が江戸に向かったのはどうしてだろう。
 連歌はもちろん、連句や俳諧も共同芸術である。集まりの座のなかで、歌は当初、個からはじまるが、その個は溶解して、次第に全体のなかで盛りあがり、はずみがついて、大きな感興のうちに終わる。
「詩歌・俳諧は、蟬がいつしか土中から頭を出し、変身しながら殻を脱ぎ捨てて、鳴き始めるや、数日して、その命は『空』にもどる様に似ている」と、著者は書いている。
 芭蕉は江戸に向かって飛翔する。このころ芭蕉の作風は、『貝おほひ』にみられるように古風な貞門風からポップな談林風に移っている。まさにブームに乗っていたのだ。
 1673年、江戸では田代松意(たしろ・しょうい、生没年不詳)が鍛治町(現在の東京駅あたり)に談林俳諧のサロンを開き、飛体(とびてい)と呼ばれる、まさに自由奔放な「飛んでる」作品をつくり、人気を集めていた。芭蕉はそのブームの中心に飛びこんだのである。
 ちなみに、結社に談林の名をつけたのは田代松意である。辞書によると、談林とはもともと仏教の学問所の意味だという。大坂の西山宗因(1605-82)を総帥とあおぎ、奇抜な俳諧をねらった。のちに放縦乱雑におちいり、あきられたとされている。
 最初、芭蕉が江戸に居を構えたのは小田原町とされている。現在の東京・中央区日本橋あたり。近くには魚河岸があった。芭蕉の面倒をみてくれたのは、同じ北村季吟門下の卜石(ぼくせき)こと小沢太郎兵衛(孤吟)で、日本橋大舟町の裕福な商人だった。芭蕉は卜石の貸家に住んでいたと伝えられる。
 あるいは向井卜尺の家、または嶋田仙風方、小田原町の杉山杉風(さんぷう)方、さらに本郷、浜町、本所高橋(ほんじょたかばし、現江東区深川あたり)を転々としていたとの説もある。いずれにせよ、芭蕉は江戸でも俳諧のとりもつ縁で、多くの友人や支援者にめぐまれていたのである。
 時は4代将軍、徳川家綱(1641-80、在位1651-80)の晩期にあたる。東廻りと西廻りの航路が開かれ、商業が盛んになり、俳諧や小説などの町人文芸、歌舞伎、浮世絵などが人気を集めるようになっていた。
 卜石など多くの支援者に後押しされて、談林俳諧の盛んな江戸で、芭蕉は次第に多くの弟子をとるようになり、出府から2、3年のうちにプロの俳諧師と認められていく。俳諧師どうしとのつきあいも広がった。それは「まさに芭蕉の才能とともに、時代の趨勢によるところが大きかった」と、栗田勇はいう。
 江戸に出た翌年の1673(延宝元)年には、後に有力な弟子となる宝井其角(きかく、1661-1707)、75(延宝3)年には松倉嵐蘭(らんらん、1647-93)が早くも芭蕉に入門している。
 1677年ごろ、芭蕉は江戸で立机(りっき)し、正式に俳諧宗匠の看板を掲げた。このとき、芭蕉34歳である。
 1678(延宝6)年から79年にかけ、江戸で刊行された主要俳書には、芭蕉の作品が数多く掲載されている。このころ芭蕉は江戸で一流の俳人と認められていた。
 1680(延宝8)年には『桃青門弟独吟二十歌仙』が刊行される。桃青とは芭蕉を名乗る前の芭蕉の俳号である。
 とはいえ、流行作家と同じで、俳諧宗匠として身を立てるのは楽ではない。
 俳諧の点者としてだけでは、生活はとても成り立たなかった。芭蕉が神田上水の管理にあたっていたという記録が残されている。
 神田上水は井之頭池(現井の頭公園内)を水源とし、途中、善福寺川や小石川上水の分流、妙正寺川と合流しながら、小石川の関口大洗堰(現在の大滝橋)にいたり左右に分岐する。神田上水は玉川上水とともに、江戸の生活を支える水道だった。現在の汚れた神田川は神田上水のなごりといってよいだろう。
 上水は厳格に管理され、毎日、水質の検査がおこなわれていた。おそらく芭蕉は、その管理や清掃にかかわり、いくばくかの収入を得ていたものと考えられる。
 椿山荘に関口芭蕉庵という施設が残されているが、芭蕉はここにも住んだことがあったのだろうか。

