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新型コロナをめぐるケネス・ルオフ氏(ポートランド州立大学教授)の論考 [雑記]

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5月21日付の日本経済新聞に『国民の天皇』の著者として知られるケネス・ルオフ氏の論考が掲載されました。これは50日ほど前の拙訳をダイジェストしたものです。
消えてしまうのもおしいので、4月7日に訳出したそのオリジナル版をここに紹介しておきます。

  市場システム以上に公益に配慮を
     ケネス・ルオフ(ポートランド州立大学歴史学教授)

 この原稿を書いている米国には現在パンデミックが押し寄せており、私の住んでいるオレゴン州ポートランドも例外ではないが、かろうじて最悪の事態は免れそうな気配だ。このような危機的状況において、何よりもだいじなのは、自分たちの基本的な価値感を確認することである。しかし、どのような価値感が真に重要か、あるいはそうでないかをあきらかにしなければならない。重要なのは全般的な公共福祉を推進することであって、「純粋市場」の力を信奉することではない。
 ウイルスは世界中で、だれもがそれに直面していることを思い起こさせてくれた。それだけではない。現に社会には公益があること、だれもがコミュニティと責任という感覚を分かちあっていることをも教えてくれた。それは、国内的、国際的なレベルを問わない。もし公益がないなら、医療従事者がパンデミックを抑えようとして、懸命に努力することなどありえないだろう。いまの時点で、パンデミックを市場の力にまかせるべきだと言う人が数多くいるとは思えない。
 とはいえ、この四十年間、先進国ではできるかぎり何もかも市場にまかせるべきだという考え方が主流になっており、それ以外は事実上あまり顧みられてこなかった。新自由主義を採用したどの国でも、公益の領域は縮小していた。
 新自由主義は国によって異なる現れ方をしてきた。米国では、次のような公益分野が取り消されたり周辺においやられたりしている。精神疾患の治療、豊かな国ではとうぜんなさるべき水準の科学的調査、だれにとっても手の届く高等教育、公園やレクリエーション施設、広義のインフラストラクチャー、公衆衛生など。そうした分野に必要となる適切な資金が削られているのだ。以上はごく一部の例にすぎない。だが、それだけでも公益が周縁においやられているという感は否めない。
 オレゴン州で、公益を圧縮する動きがあらわになったのは、1990年の州法案5が可決されてからである。この法案は財産にもとづいて支払われる教育税に限度を設けるもので、そのころ新自由主義が支配的になりつつあった米国では、税制見直しの波が各地をおおっていた。
 日本人は新自由主義によって国の公益から押しだされた部分を何とか維持しているといえるだろう。それは日本が幸いにも米国や英国、西欧諸国ほどには新自由主義を取り入れなかったためである。それでも新自由主義は日本でも公益の領域を減少させてきた。
 その間、社会経済的な不平等は次第に深刻さを増していた。純粋市場なるものにすべてを委ねるべきだと主張した人たちは、2007−2008年の金融危機以降におきた景気悪化を自分たちの責任としてとらえようとせず、むしろリベラルすぎるオバマ政権の大きな政府による「救済措置」に非難の矢を向けた。とはいえ、その救済措置は、そもそも直近のブッシュ政権の政策を引き継いだものだったのである。
 しかし、すべては純粋市場まかせという王様は、今やまさに裸の王様なのだ。トランプ大統領に督促されて、共和党支配の上院は2兆ドルの経済救済対策を満場一致で可決した。市場への不介入を信条とするある下院議員は、下院でこの救済措置を阻止しようとしたが、民主、共和両党からも変人扱いされるほどだった。
 私自身の立場を明らかにしておこう。私は各国政府が世界経済システムの崩壊を防ぐために努力していることに反対しているわけではない。また、資本主義に反対しているわけでもない。
 しかし、アメリカ社会のあらゆる領域に行き渡っている市場こそすべてという考え方、実際には市場の私物化にだまされないようにすべきだと考えている。というのも、連邦準備銀行による2兆円の経済措置をはじめとして、市場への大幅介入という基本的な対策自体が、市場こそすべてという観念が神話にすぎないことを示しているからである。
 市場が働けば働くほど社会全体がよくなるという考え方は間違っている。願わくば、そのことを世界中の人々が認識してほしいものだ。
 医療関係者が必要とする個人防御具(PPE)が絶望的に不足している惨状を市場が魔法の力で解決してくれるわけではないことを、われわれは学びつつある。市場はそれでも事態の改善にそれなりの役割を果たすかもしれない。しかし、市場だけでは公益を提供することができない。
 いったんこのウイルスを克服しても(次にやってくる公衆衛生上の脅威に備えることも含めて)、ほかにも市場の力だけにまかせておくべきではない社会の分野があるということを覚えておかなければならない。公益の範囲をふたたびいかに拡大していくかを、もう一度考え直す必要がある。自分たち自身の歴史を振り返ってみても、それは資本主義を廃止しなくてもできることなのである。





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勝手にブックカバーチャレンジ [雑記]

このところSNSで7日間ブックカバーチャレンジというのがはやっているようです。コロナ禍で家に閉じこもるのを余儀なくされているなら、せめて読書の楽しみをみつけようという提案。まことに結構なことです。
ぼくのほうは、まさしく黄昏で、友達がどんどん亡くなって、いよいよ人生の終末期が近づいてきました。思い出だけが新しいと感じる毎日です。
平凡なサラリーマン生活を約35年送りました。そのうち15年が営業関係、20年が書籍編集関係の仕事。無能な編集者でした。
この年になると、恥も外聞もなくなります。自分のつくった本から、勝手にブックカバーを並べてみました。いろいろ思い出はありますが、とくに説明はいらないというので、昔の記念として並べてみました。7冊ということですが、少し増えてしまいました。

