最後の晩餐──イタリア夏の旅日記(13) [旅]
8月22日(火)〜24日(木)
われわれの泊まったホテルは、ミラノ中央駅から歩いてすぐのところにあった。
朝、ミラノ中央駅で地下鉄の切符を買い、M2でカドルナ駅まで行き、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に向かった。「地球の歩き方」の地図にしたがって歩くと、教会の後陣(アプス)がみえてくる。四角と円形を組み合わせた優雅な建物だ。レンガ色とクリーム色の構成も悪くない。気持ちが落ち着く。

ここにやってきたのは、この教会の大食堂にえがかれたレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」をみるためだ。見学には予約が必要で、その時間も15分と限られている。幸い、日本からネットで予約をとることができたので、チケット売場に並ぶ必要はない。
教会の正面にやってくる。横にはトラム(路面電車)が走っている。国旗の立っているクリーム色の建物が「最後の晩餐」のえがかれた修道院大食堂の入り口だ。

予約時間まで少し間があったので、教会のなかを見学する。ここにも人の心を楽しませてくれるルネサンスの空間が広がっていた。

時間になった。30人ほどが建物のなかにはいり、案内されるままに控えの部屋に通され、ついに最後の自動ドアが開かれる。そして、その北側の壁に、「最後の晩餐」があらわれた。たいしたことはあるまいとタカをくくっていたぼくも感動を覚えた。なぜか心を吸いこまれるような絵だった。この感じは実物を見ないとわからない。

フラッシュをたかなければ写真をとってもいいというので、われわれもご多分にもれず、絵に近づいて写真を撮らせてもらった。だが、プロではない悲しさ。あとで眺めると絵の深みがいまひとつ伝わってこない。

作品の詳しい説明は不要だろう。まさにイエスが十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の一場面がえがかれている。
イエスが集まった弟子たちに「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」と告げると、弟子たちのあいだにさざ波のように動揺が広がっていく。
人物の仕草からは心の様子までが伝わってくる。イエスの左側3番目のユダはテーブルに肱をついたまま、右手に銀貨を握りしめている。すぐ左のヨハネは悲しそうにうなだれている。右側には何やら議論する弟子たちも。
イエスは穏やかで、すでに諦観した表情をしている。12人の弟子たち、それぞれについて、もっと詳しく知っていれば、絵を鑑賞する視点はもっと深まるだろう。だが、残念ながら、ぼくにその知識がない。
『最後の晩餐』は、ミラノ大公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼で、1495年から97年にかけてえがかれた。レオナルドのいつもながらの遅筆ぶりに苛立った修道院長がミラノ大公に苦情を訴えたとき、宮廷に呼ばれたレオナルドはこう答えたという。
キリストとユダの顔がなかなか決まらない。修道院長が作業をせかすようなら、ユダの顔のモデルを修道院長にしてもよいのだが……。
これには修道院長がうろたえ、ミラノ大公は大笑いし、それ以降、修道院長はレオナルドの仕事に口を出さないようになったとか。

南側の壁にえがかれた、十字架にかけられたキリストの絵も、なかなか見応えがある。このふたつの絵に囲まれて修道士たちは、さぞかし敬虔な面持ちで沈黙を守ったまま食事をしていたのだろう。そう思うと、ちょっと笑えてくるのは、ぼくの不謹慎だ。
見学時間の15分はあっという間にすぎていった。いささか厳粛な面持ちで、部屋をでる。もし神が幻想でしかないとしたら、イエスは何を信じようとしていたのかという思いが渦巻く。これも東洋的無神論者の勝手な思いにすぎない。
これでミラノにやってきた目的は達したようなものだ。あとは、明日マルペンサ空港からチューリヒ空港をへて、日本に帰るまでの時間をどうすごすかである。
せっかくミラノにいるのだからと、まずは近くのスファルツァ城まで歩いていった。

城内の広場をぐるっと回ったあと、ピエタ美術館にはいり、ミケランジェロが89歳で死ぬ直前まで手がけていたピエタ像をみる。ヴァチカンのピエタ像は息を呑むほど美しいが、この像はそれとはだいぶちがう。途中での断念は何を意味したのだろう。それでも、この像からは老いた母の悲しみと慈しみが伝わってくる。母を思わないわけにはいかない。

昼近くになって、城を後にする。イタリア統一の立役者ガリバルディの像が立っている。


どこで食事をとるか迷ったが、けっきょく、延々と歩いて、ミラノを代表するアーケード、「ガッレリア」までやってくる。

20年ほど前に来たときと変わらない相変わらずのにぎわいだ。コロナが明けたことを実感する。

リストランテではピザとパスタを頼み、ついでにビールとワインを飲んだだけだが、お値段は相当なものだった。

夕方まで、まだ時間はある。ガッレリアを出る前に、もう一度、光の差しこむガラスの天井を写真に収める。

ガッレリアを出ると、すぐにレオナルド・ダヴィンチ像が立つ広場と出会う。

その広場の前にあるのがスカラ座だ。いまはオフシーズンのせいか閑散としている。

そのあと、お定まりのようにドゥオモまでやってきた。昔は自由にドゥオモのなかにはいれたのだが、いまは入場券を買わなければならない。チケット売場の列に並んだところで、どっと疲れがでて、ふたりとも顔を見合わせて、もういいかという話になった。そこで、ドゥオモ見学はとりやめに。

猛暑のなか、地下鉄でミラノ中央駅まで戻り、夜食用のすしを駅地下のコンビニで買って、ホテルの部屋に倒れこんだ。
こうして、われわれは熱中症にもならず無事ミラノ見学を終え、翌日ミラノの空港から1日がかりで日本に戻ってきた。帰りの飛行機は、ロシア上空を避け、南回りで、ブルガリア、トルコ、中央アジア、中国の上空を通過し、成田に朝9時半ごろ到着。
コロナ禍を乗り越えて4年ぶりの海外旅行だった。アメリカもギリシアもイランもオーストラリアも行ってないし、中国も50年行ってないと考えると、まだまだ行きたい場所は残っているが、はたしてあといくつ行けるか。残り時間は風の吹くままにということだろう。
われわれの泊まったホテルは、ミラノ中央駅から歩いてすぐのところにあった。
朝、ミラノ中央駅で地下鉄の切符を買い、M2でカドルナ駅まで行き、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に向かった。「地球の歩き方」の地図にしたがって歩くと、教会の後陣(アプス)がみえてくる。四角と円形を組み合わせた優雅な建物だ。レンガ色とクリーム色の構成も悪くない。気持ちが落ち着く。

ここにやってきたのは、この教会の大食堂にえがかれたレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」をみるためだ。見学には予約が必要で、その時間も15分と限られている。幸い、日本からネットで予約をとることができたので、チケット売場に並ぶ必要はない。
教会の正面にやってくる。横にはトラム(路面電車)が走っている。国旗の立っているクリーム色の建物が「最後の晩餐」のえがかれた修道院大食堂の入り口だ。

予約時間まで少し間があったので、教会のなかを見学する。ここにも人の心を楽しませてくれるルネサンスの空間が広がっていた。

時間になった。30人ほどが建物のなかにはいり、案内されるままに控えの部屋に通され、ついに最後の自動ドアが開かれる。そして、その北側の壁に、「最後の晩餐」があらわれた。たいしたことはあるまいとタカをくくっていたぼくも感動を覚えた。なぜか心を吸いこまれるような絵だった。この感じは実物を見ないとわからない。

フラッシュをたかなければ写真をとってもいいというので、われわれもご多分にもれず、絵に近づいて写真を撮らせてもらった。だが、プロではない悲しさ。あとで眺めると絵の深みがいまひとつ伝わってこない。

作品の詳しい説明は不要だろう。まさにイエスが十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の一場面がえがかれている。
イエスが集まった弟子たちに「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」と告げると、弟子たちのあいだにさざ波のように動揺が広がっていく。
人物の仕草からは心の様子までが伝わってくる。イエスの左側3番目のユダはテーブルに肱をついたまま、右手に銀貨を握りしめている。すぐ左のヨハネは悲しそうにうなだれている。右側には何やら議論する弟子たちも。
イエスは穏やかで、すでに諦観した表情をしている。12人の弟子たち、それぞれについて、もっと詳しく知っていれば、絵を鑑賞する視点はもっと深まるだろう。だが、残念ながら、ぼくにその知識がない。
『最後の晩餐』は、ミラノ大公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼で、1495年から97年にかけてえがかれた。レオナルドのいつもながらの遅筆ぶりに苛立った修道院長がミラノ大公に苦情を訴えたとき、宮廷に呼ばれたレオナルドはこう答えたという。
キリストとユダの顔がなかなか決まらない。修道院長が作業をせかすようなら、ユダの顔のモデルを修道院長にしてもよいのだが……。
これには修道院長がうろたえ、ミラノ大公は大笑いし、それ以降、修道院長はレオナルドの仕事に口を出さないようになったとか。

南側の壁にえがかれた、十字架にかけられたキリストの絵も、なかなか見応えがある。このふたつの絵に囲まれて修道士たちは、さぞかし敬虔な面持ちで沈黙を守ったまま食事をしていたのだろう。そう思うと、ちょっと笑えてくるのは、ぼくの不謹慎だ。
見学時間の15分はあっという間にすぎていった。いささか厳粛な面持ちで、部屋をでる。もし神が幻想でしかないとしたら、イエスは何を信じようとしていたのかという思いが渦巻く。これも東洋的無神論者の勝手な思いにすぎない。
これでミラノにやってきた目的は達したようなものだ。あとは、明日マルペンサ空港からチューリヒ空港をへて、日本に帰るまでの時間をどうすごすかである。
せっかくミラノにいるのだからと、まずは近くのスファルツァ城まで歩いていった。

城内の広場をぐるっと回ったあと、ピエタ美術館にはいり、ミケランジェロが89歳で死ぬ直前まで手がけていたピエタ像をみる。ヴァチカンのピエタ像は息を呑むほど美しいが、この像はそれとはだいぶちがう。途中での断念は何を意味したのだろう。それでも、この像からは老いた母の悲しみと慈しみが伝わってくる。母を思わないわけにはいかない。

昼近くになって、城を後にする。イタリア統一の立役者ガリバルディの像が立っている。


どこで食事をとるか迷ったが、けっきょく、延々と歩いて、ミラノを代表するアーケード、「ガッレリア」までやってくる。

20年ほど前に来たときと変わらない相変わらずのにぎわいだ。コロナが明けたことを実感する。

リストランテではピザとパスタを頼み、ついでにビールとワインを飲んだだけだが、お値段は相当なものだった。

夕方まで、まだ時間はある。ガッレリアを出る前に、もう一度、光の差しこむガラスの天井を写真に収める。

ガッレリアを出ると、すぐにレオナルド・ダヴィンチ像が立つ広場と出会う。

その広場の前にあるのがスカラ座だ。いまはオフシーズンのせいか閑散としている。

そのあと、お定まりのようにドゥオモまでやってきた。昔は自由にドゥオモのなかにはいれたのだが、いまは入場券を買わなければならない。チケット売場の列に並んだところで、どっと疲れがでて、ふたりとも顔を見合わせて、もういいかという話になった。そこで、ドゥオモ見学はとりやめに。

