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最初の委任統治委員会 [柳田国男の昭和]

《244回》
 柳田国男が国際連盟の委任統治委員として、ジュネーヴで開かれた委員会に出席したのは、第1期から第3期までである。
 実際にはこうなる。

第1期 1921年10月4日〜10月8日(会合は9回)
第2期 1922年8月1日〜8月11日(会合は17回)
第3期 1923年7月20日〜8月10日(会合は33回)

 前に記したように、国男は第1期と第2期のあいだに一度日本に帰国している。そして、第2期と第3期にかけてはヨーロッパにとどまり、第3期の会合が終わってから日本にもどり、その年の終わりに、正式に委任統治委員の職を辞している。
 会合にはもちろん事前の準備が必要だった。語学の習得も欠かせなかった。しかし、残りの時間は、ヨーロッパ各地を旅したり、ジュネーヴ大学で言語学や民族学などの講義に出たりしていた。旅した場所は北欧やドイツ、係争地のアルザス・ロレーヌ、フランス、オランダ、イギリス、そして憧れのイタリアである。そうしたさまざまな見聞や知識が、柳田民俗学をどれほど豊かなものにしたかは計りしれないものがある。
 しかし、ここでは『柳田国男伝』を参考にしながら、おもに統治委員会での活動について、述べることにしよう。
 第1期の委員会でめだつのは、国男が人口動態統計の重要性を訴え、「人口調査統計値の変動は、委任統治地域の発展状態を示すひとつの正確な指標となる」と指摘したことである。その根底には、委任統治が原住民社会の崩壊ないし衰退をもたらすものであってはならないというかれの信念があった。
 委員会の日程が終了した10月10日に、国男は外務省臨時平和条約事務局第一部長の山川端夫(ただお)あてに書簡を送り、「来年以降も継続してこの職にあたりたい」という意欲をみせながら、委員会の概況を報告している。
 委員会の日程調整にかかわる細かい点はさておき、その重要と思われる部分を口語訳で示してみよう。
 国男は日本から報告が出されなかったことに苦情を述べつつ、会議の印象について、こんなふうに述べている。

〈会議の傾向は、何となく今後連盟理事会の監督を「パクト」[国際連盟規約]の若干の制限事項にとどめようとするようにみえたので、小生はつとめてほかの一般的状況、ことに人口増減の点を報告の要目に加えるよう主張し、結局「一般的項目」の部をかなり増やさせました。これは日本を被監督者とだけ見るなら、やっかいかもしれませんが、実はこの会では太平洋のことを知る者はほとんどなく(これは意外なほどです)、いわんや日本の委任領などはもっとも軽視され、もっぱらアフリカの各領にのみ注目が集まっています。そのため、われわれも利害関係の比較的薄いこの方面で、理論的に有色人種の天賦の権利を主張するのは、一種巧妙な間接射撃となり、自分勝手から出発する人種差別撤廃論だと思われないでもすみそうです。そこでほかの欧州委員がいずれもアフリカのことしか知らないのを幸いに、今後もこの方面にできるだけ多く会の研究を向かわせたいと思っております。手紙ではいろいろ詳しく申し上げられないのですが、「パクト」22条には大きな抜け穴があり、B式の機会均等もだいぶあやしいものであります〉

 当時の状況がつかめないと、なかなかわかりにくい。
 国際連盟規約の第22条は委任統治に関する項目で、そのなかではとりわけアフリカの委任統治領における信教の自由、奴隷貿易・武器・火酒類の取引禁止、軍事基地建設・軍事訓練の禁止、通商貿易に関する機会均等などが定められていた。委任統治委員会は、受任国がこうした条項に違反していないかを確認するために、毎年各国からの報告を求めたわけだが、国男はそのなかに人口動向の項目を加えるよう求め、それによって、「出生、結婚(一夫多妻)、死亡、地域外、地域内への移住」についての報告が義務づけられるようにしたのである。
 C式にあたる太平洋地域では、機会均等が明記されていなかった。日本がこれについてあいまいな態度をとったのは、南洋群島に対する独占的支配権を確立したかったからではないかと思われる節がある。そのいっぽうで、オーストラリアなどの委任統治下にあるリン鉱石の島、ナウル島の開発にも早くからからんでいたため、機会均等を否定するわけにもいかなかった。それがC式の領域における機会均等条項への保留という態度となってあらわれたのである。
 国男がB式のアフリカでも機会均等はあやしいものだというのは、日本の態度を棚上げして、欧州諸国に皮肉を飛ばしたとも受け取られる。
 人種平等問題への言及もみられる。日本はヴェルサイユで国際連盟規約が締結されるにあたって、人種平等条項を盛りこむよう求めた。背景には、そのころアメリカで日本人移民排斥運動が起こり、日系人への差別が目にあまるものとなっていたことがある。しかし、けっきょく、この条項は見送られる。
 国連規約をめぐる会議では、アフリカ人がヨーロッパ人と同じだとは思わないという意見が支配的だったことに加え、南部の黒人問題をかかえるアメリカが、こうした条項が採用されれば、国内でも世界中でも人種差別反対運動が巻き起こるのではないかと懸念したためといわれる。
 もちろん、山川あての書簡をみてもあきらかなように、たとえ国連規約に採用されなくても、国男が人種差別撤廃の側に立っていたことはいうまでもない。
 もうひとつこの書簡で注目すべきは、委任統治委員会ではもっぱらアフリカ問題が取りあげられ、太平洋地域はほとんど議題にのぼらなかったとされていることである。
 国男は一時帰国し、内田康哉外相と会見したときも同じことを話している。しかし、ここがいかにも国男らしいのだが、ヨーロッパ人が日本の委任統治領を軽視するのはともかく、日本人はアフリカに対する知識を養わなければ国際的な役割をはたせないと忠告するのである。
 同じ書簡で、国男はさらにこう書いている。

〈小生が唯一心配するのは、委任統治がむしろやっかいな形式的束縛だとの考えから、いろいろな報告と相異なる言い訳的な報告を出して、余計な疑惑や悪感情を招くことであります。いずれの委任領でもはじめはうまくいかないのは当然と認められるのですから、できるだけ欠点を隠さず、受けるべき非難はあまんじて受け、その代わりに南太平洋およびアフリカの各領に対しても、人道に立脚した存分の批判をしたいものと考えております。なぜなら、委員はけっして自国委任領の弁護を許される立場ではないからです。各国を代表して出席する説明者については、英国だけはともかくとして、他の諸国、とりわけ日本については、このために事情に精通した一人をこの地に出席させることができなければ、強弁はなかなか巧妙にはいくまいと思います〉

 国男はていさいをつくろって、万事うまくいっているように見せかける日本の役所の体質に警告を発していた。それがかえって「余計な疑惑や悪感情」を招くことになるのだ。このあたり日本人の体質がいまも変わらないことには、あきれるほかないのだが、国男はともかくも日本側が腹蔵のない正直な報告を作成することを求めていた。
 委任統治委員会には、受任国の代表が出席して、報告を説明することになっていた。そこで、国男は「事情に精通した一人」をジュネーヴに送るよう求めている。イギリスの外交官のように万全でなくても、南洋群島の状況に熟知した者が出席しなければ、国際的な場ではますます失笑を買うだけだろう。
 国男はそのことを懸念した。そして、その懸念が現実のものとなったとき、大いなる失望がかれを襲うのである。
 のちに、国男はある本の自序にこう記している。

〈ジュネーヴの冬は寂しかった。岡の並木の散り尽くすころから、霧とも雲の屑(くず)ともわからぬものが、明けても暮れても空を蔽(おお)い、時としては園の梢(こずえ)を隠した。月夜などは忘れてしまうようであった。木枯らしも時雨(しぐれ)もこの国にはなかったが、4、5日に一度ずつ、ヴィーズというしめった風が湖水を越えて、西北から吹いてきて、その度ごとに冬を深くした。寒さの頂上というころには、ある朝は木花(このはな)が咲く。そのときばかりは霧がすこし薄れて山の真っ白な雪が見え、日影がさして鳥の姿などが目に映じた〉

 これは単にジュネーヴの冬景色の叙述ではない。まさに国男の心象風景だったのである。

ジュネーヴの国際連盟で [柳田国男の昭和]

《第243回》
資料175.jpg
[国男が最初ジュネーヴで滞在したオテル・ボー・セジュール(家族への絵葉書)]

 1921年(大正10)に国際連盟委任統治委員となり、スイスのジュネーヴに赴いたいきさつについて、柳田国男は『故郷七十年』のなかで、こうふり返っている。

〈大正10年、沖縄から内地に帰る途中で、私はジュネーヴに行けという電報を受けた。私は役所の方を怒って辞めているので、おそらくこれは誤報だろうと思っていた。ところが熊本まで帰ってくると、ひどいのがいて「お口[就職口]があっておめでとうございます」などという。県庁の役人がそんなことをいったので「断ってくれたまえ、ぼくはもう政府のためには働かないんだから」と話したりした。長崎へ着くと、もう亡くなったが渡辺勝太郎[正しくは勝三郎]さんという、よく物のわかった人がちょうど県知事をしていて「そんな馬鹿なことがあるものか。君が喧嘩したのは内閣であって、国じゃないだろう。政府のために働かないでも、国のために働かないっていうわけじゃないはずだ」と、じつに簡単に説伏させられてしまった。「それでは仕方がない。じつはぼくは大阪朝日の社長と、ぼくの養父とには事前に相談をしなければならないのだから、二人が同意したならば受けるという条件つきで返事を出すことにしよう」といった。すると渡辺君は私の見ている前で電報を打ってくれた〉

 貴族院書記官長を辞任し、朝日新聞社客員となっていた国男は、沖縄取材を終え、各地で講演をしながら東京に戻ろうとしている途中、熊本で外務省から電報で、国際連盟の委任統治委員就任を打診されたのである。それが突然の要請だったことは『故郷七十年』の回想をみても、はっきりと理解できる。
 旧知の長崎県知事から、政府のためではなくお国のためにと説得されて、国男はあっさりと職務を引き受けている。朝日新聞の社長に相談しなければならなかったのは国男が朝日の客員として給料をもらっていたからであり、養父には家族のことを託さねばならなかった。もちろん、両者とも大賛成だったことはいうまでもない。
 官界を離れてほっとしたところに、大仕事が飛びこんできたのである。国男はさすがに緊張せざるをえない。しかし、もともと3年間は旅行させてもらうというのが朝日との約束だったし、そのなかには南洋とヨーロッパも含まれていたから、ジュネーヴでの委任統治委員というのは、その両方をカバーできる仕事だったといえなくもない。とはいえ、気楽な旅行とはちがう外交官の仕事なのだから、国男がのちに「気が張りつめていっぱいに」なったと述懐しているのは、当時の正直な気持ちだった。

 国際連盟は紆余曲折をへて、1919年に発足し、翌年に第1回総会が本部のあるジュネーヴで開かれていた。第一次世界大戦の反省を踏まえて、国際間の平和維持を図ることが目的である。
 その組織構成は、現在の国際連合とさほど変わらない。加盟国(原加盟国は42)の参加する総会、常任理事国を中心とした理事会、事務局があり、いくつかの委員会からなる特別機関がもうけられている。
 アメリカは熱心な提唱者でありながら、国内の猛烈な反対によって参加を断念している。敗戦国のドイツ、革命のさなかにあるソ連は、当初、参加を認められなかった。
 日本は発足当初から、フランス、イギリス、イタリアとともに、常任理事国のひとつとなっていた。そして日本出身の事務局次長に就任したのが、新渡戸稲造だった。
 国連委任統治委員会の委員に国男を推薦したのは、新渡戸だといってまちがいない。この委員会は当初9人の委員によって構成され、委員には政府代表ではない民間人資格が求められていた。そのため、新渡戸は郷土研究会の仲間である国男に白羽の矢を立てたのである。
 外務省というより、新渡戸の推挙に発奮した国男は、1921年から23年までの足掛け3年間、委任統治委員の役職を引き受けることになる。その間、半年ほど日本に一時帰国するものの、国男は約1年9カ月ジュネーヴに拠点をおきながら、ヨーロッパ各地を回ることになった。
 国男にとって、この3年間はけっして短い期間ではない。連盟の仕事はわりに楽だったさかもしれないが、それでも研究したり調査したりしなければならない課題は多かったにちがいない。
 国男自身はのちにこう話している。

