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山片蟠桃と伊能忠敬は出会ったか?(修正版) [山片蟠桃補遺]

これは以前の記事の修正版です。
いまは自主制作版のKindleで『山片蟠桃の世界』という本を準備しているので、このところブログはすっかりご無沙汰になっています。

8年前、国会図書館に立ち寄って、『伊能忠敬測量日記』をあさったことがあります。
できれば、山片蟠桃(1748-1821)と伊能忠敬(1745-1818)の出会いをさぐりたいと思ったからです。もちろんふたりにつながりはあります。
ふたりをつなぐのは、大坂の麻田剛立(ごうりゅう、1734-99)という天文暦学者です。
蟠桃は大坂の本町3丁目で「先事館」という私塾を開いていた剛立のもとによく出入りしていました。剛立の直接の弟子ではありませんが、剛立とは懇意でした。剛立の手控えにも、枡屋(正しくは升屋)七郎左衛門(蟠桃のこと)の名前がちらほらと出てきます。
蟠桃の大宇宙論や地動説は剛立グループの影響を受けています。
いっぽう佐原の伊能忠敬は51歳(数え)のとき、長男に家督をゆずり、江戸に出て、幕府の天文方、高橋至時(よしとき、1764-1804)に天文や測量を学びます。
高橋至時は、麻田剛立の愛弟子です。寛政7年(1795)、幕府は改暦を議するため、剛立を江戸に召しだそうとしますが、かれは高齢を理由として、これに応じず、代わって、幕府の開設した通称「浅草天文台」所長に愛弟子の至時を送りだしました。その直後に、伊能忠敬は高橋至時に弟子入りするわけです。このとき至時は32歳でした。
ですから、高橋至時から学んだ伊能忠敬は、麻田剛立の天文暦学を吸収したことになり、その意味で、剛立の教えを直接受けた山片蟠桃と知的水脈においてつながっていることになるわけです。
伊能忠敬は麻田剛立のもうひとりの愛弟子、間重富(1756-1816、はざま・しげとみ)からも学んでいます。重富もまた幕府から天文方御用に任じられ、至時を手伝っており、忙しい至時が京に出向いているときなどは、重富が忠敬に天文学を教えたのでした。もちろん、蟠桃と重富も懇意の仲です。
問題は、はたして山片蟠桃と伊能忠敬は実際に出会ったことがあるのかということです。
井上ひさしの小説『四千万歩の男』には、たしか仙台の宿で、ふたりが出会って、難事件を解決するとともに、熱く語りあい、末永い友情を交わすといった場面が出てきます(手元に本がないので、うろおぼえですが)。
ところが、これは実はありえないのです。
伊能忠敬が子午線1度の距離を測定するのを兼ねて、蝦夷地に向かう第1次測量に着手するのは寛政12年(1800)4月19日のことです。このときは10月21日に江戸に戻っていますが、仙台を訪れたのは行きの4月27日との記録が残されています。
本州東海岸を調査する第2次測量がおこなわれるのは享和元年(1801)。4月2日に江戸を出発し12月7日に帰着するこの測量で、伊能忠敬は8月27日と28日の2日間、石巻に泊まっています。
いっぽう山片蟠桃がはじめて仙台を訪れたのは寛政9年(1797)のことです。1月28日に大坂を出発し、3月1日に仙台の青葉城に登城します。3月6日から8日にかけ、仙台米の積み出し港となる石巻も訪れています。このときは蟠桃が番頭をつとめる升屋が仙台藩の蔵元になるという話が本決まりになろうとしていました。大坂に帰着するのは5月上旬。
蟠桃がもう一度仙台におもむくのは、文化8年(1811)春のことです。このときは仙台藩主、伊達周宗(ちかむね)の目通りを受ける予定だったのですが、藩主病気のためかないませんでした。
さらに事実関係を追加すると、蟠桃は持病を治すため寛政11年(1799)秋に湯島(現在の城崎)で長逗留し、大坂に戻った翌年は船場であわただしく仕事をしています。升屋が仙台藩の蔵元を引き受けるにあたっての秘策を練っていたといってよいでしょう。
こうして、享和元年(1801)から升屋は仙台藩の蔵元になるのですが、この年も蟠桃が仙台におもむいた形跡はありません。むしろ、ひとしごとを終えたあと、畢生の大作『夢の代』に結晶することになる『宰我の償』を書きはじめようとしているのです。
だから、どうみても日時がずれています。井上ひさしが小説で描いたように、寛政12年、あるいは享和元年に、仙台や石巻で伊能忠敬と山片蟠桃が出会った形跡はないのです。そのときの忠敬の日記にも蟠桃の名前はでてきません。