猛暑のなか、地下鉄でミラノ中央駅まで戻り、夜食用のすしを駅地下のコンビニで買って、ホテルの部屋に倒れこんだ。
こうして、われわれは熱中症にもならず無事ミラノ見学を終え、翌日ミラノの空港から1日がかりで日本に戻ってきた。帰りの飛行機は、ロシア上空を避け、南回りで、ブルガリア、トルコ、中央アジア、中国の上空を通過し、成田に朝9時半ごろ到着。
コロナ禍を乗り越えて4年ぶりの海外旅行だった。アメリカもギリシアもイランもオーストラリアも行ってないし、中国も50年行ってないと考えると、まだまだ行きたい場所は残っているが、はたしてあといくつ行けるか。残り時間は風の吹くままにということだろう。
コモ湖珍道中──イタリア夏の旅日記(12) [旅]
8月20日(日)〜21日(月)
シエナでの滞在も終わり、いよいよ帰路につくことになった。行きはフィレンツェ空港をとったが、帰りはミラノのマルペンサ空港にした。そのため、フィレンツェからミラノまでは列車に乗らなくてはならない。とはいえ、そのまま帰国するのも味気ないので、ミラノの北にある世界有数の避暑地、コモ湖に寄って1泊する予定を立てた。
6時45分、眠そうなユウキを起こして別れのあいさつをかわし、シエナの家を出発。ミワもいっしょに車に乗り、マテオの運転でフィレンツェ駅に。1時間ほどで着く。新幹線イタロの発車時間は8時25分なので、少しまがある。バールでコーヒーを飲んで、しばらくおしゃべりしてから、いよいよ出発となった。
真っ赤な色の特急列車イタロに乗る。ミラノまでは約2時間。あっというまだ。

ミラノで列車を乗り換え、コモ駅に。ここまでは順調だった。

アルプスを背にした氷河湖のコモ湖は地図でみると、人の漢字に似ている。われわれがいるコモはその左下の部分。ここから足の付け根にあたるベッラージオに船で向かい、ここで1泊する。計算では午後3時すぎにホテルにつけると思っていた。

ところが、そうは問屋がおろさなかった。コモの駅から船着場までは800メートルほどだ。荷物はあるが、これくらいの距離ならだいじょうぶと踏んで、歩いたのがいけなかった。思いのほか暑くて、意外と遠い。あとで調べると、駅前からバスが出ているのがわかる。それに乗ればよかったのだが、後の祭り。おかげで手の格好をしたおもしろいモニュメントに出会ったりもした。

ようやく港に着いたのはよかったが、こんどはチケット売り場に長蛇の列ができている。これも最初から予約しておけばよかったのだ。ヴァカンスシーズンなのを忘れていた。1時間ほど行列して、ようやく午後4時10分のベッラージョ行きを確保する。

予定がすっかりくるってしまった。船の出発までだいぶ時間がある。バールに入って時間を潰すことにして、交替で町を見学した。ぼくはドゥオモ(聖堂)を見て席に戻り、そのあと、つれあいはヴォルタ博物館を見に行った。電池を発明したヴォルタはコモの出身なのだ。

ようやく出発時間となった。快速の水中翼船なので、ベッラージオまでは40分ほどで着く。その代わり、船でのんびり遊覧する風情はない。

快速の水中翼船の中で、右の中指が硬直し、熱中症のような症状を呈する。慌てて水分を補給し、難を逃れる。それほど猛暑だった。どこが避暑地だと毒づくが、もうすぐベッラージオだ。

ホテル・フローレンスに到着。ここでも入り口が分からず迷った。部屋にはいって、ようやく落ち着く。

部屋からの眺めも悪くない。

本来は避暑の観光地のはずだが、今日は酷暑のコモ湖だった。それでも夕方になると、少し過ごしやすくなった。湖畔にはレストランのテーブルが並びはじめている。

夜は坂道途中のレストランで。しかし、パスタがしょっぱく閉口する。

翌朝、人の字の付け根にあたるベッラージオの岬まで散歩する。コモ湖はここで大きくふたつに分かれる。ボートを漕いでいる人がいる。きょうも暑くなりそうだ。

船で対岸に渡り、カルロッタ邸を見学することにする。きのうの轍を踏まないよう、朝早くチケット売り場で、対岸までの往復とコモに戻る快速船のチケット売り場で確保しておく。そのとき、何か注意されたような気がするのだが、意味がよくわからなかった。そのしっぺ返しがあとで効いてくる。
ともかくも船で対岸に渡り、10分ほどでカルロッタの船着場に到着。カルロッタ邸は17世紀に建てられた貴族の館で、白亜の館に広大な庭園が付属している。

目の前には湖の景色が広がっている。

室内の様子もいくつか紹介しておこう。
ここは書斎だろうか。絵が飾られ、彫像が置かれ、本が並べられ、机と椅子がある。

廊下の様子もいかにも貴族のお屋敷だ。

門扉の外はすぐ湖だ。

ベッラージオに戻る船の時間がやってきたので、船着場に戻った。ところが、ここでトラブルが発生する。満席なので船には乗れないというのだ。別の船着場からフェリーが出ているので、そこまで歩いていけと案内された。早朝、チケット売場で説明されたのは、このことだったのだ。

そこで、猛暑のなか10分ほど歩いて、別の船着場に行き、フェリーがやってくるのを待った。コモ行きの快速船の時間は決まっているので、それに間に合うか、ひやひやだった。対岸のベッラージオが見えてきたときには、フェリーの船着場から快速船の船着場まで走って行く覚悟を決める。その前にホテルで預けてある荷物も回収しなければならない。

15時28分発の快速船には何とか間に合う。コモの船着場には40分ほどで着き、少し休憩したあと、駅までがらがらと荷物を押していき(これもバスを使えばよかったのだ)、コモ駅でミラノまでの切符を買い、刻印を押して、列車に乗り込む。ミラノ駅に着いたときは、もうくたくたになっていた。おのぼりさんである。
シエナでの滞在も終わり、いよいよ帰路につくことになった。行きはフィレンツェ空港をとったが、帰りはミラノのマルペンサ空港にした。そのため、フィレンツェからミラノまでは列車に乗らなくてはならない。とはいえ、そのまま帰国するのも味気ないので、ミラノの北にある世界有数の避暑地、コモ湖に寄って1泊する予定を立てた。
6時45分、眠そうなユウキを起こして別れのあいさつをかわし、シエナの家を出発。ミワもいっしょに車に乗り、マテオの運転でフィレンツェ駅に。1時間ほどで着く。新幹線イタロの発車時間は8時25分なので、少しまがある。バールでコーヒーを飲んで、しばらくおしゃべりしてから、いよいよ出発となった。
真っ赤な色の特急列車イタロに乗る。ミラノまでは約2時間。あっというまだ。

ミラノで列車を乗り換え、コモ駅に。ここまでは順調だった。

アルプスを背にした氷河湖のコモ湖は地図でみると、人の漢字に似ている。われわれがいるコモはその左下の部分。ここから足の付け根にあたるベッラージオに船で向かい、ここで1泊する。計算では午後3時すぎにホテルにつけると思っていた。

ところが、そうは問屋がおろさなかった。コモの駅から船着場までは800メートルほどだ。荷物はあるが、これくらいの距離ならだいじょうぶと踏んで、歩いたのがいけなかった。思いのほか暑くて、意外と遠い。あとで調べると、駅前からバスが出ているのがわかる。それに乗ればよかったのだが、後の祭り。おかげで手の格好をしたおもしろいモニュメントに出会ったりもした。

ようやく港に着いたのはよかったが、こんどはチケット売り場に長蛇の列ができている。これも最初から予約しておけばよかったのだ。ヴァカンスシーズンなのを忘れていた。1時間ほど行列して、ようやく午後4時10分のベッラージョ行きを確保する。
予定がすっかりくるってしまった。船の出発までだいぶ時間がある。バールに入って時間を潰すことにして、交替で町を見学した。ぼくはドゥオモ(聖堂)を見て席に戻り、そのあと、つれあいはヴォルタ博物館を見に行った。電池を発明したヴォルタはコモの出身なのだ。
ようやく出発時間となった。快速の水中翼船なので、ベッラージオまでは40分ほどで着く。その代わり、船でのんびり遊覧する風情はない。
快速の水中翼船の中で、右の中指が硬直し、熱中症のような症状を呈する。慌てて水分を補給し、難を逃れる。それほど猛暑だった。どこが避暑地だと毒づくが、もうすぐベッラージオだ。
ホテル・フローレンスに到着。ここでも入り口が分からず迷った。部屋にはいって、ようやく落ち着く。
部屋からの眺めも悪くない。
本来は避暑の観光地のはずだが、今日は酷暑のコモ湖だった。それでも夕方になると、少し過ごしやすくなった。湖畔にはレストランのテーブルが並びはじめている。

夜は坂道途中のレストランで。しかし、パスタがしょっぱく閉口する。

翌朝、人の字の付け根にあたるベッラージオの岬まで散歩する。コモ湖はここで大きくふたつに分かれる。ボートを漕いでいる人がいる。きょうも暑くなりそうだ。

船で対岸に渡り、カルロッタ邸を見学することにする。きのうの轍を踏まないよう、朝早くチケット売り場で、対岸までの往復とコモに戻る快速船のチケット売り場で確保しておく。そのとき、何か注意されたような気がするのだが、意味がよくわからなかった。そのしっぺ返しがあとで効いてくる。
ともかくも船で対岸に渡り、10分ほどでカルロッタの船着場に到着。カルロッタ邸は17世紀に建てられた貴族の館で、白亜の館に広大な庭園が付属している。

目の前には湖の景色が広がっている。

室内の様子もいくつか紹介しておこう。
ここは書斎だろうか。絵が飾られ、彫像が置かれ、本が並べられ、机と椅子がある。
廊下の様子もいかにも貴族のお屋敷だ。
門扉の外はすぐ湖だ。
ベッラージオに戻る船の時間がやってきたので、船着場に戻った。ところが、ここでトラブルが発生する。満席なので船には乗れないというのだ。別の船着場からフェリーが出ているので、そこまで歩いていけと案内された。早朝、チケット売場で説明されたのは、このことだったのだ。
そこで、猛暑のなか10分ほど歩いて、別の船着場に行き、フェリーがやってくるのを待った。コモ行きの快速船の時間は決まっているので、それに間に合うか、ひやひやだった。対岸のベッラージオが見えてきたときには、フェリーの船着場から快速船の船着場まで走って行く覚悟を決める。その前にホテルで預けてある荷物も回収しなければならない。
15時28分発の快速船には何とか間に合う。コモの船着場には40分ほどで着き、少し休憩したあと、駅までがらがらと荷物を押していき(これもバスを使えばよかったのだ)、コモ駅でミラノまでの切符を買い、刻印を押して、列車に乗り込む。ミラノ駅に着いたときは、もうくたくたになっていた。おのぼりさんである。