〈連盟の仕事は割に楽で、春から秋にかけて一通り会合や通常事務などが忙しかったが、その後は翌年にかけて冬休みのようなもので、関係者はみな一応帰国することになっていた。私も最初の年は用事をすませてから東京に帰り、翌春また出かけていった。
 大正12年9月1日の関東大震災のことはロンドンで聞いた。すぐに帰ろうとしたが、なかなか船が得られない。やっと10月末か11月初めに、小さな船をつかまえて、押しせまった暮れに横浜に帰ってきた。ひどく破壊せられている状態をみて、こんなことはしておられないという気持ちになり、早速こちらから運動をおこして、本筋の学問のためにたつという決心をした。そして13年の春に2度の公開講演を試みたのである〉

 これを読むと、国男は委任統治委員を辞任することにして帰国する途中、ロンドンに滞在しているときに関東大震災の報に接し、取るものもとりあえず日本に戻り、その後本筋の学問に専念すると決意したとなっている。このことは、かれが自分は50歳になってから、学問をこころざしたと述べているのと符合している。
「2度の公開講演」が何を指すか、よくわからない。しかし、このころから国男は慶応義塾大学で毎週、民間伝承論などを教えたり、各地で精力的に講演会を開いたりしているから、民俗学を専攻する思いは、たしかなものとなっていたのである。
 しかし、それではジュネーヴ時代は、単なる横道、言い換えれば無駄な時間にすぎなかったのだろうか。
 おそらくそうではない。それはひとつの転形期だったといえる。ジュネーヴ時代は、いわばそれまで無雑作にこねまわされていた題材が、民俗学の塑型へと熟成されていく期間だったのである。
 ジュネーヴで、国男が挫折と孤独を味わっていたことは、『故郷七十年』での次のような述懐をみても容易に推察できる。

〈ただ言葉が不自由な点が困った。ときどきは独り言でもいいから、思い切り日本語でしゃべってみたいというきがしたこともあった。同じような悩みをもつ人たちが始めていたエスペラントの運動に加わってみようかと思ったことがあった。国際連盟の通訳室にプリヴァという有名なエスペランチストがいて、この人につつかれて私から新渡戸さんに話し、連盟でエスペラントを用語に採用する決議案を持ち出したところ、大変な反対にあった。……
 こんなこともジュネーヴ時代の一つの思い出となったが、この言葉の問題では実際に考えさせられることが多かった。われわれ日本人が機会があっても、どうも避けるようにして、しゃべる稽古をしたがらない傾きがある。連盟で私は日本の不平等の実例をみせつけられたが、この言葉さえ心を打ちあけて話すことができるようになっていれば、かなりの難問題が解決せられるのにと痛感させられたことであった〉

 国際連盟の公用語は英語とフランス語である。国男は、英語についてはフレイザーの『金枝篇』を全巻読破したのをみても、読むことはかなり自由にできたと思われる。フランス語の習得にも努力した。
 ジュネーヴに到着して早々、遠野の佐々木喜善にあてた葉書にも、こう書いている。

〈こんな遠いところへ来てしまいました。しかしジュネブは絵よりももっとうつくしく宿屋は人の来ぬ公園です。小説にあるような露国[ロシア]の零落した婦人にフランス語を学んでいます。アナトルフランス[アナトール・フランス]の本をよんでもらっている。遠野の諸友によろしく。お返事を乞う〉

 翌1922年(大正11)の「瑞西(スイス)日記」にも、こんな箇所がでてくる。

7月19日 水よう
アナトル・フランスの[小説]「白い石の上に」[『白き石の上にて』]読み終わる。英訳をあわせて、これで4度目。……
7月22日 土よう
アナトル・フランスのラヴィーアンテルール[これはおそらくラヴィー・アンフルール(『花咲く日』)の誤植]読み終わる。
10月27日 金よう
エスペラントの会を家にて開く。ジョルジア[グルジア]の代表という人も来る。自分は沖縄のことを話す。
11月6日 月よう
きょうよりエスペラントの練習を始める。マダム・ウマンスキーという老女来る。オデッサからの亡命客。
12月16日 土よう
ザメンホフの誕辰記念会に出席。いろいろの人とあう。エスペラントで話を始めたが、うまく行かず。

 国男はフランス語、エスペラントに加え、イタリア語の勉強もはじめている。しかし、どんなに勉強しても、日常のコミュニュケーションにも齟齬をきたした。まして委任統治委員会の会議となると、その内容に追いつくのもたいへんだったと思われる。

 ところで、国男が日夜、苦労を強いられていた国際連盟の委任統治委員会とは、どのような組織だったのだろう。
 第一次世界大戦の終結後、敗戦国となったドイツ、オスマントルコの旧植民地は、戦勝国の植民地とするのではなく、国際連盟監督下の委任統治領とすることがきまった。その結果、フランスはシリア、レバノン、東トーゴランド、東カメルーン、イギリスはパレスチナ、トランスヨルダン、イラク、西トーゴランド、西カメルーン、タンガニーカ、ベルギーはルアンダ・ウルンジ、南アフリカは南西アフリカ、オーストラリアはニューギニアやナウルなど(イギリス、ニュージーランドと共同統治)、ニュージーランドは西サモア、そして日本は赤道以北の南洋群島(グアム島を除く)の統治を委任されることになった。
 委任統治領は、その自治の進展度合いに応じて、ABCの3つの方式に分けられていた。A式が中東の旧オスマントルコ領、B式が中央アフリカの旧ドイツ領、C式が南西アフリカと太平洋の旧ドイツ領である。
 国際連盟の委任統治委員会は、こうした委任統治領全体を監督し、各受任国は委員会から出される50ほどの質問事項に答える義務を負っていた。
 こうした委任統治の仕組みについて、篠原初枝は『国際連盟』で、こう述べている。

〈国際連盟が委任統治の名のもとに遂行した政策は、優れた文明を持つ国がそうでない国を導き援助するという「文明の神聖なる付託」という考え方を土台にしていた。このような考え方は、帝国主義政策を推進する国々にはすでに見られていたが、これを国際組織において集団で実施するという意味では新しかった。具体的には、国際連盟が各受任国にその地域の統治を委託するが、国際連盟は委任統治委員会を設立し、その統治を監督する仕組みとなっていた〉

 委任統治の思想は「啓蒙的な帝国主義」だったというのが、現在の歴史的評価のようである。その総元締めとなる委任統治委員会で、国男はどういう仕事をしていたのだろうか。以下、それに触れてみたい。

柳田国男のジュネーブ国連報告(3)[最終回] [柳田国男の昭和]

   Ⅴ

 西サモア諸島では、地域住民代表を任じている相当数の原住民が、少し前に自治運動をはじめました。ごくわずかですが、その動向についての情報があります。
 新時代に属するいくつかの政治用語が、こうした遠い島々まで行き渡っているのは、そんなに悪い徴候ではありません。こうした用語はいつでも無頓着に用いられていますが、それでも原住民の希望する方向には沿っているのです。
 とはいえ、原住民に与えられた過度の政治的自由が、どのような結果をもたらすのかについては、考えないわけにはいきません。現段階においては、無知な住民大衆が、ごく少数の開明的な原住民によって導かれ、扇動されているからであります。
 そこから発生してくるのは、無辜の人びとを犠牲にする圧制と欺瞞、それに従来にもいや増しての貧困であります。懸命な教育によって、かれらが人格を改善し、集団的責任感を自覚するようにならないかぎり、行政府の活動は、ただ何となくもやもやした不満によって妨げられることになるでしょう。
 かれらは、文明国の国民が、政治的理想を達成するために経なければならなかった苦痛に満ちた経験をすべて活用することはできないかもしれません。それでも何らかの準備訓練は必要なのです。どのように、またどんな順番で、原住民すべての個々の人格を、新たな体制が必要とするものに改善していけばよいのでしょうか。これは、今後もっとも真剣に考慮されなければならない課題のひとつとなるでしょう。
 どの受任国政府も原住民の教育問題をおろそかにしているわけではありません。しかし、どういう制度を採用するかについてはまちまちで、現在の状況でどれが最適かを決めるのは不可能です。いくつかの地域では、宣教師団体が原住民教育の大半を引き受けており、こうした場合はいうまでもなく本来の目的以外に特殊の目的があります。したがって、はたして行政府がこの制度をそのまま受け入れて、監督と補助金の給付だけをおこなっていればいいかどうかとなると、疑問がないわけではありません。
 こうした問題は公教育制度のもとでも発生するかもしれません。そこで、電気や機械などの学科をつくったり、初等の医学訓練学校をもうけたりするのは、行政の仕事を補助する補佐役を相当数供給するためであります。こうした科目の知識が原住民にとっても役立つことがあるのはまちがいありません。しかし、だからといってそれが教育の根本をなすとはいえません。かれらを訓練するには、もっと一般的な重要性、緊急性をもつ科目がほかにも多くあるのです。
 さらに望ましいのは、簡単に教員を養成する制度をつくることだと思われます。村の学校に原住民の先生を供給するというフランスの計画は、その教師が自分の種族だけを相手にするなら、きわめてうまくいくでしょう。われわれは部族の生活から教育階層が分離することで、原住民教育の成果が大幅に損なわれるのではないかと心配するのですが、こうしたきちんとした配分がなされれば、それも払拭されるでしょう。
 観察によれば、植民地の状態をより複雑にしてきたのは、教育を受けた青年層の存在でした。かれらは自分たちの同胞を軽蔑し、ヨーロッパ人に感服しながら、そのどちらに同化するわけでもなく、その中間でひとつの階層をつくろうとしがちです。こうした不具合は避けがたいものがあって、それは外国人が教育を握っているかぎり改善されることがありません。したがって、未開人の発展を心から願うのであれば、どの国もこうした傾向を自制するよう努めねばなりません。そのうえで、原住民社会全体に教育の影響が行き渡るように力を尽くさねばならないのです。
 それゆえに選択すべき教育計画は、原住民の社会水準の上昇をめざすものであり、しかも全体的に共同体のためになるものでなくてはなりません。その関連で、好ましい影響をあたえているものを挙げるなら、農業その他の基本的生産部門でなされている訓練や、地元の生産物を活用した手工業部門での訓練、さらにはまだ初歩的とはいえ日常生活に応用される医療面での訓練などがあります。
 この計画はすでに成果を挙げつつあります。昔のやり方は、少数の才能あふれる特別な青年を慫慂(しょうよう)して、最先端の教育を施すというものですが、それに比べると、こちらのほうがずっとすぐれているように思えます。最先端教育では、原住民の発展の可能性をかいま見ることができるかもしれませんが、これまでの経験によると、こうした教育方法はしばしば社会構造に亀裂を生じさせることがわかります。
 この点に関連して、いくつかの国がおこなっている実験は、われわれのような研究者にとっては大きな価値をもっています。とりわけ、こうした実験は、もう一度やろうとしても、まず無理なのですから。したがって、強く望まれるのは、ここで得られた成果を綿密に記録することです。そして、それをやりはじめたのが、西アフリカ地域にあるふたつの仏領[東トーゴランドと東カメルーン(現在のトーゴとカメルーン)]の行政府なのでした。