それでは大坂ではどうでしょうか。
伊能忠敬は文化2年(1805)2月25日から翌3年11月15日まで、第5次測量をおこなっています。このときは紀伊半島を回って、文化2年8月18日から25日まで大坂に滞在します。そして、そのあと瀬戸内を回って、岡山で越年し、下関から山陰地方へと回る旅がつづきます。
大坂に滞在したとき、忠敬はいろんな人と会っていますが、日記で見るかぎり、升屋あるいは蟠桃の名前はありません。
ただ、このときよく出てくるのが間清一郎(はざま・せいいちろう)という人物です。これはかつて浅草の天文台で高橋至時とともに忠敬に天文学を教えた間重富の長男、間重新(1786-1838、はざま・しげよし)のことです。間重富はこのころまだ江戸で仕事をしており、ようやくそれから解放されて大坂に戻るのは文化6年(1809)になります。
寛政の改暦が終わったあと、いったん大坂に戻った間重富が江戸に戻らなければならなかったのは、高橋至時が享和4年(1804)1月に肺病のため亡くなったからです。41歳の若さでした。幕府から重富に出府の要請がきました。
伊能忠敬「測量日記」の大坂の項には、もうひとり、麻田立達という人物がでてきます。麻田剛立の息子です。文化2年(1805)8月24日に忠敬はこの立達らとともに、浄春寺にある麻田剛立の墓を詣でています。
残念ながら、このときの日記にも山片蟠桃(当時は升屋七郎左衛門)の名前は出てきません。
ついでですから、それから3カ月後(この年は閏の8月がありました)の10月12日と13日に、忠敬がぼくの田舎である高砂を訪れていることにも触れておきましょう。
このとき忠敬は高砂・北本町の原喜三右衛門のところに宿を借りています。高砂にはいる前、別府(べふ)では手枕の松を眺め、尾上で古鐘と相生の小松を一覧し、それから高砂の牛頭天王(いまの高砂神社)で、相生の松を一見しています。忠敬が宿泊先とした原家の当主は、高砂の大年寄をつとめていました。そのほか忠敬は菅谷恵左衛門、梶原長左衛門、代市野右衛門などといった町の有力者と会っています。
気になるのは高砂町を出立した10月14日の日記です。
現代語に訳すと、およそこんなふうに書かれています。

〈……高砂町より、ただちに岡道を的形村へ行く。曽祢(そね)天満宮を参詣。……寛政5年(1793)4月末に播州を遊覧したさい、菅原道真公が手ずから植えられたとされる古松が龍のように苔むし、葉が短く針のようにとがり、実に千年もへたと思われる、我が国第一の古松だと感じいったものだ。それがことし12年ぶりに訪れると、名松は枯れてしまっており、その残りが無残な姿をさらしている〉