ヴィンチ村に──イタリア夏の旅日記(11) [旅]
8月17日(木)
夜中、電話が鳴ったので目が覚める。相手がわからなかったので出なかった。朝起きるとメールが入っていた。日本で片づけなければならない要件ができてしまった。イタリアに来て、2週間以上。そろそろ帰り支度をしなければならない。
ここシエナでも、両親や妹さんがらみのこまごまとした要件があり、いつまでもおじゃましているわけにはいかなくなってきた。今回の訪問では建築中の家がなかなかできあがらないため、引っ越しも手伝えず、何の役にも立てなかった。
昼、マテオがキャンティ・ワインの製造元に連れていってくれる。シエナから車で15分ほど。ここでテイスティグ・ランチをとろうというわけだ。

カステリーナ・イン・キャンティにあるCasale dello Sparviero という名前の蔵元だ。カザーレ・デッロ・スパルヴィエロと読むのだろうか。訳すと「ハイタカの農家」。
ワインやオリーブを売っているだけでなく、アグリツーリズモ(農村民泊)の宿も兼ねているようだ。もとは修道院で、それを貴族が買い取り、いまは多角経営をしている。

キャンティのブドウ畑を眺めながら、庭で3種のワインをテイスティングする。残念ながら、ぼくにはワインの味のちがいがよくわからない。ともかく3種のワインを飲みながら、チーズとハム、パンをいただく。

樽が並んでいる部屋も見せてもらった。

それからカステリーナ・イン・キャンティの丘の町に寄り、抜群にうまいジェラートを食べ、帰宅した。

ユウキは一緒に行かず、家でゲームばかりしている。夕方、突然どしゃぶりの雨が降り、そのあと、うそのように晴れる。
この日ものんびりしたいい一日だった。
8月18日(金)
いつものように爽やかな朝。青い空に赤いシエナ色の屋根が美しい。昼前、思い立ってミワの運転でヴィンチ村に行くことにした。ここはレオナルド・ダヴィンチが生まれた場所だ。レオナルド・ダヴィンチは、ヴィンチ(村)のレオナルドにほかならない。
きょう、マテオは病院の会議があって行けないが、めずらしくユウキがつきあってくれた。
シエナの家からは1時間20分ほどの場所だ。途中、ポジボンシ、チェルタルド、エンポリなどを通過。チェルタルドを通ったとき、ユウキが「ここは『デカメロン』の作者、ボッカッチョが生まれたところだ」と教えてくれる。ちょっと嬉しくなった。
ヴィンチ村に到着し、坂に車を停めて、まずは城のなかにある博物館を見に行く。

階段を上ったところに、ダヴィンチと何やら中国の老師が並んでいる銅像を見かけた。これはいったいだれ?
あとで調べてみると斉白石(せいはくせき、1864〜1957)という人だとわかる。何でも現代中国画の巨匠だそうだ。制作したのは呉為山という人で、彫刻は「時空を超えた対話」を意味しているとか。いずれにせよ中国の国際交流の輪が広がっていることを実感する。

城の広場には、オリーブ畑を背に、ダヴィンチの人体図模型が置かれていた。この模型は、人体の寸法が円と正方形に収まるものとして、ダヴィンチがえがいた図像にもとづく。

その原図も示しておこう。絵の人物はダヴィンチ本人がモデルだともいわれる。

城のなかの博物館にはダヴィンチが構想した発明品の数々が木製品化され、所狭しと展示されていた。じっくり見れば理解できたのかもしれないが、それがどういう装置なのか、ぱっと見だけではよくわからない。からくり仕掛けのようにみえてしまう。
しかし、説明をみると、ひとつがレオナルドの構想した走行距離計、もうひとつが掘削機の模型であることがわかる。

これはたぶんダヴィンチの構想した円形戦車の模型だ。

これも実用化までこぎつけなかったが、空を飛ぶ道具も考案していた。

城のてっぺんからは村全体を一望することができた。レオナルドはこの村で12歳まですごし、父が公証人としてはたらく花の都フィレンツェに出て、そこで絵の描き方を学ぶことになる。

バールで軽いランチ。そのあと、もうひとつ博物館を見る。そこには人体解剖図や筋肉のデッサンなどが展示されていた。


数々の発明とその図を元にした模型、解剖図などをみると、レオナルドがいかに天才だったかがわかる。それよりも感激だったのは、孫のユウキがそのひとつひとつを英語で解説してくれたことだ。
外は35度以上あると思われる猛烈な暑さだが、博物館のなかは多少なりとも涼しい。まだ時間があるので、われわれはレオナルドが生まれた家へ向かった。
その家は村からは3キロほど奥まった小高い場所にあった。部屋は3つしかない、小さな家だ。その土間では、ダヴィンチの生涯が映像で紹介されていた。

レオナルドが村外れのこの小さな家で生まれたのには理由がある。かれは婚外子だったのである。
ヴィンチ村の名士の息子で、フィレンツェで公証人としてはたらく父ピエロは帰省したときに16歳の農家の娘カテリーナと恋におちいり、そのあいだに生まれたのがレオナルドだった。
ピエロには社会的に釣り合いのとれた婚約者がおり、レオナルドが生まれてしばらくしてから、実母のカテリーナは村の農夫兼レンガ職人と結婚する。そして、ピエロも結婚し、レオナルドは父方の実家に引き取られ、祖父母や父の弟と、明るい家庭で健康に育った。父と一緒にフィレンツェにいる血のつながらない母とも関係は良好だったという。
しかし、非嫡出子であるため、父の職業である公証人を継げなかった。そのことは、かえって幸いだったともいえる。
父のアドバイスと後援もあって、12歳でレオナルドはフィレンツェに出て、画家として知られるヴェロッキオの工房にはいり、そこでたちまち才能を発揮する。そして、画家としてだけではなく、自由な科学者としてルネサンスの時代を駆け抜けることになる。
そのことを知ったのはあとのことだ。ダヴィンチの生家を訪れたときは、何でこんな辺鄙なところで生まれたのだろうと首をかしげるばかりだった。
そろそろヴィンチ村ともお別れだ。
夕方5時半ごろ、シエナの家に戻る。連日のもてなしには感謝のことばしかない。
翌日は家の大掃除を手伝い、いよいよ帰国の準備をした。これでしばらくミワとマテオ、ユウキともお別れだ。
夜中、電話が鳴ったので目が覚める。相手がわからなかったので出なかった。朝起きるとメールが入っていた。日本で片づけなければならない要件ができてしまった。イタリアに来て、2週間以上。そろそろ帰り支度をしなければならない。
ここシエナでも、両親や妹さんがらみのこまごまとした要件があり、いつまでもおじゃましているわけにはいかなくなってきた。今回の訪問では建築中の家がなかなかできあがらないため、引っ越しも手伝えず、何の役にも立てなかった。
昼、マテオがキャンティ・ワインの製造元に連れていってくれる。シエナから車で15分ほど。ここでテイスティグ・ランチをとろうというわけだ。

カステリーナ・イン・キャンティにあるCasale dello Sparviero という名前の蔵元だ。カザーレ・デッロ・スパルヴィエロと読むのだろうか。訳すと「ハイタカの農家」。
ワインやオリーブを売っているだけでなく、アグリツーリズモ(農村民泊)の宿も兼ねているようだ。もとは修道院で、それを貴族が買い取り、いまは多角経営をしている。

キャンティのブドウ畑を眺めながら、庭で3種のワインをテイスティングする。残念ながら、ぼくにはワインの味のちがいがよくわからない。ともかく3種のワインを飲みながら、チーズとハム、パンをいただく。

樽が並んでいる部屋も見せてもらった。

それからカステリーナ・イン・キャンティの丘の町に寄り、抜群にうまいジェラートを食べ、帰宅した。

ユウキは一緒に行かず、家でゲームばかりしている。夕方、突然どしゃぶりの雨が降り、そのあと、うそのように晴れる。
この日ものんびりしたいい一日だった。
8月18日(金)
いつものように爽やかな朝。青い空に赤いシエナ色の屋根が美しい。昼前、思い立ってミワの運転でヴィンチ村に行くことにした。ここはレオナルド・ダヴィンチが生まれた場所だ。レオナルド・ダヴィンチは、ヴィンチ(村)のレオナルドにほかならない。
きょう、マテオは病院の会議があって行けないが、めずらしくユウキがつきあってくれた。
シエナの家からは1時間20分ほどの場所だ。途中、ポジボンシ、チェルタルド、エンポリなどを通過。チェルタルドを通ったとき、ユウキが「ここは『デカメロン』の作者、ボッカッチョが生まれたところだ」と教えてくれる。ちょっと嬉しくなった。
ヴィンチ村に到着し、坂に車を停めて、まずは城のなかにある博物館を見に行く。

階段を上ったところに、ダヴィンチと何やら中国の老師が並んでいる銅像を見かけた。これはいったいだれ?
あとで調べてみると斉白石(せいはくせき、1864〜1957)という人だとわかる。何でも現代中国画の巨匠だそうだ。制作したのは呉為山という人で、彫刻は「時空を超えた対話」を意味しているとか。いずれにせよ中国の国際交流の輪が広がっていることを実感する。

城の広場には、オリーブ畑を背に、ダヴィンチの人体図模型が置かれていた。この模型は、人体の寸法が円と正方形に収まるものとして、ダヴィンチがえがいた図像にもとづく。

その原図も示しておこう。絵の人物はダヴィンチ本人がモデルだともいわれる。

城のなかの博物館にはダヴィンチが構想した発明品の数々が木製品化され、所狭しと展示されていた。じっくり見れば理解できたのかもしれないが、それがどういう装置なのか、ぱっと見だけではよくわからない。からくり仕掛けのようにみえてしまう。
しかし、説明をみると、ひとつがレオナルドの構想した走行距離計、もうひとつが掘削機の模型であることがわかる。

これはたぶんダヴィンチの構想した円形戦車の模型だ。

これも実用化までこぎつけなかったが、空を飛ぶ道具も考案していた。
城のてっぺんからは村全体を一望することができた。レオナルドはこの村で12歳まですごし、父が公証人としてはたらく花の都フィレンツェに出て、そこで絵の描き方を学ぶことになる。

バールで軽いランチ。そのあと、もうひとつ博物館を見る。そこには人体解剖図や筋肉のデッサンなどが展示されていた。


数々の発明とその図を元にした模型、解剖図などをみると、レオナルドがいかに天才だったかがわかる。それよりも感激だったのは、孫のユウキがそのひとつひとつを英語で解説してくれたことだ。
外は35度以上あると思われる猛烈な暑さだが、博物館のなかは多少なりとも涼しい。まだ時間があるので、われわれはレオナルドが生まれた家へ向かった。
その家は村からは3キロほど奥まった小高い場所にあった。部屋は3つしかない、小さな家だ。その土間では、ダヴィンチの生涯が映像で紹介されていた。