   Ⅵ

 初等教育の領域においてすら、問題は想像以上にむずかしいものがあります。さまざまな知識の分野をどうやって授けたらいいかさえわからないのです。さらに重要なことは、歴史や地理を教えるときに、どのような原則を採用すればいいかがわからないことです。
 昔のやり方は、原住民の子どもに、愛国的な歌や歴代皇帝の名前を覚えさせるといった、あまりにも国家主義的で、ふたつの人種の同化だけをねらったものでした。さすがにいまではこうしたやり方は取りやめられる傾向にあります。
 これから興味深く観察したいと思うのは、きちんと系統だった方法で歴史や地理を教えたら、原住民の考え方がどのように変わるかということであります。というのも、かれらが個々の存在や生きる意味を知るようになるには、アフリカや太平洋の広大な地域のなかで、さらには長い人類史のなかで、自分たちがどのような位置を占めているかを理解しなくてはならないからであります。
 読み書き計算というもっとも基本的な教育についても、なお解決しなければならない非常に重要な問題があります。それは読んだり書いたりするときに、どのような言語を用いるかということです。言語の問題は、ナウルと西サモアの島々を除けば、うまく解決されたところはありません。
 ナウルと西サモアがうまくいったのは、人口が少なかったのもさることながら、初期の宣教師たちの貢献が何と言っても大きかったのです。かれらは原住民のことばを熱心に研究して、ラテン文字(ローマ字)で原住民に自分たちの母語を読み書きすることを教えたのです。宣教師たちはまた原住民に現地語に訳した聖書をあたえました。そして大変な仕事をへて、かれらはさまざまな方言にもとづいて標準語をつくることに成功したのです。
 しかし、ほかの地域では、ことはさほど順調ではありませんでした。そこでは言語の問題が、次々とやっかいな事態を引き起こしたのです。たとえばタンガニーカでは、スワヒリ語が公用語として認められており、原住民が英語よりスワヒリ語を好むという利点があります。ところが、スワヒリ語を原始林に住む部族に広げようとすると、それはとてつもなく時間のかかる仕事となり、行政に大きな負担をかけるのは明らかです。
 ベルギーの委任統治下にある隣の地域[ルアンダ・ウルンジ]では、同じ人種が住んでいるにもかかわらず、スワヒリ語はほとんどと言っていいくらい使われていません。西アフリカにおけるドイツの実験は、エウェ語を共通言語にしようというものでしたが、それは失敗に終わりました。
 これらの言語のほかには、バンツー語、ナマ語、その他があるにせよ、いずれもその影響力はかぎられており、住民の大多数にどのことばも通じない地域もあります。ですから、こうした言語を、東インド諸島[現インドネシア]のマレー語[ムラユ語、現インドネシア語のもと]のように広汎に普及させようとしたら、原住民の意向とは相入れない、膨大な努力を傾注しなければならないでしょう。
 こうした状況が、原住民を教育するには欧州の言語をもってするしかないという結論を押しつけました。その言語は、語彙的にも文法的にも現地のことばとまったくことなるものです。そうしたことから、フランスの委任統治下にある地域では、公立、私立を問わず学校ではフランス語だけを用いるよう強制されています。行政府がそのように決定した理由は、知識を授けようと思っても、フランス語でしか与えられないというものです。しかし、古くからの植民地でなされてきた試みをみても、新しい言語を隅々まで行き渡らせるのがけっして容易ではないことをうかがわせます。
 さらに、行政府の努力に応じようとしない者が少しでもいるかぎり、こうした政治的理念を実現しようとしても、その障害が引き続き残ることになるわけです。この教育方法の効果がはっきり現れるまでは、原住民にふたつの相いれない階層が残ることは避けられません。それは文明人と接触している階層と、接触していない階層であります。
 こうした状況は当局にさらなる困難をもたらします。欧州の言語でなく、原住民のふたつの言語を共通語として採用したとしても、状況の困難さは変わらないでしょう。
 とはいえ、原住民の言語を採用したほうが賢明だと思われる、少なくとも3つの事実があります。(1)語彙や文法構造に類似性があることから、その言語の習得がずっと容易になされること。(2)少なくとも原住民のなかには、労をいとわずそれを学ぼうとする者がいること。(3)この計画からは新しい特権階級が出てこないこと。いずれにせよ、だいじなことは、行政府と原住民、部族間の意思疎通をはかり、簡素化する最善の方法をみいだすことであります。
 行政当局が原住民に欧州の言語を押しつけるか、それとも公用語として、ひとつ、ないしいくつかの現地語を認めるか、そのどちらにしても、受任国にとっては通訳の問題が常に重要性を帯びてくるのはまちがいありません。
政府から派遣された高級役人のなかに、耳慣れないさまざまな原住民のことばを学ぶために時間を割く者がいるとは、とても思えません。そこで、通訳の仕事が必要になってくるのです。かれらは原住民のなかから教育を受けて選ばれるのですが、これ以外に自分の能力に合った仕事をみつけるのはむずかしいと思っています。
 そこで、われわれは、行政官と被統治住民との意思疎通手段が、唯一、特別の地位にある階層によって独占されることが、将来どのような結果をもたらすかを考えておかねばなりません。一般的にいって、行政府の意向を人びとに伝達する通訳の正確さは信用できます。しかし、当局が原住民の要求や不平を聞きたいと思う場合は、こうした伝達手段はどうも不適当なようです。
 上司へのおそれ、同胞への慮(おもんぱか)りなど、ささいな心理的動機から、ある種のずるさやごまかしが出てきて、真実を隠し、役人をまどわせてしまうのです。こうしたトラブルは、未開社会ではしょっちゅうのことで、通訳者がいくら優秀であっても起こることがあります。まして通訳者の性格に問題がある場合は、いんちきやでたらめが横行するのはまちがいありません。
 これまでの経験によると、通訳者の監督はむずかしい場合が多いようです。そのことを考えると、たとえ行政府が、欧州の言語を一般に通用させようとしていても、役人用に地元ことばの小冊子をつくっておいたほうがいいでしょう。そうすれば、現地語を学ぶとっかかりとなるでしょうし、さらにそこから原住民の生活や考え方を知る第一歩につながるでしょう。
 原住民社会の暮らしぶりがわからなければ、かれらの福祉と発展のために、どんなにすばらしい演説をしても、それは空虚なことば以外の何物でもありません。なぜなら、人間性が普遍的に同一であることから導きだされた推論だけで、原住民の生活を改善できるとはとても思えないからです。
 宣教師の善意の活動や、科学者のたゆまない仕事が、これからも未開人に対するわれわれの理解を広げていくことはまちがいないでしょう。しかし、とりわけわれわれが期待するのは、原住民と接触しつづけている受任国政府が、きちんとした役に立つ調査を実施することであります。

   Ⅶ

 委任統治の初期に、各行政府が直面する仕事は数多くあります。そのなかでも、もっともたいへんなものは、遠く離れた場所で開かれる国際連盟総会に、最新の状況について詳細な情報を提供することであり、さらには総会を通じて、国際連盟の全加盟国にその詳細を伝えることであります。しかし、あと何年もすれば、こうした年次報告書を作成する仕事もさほど苦にならなくなることでしょう。
 地理や天候、天然資源の分布、諸部族の一般的構成と特徴、これまでの統治方針などについては、正確な報告に盛りこまれるでしょうから、再度編集する必要はなくなるでしょう。それ以上に望まれることは、国際連盟事務局が、こうした基本的で不変のデータを一般的な概要としてまとめ、それをいれた小冊子の作成に取りかかることです。この方法が採用がされれば、全行政府は必要な内容だけ報告すればよく、たとえば毎年の数値の変化や、条例の変更、追加、禁止、さらには毎年討議される議題の関連事項だけを足せばよいのです。受理した報告書が簡潔に要約されたものになれば、それは当委任統治委員会にとってもありがたいことであります。
 同じ理由から、総会で承認されたアンケートの質問事項も、新しい報告に盛り込まれた情報にしたがって変更したほうがよいでしょう。奴隷制の問題や、アルコール飲料の禁止、陸海軍のさまざまな軍事項目は、国際連盟規約や委任統治条項にとって、たいへん重要な部分を占めています。しかし、それに対して各国政府がはっきりと否定する回答を示すと、すぐに削除されるべきです。各国政府に同じ弁明をくり返させるのは無用なことです。
 いっぽう、たとえまだ重要性が判然としないとしても、何かの問題が共同調査のテーマとされたのなら、それはとうぜん質問事項に含めるべきです。原住民の福祉といった漠然としていて広汎な問題は、さまざまな新しい観点からの考察を必要とします。
 これから望みたいのは、この委任統治委員会が、質問事項を変える必要がないか、時に応じて関連各国政府と協議をもつことであります。それによって民衆は、文明国がおこなっている念入りな調査の結果を知ることができ、さらには国際連盟の実際的価値を確信するにちがいありません。
 私は手にはいった資料をもとに、以下の点を述べてみたいと思います。これは同僚諸氏にぜひ検討していただきたいことです。

1. 部族の集団ごとの人口、あるいはさまざまな部族が到達した発展段階に応じた人口を集計すること。
2. 領域内外への移住、および領域内での人口の動きについて一般的傾向を探ること。
3. 地域別、原住民集団別に、どの程度、土地の開発が進んでいるかということ。
4. 慣習法を維持するためにどのような原則が立てられているかということ。
5. 原住民の一般教育について、どのような計画がつくられているかということ。
6. 公用語ならびに通訳について、どのような規定が設けられているかということ。
7. 民族誌および言語学の研究に関連して、どのような段取りがとられているかということ。

[以上で翻訳は終わりです]

柳田国男のジュネーブ国連報告(2) [柳田国男の昭和]

[翻訳のつづきです。次回完結]



