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がんばるねの滝 [雑記]

ことしも、いろいろとお世話になりました。
だいぶガタはきているものの、
こにくらじいさん、いまだ健在。
来年もよろしくお願いします。
ピレネー山中、がんばるね(ガヴァルニー)の滝にて。
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田能村竹田展 [雑記]

 先週金曜日(7月24日)、つれあいと東京の出光美術館で開かれていた田能村竹田(たのむら・ちくでん)展に行ってきました。
 田能村竹田(1777[安永6]—1835[天保6])は、豊後国(現大分県)竹田村(現竹田市)の出身で、江戸時代後期の文人画家(南画家)です。
 長年、見たいと思っていた竹田に会えたのは、ひとしおの感激で、ふだんは買わない図録まで買ってしまいました。
 家に帰り、図録を広げみました。
 何かもの足りません。
 そこで、あらためて思ったこと。それは、竹田のよさは図録ではわからないということでした。
 竹田の絵は、梅の枝や花、家屋の様子、人や馬をとっても、じつにこまかく描かれています。今回はガラス越しでしか見られなかったものの、それでも、それをじっと見つめていると、まるで自分が絵のなかに吸い込まれていくような気がしてきます。もっと間近で見てみたいと思ったものです。
 今回、展覧会で並べられた54点の絵のひとつひとつが味わいぶかいのですが、全部紹介するわけにもいきません。そこで、たとえば晩年の天保5年(1834)ごろに描かれた「春堤夜月図」のコピーを掲げておくことにしましょう。
 竹田の画風がどんなものか、わかっていただけると思います。
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 絵は春の月夜、堤の岸に立てられた書屋で、もの思いにふける王陽明を描いたものです。あるじのそばでは童子がうたたねをしており、庭では犬が月に向かって一声吠えています。
 その落款には、王陽明の詩が書かれ、その隣に漢文で、訓読すれば「右陽明先生の句、私淑の餘、敬んで其の意を写いて、洗心大塩君の清鑑に贈り奉る」との一文がつづられています。
 あっと驚きました。
 絵そのものはいかにものんびりした光景にみえます。俗世間から離れ、川のほとりで、静かに思索をめぐらす哲学者、王陽明の姿は、竹田にとって理想の生き方を描いたものだったにちがいありません。
 しかし、この絵は、竹田が、友人で陽明学者の大塩平八郎に贈ったものなのです。大塩平八郎といえば、「乱」を思い浮かべます。
 大塩平八郎が幕府に抗議して大坂で蜂起し、敗れるのは、竹田が絵を贈ってから3年後、天保8年(1837)春のことでした。
 絵では儒者もまた眠りかけているようにみえます。しかし、その脇におかれた、たった1本の灯火が、よく見ると、どこか緊張感をかもしだしているようにも感じられます。
 さらによく見ると、これは明代の浙江省をイメージしたようにみえて、実際に山道をたどった先の河口に描かれているのは、まさに大坂ではないかとさえ、思えてくるのが不思議です。
 これはもちろん、ぼくの勝手な見方であって、竹田が描こうとしたのは、あくまでも山水のなかにあって、政治を超越した──見下したといってもいいのですが──文人の姿だったといえるでしょう。
それでも大塩は、居ても立ってもいられず、拙速な蜂起の道を選びました。
 展覧会には山水のほかに、竹田がとらえた日常の事物をとらえた竹田のデッサンも展示されていました。
 たとえば、これはクワイと柿でしょうか。文政3年(1820)に描かれた「果蔬草虫図鑑」の一部です。つまり、果物や野菜、草や虫をとらえた図鑑というわけですね。
 竹田の筆にかかると、野菜や果物も格調が高くなってきます。
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 ところで、ぼくが最初に田能村竹田の名前を知ったのは、大西巨人の『神聖喜劇』を読んだときでした。もう35年近く前のことです。
 小説は、戦争中、主人公の二等兵、東堂太郎が対馬要塞に教育召集され、そこで上官の理不尽な言動に反発しながら、みずからの正義を貫いていく、軍隊批判の痛快な物語でした。
 物語のなかで、主人公は持参した書物の1冊『田能村竹田全集』の文言に、ひとつひとつ励まされます。田能村竹田は、おそらく著者、大西巨人にとっても、自身の独立不羈の精神を支える、ひとつの源流ととらえられていたのにちがいありません。
 竹田の実物を見ることができたのは、幸せでした。それは、この暑い夏をやりすごす、清涼なひとときとなりました。


ヴェリタ編『校正という仕事』(世界文化社刊)出版記念会で [雑記]

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 年をとると時間の流れが速くなってくるといわれます。
 これは、ぼくの場合もそうで、ふり返ってみると、あっという間に1日が終わっています。
 もうひとつ言えることは、記憶力の衰えです。きのう何をしていたかもよく思い出せない。まして1週間前となると、はるかかなたのできごととなってしまいます。
 ですから、時間の流れが速くなるというのは、別に物理的に時間が短くなったというのではなく、実際には記憶力が衰えて、何もかもすぐ忘れてしまうからではないでしょうか。
 忘却とは忘れ去ることなり、というのは映画「君の名は」に出てくる有名なフレーズですが、あたりまえといえば、あたりまえです。
 しかし、忘れたほうがいいことは、早く忘れたほうがいい、というのが「忘却とは忘れ去ることなり」のほんとうの意味だといえるでしょうか。
 このとき、日本人が忘れたがっていたのは戦争の記憶でした。
 ところが、どうしても忘れられない思い出がある。それが「君の名は」という映画のテーマです。
 それはともかく、最近は何もかも忘れてしまうのですが、なかなか忘れられないのが、これまでやらかしてきた数々の失敗というわけです。
 この本では、ダメ編集者のいろいろな失敗について話させていただきました。
 失敗の原因は、だいたいうっかりとあせり、手抜きが原因ですね。
 ですから、本の世界では、やはり労働価値説が成り立ちます。
 いや、本の世界以外でもそうです。仕事には、手間暇をかけなければいけないわけです。
 ところが、いい仕事をしても売れるかどうかはわからない。
 労働価値説に疑問をもっていたのはマルクス本人だったかもしれませんね。何せ、十年以上、超人的な労力をつぎこんでようやく第1巻が完成した『資本論』も、印刷部数は1000部にすぎなかったのですから。
 それでも、いい仕事かどうかは、どれだけ手間暇をかけたかによって決まるといってよいでしょう。労働価値説はぜったい正しい。しかし、経済の論理とは、少し別なわけです。
 失敗はやはりこたえますね。なかなか忘れられない。でも、失敗は早く忘れたほうが、からだにいい。後ろに引きずられないで、次の朝起きたら忘れているほうがいいに決まっています。
 失敗を忘れる唯一の方法は、失敗を前向きにとらえることです。失敗をエネルギーにするというか、失敗から教訓を引きだして、それを次に生かせばいいわけです。
 それでも失敗はつづきますが、失敗にめげない体質をつくるというのが、やはりだいじなのではないでしょうか。
 どこかでバランスを回復する工夫が必要です。
 すでに、この本を読んでくださった方から、ぼくが盛大にまちがいをしでかしているのをみて、安心したよという感想をいただきました。
 ですから、この本を読んで、少しでも安心していただければ、ありがたいと思っております。
 なお、最後にもうひとつ失敗について、つけ加えますと、この本は、校正と校閲についてのまじめな本ですから、6人の著者のうち、ぼくだけがトンチンカンな話をしてしまって、申し訳なく思っております。
 ぼくは長いあいだ、『記者ハンドブック』にたずさわっていましたから、ほんらいなら『記者ハンドブック』の上手な使い方といったような話をしなければならなかったはずです。
 ところが、編集の現場を離れてしまうと、まさに「忘却とは忘れ去ることなり」で、実務にはまるでうとくなってしまいました。
 頭のなかを去来するのは、失敗の思い出ばかり。
 それで、つい、ぼくの「傷だらけの」編集者人生について話させていただいたのですが、まじめな本書にはふさわしくなかったかもしれません。
 また、失敗を重ねてしまいました。
 でも、本には笑いあり涙ありですから、ぼくの章では、少し息抜きをして、おおいに笑っていただければと思った次第です。
 いい本をつくっていただき、ありがとうございました。
(6月13日、東京・市ヶ谷アルカディアにて。ただし時間の都合で、この話はカット)

ぼんやり気分のまま [雑記]

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2週間ほどバリに滞在し、きのう戻ってきました。
ウブドで舞踊をみたり、ブドゥグルで植物園を訪れたり、サヌールで泳いだりの毎日でした。
途中、2日ほどジャワ島に飛び、ボロブドゥールやプランバナン寺院にも立ち寄りました。
バリには友人が住んでいます。もう20年になるといいます。
かれはちょっとふざけながら、ぼくのおかげで「人生をくるわされた」というのですが、いまはデンパサール中心部に400坪の豪邸をかまえ、バリ人の奥さんとゆったり暮らしています。
15年ぶりぐらいに会って、旧交をあたため、昔のことなどをいろいろ話し、なつかしかったな。
ひとりでバリ島暮らしを楽しんでいる、年配の日本人男性が多いことにもおどろきました。
ここは物価が日本の半分くらいで、常夏で風光明媚ときていますから、たぶんすごしやすいのでしょう。
ただ、このところ物価は上がっています。
たとえば、2014年〜15年版の「地球の歩き方」には入国ビザが25ドル、空港使用料が15万ルピア(約1500円)と書いてあったのが、それぞれ35ドル、20万ルピアに値上がりしていました。
困るのは、医療体制でしょうか。ややこしい病気にかかると、ちょっと心配です。
食べるものは心配なさそうです。日本食レストランもいたるところにあります。
われわれは今回ホテルでしたが、月5万円くらいあれば、そこそこのコテージを借りられるといいます。その他、食費や何やらをあわせても、月15万円で、なんとかやっていけるといいます。
朝、起きてから、海岸を散歩したり、テニスをしたりして、泳ぐのもよし、昼寝もまたよし、夕方からは、のんびりミステリーや時代小説を楽しむ──。そんな理想の年金暮らしが味わえるといいます。
「バリに住んでる日本人はどれくらいいるの」と聞くと、友人からは「2000人くらいかな」という答えが返ってきました。でも、はっきりはわからないそうです。
たしかにバリはいいところです。でも、偏屈なぼくは、よほど身に危険がおよばないかぎり、いまのところまだ日本にこもることになりそうかな。
日本は寒いです。気温30度から、いきなり5度の世界に。
船橋ではさっきまで、ぼたん雪が降っていました。
しかし、ふるえるほどの寒さを感じないのは、バリの熱気が体内に残されているせいかもしれません。
まだ、ぼんやり。
そのうち気分が乗れば、のんびりバリ紀行でも書いてみますか。
ヒンドゥーと仏教、イスラム、それにバリ舞踊についても、もう少し知りたいような気がします。
いずれにせよ、バリについて、ぼくはほとんど何も知りません。
でも、なかなかおもしろい島でした。