レオナルドが村外れのこの小さな家で生まれたのには理由がある。かれは婚外子だったのである。
ヴィンチ村の名士の息子で、フィレンツェで公証人としてはたらく父ピエロは帰省したときに16歳の農家の娘カテリーナと恋におちいり、そのあいだに生まれたのがレオナルドだった。
ピエロには社会的に釣り合いのとれた婚約者がおり、レオナルドが生まれてしばらくしてから、実母のカテリーナは村の農夫兼レンガ職人と結婚する。そして、ピエロも結婚し、レオナルドは父方の実家に引き取られ、祖父母や父の弟と、明るい家庭で健康に育った。父と一緒にフィレンツェにいる血のつながらない母とも関係は良好だったという。
しかし、非嫡出子であるため、父の職業である公証人を継げなかった。そのことは、かえって幸いだったともいえる。
父のアドバイスと後援もあって、12歳でレオナルドはフィレンツェに出て、画家として知られるヴェロッキオの工房にはいり、そこでたちまち才能を発揮する。そして、画家としてだけではなく、自由な科学者としてルネサンスの時代を駆け抜けることになる。
そのことを知ったのはあとのことだ。ダヴィンチの生家を訪れたときは、何でこんな辺鄙なところで生まれたのだろうと首をかしげるばかりだった。
そろそろヴィンチ村ともお別れだ。
夕方5時半ごろ、シエナの家に戻る。連日のもてなしには感謝のことばしかない。
翌日は家の大掃除を手伝い、いよいよ帰国の準備をした。これでしばらくミワとマテオ、ユウキともお別れだ。
シエナのパリオ──イタリア夏の旅日記(10) [旅]
8月16日(水)
シエナに滞在する時間も残りわずかになってきた。
今回の旅行ではフィレンツェに出かけることもなかった。せめて、もう一度シエナの旧市街を見ておこうと、朝10時過ぎ、ミワにサンドメニコ教会のところまで車で送ってもらい、少し街を歩くことにした。

ブランダの泉まで降りてくる。ここはダンテの『神曲』にもうたわれた場所だ。川に恵まれない丘の街シエナは、地下水路網や泉、水飲み場などをつくって、水の確保に最大限の工夫をこらした。

シエナは坂の街だ。下ったかと思うと、また上る。また坂を上ってもいいのだが、泉の近くに幸い市が設置したエレベーターをみつけた。それを利用させてもらって、ドゥオモ(大聖堂)の裏通りまでやってきた。


むかし孫のユウキと行った植物園に立ち寄る。きょうは8月のパリオ(カンポ広場での競馬)の日だ。パリオの旗をかかげて街を練り歩く行列にぶつかった。パリオは毎年7月と8月に開かれ、その都度、新しい旗がつくられる。マテオは今回つくられた旗が気に入らないらしく、さんざん文句を言っていた。

街にはコントラーダ(町会)ごとに水飲み場が設けられている。通りで出会ったカメ(タルトゥーカ)と波(オンダ、シンボルはイルカ)のコントラーダの水飲み場を写真に収めた。


裏通りを通ってカンポ広場まで行く。

広場の奥に立つ市役所には、きょうのレースに参加する各コントラーダの旗が掲げられていた。マテオとユウキのコントラーダは下段の左から7番目のヤマアラシ(イストリチェ)だ。

暑くなってきたので、グロムでジェラートを食べてから引き上げることにした。ナンニーニのジェラートは甘くて苦手。7番のバスに乗り、1時過ぎ、家に戻った。
少し昼寝をしてから、夕方からテレビ中継でパリオを見る。パリオといってもイメージがわかないだろうから、その雰囲気だけでも別のブログの写真を借りて、伝えておこう(すみません)。

今回勝ったのは、ガチョウ(オーカ)のコントラーダだった。最終の3週目で騎手を振り落としたまま、黒い馬が先頭でゴールを走り抜けた。何人もの騎手が落馬し、転倒する馬も出る波乱のレースだった。
マテオたちのコントラーダはくじ運が悪く、スタートラインに並べず、いちばん後ろのいわば号令役に回されてしまった(このあたりは実際を見ないとわかりにくい)。しかも、途中で怪我をするという不運に見舞われた。パリオを見に行って街から早々に戻ってきたマテオはぼやくことしきり。
パリオは激しい熱狂的なレースだ。鷲とか毛虫とかキリンとか、主に生き物の名前のついたコントラーダ(町会)の住民はだれもが興奮して、この日に望む。だが、遺恨が残らないようにさまざまな工夫がほどこされている。
聖母マリアの名のもとにおこなわれること、毎年2回おこなわれること、出場できるのは17のコントラーダのうち10だけだが、今年出られなかったコントラーダは来年必ず出場できる規則になっていること。その他、さまざまな決まりが、どのコントラーダにも可能性があることを保証している。
人は戦うように生まれている。だが、憎しみあい、殺しあうのを避けるには、大きな知恵が必要なのだ。残念ながら、人類はまだその大知に達していないのが悲しい。
シエナに滞在する時間も残りわずかになってきた。
今回の旅行ではフィレンツェに出かけることもなかった。せめて、もう一度シエナの旧市街を見ておこうと、朝10時過ぎ、ミワにサンドメニコ教会のところまで車で送ってもらい、少し街を歩くことにした。

ブランダの泉まで降りてくる。ここはダンテの『神曲』にもうたわれた場所だ。川に恵まれない丘の街シエナは、地下水路網や泉、水飲み場などをつくって、水の確保に最大限の工夫をこらした。

シエナは坂の街だ。下ったかと思うと、また上る。また坂を上ってもいいのだが、泉の近くに幸い市が設置したエレベーターをみつけた。それを利用させてもらって、ドゥオモ(大聖堂)の裏通りまでやってきた。


むかし孫のユウキと行った植物園に立ち寄る。きょうは8月のパリオ(カンポ広場での競馬)の日だ。パリオの旗をかかげて街を練り歩く行列にぶつかった。パリオは毎年7月と8月に開かれ、その都度、新しい旗がつくられる。マテオは今回つくられた旗が気に入らないらしく、さんざん文句を言っていた。

街にはコントラーダ(町会)ごとに水飲み場が設けられている。通りで出会ったカメ(タルトゥーカ)と波(オンダ、シンボルはイルカ)のコントラーダの水飲み場を写真に収めた。


裏通りを通ってカンポ広場まで行く。

広場の奥に立つ市役所には、きょうのレースに参加する各コントラーダの旗が掲げられていた。マテオとユウキのコントラーダは下段の左から7番目のヤマアラシ(イストリチェ)だ。

暑くなってきたので、グロムでジェラートを食べてから引き上げることにした。ナンニーニのジェラートは甘くて苦手。7番のバスに乗り、1時過ぎ、家に戻った。
少し昼寝をしてから、夕方からテレビ中継でパリオを見る。パリオといってもイメージがわかないだろうから、その雰囲気だけでも別のブログの写真を借りて、伝えておこう(すみません)。

今回勝ったのは、ガチョウ(オーカ)のコントラーダだった。最終の3週目で騎手を振り落としたまま、黒い馬が先頭でゴールを走り抜けた。何人もの騎手が落馬し、転倒する馬も出る波乱のレースだった。
マテオたちのコントラーダはくじ運が悪く、スタートラインに並べず、いちばん後ろのいわば号令役に回されてしまった(このあたりは実際を見ないとわかりにくい)。しかも、途中で怪我をするという不運に見舞われた。パリオを見に行って街から早々に戻ってきたマテオはぼやくことしきり。
パリオは激しい熱狂的なレースだ。鷲とか毛虫とかキリンとか、主に生き物の名前のついたコントラーダ(町会)の住民はだれもが興奮して、この日に望む。だが、遺恨が残らないようにさまざまな工夫がほどこされている。
聖母マリアの名のもとにおこなわれること、毎年2回おこなわれること、出場できるのは17のコントラーダのうち10だけだが、今年出られなかったコントラーダは来年必ず出場できる規則になっていること。その他、さまざまな決まりが、どのコントラーダにも可能性があることを保証している。
人は戦うように生まれている。だが、憎しみあい、殺しあうのを避けるには、大きな知恵が必要なのだ。残念ながら、人類はまだその大知に達していないのが悲しい。
トスカーナの避暑地めぐり──イタリア夏の旅日記(9) [旅]
8月13日(日)〜15日(火)
暑くなる。避暑のため、フィレンツェ東の山中ヴァッロンブローザの僧院に向かう。標高は約1000メートル。少しは涼しかろうと思った。

10時前に家を出発して、モンテヴァルキにあるミワが務める会社の前を通り、山道を登り、1時間40分ほどで着く。駐車場がいっぱいで、少し離れた場所に車を止める。
僧院ではミサが行われていたため、中に入れず。僧院の前は菜園になっている。

大勢の人が訪れている。屋台もでている。

少し下ったところにレストランがあったので、そこで食事をする。

けっこう豪勢に食べた。夏休みだから、いいだろう。


そのあと、止めてある場所に不安があるというので、少し降った場所に車を止め直し、山中を上って僧院までハイキングをする。

僧院を見たあと、ポツリときたかと思うと、日がさしているのに、突然、猛烈な雨が降りはじめた。木の下に避難するが、雨の勢いはますます強くなり、雹まで落ちてきて、30分ほどやまなかった。ふたたび僧院の門まで駆けこむが、びしょ濡れになる。小降りになったので、なんとか自動車に戻る。たしかに避暑の効果はじゅうぶんだ。

われわれはもう一枚着るものを持っていたので、それに着替えることができたが、ミワは濡れたままで車を運転し、なんとか6時前に家まで戻ることができた。わが娘ながら、たくましくなったものだ。
翌日は、朝、掃除を手伝い、マテオの運転で建築中の家を見に行き、あたりを散歩してすごした。

午後はのんびり休息。パリオの予行演習がはじまるというので、テレビをみていたら、雨が降りはじめる様子が映しだされた。街にほど近い家のあたりはまだ晴れている。
すぐやむだろうと思っていたら、家のあたりも雨になる。そのうち猛烈な雷雨となった。それが1時間ほどつづく。地球温暖化による天候異変を実感した。夕方の予行演習は中止になった。
翌朝、ネットの日本のニュースをみる。台風7号が関西に上陸したらしい。円ユーロのレートは1ユーロ=160円近くなった。
朝10時すぎ、昨日の雨が建築中の家に吹きこんでいないかを確認したあと、ミワの運転でアミアータ山に出かける。途中、トスカーナの典型的な風景が広がる。いまは小麦の収穫が終わっているので、ちょっと殺風景だ。

標高1738メートルのアミアータ山は行楽客で溢れ、道路側のあらゆる場所に車が止まっていた。森の中でのんびりキャンプしている人もいる。

頂上に向かう道は規制され、下りだけの一方通行になっている。途中で車を止め、歩いていく。ブナ林が広がっていた。

道の脇には奇妙なかたちをした巨岩も。

頂上近くの駐車場は満車になっていた。このあたりで標高は1670メートルある。その付近のレストランは大混雑で、あるレストランは42ユーロのメニューしか扱っておらず、もう一つのレストランは長蛇の列で、30分以上、待たなければならないという。
そこでお手軽なバールでパンとハム、ビール、ジュースなどを注文して、そこのベンチで食べることにした。