 受任国政府が努力を傾けていることは、じゅうぶん承知しておりますが、それでもわれわれは、天然資源の配分が、原住民の将来の発展に向けて適切におこなわれているかどうかに、いささかの懸念を表明せざるをえません。過半の原住民は知的に劣っているために、いまだにずっと先の将来を見通すことができず、そのためあらゆる面での行政的支援を必要としております。
 遅かれ早かれ、かれらの発展は、国際連盟規約に後押しされて、達成されるでしょうが、そのさい最初に出てくるのが、じゅうぶんな広さの土地をもちたいという意思表明でありましょう。この意思表明がどういうかたちで出てくるかをはっきりと予測することはできません。現段階でとることのできる唯一の安全な計画は、土地にできるだけ広い「保留」区域をもうけることであります。そうしておけば、どんな事態になっても、将来の要求に備えることができます。
 いっぽう新たな文明の影響が必至だとすれば、原住民はみずからの発展のために、いわゆる「文化的接触」を試みなければなりません。文明国からやってきた指導者や顧問、あるいは雇い主が、まがりなりにも原住民のあいだに定住するのを認めるとすれば、その条件はただひとつです。それは土地を租借するにさいして、かなりの寛容が示されねばならないということです。委任統治領において、保留と租借という相矛盾する要求を調和させるのは、じつにむずかしいことです。
領土が広大なわりに人口がきわめて少ない南西アフリカは例外であります。そして南アフリカ連邦はこうした好条件を利用して、委任統治の義務を遂行しております。ここでは広い地域にわたって「原住民保留地」を設けることができており、それによって将来起こりうる要求に備え、従順な原住民のために広汎な活動範囲を確保しているわけです。
 住民一人あたり、利用可能な土地が50ヘクタール以上あるわけですから、水不足はともかく、原住民はほかに何も心配する理由はないわけです。その結果、原住民はまったく自由に、自然の産物に頼る遊牧生活をつづけることも、種族発展のために定住して農地を耕すこともできるのです。いずれにせよ、ここにはなお広大な空白地帯が残されており、入植者がやってきても、国際交易産品を増産する手段には事欠かず、そうした交易を通じて、原住民も世界の自由な市民に匹敵する幸福な生活を築いていく可能性もあります。
 しかし、ほかの多くの地域では、状況は同じではありません。プランテーションが原住民に望ましい状況を提供し、同時に出資者に利益をもたらすためには、ときに原住民の将来の利益を侵害せざるをえない場合もあるかもしれません。少なくとも、空白地帯や無主の土地は原住民の利益にかかわるとはいえ、それを侵害するのははやむをえないこともあるでしょう。
 さらに、委任統治領のなかには、土地使用権問題をかかえる地域もあります。かつてのさまざまな状況に由来するとはいえ、これによって行政官の活動範囲は制約を受けております。期待したいのは、土地使用権の濫用を極力抑えることです。
 当面、この問題でだいじなのは、土地制度の法律面の理屈ではなく、それが実際にどういう恩恵をもたらしているかです。原住民に理屈を理解させようとしても、それは無理というものでしょう。原理の適切な適用をたしかめるのは、原理自体の公平性を規定するのと同じくらいだいじなことです。望むべくは、委任統治領の行政官がその能力と善意を発揮して、住民の将来の福祉に配慮し、「保留地」支給に向けての必要な手続きを踏むことであります。
 もうひとつ、「保留地」に関連して考慮しなくてはならない問題があります。地域のなかには、原住民の村がくっつくように立っているところがありますが、そういうところでは逆に空いた土地がいっぱいあります。こうした状況のもとでは、保留地がじゅうぶんではないこともあって、地域をうまく配分しようとしても、うまくいきません。その結果、たちまち生き残りをかけた戦いがはじまるのですが、こうしたことを防止する手段はあるはずです。そして、あまり時間をかけないでできるのなら、そうした手段を採用してしかるべきでしょう。
 たとえば、そうした手段のひとつとして、ある部族の全体もしくは一部をある場所から別の場所に移して、必要な余裕を与えるようにすることもできるでしょう。仏領トーゴランドの当局は、1922年10月28日の行政命令で、このような措置を実施しました。これがおこなえたのは、原始的な人々が土地にほとんど執着しないという特質があるからで、文明国の農民なら、そうはいかなかったでしょう。
 こうした変革が効果を発揮するのは、委任統治体制が始まった初期の段階だけです。というのも、のちに地方行政官や民間の首長に行政がまかされるようになると、そもそも急進的で遠大な計画に踏み込むことが、あまりに冒険的となってしまうからであります。
 諸部族間の知的水準にちがいがあることは、とりわけかれらの到達した所有権の考え方にさまざまな段階があることをみればわかります。経済生活の安全性は、どこまではっきり規定された土地法があるかということと釣り合っています。したがって、まずもって個人、家族の所有権を認め、それを保護し、そのあとで公共的な土地利用制度を整備していくのがよいのではないでしょうか。
 これには対立する別の問題もあって、将来、根本的に調査することが必要になりますが、それは部族全体に属すると考えられている土地の問題です。「村落共同体」という歴史的問題は、世界のすべての原始人に共通していますが、そのかたちには多くのちがいがあります。このテーマについて、さらに詳細に比較研究する価値は大いにあります。とはいえ、これは植民地行政などに携わる実務家には適していない仕事でしょう。所有権法が細部にわたって徐々にかたちづくられるまでは、実務家は、こうした共有地をどうやって管理すればいいかに関心を集中すべきです。
 現行の管理方式にもまた多岐にわたるちがいがあります。あるケースでは、首長が土地処分の絶対的権限をもっています。しかし、別のケースでは、下位の首長、ないし家長にもその権限が分かたれ、そのため私有財産制に近くなっています。さらに第3のケースでは、部族長は単に共有地の一般的利益を代表するだけで、自分自身で使用するために別の土地を保有しています。
 しかし、いずれの場合も、「保留地」の設定が実施される前にだいじなことは、共有地に対する首長の権限をともかくも明確にすることであり、同時にその政治的権力を制限することです。私が受任国政府に勧めたいと思うのは、従来の部族組織を維持し、ある程度まで首長の権力を認めるという原則を採用することです。このような立場をとれば、部族の首長や、それ以外の名士にそれなりの所有権を認めることは筋が通っています。
 このようにしても、なかなかよい解決策が見つからない場合は、部族のほかのメンバーにも同じ限度内で、経済的自由や生産の保証を認める以外にないでしょう。こうした状況に合わせる方法はかならずあるはずです。われわれがここにあえて期待したいのは、行政官の努力によって、こうした措置が原住民の利益になり、好ましい結果を生むことです。なかにはこうした結果が短期間で得られた、環境に恵まれた地域もありますが、そうした事態は、ほかの委任統治領にとってだけでなく、全世界の植民地にとっても、大いに役立つことでしょう。こうしたことから、私が希望するのは、このテーマを取り扱った報告書をできうるかぎり詳細に作成し、それを関係者が閲覧できるようにすることであります。



 いま何よりも必要なのは、よく練り上げられた裁判制度であります。これによって、すべての原住民は、委任統治なるものが新たな画期的な体制だということを身にしみて理解できるようになります。とはいっても、結論を言うと、法廷に持ちだされる訴訟件数をもって、原住民の幸福度の絶対的指標とみなすのは早合点というものでしょう。少なくとも一定の期間、善良な原住民がこうむった被害や犯罪がすべて裁判にかけられるとは、とても考えられません。それは中央に近い場所であっても、親切な手助けが得られるところでも同じです。
 こうした罪悪は、ほかの多くの手段によって矯正されるはずですが、原住民はいまだにそれを異人種から提供される矯正方法よりずっとましだと考えています。そこで、もめごとが発生すると、多くの場合、それがいつまでもつづき、最後は自分たちの部族や家族で解決するという事態に立ちいたるのです。したがって、統計上、裁判沙汰がそれほど起こっていない地方もあれば、別の地方では、人びとの訴訟好きな性格が手伝ってか、じつに多くの訴訟がみられるということにもなりかねないのです。
 とはいえ、裁判沙汰、とりわけ刑事事件の数が増えているからといって、それが社会的トラブルが増加している証拠とはかぎりません。受任国政府は欧州の世論に後押しされて、人道的理念と合わない原住民の習慣は廃止さるべきだとの立場を明確にしています。しかし、だからといって文明人らしからぬものはすべて禁止するというほど確固たる信念をもっているとも思えません。そこで、平均で妻がふたりという一夫多妻制は、悪習だがそのうち是正されるだろうと大目にみられるいっぽうで、食人儀礼はどんな場合も非難されることになります。キリスト教宣教師と接触する機会のなかった未開人にとっては、ほかの慣習はいいのに、この慣習を実行すれば犯罪とみなされることは、まったく理解に苦しむところでしょう。にもかかわらず、原住民はほかにもこれは犯罪だと通告されて、大いにおどろくことになってしまうのです。
 さらにいえば、新しくできた裁判所が、伝統的な規範が破られ、それが原住民の社会集団にとっては大問題であるときに、何も判断せず、処罰を下さないことは許されないでしょう。原住民の法のうち、進歩を妨げないものにかぎっては、有効として存続を認めるべきです。まったく起源を異にするふたつの禁忌制度が、長期にわたって並存することになります。欧州の常識と原住民の伝統とのあいだにじつに奇妙な妥協が成立しつつあるわけで、その必然的な結果は、犯罪件数の増加をもたらすことになるでしょう。
 さほど重大ではない犯罪の場合は、さまざまな受任国政府が現在採用しているふたつの裁判方法を比較してみるのもよいでしょう。それは次のようなものです。(1)原住民法廷の場合。この場合は、裁判員席が一定数、原住民に与えられる。(2)部族の首長による裁判。
 第一の方法によると、原住民裁判員の意見によく耳を傾ければ、ひとつの犯罪を二重に処罰することを回避できるかもしれません。第二の方法によると、注意深く監督を怠らなければ、裁判が原住民の慣習により適合したものとなりうるでしょう。第二の方法が第一の方法より寛大とみるのがただしいとはかぎりません。要は、どちらの方法が普通人(common people=常民)の福祉にとって、より効果的かということであります。
 新裁判制度が目下期待しうる唯一の満足すべき成果は何かというと、それは未開地域の民衆に共通する災厄から原住民を救出するということです。その災厄は、横暴な首長が恣意的な裁判権をもつことに由来しています。しかし、長い時間をかけなければ、この制度が果たそうとしている仕事の本質部分は達成できないでしょう。いずれにせよ、それが達成されるには、その前に原住民が善悪を見分け、行政官の考え方を理解できるようになっていなければならないのです。その時がくるまで、われわれは裁判制度改革のもたらす二次的な効果、すなわちむしろ教育面での効果をもってよしとせざるをえません。
 裁判制度改革のもうひとつの阻害要因は、昔ながらの部族裁判制度にある種の役得がともなっているということであります。こうした問題は、行政当局が首長の権力を維持するとう原則を順守するかぎり、けっして取り除くことができません。とはいえ、部族の慣習にからむ事件については、首長がしばしば最良の裁判官であることは認めないわけにはいきません。しかも、われわれはすでに気づいているのですが、いまのところ地域内の安寧を保つためには、原住民の生活を成り立たせている、昔ながらの慣習を相当数残しておかなければならないのです。その線引きをどうするかは大きな問題です。この点に関して、われわれが受け取った文書にはじゅうぶんな情報が含まれていません。
 首長のもとでの長期にわたる専制組織が、しばしば委任統治行政を妨げてきたことは、疑うべくもありません。われわれは、この旧体制が廃絶されないかぎり、普通の原住民の幸福は保証されないと考えがちです。この見方からすれば、ほとんどの受任国政府が採用している現在の「原住民官吏」制度は、姑息だとの非難を免れないでしょう。しかし、実際には、受任国政府がみせている知恵と手腕は、賞賛に値するものです。
 現在の制度のもとでは、大なり小なり多くの首長がいて、村の行政にかかわる些細なできごとに責任を負っています。かれらは目下の者からいまだに受けている昔ながらの尊敬の念を利用して、堂々たる素振りで、こうした義務をはたしているのです。かれらは自分たちのわずかな権限さえ上位集団に移っていることにほとんど気づかないまま、受任国政府の仕事を手助けすることになり、しかも、名目だけの称号とわずかな給費で満足するのです。
 こうしたやり方は、権力からの転落の苦しみを隠蔽しながら、新時代への転換を図るのに適しているといえるのではないでしょうか。とはいえ、それは現状への適応というにすぎず、はっきりとした制度ではありませんから、その価値を過大評価するわけにはいきません。またそれが人びとの一般的利益を保護する、うまいやり方だと考えるのもよくないでしょう。
 民衆議会制度といっても、それは純粋に諮問機関のようなもので、原住民の名士が一定数招かれるかたちでしょうが、それでもこうした制度は、自由と平等の原則を適応した最初の徴候として受け止められるかもしれません。しかし現時点で、こうした組織の仕事に多くの成果を期待できないでしょう。公的生活をみても、規律とは無縁という習慣は抜きがたいものがあるので、首長は住民の利益を代表しているとはとても思えないのです。かれらは自分の部族の問題についても公平とはみえないのですから、まして異なった状況で生活する別の部族のことを取り扱うのは無理というものです。そして別の首長や行政府が、たとえかれらの意見を聞き入れたとしても、実態は何ら変わらないのが事実なのです。[このあたり柳田は委任統治領での議会開設が時期尚早という立場をとっているようです。それは自身が経験した日本の貴族院の実態を踏まえた皮肉な発言だったのでしょうか]
[以下、つづく]