斎藤茂男『妻たちの思秋期』(1982年)
斎藤さんの本は「日本の幸福」シリーズで、何冊も出しました。
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辺見庸『もの食う人びと』(1994年)
もう一冊エッセイをまとめました。
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横川和夫『仮面の家──先生夫婦はなぜ息子を殺したか』(1993年)
横川さんと保坂渉さんの本は何冊も出しました。『かげろうの家』もそうですね。
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ロバート・マクナマラ『マクナマラ回顧録──ベトナムの悲劇と教訓』(仲晃訳、1997年)
もう一冊、ベトナムとの対話をまとめた本を出しました。
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春名幹男『秘密のファイル──CIAの対日工作』(上下、2000年)
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工藤幸雄『ぼくとポーランドについて、など』(1997年)
『乳牛に鞍』という本、翻訳本も出しました。工藤先生の家にはよく出入りさせてもらいました。
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小野寺百合子『私の明治・大正・昭和──戦争と平和の八十年』(1990年)
ほかにも何冊か。『バルト海のほとりにて』は改訂版をつくりました。
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ノーマン・デイヴィス『ヨーロッパ』(全4巻、別宮貞徳訳、2000年)
『アイルズ』という大著も出しました。
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ドン・オーバードーファー『二つのコリア──国際政治の中の朝鮮半島』(菱木一美訳、1998年)
マンスフィールドの本もありましたね。
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ポール・ジョンソン『現代史』(全2巻、別宮貞徳訳、1992年)
最初に出したのは『インテレクチュアルズ』(1990年)です。ポール・ジョンソンの本は何冊も出しました。別宮先生は大恩人です。
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マルク・ド・ヴィリエ『ウォーター──世界水戦争』(鈴木主税訳、2002年)
鈴木先生には、ジェームズ・マンの『米中奔流』や『ウルカヌスの群像』など、多くの本でたいへんお世話になりました。
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ケネス・ルオフ『国民の天皇──戦後日本の民主主義と天皇制』(高橋紘監修、木村剛久・福島睦男訳、2003年)
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ジョン・バリー『グレート・インフルエンザ』(平澤正夫訳、2005年)
これは傑作です。平澤先生とは『ダムはムダ』という本もつくりました。
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もうきりがないですね。このへんでやめておきましょう。みんな懐かしい思い出です。以上、ステイ・ホームの身辺整理でした。それにしても昔の本なのでカバーが汚れてしまっています。

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ことしもいろいろお世話になりました [雑記]

たぶんそんなに長生きしないだろうと思っていたのに、70の坂を越えておかげさまで71歳を迎えることができました。
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山田風太郎の『人間臨終図巻』(1986〜87)を読むと、71歳で亡くなった人として、こんな人がリストにあがっています。

近松門左衛門、ダニエル・デフォー、本居宣長、司馬江漢、松平定信、オノレ・ドーミエ、古河市兵衛、児島惟謙、コナン・ドイル、新渡戸稲造、島崎藤村、野口遵、市村羽左衛門(十五世)、斎藤茂吉、大川周明、レイモンド・チャンドラー、花柳章太郎、江戸川乱歩、佐藤千夜子、劉少奇、柳家金語楼、ハワード・ヒューズ、平野謙、山岡荘八、近藤日出造、笠置シズ子……

山田風太郎の評伝はいずれもすばらしいものですが、なかでもぼくのお気に入りは、近松門左衛門がみずからの画像に記した最後の賛です。

〈……市井(しせい)に漂いて商買知らず、隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、物知りに似て何も知らず、世のまがい者、唐(から)の大和の数ある道々、技能、雑芸、滑稽の類(たぐい)まで知らぬ事なげに、口にまかせ筆に走らせ一生を囀(さえず)り散らし、今わの際(きわ)に言うべく思うべき真の一生事は一字半言もなき倒惑(とうわく)〉
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これからもいましばらく、さえずりちらすことができれば、もっけの幸いです。

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『山片蟠桃の世界』を上梓 [雑記]

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しばらく、本づくりの作業に没頭していて、このブログもほとんど休眠状態でした。
やっと本が完成しました。
タイトルは『山片蟠桃の世界』。上下巻で、原稿の量は400字で1300枚あります。
AmazonのKindle本で買うことができます。Amazonで「山片蟠桃の世界」と検索してみてください。
Kindleブックを持っていなくても、パソコンで読むことが可能です。
お値段は上が108円、下が107円です。
その序だけ以下に示しておきますが、中身は物語で、けっしてむずかしくありません。古文の直接引用もありません。
よろしければ、お読みください。

  序

 升屋小右衛門は浪華でもよく知られた伝説の商人だった。
 だが、かれが蟠桃という別の名前をもっていることは、ほとんどだれも知らなかった。
 山片蟠桃は徳川時代後期に新たな知の可能性を切り開いた思想家である。近代の知への扉を開けたこの経済人は、ある面で近代を激しく拒否する人でもあった。
 近代とは国家幻想と産業社会の膨張に彩られる時代である。その近代が近づく予感に、かれの知はあらがおうとしていた。
 人は生まれながらにして自由で平等ではない。身分の枠はきびしかった。だが、知の前に自由と平等は開かれる。たとえ身分や役割にしばられていても、人はそれぞれ知を得るところから出発しなければならない。
 そのためには、まず神仏や鬼神のもたらす虚妄をしりぞけ、現実を見つめる必要がある。格物致知は世界が神秘化・絶対化へと逆行するのを防ぐための営為にほかならなかった。
 蟠桃は個々の知が大知へと結集し、公共の場が形成されていくことを願っていた。かれにとっては市場こそが、そうした大知のあらわれだった。だが、大知がつくられるのは、もちろん市場においてだけではない。政治における大知こそが求められていた。
 蟠桃の知は西洋に向けて開かれていた。だが、その根本は儒の教えである。儒の教えは普遍と信じていた。それは単なる道徳や秩序意識ではない。人の生き方を示す普遍的な思想だった。
 和魂洋才ではない。東洋道徳西洋芸術(技術)でもない。洋学はあくまでも普遍的な儒学のなかに吸収されるべきものとして存在した。
 人は時代の制約をまぬかれない。それでも、かれは成熟する江戸文明のなかを懸命に生きた。
 これは大坂船場の商人、山片蟠桃をめぐる物語である。

 ブログもぼつぼつ再開したいと思います。
 今後ともよろしくお願いします。

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電子本をセルフ出版してみました [雑記]