お昼はこれでじゅうぶんだ。

今日は聖母マリアの被昇天日にあたり、イタリアも休日だという。バカンス中であることも手伝って、一番混んでいる日にきてしまった。頂上は見ただけで登らず、引き返す。

帰途、ローマ時代の温泉遺跡が残るバーニョ・ヴィニョーニに立ち寄る。ちいさな村の真ん中に、水槽型の鉱泉があり、いまもお湯がわきだしている。

泉の脇のバールで休憩。

岩場にお湯が流れだし、足湯ができるようになっている。下の川のきわにはプールがつくられ、そこで温泉を楽しんでいる人たちもいる。

あとで知ったのだが、ここバーニョ・ヴィニョーニは、タルコフスキーの『ノスタルジア』の舞台だった。
予言者ドメニコは、世界の終末を巫女から聞き、のちにローマの広場で焼身自殺する。主人公のゴルチャコフは、そのドメニコから温泉場の端から端まで炎を絶やさずにたどりつくことができれば奇跡がおこるといわれて、それを実行に移す。
温泉場にはいつも微風がそよいでいる。そのため蝋燭は二度にわたってかき消される。それでもゴルチャコフはこの奇妙な儀式をやめようとはしない。そして、ついに成功したとたんに心臓麻痺で命を落とす。
その瞬間、ゴルチャコフの薄れゆく意識のなかで、天井の落ちたサンガルガーノ教会の廃墟に粉雪が降りはじめ、それが追放されたロシアの光景と一体化する。
ゴルチャコフが奇跡をもとめて、儀式をつづけるロケ地が、じつにこのバーニョ・ヴィニョーニだった。
そんなことも知らないわれわれは、きょうもお気楽な観光地めぐりをしていた。
暑くなる。避暑のため、フィレンツェ東の山中ヴァッロンブローザの僧院に向かう。標高は約1000メートル。少しは涼しかろうと思った。

10時前に家を出発して、モンテヴァルキにあるミワが務める会社の前を通り、山道を登り、1時間40分ほどで着く。駐車場がいっぱいで、少し離れた場所に車を止める。
僧院ではミサが行われていたため、中に入れず。僧院の前は菜園になっている。

大勢の人が訪れている。屋台もでている。
少し下ったところにレストランがあったので、そこで食事をする。

けっこう豪勢に食べた。夏休みだから、いいだろう。


そのあと、止めてある場所に不安があるというので、少し降った場所に車を止め直し、山中を上って僧院までハイキングをする。

僧院を見たあと、ポツリときたかと思うと、日がさしているのに、突然、猛烈な雨が降りはじめた。木の下に避難するが、雨の勢いはますます強くなり、雹まで落ちてきて、30分ほどやまなかった。ふたたび僧院の門まで駆けこむが、びしょ濡れになる。小降りになったので、なんとか自動車に戻る。たしかに避暑の効果はじゅうぶんだ。

われわれはもう一枚着るものを持っていたので、それに着替えることができたが、ミワは濡れたままで車を運転し、なんとか6時前に家まで戻ることができた。わが娘ながら、たくましくなったものだ。
翌日は、朝、掃除を手伝い、マテオの運転で建築中の家を見に行き、あたりを散歩してすごした。

午後はのんびり休息。パリオの予行演習がはじまるというので、テレビをみていたら、雨が降りはじめる様子が映しだされた。街にほど近い家のあたりはまだ晴れている。
すぐやむだろうと思っていたら、家のあたりも雨になる。そのうち猛烈な雷雨となった。それが1時間ほどつづく。地球温暖化による天候異変を実感した。夕方の予行演習は中止になった。
翌朝、ネットの日本のニュースをみる。台風7号が関西に上陸したらしい。円ユーロのレートは1ユーロ=160円近くなった。
朝10時すぎ、昨日の雨が建築中の家に吹きこんでいないかを確認したあと、ミワの運転でアミアータ山に出かける。途中、トスカーナの典型的な風景が広がる。いまは小麦の収穫が終わっているので、ちょっと殺風景だ。
標高1738メートルのアミアータ山は行楽客で溢れ、道路側のあらゆる場所に車が止まっていた。森の中でのんびりキャンプしている人もいる。

頂上に向かう道は規制され、下りだけの一方通行になっている。途中で車を止め、歩いていく。ブナ林が広がっていた。

道の脇には奇妙なかたちをした巨岩も。

頂上近くの駐車場は満車になっていた。このあたりで標高は1670メートルある。その付近のレストランは大混雑で、あるレストランは42ユーロのメニューしか扱っておらず、もう一つのレストランは長蛇の列で、30分以上、待たなければならないという。
そこでお手軽なバールでパンとハム、ビール、ジュースなどを注文して、そこのベンチで食べることにした。

お昼はこれでじゅうぶんだ。

今日は聖母マリアの被昇天日にあたり、イタリアも休日だという。バカンス中であることも手伝って、一番混んでいる日にきてしまった。頂上は見ただけで登らず、引き返す。
帰途、ローマ時代の温泉遺跡が残るバーニョ・ヴィニョーニに立ち寄る。ちいさな村の真ん中に、水槽型の鉱泉があり、いまもお湯がわきだしている。

泉の脇のバールで休憩。

岩場にお湯が流れだし、足湯ができるようになっている。下の川のきわにはプールがつくられ、そこで温泉を楽しんでいる人たちもいる。

あとで知ったのだが、ここバーニョ・ヴィニョーニは、タルコフスキーの『ノスタルジア』の舞台だった。
予言者ドメニコは、世界の終末を巫女から聞き、のちにローマの広場で焼身自殺する。主人公のゴルチャコフは、そのドメニコから温泉場の端から端まで炎を絶やさずにたどりつくことができれば奇跡がおこるといわれて、それを実行に移す。
温泉場にはいつも微風がそよいでいる。そのため蝋燭は二度にわたってかき消される。それでもゴルチャコフはこの奇妙な儀式をやめようとはしない。そして、ついに成功したとたんに心臓麻痺で命を落とす。
その瞬間、ゴルチャコフの薄れゆく意識のなかで、天井の落ちたサンガルガーノ教会の廃墟に粉雪が降りはじめ、それが追放されたロシアの光景と一体化する。
ゴルチャコフが奇跡をもとめて、儀式をつづけるロケ地が、じつにこのバーニョ・ヴィニョーニだった。
そんなことも知らないわれわれは、きょうもお気楽な観光地めぐりをしていた。
のんびり毎日がすぎる──イタリア夏の旅日記(8) [旅]
8月10日(木)〜12日(土)
シエナ郊外の家で、とくに何の予定もない日々をすごしている。われわれは毎日が休みのようなものだが、ミワとマテオはちょうど2週間の夏休み、ユウキは3カ月の夏休みにはいっている。遠くに旅行に行けないのは、改造中の家の工事が終わらないのと、いま住んでいる家の売却交渉が進まないためだ。
10日の朝も、業者が道路に飛び出しているガスの配管をチェックするというので、ミワとと建築中の家に出かけた。今度の家はオール電化で、ガスは使わない。そのためガスを止めるのだが、その配管が道路に飛びだしているので、それをどう処理するかを決めなければならないのだ。家の中ではトイレとバスの工事が進んでいた。
生協に寄って帰宅し、日本からもってきたそうめんを作って食べる。午後1時半、マテオがサイクリングから戻ってくる。部屋に引っ込んでいると、ガス管の処理方法をめぐって論争する声が聞こえてくる。
こちらは今日も快晴だが、日本は台風が続けてやってきて、お盆には台風が関東地方を直撃する気配だという。日本のニュースはほとんどない。
マテオはまもなくはじまる8月のパリオ(カンポ広場での競馬)の旗がお披露目になるというので、チェントロ(シエナ旧市街)に出かける。帰りは8時ごろになるというので、ミワの運転で近くのモンテリッジョーニに出かけた。丘の上の城壁の町だ。13世紀はじめ、シエナがフィレンツェと戦っていたときは、シエナの前哨砦だった。いまは知る人ぞ知る観光地になっている。

ネコものんびり歩いている。

トスカーナの青空に城門。何だか絵になる。城門の入り口は傾斜がきつく、戦車の侵入を防ぐ仕掛けがつけられている。

城門の外を一周しようとしたが、やめてしまう。その代わり、広場でカクテルを飲んで、うっとりする。のんびりした1日がすぎていく。

翌日も朝はゆっくりして、9時半になってから、ミワがいつも散歩にいっているという場所に連れて行ってもらう。シエナ大学理学部の脇を通って、キャンティの山並みを眺めるルートだ。遠くにキャンティの山並みと修道院が見える。

りっぱな家も建っている。ここからの眺めは最高だろう。だが、いかんせん暑すぎた。全コースを3分の1ほど歩いたところで引き返すことにした。

昼は冷やし中華をつくり、午後はのんびり。ところが、6時に家を見にくる人がいるという連絡がはいり、慌てて家を掃除する。対応はマテオにまかせて、ミワとわれわれはシエナのチェントロ(旧市街)に行くことにした。ユウキはいかないという。友達に親と一緒にいるのを見られたりすると、ばつがわるいのだろう。
久しぶりのチェントロだ。いつものようにサッカー場に近いメディチ要塞前の駐車場に車を止め、いまはバス停になっているグラムシ広場を通って、町の中心部にはいっていく。グラムシ広場は、イタリア共産党の創設者のひとりアントニオ・グラムシ(1891〜1937)の名前にちなむ。シエナとグラムシにはどんなゆかりがあるのかを知りたいものだ。

1472年創業の世界最古のモンテ・デ・パスキ銀行の前を通る。2016年に深刻な経営危機におちいり、いまは事実上政府の管理下にあるという。

カンポ広場にやってきた。

石畳の上には土が敷かれ、来週のパリオに向けて、着々と準備が進んでいた。

ホタテ貝のかたちをした広場の底の要部分に、市庁舎(パラッツォ・プップリコ)とマンジャの塔が立っている。この堂々とした中心があるからこそ、市民(いまは世界市民)の集まる広場が生きてくるのだ。

中心を求めるという人の心性はいつの世も変わらない。はたして、ぼくにとって世界の中心(無限中心)は何なのかと、ふと思ったりする。いまもさまよったままだ。

ドゥオモ(大聖堂)の前にやってくる。昔はだれでも無料でなかにはいれたが、いまはけっこうな料金をとる。

なかにははいらない。入り口から写真をとると、パリオに参加するコントラーダ(町会)の旗が並び、ミサがおこなわれているようだ。この時間、観光客は外で待たされている。

街には1時間ほどいただけで戻る。以前は街を歩くと少し緊張したものだが、今は街が身についてきたような気がする。
トスカーナが日本と違うのは、朝が爽やかなことだ。翌朝、午前中はのんびり。昼はマテオのご両親、お母さんの双子の妹さんと一緒にモンテリッジョーニ近くのレストランで食事する。
3日前、ぼくと同い年のお母さんは、車で降りるときに転んで、顔と膝をぶつけた。そのとき、みんなでお見舞いにいったが、少し楽になったので、みんなで食事をしようということになった。ワインとビールもいただき、おなかいっぱいになった。