 それはともかく、このころの芭蕉の心情を推察して、栗田はこう書いている。

〈門人をふやし、一門の句集をつくり、多くの俳席に呼ばれ「みずからも腹をかかへ、人の耳目をよろこばしめて衆と共に楽」しむこと、そして点者としての収入をはかり、集団を維持することは、ただごとではなかった。なによりも、芭蕉がこの一筋とさだめた生涯を充実させるものでもなかった。〉

 後世、芭蕉は点取り俳句(すなわち、現代でいう才能あり、才能なしを競うような俳句)について、ある書簡で、およそ次のように述べている。現代語訳しておこう。

〈なかには、点取りに昼夜を尽くして、勝負を争い、道もよく見ず、走り回る者がいます。かれらは風雅のうろたえ者にはちがいありませんが、それによって点者の妻子が腹を満たし、また座を提供する店ももうかるなら、ぶつぶつ不平をいうより、よほどましといえるでしょう。〉

 芭蕉は俳諧ビジネスを否定しない。
 それでも、芭蕉は腹をふくらせるビジネスを追求するより、俳諧のなかに一筋の道につながる何かを見いだしたいと思っていた。そのためにはよほどの研鑽が必要だった。

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栗田勇『芭蕉』から(3) [芭蕉]

 あるじ藤堂良忠(蟬吟)の亡きあと、藤堂新七郎家は4男の良重(よししげ)が嫡子となり、跡を継ぐことになった。
 芭蕉の居場所はない。解雇というのは語弊があるかもしれないが、芭蕉はともかく藤堂家を去ることになった。
 その後、6年間、芭蕉は伊賀にとどまった。そのかん、蟬吟の遺稿整理もしただろう。あるいは北村季吟のいる京にもおもむき、教えを乞うこともあったかもしれない。さらに、蟬吟なきあとの伊賀俳壇の中心となって、俳諧の道に精進していたかもしれない。
 いずれにせよ、重要なのは、芭蕉がみずからもまた一本の風雅の道を歩もうと決意したことである。芭蕉は僧門にもはいらず、武家勤めもしなかった。「この一筋につながる」ことだけを、ひたすら願った。伊賀での6年間は芭蕉が芭蕉になるまでの揺籃期だった。
 ありていにいえば、芭蕉はプロの俳諧師として食っていこうと思ったのである。
 事典では、「俳諧師」に次のような説明がつけられている。

〈俳諧の師匠。近世では連句形式をとった俳諧の連歌が盛んで、その連句の席で指導者の役割をはたした。また、作品のよしあしに応じた評価を下す点者としての活動や、懸賞で作品を募集し勝敗を競う興業行為も行った。江戸では点者組合も結成された。〉

 江戸時代、庶民はともかく、武家や町人のあいだで、俳諧はどうやら現在のカラオケのようにはやっていたように思える。その座をとりもち、できあがった作品に点数をつけるのが俳諧師の仕事であり、俳諧師はその謝礼で生活していたようである。芭蕉の時代からくだると、江戸では点者組合もあったというから、俳諧師の数もけっしてすくなくなかったのだろう。その背景には、貨幣経済の発展がある。
 ところで、人間の世界には歌がつきものである。歌のない世は考えられない。ざっと思い浮かべるだけでも、祝詞(のりと)、民謡、和歌、小歌、小唄、謡曲、長唄、ご詠歌、俳句、歌謡曲、ポップス。それこそ無限にある。これはジャンルこそことなれ、世界のどこでもおなじだろう。
 江戸時代もいろいろな歌が流行した。そのなかで、俳諧ブームを支えたのは、連句の会といってよいだろう。
 連句と連歌はどこがちがうのだろう。
 著者の栗田勇によれば、連歌では俗語や漢語が避けられるのにたいし、連句ではそれらがむしろ積極的に取り入れられ、滑稽と機知が押しだされる。つまり、連句の場は連歌の場よりも堅苦しくなく、楽しく遊べたのである。
 1672(寛文12)年1月25日(旧暦)、29歳の芭蕉は、伊賀上野の天満天神菅原社に最初の著述『貝おほひ』を奉納した。
 芭蕉がプロの俳諧師として自立したことを宣言した一瞬である。
 著者によれば、書名のもとになった貝覆(おおい)とは、開いたはまぐりの殻を左貝と右貝にわけ、同じ絵柄の貝をあわせて、その数を競う上流階級の遊びだったという。それにちなんで、句会では参加者が左右に分かれて、句の勝ち負けを競い、判者がそれを講評し、判定する。
 これは芭蕉が新たにつくりだした俳諧ゲームだった。
 その序文を原文のまま紹介してみる。