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 2カ月ほどブログを休んでしまいました。
 その間、つれあいとウズベキスタンツアーに出かけたりもしたのですが、家ではもっぱらセルフ本をつくっていました。
 とりあえず、これまでホームページにまとめていた「渋沢栄一」と「柳田国男」を電子本にしてみたのです。「渋沢」は全4冊、「柳田」は全5冊、アマゾンのキンドル版としてともに発売中です。
 自費出版するという考え方もあったのですが、おそらく膨大な費用がかかるし、たとえそれぞれ100部ずつつくっても、全部で900冊になり、それを配るとなると、またたいへんです。もらう人も迷惑でしょう。
 そこで、たまたまなのですが、無料でセルフ本をつくり、それをKindleストアで売るという選択肢があることを知りました。
 無料でつくれて、しかもそれが売れれば収入になるというのは、年金生活者にとっては、まことにありがたい話です。
 さっそく挑戦してみました。
 電子本をつくるには、テキストをまずepub形式にしなければなりません。
 ボイジャーという会社が無料で提供している「ロマンサー」を使えば、ワードの原稿をこのepub形式に変えられることがわかりました。しかも、横書きの原稿を一挙に縦書きに変換することも可能なのです。
 ところが、縦書きにすることを考えると、できれば元の横書き原稿を手直ししたくなります。
 厄介なのは算用数字を漢数字に直すことですね。別に洋数字のままでもいいという考え方もありますが、われわれのような年代はどうしても縦書きには漢数字を使いたくなります。そのためには「置換」という便利な機能を利用します。
 さらに問題なのは年号ですね。たとえば「昭和30年」は「昭和三〇年」でもいいのですが、できれば「昭和三十年」としたいと思ってしまいます。これはひとつひとつ直していくしかありません。
ルビをつけるという作業もあります。そのとき、ふつうに打つとワードでは行間にばらつきがでてくるため、ルビを入れても行間が変わらないよう書式を変更する必要があります。そのこと自体はわかってしまえば簡単ですが、ルビをつける作業がけっこう手間取りました。
 そして、だいじなのは原稿の読み直しですね。ぼくの場合は、おそらく400字で3500枚くらいありましたから、これに目を通すのに、けっこう時間がかかりました。
 この3500枚を9冊分に分けて、1冊分ずつ、さあロマンサーで変換してみます。指示どおり、作業を進めると、あっというまに縦書きのepub形式原稿ができあがりました。
 これを本のかたちにするには、表紙も必要になってきますね。表紙をつくるための無料ソフトもあるようですが、ぼくの場合は、正月に年賀状を送るのに利用している「宛名職人」で作業をしてみました。これはちょっと邪道かもしれませんが、試行錯誤の末、上のように意外と簡単にできました。
 さて、これで出版の準備が完了。あとはKDP(Kindle Direct Publishing)に登録して、いよいよ出版です。
 指示どおりに進めていくと、これも簡単。本の内容紹介もいれて、できあがり。これでOKのボタンを押します。
 しばらくすると、メールに「上記の本を審査したところ、Webで無料公開されているコンテンツが含まれていることが判明しました」との警告が送られてきて、どっきりしますが、これは著作権についての確認です。そこで、指示どおり、この本の著作権が自分にあることを証明すると、審査に合格し、無事出版の運びとなります。
 Kindleの本はAmazonで発売されます。自分の本がAmazonに並んでいるのは気持ちがいいものですね。しかも、それが無料で制作できるのですから、最高です。
 一応定価をつけることになっているので、ぼくの場合は最低価格の0.99ドル(109円から111円)としました。著作権料は35%です。つまり1冊売れると税引きで約30円が、銀行口座に振り込まれるわけです。
もっとも、それが売れるかどうかは別問題です。しかし、たとえ売れなくても、すぐお払い箱にならないのがありがたいところ。とりあえず、いまのところAmazonで販売中の本として並んでいます。
 こうして、2カ月にわたるぼくの出版事業は一段落しました。
 これまでこのブログに書いてきたものをまとめると、あと5、6冊本ができそうですが、とりあえずは一服。
 また、ブログに戻りたいと思いますので、これからも、よろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。

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70歳で死んだ人 [雑記]

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旧臘、めでたく満で古稀を迎えた。
 このところ70の坂を越えられずに散った友人知己の訃報を聞くことが多くなった。自分もそろそろあぶないかなと思う。
 市の健診で再検査となったので、何かまがごとが起こらねばよいが、と内心、ひやひやしていた。しかし、それもどうやらクリアし、あっというまに誕生日がやってきた。
 実際70歳になってみると、別段、何ということはない。正月がきても、きのうと変わるところもなく、毎日があっという間にすぎていく。
 それでも、この齢になると、やはり死が追いかけてくることを、どこかで意識せざるをえない。めでたく70歳になったので、どんな人が70歳で死んだかを知りたくなった。
 そんなどうでもいいことを教えてくれる便利な本がある。山田風太郎の『人間臨終図巻』だ。
 ぼくのもっているのは徳間文庫の3巻本で、70歳で死んだ人は第2巻の終わり近くにでてくる。
 そのメンバーをざっと並べてみよう。

ピタゴラス(前570頃―前500)
ソクラテス(前469頃―前399)
マルコ・ポーロ(1254−1324)
兼好法師(1283?−1353?)
コペルニクス(1473−1543)
ライプニッツ(1646―1716)
シーボルト(1796−1866)
アンデルセン(1805−1875)
ワーグナー(1813−1883)
水野広徳(1875―1945)
真山青果(1878−1948)
広田弘毅(1878−1948)
宇野浩二(1891−1961)
吉川英治(1892−1962)
高群逸枝(1894−1964)
大宅壮一(1900−1970)
サトウハチロー(1903−1973)
戸村一作(1909−1979)
大平正芳(1910−1980)
オーソン・ウェルズ(1915−1985)

 本書の原本となる単行本は1986年と1987年に2巻で出版されているから、その後も調べれば70歳で死んだ人のリストはもっと広がるはずだ。
 それにしても、そうそうたる人が70歳で亡くなっている。もっとも何歳でも亡くなっても、この本で取りあげられているのはそうそうたる人物にちがいないのだが……。
 しかし、こうやって並べてみると、どの人も身近に思えてくる。というか、年の数だけでも、自分がこういう偉人と肩を並べることができて、すっかりいい気分になってくるから不思議なものだ。
 何といっても山田風太郎(1922−2001)の筆がさえている。この人こそ天才だった。
『人間臨終図巻』は、文庫でもう1巻ある。それを眺めていると、ひょっとしたら自分も80の坂を越えられるかもしれないと、ついほくそえんだりして……。
70歳で亡くなった吉田兼好の『徒然草』にこうあるそうだ。

〈死は前よりしも来らず、かねて後(うしろ)に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。〉

 死は前からやってくるのではなく、後ろからとつぜん迫ってくる。いつの間にか潮が満ちるように。兼好さん、さすがにうまい。
 チコちゃんに叱られるかもしれないが、最近は毎日ぼーっと待ってればいいという気分になっている。

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ふたつの書評 [雑記]

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 このひと月、翻訳にかかりきりだった。
 いずれまたゲラがでると忙しくなるかもしれないが、とりあえず終わって、しばらくぼんやり。急ぎの仕事は苦手だし、からだにもよくない。血圧が上がる。
 原稿にして約330枚。そのうち約210枚をひと月で訳した。それ以外は以前に訳してあったものだ。それほど英語ができるわけではないから、翻訳は難行苦行となる。正直いって、もうご勘弁を、という感じになってしまう。
 順調に行けば、本はたぶん来年1月か2月に、朝日新書で発売される予定だ。
 仮にケネス・ルオフ著『ハーバード講義 平成の皇室』とでもしておこうか。
 内容を全6章にわけてみた。