4時ごろ家に戻り、昼寝。気温は34度でさすがに暑い。
シエナ郊外の家で、とくに何の予定もない日々をすごしている。われわれは毎日が休みのようなものだが、ミワとマテオはちょうど2週間の夏休み、ユウキは3カ月の夏休みにはいっている。遠くに旅行に行けないのは、改造中の家の工事が終わらないのと、いま住んでいる家の売却交渉が進まないためだ。
10日の朝も、業者が道路に飛び出しているガスの配管をチェックするというので、ミワとと建築中の家に出かけた。今度の家はオール電化で、ガスは使わない。そのためガスを止めるのだが、その配管が道路に飛びだしているので、それをどう処理するかを決めなければならないのだ。家の中ではトイレとバスの工事が進んでいた。
生協に寄って帰宅し、日本からもってきたそうめんを作って食べる。午後1時半、マテオがサイクリングから戻ってくる。部屋に引っ込んでいると、ガス管の処理方法をめぐって論争する声が聞こえてくる。
こちらは今日も快晴だが、日本は台風が続けてやってきて、お盆には台風が関東地方を直撃する気配だという。日本のニュースはほとんどない。
マテオはまもなくはじまる8月のパリオ(カンポ広場での競馬)の旗がお披露目になるというので、チェントロ(シエナ旧市街)に出かける。帰りは8時ごろになるというので、ミワの運転で近くのモンテリッジョーニに出かけた。丘の上の城壁の町だ。13世紀はじめ、シエナがフィレンツェと戦っていたときは、シエナの前哨砦だった。いまは知る人ぞ知る観光地になっている。

ネコものんびり歩いている。

トスカーナの青空に城門。何だか絵になる。城門の入り口は傾斜がきつく、戦車の侵入を防ぐ仕掛けがつけられている。

城門の外を一周しようとしたが、やめてしまう。その代わり、広場でカクテルを飲んで、うっとりする。のんびりした1日がすぎていく。

翌日も朝はゆっくりして、9時半になってから、ミワがいつも散歩にいっているという場所に連れて行ってもらう。シエナ大学理学部の脇を通って、キャンティの山並みを眺めるルートだ。遠くにキャンティの山並みと修道院が見える。

りっぱな家も建っている。ここからの眺めは最高だろう。だが、いかんせん暑すぎた。全コースを3分の1ほど歩いたところで引き返すことにした。

昼は冷やし中華をつくり、午後はのんびり。ところが、6時に家を見にくる人がいるという連絡がはいり、慌てて家を掃除する。対応はマテオにまかせて、ミワとわれわれはシエナのチェントロ(旧市街)に行くことにした。ユウキはいかないという。友達に親と一緒にいるのを見られたりすると、ばつがわるいのだろう。
久しぶりのチェントロだ。いつものようにサッカー場に近いメディチ要塞前の駐車場に車を止め、いまはバス停になっているグラムシ広場を通って、町の中心部にはいっていく。グラムシ広場は、イタリア共産党の創設者のひとりアントニオ・グラムシ(1891〜1937)の名前にちなむ。シエナとグラムシにはどんなゆかりがあるのかを知りたいものだ。

1472年創業の世界最古のモンテ・デ・パスキ銀行の前を通る。2016年に深刻な経営危機におちいり、いまは事実上政府の管理下にあるという。

カンポ広場にやってきた。

石畳の上には土が敷かれ、来週のパリオに向けて、着々と準備が進んでいた。

ホタテ貝のかたちをした広場の底の要部分に、市庁舎(パラッツォ・プップリコ)とマンジャの塔が立っている。この堂々とした中心があるからこそ、市民(いまは世界市民)の集まる広場が生きてくるのだ。

中心を求めるという人の心性はいつの世も変わらない。はたして、ぼくにとって世界の中心(無限中心)は何なのかと、ふと思ったりする。いまもさまよったままだ。

ドゥオモ(大聖堂)の前にやってくる。昔はだれでも無料でなかにはいれたが、いまはけっこうな料金をとる。

なかにははいらない。入り口から写真をとると、パリオに参加するコントラーダ(町会)の旗が並び、ミサがおこなわれているようだ。この時間、観光客は外で待たされている。

街には1時間ほどいただけで戻る。以前は街を歩くと少し緊張したものだが、今は街が身についてきたような気がする。
トスカーナが日本と違うのは、朝が爽やかなことだ。翌朝、午前中はのんびり。昼はマテオのご両親、お母さんの双子の妹さんと一緒にモンテリッジョーニ近くのレストランで食事する。
3日前、ぼくと同い年のお母さんは、車で降りるときに転んで、顔と膝をぶつけた。そのとき、みんなでお見舞いにいったが、少し楽になったので、みんなで食事をしようということになった。ワインとビールもいただき、おなかいっぱいになった。


4時ごろ家に戻り、昼寝。気温は34度でさすがに暑い。
エトルリア文明に圧倒される──イタリア夏の旅日記(7) [旅]
8月9日(水)
タルクイニアには、あした木曜にマテオの運転で行くつもりだった。しかし、木曜はマテオが友達とサイクリングに行くことになったため、予定変更。急遽ユウキを叩き起こして、8時半にシエナの自宅を出発した。
タルクイニアに行きたいといいだしたのは、つれあいである。ぼくはそこがどんなところか、何の知識もなかった。
タルクイニアにはエトルリアの遺跡があるという。シエナから南下すること約2時間。さらにもう少し南下すればローマだ。マテオの運転はレーシングのようで、少し怖い。
エトルリア人の墓地ネクロポリにやってきた。いまでは丘の上の公園として整備されている世界遺産だ。さっそくはいってみる。にょきにょきキノコのようなものが置かれている。これも墓なのか。何だ、これだけかと思ったら、そうではなかった。むしろメインは小屋のような建物の下にある。その下にエトルリア人の墓があるのだ。

入れ替わりで20近い墓が公開されている。そのひとつを選んで、下に降りていってみる。この小屋は現代になって墓を見るためにつくられたものだ。もともとはちいさな土の盛り上がりだったのではないか。

地下には墓室があり、ボタンを押すと30秒ほど電気がついて、室内の様子をみることができるようになっている。中央のへこみには石棺が置かれていたはずだ。電気がつくと、彩色された絵のかずかずが浮かびあがる。いまから2500年以上前の絵だ。昔、ここにエトルリア人が住んでいたことを実感する。

この絵はいったい何をあらわしているのだろう。左右の壁には、くつろぎながら左ひじをついて食事をとるふたりの男の姿。帯で仕切られた部分の下は海の光景で、波の上を何十匹ものイルカがはね、鳥が飛んでいる。
正面上部には大きな壺が置かれているが、油のようなものがはいっているのだろうか。壺の横で、ふたりの楽師が古代の弦楽器キタラとアウロスを奏でている。左は豪華な衣装をつけた女性、右は薄衣をまとった少女と裸の給仕が踊っているようにみえる。そして、いちばん上には大きく口を開けた闘志満々のライオンが2頭向きあっている。
どうみても、現世の楽しみが死後もつづきますようにという感じの絵だ。エジプトの絵などとは根本的にモチーフが異なっている。

墓を出て、丘のいちばん向こうの端まで歩く。小麦の収穫はすでに終わっているが、周囲には豊かな穀倉地帯が広がっている。昔から食べるものには困らなかったのだろう。

別の石室にはいってみる。ここにも音楽と踊りのモチーフがある。

ブルーやグリーンを含め鮮やかな色彩が完璧に残っている石室と出会った。何といっても正面上のヒョウが目を引きつける。
宴会が開かれているようだ。左右の壁には音楽に合わせて踊る人や召使いの姿。正面のちいさな木の枝にはベリーの実がたわわだ。ふたりの裸の召使いは、客の世話をしているのだろうか。3組の仲のいい男女が宴会を楽しんでいる様子が伝わってくる。

次の一室は青いパンサーと赤いライオン。右に座っているのは冥界の番人だろうか。

エトルリアの絵は躍動的だ。みているだけで、こちらもからだを動かしてみたくなる。


細部をみていても、飽きない。いかんせん、こちらに歴史的教養が欠けている。だが、エトルリア文明が存在したことは実感できる。
今日は涼しい方だというが、それでも昼近くになると、さすがに太陽が照りつけて、大汗をかく。いくつも墓をみているうちに、さすがにくたびれ、おなかもすいてきた。
そこで、昼はネットで見つけたシーフードの店に行くことにした。調べてみると、街を離れて海べにちかい場所だった。車で向かうと、ずいぶん辺鄙なところだ。客もいないので、だいじょうぶかと心配したが、そのうち常連さんらしい人もやってきた。


今日あがったばかりというタコを前菜とし、新鮮なロブスターのパスタを食べる。絶品。値段は高かったが、値打ちはあった。マテオがおごってくれた。

午後はタルクイニアの考古学博物館に行く。エトルリアの遺物が展示されている。

エトルリアの石棺。浄化されることのない苦悩と悲しみがそのまま伝わってくるような気がする。

回廊には、堂々とした姿の石棺が置かれていた。下にえがかれているのは、おそらくこの人物の事績なのだろう。

目を見張ったのは、高い位置に展示された、翼のある2頭の天馬だった。郊外にあった寺院の祭壇を飾っていたものだという。紀元前4世紀の作品で、1938年に発見された。エトルリア芸術の粋といえるだろう。

隣の部屋にはミトラ神によって犠牲として屠られる雄牛の像が置かれている。
エトルリア人は紀元前8世紀から紀元前3世紀ごろにかけて、イタリア中部のトスカーナを制していた部族集団といってよいだろう。のちにローマによって軍事的に吸収されるが、当初はローマよりはるかに高度な文明を誇っていた。王政時代のローマでは、ふたりのエトルリア系の王を輩出している。詳しい歴史はまだ謎に包まれている。
何はともあれ、エトルリア文明の一端に触れることができたのが、きょうの小旅行の収穫だった。
タルクイニアには、あした木曜にマテオの運転で行くつもりだった。しかし、木曜はマテオが友達とサイクリングに行くことになったため、予定変更。急遽ユウキを叩き起こして、8時半にシエナの自宅を出発した。
タルクイニアに行きたいといいだしたのは、つれあいである。ぼくはそこがどんなところか、何の知識もなかった。
タルクイニアにはエトルリアの遺跡があるという。シエナから南下すること約2時間。さらにもう少し南下すればローマだ。マテオの運転はレーシングのようで、少し怖い。
エトルリア人の墓地ネクロポリにやってきた。いまでは丘の上の公園として整備されている世界遺産だ。さっそくはいってみる。にょきにょきキノコのようなものが置かれている。これも墓なのか。何だ、これだけかと思ったら、そうではなかった。むしろメインは小屋のような建物の下にある。その下にエトルリア人の墓があるのだ。

入れ替わりで20近い墓が公開されている。そのひとつを選んで、下に降りていってみる。この小屋は現代になって墓を見るためにつくられたものだ。もともとはちいさな土の盛り上がりだったのではないか。

地下には墓室があり、ボタンを押すと30秒ほど電気がついて、室内の様子をみることができるようになっている。中央のへこみには石棺が置かれていたはずだ。電気がつくと、彩色された絵のかずかずが浮かびあがる。いまから2500年以上前の絵だ。昔、ここにエトルリア人が住んでいたことを実感する。