年の終わりに [雑記]

 まず、家族ともども、なんとか無事にすごせたことに感謝です。
 だいぶ老人力が増して、物忘れが激しくなりました。でも、なんとか健康を保つことができたのはありがたいことです。血糖値が高めなのですが、できれば食事療法と運動で数値を改善させたいと思っています。お酒が好きで、怠け者という性格は、改善するのがむずかしいですけど。
 ピケティの『21世紀の資本』は、半分ほど読んだところで年越しです。
 来年も頭のはっきりしているかぎり、本を読むつもりでいます。
 本棚には、昔買った本が山のようにあるので、それを少しでも崩していくことが、老後の目標です。といっても、あせらず、ぼちぼち片づけよう。
 来年、読んでみたいのは、ブローデルの『物質文明・経済・資本主義』、ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』、滝村隆一の『国家論大綱』。いずれも読みごたえがあります。南方熊楠も残っていました。
 三省堂の「神保町の匠」というコーナーに年6回、書評を書かせてもらっているので、そのほかにも何冊か新刊を読まなければなりません。
 でも、読書量としては少ないほうですね。
 まだ体力のあるうちに、もちろん旅行にも行かなくちゃ。若いころ、あこがれていたアメリカには、まだ行ったことがありません。きっかけがないんでしょうね。来年は友人が長年住んでいるバリ島に行きます。長女のいるイタリアにも行くかもしれません。車で東北をまわってみたいという希望はあるのですが、これはたぶん夢で終わりそう。
 こんなノーテンキなことを書いていますが、来年も世界の緊張はますます高まりそうですね。
 パックス・アメリカーナ(アメリカの平和)は、すでに終わっています。いまも圧倒的な軍事力を誇っているとはいえ、アメリカにもはや昔時の力はありません。中東での混乱はつづくでしょう。ロシアによるクリミア半島統合は、さらに次の動きにつながらないか不安です。EUは結束して対応できそうもありません。中国の勢力圏がどこまで広がっていくかも大きな懸念材料でしょう。日本の自衛隊は、事実上、国防軍となっていますが、さらに米軍との連携を深めていくでしょう。大きな国際紛争がおきないことを願うのみです。
 ちなみに、日本は戦後ずっとアメリカに従属しつづけているという声をよく聞きますけれど、かならずしもそうは思いません。日米安保条約を日米同盟へと推し進め、沖縄に米軍基地を釘付けしているのは、むしろ日本側の意志なのではないでしょうか。憲法は事実上、すでに改定されています。
 自衛隊と呼ばれる日本軍は、世界じゅうでアメリカ軍の後方支援をおこない、それによってアメリカに貸しをつくって、台頭する中国と対峙するためにアメリカ軍のプレゼンスを活用しようとしているのかもしれません。しかし、アメリカ軍にはアメリカなりの思惑があり、日本の思いどおりになるかどうかは疑問です。このあたり同盟といっても、内実はキツネとタヌキのばかしあいですね。アメリカはむしろ中国に接近していくでしょう。
 核のない平和な世界国家は、人類の夢です。しかし、現実の世界はますます戦国乱世の様相を深めていきそうな気配です。国の行き方(生き方)が問われるのは、戦国乱世においてこそでしょう。
 経済の乱気流がどうなるかも心配です。日銀はとうとう国債の大量購入による偽金づくりに手をつけました。通貨発行量が膨張すれば貨幣価値が下がり、円安が進行するのはとうぜんのことです。すると株価は上昇、いっぽうで輸入品価格も上昇します。加えて、ことしは消費税の引き上げがありましたから、日本経済は二極分解しつつあるといってよいでしょう。つまりアベノミクスによって恩恵を受けた人と、恩恵を受けなかった人とに、です。
 アベノミクスによって日本全体の景気がよくなったとは、とうてい思えません。経済については、来年もジェットコースターのような動きが予想されます。しっかり身を守りましょう。
 膨大な公的債務はいつか解消しなければならず、イギリスはナポレオン戦争時の巨額債務をほぼ1世紀かけて解消しました。しかし、それは大英帝国の発展と産業革命にもとづく、ゆるやかな経済成長があったためです。イギリス以外の国はどうしたか。その解決策は、けっきょく超インフレによって、国債をうやむやにすることでした。
 さて、史上まれにみる国債をかかえた日本は、これからどうするのでしょう。ゆるやかなインフレと増税というのが、政府の考えていることでしょうが、はたしてこの百年の計がうまくいくかどうか心配です。
 夫婦ふたりきりになった家で、こんなことを話していると、つれあいによくしかられます。
「聞かされるほうは、もううんざり」
 おっしゃるとおりです。
 こちらは風来坊の気楽な年金暮らし。ぜいたくはできませんが、のんびり余生を楽しめばいいわけです。知らない国にも行ってみたいし、本を読んだり映画をみたりもしてみたい。それには健康が第一です。来年、数えで90歳になる両親は、健康は努力だといいます。通い慣れていたプールが突然閉鎖されることになったのがいささかショックなのですが、来年は心機一転、別のジムをさがして、そのプールで、硬くなった手足を伸ばすことにしましょう。
 よいお年をお迎えください。

本のあるくらし [雑記]

 以下は「本の魅力」というアンケートにこたえた一文(600字)です。
 なんだか、関係のないことをテキトーに書いてしまっていて、恥ずかしいですね。
 アンケートにこたえるのは、意外とむずかしいです。

「本の魅力について」アンケート(600字)

本のあるくらし

 読書家だとはとてもいえない。評判の本もあまり読まない。とはいえ、定年を迎えたとき、日がな寝転んでテレビばかり見ている生活はしたくないなと思った。そこで、茫漠としたテーマをふたつばかり思いつき、ブログを開設し、ホームページもつくることにした。そのテーマが「商品世界論」と「七〇年代論」である。成果は問わず。さいわい、サラリーマン時代にためこんだ本も手つかずのまま残っている。本を読み、メモをとり、まとめて、ブログに発表していく。それだけのことだが、日々さまざまな発見があって楽しい。
 本を読み終わったときの達成感は、登山で頂上をきわめたときの喜びと似ている。スミスの『国富論』やリカードの『経済学および課税の原理』、マルサスの『経済学原理』を、はじめてきちんと読んだ。ブローデルの『地中海』も読破した。そのうちマルクスの『資本論』も再読したいと思っている。好きだった作家や評論家、中野重治や武田泰淳、高橋和巳、三島由紀夫、吉本隆明などと再会できる楽しみは、やはり本をとおしてしか味わえないものだ。そして、自分がいかにだいじなことを忘れたまま生きているかを痛感する。
 編集者時代は忙しくて、あまり本を読む時間がなかった。それでも気になる本を買って、本棚に並べておく習慣だけは身についた。それがいまとなっては役立っている。電子本は残らない。残るのは紙の本だ。(元書籍編集者)

 

ブログ記事が1000に [雑記]

 おかげさまで、今回ブログ記事が1000に到達しました。
 思いつきのメモのような記事ばかりですが、ともかく今日まで生き延びて、1000に到着したのはありがたいことです。
 この調子でいけば、いつか2000に到達するでしょうし、ひょっとしたら3000も夢ではないかもしれません。でも、たぶんそのあたりが限界ですね。
 地味なブログではありますが、まれによく読まれた記事もありました。
 以下、ベスト20を挙げてみることにしましょう。
 へえと思うのもあります。

江角マキコさんの手紙(2007.05.20)
西山事件について(2007.08.14)
『世界史の構造』(柄谷行人)を読む(2010.07.17)
37歳危機説(2007.12.25)
『鬼龍院花子の生涯』を見る(2011.09.28)
『風立ちぬ』は「腹立ちぬ」か(2013.07.26)
『居酒屋兆治』と大原麗子(2013.04.07)
『10万年の世界経済史』を読む(2009.05.25)
驚天動地の震災(2011.03.17)
映画『ファウスト』をめぐって(2012.07.02)
平川克美の『移行期的混乱』を読みながら、混乱してしまった(2010.10.10)
大阪の2児置き去り死亡事件について(2010.08.23)
自由貿易帝国主義とは何か(2009.03.08)
『始まっている未来』(宇沢弘文、内橋克人)を読む(2009.11.29)
『例外社会』(笠井潔)を読む(2009.04.14)
赤軍派の論理(2007.11.12)
衝撃の武田泰淳伝(2007.10.10)
『現代社会の理論』(見田宗介)を読む(2011.12.16)
『レッドアローとスターハウス』(原武史)雑感(2012.10.06)
『眼の海』(辺見庸)を読みながら(2012.01.03)

 意に満たぬ記事もあります。反省。
 しかし、これからものんびりつづけていくつもりですので、気が向けばまたお読みください。

『永続敗戦論』は「永続革命論」だ [雑記]

 先日、友人から白井聡の『永続敗戦論』を読んだかと聞かれました。読んでないと答えると、ぜひ読むようにと勧められました。友人の話だと、若手の論客だけに、タテマエにこだわらず、ズバズバと議論を展開していて、じつに小気味よいとのこと。それはいちど読んでみなくては。
 政治向きの話はあまり好きではありません。というか、現実の政治にはほとんど興味がないのです。民主党が政権を取っても、自民党が政権に返り咲いても、口ばっか、うそばっかという感じで、政府はまるで信用していません。
 特定秘密保護法案というのもばかみたいです。あれははっきりいうと、外交・軍事機密法で、戦前の治安維持法とは性格がことなるのではないでしょうか。それでも、政府がおれには秘密があるぞ(アメリカからも内緒で秘密を教えてもらってるんだ)と自慢するようなものですから、まさにみずからが政府は信用できないぞと広言しているのと同じです。うまい政府なら、政府はうそはつきませんと、しらを切るのですがね。
 日本版NSCというのも噴飯ものですね。日本版というからにはオリジナルがあって、そのまねっこです。NSCというのは、政府・軍(プラス警察)連絡会議のことです。日本は憲法によって軍をもてないことになっていますから、NSCとごまかすわけです。軍事費だけでいうと、日本はほんとうは世界第5位の軍事大国なんですけどね。そして、日本版NSCが、本家本元の意向をうかがいながら運用されることはまちがいありません。
 いずれにせよ、「戦時」(戦争にせよ内乱にせよ)への準備がはじまっています。口には出せないながら、仮想敵国は中国と北朝鮮です。しかし、万一、全面戦争になれば、特定秘密保護法とやらは、治安維持法へと転化していくでしょう。東アジア情勢は激動の予感をはらんでいます。なんとか、この危機を避ける手だてはないのでしょうか。
 寝転がって、ぱらぱら斜め読みしただけですから、『永続敗戦論』については、印象的なことしか言えません。これは要するに、日本はアメリカに敗れたにもかかわらず、それを素直に認めず、まるで負けなかったかのようにとりつくろいながら、そのくせアメリカにまったく頭が上がらない現状を明らかにした本といえるのではないでしょうか。よくぞ言ってくれた、すっきりしたと思う読者は多いと思います。
 ネットを見ると、水野和夫さんなんかは、朝日新聞の書評で「読んだあと、顔面に強烈なパンチを見舞われ、あっけなくマットに仰向けに倒れこむ心境になった。こんな読後感は初めてだ」とベタほめです。
 ぼくもまた妄想を膨らませました。
 まず日米安保条約を廃棄し、日本から米軍基地をなくすこと。これがスタートです。それにともなって、戦前とはことなるかたちの日本軍を創設する必要があるでしょう。
 それから中国、韓国、ロシアと条約を結んで、領土問題を解決すること。尖閣は時計の針を元に戻して、またたなあげにするのがいいでしょう。竹島は韓国に渡し、その代わり漁業に関しては何らかの便宜をはかってもらうことにしましょう。北方領土については、歯舞、色丹を日本に返還し、国後、択捉は日本とロシアが共同開発するようにします。北朝鮮とは国交を樹立し、拉致問題を解決するというのはどうでしょう。
 その次は東アジア共同体(EAU)の建設です。できれば、ここに中国もはいってもらいたいですね。北大西洋条約機構(NATO)に似た北太平洋条約機構(NPTO)をつくるという構想もありですね。もちろん、米国も参加してもらいましょう。
 天皇はもう世俗的な政治にかかわらないで、日本文化の象徴になっていただくのがいいのではないでしょうか。政治の実権は、国会によって選ばれた首相が担うのはとうぜんですが、それとは別に国民投票によって、国家儀礼をはたす大統領を選ぶ必要があります。
 もちろん国の基本となるのは、国民の自由と平等、そして人権、知る権利ですね。死刑制度は廃止されねばなりません。それだけに国が個人の安全保障(保証と補償)を強化することが求められるわけです。
 これは永続革命ですね。永続敗戦を避けるには、とうぜんそういう方向しかないのではないかと、妄想はふくらみます。ちょっと、ふざけすぎ。
 おっと、書評にはなりませんでした。だから、政治の話はいやだし、そもそもぼくにはどだい無理な話なんです。