 第1章 明仁天皇の退位をめぐって[ポートランド州立大学講演]
 第2章 遅すぎた退位論議[『世界』2016年11月号]
 第3章 「国民の天皇」の誕生[ハーバード講義Ⅰ]
 第4章 平成の皇室をふり返る[ハーバード講義Ⅱ]
第5章 次代の皇室をめぐって[ハーバード講義Ⅲ]
第6章 宮崎、日本、アジア大陸──1940年と2020年[宮崎講演]

 初版だけでも、何とか売れてほしい。
 ところで、きょうはwebronza(ウェブ論座)の無料書評「神保町の匠」を読んでみた。9月までぼくもメンバーだった、このコーナー。
 読み残しの本がたまってしまって、最近は新刊を読むのがおっくうになり、担当を降ろさせてもらったのだが、それでも、やはりみんなどんな書評をしているのかが気になる。
 きょうは今野哲男さんによる『現代社会はどこに向かうか』(見田宗介著)と、松本裕喜さんによる『文字と組織の世界史』(鈴木薫著)を読ませてもらった。どちらも、とてもおもしろかった。
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2018100100004.html
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2018100100005.html
じつは、この2冊はすでにぼくも買ってあったのだが、これまで読む時間がなかった。
 それで、まず『現代社会』のほうだが、最初に生物学のロジスティック曲線の話がでてくる。
 一定の環境下に生物種をおくと、最初はゆっくりと増殖し、次に爆発的な増殖期がつづき、最後は安定期にはいる。この経過を曲線で示すと、S字を斜めに伸ばしたようなかたちになる。これがロジスティック曲線だ。
 ただし、これは成功例で、環境資源を過剰に消費し、安定平衡にいたらず、途中で絶滅する種もあるという。
 さて、人類はどこに向かっているのか。絶滅か安定平衡か。
 その曲がり角になったのが1970年代だという。そこからせめぎあいがはじまった。ひとつはなおも高度成長を追求するのか、それとも「安定平衡期」に向けて軟着陸をめざすのか。
 加速に加速を重ねてきた人類は、空虚感にさいなまれるようになった。それでも、先に先にと突っ走れば、あとは絶滅するほかない。それが、どうも著者の見立てのようだ。
 人類はみずから自分の内側を見直さねばならない時期がきているという。
『サピエンス全史』のような本がベストセラーになったのも、そのためだろう。
 創造的破壊をくり返すのではなく、安定平衡に向かって進化するということだろうか。これはじっさいに読んでみないとわからない。
 もうひとつ『世界史』のほうは、文字と組織(政治や宗教)を軸にして、世界史を組み替えようという壮大なこころみだ。
 人類最初の文字はメソポタミアの楔形文字(紀元前3100年)。
 そのあとエジプトの象形文字ヒエログリフ。それがフェニキア文字やアラム文字に発展する。
 ギリシア人が文字をもつようになるのは紀元前8世紀半ばで、フェニキア文字をもとにしている。
 その後、ローマ帝国はギリシア文字をベースにラテン文字を創出する。
 インダス文明は紀元前18世紀ごろ滅亡するが、すでにつくられていたインダス文字は解読されていないという。
 その後、西北インドに進出したアーリア人は、サンスクリットをつづるためにブラフミー文字を発明した。
 中国では紀元前1500年ごろ、殷王朝で甲骨文字がつくられ、紀元前11世紀ごろ、周王朝のもとで、いわゆる漢字となった。その書体を統一したのが秦の始皇帝である。
 アラビア文字がつくられたのは、紀元7世紀、アラビア半島にムハンマドが登場してからだ。
 文字は国家の広がりと深く関係している。
 書評にいう。

〈こうして西欧キリスト教世界の「ラテン文字」、東欧ギリシア正教世界の「ギリシア・キリル文字」、南アジア・東南アジアのヒンドゥー・仏教世界の「梵字」、東アジア儒教・仏教世界の「漢字」、イスラム世界の「アラビア文字」の五大文字世界が定着し、それは現代にも続く世界の枠組みだと著者はみている。
これまで世界史と言えば近代文明の覇者西欧を中心とする世界史であった。著者はこの本で世界の文明・文化の歴史的変遷を「文字世界」というフィルターを通して展望し、西欧中心でない、新たな「世界史」の見取り図を描こうとしたという。〉

 世界史は、こうした五大文字世界の対立と抗争を含む交流関係によってつくられ、いまもそれはつづいている。
 ぼく自身の興味からいえば、こうした世界史の発展に、「商品世界」がどんなふうにかかわっているかということだ。著者はそのことにどうふれているのだろうか。これもじっさいに読んでみないとわからない。

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ケネス・ルオフ先生の講演 [雑記]

[2017年7月8日に宮崎公立大学で開かれた、日本国際文化学会でのルオフ先生の講演です。拙訳をもとにした日本語による講演でしたが、学会講演のため、あまり目にふれる機会がないと思います。意義深い内容を含んでいますので、あえて本ブログで紹介する次第です。]


 ケネス・ルオフ「宮崎、日本、アジア大陸──1940年と2020年」

 日本国際文化学会、とりわけ倉真一先生のお招きにより、この全国大会でお話しできることを喜んでおります。おかげで、宮崎にまたやってくることができました。私が宮崎を最初に訪れたのは2005年で、現地調査をするためでした。はたして、うまくみなさんの興味を引く話ができるかどうかわかりませんが、近代性と観光の関連について論じてみることにします。
 1945年8月の日本敗戦後、アメリカ占領軍によって始められた改革の多くは、日本から「封建的」側面を根絶するために必要だとして正当化されました。しかし、私は主張したいのですが、たとえば1940年の日本は、世界でも、もっとも近代的な国家のひとつだったのです。
 近代性の明確な定義については、歴史家のあいだでも、そのほかの社会科学者のあいだでも、意見が割れています。そこで、ここでは私なりの定義を示しておくことにしましょう。近代性には6つの側面が含まれると考えます。それは、産業化、国家意識、高度な集権国家、政治参加の広がり、大衆社会形態の広がり、それにグローバルな統合です。1940年前後についてみれば、近代性の定義として、ひょっとして、これに帝国主義を加えてもよいかもしれません。すると、近代性には7つの側面があるということになります。
 きょうの話は、ふたつの部分に分かれます。最初に1940年の宮崎に焦点を合わせましょう。近代性の定義については、しばしばふり返って、ふれることになります。