柳田国男のジュネーブ国連報告(1) [柳田国男の昭和]

[番外]
 久しぶりに大きな仕事がはいったため、ブログの更新を怠っていました。
 ここに訳出するのは、1921年から23年まで、国際連盟委任統治委員をつとめた柳田国男が、おそらく1923年8月に委員会で発表した英文(フランス語もあるようです)の報告書です。
 委任統治というのは、第一次大戦で敗れたドイツとオスマントルコの旧領土を戦勝国が管理する制度だといってよいでしょう。
 その領土はシリア、レバノン、パレスチナ、トランスヨルダン、イラク、東西トーゴランド、東西カメルーン、ルアンダ・ブルンジ、タンガニーカ、南西アフリカ、それに南洋群島、ニューギニア、ナウル、西サモアなどにおよんでいます。
 委任統治領は、その自治の進展度合いに応じて、ABCの3段階に区分けされていました。
 そのうちA段階(A式)にあたるのが中東の旧オスマントルコ領、C段階(C式)にあたるのが太平洋の旧ドイツ領で、それ以外はB段階(B式)とされていました。
 国際連盟の本部はジュネーヴに置かれましたが、その委任統治委員会はどういう役割をはたしていたのでしょう。
 これについては、後日、柳田国男自身の見方を含めて、また連載で詳しく説明することにします。
 ジュネーヴでの柳田国男の報告書は、これまでほとんど訳出されたことがなく、しかもその英文はぎくしゃくとして難解でした。
 そこで、岩本由輝氏の訳を参考にしながら、自分なりの理解を深めようとして訳させてもらった次第です。
 長い報告ですので、何回かにわけてブログにのせることにします。
 訳は、ざっくりとわかりやすくをめざし、ですます調で改行を適宜加えました。[]は訳注です。
 ここからは、ただの政府の報告書とちがい、いかにも柳田国男らしい視点が浮かび上がってきます。

[以下、資料として]

委任統治領における原住民の福祉と発展(柳田報告)
1923年8月

   Ⅰ

 各国の報告により委任統治領についての知識は急速に広がりつつあります。それによってわれわれは、いまや多くの困難な、しかも未解決な新たな問題を実感できるようになりました。それらは有色人種の不可解な生活に関連して生じているものです。こうした人びとがさまざまな起源をもつ諸部族から成り立っていることはよく知られていますが、それすら驚きの事実であり、その思わぬ動きには当惑させられることもあります。
日本の委任統治下の島々は、北太平洋の広大な区域に相互に隔てられています。しかし、そのなかには異なる文明や伝統をもつ人びとが、いっしょに暮らしている島があります。人口1000人ばかりのリン鉱石の島ナウルでさえ、住民が一様ではないのが見て取れるのです。ここのわずかな住民は、それぞれ首長をもつ14の集団の下に属しています。そのうえ、以前の報告書にあるように、この住民のなかには、ドイツ統治下にカロリン諸島から連れてこられ、定住させられたと思われる者が何百人かいるとも指摘されています。
 西サモアの島々でも、住民は多くの小共同体に分属しています。3万3000人の原住民に対して、いわば市長職というべき「プレーヌス」の職が208もあって、その数は多すぎると認識されていますが、それを減らすのは至難の技とされています。加えて、ヨーロッパ系住民は、その3分の2が混血であって、この場所以外に母国をもたず、離れた階層として存続し、さまざまな純粋の原住民種族とは別に暮らしています。かれらが将来、純粋の原住民とのあいだで大きな問題を引き起こすようになるのはまちがいないでしょう。島には中国やソロモン諸島出身の労働者もいます。かれらは契約期間満了後、島に定住させても送り返してもよいのですが、ヨーロッパ系住民の場合は、問題はずっと複雑です。
 原住民と非原住民が隣り合わせているという問題は、広大なニューギニア領でも起こっています。しかし、それよりもさらに驚くのは、この島々では太平洋地域のあらゆる人種がことごとく見られるということなのです。人口の多数を占めるメラネシア人でさえ、けっして均質ではありません。言語も身体的特徴も生活様式も異なっています。こうした異質な種族の暮らしは、敵意や争いによって、常にかき乱されています。ある程度、文明に浴しているのは、外からの影響もあってか、海辺の住民だけです。
 つまり、われわれは、現在統治のおよんでいない山岳地帯にまで民族学的調査を終えてはじめて、原住民の発達の度合いにどれほど隔たりがあるかを見いだしうるのであります。

 居住地の隣接によるこうした人種間の混乱は、どこよりもアフリカではなはだしいものがあります。この大陸で何百年にわたってみられた移住と抗争によって、アフリカでは諸人種がさまざまなグループに分かれていきました。そして、かれらはたえず空白の地を求め、さりげなく異人種の種族のなかにちらばっていったのです。こうして、その起源も外見も異なるふたつの人種の住む村をあちこちに見かけるようになったわけです。
 こうした人種の接触にもかかわらず、アフリカでは予想外に血統の交わりはそう一般的ではないようです。さらに同一人種の種族間でも、それまでの環境によって、言語や考え方にかなりのちがいがあります。
 われわれは、アフリカ大陸の7つの委任統治地域において、多くの民族学的類似点を見いだすいっぽうで、各地域の住民間に著しい相違があることに注目する必要があります。こうした状況は、侵略や紛争、略奪につながりやすく、協調と繁栄を確保することは、けっして容易ではありません。
 さらにいえば、問題をより複雑にするもうひとつの要因があります。それは白人入植者によってもたらされる事態です。大国の人びとは、これがどうして混乱を引き起こすのか、まるで理解できていません。
 このことからわれわれは国際連盟規約第22条(委任統治条項)にさらりと述べられている「(自立し得ざる)人民」という概念がきわめて複雑な意味をもっていることを痛感せざるをえません。そして、われわれはこうした利害関係を異にするさまざまなグループに、杓子定規に行政的処置を適用しようとしてもうまくいかないことを肝に命ずるべきなのです。
 こうした混乱状態は、単に人びとの気ままな移動によって生じているわけではありません。別の要因もあるのです。アフリカの国境線が最初に制定されたさい、ルールとして持ちだされたのは、欧州列強間の通常の外交的慣例でした。この作業はアフリカの奥地がすべて探索される以前に完了していました。そのため、国境を定めるにあたって、人種の分布状態を考慮しようとしてもできなかったのです。
 委任統治制度が新しくつくられたさいも、こうした状況は継承されました。同じ言語と習慣をもつふたつの原住民グループが、政治的な境界線によって分断されているケースが多くみられるのはそのためです。現在英国の委任統治下にあるトーゴランド[現ガーナ]とカメルーンはこうした例にあたります。こうした地域は同じ国が支配する隣接植民地に併合され、さらにその植民地の一地域を形づくるがごとくに分けられてしまっているのです。そして、委任統治区域の境界が新たに定められたさいにも[たとえば旧ドイツ植民地のトーゴランドは、英国とフランスの委任統治領に分割されていた]、実際の状況にじゅうぶんな配慮がなされるとはかぎりませんでした。
 その結果、何が起こるでしょう。新しい統治方式によって、アフリカ原住民の遊牧習慣はこれから大きく変わってくるでしょうが、それでも住民が勝手に国境を行き来するのは目に見えています。個別のケースをそれぞれ配慮して移住の許可を与えるという原則をいつまでも維持するのは、どう考えても不可能です。願わくはこうした状況が速やかに改善されることであり、われわれは大いなる関心をもって将来の行く末を見つめているのであります。
 したがいまして、人種の混合はすでにかなり進んでおりますが、さらに移民によっていっそう進むのではないでしょうか。さらに同じような知的水準にある種族、またそれゆえに現在、対等の扱いを求めている種族も、異なった状況や外部からの影響によって、これからは多くの相違点を示すようになるかもしれません。
 こうした人種を文明化するという観点からみて、劣等人種は先進的な国民の保護下に置かれたと考えられています。であるならば、異なった知的能力をもつグループ間の利害対立を、文明国の国民と同じように、なるがままにゆだねるのはやめるべきです。私見では、こうした地域において完全な公平を達成するうえで、導きとなる唯一の原則、それは国際連盟規約第22条に規定された原則であります。ここでは委任統治の方式がABCに分けられ、文明の発達した度合いに応じて、原住民を保護することになっております。言い換えれば、発展のもっとも遅れたもっとも弱い人々がもっとも多くの保護を要するわけであります。
 欧州の入植者にかぎらず、委任統治地域へのすべての入植者は、変革への主導権をとり、そのことによって、いつも同じ場所で暮らす原住民よりすぐれた能力をもつことを立証してきました。私もまた、入植を全面的に禁止することはむずかしいと思いますが、そうだとすれば、各国政府のとるべき道は、原住民を抑圧原因から守るために、これまでにない適切な措置をとることであります。
 連盟規約が調印されたときに、たまたま委任統治地域にいた人びとが、新しい制度のもとで保護されるべきことは法的にも保証されております。逆に委任統治下におかれた人びとの権利は、1919年6月以降に当該地区にやってきた人々には分与されないのであります。したがいまして、二種の住民、すなわち委任統治地域に以前から住んでいた者と、あとから移住してき者とのあいだに利害対立が生じる場合は、委任統治当局は元からの住人にたいし、優先的に配慮するのがとうぜんであります[このあたり柳田はパレスチナ問題をかなり意識しているようです]。
 一種、懸念を感じざるを得ないことがあります。それは「原住民」なる概念があまりに広汎な解釈の余地を残していることです。そのために、いくつかの委任統治領においては、ふたつの別々の範疇に属する人民が同じ扱いを受け、かなり重たい規制が課せられています(1922年のタンガニーカの土地法、1922年の南西アフリカの原住民統治宣言、1921年の西サモアのサモア法、1921年のニューギニアの自治体条例の解釈と修正、1921年のナウルの原住民条例など)。
 人道的観点からみて、太平洋あるいはアフリカのすべての委任統治領下の原住民は、たとえそれ以外の島や植民地の出身であっても、保護を受ける資格があり、他と同様に取り扱われるべきことは言うまでもありません。それでも「原住民」という概念のあまりに広汎な解釈によって生じてくると思われる誤解と困難を避けるのは、けっして容易ではないでしょう。

   Ⅱ

 人の流入と流出に関しては、受任国政府が当面の解決方法としている個別認可という方針が採用されているようです。しかし、この方法は、個々の事案が発生するたびに当局者の判断を必要とし、そのため当局者に大きな負担を課することになります。そこでけっきょくは、人びとのこうした移動を規制する恒久的かつ根本的な原則を確立せねばならないという見解に達するのが関の山となります。
 委任統治領内に居住を制限する必要はありませんし、そうしようとしても、とても無理でしょう。人の移動を引き起こす複雑な要因がみてとれるからです。
 アフリカの委任統治領のなかには、すでに人口過剰になっている地域も見受けられます。たとえば、サバンナの住民は、険しい山岳地帯で暮らすのはいやだと思っており、そのため慣れ親しんだ近隣地域に生活の場を見つけようとして、政治的に設けられた境界などお構いなしということになるわけです。
 さらにまた、委任統治領の住民のなかには、働き手としては近隣植民地の住民よりずっと優秀な者がおり、そのためにかれらが向こう側に引き寄せられることもあるにちがいありません。
 たとえばルアンダ・ウルンジ地域[現在のルワンダとブルンジ]の原住民は、往々にして肉体労働者が不足しているベルギー領コンゴから大いに求められています。ニューギニア領では人員募集を抑える厳格な規制がありましたが、ナウル島の鉱山に多くの島人が働きに出ることになって、この規制は緩和されました。
 したがって、これからは他地域への移住が現在より頻繁に起こると信ずる理由がじゅうぶんにあるのです。
 この問題と関連して、特別な配慮が払われねばならないのが、委任統治領が本国の植民地と境界を接している場合であります。この場合、本国は当該の領域に、委任統治を実施する権限を同時に付与されております。そういうときには、原住民が境界線を越えて簡単に向こう側に行くといったことがしばしば起こります。
 とりわけ、英領トーゴランドや英領カメルーンなどでは、本来の境界線がどちらかというと無視されてしまっています。このような領外移住については、移住者が特別の地位を保持したいと求める場合に、まったく新たな問題が発生します。
 ヴェルサイユ条約第127条には、こうした条件のもとで原住民をどう保護するかという規定はありません。そこには、ただ外交的保護が規定されているだけで、これは要するに外国への移住の場合です。
 委任統治領の住民が、通常の植民地の保護住民と同じような扱いを受けるというのは筋が通りません。このやっかいな問題は将来にわたって、さらに広く調査されるものと信じております。世界に新たな仕組みをもたらす「委任統治領間調整法」がつくられるなら、こうした問題はこの法律の一部に組み入れられることになるでしょう。
[以下つづく]