山片蟠桃と『夢の代』 [雑記]

[2013年11月16日、高砂コミュニティセンターでの講演]
本日は、お忙しいなか、わざわざ足をお運びいただき、ありがとうございます。わたしは研究者ではなく、ただの引退したサラリーマンですから、たいしたお話はできそうもありません。それに生まれつき人前で話すのが苦手ですので、途中で口ごもってしまうかもしれませんが、その点もご勘弁願えればと思っております。
 きょうは「山片蟠桃と『夢の代』」というテーマでお話しします。わたしが山片蟠桃に興味をもったのは、この人がここ高砂に生まれて、江戸時代に経済人として活躍し、『夢の代』という本を著したということを知ったからです。わたし自身も高砂に生まれましたので、これはおもしろそうな人だなと思いました。それで、在職中、会社に出かける前に、少し時間をとって、調べはじめたわけです。もうずいぶん前のことですけれども、それをまとめたものをコピーして、小冊子にしまして、友達に配ったりしておりました。
 最初の枚数は400字詰めの原稿用紙にして1500枚程度ありましたでしょうか。さらにそれを半分程度にまとめた小冊子もつくりました。今回、たまたまご縁がありまして、ある出版社がそれを本にしてくださるというので、さらに原稿を圧縮して、このたび、ここにおもちした『蟠桃の夢』という単行本を出版することができました。
 ですから、きょうお話しする中身は、ほぼこの『蟠桃の夢』に書かれていることに尽きるのですが、できましたら『夢の代』がどんな本なのかについても、ざっとお話しできればと思っております。
 山片蟠桃はえらい人ですけれども、どちらかというと地味で、それほど知られた人ではありません。ですから、最初に蟠桃がどういう人物であったかをお話ししておいたほうがいいでしょう。
 山片蟠桃というのは本名ではありません。いわば筆名、ペンネームですが、それも本人がそう名乗ったわけではなく、いつしかそう呼ばれるようになったというにすぎません。
 昔の人は名前がいろいろありました。幼いときの名前と家を継いだときの名前、隠居したときの名前はちがいます。本名のほかに号や字もあります。ですから、なかなかややこしいのですが、幼いころの蟠桃は惣五郎と呼ばれておりました。
 寛延元年、1748年に蟠桃は播磨国印南郡神爪(かづめ)村に生まれました。いまの高砂市神爪です。江戸時代、百姓は表向き苗字を名乗れませんでしたから、名前はただの惣五郎ですが、それでも代々の隠し苗字はあったわけで、あえていえば長谷川惣五郎です。いまも神爪は長谷川さんの名前が多いですね。
 神爪には蟠桃の銅像も立っており、蟠桃が育った場所、お兄さんが店をいとなんでいた場所には碑が立っています。それに覚正寺には蟠桃の墓や、蟠桃が晩年、村に寄贈した朱塗りの木杯なども残っておりますので、神爪を訪れたさいには、ぜひご覧になられたらいいと思います。
 そして、その惣五郎は13歳のとき、大坂に丁稚奉公にでます。大坂には叔父さんがいて、升屋という米仲買の番頭をしていました。ですから、丁稚といっても万年丁稚というわけではなく、よほどの失敗をしないかぎり、叔父さんの後を継いで、いずれ手代、番頭になることを約束されていたわけです。
 ところで、山片蟠桃は升屋の番頭になると申しましたが、ここでお気づきになったと思うのですが、じつは山片蟠桃の「蟠桃」という難しい名前は、「番頭さん」の当て字なんです。蟠桃は『夢の代』を書く前に、その元になる『宰我の償(さいがのつぐない)』という草稿を書きました。それを先生である中井竹山に読んでもらうときに、照れ隠しに蟠桃という難しい字を使ったわけです。蟠桃、すなわち升屋の番頭が、この原稿を書きましたというわけですね。
 それが後世、『夢の代』の著者である山片蟠桃という立派な名前で伝えられることになったわけです。山片という苗字は、主人にあたる升屋に伝わる苗字です。蟠桃は、晩年、升屋に尽くした功績が認められまして、升屋の親戚並みに扱われ、主家から山片という苗字をもらうわけです。ですから、この時点で、長谷川という苗字から山片という苗字に変わり、山片芳秀(よしひで)と名乗るわけです。ですから、晩年の正式の名乗りは、山片芳秀であって、山片蟠桃ではありません。それでも、いまとなってはこの山片蟠桃という名前が一人歩きしております。
 さて、いま山片蟠桃という著者名についてご説明したわけですが、この名前からだけでも、蟠桃の人となりが、ある程度伝わってくるのではないでしょうか。蟠桃という人は、升屋の番頭さんでした。そして、升屋の商売を隆盛に導いた人でもありました。
 商売というのは、いまも昔もなかなかむずかしいものです。よほどの才覚と努力がなければ、店を大きくしていくことはできません。升屋という店は大坂で、中堅の米仲買をしていました。
 米仲買といっても、いまのお米屋さんとはだいぶ勝手がちがいます。江戸時代の税金は、おカネでなく、コメで支払われました。いわゆる年貢ですね。お百姓さんが田んぼでおコメをつくって、その収穫の3割くらいを年貢として領主に収めていたわけです。
 米仲買は年貢のコメを、領主から預かって、その代金を領主に支払うのが仕事です。升屋の場合も、仙台藩をはじめとして、多くの藩からコメを預かって、それらの藩におカネを調達していました。ですから、米仲買といっても、実質の仕事はいまでいう銀行に近いといってもいいかもしれません。
 蟠桃が升屋で丁稚奉公をはじめたころ、升屋の経営状態はかなり厳しくなっていたようです。とくに仙台藩(伊達藩)に貸し付けたおカネの返済がとどこおっていたのが、経営の悪化を招いた原因でした。一時とどこおっていても、いつかおカネが利子つきで戻ってくれば、問題はありません。しかし、大名はしばしば借金の踏み倒しをやりました。仙台藩の場合は、貸した金額も大きいので、そんなことをされたら升屋は倒産に追いこまれてしまいます。
 そこに追い打ちをかけるように、もうひとつの問題がもちあがります。升屋の主人は平右衛門という人です。昔は代々名前をつぎますから、正確にいうと2代目の平右衛門です。この人が、蟠桃が22歳になったときに病気で亡くなってしまいます。升屋には婿養子さんがいました。しかし、平右衛門の実子もいて、6歳になっていました。
 当面は婿養子さんが3代目の平右衛門を名乗って、升屋の跡をつぎました。ところが、この人は経営者としては無能で、たよりなく、このままいけば升屋は倒産まちがいなしというところまで追いこまれていきます。そこで蟠桃が立ち上がって、升屋の財産を4割譲るかたちで、この主人に出ていってもらうわけです。
 そして、新しい主人に8歳になった2代目平右衛門の実子を迎えます。この8歳の子どもが4代目の平右衛門となるわけですが、子どもに店の経営はできませんから、経営を実質的にになうのは蟠桃です。こうして25歳のときに、蟠桃は名実ともに升屋の番頭さんに昇格します。
 升屋の番頭になったものの、店の経営はたいへんでした。店の規模は昔の半分になり、借金が積み重なって、仙台藩に貸したおカネは戻ってきません。そこで、蟠桃は粘りに粘ります。仙台藩をはじめ、昔から取引のあった豊後の岡藩(竹田藩)や下総の古賀藩などとも、貸付金の返済をめぐって、何度も交渉を重ねます。節約にも努めました。こうした血のにじむような努力のかいがあって、升屋の経営はようやく上向いていくわけです。
 30歳をすぎたころには、蟠桃は各藩の財政事情にも詳しくなって、また米相場の動きもよくわかるようになって、蟠桃は大坂でも一流の経営者になっていました。取引先も以前の仙台、岡(竹田)、古賀に加えて、尾張、水戸、越前、館林、川越といった藩に広がって、いわば経営が多角的になって、升屋の経営基盤が安定していきます。
 こうして、升屋の経営はだんだん上向いてくるのですが、何といっても升屋の最大の取引先は仙台藩です。そこで、簡単に升屋と仙台藩の関係についてふれておきましょう。
 江戸時代、各藩の財政がどんなふうに成り立っていたかというと、藩はもちろん、いまと同じように税金で運用されていたわけです。この税金を使って、殿様や藩士の生活を支え、道路や河川の工事をしたり、お城の修築をしたりしていたわけですね。
 ところで、江戸時代には参勤交代というのがありまして、各藩の藩主は原則として1年ごとに江戸に来て、将軍家に仕えなければなりませんでした。ですから、各藩とも江戸屋敷があり、殿様の場合は、そこに奥さんも何人かいて、大勢の藩士もこの屋敷につめていたわけです。江戸で生まれる殿様の子どもも出てきます。こういう子どもは、江戸育ちということになって、なかなか地元に帰らないわけですね。各藩とも江戸の費用はばかにならず、税収の半分近くが江戸の経費になっていました。仙台藩の場合は上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷と5つくらい屋敷があったわけですから、経費もたいへんです。
 しかし、前にもいいましたように、当時の税金は年貢で納めるかたちです。つまりお百姓さんが、収穫した米の一部を物納のかたちで藩におさめたわけです。その集めた米を、こんどは各藩が売りに出して、それをおカネにかえて、それで藩士の給料をはらったり、ものを買ったり、工事代金にあてたりしていたわけですね。
 ですから、武士はヨーロッパのように貴族ではなくて、公務員みたいなもので、生活も質素なものでした。一国一城令というのもだされていますから、ひとつの国に城はひとつしかありません。このあたりもヨーロッパとはちがいますね。殿様もさほどぜいたくはできません。