 1940年に日本は紀元二千六百年記念式典に合わせて、オリンピックを主催することになっていました。歴史を知らない人は、どうしてと思うかもしれませんが、当時、日本が「西洋以外」でオリンピックを主催する最初の国になるというのはたいへん大きな出来事でした。歴史的にみると、当時の日本は、いわゆる非西洋諸国で、唯一近代化された国でした。そして、日本の近代化は、人種、文化、宗教からみて、近代性は欧米だけのものという考え方に疑問を投げかけました。いまでは、われわれは近代性が世界のどこでもあてはまることを知っています。しかし、1940年には、いまのように、それがはっきりとはしていなかったのです。
 ご存じのように、日本はいわゆる「支那問題」によって、1940年のオリンピックを断念することになりました。日本は今日、別の「中国問題」に直面していますが、この話題については、のちほど立ち戻ることにしましょう。
 近代日本が1940年において実際どんなふうだったかを知るひとつの手立ては、観光について見てみることです。観光は昔もいまも、近代性のさまざまな側面と関連しています。不思議なことに、1940年に帝国日本は観光のピークを迎えました。1940年といえば、戦時です。しかし、この年に観光が盛んだったということは、はたしてどの程度、日本人が「暗い谷間」を経験していたかという疑問を提起します。
 1940年にいたるまで、宮崎県は何年にもわたって、官民一体で県を「日本発祥の地」、すなわち天孫降臨の場所として印象づけようと努力してきました。このブランド戦略のもうひとつは、神武天皇が紀元前666年に東征に出発した場所がまさに宮崎だったと主張することでした。そして、その6年後に、天皇による統治がはじまったとされることになります。ここで、神武天皇の東征ルートを示す、いかにももっともらしい「地図」を示しておくことにしましょう。この地図は1940年の旅行ガイドに掲載されていました。
[神武東征図]
 地元の商人のなかには、皇室の神話を全面活用して、稼ぐ者もいました。ここでご覧いただくのは、美々津の[本店は宮崎]松月庵菓子舗の団子を勧める広告ですが、1939年12月号の旅行雑誌『霧島』に掲載されたものです。この菓子屋は、団子のつくりかたは神武天皇の時代と変わらないと説明していました。
[松月庵の広告]
 美々津という海辺の村は、ここがまさに神武天皇が東征に出発した場所だと印象づけていました。実際、1940年以前から、美々津にある立磐(たていわ)神社は、神社の境内にある特別の岩こそが聖なる岩だと言い切っていたのです。それは神武天皇が差し迫る遠征に備え、一服して腰を下ろした「御腰掛け岩」と呼ばれていました。1939年に多くの読者をもつ女性雑誌『婦人倶楽部』は、人気のある詩人で歌人でもある西条八十(さいじょう・やそ)に依頼して、「肇国(ちょうこく)の聖地巡礼」という紀行を書いてもらっています。その紀行の二回目には、5枚の写真が掲載されていますが、その1枚には、西条が立磐神社の岩に参拝する様子が写っています。
 すでに1920年代には、日本での観光を促進するために、さまざまな形態の大衆文化を動員することが盛んになっていました。日本の大衆文化の多様な広がりを追求するには、観光は絶好の手がかりなのです。もちろん、観光それ自体も、大衆文化であります。
 しかし、ここで強調しておきたいのは、宮崎が重要な「国の史跡」の本拠地だと主張するようになったのは、近代になってからだということです。もし国民国家が、たいていの学者が主張するように最近の産物だとするなら、「国の史跡」という概念も、国民国家と同様、近代の産物なのにちがいありません。明治時代に国家宗教となった万世一系イデオロギーは、文書化され、しばしば皇室ゆかりの地という国家的地勢をつくりだしました。したがって、宮崎が、みずからを日本発祥の地として印象づけようとしたことは、近代的な国家意識をつくりあげる、より大きなプロセスの一環だったのです。
 天皇家のはじまりを祝う紀元二千六百年に、日本発祥の地と称する宮崎は、旅行客を引きつけるうえで、かなり有利な立場にありました。宮崎はわりあい遠い場所にあるため、1940年には、たとえば奈良県のようなほかの地域ほど、多くの旅行客を引き寄せることはできませんでした。これにたいし、奈良県などが人を引き寄せたのは、神武天皇や歴代皇室との密接なつながりを強調しただけではなく、実際に人口密集地に近かったからです。
 しかし、「遠さ」というのは相対的なものです。1920年代には、宮崎はすでに鉄道で九州のほかの地域と結ばれ、フェリーや汽船で帝国全域とつながっていました。近代性、この場合は産業化が進展したおかげで、宮崎は以前ほど遠い場所ではなくなりました。そして、1940年に宮崎市にやってきた旅行客は、簡単に地元のバス観光を利用することもできたのです。大日本帝国の全域では、内地、外地を問わず、たいていの都市で、主な場所に行くバス観光を利用することが可能になっていました。
 1940年に高千穂奉祝会が発行した絵葉書セットでは、宮崎は「日本民族のふるさと」であり、「日本精神の発祥地」であるとうたわれています。この絵葉書セットはさらに「日本人ならば一生に一度は必ずこの聖地を訪れて肇国の大精神を体得すべきではあるまいか」とも述べています。
 一見すれば、観光は政治とは無縁な活動と思えるかもしれません。しかし、ある種の観光は密接に政治と関係しているのです。私にいわせれば、国の史跡観光は、政治参加を拡張したものにほかなりません。1940年には、多くの評論家が、神武天皇ゆかりの地を訪れるのは「国民的行事」だと述べていました。
 私は「自主的な国民養成」という言い方をしていますが、これはじつに多くの人びとが、日本だけではなく、世界のあちこちまで、自主的に国の史跡がある場所を訪れる事実を指したものです。
 1940年の宮崎の主な観光資源といえば、天皇神話をもとに発展した史跡と、おそらく青島で味わうことのできる亜熱帯気候、それに砂浜から霧島国立公園を含む山岳地帯へと広がるさまざまな風景でした。1940年には、しかし、宮崎で、現在、不思議なことに「平和の塔」という名前で知られる、新たな施設がすでにつくられていました。1940年に、この塔は公式には「八紘之基柱(あめつちのもとばしら)」と名づけられ、一般には「八紘一宇(はっこういちう)の塔」と呼ばれていました。
[雑誌『霧島』から塔のイラスト]
 最初に平和の塔の内部を見学したとき、私は、この塔は、万世一系のイデオロギーをもとに、軍事的手段による拡張を正当化するためにつくられた大建造物のひとつだと思いました。
 地元の市民団体によると、「平和の塔」建設にあたって持ちこまれた石のひとつは、中国の万里の長城のものだったといいます。中国に駐在していた帝国軍人が宮崎に送ったようです。ですから、日本全体と同じように、1940年の宮崎が当時の帝国主義と関連していたことに、ほとんど疑問の余地はありません。