気になるというのは、曽祢の松もさることながら、寛政5年(1793)に忠敬が播州を遊覧したことがあるという記述です。
伊能忠敬が家督を長男にゆずって江戸に出るのは寛政6年(1794)のことです。すると、その1年前に忠敬は播州にやってきたことになります。このころ大坂ではまだ麻田剛立が健在でした。ひょっとしたら、忠敬は大坂で麻田剛立と会ったことがあるのではないでしょうか。それゆえに12年後の剛立の墓参りにつながったとは考えられないでしょうか。
ちなみに忠敬が播州を遊覧した寛政5年の9月、山片蟠桃は「昼夜長短図並解(ならびにかい)」をまとめ、師ともいうべき麻田剛立に提出しています。これは季節ごとの昼と夜の長さを日本だけではなく全世界にわたって比較した画期的な表でした。
もし寛政5年に伊能忠敬が麻田剛立のもとを訪れていたとしたら、このとき忠敬は剛立の愛弟子である高橋至時や間重富、さらには蟠桃の直接の師である中井竹山や履軒、そして蟠桃本人とも会った可能性はないでしょうか。
記録魔である伊能忠敬は実は寛政5年の関西旅行日記を残しています。このとき忠敬はのちに測量スタッフとなる津宮村(現香取市)の名主、久保木清淵(竹窓)とともに伊勢参りに行き、そのついでに奈良と吉野、大坂、播州、京都に立ち寄っています。3月から6月にかけての長期旅行です。清淵も「西遊日記」といわれる記録を残しているようですが、これとあわせて忠敬の日記を読めば、もっといろいろなことがわかってくるのではないでしょうか。
いずれにせよ、ぼく自身は、もし蟠桃が伊能忠敬と出会ったとしたら、それは井上ひさしが『四千万歩の男』で書いている寛政12年(1800)の大坂ではなく、寛政5年(1793)の大坂船場だった可能性のほうが強いと勝手に想像しています。しかし、その想像を裏付けるには(あるいはこれもまったくの空振りということになるかもしれませんが)、伊能忠敬と久保木清淵の関西旅行日記を読まなければならないわけです。残念ながら、この日記は活字化されておらず、ここでぼくの推理も中断してしまいます。
「測量日記」をさらにみていきましょう。
伊能忠敬が第6次測量に従事したのは文化5年(1808)1月25日から同6年1月18日にかけてのことで、四国沿岸が主な調査対象でした。このときは舞子浜から淡路をへて四国に渡るのですが、その行き帰り2月24日から28日にかけてと、11月21日から25日にかけての2度、大坂に泊まっています。宿泊地は最初は大坂の呉服町、二度目は淡路町です。
このときも間清市郎や麻田立達などと会っていますが、残念ながら蟠桃の名前はありません。このころ蟠桃は大著『夢の代(しろ)』をほぼ書き上げていました。
ぼくの知るかぎり、いまのところ山片蟠桃と伊能忠敬が出会ったという証拠は見つかっていません。
それでも不思議なことがあります。
蟠桃がつとめた大坂の豪商・升屋には伊能図(忠敬のつくった日本地図)が残されているのです。それほど多くつくられたとも思えない伊能図がどうして升屋にあったのでしょうか。ここに残された伊能図は第1次測量にもとずく「寛政12年小図」で、ごく初期のものです。
のちにシーボルト事件を引き起こすことになる、いわばマル秘の「伊能図」が升屋に残されていることは、升屋と伊能忠敬の関係がただならぬものであったことを意味しています。
この図のでどころは、高橋至時だろうと思われます。第1次測量は幕府の公式事業ではありませんでした。その費用はほとんど忠敬の自費でまかなわれました。奥州から蝦夷地まで足を伸ばした忠敬は、そのとき作成した地図を寛政12年(1800)12月に幕府に提出していますが、その地図の写しは至時にも渡されていました。そのうちの小図の1枚を蟠桃が引き取ったにちがいありません。
それはいつだったのか。享和4年(1804)1月〔この年1月、文化と改暦〕、高橋至時は亡くなっています。このとき、至時の遺品として、蟠桃は伊能小図をもらったのでしょうか。それとも、受け取ったのは、もっと前か、それとも後か。蟠桃に至時の伊能図を譲ったのはだれだったのか。間重富でしょうか、それとも至時の息子で、のちにシーボルト事件で刑死する景保でしょうか。
しかし、ここでぼくは大きな思い違いをしていることに気づきます。じつは伊能図を手に入れたのは、蟠桃自身ではなく、主人の升屋平右衛門重芳(山片重芳)ではないかということです。
われわれはどうしても蟠桃のことに目がいきがちですが、蟠桃の背後に升屋の主人、重芳がいたことを忘れてはなりません。重芳は学者ではありませんが、名うてのコレクターでした。かれが興味をいだいたものは、オランダわたりの文物、それに天文地理、医学博物関係の資料などで、集められるかぎりのものを集めています。間重富や大槻玄沢とは昵懇で、かれらを通じて貴重な蘭書や天測機器、世界地図を買い入れた記録が残っています。
ほかに重芳は西洋時計やオルゴール、洋画、更紗、タバコ入れ、人形、鏡なども集めています。まさに「蘭癖」の収集家といえるでしょう。儒書や和本にはほとんど興味がありませんでした。
重芳の膨大なコレクションのなかに、伊能図がまぎれこんでいました。それはおそらく間重富からもたらされたものでしょう。
山片蟠桃は重芳のコレクションを自由に見たり使ったりできる立場にありました。『夢の代』の記述には、重芳の資料がおおいに寄与しました。
とはいえ、これではたして蟠桃と忠敬は出会ったかという謎が解明されたわけではありません。ぼくとしては、ふたりが出会ったという証拠を何とか見つけたいのですが、いまのところ問題は未解決です。
ただの妄想で終わってしまうかもしれません。でも、なんだかわくわくしますね。



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船場の丁稚どん──山片蟠桃補遺(4) [山片蟠桃補遺]