 コメをおカネに換えるとなると、コメの値段をどこかで決めなければなりません。その役割を担ったのが、大坂の堂島にあった米市場でした。全国の米の値段はここで決まって、現金化されます。大坂には全国の余剰年貢米500万石のうち2、3割にあたる100万石から150万石の米が送られてきました。それが大坂で値段がついて、現金化されるわけですから、当時の大坂は一大金融センターでもありました。そして、大坂で決まった相場が基準になって、江戸の米価も決まってくるわけです。
 それでは、なぜ大坂に100万石も150万石もお米が送られてきたのでしょう。それは大坂が大都市で、米の大消費地だったからです。当時、大坂の人口は60万人、京都の人口は40万人です。すると大坂と京都で100万人ですから、米の消費量は年間で1人1石(1000合)として、大坂、京都で100万石消費される計算になります。
 大坂に入ってくるお米が150万石だとすると、50万石余りますね。これがどうなったかというと、そのうち15万石から20万石はお酒の醸造用に回されました。いわゆる灘の生一本になるわけです。それからさらに残りは、すでに綿や菜種など商品作物をつくっている近郊の農村や、加工品をつくっている近くの町に回されたわけです。
 こんなふうに米は都市で消費されて、おカネに換えられていくわけですが、日本には、大坂、京都より大きな都市がありました。それは、いうまでもなく江戸です。じつは、仙台藩の米はほとんど大坂に送られていませんでした。輸送先は主に江戸です。
 北上川の河口に石巻という町があります。今度の大震災で大きな被害を受けた町です。しかし、石巻ができたのは、江戸時代になってからだといってもいいくらいです。高砂と同じですね。高砂の場合は加古川によって、おもに播州米を集荷して、これを大坂に送りました。石巻の場合は、北上川によって、仙台領の米を集め、それを江戸に送ったわけです。潮の流れがむずかしくて、直接江戸にははいれませんでした。ですから銚子まで大型船で米を輸送し、それを小分けし、高瀬舟で利根川をさかのぼり、江戸日本橋まで運んだわけです。その量は、だいたい15万石から20万石程度だといわれます。
 仙台藩は表髙60万石の藩ですが、実髙は100万石あったようです。つまり100万石の米がとれていたわけです。その領内でできた米の15%から20%が江戸に送られていました。これは相当の割合で、年貢にすれば6割から7割が、江戸で売られていたということになります。しかし、実際には年貢米以外の米も含まれています。
 当時の江戸の人口は100万人です。ですから、江戸では2割近い人が仙台米を食べていた計算になります。こうして仙台藩はおもに江戸で米を売って、おカネにし、それを税収にしていたのですが、これを仕切っていたのが京都の蔵元、大文字屋でした。ところがお米の収入だけでは、藩の財政が成り立たなくなってきました。
 そこで、仙台藩は蔵元以外に、ほかの金融業者からも資金を借りて、これを税収不足分にあてます。そのおもな借り手が升屋だったといってよいでしょう。毎年、年貢ははいるので、いちおう担保はあるようなものですが、それでも財政はいつも火の車、自転車操業でした。仙台藩の借金はどんどん積み重なっていきます。
 そして、京都の仙台藩蔵元、大文字屋がついに倒産します。そのあとを引き継いで仙台藩の蔵元に昇格したのが山片蟠桃の升屋です。蔵元というのは、藩専属の銀行のようなものと考えていいのではないでしょうか。
 藩と蔵元との関係は微妙です。蔵元は藩の年貢米の扱いをすべてまかされているのですから、うまくすれば、かなりもうかるチャンスがあります。しかし、いっぽうで藩の必要とする経費をいわれるままに捻出していれば、借金ばかりがかさんで、いずれ倒産ということになりかねません。大文字屋が倒産したのは、そのためでした。
 そこで蟠桃はさまざまな秘策を練ります。ひとつは江戸で売る米の量を増やすことでした。江戸での販売量が増えれば、それだけ藩にはいってくる収入も多くなります。それにおうじて、米を扱う升屋ももうかるはずです。そこで蟠桃は買米という制度の活用を考えました。
 買米というのは、実は昔からある制度です。年貢とは別に、あまった米を農家から買い取るわけです。農家もある程度は現金が必要ですから、少し安くても、手持ちの米を売ってくれるでしょう。すると、江戸で売る米の量が増えて、それだけ藩の収入も多くなるはずです。農家から安く買って、江戸で高く売ろうというわけですね。
 ところが、これがしばしば強制になって、百姓の反発を買っていました。あまりに安く買いたたこうとしたのでしょう。買米に反対する一揆まで起きています。
 とはいえ、買米をしなければ、江戸で売る米を増やすことはできません。買米をやめるわけにはいきません。以前から升屋は買米本金を藩に融通して、仙台藩があまった米を買いつけるのを手伝っていました。仙台藩の蔵元になってからも、升屋はこの買米本金を調達せざるを得ませんでした。しかし、それがあまりに強制的な取り立てにならないように、細心の注意を払ったと思われます。
 何はともあれ、こうして、升屋は享和元年、1801年から正式に仙台藩蔵元となり、これ以降、幕末まで紆余曲折をへながら仙台藩とかかわりつづけることになります。
 升屋が仙台藩の蔵元を努めるにあたっての議定書が残されておりますが、それは次のような内容です。仙台藩は升屋にたいし、藩の年貢、金穀(商品作物)をゆだね、領内の諸産物を売りさばく権限を与える。そして藩はその見返りとして、升屋から代金を受け取り、それを財政運営にまわす。
 升屋はいってみれば仙台藩専属の銀行というか、いまでいうと実質的には財務省の役割を果たすようになります。
 こうして、享和元年(1801)に正式に蔵元となった升屋は、加島屋や鴻池、住友を含む「組合の金主」(いわば提携先の銀行)とともに、江戸や国元などの費用として、仙台藩に毎月「月割金」を支払うことになります。つまり、毎月、予算からの支出をおこなうわけですね。さらに引きつづき買米用の「買米本金」を用立てる仕事も請け負っています。
 1803年、享和3年に、升屋は仙台藩に5万両を貸し付けています。いまでいうと40億円くらいでしょうか。このころ、米の価格が持ちなおしたこともあって、仙台藩の財政は一時的な立ち直りをみせました。
 1804年、文化元年には、仙台藩とのあいだに、升屋を永久に蔵元とするという証文が取り交わされます。その内容は、升屋は仙台藩に年3万7242両を月割で調達し、月1分(1%)の利子をもらい、これにたいし、仙台藩は江戸の蔵屋敷で毎年3万8000石を升屋に売却して、借金返済にあてるというものです。
 これはどれくらいの金額かというと、1両を現在の8万円と計算してみれば、だいたいの感じがわかりますね。升屋が毎年仙台藩に調達する金額は約30億円です。月割にすると2億5000万円です。これにたいし、仙台藩は3万8000石を江戸で升屋に売却するという契約です。当時は1石が1両というのが相場ですから、相場どおり米が売れれば、それだけで升屋は年間で約750両もうかる計算になり、しかも毎年の利子として約400両、あわせて1150両の利益がでることになります。これは現在の金額でいうと、約9000万円ですね。これは定期収入ですが、もちろんほかにも貸付金の利子もはいったはずです。
 ほかに蟠桃はさし米の工夫も考案しています。さし米というのは米の品質検査方法です。先端をそいだ竹の筒を俵にさし込んで、筒にはいった米を吟味するわけです。
 ふつうは吟味が終わると、「さし」を俵にふたたび入れて、米を戻すのですが、蟠桃が願い入れたのは、このさし米を戻さずに升屋に下付していただきたいということでした。石巻、銚子、江戸で俵ごとに、このさし米をいたしますと、実はそれがつもりつもって、大きな金額になります。少なくとも年間600両くらいになったと申しますから、いまの金額にすると5000万円程度の収入になったわけです。
 蟠桃の考案した升屋札(ますやふだ)が発行されたのは1809年、文化6年とされています。それまで仙台藩は何度も藩札を発行したり、鋳銭をおこなったりして、ことごとく貨幣価値の暴落を招き、失敗をくり返していました。その原因を蟠桃は、いざというときに引き換える正貨の準備を怠ったことにみていました。升屋札を発行するにあたって、蟠桃は領外への正貨流出を防ぐための細かな対策を打っています。
 升屋札というのは、米札(べいさつ)で、これでお米を買うのですが、もらった人はこれで日常品を買うこともできます。いまでいう銀行券と同じです。苦肉の策でした。仙台藩のいうとおりに、買米本金を出しつづけていれば、藩の借金はたまるいっぽうで、升屋は倒産に追いこまれてしまいます。そこで、もう買米本金はださないかわりに、この升屋札を発行したわけですね。資金の裏付けがあれば、こうした札でも、おカネの代わりになります。
 升屋札はしばらくのあいだ、信用のある紙幣として仙台領内で流通しました。これが25年もつづいたのは大成功だったかもしれません。このとき、升屋は紙幣を発行する銀行の役割を果たして、仙台藩の経済に大きく寄与したことになります。
 こうして、蟠桃の才覚が升屋を大きくしていったのですが、升屋の経営はじつはなかなか苦しかったのです。仙台藩とは、いつもきびしいやりとりがつづきました。ですから、蟠桃が大成功を収めた経済人かというと、かならずしもそうではありません。この人は最後まで苦労に苦労を重ねて、何とか升屋の経営を切り盛りしていたというべきかもしれません。
 それでも、蟠桃が晩年を迎えるときには、現在の貨幣価値でいうと、升屋の金融資産は40年のうちに、8000万円から130億円へと膨らんでいたのです。それを実現したのは、やはり蟠桃の才覚だったといえるでしょう。