ニライカナイの発見 [柳田国男の昭和]

《第242回》
 新聞連載「海南小記」につづられた沖縄での旅程を、ことこまかに追うのはやめておきたい。それだけで1冊の本になってしまいそうだからである。とはいえ重要なのは、実質ひと月ほどの、たった一度の訪問が、柳田国男に一生忘れられない沖縄の記憶を刻みつけたことである。
 いま読み返しても、「海南小記」の文体は、どこをとってもみごとなほど美しく、しかもその底に痛切きわまりない哀調を帯びている。たとえば、いよいよ石垣島から沖縄本島に戻る日のことをつづった一節の冒頭を挙げてみただけでも、その雰囲気はじゅうぶん伝わってくる。

〈南々といっているうちに、もう引き返すべき汽船が入ってきた。石垣の端舟は帆ばかりが力で、ただ湾内を左右にまぎっていく。その間に見送りに出てくれた岸の人は、ひとりずつ帰ってしまい、海を曇らしむる雲の影ばかり、次第に多くなってくる。晴れて水底に日の光のさし込む朝ならば、蒼白い砂地のところどころに、深緑の珊瑚岩が二尋(ふたひろ[4メートル近く])ぐらいまでは覗(のぞ)かれるのだが、きょうは一円にただ淋しい灰色である。昔[1771年]の大津波[推定30メートル]の日の旱天(かんてん)には、やや強い地震があって潮は遠く退き去り、五彩の光眩(まばゆ)きこの海底の秘富が、ことごとく白日のもとに露われたということだが、いまはそれも喚(よ)び覚ましがたい夢のように感じられる〉

 天候と風景と人情と歴史がないまぜになって、読者の想像力を刺激し、旅愁をかきたててやまない。それが一幅の絵、あるいは映画のように瞬時に光景を浮かび上がらせる「海南小記」の文体の魔術だった。その全篇に貫かれているのは沖縄への哀切な思いであり、その思いは南へ南へとくだるにつれて、いちだんと深まっていた。
 とはいえ、ここに描かれていた光景は、突然の破局が訪れる直前の凄絶な美にはちがいない。1771年4月に石垣島を推定30メートルとも85メートルともいわれる大津波が襲い、住民の3分の1が死亡するできごとが発生している。いまにも雨が降りそうな曇り空の下、船に移るはしけで、暗い海を見ながら、国男は津波のくる直前の光景を想像する。潮が引いて、環礁の底が露呈し、いろとりどりのサンゴが日に照らされて、この世とも思えぬ美しさを現出するのだ。こうしたあやうい感性は国男独特のものだといってよい。
 旅の記述は相前後して、ほんとうは最後にもう一度立ち寄った奄美が、むしろ先に記録されているが、奄美の旅では石垣までおよんだ旅の印象が逆照射されているかのようである。それは琉球の心象を、最後にもう一度刻んでおきたいという心の動きを示していたのかもしれない。早くから薩摩への直属を強いられるたにせよ、奄美には唄や踊りひとつをとっても、琉球の文化が色濃く残っていたからである。

  いちゅび山のぼて
  いちゅび持ちくれちよ
  あだん山登て
  あだん持ちくれちよ

 いちゅびはイチゴのこと、あだんは阿壇(アダン)、食べられたものではないがパイナップルのような実ができる。一見のんびりした歌詞からは、のどかな野遊びの光景さえ浮かび上がる。だが、国男はこの唄の背景に、この世の地獄を感じとった。

〈名瀬の近くの作大能とかいうところでも、ある時の飢饉に男女山にはいり、イチゴやアダンの実を採って食い尽くし、野山にはもう何も食う物がなくなって、数十人の者がアダンの木に首をくくって死んだ。それから以後は毎月、その月ごろになると、亡霊が出てきて何ともいわれぬいやな声で唄を歌ったといって、その唄がいくつも伝わっているのである〉

 そのひとつが、いちゅび山の唄である。だが、これはおそらく国男のいうように亡霊の唄ではなく、飢饉で亡くなった人をなぐさめる島唄だったにちがいない。それでなければ、とても救われない。

 沖縄で国男は多くの人に会い、多くの書物に目を通した。本島では国頭(くにがみ)と島尻を歩き、それから船に乗って、短時間、宮古島に立ち寄り、石垣島で数日をすごした。
「海南小記」では、伝説と接合した琉球の歴史に多くのページが割かれている。しかし、何よりも思いを寄せたのは、人びとの質朴な生活ぶりと深い信仰にたいしてである。国男はそこに日本では失われかけている民衆生活の原風景を感じとっていた。
 北山、中山、南山にわかれた三山時代(14世紀はじめから15世紀はじめ)、今帰仁(なきじん)に城を構えた北山王のこと、1429年に三山を統一し、琉球王国を建てた中山王の尚巴志王(しょうはしおう)のこと、護佐丸・阿麻和利の乱と第一尚氏時代の最後の王で久高島伝説で知られる尚徳王のこと、1462年にクーデターによって政権を掌握し、第二尚氏時代を開いた金丸、すなわち尚円王のこと、石垣島で発生したオヤケアカハチ(赤蜂)のこと(国男は赤蜂を「八重山の愛国者」と見ている)、アカハチの乱を1500年に平定し、八重山全域を王国に服属させた尚真王のこと、1609年の薩摩藩侵攻とその後の属領化、1734年に33歳で処刑される悲劇の才人、平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん)のこと、1879年の沖縄県設置(いわゆる琉球処分)のことなども、さりげなく折りこまれている。新聞連載「海南小記」は、おそらく沖縄ガイドとしても、当時、出色の読み物として受けとめられたのではないだろうか。
 国男はけっして沖縄をユートピアの地として描いているわけではない。むしろ、そこでの人びとの生活、とりわけ女の労苦は並大抵ではないとくり返し強調している。
 たとえば、こんな箇所がある。

〈沖縄の芭蕉布だけは、みずから織って着る者が多いが、北では奄美大島の絣(かすり)の袖、南は先島の紺白の上布などは、ほとんとみな、よその晴着となってしまうのが、昔からの習わしであった。島の女に布を織らしめる制度は、もちろん近世の発明ではないが、その発達の跡を尋ねてみると、いまもやるせない記念が残っている。
(中略)
 ……島の人がただ黙って忍んでいる辛労はいくつかある。島の布の価は織ってしまってもまだきまらぬ。商人の知らせてくる相場がどんなでも、そんなに廉(やす)くては売らぬということは今日でもできぬ。布を売って買わねばならぬ物が多いからである。粟(アワ)の耕作は減じ、米ははじめから少ないゆえに、飲むとすれば泡盛なども買わねばならぬ。宮古諸島は人口が5万人で毎年1万個の酒甕が輸入せられる。これだけの泡盛を父や夫に飲ませねばならぬ〉

 年若いころから老いるまで機織りをしなければならない、島の女たちの苦労がしのばれる。
 国男が実際にくらしを支える女たちに関心を寄せていたことはいうまでもないが、それ以上にひかれたのが、ノロやユタと呼ばれる巫女(ふじょ)たちの存在だった。ノロは琉球王国時代、聞得大君(きこえのおおきみ)の配下に属していた公認の祝女、ユタは民間で託宣や祈願をおこなう、いわば在野の巫女である。その範囲は奄美大島から先島までおよんでいた。
 国男がどこを訪れても斎場や御嶽(うたき)を回ったのは、ノロやユタと出会いたかったからである。
 ノロはかならず血筋の者が相続するが、嫁に行くから家は次々に移る、と国男は書いている。ユタは物知りであって、神仏の力によって、ふつうの人には見えない者を見ることができたという。ただし、青年たちのあいだでは、その予言と啓示は次第に信じられなくなっていた。

 さまざまな伝説や昔話を収集するなかで、国男はそれが地元の生活に密着しながらも沖縄単独のものではなく、日本の民間伝承と接合していることに気づく。
 たとえば「炭焼長者伝説」。これはマヌケな夫が、賢い妻のアドバイスで黄金を発見し、金持ちになる話である。火の神の信仰や、鋳金の起源とも重なる一種の黄金伝説なのにちがいない。
 この伝説は、かたちを変えながら、北の果てから沖縄の宮古島まで広がっていた。国男は各地に残るその物語の構造を分析しながら、こういう結論を導く。「善い妻と悪い夫の単純な物語は、ここから発生して同じ民族の行くかぎり、野の果て、島の果てまでも、火をたくたびにくり返されたものではないか」
 さらに国男は、石垣島の宮良の村で、アカマタ・クロマタの二神を発見して、心震わせた。この神は毎年6月の穂利祭(プーリィ、豊年祭)のときに、夜半、崖の岩屋から村にやってきて、夜明けに帰っていく。
 こう書いている。

〈宮良の人びとは神の名を呼ぶことをはばかって、単にこれをニイルビトといっている。それを赤と黒の二色の人ということであるというが、ニイルはすなわち常世の国のことだから、これも遠くより来る神の意であろう。……[その装束は旧家の主人が預かっているのだが]実際、新宮良[津波のあと新たにつくられた宮良]の住民は、祭の日には人が神になることをよく知りつつ、しかも人が神に扮するということは知らぬようである。
 ……絶海の小島は幸せであった。都鄙の区別を教える講師も国司もいなかったゆえに、永く神の御幸(みゆき)の昔の悦ばしさを味わうことができた。そうして、その神はまた見知らぬ海原から、天に続いた地平線の向こうから、やすやすとその小舟を島の渚には漕ぎ寄せることを得たのである〉

 国男はついにニライカナイとそこからやってくる神々を発見したのだといってよい。沖縄は忘れられない地となり、その記憶は心に深く刻まれた。そして、それ以降、沖縄は国男の果てしない探究において、つねに真実を照らす合わせ鏡に似た役割をはたすようになるのである。

カライモとビロウ [柳田国男の昭和]

《第241回》
 沖縄の旅から4年後の1925年(大正14)に柳田国男は、大岡山書店から『海南小記』を発刊した。この出版は大岡山書店にとってもほとんど初仕事であり、この編集を担当した横山重(しげる)は、のちに室町物や浄瑠璃本、西鶴本、琉球古典籍などの収集と校訂で知られることになる。
 長野出身で慶応義塾を出た横山と国男は、おそらく郷土会あたりで知りあったのではないだろうか。国男のまとめた『郷土会記録』や折口信夫の『古代研究』、それに国男の兄弟、井上通泰と松岡静雄の本もこの大岡山書店から出版されている。およそもうけとは縁のない出版社だった。
 それはともかく『海南小記』の序文にはこう記されている。朝日新聞の連載から4年が経過し、ジュネーヴの国際連盟での仕事があいだにはさまったために、国男は沖縄の旅をより客観的にふり返ることができるようになっている。