〈小六ついたる竹の杖。ふしぶし多き小歌にすがり。あるははやり言葉の。ひとくせあるを種として。いひ捨られし句をあつめ。右と左にわかちて。つれぶしにうたはしめ。其かたはらにみづからが。みじかき筆のしんきばらしに。清濁高下をしるして。三十番の発句あはせを。おもひ太刀折紙の。式作法もあるべけれど。我まま気ままにかきちらしたれば。世に披露せんとにはあらず。名を『貝おほひ』といふめるは。あはせて勝負をみる物なればなり。(後略)〉

 多くの掛けことばや当時の流行を含む記述は、現在では判読するのがむずかしい。しかし、原文からは調子のよさが伝わってくる。
 その意味はおよそ次のようなものだ。

〈小六節でおなじみ小六のついた竹の杖ではあるまいが、節々の多い小唄、あるいはいっぷう変わったはやり言葉を使って、座興の句を集め、左右にわかれて、ふたりが節をつけて歌い、そのかたわらで自分がつたない筆で、うさを晴らすように、句のよしあしをしるした三十番の発句合わせ。進物用の折紙にはうるさい式作法もあるだろうが、そんなうるさい作法はさておいて、わたしが気ままに書き散らしたため、世間に公表しようというわけではない。その書名を『貝おおい』とするのは、両者を合わせて、勝負をつけようとするものだからだ。〉

 この句集では、30番の句合わせがおこなわれ、左右どちらが勝ちかを判定する芭蕉の評が記されている。
 30番の発句は、いまの演歌と同じように、色恋にかかわるものが多く、ときに奴詞(やっこことば)と呼ばれる威勢のよい俗語も取り入れられている。いまとちがうのは、男色や衆道(しゅどう)の沙汰が堂々と歌われていることだ。
 たとえば、その2番をみる。

    左 勝[此男子]
  紅梅のつぼみやあかいこんぶくろ
    右[蛇足]
  兄分に梅を頼むや児桜(ちござくら)

「此男子」とか「蛇足」というのは作者名である。
 そして、芭蕉の判定により、左の「此男子」の句が、右の「蛇足」の句に勝利を収めたことになる。
 芭蕉は左が勝利した理由を、およそ次のように解説する。
 現代語に訳しておく。

〈右の「兄ぶんに頼む児桜(ちござくら)」は、なるほどたのもしい感じがするけれど、このままでは梅の句のようにみえません。むしろ、児桜の句のように思えます。いまでこそ、こんなわたしも、昔は衆道(しゅどう)だったから、ひが耳で、そんなふうに聞こえてしまうのかもしれないけれど。それはともかく左の「こん袋」(小袋)は、趣向もよく分別もよい袋と思えるのにたいし、右の句はどうみても衆道の浮気沙汰。そんなふうに考えて、左をもって勝ちとします。〉

 赤い小袋(こんぶくろ)は小正月の風習で、これを飾って、どんど焼きのお祭りをする。そのころは、ちょうど紅梅のつぼみがふくらむころで、作者は紅梅と赤い小袋を連想で結びつけたのである。
 これにたいし、後者は兄分に甘えている10代の少年の姿を想像させる。芭蕉はこれを否定したりはしていない。自分も少年のころは衆道だったと告白している。じっさい、江戸時代は19世紀にはいる天明のころまで、衆道はさかんだった。
 しかし、どちらも色っぽい句であり、貝覆が貝合わせの趣向をもつように、当時の俳諧の場が、エロスと滑稽、躍動に満ち、人びとに生の充実を感じさせていたことをうかがわせる。いまのカラオケとおなじだ。
『貝おほひ』については、これくらいにしておこう。
 重要なのは、『貝おほひ』という俳諧の新機軸ゲームを編みだすことによって、芭蕉が俳諧師として身を立てる自信を得たことである。
 いまや芭蕉は、文化にあふれた京、大坂ではなく、文化に乏しい新興の江戸に向かおうとしている。この選択は、けっしてまちがっていなかった。