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 一説に、船場はもともと着船場(ちゃくせんば)、つまり船着き場のことだったとあります(牧村史陽『大阪ことば事典』)。この説にしたがうと、着船場の着がとれて船場になったわけです。たしかに「せんば」という特殊な読み方は、そんなところに由来するのかもしれません。
 さて、今回は香村菊雄の『船場ものがたり』 に沿って、話を進めていきましょう。
 まず、船場の範囲ですが、それは土佐堀川と東横堀川、そしていまは埋められてしまった西横堀川と長堀川に囲まれた東西に長い長方形の地域でした。昔の大阪は堀川がめぐらされた水の都だったことがわかります。これは物資が水路で運ばれたためですね。
 町は碁盤上に形成され、南北に筋、東西に通(とおり)が走っています。江戸時代の町名は、北から南に、北浜、内北浜、今橋、高麗橋、伏見町、道修町(どしょうまち)、平野町、淡路町、瓦町、備後町、安土町、本町、南本町、唐物(からもん)町、北久太郎町、南久太郎町、北久宝寺町、南久宝寺町、博労町、順慶町、安堂寺町、塩町となっていました。だいたい1丁目から5丁目までありました。
 町は「ちょう」ではなく「まち」と読みます。いまも残っている町名もあるし、残っていない町名もありますが、その名前をみていると、なんとなく町の由来や扱っている商品がわかってくるから不思議です。
 ほかにちいさな町もあります。北浜の東側、土佐堀川に面しているのが大川町(おおかわちょう)です。「ちょう」と読む例外。ここはいまも昔も住友の拠点です。そして、その一本通りを南にはいったところにあるのが、われらが蟠桃の勤めていた升屋のある梶木町(かじきまち)ですね。
 船場を横切って通りは城に向かっています。縦の筋として有名なのは、何といっても御堂筋ですね。御堂筋には北御堂(西本願寺)と南御堂(東本願寺)が立っています。だから、御堂筋というわけです。明治以降、御堂筋は大幅に拡張されました。堺筋も同じです。
 船場の町をつくったのは、豊臣秀吉です。大坂城築城にあわせて、堺や伏見、平野、伊勢などから商人を呼び寄せて、あきないをさせたといいます。
 しかし、秀吉の時代は短く、大坂夏の陣の落城で船場も焼け野原になりました。それを立てなおしたのが徳川幕府です。大坂城は再築され、新たな堀川がつくられ、商業優遇措置がとられ、船場は復興します。
 徳川幕府は商人に自由な活動、自由な生活を認めていたわけではありません。むしろ、些細な部分まで統制がおよんでいたというべきでしょう。商人には、生活態度、着る物、持ち物、食事、建物、乗り物にいたるまで、制限が課されていました。基本はぜいたく禁止令です。これに違反した淀屋辰五郎は身代を取り潰されました。ばかばかしいほどの法令ですが、徳川期に、この法令は意外ときいて、船場の商人はぜいたくを慎み、富の蓄積にはげむことになります。
 ぜいたく禁止は、けちとしまつの精神へと結実し、商家には上から下までその精神がしみついていきます。
 商家の構成は、旦さんを筆頭に、それを補佐する大番頭、その下に番頭、手代がいて、一番下が丁稚です。もちろん、家の中では御寮人(ごりょんさん、若奥さん)が大きな力をもっていて、女衆(おなごし、下女)をまとめるとともに、家内に何かと気を配っています。
丁稚は7、8年修行して、17か18で手代見習になります。それから二十歳をすぎて、番頭の娘や、時に主人に見込まれたときにはいとさん(お嬢さん)を嫁にもらったりして、30そこそこで番頭になるわけです。
 番頭になると、別家を認められ、いわば支店のようなものをまかせられることもあります。別家しないで残り、大番頭に進む者もでてきます。蟠桃が選んだのは、この道ですね。主人が幼かったため、蟠桃は実質的に升屋の経営者となり、倒産寸前だった升屋を立てなおすことになります。
 ところで、丁稚の話です。丁稚の1日はどんなふうだったのでしょう。
 丁稚は商家ではたらく、だいたい10歳から17歳くらいまでの男の子で、番頭や手代に呼び捨てにされ、休む間もなくこきつかわれます。縁故採用が基本です。蟠桃の場合も、おじさんが升屋の番頭を務めていました。
 お目見えの日は、店の者に丁稚の呼び名で紹介され、つづいて家族や女衆にも紹介され、ごりょんさんから木綿縞の着物、下着、前垂や草履などをもらいます。女中頭からは箱膳を渡され、食器や箸をもらい、そのしまい方を教わります。掃除の仕方や寝る場所、その他こまごまとしたことを教えてくれるのは先輩の丁稚です。
 やっかいなのは船場のことばです。播州のいなかからやってきた蟠桃は、最初、聞き慣れないことばに、ずいぶんとまどったと思いますが、徐々に慣れてきたことでしょう。たとえば、船場では出かけるときに「いて参じます」といわねばならず、それにたいして「はよ、お帰り」ということばが返ってきます。船場では、いまの漫才やコントのようなことばはけっして使わず、なめらかな浄瑠璃のようなことばで、丁寧語の「ござります」や「ござりまへん」がよく用いられていました。
 播州にくらべ、船場のことばはやわらかい。ずけずけした言い方はしません。それにどことなくユーモアや皮肉、しゃれも含まれています。蟠桃が番頭である自分に引っ掛けて、一度だけ蟠桃と名乗ったのは、こうしたしゃれ心をきかせたためでしょう。それが、いまでは山片蟠桃という堅苦しい名前になって通用しているのですから、泉下の升屋小右衛門(こえもん、略称、升小)も苦笑いしていることでしょう。
 ちなみに香村菊雄によると、谷崎潤一郎が『細雪』でくり広げていることばは、昭和10年代のもので、船場ことばとしては、ずいぶん崩れていて、チャンポン船場弁になっているといいます。
話がちょっと脇にそれてしまいましたが、『船場ものがたり』のえがく丁稚の一日はコマネズミのようにすぎていきます。