■日本と2020年の宮崎
 2020年に日本は4回目のオリンピック(夏季大会と冬季大会がそれぞれふたつ)を開催することになっています。その聖火リレーは、東京に向かう途中、とくに「日本発祥の地」宮崎を通過する予定になっているのでしょうか。もちろん、1940年以降は大きな変化がありました。とはいえ、そこにはある種の持続性もあります。
 倉先生が送ってくださった現在の観光案内資料と、この問題について先生が発表した論文によると、宮崎が観光客へ売り込んでいる材料には、戦前戦後を通じて、多くの面で持続性があります。現在の旅行案内の説明では、天皇伝説にちなむ場所を宣伝するさいに、「神話」という用語が強調される傾向があります。1940年には、こうした天皇伝説はしばしば事実として描かれていました。しかし、現在も天皇伝説は自然環境と合わせて大いに紹介されています。ここで、現在の観光用ポスターと絵葉書をお見せしておきましょう。
[写真]
 宮崎市の観光案内のスローガンが「自然と神話と食の宝庫」となっていることもつけ加えておきましょう。
 こうしたつながりを、はたして1940年からつづく持続性とみるか、それとも非持続性ととらえるべきかは、何ともいえません。しかし、この80年来、近代化は世界じゅうで、絶え間なく進展しました。中国は近代化されました。何千万、いやおそらく何億もの中国人が、いまでは少なくとも年に一度、余暇旅行ができるだけの収入を得るようになっています。これは1940年までに日本人の多くが達成していたことでした。1940年には、驚くほどの数の日本人が、アジア大陸を訪れ、たとえば旅順などの場所を楽しんでいたものです。
 中国では2017年にいたるまで、猛烈な勢いで、国の史跡景観がおびただしく開発されています。その史跡景観で強調されるのは、長期にわたる中国の栄光だけではなく、「屈辱の世紀」のあいだ中国が堪え忍んできたトラウマについてでもあります。現代中国の旅行部門は、1940年まで日本の旅行部門が経験した近代化の局面を同じように横断しています。
 中国を統治する政権は、革命的社会主義をとりやめ、次第にナショナリズムを持ちだして、自己を正統化するようになっています。そのため、中国では国の史跡の場所でくり広げられる語り口は、実質的に中央政府によって統制されているといってよいでしょう。踏み越えてはならない境界や、口にしてはならない話題があるわけです。おおざっぱにいうと、これは1940年の日本の史跡景観でも同じでした。とりわけ天皇がらみの場合は、決まり切った言い方しか許されていませんでした。国の史跡景観を統制する政府の役割を、どう比較すればよいかは、私の定義する近代性のもうひとつの側面、すなわち強力な中央集権政府のあり方とかかわってきます。
 21世紀の宮崎は、積極的に韓国人や中国人の観光客を迎え入れています。そのことは、宮崎が多くの言語のなかでも、韓国語や中国語の案内パンフレットを発行していることをみてもわかります。
[写真]
 中国人旅行客は、きれいな空気と概して快適な自然環境を求めて、宮崎にやってきます。それは何十年間も、日本人を引きつけてきたのと同じ要因です。私は、自分の大学の中国人大学院生に頼んで、中国のウェブサイトで、宮崎が中国の旅行客にどのように宣伝されているかを調べてもらいました。またかつて宮崎を訪れた中国人旅行客がネットにどのような旅行記録を書き込んでいるかも分析してもらいました。
 その結果はきわめて暫定的なものでしたが、私が感じたのは、宮崎の観光産業とつながりのある人物なら、その調査をみてほっとするのではないかということでした。その調査では、中国の旅行客は、たとえば「平和の塔」が平和的な歴史にはほど遠いつながりをもっていることなどに、まったく無頓着でした。……したがって、私の知るかぎり、宮崎自体は、まったく「中国問題」をかかえていないことになります。
 しかし、日本は全体として、台頭する中国と向き合わねばなりません。中国と日本の関係は、中国側のいう「屈辱の世紀」によって、いまも形づくられています。中国が自由民主主義国でないことは明らかです。ですから、日本人が暗い歴史の側面についても、自由に論じることができるのに、中国人は中国共産党がもたらした暗黒の断面を含め、自国の歴史をありのままに表現することが許されないのです。みなさんが次のことをご存じかどうかわかりませんが、私を含め日本史の国外専門家は、中国のマスメディアから日本史の暗い側面について聞かれても、それについて意見を述べようとしなくなっています。その理由は単純です。そのあと、われわれのコメントがプロパガンダ目的に利用されることが目に見えているからです。中国は異質な政治システムをもっているため、公平な立場で中国側と歴史について論じることはきわめて困難です。
 にもかかわらず、日本人は誤った側面を含め、みずからの近代史に誠実であるべきだと思います。そして、それは何よりも自身のためでもあります。私はそれがアメリカ人の場合でも、またアメリカの歴史にたいしても、同じ必要性を感じます。日本人のなかには「謝罪はもうたくさんだ」という人がいるかもしれませんが、私は日本人にとってもっとも正しいのは、帝国日本の行動が中国や朝鮮などの場所で人びとにどのような影響をおよぼしたかを理解するよう努めることだと思います。
 そこで、歴史家としての私からみれば、たとえば宮崎県は「平和の塔」を次のような史跡に転換するのがよいと考えます。その施設では、悪意に満ちた国家イデオロギーが支持されることで、歴史がねじ曲げられ、悪用されるならば、史跡が嫌悪すべき危険な手段となることが、はっきりと強調されねばなりません。率直にいって、この塔を安直に「平和の塔」と改称したことには、少なからぬ問題があります。この塔は、次世代の日本人のために、自国優先で対外強硬的なイデオロギーがいかに危険かを示す教育の場に変えていくべきだと思います。しかし、はたして宮崎県当局者は、私の提案を聞き入れてくれるでしょうか。残念ながら、そうは思いません。おそらく私の提案は日本の尊厳の守護者を自任する右派の人びとを憤激させることになるでしょう。
 現在、日本が直面する「中国問題」はじつにやっかいなものです。残念ながら、中国が何を意図しているかをはっきりと推し測る手段はないといってよいでしょう。願わくは、中国の意図が平和的なものでありつづければよいのですが、残念ながら、それが確かかどうかを明確に知る手段はないのです。
 それゆえ、講演を聴いておられるリベラル左派の方々は困惑するかもしれないのですが、私は率直に申し上げて、日本は中国にたいしてだけではなく、全般的に「反省しつつ、けっして弱腰ではない」政策をとるべきではないかと思うのです。「反省しつつ、けっして弱腰ではない」というのは、日本がいっぽうで帝国主義的な過去を反省しつつ、中国ならびにその他近隣諸国による脅威を抑止しうるに足る、じゅうぶんな自衛力をしっかりと築くべきだということです。
 とはいえ、日本はソフトな言い方のアプローチをとりつづけることが、だいじなのではないでしょうか。それは、たとえばこのような言い方です。「われわれ日本人は過去に近隣諸国の人びとに損害を与えたことをじゅうぶんに自覚しています。しかし、それでも、われわれは現在みずからを守る権利を有しており、日本が『再軍備』しているなどと、安直に非難するのはまちがっています」。そんな言い方です。私自身はおおむねリベラル左派の側に属していると思っておりますが、日本のリベラル左派の友人たちにはたいてい同調できません。というのも、彼らは近隣諸国の脅威に対処するために日本の防衛力を強化するのはいけないことだと考えているからです。
 さて、2020年のオリンピックが近づくにつれて、日本は世界にみずからの姿を示す時期になってきますが、私は日本の方向性として「反省しつつ、けっして弱腰ではない」という考え方を提示してみました。
[ご静聴ありがとうございました。]