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栗田勇『芭蕉』から(2) [芭蕉]

 芭蕉は10代終わりから、主人、藤堂新七郎の嫡男(実際は3男)、良忠(宗正)に仕えるようになった。そのさい、芭蕉は宗房の名を与えられている。
 このころ武家の世界では、文や礼が重んじられるようになっていた。良忠は京都の高名な俳人、北村季吟に俳諧を習い、蟬吟(せんぎん)の号をもらっている。
 芭蕉は北村季吟の添削を乞うため、蟬吟こと良忠の使いとして、何度も京を訪れていたという。そのうち、みずからも季吟の門下になった。
 ところが、あるじの良忠が1666(寛文6)年、25歳で突然、亡くなるのだ。死因はわからない。このとき芭蕉は23歳。
 五千石の武家に仕官しているといっても、芭蕉の身分は小者・中間のたぐいにすぎない。もともとは台所用人、料理人として藤堂家に雇われていたのが、息子の俳諧の相手として重用されるようになっただけのことである。
 芭蕉が宗房の名で19歳のときに読んだ句が記録されている。

    廿九日(29日)立春ナレバ
  春や来(こ)し年や行きけん小晦日(こつごもり)

 明治以前はいまとは日にちの数え方がちがうので、この句のおもしろさは、それがわからなければ理解できない。
 いまでは立春は2月はじめだが、旧暦では元旦前後が立春だった。
 小晦日は大晦日の前日。旧暦でいえば、12月29日である。
 さらにいえば、芭蕉の句は『古今集』冒頭の「年の内に春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやら云はむ今年とや云はむ」を踏まえている。
 句の意味は、

〈29日の小晦日なのに立春だ。きょうは初春?それとも年の瀬?〉

 教養がかいまみえ、しかもユーモラス。若さがあって、才気煥発。
「この型は当時流行の、古典をもじった貞門(ていもん)俳諧といわれるもの」と、著者は書いている。
 さらに2年後の1664(寛文4)年の句集では、芭蕉(宗房)とあるじ良忠(蟬吟)の句が、仲良く並んで入選している。

  七夕にかすやあはせも一よ物[伊賀蟬吟]
  姥桜さくや老後の思ひ出(いで)[松尾宗房]
  月ぞしるべこなたへ入(い)らせ旅の宿[松尾宗房]

 『古今集』や謡曲などを踏まえた作品。当時の人なら、あああの歌だとぴんときただろうが、ぼくにはいまひとつわからない。
 しかし、ともかく主従が親しげな様子がうかがえる。このとき芭蕉21歳。
 翌寛文5年11月13日には、藤堂邸で「貞徳翁13回忌追善」俳諧の会が催された。蟬吟(良忠)の主催するこの会には、伊賀俳壇の長老が集まり、芭蕉もその席につらなり、句を詠んだ。
 ちなみに貞徳翁(ていとくおう)とは、松永貞徳(1571-1653)のこと。連歌の一部にすぎなかった俳諧を独立した分野として確立し、古典の教養にもとづく貞門俳諧を広めたことで知られる。いわゆる貞門の創設者であり、師の北村季吟もその一門につながる。
 当時、伊賀では、藤堂新七郎家の若殿、蟬吟を中心に熱狂的な俳句ブームがおこっていた。
 ところが、その矢先に、25歳の蟬吟が急死してしまうのだ。1666(寛文6)年4月25日のことである。
 6月中旬、芭蕉が良忠の遺髪を収めるため高野山に登ったという伝承もあるが、その証拠は残されていない。
 いずれにせよ、良忠の死により、芭蕉は藤堂家から解雇されることになった。
 主家の思いは複雑だったろう。俳諧への過剰なのめりこみが、若殿の夭折を招いたと勘ぐられたことは、じゅうぶんに考えられるからである。
 だが、そうではなかったのかもしれない。蟬吟(せんぎん)という俳号は、短い期間に命を燃やし、歌い尽くし、消えていくはかなさを暗示しているようにもみえる。藤堂良忠は不治の病にかかっており、みずからの命がまもなく消えることを知っていたのではないだろうか。
 だとすれば、良忠の俳友、芭蕉の存在は、主家にとってもありがたかったのではないか。そして、その死は想像以上に、芭蕉に人の存在論的根拠を問う衝撃力を秘めていたはずである。
 藤堂家を離れた芭蕉は、しかし、すぐに伊賀を去らない。
 それから29歳で江戸に下るまでの6年間を伊賀ですごしている。
「とくに芭蕉の場合、この時期の過ごし方は決定的な意味を持っている」と、著者は指摘する。
 芭蕉はときどきの思いを俳句に託したとはいえ、自身は伝記ふうの文章を残していない。しかし、1690(元禄3)年、芭蕉47歳のときにつづった『幻住庵記』には、おのれの歩みをふり返った一文が残されている。
 原文の格調をそこなうのは承知で、現代語訳してみよう。