 山片蟠桃がすぐれた経済人であったことを、おわかりいただけたでしょうか。しかし、かれにはもうひとつ別の顔がありました。それは大学者としての顔です。きょうは、そのこともお話ししておきたいと思います。
 経済人にして大学者という人は、世界を見渡しても、そうたくさんはおりません。蟠桃と同時代に、イギリスではリカードという経済学者がいました。わりあい若くして亡くなりましたが、この人はもともと株式の仲買人をしていました。
 蟠桃は米仲買と金融の仕事をしながら、常に勉強をつづけ、最晩年に『夢の代(しろ)』という大著を完成させます。のちに明治になってから、ある学者は江戸時代に独創的な思想書は3書しかないと断言しました。それは富永仲基の『出定後語』、三浦梅園の『三語』、そして山片蟠桃の『夢の代』だというわけです。
 山片蟠桃というのは、そのくらいえらい人なのですが、いまこの『夢の代』を本屋さんで手に入れるのはなかなかむずかしくて、それをざっと読むこと自体もなかなかできなくなっています。これが、どんな本かを短い時間で説明するのはとても無理です。ひとつひとつ読みながらお話しすると、おそらく1年くらいかかってしまうでしょう。そこで、きょうはその概略だけでも、ご説明して、次の段階への足掛かりにしていただければと思います。
 先ほど申しあげましたように、山片蟠桃はビジネスマンであると同時に大学者でした。どうして、そんなことができたかというと、それは大坂に懐徳堂という学校があったことが大きいのです。
 13歳で大坂に丁稚奉公に行く前に、山片蟠桃はここ高砂で学んでおります。いまお話をさせていただいている、ここコミュニティセンターには、申義堂という学問所がありました。申義堂の建物は、いま十輪寺さんの前に再建されておりますので、みなさんよくご存じのことでしょう。
 蟠桃が子どものころ、まだ申義堂はできていませんでした。しかし、蟠桃はのちの紀行文で、はっきりと高砂で学んだと書いておりますので、高砂の塾に通ったことはまちがいありません。この塾では、たぶん算盤や算数のほか『論語』なども勉強していたと思います。そして、おそらく『論語』は、すべて暗記していたのではないでしょうか。
 蟠桃が大坂にいったとき、主人の升屋平右衛門がいちばんびっくりしたのは、この播州から出たての子どもが、じつに頭がいいということでした。そこで、平右衛門はこの子どもを近くの懐徳堂に学ばせることにしました。そのことが蟠桃の運命を大きく変えていきます。
 懐徳堂は幕府公認の町人のための学問所です。中井竹山が学主をしているときにいちばん栄えました。この学校の特色は、受験しなくてもだれでも入学できて、武士、町人のへだてなく講義を聞くことができ、用事があれば途中で講義を退席してもよかったことです。もちろん入学試験も卒業試験もありませんでしたし、成績表もなかったのです。
 いってみれば、町のなかのだれでも自由に出入りできる大学のようなものです。こんな大学はいまありませんね。いまの大学は、就職するまでの遊び場か、学者のたまり場かといったところですから。蟠桃が忙しいビジネス生活を送りながら、ずっと勉強をつづけることができたのは、この懐徳堂のおかげだということができます。
 そして、蟠桃はこの懐徳堂でずっと学んできたことを、まとめて本にしようと思いました。中井竹山のほかに蟠桃に影響を与えた周辺の人物としては、竹山の弟で中井履軒(りけん)という人がいます。この人は、へんくつものの学者ではありましたが、当代隋一の知識人だといってよいでしょう。
 ほかに麻田剛立(ごうりゅう)の名前を忘れてはいけません。やはり大坂で先事館という学塾を開いていました。教えていたのは天文暦学です。日食の起きる日時もぴったりと予想しました。伊能忠敬も、この麻田剛立の愛弟子から学んでいます。ですから、蟠桃と伊能忠敬は、麻田剛立を通じてつながっているわけですね。
 山片蟠桃は、中井竹山、中井履軒、麻田剛立といった人たちから学んだこと、そしてみずからが現場で知ったことをまとめて、1冊の大著を書こうとします。それが『夢の代』という本でした。
 それにしても『夢の代』というのは、変わったタイトルです。そもそも読み方もぱっと見ただけではわからず、ユメノダイと読んでしまいそうですが、ユメノシロというのは、そもそもどういう意味なのでしょうか。
 それについては、蟠桃自身が、その序文で説明しています。原文で読むのはわずらわしいでしょうから、現代語訳してみましょう。
 こんなふうに言っています。

〈夏の日は長くてうんざり。こんなときは昼寝がいちばんと思って、枕に頭を載せたところで、はたと気づいた。おれはもう五十をすぎたというのに、これまでいたずらにめしを食らい、暖衣に身を包み、眠ってばかり。これではいくらなんでも情けない。そうはいっても世間の人に道理を説くなど、とてもできそうもない。そうだ、せめて自分が竹山、履軒先生に習ったことを書きつらねて、子孫の教戒にできれば、これ以上の本望はあるまい。こう思って、硯を前になにやら書きはじめたものの、ついつい眠気が襲ってくる。それを無理やり抑えて机にかじりついて筆を走らせるという始末だ。このなかにはご政道にふれた部分もあるかもしれないが、どうかおとがめにならないでいただきたい。この書はうちうちに見るもので、外に広めようというのではないのだから。眠いのをがまんして書いたので、はじめ『宰我の償』という書名にしたのだが、履軒先生がぱっとしないとおっしゃるので『夢の代』と改めることにした〉

 これを読むと、蟠桃がなぜ『夢の代』を書いたのかがわかってきます。当時は「人生五十年」という時代でした。山片蟠桃は長生きで74歳まで長生きしましたが、晩年の10年は目が見えませんでした。
『夢の代』は蟠桃が還暦のとき、つまり60歳のときに、ほぼ完成します。享和2年(1802年)6月が執筆のスタートです。数えでいうと55歳です。ですから55歳から書きはじめて、60歳でほぼ書き終えたのですね。
 それから、さらに70歳をすぎてから、蟠桃は今度は口述で、『夢の代』の大改訂をおこないます。いま残されているのは、この大改訂版で、それを考えますと、約20年にわたって、『夢の代』は書き継がれたということになります。
 人生の締めくくりとして、何かを残しておきたいという気持ちが強かったのでしょう。懐徳堂の中井竹山、中井履軒の両先生から学んだことを自分なりにまとめてみたと書いています。これは蟠桃の謙遜のようにみえます。もちろん『夢の代』のかなりの部分は竹山、履軒の教えからなっていますが、それだけではありません。むしろ蟠桃がみずから考えたことが中心になっているからで、そこには蟠桃の独創性が光っています。
「世間の人に道理を説くなど、とてもできそうもない」と書いています。これは蟠桃が世間でいう教授や大先生ではなかったからです。世間に自分の意見を発表するつもりもありませんでした。蟠桃はみずから塾を開いて、生徒を教えたりもしませんでした。おそらく著書を公刊するつもりもなかったでしょう。
「子孫の教戒」になればと思い、この書を著したともいっています。つまり、この本は子孫の役に立てばと思って残すのだというわけです。しかし、これは文字どおりとるわけにはいきません。この子孫には、もっと大きな広がりがあります。つまり、自分の子孫だけではなく、自分の死後、大勢の人がこの本を読んでくれればいいという思いが隠されているといってよいでしょう。
「このなかにはご政道にふれた部分もあるかもしれないが、どうかおとがめにならないでいただきたい」とも書いています。江戸時代は言論の自由が制限されている時代でした。蟠桃の時代でも、10年ほど前に林子平が仙台で『海国兵談』という本を出版して、幕府のおとがめを受け、本と版木を没収され、自宅で蟄居という処分を受けています。
 林子平は武士ですが、まして町人風情の蟠桃が政治向きに口をはさむとなると、これは大問題になる恐れがあります。主家である升屋にも迷惑がかかるでしょう。その意味でもこの本は公刊することを目指したものではなく、うちうちのものとする必要があったのです。
 しかし、逆にうちうちのものとすることによって、蟠桃は世間に気兼ねしないで、書きたいことを書けるようになりました。これは『夢の代』の逆説です。世間に公表しないからこそ、蟠桃は自由に考えていることを書けたわけで、それがいま読んでも、この本がおもしろい理由になっています。
 そして、序文の最後に、なぜ『夢の代』というタイトルかという説明があります。「硯を前になにやら書きはじめたものの、ついつい眠気が襲ってくる。それを無理やり抑えて机にかじりついて筆を走らせるという始末だ」と蟠桃は書いていますね。これはたぶんほんとうのことでしょう。
 蟠桃は、いまでいう糖尿病をわずらっていた可能性があります。60歳をすぎて失明したのも、おそらくそのためでしょう。糖尿病の人は、昼間でもしょっちゅう眠くなります。眠ると夢をみますね。ですから、『夢の代』には、眠くなるのをがまんして書いた本というしゃれが隠されているわけです。
『夢の代』の「代」は、かわりに、という意味です。ですから『夢の代』というのは、夢のかわりにというタイトルだと考えていただいていいと思います。
 なぜこんなへんなタイトルにしたのでしょう。蟠桃はこう説明しています。「眠いのをがまんして書いたので、はじめ『宰我の償』という書名にしたのだが、履軒先生がぱっとしないとおっしゃるので『夢の代』と改めることにした」
 ですから、『夢の代』の前に『宰我の償』という草稿があったということになります。宰我というのは『論語』のなかに出てくる人の名前で、孔子の不肖の弟子です。口達者なのですが、なまけもので、いつも昼寝ばかりしています。孔子にいつも叱られています。蟠桃はこの宰我にみずからをなぞらえました。
 すると、ここで孔子になぞらえられているのはだれかというと、これは懐徳堂の中井竹山先生です。『宰我の償』というタイトルには、竹山先生の不肖の弟子、升屋の番頭が、これまでの償いとして、この原稿を書きましたという意味合いがこめられているわけです。
 ところが、この『宰我の償』の完成をまたずに、竹山先生が病気で亡くなってしまいます。ほんらいなら、ここで終わりになったはずです。しかし、竹山先生の弟、履軒先生がこの草稿に興味を示しました。もっと書いてみたらどうかと勧めたのかもしれません。そのとき、履軒先生はどうも題がぱっとしないといいました。どうじゃ『夢の代』という題にしたら、と提案したのも履軒先生だったかもしれません。こうして、もともと『宰我の償』として書きはじめた草稿が『夢の代』へと発展していきます。
『夢の代』というタイトルは『宰我の償』を踏まえていますから、その意味はほとんど変わりません。どちらも、眠いのをがまんして、がんばって書いた本という意味ですね。でも、それだけでしょうか。ここには、もうちょっとちがった意味が隠されているようです。
 蟠桃が亡くなってから30年ほどあとのことですが、アメリカから黒船がやってきて、幕府は開国を余儀なくされます。つまり太平のまどろみが破られるわけです。そう考えると、江戸後期の文化文政と呼ばれる時代の日本人は、まだまどろみのなかにいたのではないでしょうか。蟠桃の『夢の代』は、「夢にまどろんでいないで」という本ですが、蟠桃自身が意識していたかどうかはともかくとして、それ自体、象徴的な方向性を示していたということができます。江戸のまどろみの時代が終わろうとしている。蟠桃はそう警告を発していたとも思えてなりません。
 さらにつけ加えますと、『夢の代』は、いうまでもなく『夢の城』でもありました。「代」を「しろ」と読むのは、むしろ無理があって、「しろ」というと、ふつうは「城」を連想するのではないでしょうか。蟠桃が想像力をかきたてられていたのは、この「城」に向かってでした。城は武士の拠点であって、町人が「城」をつくることなど許されるはずがありません。それでも、蟠桃は「夢の城」をつくろうとしました。
『夢の代』という本は、蟠桃にとって巨大な構築物でした。それは朱子学の体系に沿って、天地人の構造から成り立っていますが、朱子学の虚妄を払う斬新で画期的な書物でした。最晩年、亡くなる直前に『夢の代』は完成します。蟠桃にとっては、まさに自分の城が完成したという思いがあったのではないでしょうか。