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母のこと [雑記]

6月15日朝、母が亡くなった。
享年92。満でいえば、91歳5カ月だった。
高齢といえば、高齢にちがいない。
しかし、もっと長生きしてほしかった。
同い年の父とは21歳で結婚し、70年連れ添った。
店をやっていたから、24時間いっしょの生活。
店を引退しても、24時間いっしょだった。
残された父はいま寂しくて仕方ない。何かにつけ、涙ぐむ。
母は働きに働いた。
朝6時に店を開け、夜10時に店を閉めるまで、ずっと働いていた。
値札をつけるため、2時か3時ごろまで、仕事をすることもあった。
家庭と仕事の両立などというものではない。
家はすなわち店だった。職住接近もいいところである。
家族の食事をつくり、掃除をし、商売をし、仕入れに行き、帳面をつけた。
小学校のころは、美人の母が自慢だったものだ。
風呂焚きはぼくの仕事。かまどで、ご飯も炊いた。
あのころは、まだそんな時代だったのだ。
母は父といっしょに店を大きくした。
南本町にあったちいさな店は、鍛冶屋町の「銀座商店街」に移り、大きな店に変わった。
中学生、高校生になると、ぼくは学校の宿題や予習をしながら、たばこ屋となった元の店で、店番をするようになった。
あのころ受験のための塾などはなかった。
でも、学校の成績は悪くなかった。
町に大型店の「西友」が進出すると、両親は銀座商店街の店に加えて、「西友」にも出店するようになった。
あのころが店の全盛期ではなかったか。
ぼくは東京の大学に合格した。
父は浪人を薦めたが、ぼくは拒否した。
もう受験勉強などごめんだった。早く家を出たかったのだ。
だからといって、ほかに何か大きな目標があったわけではない。
東京・目白台の下宿まで見送り、別れるとき、車の助手席の母は泣いた。
箱根を越えるまで、泣きつづけだったらしい。
下宿生活をはじめると、ぼくはとたんになまけ者になる。
いつも下宿でごろごろしていた。
母が三叉神経痛で苦しむようになるのは、そのころからだ。
顔を洗っても、風が吹いても、頭半分に強い痛みが走るようになった。
いくつも病院を回り、注射を打ち、神経をブロックし、顔がゆがんだ。
母はそれに辛抱づよく耐えた。
ぼくはサークル活動にのめりこみ、デモや集会によく出かけるようになる。
大学は封鎖された。
封鎖解除になっても、授業には出なかった。
それでも、レポートを提出して大学を卒業したのは、彼女ができたからだ。
両親はぼくの将来に期待していただろう。
しかし、期待はずれの当人は将来など何も考えていなかった。
まともに就職活動もせず、東京で友達のいる総会屋系の出版社に勤め、結婚した。
それから、会社を替わり、マスコミ系の子会社にもぐりこんだ。
こころざしなど、あったものではない。
漂流していた。
けっきょく家は弟が継ぐことになった。
母は、自分の息子がこれからどうなるか、さぞかし心配したにちがいない。
しかし、なにはともあれ、大学を卒業し、就職し、結婚し、子どもも生まれたことを、母はだれよりも喜んでいた。
その後、個人商店にとって冬の時代がはじまる。
だが、その前に競争と拡張の時代がある。
店は「銀座商店街」の本店や支店のほか、大型店のなかに4つの店舗を構えるまでに成長した。
父はもちろんだが、母も必死ではたらき、弟も両親のはたらきを支えていた。
しかし、過剰競争のなか、もちこたえられなくなる。
揺り返しがやってくる。
赤字がでるようになって、両親は次第に3つの店舗を整理し、本店はジジババストアになった。
それでも母は店に立ちつづけた。
商店街にはほとんど人がこなくなり、にぎわった店がつぎつぎシャッターを下ろしていく。
夜逃げや自殺や事故死や過労死のうわさも聞こえてくる。
それでも母は父とともに、最後の最後まで店に立ちつづけた。
そして、70歳近くになって、ついに店のシャッターを下ろした。
驚くべきは、店を閉めたあとも、母がからだを動かしつづけたことである。
父は少し前から、200坪ほどの土地に庭をつくりはじめていた。
母は毎日それを手伝い、石を取り除いて、梅の木を植え、畑をつくった。
その木は育ち、いつしか50本の梅林になった。
花が咲くころには、庭を開放し、小さなあずまやに大勢の人が集まってくるようになった。
家のなかは、あいかわらず母の持ち分だった。父は何もしない。
母は庭仕事に加えて、家の炊事、洗濯、掃除と、ひっきりなしに動いた。
休むことを知らぬ人だった。
きょうのことだけでなく、あすのことに常に気を配っていた。
毎日、あすの分まで、はたらいていたのだ。
そんな母が、去年の夏ごろから弱りはじめる。
11月には黄疸がでて、市民病院に入院した。
胆管がん、ないし膵臓がんの疑いがあった。
黄疸を取り除くため、胆管にパイプを通す手術をおこなおうとしたが、うまく行かない。
そこで、明石の病院に移って、今度はようやく手術が成功した。
明石に見舞いに行ったとき、母は黄疸もとれて、元気そうだった。
少し痩せたものの、病院のなかを足どり軽く、さっさと歩いていた。
12月末には退院し、高砂の自宅に戻り、正月を迎えることができた。
父といっしょに、バスに乗り、イオンまで買い物に行けるほどだった。
急変したのは、買い物に行った翌朝である。
高熱が出て、手がふるえ、意識がなくなった。
かかりつけの医者を呼んだが、なかなか来てくれない。
弟が救急車を呼んで、ふたたび市民病院に入院した。
極度の脱水症状に加え、血糖値が1200まで上昇していた。
こんな数字見たことがない、と医者がいった。
懸命な措置のおかげで、何とか意識は回復した。
91歳の誕生日を迎えることもできた。
しかし、なぜか両手が動かなくなった。
姫路の病院でも診てもらったが、ついに手の動きは戻らなかった。
そのまま寝たきりとなって5カ月。
米田町の共立会病院で、息を引き取った。
そのとき、ぼくは妻と信州は車山の花畑のなかにいた。
母の頭は最後までしっかりしていて、毎日、弟の送り迎えで病院に見舞いにくる父ともよく話をしていたという。
毎月、4、5日見舞いにいくぼくとも、あれこれ昔のことを話し、うれしそうだった。
最後まで、痛みがほとんどなかったことが、せめてもの救いだった。
とつぜん酸素マスクがつけられ、あっという間に亡くなったのだ。
父も弟も10分遅れで、臨終に間に合わなかった。
しかし、ぼくのなかで母は生きつづけている。
おそらく母もぼくのことを思いつづけてくれているだろう。
いまはそんなふうに母の力を感じている。