〈自分はあえて閑寂を好んだわけではないけれど、からだが弱いあまりに、世間ぎらいになった人に似ているようだ。どういうわけか、仏門にもはいらず、仕事にもつかず、人に道義を説くこともなく、武家勤めもせず、ただ若いときから無茶苦茶好きなことがあって、そればかり夢中になっていたため、万事に身がはいらず、ついに無能無才のまま、この一筋につながることになった。歌では西行、宗祇(そうぎ)、絵では雪舟、茶では利休、愚かな自分をそうした賢人と並べるのはおこがましいにせよ、そこには一本の道が貫いている。(略)人の一生もこれと同じ。夢のごとく、また幻のごとく、人はいまという時空を生きているのだ。〉

 あるじの死後、故郷伊賀ですごした6年間はけっして短い期間ではない。
 だが、この期間に芭蕉は「この一筋につながる」という決意を固めたのである。
 多くの迷いはあったにちがいないが、何があっても、自分もまた一本の風雅の道を歩むと決意するまでには、並々ならぬ修行と格闘を要したはずである。
 次回はそのあたりをみていきたい。

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栗田勇『芭蕉』から(1) [芭蕉]

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 芭蕉の俳句といえば、有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」をはじめ、だれもがすくなくともその何句かは知っているはずだ。芭蕉の句は親しみやすいし、どことなくユーモアもただよう。
 しかし、芭蕉とはどんな人物で、どんな時代に生き、何をめざしていたのか、となると、案外知らないものだ。
 先日、書店で栗田勇の『芭蕉』という大著を見かけ、思わず買ってしまった。芭蕉について、もうすこし知りたいと思ったからだ。
 上巻となっている。オビに下巻は2017年7月刊行予定と明記されているが、いまのところ刊行された様子がない。発行が遅れているのかもしれない。
 なにはともあれ、ぱらぱらとページをめくってみる。ところが、さっぱり理解できない。このぼんくら頭にはなにもはいってこないのだ。
 もともと文学、とりわけ詩や俳句にはうとかった。そこにいきなり最上級のテキストを読んでも、芭蕉の深さ、広がりが理解できるわけがないと思ったが、すでに後の祭り。
 それで、もう投げだそうと思わぬわけでもなかったのだが、しろうとなりに芭蕉のことがすこしでもわかれば、それでよしとしなければならないと思いなおした。
 ぼちぼち感想をつづることにした。
 例によって、気の向くままの暇人の読書である。浅薄な理解にとどまることはいうを俟たない。最初から半分投げだしているから、いったい先がどうなることやらまったく自信はないけれど、まあのんびり1年くらいかけて、この大作を斜め読みできれば、もっけの幸いというべきだろう。
 著者は最初に「松尾芭蕉は日本の歴史の中でも、とくに不可思議な謎をまとった詩人である」と書いている。
 いったい、どういう人物なのだろう。
 著者はいう。

〈宿命的に自らを、運命にえらばれた道者として自覚し、その漂泊の人生を磨き、そして予見したように、旅のうちに言語を見つめ、数多くの俳諧作品、旅行記、散文を残して去っていった。〉