 さて、これまで『夢の代』の序文について、ご説明してきましたが、この調子で話していては、いつまでたっても終わりそうもありません。『夢の代』の中身についても、これからお話ししなければならないのですが、のんびり話していると、あと10回くらい講演会を開かなければいけなくなってしまいます。しかし、いちおう時間内に締めくくりをつけておかねばなりませんので、最後に『夢の代』の全体像について概観的にお話しし、その考え方の特徴をピックアップしておこうと思います。
『夢の代』は全部で12章から成り立っています。先ほど大きく分けると天地人の構造だといいましたが、順番にご紹介すると、第1章が「天文」、つづいて「地理」「神代」「歴代」「制度」「経済」「経綸」「雑書」「異端」「無鬼上」「無鬼下」、そして最後の第12章が「雑論」となっております。天文から地理、歴史、政治、経済、道徳、仏教、迷信、健康までが網羅されていることになります。ご覧になればおわかりのように、これは一種の百科全書であり、ビジネスマンのための最新教科書でもあったといえるでしょう。
 まず「天文」の章では、地球が丸いこと、太陽系では太陽を中心に地球が回っていること、太陽系の外に大宇宙が広がっていること、大宇宙には人間以外の生物が存在するにちがいないこと、1年は365日とし、4年に1回閏年を設ける暦が望ましいこと、そのために現在の陰暦を、立春を起点とする太陽暦に変更しなければならないこと、潮の満ち干や気温、雷など気象のことなども述べられています。
「地理」の章では、日本の地理、京の都の配置、自分が訪れた地方の様子、漂流者から聞いた小笠原や八丈島、ベトナムの様子、地球の五大陸についての記述、ロシアやアメリカの地誌、西洋諸国が植民地を広げていることなどが述べられています。
「神代」の章では、『古事記』や『日本書紀』に記された神々の事跡がいかにでたらめかということが論じられています。
「歴代」では、日本の歴史が古代から移りかわって、どのようにして武士の世になっていったかが論じられています。古代の日中韓の交流、源氏物語や土佐物語、太平記のこと、さまざまの忠臣や名将の物語、赤穂の敵討ち、すなわち忠臣蔵のこと、朝鮮通信使のこと、沖縄との関係などが、思いつくままに論じられています。
「制度」では、封建制と郡県制のどちらがよいか、税制のあり方、養子制度、科挙について、神社や寺院のあり方、衣服、冠婚葬祭、海外貿易、刑罰、貨幣制度のあり方、官位、度量衡についてなどが雑多に論じられています。
「経済」は蟠桃のお得意の分野です。商人より農民を尊ぶべきこと、とはいえ幕府は商人の活動に干渉してはならないと述べています。幕府のいちばんだいじな社会政策は貧民対策だとして、備蓄米の必要性が唱えられています。松平定信がこの考え方を採用したことにより、実際、江戸では幕末まで打ち壊しなどの騒動はなくなりました。
「経綸」は儒教の聖典である四書五経について論じた部分です。そして「雑書」では史記や老子などの古典が論じられ、座右の書として『貞観(じょうかん)政要』や『名臣言行録』などが挙げられています。「異端」は仏教批判です。蟠桃は儒学の人ですから、仏教が大嫌いなわけですね。
上下からなる「無鬼」の章は蟠桃がいちばん力を入れた部分で、鬼神や怪異のたぐいは存在しないことを、微に入り細にわたって説き尽くしています。そして最後の「雑論」では、ここまでで書き残したこと、医術のこと、火事のこと、健康法などが書かれています。蟠桃は杉田玄白や大槻玄沢といった蘭方医が好みなのですが、杉田玄白は健康法として、こんなことを言っています「昔のことはくよくよせず、先のことは思いわずらうな」。蟠桃も、毎日、楽しくすごすことが長生きの秘訣だと思っていました。
 これで一気に『夢の代』の中身を説明しました。さらにご興味のある方は、ぜひ実際の本をお読みください。でも、だいたいの中身は、ほぼおわかりいただけたのではないでしょうか。
 そこで、これまで紹介してきたなかから、蟠桃の考え方のようなものを取りだして、本日のまとめにしておきたいと思います。
 私が思いますのに、蟠桃の考え方には4つの特徴があります。それは次のようなものです。

(1)理念からではなく現実から出発する。
(2)虚妄を排し、実証を重んじる。
(3)知によって世の中を切り開く。
(4)社会の秩序、五倫五常を守る。

 以前は山片蟠桃の思想に関して、よくこういうことが言われました。蟠桃は無神論を唱える点では進歩的だが、儒教道徳を唱える点では保守的だ、と。でも、こういう言い方はちょっと的はずれではないでしょうか。
 私の本を読んでくださった読者の方で、こういうふうに感想を書いてくださった方がいます。「蟠桃のように生きたい、と強く思った。まさにこれは理想の『社会人大学院生』じゃないか」。
 これはありがたい感想ですし、山片蟠桃というのは、まさに世の中の成り立ちに興味を持ちつづけた人ではないでしょうか。仕事もしながら勉強もするというのは、現代でもだいじな生き方です。だから、そもそも進歩的か保守的かいう枠で、蟠桃を分類するのは無意味ではないでしょうか。
 山片蟠桃という人は、時代的にも思想的にも、荻生徂徠と福沢諭吉の中間にあった人です。
 徳川吉宗の助言者を務めた荻生徂徠は、儒教の理念から出発して、できるだけ社会から商業の要素を排除しようとして、さまざまな規則を導入することを提言しました。これにたいし、山片蟠桃は大坂に米市場があり、国じゅうで商業が発達しているという現実から出発し、それをよりよいものにしようと努めました。しかし、知によって世の中を切り開くという点では、徂徠と蟠桃は、よく似た面があります。
 福沢諭吉はご存じのように1万円札の肖像になっている人ですが、門閥制度は親の敵でござる、と儒教をかさにきた権威を批判しました。しかし、諭吉自身は儒教に学んだ人で、不仁不義不忠不幸といった非道徳をきらいました。蟠桃自身は身分制度を重んじていました。君主は君主たらねばならないし、主人は主人たらねばならないと思っていました。だからといって、どんな君主にもどんな主人にもだまって仕えるべきだなどとは、いささかも考えませんでした。むしろ君主や主君に苦言を呈することこそが、儒教道徳なのだというのが、蟠桃の考えです。
 こう考えると、福沢諭吉の儒教批判も、山片蟠桃の儒教尊重も、じつはその中身はよく似ていることがわかります。山片蟠桃の思想は、現実的、理性的、実践的、道徳的、平和的であって、つまるところ、きわめて現代的だといえるのではないでしょうか。
『夢の代』については、まだまだ語るべきことが多々あります。しかし、きょうはこれくらいでやめておきましょう。また機会があれば、つづきをお話ししましょう。高砂の生んだ偉人、山片蟠桃から学ぶべきことは、まだまだありそうです。本日は長い時間、ご静聴ありがとうございました。

傷だらけの編集者人生 [雑記]

[2013年10月19日、校正・編集会社VERITA主催の連続講座での談話(要約)]