〈海南小記のごときは、いたって小さな詠嘆の記録にすぎない。もしそのなかに少しの学問があるとすれば、それは幸いにして世を同じうする島々の篤学者の暗示と感化とに出でたものばかりである。南島研究の新しい機運が、一箇旅人の筆を役して表現したものというまでである。ただ自分は旅人であった故に、常に一箇の島の立場からは、この群島の生活をみなかった。わずかの世紀のあいだに作り上げた歴史的差別を標準とすることなく、南日本の大小遠近の島々に普遍している生活の理法を尋ねてみようとした。そうしてまた将来の優れた学者たちが、必ずこの心持ちをもって、やがて人間の無用なる争諍(そうじょう)を悔い嘆き、必ずこの道を歩んで、次第に人類平等の光明世界に入らんとするだろうと信じている〉

 国男は『海南小記』が伊波普猷(いは・ふゆう)をはじめとする沖縄の篤学者から影響を受けたものであることを認めたうえで、これから南島研究がさらに進展することに期待を寄せている。ただし、その研究は郷土誌のレベルにとどまるのではなく、日本の成り立ちにかかわるものでなければならない。
 国男はここで慎重に政治的な話題を避ける道を選んでいる。それよりも「南日本の大小遠近の島々に普遍している生活の理法」をさぐってみたいという。もとより南島が政治の争諍の場となっているのは百も承知している。差別がないというのではない。めざすのは「人類平等の光明世界」だ。それでも国男は、政治をいったん遮断して、南島の「生活の理法」をさぐる方向を選んだ。沖縄の生活と民俗をより広く深く知り、それを伝えつづけることこそが、自分にとっては反差別の実践だと信じたからである。
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 沖縄の旅を南九州からはじめるにあたって、いわゆるサツマイモ(甘藷)の呼称をたどってみようとしたのは、いかにも国男らしかったといえるだろう。九州北部から中国地方の一部では、これを琉球イモと呼んでいたが、南九州ではカライモないしトウイモというのがふつうだった。これが奄美に渡るとトン、あるいはハヌス、ハンスとなり、沖縄ではンム、さらに先島ではアッコンまたはウンティンと呼ばれる。
 とはいえ、いずれにせよ、サツマイモが中国の江南から伝わったことはまちがいない。そう述べながら、国男はすでに海上の道を頭に描いている。そのうえで、イモがアワやマメ以上に、飢えから人びとを救う食料であったことに思いをはせている。
 国男は大分県の臼杵(うすき)から船に乗って、島や海岸をへめぐりながら、南へ下った。それはまるで、海上の道を逆向きにたどるかのように思えた。島の多くに漁村がへばりついていたが、いずれも水や米、野菜に苦労しており、それでもまるで大きな家族のように協力しあって暮らしていた。祭ともなると、社に神が降りてくる。海の仕事は漂流や死と隣り合わせだ。百合若(ゆりわか)伝説は海人のあいだに伝えられた悲しい物語である。
 東北の旅で知りあった山伏の知己を訪ねたり、飫肥(おび)を再訪し西南の役について思いをはせたりしながら、国男はふたたび小さな船で海岸線をたどっていく。沖を行くと、ついついビロウ(蒲葵)の林に目がいく。
 佐多岬まで来ると、いっそう南の島が一列の飛び石になっていることに気づかされる。
「島々に行けば次の島がまたそうであろう。沖へ出てみたら、なおいっそう移る心が自然に起こるであろう」
 そう思わないわけにはいかなかなかった。
 南九州と沖縄はカライモとビロウでつながっていた。とくにビロウのことが気になる。ビロウは扇や笠に使われただけではない。中世、貴族は白くさらしたビロウの葉で、牛車(ぎっしゃ)を包んだものだ。山伏の修験者もかならずビロウの扇(ホキセン)をたずさえていた。ご飯をさますのに、ビロウの扇を用いたのは、そこから生ずる風が神聖とされたからである。
 ビロウは南の木で、北限は紀伊半島である。古名はアヂマサ(阿遅摩佐)。現在、台湾などでよく見られるビンロウ(檳榔)と音からしても似ているが、まったくちがう木で、シュロ(棕櫚)ともまた異なる。一名、コバともいい、沖縄ではクバと呼んでいる。
 国男は「ビロウの実、コバの実」と口癖のように唱えながら、島々をへめぐった。かれがそれほどビロウにこだわったのは、それが神の森の木だったからである。ビロウは自然に広がったのではなく、神人が運んだのだとすれば、どうしても沖縄の島を歩かなければならないと国男は思った。
 ビロウの広がりは、沖縄のはてから京の朝廷までを結ぶ信仰の広がりと重なる。国男は沖縄本島でも先島でもウタキ(御嶽)やウガン(拝所)を見て回る。そして、その細長い小道の行き止まりにコバの木を見つけて、小躍りすることになる。
 ビロウ(クバ)の広がりを通して、国男は固有信仰の基盤を探ろうとしていた。沖縄には日本の信仰の原型が、いまも息づいている。そして、そのことは何を意味するのか。沖縄から戻ってすぐ、久留米でおこなわれた講演で、早くもこう話している。
「誠に閑人の所業のようにみえますが、かくのごとく長たらしく、コバとわが民族との親しみを説きますのも、畢竟(ひっきょう)はこのただひとつの点をもって、もとわれわれが南から来たということを立証することができはしまいかと思うからであります」
 コバ(クバ)の木は、海上の道でつながっていた。そして、それは信仰を運ぶ道でもあった。

世界苦と孤島苦 [柳田国男の昭和]

《第240回》
 2月5日に那覇の松山小学校でおこなわれた国男の講演は「世界苦と孤島苦」と題されていた。以前にも触れた講演ではあるが、ここでは晩年の『故郷七十年』の回想にしたがって、その内容をもう一度紹介することにしよう。先島諸島をまわり、ふたたび沖縄本島に戻って、明日はまた鹿児島に向かう船に乗る前日の話だという点に着目する必要がある。宮古島や石垣島での経験が反映されている。
『故郷七十年』では、講演の内容がこんなふうに語られている。

〈沖縄の文化には中心があるから、どうしてもそれをはずれると、割引をしなければならぬような食い違いが免れられない。私の知り合いの比嘉春潮君などは珍しくそういう偏頗(へんぱ)のない人だが、多くの人はみなその癖をもっていて「何島だからねえ」というようなことをすぐいう。八重山[主島は石垣島]とか宮古島とかいう、割に大きな島でも特殊扱いされていたのだから、もっと小さな離島はかなり別扱いされていたに相違ない。……
 沖縄に行って話した演題を「世界苦と孤島苦」としたのも、そんなわけからであった。世界苦というのはほかにもお連れがあるから、皆と一緒につきあっていっていいが、この孤島苦のほうを沖縄の人が気づかないようでは駄目だ、沖縄県でも自分の村の仲間のうちの一つ低いものを軽くみるようでは駄目だということを、かなり強い言葉で話したのである。すると、大体の人はみな一様にちょっと嫌な顔をしたが、それ以来、沖縄には複雑な内容と気持ちとをもった孤島苦という言葉が行き渡っているらしい〉

 沖縄は世界苦を味わっているというのが、当時の地元のとらえ方だった(そして、それは平成の現在でも緩和されるどころか、より深刻化しているというべきだろう)。世界苦とは何か。それは世界=中央からいやおうなく押しつけられる負担や桎梏のことである。沖縄にとって、世界苦とは「ヤマト世」の苦にほかならない。
 ところが、那覇の講演で、国男は世界苦のことよりも孤島苦について話した。沖縄人は世界苦を味わっていると感じているが、自分たちがほかの島々に孤島苦を味わわせていることに気づいていないのではないか。
 おそらく国男はこんなふうに話したはずだ(「島々の話」による)。

〈沖縄は決して最後の沖の小島ではない。宮古、八重山の島人らが、永い歳月のあいだ中山[琉球王国]の首都に対して感じている不便と不満とも同じものなれば、さらにまた宮古にあっては多良間の島、その多良間に対しては水納(みんな)の島の青年が、やはりこれを経験しているはずである。八重山の主島[石垣島]に対する与那国の波照間(はてるま)も、事情は等しくして、なお一層の不幸は、彼らが最後であり、また訴えても聴く人のなかったことである〉

 この講演に立ち会った沖縄の人びとはおそらく虚をつかれたはずである。国男はまもなく「与那国の女たち」というエッセイを書くが、これは孤島苦にたいする見方をかれなりに示したものといえるだろう。
 ここで国男が示そうとしたのは世界の構造である。世界には中心があって、周縁をみずからのルールに従わせようとする。ところが、その周縁も〈小中央〉を形づくり、さらにその周縁を支配しようとする。その連鎖が「世界苦と孤島苦」となってあらわれるのだ。
 それは日本と沖縄の関係だけではない。日本自体も「世界苦」を味わっていた(それ自体が「孤島苦」でもあった)。この苦の連鎖、転嫁に次ぐ転嫁をどこかで断ち切ることはできないのだろうか。「この境遇にある者の鬱屈は、多数の凡人を神経質にし、皮肉にし、不平好きにするに十分だ」。だが、それでは何もはじまらない。
 のちの記憶による再現ではあるが、国男は講演で、さらにこんなふうに話したと思われる。

〈諸君の不平には限界があってはならぬ。ひるがえってまた、諸君の「中央」と名づけているものも、こんな小さな地球においてすら、決して真の中央ではないのだ。……外交論といえば陰弁慶(かげべんけい)で、正論と身勝手の差別がわからぬ。これがわれわれの日本のいまの悩みで、同時に沖縄人の孤島苦をただ鏡餅の上下ぐらいに差等づけたにすぎぬものだ。論理が徹底しないと反抗にも価値がない。もう国の戸は開けたのに、独りで自分を縦からみたり、横からみたり、いたずらに憐れんでいても仕方がない。ひろい共同の不満を攻究してみようではないか〉

 簡単な解決法や処方箋などない。むやみに詠嘆したり、ただ身勝手に主張したりするだけでは、前進にはつながらない。「共同の不満」を徹底して攻究すること、それがすべての出発点だと国男は訴えた。
 最晩年にあっても、国男の沖縄研究にたいする意欲は衰えなかった。
『故郷七十年』でも、こう語っている。

〈もう一つ沖縄には500年この方、王朝があったといい、そしてその前にも1万2000年もつづいた王朝があったと文献に出ている。その考えが強く残っていて、歴史を書くときにも王朝のことばかり書いて琉球の歴史であるというので、そうではありませんといおうとすると、どうも衝突を起こす。琉球でも国際交通のはじまった元、明、清とだんだん文化が高まり、天下という観念がひろくなって、どうしても[琉球王国が]その中心ということを考えるようになった。それさえなければ離れた島々がのんびりと生活を楽しめるのではないか[楽しめたのではなかったか]という点がたくさんあるようである。沖縄のすぐれた学者であった伊波普猷君などは、王朝時代、藩政時代を経て明治になった当座の、明るくなった気持ちを主として書こうとしていたのではないかと思う[日琉同祖論もそのひとつだ]。私はさらにもう一つ前の三朝三代[三山時代、第一尚氏時代、第二尚氏時代]にさかのぼって、それ以来のことをずっと勉強しなければならないのではないかと考えている〉

 国男はさまざまな話題を思いつくままに語っているが、すくなくともこうした姿勢を、日本の沖縄支配をロマン主義的に補完する「南島イデオロギー」と片づけるわけにはいかないだろう。
 国男の旅をさらに追ってみることにしよう。

『古琉球』と河上肇 [柳田国男の昭和]