 そういう人だったらしい。
 でも、そうくくっただけでは、芭蕉のなにごともみえてこない。かれがいったいなにをめざしていたのかもわからない。
 芭蕉が生まれたのは、1644(寛永21)年。つまり、ぼくが生まれた300年ほど前だ。場所は忍者の里として知られる伊賀。正確には伊賀上野(現在の三重県伊賀市)である。
 伊賀には乱世の悲しい歴史がある。
 1579(天正7)年、織田信長の次男、信雄(のぶかつ)は伊賀に攻め入ったものの伊賀衆に阻まれる。そこで2年後の1581(天正9)年、今度は憤激した信長が大軍を擁して伊賀に侵攻し、神社仏閣を破壊しつくし、伊賀の地侍を徹底的に殲滅するのだ。
 芭蕉の松尾氏も、伊賀侍の一族だった。つまり芭蕉は殲滅された伊賀侍の末裔ということになる。
 時は下って、江戸時代にはいると、芭蕉が生まれたころ、伊賀上野は藤堂家により治められていた。
 藤堂家を大名にまでのし上げたのは戦国の猛将、藤堂高虎(1556-1630)である。豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いで家康側についたあと、その功績を認められ、伊予今治領主、ついで伊賀と伊勢の領主となった。
 築城の名人だったと伝えられる。だが、伊賀上野の天守閣は完成直前に暴風雨のため倒壊し、一国一城令の出された江戸時代に再建されることはなかった。
 芭蕉の生まれたころ、伊勢と伊賀を含む津藩を治めていたのは、2代藩主の藤堂高次(1602-76、在位1630-69)だった。
 ちなみに、当時、伊賀上野の城代をつとめていたのは、藤堂元則(もとのり、1582-1660、通称采女)。藤堂高虎の弟、高清(たかきよ)の跡をついで、城代となった。
 藤堂元則の実父は服部半蔵則直だが、有名な服部半蔵正成とは別人。とはいえ服部一族にはちがいない。則直は大阪冬の陣で軍功があり、徳川家康の命で、藤堂の名を与えられた。
 話がややこしくなった。
 芭蕉の父、与左衛門(よざえもん)は、下級武士の無足人(むそくにん)だったという。無足人には知行が与えられない。つまり武士の身分とはいえ、無給に近い郷士である。
 芭蕉の経歴には判然としない部分が多いものの、先に述べたように1644(寛永21)年に、伊賀上野・赤坂町に松尾与左衛門の次男として生まれたという説が有力である。
 父自身も嫡男ではなかったため、分家して、農家をいとなんでいた。
 農家といっても、大きな農耕をおこなっていたわけではない。武家奉公もしていたと思われる。
 無足人として、鉄砲隊に属していたとの説もある。その主な役割はなよ竹のでる竹藪の管理である。昔は、油分のあるなよ竹をはいで、よじり、火縄をつくった。
 芭蕉の兄は半左衛門と呼ばれ、農家をいとなみながら、武家奉公をしていた。
 芭蕉(幼名は金作)もまた13、4歳ころから、侍大将、藤堂新七郎の子小姓をするようになったと伝えられる。
 台所用人から料理人になったという説もあるが、たしかなことはわからない。いずれにせよ、藤堂新七郎家で子小姓として雑用係をしているうちに、その嫡男、良忠(よしただ)と相知るところとなった。
 藤堂新七郎家は、名前からもわかるように、藤堂家の係累で、代々、新七郎を名乗った。芭蕉(金作)が子小姓を勤めたころは2代目の新七郎良精(よしきよ)が当主。初代は、初代藩主、藤堂高虎のいとこにあたる。
 嫡男の藤堂新七郎良忠(1642-66)は、芭蕉より2歳年上。芭蕉は何人もの子小姓のうちから選ばれ、良忠のいわばお付きとなった。
 江戸時代もこのころになると武芸よりも文芸、つまり和漢詩歌が尊ばれるようになっていた。
 良忠には宗正(そうせい)という通称があった。
 芭蕉は藤堂家の子小姓となって4、5年たってから中小姓となり、宗房の名前を与えられる。
 そのころから、宗正、宗房による俳諧の本格的な活動がはじまる。良忠(宗正)は蟬吟(せんぎん)の俳名をもつようになった。
 昔の人の名前はややこしい。頭がこんがらがってきそうだ。
 きょうは、このあたりでやめておこう。
 いずれにせよ、芭蕉が本格的に俳諧に取り組むのは、10代後半になり、藤堂新七郎家の嫡男、良忠に仕えてからだということがわかった。
 だが、それはあくまでも外面的な履歴にすぎない。