 ぼくはある通信社の図書編集部で、20年ほど編集者の仕事をしていました。昔はやった鶴田浩二の歌をもじっていえば、それはまさに「傷だらけの編集者人生」といいましょうか。ふり返ってみれば、よくもまあ失敗ばかり、やらかしていたものです。
 みんな自分が悪いので、いまさらそれをさらけだすのは恥ずかしいのですが、きょうはそれをお話しして、何かの参考にしていただければと思うわけです。ところで、杉田玄白は、健康の秘訣について、「昔のことはいつまでもくよくよしない。ずっと先のことはあまり思いわずらうな」と書いています。失敗しても悔やまないことですね。失敗も勉強と開きなおったほうがいいです。
 でも、失敗を封印してしまうのはよくないと思います。失敗はつきもの、むしろ失敗から学ぶことがだいじなのだともいえます。マルクス主義がだめなのは、自分たちの失敗を認めないからだ、と鶴見俊輔さんが、これもどこかで書いていました。これはマルクス主義にかぎりません。日本の軍隊だって、官僚だって、東京電力だって、ずいぶんいろんな失敗をやらかしてきました。でも、それを素直に認めずに開きなおってしまうから、いっこうに進歩がないわけです。
 ぼくの場合は、そんな大げさな話ではありません。端からみれば、笑ってしまうようなことばかりです。そこで、きょうは大いに失敗自慢をして、笑っていただき、みなさんの何かの足しにしていただければと思う次第です。
 少し自分の経歴めいたものを話しますと、ぼくはエディタースクールに通ったわけでもなく、誰かに編集の仕事を教わったわけでもなく、いわば見よう見まねで本づくりをはじめました。当時、務めていた会社には、出版局というのがありまして、その図書編集部では、おもに年鑑やグラフ、音楽関係の選書、それに記者ハンドブックという用字用語集をつくっていました。
 ぼくは最初、会社回りの営業をしておりまして、6年か7年ほどして、この部署に配属されました。図書編集部の仕事は、毎年だいたい同じで、記者の書いた原稿やら雑誌に連載された原稿を割り付けして、出てきたゲラを校正し、本にすることでした。ですから、原稿の整理と校正が主な仕事ですね。
 ぼくは、ふつうの本屋さんで売っているような一般の書籍をつくりたいと思っていました。通信社の書籍部門でしたから、いってみれば朝日新聞が出しているような一般書籍をつくりたいなと思っていたわけです。それで、年鑑やグラフ、用字用語集の仕事をしながら、そういう機会をうかがっていたのですが、あるとき編集委員室から、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一先生の本をつくらないかという話が舞いこんできたのです。
 いかにも、便乗主義の企画とはいえ、メインになるものとしては、福井謙一先生と江崎玲於奈先生の対談がありました。これは新聞に掲載されたものでしたが、単行本にするには、量が足りない。そこで記者に頼んで、福井先生にインタビューしてもらい、さらにお茶の水女子大学の先生に解説を書いてもらい、雑誌の掲載原稿も加えて、何とか1冊の本をつくったわけです。
 これがぼくの失敗第一号となりました。
 失敗の原因はコミュニュケーション不足です。失敗のなかでは、これが意外と大きな要素を占めているのではないでしょうか。問題になったのは福井謙一先生へのインタビューでした。ぼくはインタビューのゲラを先生のご自宅に送り、帝国ホテルに滞在されていた先生から、赤字を入れた手直しのゲラを受け取りました。そのとき、先生はゲラをもう一度見るとはおっしゃらなかったので、これでOKと思いこんで、赤字の直しを確認し、これで責了とし、本ができあがりました。
 これを先生のところにお届けしたところ、本を回収してくれとおっしゃるのです。どの部分か、はっきりと覚えていませんが、何カ所か発言に問題箇所がみつかったのです。最終的に本は回収を免れましたが、正誤表をはさむことを余儀なくされました。お忙しい先生をわずらわしてはいけないと思い、最終校のゲラを先生にお送りしなかったのが、致命的なミスの原因でした。
 コミュニケーション不足といえば、ポーランド文学者の工藤幸雄先生の本をつくったときにも、こんなことがありました。工藤先生といえば、ゲラに猛烈な赤字を入れられるのが印象的でした。赤字といっても、それが単純に赤ではなく、青や緑や黒の書き込みもあって、それがクロスし、ゲラ全体が手直しで余白がなくなるほどになります。
 そのゲラを印刷所に戻すのが一大苦労です。たぶん、そのまま入稿したのでは、現場の人がパニックを起こすのが目に見えています。いまとちがって、まだワープロがそれほど発達していない時代だったので、別紙に手直しの原稿を書き写し、それをAとかBとかいうように指定し、ゲラに別原稿をくっつけて入稿したことを思いだします。
 困ったのは初校よりも再校のほうが、赤字が増えることがままあったことです。最後は、ぼくのほうが業を煮やして、3校は見せずに、赤字の手直しを確認しただけで、責了としてしまいました。これがまちがいのもと。見本をお持ちしたところ、先生はできあがった本をご覧になりながら、やおら赤ペンをとられて、ページをめくりながら赤字を入れられること、ひとしきり。お怒りにはなりませんでしたが、これには血の気が引きました。
 いまお話したのは、翻訳書のエピソードですが、工藤先生に関しては、ほかにも苦い経験があります。先生のエッセイ集を出したときのことです。責了段階で、先生から会社にファックスが送られてきました。どうやら追加原稿のようでした。FAXの調子が悪くて、1枚しか受け取れませんでした。もちろん先生にはFAXを受け取った旨、電話を入れたのですが、枚数を確認しませんでした。
 ぼくはこれで終わりと思いこんで、指定された訂正箇所に追加原稿を挿入しました。ところが、実はFAXは2枚目があり、その結果、3行分ぐらいが抜けてしまう結果になってしまったのです。文意が通ったので、それでOKと思ったのが、まちがいの元でした。これも念校を先生に見ていただければよかったことで、一手間惜しんだことが、残念な結果を招いたことになります。先生は笑っておられましたが、こういうときは先生の眼がちらっと光ったりするのが編集者としては気になるものです。
 こうした失敗から得られる教訓はひとつです。うるさい、わずらわしいと思われても、遠慮しないで、著者とコミュニケーションを綿密にとり、最終的な確認作業をおこたらないこと。これですね。
 これは校正者の場合も同じかもしれません。おかしいと思ったら、遠慮せずに編集者に問題を指摘することです。編集者というやからは、まさに人さまざまで、なかにはいやなタイプもいるので要注意ですが、それでも編集者とコミュニケーションをとることはだいじではないでしょうか。ぼくもずいぶん校正の方から、重要な指摘をいただいて、助けられたことがあります。

 編集者時代にぼくは160冊ほど本をつくりましたが、翻訳書の割合がけっこう多かったですね。そこから、さらに人文書一般に手を広げられればよかったのですが、ほとんどスタッフもいなかったので、一人では限界がありました。
 そこで、次に翻訳書の大失敗について、お話しします。それは誤訳から生じた大トラブルでした。
 ぼくの英語は、だいたい高校生のレベルでストップしています。大学はいわゆる大学闘争の時代で、ろくに勉強せず、英語の原書も読みませんでした。ですから、そもそも翻訳書を出版するというのが、背伸びもいいところで、いまから考えれば、よく大胆不敵に何十冊も翻訳書を出したものだと思うくらいです。
 その大トラブルは、翻訳書を出版しはじめたころに起きました。たしか3冊目か4冊目のことだったと思います。日本のバブルを扱った本で、著者はエコノミストの記者で、イギリス人でした。なかなかおもしろい本で、早急にバブルを処理しなければ、日本経済は破綻するという内容でした。
 その翻訳のなかで、バブルをめぐるさまざまな出来事のひとつとして、ある有名会社の会長が事実上の贈与をごまかそうとして、警察に逮捕されたという一文がでてきました。ぼくもへえそんな事件があったんだというくらいに思って、しっかりと事実関係を確認しないで、本を出版してしまったのです。
 ところが、本が書店に並んですぐに、その会社の秘書課から猛烈な抗議の電話がかかってきました。事実無根だ、けしからんというわけです。たしかに原文を見ると、ちょっとむずかしい言い回しではありましたが、「警察に逮捕された」などとはひと言も書かれていません。これで、この本は回収になりました。
 しかも、まずいことにその有名会社の会長は、わが社の社長と知り合いだったのです。これで、ぼくの名前はたちまち有名になり、以後、社内に悪名がとどろく一因になったわけです。
 この本にはほかにも妙な訳がいっぱいありました。製紙会社をつくって、おカネの流れを操作したという箇所があって、へんなことをするなと思ったものの、とくに訂正はしませんでした。ところが、あとで原文をよく見ると、ペーパーカンパニーが製紙会社と訳されていたのです。これにもびっくり。
 ほかに固有名詞のまちがいもありました。昭和の金融恐慌のときに、神戸銀行が倒産したと訳されていました。原文は神戸の銀行、これを固有名詞の神戸銀行と訳したのが大まちがいでした。
 さすがにぼくも頭をかかえました。苦い目に遭いましたが、ぼくはなぜか翻訳書から撤退しようとは思いませんでした。これでしょぼんとしたら終わりだと思いました。この事件で、かえって翻訳書のおもしろさに目覚めたといってもいいかもしれません。
 ぼくには、へそ曲がりのところがあって、失敗慣れしているというか、失敗をあまり長く引きずらないのです。失敗はかならず修復できるという楽観がどこかにあります。転換が早いというか、失敗したら、はいそれまでよと落胆するのではなく、失敗しても、できるだけ傷を深くしないで(できるだけ平気をよそおって)、さっさと修復の手段を講じる。そのほうがいいのだと思っていました。
 あのころも、何だかへらへらとしていましたが、それでも内心は実はひやひやでした。「たとえ倒れるとしても、後ろには倒れない、前に倒れるんだ」といきがっていたものです。でも、それは本がつくりたかったからですね。
 しかし、この大事件以来、気をつけるようにしたことが、ひとつあります。それは、どの翻訳書でも、訳文と原文をざっとつきあわせるようにしたことです。名翻訳者の鈴木主税先生は、編集者がそんなことをしていたら、本がてきぱき出せなくなると言われたものですが、ぼくがだいたいの翻訳書において、そうせざるをえなかったのは、バブルの本を出したときの苦い経験からです。でも、ほんとうは鈴木先生のおっしゃるように、信頼のできるいい翻訳者と校正者を見つけることが、編集者の最大の仕事かもしれませんね。
 編集者は翻訳者や著者、校正者、印刷の営業担当者、社内の販売担当の人と、しっかりした信頼関係ができなければ、いい本がつくれません。また、それまでには長い時間が必要になってきますね。
 ほかに翻訳書ではこんなトラブルもありました。いちおう監訳者をつけていても、急ぎの場合は何人かで翻訳を分担してもらうことがあります。このときに、つい見落とすのが、固有名詞の不統一ですね。それが人名や地名のこともありますし、組織や機関の名称であることもあります。それが不統一のままで、監修者も気づかないことがあるのです。固有名詞は要注意ですね。
 誤訳の問題はそれこそ限りなくあって、ぼくも別宮貞徳先生からずいぶん教わりましたが、別宮先生の得意技は、新刊書をもってご自宅にうかがうと、ぱらぱらと本をめくられて、あっ誤植があったと指摘されることでした。それほど多くはないのに、あれだけは不思議でしたね。まるで手に吸い寄せられるように、誤植が浮き上がってくるのには、毎回、身がすくみました。