 いまの時間で朝5時ごろ起きると、自分のふとんをあげ、店の着物に着替え、顔を洗うと、すぐに表の掃除です。終わったら夏なら外に水をまきます。つづいて、店の間にはたきをかけ、隅から隅まで拭き掃除をします。硯の水を替え、たばこ盆を掃除し、灰吹きを洗い、火鉢の灰の処理、花瓶の水の取り替えと目まぐるしく仕事をしたあと、やっと朝食です。早飯早糞が原則。そのあと、仕事にとりかかります。職種によって、その作業はさまざま。升屋のような米仲買にはどんな仕事が待ち受けていたのでしょう。ことこまかな仕事が休む間もなく次々に押し寄せたにちがいありません。
 雑用もまたきりがありませんでした。買い物や洗濯物の片づけなど、女衆の手伝いもやらされたかもしれません。いとさんやこいさんの雑用、おえさん(年配のごりょんさん)の仕事、それにだんさんのお供もあったでしょう。「それはもう連続的に、あれやこれやの雑用私用が、よくもこれだけあるものと思うほどあるのであった」と香村菊雄も書いています。
 それでいて、給金はなし。番頭さんの言では、店は「金もうけの秘訣を教えてくれはるのに、一文の月謝も取りはらん。あべこべに、ここでは三度の御飯もただで食べさしてくれはる」という理屈になります。
 明治の終わりになっても、尋常小学校を出て10歳のころからすぐに丁稚として船場の店に勤める人は多かったようです。松下幸之助もそのひとりでした。「ぼくの場合は(丁稚時代の)生活体験がそのままぼくの人生観をかたちづくってくれたような感じがします」と語っています。
ですから、丁稚の仕事は、学校とはまるで無縁のようにみえて、じつはそれ自体が実地の商業学校だったのです。
 すると、蟠桃もまた学校とは無縁だったかというと、そうではありません。むしろ、かれは徳川時代の高等学府ともいえる懐徳堂で学んでいるのです。どうして、そんなことが可能だったのでしょう。そこには升屋主人、二代目平右衛門の考えが強く作用しています。
 升屋文書はいま大阪大学の懐徳堂研究センターに預けられ、解読が進められているところです。ですから、これからさまざまな資料がでてくる可能性がありますが、いまのところ升屋平右衛門の考えは推測の域をでません。おそらく平右衛門はこれから商家の経営を担う者には、学問が必要だと考えていたのでしょう。蟠桃はお気に入りの丁稚でした。そのため、平右衛門は蟠桃を懐徳堂で学ばせることにしたのです。丁稚としては破格の扱いです。
 当時、大坂を代表する豪商は鴻池ですが、香村菊雄によると、鴻池の3代目善右衛門宗利は、享保17年(1732)におよそ次のような家訓を遺しているそうです。長いので、現代語訳でそのポイントだけを列記しておきます。
「身持ちのよくない者は不適格とみなして、一族相談のうえ追放し、他に相続人を立てること」
「親類や縁者に対しても、金銭を融通することを堅く禁じる」
「本家に多くの子がいた場合でも、先祖から譲り渡された全財産は嫡子に相続させること」
「毎月相談日を決めて万事相談せよ。一存で片付けず、意見一致の上解決すること」
「代々出入りのお大名には、相変わらずご用をつとめなくてはならぬが、新規に出入りを求められて、気軽にお貸しすることはならぬ」
「本業以外の商売に手を出すな」
「当主一族は子や孫までもよく読書すべし。良い先生がいらっしゃれば、家の方へお呼びして講義していただき、手代どもも聴講を受けること。学問も業務以外の勤めと心がけよ」
「別家の手代と本家の手代が、商売向きのことで、内々に打ち合わせることを禁じる」
「気づいたことは、相談のうえ、本家当主に上申して実行せよ。お互いにたしなみ、常に家のためになることをよく考えて油断なく勤めること」
「殺生を楽しむことは堅く禁じる」
「当主はじめ、分家、その子孫の者たちも、成人して遊興で素行を乱すことのないよう」
 船場では、鴻池の教訓は、鴻池だけではなく商家全般の教訓として受け止められていたと思われます。特徴的なのは、本業以外の商売に手を出すなとしているところかもしれません。いかにも堅実な姿勢がみてとれます。それと、学問を重視していることですね。実際、鴻池は懐徳堂の運営を支えています。
 升屋平右衛門が鴻池の影響を受けたこともじゅうぶんに考えられます。鴻池に見習って、学問がだいじだと思うようになっていたのでしょう。平右衛門もまた懐徳堂の支援者でした。そこで、子飼いの蟠桃を懐徳堂に通わせることになります。
 平右衛門には嫡男がいませんでした。生まれた男子は早世し、長女はすでに嫁入りし、いま家には次女のなさしか残っていません。このころ、なさは10歳足らずだったのではないでしょうか。平右衛門の頭には、ひょっとしたら蟠桃をいずれ聟にという思いもかすめたかもしれません。その思いが蟠桃の懐徳堂通いにつながったとみるのは、ちょっとうがちすぎでしょうか。
 実際には、4年後、平右衛門は甥っ子を養子に迎えることにしました。このとき養子になった平治郎は15歳。12歳か13歳だったなさと、いずれ結婚することになっています。平治郎が升屋の養子になったとき、蟠桃は17歳です。小説なら、この三者の関係がどんなふうだったか、空想がふくらむところです。
 ところが、平治郎を養子に迎えた直後、平右衛門に嫡男、平蔵が生まれたことが、事態を複雑にします。母親は誰だったのでしょう。ぼくなどは、平蔵はおめかけさんから生まれた子どもではないかと疑ってしまいますが、げすの勘ぐりかもしれません。
 5年後、平右衛門は亡くなり、平治郎が升屋の家督を継ぎます。しかし、しばらくするうちに升屋は倒産の危機に見舞われます。そのとき、24歳の蟠桃は22歳の平治郎を追放し、8歳の平蔵を擁して、升屋を立てなおすことになるのです。背景に何があったのか。このあたりも興味がつきないところですね。いずれにせよ、手代の蟠桃が経営手腕を発揮するのはこのときからです。