1年をふり返って [雑記]

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 ことしも拙ブログをお読みいただき、ありがとうございました。
 わたしは閑居老人で、ほとんどどこにもでかけません。
 健康維持のため、1年ほど前から近くのジムに行くようになったくらいでしょうか。
 60歳から乗りはじめた車も、買い換えを機に、近くに住むようになった娘一家とシェアするようになってから、ほとんど運転しなくなりました。
 政治にはまったく興味がありません。といっても、いつも家内にはぶつぶつ感想を漏らしているので、迷惑がられているのですが……。
 定年になって会社をやめたときに、残りの人生をテレビばかり見てすごすのもつまらないと思い、いくつか自分なりに課題をつくってみました。
 まず柳田国男論を書き、そのあと商品世界論という漠然としたテーマを思いつきました。それから1970年代論というのも。これは思い出話のようなものですが、いっこうに進みません。
 年に1度か2度、家内と海外旅行に行けるようになったので、その記録もメモ付きの写真として残しておこうと思いました。何しろ、書いておかないと、すぐに忘れてしまうのです。
 窓際族扱いになっていた会社は、データ整理のような仕事ならあるといわれたのですが、60歳できっぱりやめ、フリーになりました。
 フリーといっても、文字どおり無職です。
 それでも、ありがたいことに声をかけてくださる方がいて、少しばかり翻訳や執筆の仕事をさせてもらいました。
『紀元二千六百年』と『蟠桃の夢』がその成果です。
 いまでもときどき翻訳と書評をやっています。このブログに新刊コーナーがでてくるのは、2カ月に1度、短い書評を書いているためです。その準備作業というわけですね。
 ところで、この1年をふり返って、ブログの成果はどうだったでしょうか。
 商品世界論というテーマは合切袋のように何でもかでもとりあえず放りこんでおくメモといったところですが、じつは前年から積み残しておいたジョン・ステュアート・ミルの『経済学原理』(正確には『政治経済学原理』)を読もうというのが、ことしの最大目標でした。しかし、最後まで到達しませんでした。5冊ある文庫のうち、何とか4冊まで読み終わったものの、5冊目を残してしまいました。これは来年に先送りですね。翻訳がわかりにくく、読みはじめると、いつも眠くなってしまうのも問題でした。
 その代わり、デイヴィッド・ハーヴェイの『〈資本論〉入門』全2冊を読むことができました。マルクスの『資本論』については、ミルのあと取り組もうと思っていただけに、この本はありがたかったと思います。残念ながら『資本論』をきちんと読み直す時間は、わたしには残されていないようです。
 積み残しの本でいえば、ミルのあと、マーシャルかワルラスを読むというのが本筋です。しかし、来年は少し飛ばしてケインズを読むつもりでいます。
 最近、多くの友人が倒れ、わたし自身も残り時間の少なさを感じるようになっています。だったら、もっと哲学書や宗教書を読めばよさそうなものですが、やはり世俗にこだわってしまいますね。
 いまでも新刊書は年間8万点前後出版されています。とても、つきあいきれません。もっとかろやかに、さまざまな本に目を通し、時事について論じることができればいいのですが、感受性がにぶいのは、昔からの性分のようです。のんびり進む(実際はうしろに戻る)ほかないようです。
 ことしは知己の在野政治学者、滝村隆一を失ったことにショックを受けました。昔のつきあいで、ぼくにも著書を送ってくれていました。その大著『国家論大綱』全3巻の読書は、途中で挫折しています。最後まで読まないと、顔向けができないので、これも来年に積み残しです。
 ことしもいろいろなことがありました。中東の混迷を背景に、世界じゅうが不穏なテロに脅かされるなか、中国はさらに大国化し、アメリカではトランプ新大統領が選出されました。日本は日米同盟強化一本槍で、中国に対抗しようとし、近隣諸国の人びとのことを考える真摯な視点すら見失っているようにみえます。
 わたしの周囲は、おかげさまで平穏です。90歳を越えた両親がさすがに弱ってきて、いなかの高砂に帰ることが多くなりました。幸い、弟夫婦が日ごろ両親の面倒をみてくれているので助かっていますが、家を飛びだして東京暮らしをするようになった長男としては心苦しいものがあります。
 ことしは次女のつれあいや友人のはからいで、ミュージカルや歌舞伎を楽しむこともできました。ラマンチャの男、マイフェアレディ、仮名手本忠臣蔵を見ました。
 夏休みには長女一家がイタリアから戻ってきてくれました。
 家内とはつつがなく暮らしています。家の仕事もよく手伝っています。
 事件といえば、空き巣にはいられたことでしょうか。わが家には、さほどめぼしいものはないのですが、それでも妻のアクセサリーをごっそりもっていかれました。
 あとは、テレビが壊れ、パソコンが動かなくなり、自転車がさびつき、仕方なくそれらを買い換えたという次第です。
 平々凡々たる日常ですが、わたし自身の取り替えはきかなくなりました。ゆっくり年をとっています。
 いずれにせよ、ことしも拙ブログにおつきあいいただき、ありがとうございました。
 ちなみに、ことしよく読まれた拙ブログの記事を以下に挙げておきます。

  小野寺百合子さんのこと
  『日本 呪縛の構図』を読む
  半藤一利『B面昭和史 1926-1945』を読む
  水野和夫『国貧論』をめぐって
  佐野眞一『唐牛伝』をめぐって 
  関曠野『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』を読む

 来年も、気楽におつきあいいただければ幸いです。