この絵はいったい何をあらわしているのだろう。左右の壁には、くつろぎながら左ひじをついて食事をとるふたりの男の姿。帯で仕切られた部分の下は海の光景で、波の上を何十匹ものイルカがはね、鳥が飛んでいる。
正面上部には大きな壺が置かれているが、油のようなものがはいっているのだろうか。壺の横で、ふたりの楽師が古代の弦楽器キタラとアウロスを奏でている。左は豪華な衣装をつけた女性、右は薄衣をまとった少女と裸の給仕が踊っているようにみえる。そして、いちばん上には大きく口を開けた闘志満々のライオンが2頭向きあっている。
どうみても、現世の楽しみが死後もつづきますようにという感じの絵だ。エジプトの絵などとは根本的にモチーフが異なっている。

墓を出て、丘のいちばん向こうの端まで歩く。小麦の収穫はすでに終わっているが、周囲には豊かな穀倉地帯が広がっている。昔から食べるものには困らなかったのだろう。

別の石室にはいってみる。ここにも音楽と踊りのモチーフがある。

ブルーやグリーンを含め鮮やかな色彩が完璧に残っている石室と出会った。何といっても正面上のヒョウが目を引きつける。
宴会が開かれているようだ。左右の壁には音楽に合わせて踊る人や召使いの姿。正面のちいさな木の枝にはベリーの実がたわわだ。ふたりの裸の召使いは、客の世話をしているのだろうか。3組の仲のいい男女が宴会を楽しんでいる様子が伝わってくる。

次の一室は青いパンサーと赤いライオン。右に座っているのは冥界の番人だろうか。

エトルリアの絵は躍動的だ。みているだけで、こちらもからだを動かしてみたくなる。
細部をみていても、飽きない。いかんせん、こちらに歴史的教養が欠けている。だが、エトルリア文明が存在したことは実感できる。
今日は涼しい方だというが、それでも昼近くになると、さすがに太陽が照りつけて、大汗をかく。いくつも墓をみているうちに、さすがにくたびれ、おなかもすいてきた。
そこで、昼はネットで見つけたシーフードの店に行くことにした。調べてみると、街を離れて海べにちかい場所だった。車で向かうと、ずいぶん辺鄙なところだ。客もいないので、だいじょうぶかと心配したが、そのうち常連さんらしい人もやってきた。


今日あがったばかりというタコを前菜とし、新鮮なロブスターのパスタを食べる。絶品。値段は高かったが、値打ちはあった。マテオがおごってくれた。
午後はタルクイニアの考古学博物館に行く。エトルリアの遺物が展示されている。

エトルリアの石棺。浄化されることのない苦悩と悲しみがそのまま伝わってくるような気がする。

回廊には、堂々とした姿の石棺が置かれていた。下にえがかれているのは、おそらくこの人物の事績なのだろう。

目を見張ったのは、高い位置に展示された、翼のある2頭の天馬だった。郊外にあった寺院の祭壇を飾っていたものだという。紀元前4世紀の作品で、1938年に発見された。エトルリア芸術の粋といえるだろう。

隣の部屋にはミトラ神によって犠牲として屠られる雄牛の像が置かれている。
エトルリア人は紀元前8世紀から紀元前3世紀ごろにかけて、イタリア中部のトスカーナを制していた部族集団といってよいだろう。のちにローマによって軍事的に吸収されるが、当初はローマよりはるかに高度な文明を誇っていた。王政時代のローマでは、ふたりのエトルリア系の王を輩出している。詳しい歴史はまだ謎に包まれている。
何はともあれ、エトルリア文明の一端に触れることができたのが、きょうの小旅行の収穫だった。
シエナ郊外散歩とサンジミニャーノ──イタリア夏の旅日記(6) [旅]
8月8日(火)
朝、9時ごろから娘のミワに案内してもらい、家の近所を2時間ほど散歩する。ここはイタリア・トスカーナのシエナ郊外だ。家はシエナの旧市街から車で10分足らず。鉄道のシエナ駅をはさんで、旧市街に対面する丘の上にある。
道路を渡って、高台の散歩道にはいる。
ミワのつれあいのマテオが勤務するシエナ大学病院がよく見える。向こうはキャンティの山々。

細い道はなかなか風情がある。

その先にはオリーブ畑が広がっている。

高台からはシエナの町がよく見渡せる。向こうに見えるのはアミアータ山。

道の先には、カンポ広場のマンジャの塔がすっくと立っている。

原っぱの下に見えるのは鉄道のシエナ駅だ。

民家の庭には、こんな大木も。広がった樹形が気に入った。

さすがに暑くなってきたので家に戻ることにする。
昼は日本から持ってきた乾麺をゆで、ユウキと一緒にそばを食べる。会議で出かけていたマテオも戻ってきて、作りおきのそばを食べてくれた。
新しい家ができるので、この家は売却して、引っ越すことになっている。不動産屋さんからの連絡で、夕方、家を見にくる人がいるというので、ざっと掃除する。その対応はマテオに任せて、われわれはミワの運転でユウキと一緒に、シエナの街に出るつもりだった。ところがユウキの気が変わり、街に行くことはやめることにした。どうやら街で友達とばったり出会ったりするのが、いやなようだ。
そこで、時間つぶしのため、家から車で40分ほどのサンジミニャーノに行くことにした。たぶん10年ぶりくらい。いやもっとかもしれない。

サンジミニャーノの市役所で、20年ほど前、ミワとマテオが結婚式を挙げたことを思い出す。
サンジミニャーノは塔の街として知られる。13世紀に隆盛をほこった商人たちがこぞって72もの塔を立てたという。その塔はさほど多く残っているわけではないが、いまも多くの観光客を引きつけている。

ひさしぶりに懐かしい街を歩いていて、実は生きているのは、街のほうで、ここにあふれている多くの人は幻影にすぎないのではないかという不思議な感慨に襲われる。有が無になり、無が有になる。時の流れは速い。
ドゥオモ広場にやってきた。右は大聖堂、左にあるのはポポロ館。ポポロ館の右には大きな塔がそびえている。

だいぶ日が落ちてきた。マテオから電話がかかってくる。短い時間だったが、そろそろ帰ることに。いまイタリアでは金利が高くなったため、家は簡単には売れなくなっているという。

7時半に帰宅。近くのピザ屋さんに行ってピザを買い、夕食を済ませる。
朝、9時ごろから娘のミワに案内してもらい、家の近所を2時間ほど散歩する。ここはイタリア・トスカーナのシエナ郊外だ。家はシエナの旧市街から車で10分足らず。鉄道のシエナ駅をはさんで、旧市街に対面する丘の上にある。
道路を渡って、高台の散歩道にはいる。
ミワのつれあいのマテオが勤務するシエナ大学病院がよく見える。向こうはキャンティの山々。

細い道はなかなか風情がある。

その先にはオリーブ畑が広がっている。

高台からはシエナの町がよく見渡せる。向こうに見えるのはアミアータ山。

道の先には、カンポ広場のマンジャの塔がすっくと立っている。

原っぱの下に見えるのは鉄道のシエナ駅だ。

民家の庭には、こんな大木も。広がった樹形が気に入った。

さすがに暑くなってきたので家に戻ることにする。
昼は日本から持ってきた乾麺をゆで、ユウキと一緒にそばを食べる。会議で出かけていたマテオも戻ってきて、作りおきのそばを食べてくれた。
新しい家ができるので、この家は売却して、引っ越すことになっている。不動産屋さんからの連絡で、夕方、家を見にくる人がいるというので、ざっと掃除する。その対応はマテオに任せて、われわれはミワの運転でユウキと一緒に、シエナの街に出るつもりだった。ところがユウキの気が変わり、街に行くことはやめることにした。どうやら街で友達とばったり出会ったりするのが、いやなようだ。
そこで、時間つぶしのため、家から車で40分ほどのサンジミニャーノに行くことにした。たぶん10年ぶりくらい。いやもっとかもしれない。

サンジミニャーノの市役所で、20年ほど前、ミワとマテオが結婚式を挙げたことを思い出す。
サンジミニャーノは塔の街として知られる。13世紀に隆盛をほこった商人たちがこぞって72もの塔を立てたという。その塔はさほど多く残っているわけではないが、いまも多くの観光客を引きつけている。

ひさしぶりに懐かしい街を歩いていて、実は生きているのは、街のほうで、ここにあふれている多くの人は幻影にすぎないのではないかという不思議な感慨に襲われる。有が無になり、無が有になる。時の流れは速い。
ドゥオモ広場にやってきた。右は大聖堂、左にあるのはポポロ館。ポポロ館の右には大きな塔がそびえている。

だいぶ日が落ちてきた。マテオから電話がかかってくる。短い時間だったが、そろそろ帰ることに。いまイタリアでは金利が高くなったため、家は簡単には売れなくなっているという。

7時半に帰宅。近くのピザ屋さんに行ってピザを買い、夕食を済ませる。
サトゥルニアの温泉に──イタリア夏の旅日記(5) [旅]
8月7日(月)
朝、7時半ごろ、シエナの家を出て、ミワの車に乗せてもらい、マテオ君の運転でグロッセートに向かった。海に近い平野の町だ。風光明媚なマレンマの湿地帯をかかえ、かつてはマラリアの脅威にさらされたこともある。シエナが長く治め、のちメディチ家の支配下にはいった。旧市街はメディチ家の堡塁に囲まれている。
マテオはそこの病院で8時半から手術の仕事がある。グロッセートまでついてきたのはわけがある。グロッセートから車で1時間ほど山にはいったところにサトゥルニアという場所があり、そこに温泉があると聞いたからだ。
ミワはとても2時間運転する自信はないという。そこで、たまたまグロッセートで仕事のあるマテオに便乗し、それからミワに1時間ほど走ってもらって、温泉場に行くという計画を思いついた。
計画の主はもちろんつれあいである。そもそもはNHK・BSの放送で「ヨーロッパ秘湯ジャーニー」という番組をやっているのを見たのがきっかけだった。イギリスの若いカップルがキャンプワゴンで50日間にわたってヨーロッパ各地の秘湯をめぐるのだが、イタリアで訪れたのがサトゥルニアの温泉だ。調べたところ、サトゥルニアはトスカーナ州にある。シエナからそんなに遠くないのではないか、とカンをはたらかせたのが、つれあいのすごいところである。
そこで、本日、念願のサトゥルニア温泉行となった。
グロッセートまでは農村地帯がつづく。ここではコメも栽培されている。道は途中で片側1車線通行になる。地権者がやっと地所の引き渡しに同意したので、2車線化の工事がはじまっているものの、その進展具合は遅々としているという。のろのろと走る。
丘の中腹にちいさな村をみつけた。

糸杉の光景も広がっている。

オリーブ畑とぶどう畑もおなじみだ。


小麦の収穫はすでに終わって、大きな麦わらロールがあちこちつくられている。

グロッセートの病院前でマテオが降り、ミワと運転を交替。手術が終わったあと、午後1時ごろにまた迎えにくることになっている。
山道を登り降りし、10時ごろ念願のサトゥルニア温泉に到着した。駐車場に車をとめ、水着に着替えて、5分ほど歩く。青空のもと、石灰棚に囲まれた野趣あふれる温泉場が広がっていた。
イタリアの温泉は日本とは少しちがう。水着をつけてはいるから、温水プール感覚に近いといえるかもしれない。