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船場という場所 [山片蟠桃補遺]

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[1830年代の大阪。大阪くらしの今昔館で]
 引きつづき、中沢新一の『大阪アースダイバー』を読んでいます。
 ナニワの商人にはミトコンドリア性が強かった。権力に取りこまれても、おいそれとは服従しなかった、と中沢は書いています。ここでいうミトコンドリア性とは、生命力の源といってもよいでしょう。
 商人の世界ではゼニが絶大な威力をもちます。それは合理主義、自由な発想をもたらしますが、いっぽうでは殺伐とした競争社会を生みだします。
 しかし、どうやら船場には、この殺伐さを防ぐ文化のようなものが形成されていた、と中沢はいいます。それを象徴するのが暖簾です。暖簾は古さと信用をあらわします。商品は暖簾に守られることによって、えげつないゼニを稼ぐための手段ではなく、いわば信用に包まれた価値になります。
 大阪人はこってりしているというより、むしろあっさりしているのではないか、と中沢はいいます。それは商品のもつ性格からきています。
 商品は売れたら、それでいわば縁切りになって、一サイクルが完了します。それからまた次のサイクルがはじまるわけで、いつまでもこってりとこだわるのは大阪人らしくないというわけです。にもかかわらず、大阪人はむきだしのゼニよりも信用をだいじにしました。
 信用はおカネをベースにしていますから、じつに合理的です。しかし、それが単に合理的ではなく、信仰の域にまで達していたのが、ナニワ商人の特徴だった、と中沢はいいます。
「ナニワ商人は、この信用の空間を絶対に信仰し、信仰にはずれた行為は、厳に自分に禁じた」
 ナニワでは、土地の取引にあたって「手金」なども取りませんでした。「口約束」で「手打」が完了。取引の多くも「手形」でおこなわれました。
 手形も単に便宜上の発明ではなかったといいます。手形を交わすことは、お互いが信用の約束を交わすことにほかなりませんでした。
「ここには信用の空間への律儀な信仰が、確固として保ち続けられた」
ですから、船場というのは、単なる商業地域ではなく、商業道徳の信仰空間だったわけです。
 船場では恋愛は御法度だったといいます。恋愛を暖簾のなかにもちこまない。たしかに、これも商業道徳のひとつにちがいありません。どろどろの恋愛が暖簾のなかにはいってくると、近松門左衛門の『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』になってしまいますものね。
 しかし、船場に愛情がなかったわけではありません。そこには「クールに洗練された、デリケートな愛情の世界が、静かに形成されていった」と中沢は書いています。それを表現したのが谷崎潤一郎の『細雪』だったというわけでしょう。
 とはいえ、暖簾の外では、ナニワ商人のエネルギーが奔放だったことも忘れてはなりません。そこからは遊び人のぼんぼんの世界が広がっていきます。
 商家は一種の修行の場だったといいます。丁稚は船場道場で商人道の修行に励んだと、中沢は書いています。その丁稚を鍛え上げるのが若い番頭の役割でした。
「船場には、生まれたばかりの時期の、日本の資本主義の思想が、巨大なフォークロアの集積体として、番頭から弟子へと伝えられてきた」というわけです。
 その哲学の根本は「商人がゼニを正しく動かす思想を忘れないでいれば、商人道は社会を豊かに富ませていく、この世でいちばん重要な仕事となる」というものだった、と中沢は書いています。
 蟠桃の思想を育んだのが、船場での丁稚奉公だったことはまちがいないでしょう。それはいったいどういうものだったのでしょう。
 香村菊雄に『船場ものがたり』という名著があります。著者は船場育ちで、この本で、いまはない船場の様子を再現しようとしています。
 これを読めば、時代はかなり下るとはいえ、蟠桃が13歳から修行した船場がどういう場所だったかを、もう少し接近してつかめるのではないでしょうか。そんな期待をもって、この本を読みはじめました。