《第239回》
 国男が沖縄を訪れた目的のひとつは、『古琉球』の著者、伊波普猷と会うことだったとされている。のちに「沖縄学の父」と称されるこの人物は、国男とほぼ同年齢で、当時、沖縄県立図書館長を務めながら、精力的に各地で啓蒙的な講演活動をおこなっていた。
 著書や手紙のやりとりを通じて、その学問や人柄には通じていたものの、互いに会うのは今回がはじめてである。
 ここでは晩年の回想『故郷七十年』によって、その出会いをたどってみることにしよう。

〈大隅半島から薩摩湾を横切って指宿(いぶすき)の方へ帰っていくと、ちょうど明日船が出るというので、正月3日だったと思う、船に乗った。そして奄美大島に上陸し、ほんの1日2日いて琉球へ渡った。正月の7日か8日ぐらいだったと思うが、早速伊波普猷君を訪ねた。伊波君はほとんとつきっきりで話を聞かせてくれた〉

 伊波とはどんな話をしたのだろう。途中わずかな時間しか立ち寄れなかった奄美のことも話題になった。奄美は300年前に琉球から薩摩にとられてしまったから、もうあそこには沖縄の事物は何も残っていないと思っていたら、いまも沖縄のことばが、古いかたちで残っていることを知って考えが変わったと伊波は話した。国男が沖縄からの帰途、ほぼ1週間にわたって奄美に滞在したのは、おそらくかれのこのことばに刺激されたからだろう。
『おもろさうし』(おもろそうし)の校訂についても、伊波は熱心に語った。国男はその刊行を約束し、それは実際、国語学者の上田万年や文部省図書局長の幣原坦(たいら)らの斡旋により学士院の援助を得て、1925年(大正14)に南島談話会から出版される運びとなる。
 何よりも国男が驚いたのは、伊波が集めた膨大な文献だった。那覇の図書館には何千冊もの蔵書や古文書が収められていた。そして、それらは太平洋戦争中、米軍の空襲により、灰燼と帰すことになる。1958年(昭和33)、沖縄がまだ米軍の施政下にあった、数えの84歳のときに語られた『故郷七十年』の談話は詠嘆に満ちている。

〈しかしあの文献は今度の戦争でどうなったであろうか。戦争中の図書館長には、伊波君ほど文献に執着をもつ人がいなかったらしいし、終戦後は駐留軍が沖縄の家は衛生上よくないといって焼いたり、島の人の中にも勝手に貴重な文献をとって反古に使った者があるとか聞いている。惜しいことをしたものである〉

 この言い方はあまりに学者風で、島民の3人に1人が亡くなったとされる沖縄戦の実態を無視した感想だったかもしれない。とはいえ、沖縄を訪れた当時、国男が県立図書館に収められていた文献の質量に目を奪われたことはたしかである。那覇滞在中はその何冊かをむさぼり読んだのではないだろうか。
 ともあれ、国男は『古琉球』にひかれて、那覇の伊波のもとを訪れ、かれにさらに学問をするよう激励したのだった。
 1911年刊の『古琉球』には、伊波の尊敬する経済学者、河上肇の跋(ばつ)が掲載されていた(現在の岩波文庫版では省略されている)が、これについても、国男は『故郷七十年』で、こう感想を洩らしている。

〈京都の河上肇君も、伊波君の「古琉球」という本の跋を書いたりして、古くから沖縄に関心をもっていた。京大助教授時代、沖縄に行って演説をしたため、当局から警戒せられたりしたが、はじめは糸満の個人財産制度に感心し、そこに自分の理想を見いだしたように解釈したらしい。
 滔々(とうとう)として帝国主義に災されている日本において、まだそんな悪い風潮に染まっていないのはこの沖縄だけで、自分はそこに望みを託するというようなことだったが、琉球の人自身はあくまでわれわれは日本人の一部であると主張していたし、事実またそのわけであるから、河上君の話はどうも沖縄人固有の気持ちに水をさす結果になった。「古琉球」の跋にはこの演説のことについて、多少の皮肉を洩らしている〉

 ここで触れられている、河上肇が沖縄人の憤激をかったとされる演説とは、そもそもどういうものだったのだろう。
 舌禍のもととなったのは1911年(明治44)4月3日の「新時代来る」という講演である。河上は那覇の松山小学校で、およそ次のように話していた。

〈沖縄を観察いたしますに、沖縄は言語、風俗、習慣、信仰、思想、その他あらゆる点において内地とその歴史を異にするようであります。そして、本県人は忠君愛国の思想に乏しいという人さえおります。しかし、これはけっして嘆くべきことではありません。わたしは、だからこそ沖縄人に期待するところ大であり、また興味を多く感ずるのであります。……現に新人物を必要とする新時代におきましては、わたしは本県人士のなかから、他日新時代を引っ張っていく偉大な豪傑が起こることを深く期待し、かつこれについて特に多大な興味をいだかないわけにいかないのであります〉

 この発言に地元の琉球新報は、沖縄県民に忠君愛国の誠がないとは無礼千万だとかみつき、5日の夕刊で河上を「非国民精神の鼓吹者」と決めつけた。
 とんだ言いがかりである。
 この日、河上は糸満を訪れていた。糸満では、村民の協力で揚げた魚をアンマー(女)がカミアキネーし(つまり頭に載せたかごで売りさばき)、その利益をワタクサー(私財)として蓄える習慣があった。京都に戻ったあと、河上はそうした素朴な経済活動に感動し、むしろ沖縄には理想の村があると紹介することになる。
 だが、ともかくもこの日、自分を「非国民精神の鼓吹者」と糾弾する琉球新報夕刊を見た河上は愕然としたにちがいない。
 沖縄の人びとを侮辱するつもりは毛頭なかった。ことば遣いはむずかしいものだ。意気消沈した河上は、そそくさと島を去らねばならなかった。
 伊波はその河上に、自著『古琉球』の跋を依頼し、河上もそれにこころよく応じた。そのなかに次のような一文がまぎれこんでいた(口語訳)。

〈ふり返ってみると、私がこの地を遊覧したとき、一場の講演がはしなくも大勢の識者から批判され、非難攻撃されたのはほとんど尋常ではなかった。舌禍をこうむったことについては思うところがないわけではないが、さらに弁解してまた舌禍をこうむることは願い下げにしたいものである〉

 国男が沖縄を訪れたときに、10年前の河上肇の舌禍事件が念頭にあったことはほぼまちがいない。まして2月5日には、河上が講演したのと同じ那覇の松山小学校で国男の講演が予定されていた。
『故郷七十年』では、「河上君の話はどうも沖縄人固有の気持ちに水をさす結果になった」と述べている。「沖縄人固有の気持ち」とは「あくまでわれわれは日本人の一部である」という、強すぎるほどの感情である。そこに琉球王国の遺民の思いがたゆたっていることに国男は気づいていた。伊波の唱える「日琉同祖」の思想の奥にある悲嘆にも無自覚だったわけではない。
 国男の沖縄にたいする思いには、高飛車な「南島イデオロギー」でも、革命的ロマンティシズムでもない、底深い悲しみが満ちていたのである。

南島へ [柳田国男の昭和]

《第238回》
 柳田国男が念願の南島方面を旅したのは、1920年(大正9)12月から翌年3月にかけてのことである。のちに出版された本にちなんで、『海南小記』の旅と呼ばれる。
 最初に、その旅程などを挙げておくことにしよう(松本三喜夫の『柳田国男と海の道』や伝記の「年譜」を参照)。

12月13日 沖縄の旅に出発
12月15日 神戸から船に乗り別府へ 別府から九州東海岸を南下
12月31日 鹿児島から徒歩で佐多岬へ
1月3日 鹿児島から船に乗り沖縄に出発
1月5日 那覇に到着(途中、名瀬に停泊)
1月7日 首里で旧王家の尚家を訪ねる そのあと3泊4日で国頭地方を旅する 那覇では伊波普猷と会っていることが多かった
1月16日 鉄道馬車で糸満に
1月21日 宮古島に向かう 船で比嘉春潮と会う
1月22日 宮古島に到着 平良の町を見ただけですぐ船に
1月23日 石垣島に上陸 岩崎卓爾に会う 石垣には5日間滞在 南海岸の村々と御嶽(うたき)を訪れ、石敢当(せきがんとう)を見る
2月2日 那覇に戻ったあと島袋源一郎と斎場御嶽をめぐる
2月5日 那覇の松山小学校で「世界苦と孤島苦」と題して講演
2月7日 奄美大島の名瀬に着く 島内、加計呂麻(かけろま)島を歩く
2月15日 鹿児島に戻る 以後、各地で沖縄のことなどを講演
3月1日 帰宅
3月から5月にかけ、朝日新聞に「海南小記」を30回にわたり掲載

 ここで注目すべき点は、国男が横浜や神戸から船に乗って沖縄に向かったのではなく、別府から馬車や船、徒歩で、九州東海岸をおもむろに南下し、ようやく鹿児島から沖縄をめざしていることである。
 なぜそんなことをしたのだろう。
 晩年の談話『故郷七十年』で、国男はその理由らしきものについて、こんなふうに語っている。

〈8月末、東北旅行の折、尻屋埼に行ったとき、あそこの鉱山の若い夫婦連れといっしょになった。よもやま話のついでに「今年じゅうに日本のいちばん西の端[正しくは九州最南端]の佐多の岬に行くから、お正月にはそこから君のところへ便りをあげよう」という話になってしまった。
 その後ずっと各地を歩いて佐多の岬の突端へ行ったのは大正9年[1920年]の12月31日であった。明くれば元旦というわけで、正月付の手紙だったか電報だったかを、彼の北の端の岬の若夫婦に出し、泡盛を送ってやった。たいへん喜んで「灯台を見にくる人は大勢いるが、はじめから計画して、北と南の両方をいっぺんに見る人はめずらしい」とほめてくれたのを憶えている〉

 ほほえましいエピソードであり、茶目っ気さえ感じられる。
 だが、ちょっと不思議な感じもする。
 尻屋崎は下北半島北東端の岬だが、国男の意識では本州北端の岬を指していた(実際の北端は大間崎)。岬の近くに鉱山があった(いまもある)。国男は旅の途中、8月末にその鉱山に務める一家と知り合い、年末に九州最南端の岬に行くと約束しているのだ。そして、約束はそのとおり実行された。
 いわばヤマトの北端と南端の岬が最初から国男の頭のなかに地図として描かれていたことになる。これが沖縄行を前にしてのかれの決意だったとは考えられないだろうか。
『海南小記』の旅は、『雪国の春』[実際は夏]の旅と対になっている。国男が沖縄行を九州東海岸を南下することからはじめたのは、それが東北東海岸を北上する旅の延長にあったからである。
 海岸を旅したのは何も伊能忠敬の測量を真似たからではない。日本はそれ自体が山島だった。その細長い空間を頭にえがくと、そこには陸の道があらわれるだけではなく、目に見えない海の道も見えてくる。国男の旅は空間の移動を自分の足でたしかめるだけではなく、かつて人びとがたどったにちがいない時間の流れを実感することにも向けられていた。
 尻屋崎を北端とし、佐多岬を南端とするヤマトの領域をたしかめたうえでないと、国男は南島に旅立てなかったのだともいえる。南島にはヤマトとは異なる琉球の島々、言い換えれば琉球のくにぐにが広がっている。
 国男にとって、ヤマトと琉球の境ははっきりしていた。トカラ列島の宝島と奄美大島の境界、すなわち宝海峡がそれにあたる。その南は同じ日本にちがいないが、ヤマトとは異なるひとつのくにである。つまり沖縄本島を中心に、北東は奄美大島、南西は先島とそれぞれその周辺の島々からなる琉球のくにぐに。そのくにぐにが、いま国男をたまらなく引きつけている。

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