 翻訳書については、ほかにもいろいろな出来事があるのですが、とりあえずこのあたりでやめておいて、もっと一般的なミスについて、話すことにしましょう。
 翻訳書のトラブルが知識の不足に由来するとしたら、これはいわばうっかりミスというもので、本のなかでいちばん多い誤植はこれが原因です。
 これを防ぐには、手間を惜しまないということでしょうか。ぼくはこれでずいぶん失敗しました。
 本をつくるときにはだいたい再校までとります。新聞関係はともかく、出版関係では、社内に校閲部はありませんでした。ぼくの会社では外部の校正者に初校をみてもらい、著者校とつき合わせて、再校をとり、もう一度著者に見てもらい、編集者も読んで、それを責了とするのがふつうでした。
 ところが、ここにまま落とし穴があります。本のなかには、とくに歴史書などの場合、索引をつくるという作業があります。ぼくは割合これが得意でしたが、索引作りはけっこう手間のかかる作業で、それに時間をとられていると、再校を読む作業がおろそかになってしまうのです。再校では初校の赤字をいちおうつきあわせて、自分でもゲラを読み、著者から戻ってきた赤字をこれに加えていくのですが、索引づくりに手間取ったときや、いまひとつ気合のはいらない本の場合は、つい流し読みしてしまうことがあります。
 著者の校正はわりあい粗っぽいので、あまり当てにはなりません。残念ながら、ミスに気づくのは本ができてからですね。たしか直したはずのところが直っていなかったり、直していないはずのところが直されていたり、つい印刷所に苦情をいいたくなるのですが、よくよく考えてみれば、こちらの不注意が原因ですね。
 ぼくの悪い癖は、イラッチというか、めんどくさがりというか、アバウトなところです。ほんとうは最後にじっくりゲラを読む作業が必要なんです。ところが、400ページ近い本や、内容の難しい本、あるいはあまりおもしろくない本になると、ついつい投げてしまう。ざっとしか読まない。これがいけないですよね。コストの問題はあるにせよ、ほんとうは再校も校正者に見てもらうべきだと思います。
 こわいのは、固有名詞と写真説明です。人の名前はむずかしいですね。まちがっていても気づかないことがあります。これは元をよくよく確認し、ネットで検索するだけでなく、紙の資料で確認したほうがいいですね。地名ではたとえばベネツィアかヴェネツィアかヴェネチアか、不統一が生じることがままあります。新聞表記などの場合は、たとえば『記者ハンドブック』などで確認すれば済むのですが、それ以外の表記を採用するときは、校正のときに、いちおう固有名詞を書き出して整理しておく必要があります。
 写真説明では、たとえば日付があっているのか、それが該当の人物なのかをしっかり確認しておかねばなりません。ぼくが失敗したのは、あるお母さんが娘ふたりと写っている写真があって、その姉妹の名前を、お姉さんと妹さんで逆にしてしまったという経験があります。
 それから、これはぼく自身の失敗ではありませんでしたが、ある年鑑に、ネパールの王家と天皇家の系図を並べて掲載したことがあります。ネパールの王家は消滅する寸前でしたから、そこに天皇家の系図を並べること自体が大胆といえば大胆でした。しかし、そのこと自体は問題になりませんでした。問題になったのは天皇家の系図が何とまちがっていたことです。たしか宮家がひとつ抜けてしまっていたのではないでしょうか。このとき本は回収、すべて刷り直しになってしまいました。
 たった1枚の図版でも、とくに天皇家がらみのものはこわいです。
 こんなこともありました。ぼくの部では、毎年春先になると、新聞社にプロ野球全球団の選手名簿を、そっくり紙面のかたちにして送る仕事をしていました。担当者はベテランだったので、ぼくはかれに仕事をまかせて、もう一つの大きな仕事にかかりきりになっていました。
 名簿ができあがったものを送ったところ、ある新聞社から、選手のポジションがちがっているのではないかと電話がかかってきました。そこで念のために、もう一度校正してみると、いや出てくるわ出てくるわ、10カ所以上ミスがあるではありませんか。すでに新聞に掲載した社もあります。あわてて訂正を出しましたが、間に合いませんでした。これは毎年のことだからと、担当者がしっかりと校正をしていないことがミスの原因でした。
 あとでよくよく調べてみると、これを製作している会社では、経費節約のために、新しく版を起こさないで、去年の版下を流用し、向こうの担当者がざっと原稿をみて、追加の手直しをしていることがわかりました。そのことに気づかないで、こちらの担当者ができあがったゲラを見て、まあだいじょうぶだろうと軽い気持ちでOKを出し、そのまま新聞社に流してしまったのです。
 このときは、ぼくもだいぶ落ち込んで、それが原因でしばらくして担当部署を異動させられることになりました。新聞社にも読者にも迷惑をかけた事件でしたが、しかし、いちばん悪いのはぼくで、担当者にまかせきりにしないで、ぼく自身が一日時間をとって、最後の点検をしておけばよかったと悔やんだものです。これもまた手間を惜しんだことから生じたミスですね。
 要するに、あせらず、気を抜かず、念には念をいれて、ということでしょうか。できれば何度か読みなおす。そして、おかしいと思ったり、迷ったりしたときは、まず『記者ハンドブック』をみて、さらにほかの資料にあたってみるということでしょう。資料については、ひとつだけではなく、できれば2つ、3つの資料でチェックする必要があります。ウィキペディアをうのみにするのは危険です。
 それでも、まちがいは出ます。ぼくも160冊ほど単行本をつくりましたが、完璧な本は1冊か2冊ですね。あるときなどは、崇(あがめる)という字が、なぜか祟(たたる)という字になっていて、それこそ本のカミさまのたたりじゃと思って、ぞっとしたことがあります。
 意外とこわいのは、本づくりの最終工程にひそむワナです。やっと、できあがったと思って、気が抜けてしまうのでしょうね。本には奥付というのがあります。タイトルや著者名や社名、発行人、発行日、電話番号などが書いてあるページですね。本の書誌にかかわるだいじなページです。ところが、この校正が手抜きになることがあります。
 ぼくは一度サブタイトルをまちがえたことがあります。それから電話番号をまちがえたこともあります。一度なんかは、再版のときに初版の発行日を消してしまったこともあります。発行人の名前をまちがえたこともあります。関係者にはあやまって、何とかごまかしたものの、奥付がまちがっていると致命傷になることがあります。たとえば、本のカバーと奥付でタイトルがちがっていたら、どうでしょう。あるいは発行日が2013年が2014年になっていたら、どうでしょう。取次で本を扱ってもらえなくなってしまう可能性が高いです。そうなると、全部刷り直しです。
 それから、ぼくは本のカバーで苦い経験をしたこともあります。これらの部分は、編集者が原稿を入れて、装丁家がデザインをするのですが、ときに装丁家がデザイン上、気をきかせて、文字なりデータなりを自分で追加してくれるときがあります。ぼくの場合は『ヒトラーとチャーチル』という本だったのですが、このときは装丁家が、どうもカタカナだけだと間が抜けてしまうと判断したのでしょう。英文でHitler, Churchillといれてくれたのです。ところがあろうことかチャーチルのhがぬけて、カーチルになっていました。そのことに気づかず、本は書店に並んでしまいました。本の顔だけに恥ずかしかったですね。いい本だったのに、ミスがあると、そればっかりが目立って、中身が霞んでしまいます。

 そんなわけで、恥ずかしながら、これまでの数々の失敗をお話ししました。実際、ミスが重なると、2、3日は落ちこむものです。しかし、ここで杉田玄白のことばを思いだしましょう。それは最初に申しあげたように、「昔のことはいつまでもくよくよしない。ずっと先のことはあまり思いわずらうな」というものです。つまりいまをしっかり生きること、これが健康の秘訣だというわけです。ぼくの友人は、ぼくが失敗するたびに、「原稿より健康」となぐさめてくれたものです。
 ミスはミスとして認めて、あとは前向きにということでしょうか。成功は失敗のもと、そして失敗はかならず身につき、プラスにはたらきます。ですから、失敗をおそれる必要はないわけです。
 いま本の世界はなかなか厳しくなっています。書店数はこの10年で1万9000店から1万4000店へと5000店も減ったといわれます。とくに町の本屋さんがなくなりました。編集者もまた苦戦を強いられ、本の仕事から手を引く人が増えています。逆にフルタイムではたらく人は、たとえば、これまで年に8冊つくっていればよかったのが、月に2冊がふつうになってきました。
 紙の本がなくなるという話もあります。しかし、電子書籍はもうかったという話を聞いたことがありません。それでも、だんだんと電子書籍への移行は進んでいくのでしょう。
 ただし、ウンベルト・エーコは、長い目でみると、残るのは紙の本で電子書籍ではないといっています。これはよくわかります。なぜなら、電子媒体ほどすぐ消えてしまうものはないからです。フロッピーやMDはもう見かけなくなりましたが、CD、DVDもいつまで残るでしょうか。フロッピーなどは、もう使えなくなっていて、昔フロッピーに保存したデータを読もうと思っても、システムが変わって読めないのが実情です。
 ぼくはキンドルを買って、いまこれを重宝していますが、これがはたして10年後に残っているかどうかも、疑問です。すると、10年後に残っているのは、意外にも紙の本だったりするということも、ありうるのです。
 しかし、いずれにしても本というものはゴキブリのように残っていきます。本はゴキブリ文化だといったのは、20年以上前から電子書籍について考えていた津野海太郎さんですが、ゴキブリというのはたぶん人類がいなくなっても残るという意味ですね。逆に電子書籍は媒体が使えなくなれば、それで終わりです。人類がいなくなれば電気もなくなるでしょうから、そのとき残っているのは紙の本ですね。
 なにはともあれ、これからも本は文字とともにあるといえるでしょう。そして本づくりにミスはつきものであるわけですが、ぼくがさまざまなミスにもかかわらず、編集者をやめないで、本づくりをつづけてきたのは、やはり本の世界がおもしろかったからですね。
 編集者と校正者は本の最初の読者でもあります。本を読めば、いろいろな世界が広がっていきます。ファンタジーやミステリー、時代小説も楽しいでしょう。政治や経済の知識を得ることもできます。日本や外国の歴史も知ることができるし、宇宙のこともわかってくるかもしれません。本というのは世界への窓みたいなものですね。いや、それだけではなく人の心をのぞく窓でもあります。ですから、数々のミスをおかしたにせよ、長く本づくりに取り組むことができたのは、ぼくにとっては苦しいながらも楽しい経験でした。
 本は文化だといわれますが、それはなにも本が教養だからというわけではなく、本がことばを記録しているからです。少し大風呂敷を広げていうと、本は時代を反映し、時代を保存します。その意味では、本はタイムカプセルなのです。昔の本を読めば、昔のことがよみがえってきます。本は懐かしの媒体もあります。
 しかし、はたしてそれだけでしょうか。本は何よりもことばなのです。本は未来に向けてことばを用意しているといってもよいでしょう。
 ちょっと大げさかもしれませんが、おそらく、ルターが聖書をギリシャ語からドイツ語に訳し、それがグーテンベルクの印刷機で印刷されて広がらなければ、いまのドイツ語はなかったかもしれません。ダンテがトスカーナの方言で『神曲』を書かなければ、いまのイタリア語はなかったでしょう。あるいは日本でいえば、いまの日本語の基礎をつくったのは、夏目漱石や森鴎外でしょうか。本というのは、どんな本でも、知らず知らずのうちに、ことばを保存し、未来に向けてことばを発しているともいえるわけです。
 ですから、本にならなければ、ことばは消えていく運命にあります。いま世界では何百もの言語が消滅の危機にあるといわれます。多くの先住民のことばにかぎらず、イギリスでもマン島語が最後の話し手がいなくなって消滅しました。パプアニューギニアでも同じように、ことばが消えようとしています。ですから、ことばを記録する本の使命は意外とだいじなわけです。
 これから日本語がどうなっていくのかも実は大きな問題です。あと100年もすれば、日本でも公用語は英語になっていて、日本語は家庭のなかでしか話されない方言になっている可能性もないとはいえません。実際、安倍さんや猪瀬さんまでが英語でスピーチする時代ですからね。その意味では、日本語を残すという点でも、本のもつ潜在的な意味は大きいと思います。
 ことばはどんどん変わっていきます。工藤幸雄先生はよく「翻訳は20年しかもたないんだよ」とおっしゃっていました。それは言い換えれば、20年たてば、ことばはずいぶん変わっているということでもあります。
 森鴎外はアンデルセンの『即興詩人』を雅文調で訳しましたが、いまアンデルセンの同じ本を鴎外のように訳せる人はいないでしょうし、もし村上春樹がこの本を訳したら、まったくちがう雰囲気のものになるのではないでしょうか。
 つまり、ことばは世代の移り変わりとともに、変わっていきます。そのことに、われわれは意外と気づかないのですが、少なくともその移り変わりをきちんと保存してくれる媒体が本だともいえるわけです。
 そのことばを支えているのは、著者であり、編集者であり、校正者であるということができます。校正者はことばのプロです。編集者は、校正者に助けられて、ようやく本をつくることができます。
 鶴見俊輔さんは「われわれの知識は、マチガイを何度も重ねながら、マチガイの度合いの少ない方向に向かって進む」とおっしゃっています。ですから、マチガイをおそれないで、マチガイから学ぼうということを、きょうは申しあげたかったわけです。