この日も大勢の人が訪れていた。地元の人が多そうだ。

われわれはそろりそろりと石灰棚のほうに近づいていく。温泉水は滝のように上から流れてくる。足下は小さな石が敷き詰められているので、すべる心配はないが、水の勢いが強いので、足をとられそうになる。転びそうになったが、見かねたのか、まわりの人が助けてくれた。みんな親切だ。
日本人の観光客はいない。いや、そうでもないか。情けない顔をしたみすぼらしいじいさんがひとり写真に写っていた。水量は豊富、熱くなくて、いいお湯だ。少し硫黄の臭いもする。知り合いどうし、ゆっくりおしゃべりをしながら、ひがなここで過ごすのだろう。無料というのがありがたい。

1月に胆石の手術をしたミワは入り口のバールで待っていた。あまり待たせるのは申し訳ないので、1時間ほどで引き揚げることにする。それにグロッセートでマテオをピックアップしなければならない。

午後1時過ぎ、グロッセートの病院前に無事到着。
食事をしようというので、マテオが城壁前のリストランテ(レストラン)を探してくれて、お相伴にあずかる。

つれあいはイカスミのリゾット、ぼくはスパゲティ・ボンゴレを頼み、みんなでプロセッコ(スパークリングワイン)をあけてしまった。ふたりでフリットも食った。日本ではこんなことはまずしない。ヴァカンスのお祝いである。


少し酔いをさましてからシエナの家に戻る。
途中の麦畑の光景。

シエナの町が見えてきた。

夕方5時ごろ帰宅。ユウキは「ぼく行かない」といって、きょうも家で待っていた。やはり高校生だ。
朝、7時半ごろ、シエナの家を出て、ミワの車に乗せてもらい、マテオ君の運転でグロッセートに向かった。海に近い平野の町だ。風光明媚なマレンマの湿地帯をかかえ、かつてはマラリアの脅威にさらされたこともある。シエナが長く治め、のちメディチ家の支配下にはいった。旧市街はメディチ家の堡塁に囲まれている。
マテオはそこの病院で8時半から手術の仕事がある。グロッセートまでついてきたのはわけがある。グロッセートから車で1時間ほど山にはいったところにサトゥルニアという場所があり、そこに温泉があると聞いたからだ。
ミワはとても2時間運転する自信はないという。そこで、たまたまグロッセートで仕事のあるマテオに便乗し、それからミワに1時間ほど走ってもらって、温泉場に行くという計画を思いついた。
計画の主はもちろんつれあいである。そもそもはNHK・BSの放送で「ヨーロッパ秘湯ジャーニー」という番組をやっているのを見たのがきっかけだった。イギリスの若いカップルがキャンプワゴンで50日間にわたってヨーロッパ各地の秘湯をめぐるのだが、イタリアで訪れたのがサトゥルニアの温泉だ。調べたところ、サトゥルニアはトスカーナ州にある。シエナからそんなに遠くないのではないか、とカンをはたらかせたのが、つれあいのすごいところである。
そこで、本日、念願のサトゥルニア温泉行となった。
グロッセートまでは農村地帯がつづく。ここではコメも栽培されている。道は途中で片側1車線通行になる。地権者がやっと地所の引き渡しに同意したので、2車線化の工事がはじまっているものの、その進展具合は遅々としているという。のろのろと走る。
丘の中腹にちいさな村をみつけた。
糸杉の光景も広がっている。
オリーブ畑とぶどう畑もおなじみだ。
小麦の収穫はすでに終わって、大きな麦わらロールがあちこちつくられている。
グロッセートの病院前でマテオが降り、ミワと運転を交替。手術が終わったあと、午後1時ごろにまた迎えにくることになっている。
山道を登り降りし、10時ごろ念願のサトゥルニア温泉に到着した。駐車場に車をとめ、水着に着替えて、5分ほど歩く。青空のもと、石灰棚に囲まれた野趣あふれる温泉場が広がっていた。
イタリアの温泉は日本とは少しちがう。水着をつけてはいるから、温水プール感覚に近いといえるかもしれない。
この日も大勢の人が訪れていた。地元の人が多そうだ。
われわれはそろりそろりと石灰棚のほうに近づいていく。温泉水は滝のように上から流れてくる。足下は小さな石が敷き詰められているので、すべる心配はないが、水の勢いが強いので、足をとられそうになる。転びそうになったが、見かねたのか、まわりの人が助けてくれた。みんな親切だ。
日本人の観光客はいない。いや、そうでもないか。情けない顔をしたみすぼらしいじいさんがひとり写真に写っていた。水量は豊富、熱くなくて、いいお湯だ。少し硫黄の臭いもする。知り合いどうし、ゆっくりおしゃべりをしながら、ひがなここで過ごすのだろう。無料というのがありがたい。

1月に胆石の手術をしたミワは入り口のバールで待っていた。あまり待たせるのは申し訳ないので、1時間ほどで引き揚げることにする。それにグロッセートでマテオをピックアップしなければならない。

午後1時過ぎ、グロッセートの病院前に無事到着。
食事をしようというので、マテオが城壁前のリストランテ(レストラン)を探してくれて、お相伴にあずかる。

つれあいはイカスミのリゾット、ぼくはスパゲティ・ボンゴレを頼み、みんなでプロセッコ(スパークリングワイン)をあけてしまった。ふたりでフリットも食った。日本ではこんなことはまずしない。ヴァカンスのお祝いである。


少し酔いをさましてからシエナの家に戻る。
途中の麦畑の光景。
シエナの町が見えてきた。
夕方5時ごろ帰宅。ユウキは「ぼく行かない」といって、きょうも家で待っていた。やはり高校生だ。
イタリア夏の旅日記(4) [旅]
8月6日(日)
夜中から目が覚めてしまう。朝10時、洗濯を終えたミワが隣町に改築中の新しい家に連れていってくれる。田舎の大きな民家だ。3軒に分割されていて、すでに両端の家は人が住んでいるが、ミワたちがこれから住もうとしている部分はその真ん中にあたる。

ミワのつれあいのマテオは大の自転車好きで、暇さえあればトスカーナの山野を自転車で走っている。田舎暮らしは夢だったらしい。その点はミワも同じで、ふたりの意見が一致して、この古民家を買うことになった。

住みやすくするには中を改造する必要があった。そこで設計図をひいて、工事をはじめたのだが、1年近くたつというのに、できあがらない。
今回、引っ越しを手伝うつもりでやってきたわれわれは、拍子抜けしただけでなく、手持ち無沙汰となった。そうそう、驚くのは、イタリアには日本のように荷物を一切合切運んでくれる引っ越し屋さんがないことだ。あったとしてもべらぼうに高いという。そこで、たいていは友達の車を借りて、自分たちで荷物を運ばなければならない。
ロシア・ウクライナ戦争に加えて、コロナ明けで、EU圏内では急速にインフレが進行し、住宅ローンの金利もますます上昇している。工事は進まないわ、返すおカネは多くなるわで、ふんだりけったりだ。とはいえ、乗りかかった船で、ともかく完成にごきつけなければならない。
そんなわけで、けさは改築中の家にやってきた。行ってみて、正直驚いた。たしかにおカネがかかったかもしれないが、その値打ちはじゅうぶんあると思った。

いまの家からは車で10分ほど。バスの便の悪い田舎にはちがいないが、まわりを見わたすと映画に出てくるような風景が広がっている。古い家を改装して、いまの形になるまで1年近くかかった。しかし、住めるようになるまであとひと月かふた月かかるだろう。

昼は家に戻って冷やし中華。冷たいものは食べないユウキには温かいラーメンをつくる。そうこうしているうちに、サイクリングからマテオが帰ってくる。ぼくは少し昼寝する。
午後4時、マテオとミワが、少し歩いたほうがいいと勧めてくれ、われわれは車でコッレ・ディ・ヴァル・デルサに向かう。ユウキは行かないという。
ここは羊毛紡績や製紙、ガラスなどの製造業の町だという。そばにエルサ川が流れている。

谷に降りていく。エルサ川は石灰質のせいか少し灰青色に濁っている。

川に沿って、散歩道が作られていて、多くの人が三々五々歩いている。

歩いているうちに腰が少し痛くなった。しばらく歩いていないせいだ。片道4キロの行程のうち3キロ足らずで大事をとり、引き返すことにした。

途中で、ミワたちと合流し、7時ごろ帰宅。外はまだまだ明るい。
夜中から目が覚めてしまう。朝10時、洗濯を終えたミワが隣町に改築中の新しい家に連れていってくれる。田舎の大きな民家だ。3軒に分割されていて、すでに両端の家は人が住んでいるが、ミワたちがこれから住もうとしている部分はその真ん中にあたる。

ミワのつれあいのマテオは大の自転車好きで、暇さえあればトスカーナの山野を自転車で走っている。田舎暮らしは夢だったらしい。その点はミワも同じで、ふたりの意見が一致して、この古民家を買うことになった。

住みやすくするには中を改造する必要があった。そこで設計図をひいて、工事をはじめたのだが、1年近くたつというのに、できあがらない。
今回、引っ越しを手伝うつもりでやってきたわれわれは、拍子抜けしただけでなく、手持ち無沙汰となった。そうそう、驚くのは、イタリアには日本のように荷物を一切合切運んでくれる引っ越し屋さんがないことだ。あったとしてもべらぼうに高いという。そこで、たいていは友達の車を借りて、自分たちで荷物を運ばなければならない。
ロシア・ウクライナ戦争に加えて、コロナ明けで、EU圏内では急速にインフレが進行し、住宅ローンの金利もますます上昇している。工事は進まないわ、返すおカネは多くなるわで、ふんだりけったりだ。とはいえ、乗りかかった船で、ともかく完成にごきつけなければならない。
そんなわけで、けさは改築中の家にやってきた。行ってみて、正直驚いた。たしかにおカネがかかったかもしれないが、その値打ちはじゅうぶんあると思った。

いまの家からは車で10分ほど。バスの便の悪い田舎にはちがいないが、まわりを見わたすと映画に出てくるような風景が広がっている。古い家を改装して、いまの形になるまで1年近くかかった。しかし、住めるようになるまであとひと月かふた月かかるだろう。

昼は家に戻って冷やし中華。冷たいものは食べないユウキには温かいラーメンをつくる。そうこうしているうちに、サイクリングからマテオが帰ってくる。ぼくは少し昼寝する。
午後4時、マテオとミワが、少し歩いたほうがいいと勧めてくれ、われわれは車でコッレ・ディ・ヴァル・デルサに向かう。ユウキは行かないという。
ここは羊毛紡績や製紙、ガラスなどの製造業の町だという。そばにエルサ川が流れている。

谷に降りていく。エルサ川は石灰質のせいか少し灰青色に濁っている。

川に沿って、散歩道が作られていて、多くの人が三々五々歩いている。

歩いているうちに腰が少し痛くなった。しばらく歩いていないせいだ。片道4キロの行程のうち3キロ足らずで大事をとり、引き返すことにした。

途中で、ミワたちと合流し、7時ごろ帰宅。外はまだまだ明るい。