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中沢新一『大阪アースダイバー』 から──山片蟠桃補遺(2) [山片蟠桃補遺]

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 山片蟠桃の勤める升屋は梶木町、いまの北浜4丁目にありましたが、ここはいうまでもなく、船場に位置していました。
 そこで、たまたまぼくの手元にあった中沢新一の『大阪アースダイバー』をぱらぱらとめくりながら、船場とはどういうところかを考えてみようというわけです。ぼく自身は実家に帰るとき、大阪を通り過ぎるだけで、一度も大阪暮らしをしたことがないので、残念ながら船場といっても、なかなか実感がわかないのが実情です。
 この本のオビには「南方と半島からの『海民』が先住民と出会い、砂州の上に融通無碍な商いの都が誕生・発展する」と書かれています。
 こんなふうに五千年の歴史をわずか2行に圧縮して説明されても、想像力の乏しいぼくなどは何のこっちゃと思ってしまうのですが、とりあえずはるか昔、海からやってきた海民が砂州に築いた商都、それが大阪だと理解しておきましょう。人類学は時間軸がめちゃくちゃ長くて、しかもそれがときどき入り乱れるので、読むほうは混乱してしまいます。
 それはともかく、本書のあとがきでも、中沢は「大阪という存在を全体性において考えるには、やはり中核は船場であるように思います」と書いています。船場があってこそ、キタやミナミが成立するわけですね(もっともそのへそは上町台地の四天王寺というわけですが)。
 第2部「ナニワの生成」を読んでみました。
 そもそも商人とは何かというところから中沢からはじめています。古代人は物にはタマ(魂)が宿っていると考えていました。商人はその物を「無縁」の場に持ちだすことによって、物からタマを切り離します。それによって、物の属人的な関係を破壊し、物をカネで買える商品に変えてしまうのです。
 古代は物にタマが宿っていたといわれると、なるほどそうだったのかなと思ってしまいます。だから、物をもらうということ、物をあげるということ、物を返すということはたいへん重いことだったのですね。
 物からタマが切り離されると、物は人間的な関係を失って軽くなり、一定のルールのもとに(つまりおカネのやりとりで)、自由に交換されるようになります。その仲立ちをしたのが商人ですね。中沢は「商人は、人と物とを『無縁』にする原理にしたがって生きようとした、最初の近代人である」という言い方をしています。
 しかし、商人があらわれたからといって「商品世界」が誕生するわけではありませんね。ぼくにいわせれば、人びとが何もかもおカネに頼って暮らすようになるのが「商品世界」です。人びとはおカネを稼ぐためにはたらかねばなりません。そして、その世界は近代においては、ひとつの世界システムに組みこまれていくのです。
 古代、中世、近代と区別すれば、中世はいわば、古代社会から近代商品世界にいたる過渡期にあたります。江戸時代は近世と呼ばれますが、中世から近代への橋渡し、いわば近代の入り口にあたるわけです。
おっと、本からはずれてしまいましたが、ナニワは水底から生まれてきた、と中沢は書いています。淀川の運んだ土砂が砂州をつくり、そこに海民=商人と芸人(クグツ)がやってきます。
 ナニワが海だったなんて信じられないという向きにたいして、中沢はいかに大阪に島のつく地名が多いかを挙げています。中之島、堂島、福島、網島、都島、田島、北島、出来島、姫島……。みんな島だったんです。
 古代、この地は「ナニワ八十島」と呼ばれていました。ナニワとはナルニワ。すなわち、水底からごぼごぼと生まれてくる島々のことを指していたというのが、中沢説です。
 ナニワは砂州から生まれた都市です。そこは無縁の地でした。無縁とは共同体と共同体の隙間を指しています。
 そこで商人の誕生です。商人は海民から発生した、と中沢はいいます。商品はそもそも流れていくものです。
 それと同時に商品にはもともと神への供え物という意味があって、ナニワ八十島の海民は、朝廷に海産物の贄(にえ)を献上していたというのです。中世にいたり、こうした海民(供御人)が余った海産物を売るようになったのが、市場のはじまりです。そうした市場は無縁の空間である砂州や河原につくられました。このあたりは網野史学が横溢していますね。
「商人は『無縁』の原理から発生した、新種の人間として歴史に登場した」と、中沢は書いています。しかし、贈与や愛情のような人間どうしのつながりではなく、信用と交換という計算づくで動いている商人には、どこか無気味で、合理性の怪物のようなイメージがつきまとっていました。
 商人が集まって見世を出すと、町場が生まれます。そうした商人の同業組合が「座」となります。油座や魚座、藍座、薬座、酒麹座などの座。これは村の共同体とは異なる自由な商人連合の組合組織です。それは地縁や血縁から切り離された、いわば信頼関係にもとづく新たな組織でした。そのような座がはじめてつくられたのが船場という場所だった、と中沢はいいます。
 その船場という場所に、われわれは立っています。そして、ここは神爪村と無縁になった少年、山片蟠桃がほうり込まれた最先端の道場だったともいえます。
 そこがどんな場所だったのか、『大阪アースダイバー』をもう少し読んでみることにしましょう。

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山片蟠桃補遺(1) [山片蟠桃補遺]

 2013年にトランスビューから『蟠桃の夢』という本を出版してから、なんとなくもやもやしたものがわだかまっていました。
 この本はもともとぼくのホームページ(いまは閉鎖)に連載していた「蟠桃」を4分の1程度にダイジェストしたものなのですが、やはりできるなら全体を復元したいという気持ちがあります。
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 そこで単行本とは別に私家版の電子書籍をつくろうかと思い立ったわけですが、そこで問題があることがわかりました。
 オリジナル版は400字にして、約1500枚あります。これをそのまま収録すると、その4分の1はどうしても単行本と重なってしまうのです。それを避けるには、ある程度は書きなおす必要があるのですが、そのエネルギーがはたしてあるかどうか。そこで考えあぐねてしまいました。
 蟠桃の『夢の代』やその他の草稿をもう一度読みなおすのも、ちょっとしんどい気がします。蟠桃にからむ人たち、たとえば中井竹山や履軒、麻田剛立、その他大勢のことももっと研究するとなると、それこそ気が遠くなりそうです。
 しかし、ひまといえば、ひまなので、ぼちぼちやってもいいかなと思いはじめています。もっとも、しろうと仕事なので、はたしてどこまで行けるかはわかりません。ぼく自身、もう蟠桃の亡くなった年に近づいています。
 このあいだ、93歳の父と会うため、3カ月ぶりにいなか(高砂市)に帰りました。その途中、蟠桃ゆかりの大阪を訪れ、高砂では蟠桃の生まれた村、神爪にも寄ってきました。
 まず蟠桃といえば懐徳堂ですね。
 その史跡が大阪の船場、今橋にあります。
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 蟠桃の勤めていた升屋は愛日小学校になり、その愛日小学校も廃校になって、いまは淀屋橋三井ビルになっています。梶木町(いまは北浜)の升屋から尼ヶ崎町(今橋)の懐徳堂までは、歩いて3、4分の距離でした。
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 住友が経営していた銅座の跡。いまは愛珠幼稚園になっています。
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 仙台藩の蔵屋敷は中之島の公会堂あたりにありました。
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 堂島の米会所跡。ここも蟠桃ゆかりの地です。
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 それから、蟠桃の生まれ故郷に。神爪(兵庫県高砂市)です。このあたりもマンションが増えました。
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 加古川からの疎水が流れています。
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 生石神社(石の宝殿)の一の鳥居。蟠桃の生まれた家はこの近くにありました。
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 蟠桃ゆかりの覚正寺。
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 ここには村人によってつくられた蟠桃の墓が移設されています。
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 そして、高砂の十輪寺。蟠桃とは関係なし。ここにはうちの墓があります。母の墓参りです。
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 寺内には遠縁の故加藤三七子さんの歌碑が立てられています。
 春愁の昨日死にたく今日生きたく。
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 さて、山片蟠桃については、ほぼ書き尽くした気もするのですが、これからは遠近法で、もう一度アプローチしてみようかと思うようになりました。それをあわよくば自主制作の電子版にするのが、ぼくの夢です。
 ところで、山片蟠桃ってだれと思われる方には、拙ブログの次のページをどうぞ。6年前、高砂コミュニティセンターでの講演です。

https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2013-11-17


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